はてなキーワード: 筋少とは
amazarashiの影響を受けまくってる神椿スタジオ(カンザキイオリ)関係の曲はめっちゃカバーしてるのに、amazarashiは歌ってみたでもライブでもカバーされることが少ないし、なんならファンがリクエストもしないのが非常に不思議だ。
皆無ではないが少ない。
オタク内の知名度としては、amazarashiは最近のアニメやゲームの曲も多くやってるから十分なはず。
ボカロ出身じゃないアーティストはカバーしづらいということなら、神聖かまってちゃんだの筋少だのが歌われてる(これらのバンドは、知名度的にも今のVの若いオタクには知られてないだろうにカバーされる)。
amazarashiが触れづらいみたいな理由あるんだろうか。
2位:anond:20061214085342(155users)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20061214085342
JASRACっていいとこ一つもないし、JASRACのせいで音楽業界は成長できなくなってるよね。音楽に関わる仕事をしようと思って入社した人たちは今どんな思いなのかな?
まあ、似たような話が沢山あるし、違う話ではリアルタイムにもめているのが話題になったこともあるし、胡散臭さは何故ワイドショーに流れないのか不思議なほど。
そりゃ伝説にもなるなぁ。とんでもねー話や。
金取るだけ取って、アーティストに払っていないって言う話しは田舎にいる私にさえ欲聞く話。突然、何をやったか把握してないのに「演奏したろ金よこせって」電話がきたって前聞いた事あるな。
「大槻ケンヂが自分のエッセイに筋少時代の曲(高円寺心中。もちろん本人作詞)の歌詞を引用したんだけど製本後いきなりジャスラックが「知的財産権は我々にある。使用料をよこせ」って」なにこのうたうた詐欺
やりかねないな
大槻ケンヂがJASRAC「オーケン事件」の真相を語る - 音楽ナタリー
それは屁理屈だ。屁だよ屁。Fartishな意見。太陽光発電の優遇買い入れ金額のお小遣いが欲しいために、柵や基礎や周辺環境の安全工事をいい加減にしている発電所設置の人の土木工事が邪悪なのであって太陽光発電はクリーン。
原子力で邪悪な手抜き工事して放射能遮蔽省略したりすると動かした瞬間に回りの生物無生物分子原子レベルでどんどん死ぬ。
太陽光発電の土木工事手抜きして土砂崩れ=手抜き土木工事の問題で、太陽光発電の問題じゃない。そんなのビルの建設現場でも同じ。基礎の鉄筋少ないとか姉歯とか問題になった。太陽光発電関係ない。土木建設で手抜きして儲けようという人がいることの問題。
こまたがきれあがる【小股が切れ上がる】
https://extraordinary.cloud/komata.html
http://tak-shonai.la.coocan.jp/intelvt/intelvt_031.htm
このあたりをまとめると次のようになる。
「髪を結い上げた女性の襟足が二股に分かれていること」を指しているという説。
特に芸者は、首筋まで白塗りにしているところ、うなじだけは地肌を残していて、それがM字型になっている。
この説は「着物だと股なんて見えないだろう」という疑問から来ているようだ。
「目尻が切れ上がっている=切れ長の目」を意味しているという説。
無視してよさそう。
足の親指の付け根のことを小股と言うらしい。
その「小股」が切れ上がっていると足の指が長く見えて美しいという説。
下駄や草履の鼻緒が「小股」に食い込んでいるのは無粋で、浅く履いて「小股」が見えているのが粋なのだという説。
足の親指に力を込めて立つと美しい姿勢になるという説。
足の親指を反らすように立つと美しい姿勢になるという説などがある。
これはむしろ足の親指の「小股」から逆引きで考えたものではないかという印象。
着物の裾の切れ目から太もものあたりが見えることを言うという説。
相撲の「小股掬い」やエッチなほうの四十八手の「締め小股」などの「小股」は太ももを指すというのも補強材料だが。
柔道の「小内刈」「小外刈」のように「小」というのは「脚の内側」を言うのではないか?と思ったりした。
足首が引き締まっていること、アキレス腱のくびれがはっきりしていることを指すという説。
あるいは、足を揃えて立っているときの、足首から脹脛のあたりの隙間を指しているという説。
「大股」の対義語の「小股」、つまり「歩幅が狭くて淑やかに歩くことだ」という説。
この場合は「切れ上がる」が謎になるが、吉行淳之介は「自然と小股で歩けるようになる=意識して小股で歩くのを切り上げる」といったような意味だと書いていたらしい。
脚の付け根の部分(鼠径部の線)がハイレグのように切れ上がっていると脚が長くすらりとして見えるという説。
井上ひさしが古老に聞いたらしい。
股が切れてるって言ったらつまり女性器のことに決まってんじゃんという説。
折口信夫が唱えていたらしい。
「小腹が空く」が「腹が少し空く」という意味であるように「小股が切れ上がる」とは「股が少し切れ上がる」の意であるという説。
この場合は単に「股が切れ上がる=股の位置が高い=脚が長い」と考えることができる。
後出しになるが「小股が切れ上がる」という表現の初出は江戸時代で、
などといった記述があるという。
首、胴、腰、小股、腰より末、と順に説明されているのだから、やはり小股というのは腰のあたりの部位、もっと言えば「股」のことなのではないかという印象を受ける。
「小股」の意味はわかりませんでした!
クラシックじゃないけどヘンリー・マンシーニのひまわりに歌詞つけて歌ってたよね筋少が
先日アラサー(25歳)になったので、ここ10年で起こった出来事のうち個人的に重大だと思ったものをまとめてみた。
5位:
東日本大震災発生、阪神大震災の倍以上とも言われる死者を出し、1.17に引き続き3.11という日付が国民の心に刻まれる
4位:
AppleがiPhoneを引っさげて携帯事業に参入、スマートフォンという新たな市場を拓き一躍業界のトップへ
3位:
父親が死んだ
2位:
さんざん「歌詞よりメロディの方が遥かに大事っしょw」とか言ってた自分が中島みゆきや筋少を聴いてボロボロ泣くようになる
1位:
さんざん「年取ったら胸より尻派になるとか嘘でしょw」とか言ってた自分がすっかり尻派になる
ストリップを見に行ったら筋少と初音ミクとかまってちゃんが流れて驚いた、という話。
かなり長文です。
初めて触れた「ストリップ」という文化についても色々思うところはあるんだけれども、
ここでは自分の初のストリップで強烈な印象を残した「栗鳥巣」というストリッパーについて書きたい。
その前に、まず当日のショーの流れを説明する。
まぁ、だいたい同じようなもんだろう。
30分のうち、前半15分は音楽に合わせて踊る。いわゆる「ストリップ」のイメージ通りのやつ。
後半15分は写真撮影の時間となっており、お客さんの好きなポーズで、あるいはツーショットで1枚500円。
撮影希望者がいなくなったら最後に軽くもうひと踊りして終わり。
というのを5人が順番にやったら、全員登場のカーテンコール。
これを1セットとして約3時間、日に4セットやって23時ごろに閉幕となる。
ちなみに客は一度入場料を払えば、入退出自由となる。
ここについてはどうやら選曲、振り付け、おそらく衣装もストリッパー自身の裁量に委ねられているらしい。
つまり各人の個性というか、センスが問われるわけで、実際、ストリッパーそれぞれにまったく異なるショーだった。
またある人は「フラメンコステップを踏む妖艶な婦人」を演出し、
それで件の栗鳥巣はなにをしたかというと「サルに扮してのロープ芸」だった。
天井のフックにロープを引っかけてブラブラしたり、なんというかアクロバティックな見世物だった。
bgmはずっとサルに関する曲で、しょっぱな筋少の「おサル音頭」が流れた時は内心苦笑した。
「申年だしね。この人はそういう芸風の人なのね…」くらいにしか、この時は思っていなかった。
さて、一人のストリッパーは日に4回ステージに立つと先に書いたが、
4回とも同じ内容ではなく、2種類のショーを交互にやるということには見ていて気付いた。
そしてショーの中には「あるコンセプト(アイドルとか)のもとひたすら踊る」パターンもあるが、
「ストーリー仕立て」になっているパターンもあることも知った。
これは大変難しいことであると思う。
「音楽と衣装とダンスだけで物語を表現してほしい。15分で。脱ぎも入れて」というのは、
なんの知識も手ほどきもない人に突然できるものではないだろう。
実際、その日のショーでも物語を取り入れたものはいくつかあったが、
話の流れで「服が脱げてゆく」のが自然であったためしはなく、
「そこでなんでおっぱじまっちゃうの」といった突っ込み所満載のものとなっていた。
そして栗鳥巣の2回目のショーが始まった。
まず流れた曲は初音ミクだった。
カクカクとしたダンスは少しずつ有機的になり、熱を帯びていった。
そしてラストに「ロックンロールは鳴り止まないっ」が大音量で流れはじめた。
そのショーは、性行為で「人間らしさ=エロス」の発露を表現するという、
しっかりとした物語になっていた。
整合性があるというと大げさかもしれない。
話としてもベッタベタかもしれない。
ただ、下手すると「脱いどきゃいいんだろ」ともなりかねない世界において、
正直なところちょっと、いやかなり感動した。
この人の舞台は、また見に行きたいと思った。
ただそういったことよりも(そういった部分も含めてだが)
ウムム!と考える(by筋少)
(俺が軽くあしらわれた可能性を除くと仮定する)少なくても俺から言えることは。頭の良さとか悪さというのは、そもそも『良い悪い』自体が相対的な評価であるがゆえに、信頼してはいけない。
例えばA・D・T・Gという中身と順序を覚えてくださいというときに、「どれくらいで覚える」「どこまで覚えていられるか」「覚えることでなにができるのか」「覚えると新しいものがみえるか」などという、期間と状態とそこからの発展しかなく、その評価でできることは『この人は~ができるけど、ここがわかっていないから~ができないんだな』とか『~を身につけるのに三日かかったから、これだったら一週間ぐらいだろう』などというテクニカルなものだ。
そこに頭の良さ悪さをまぜた瞬間に、他者からの評価(しかも想定は大抵曖昧だ)という不確定なものが入り、判断が鈍る。
覚えるとは動作である。だから苦痛であろうと、一応できることにはなっている。
家族や教師や上司(そして鏡の中のお前! そうお前だ! 俺とソックリの! ほくろや寝癖の位置までおんなじなお前がが!)はそこに良い悪いの評価を混ぜてはいけない。
もちろん出来たもの、結果に評価は出る。勝ち負けがでる試合のように。
ただし、黙って走らせなければ人は速くは走れないのだ。選手は勝ち負けを考えているのではなく、「三塁のランナーを走らせるためには、自分はバントをしたほうがいい。一塁の間に転がそう」という言語を反射的な行動まで落とし込まないといけない。(だから長嶋監督の教え方っていうのは、言語じゃないのね)しかもその判断を下すのは選手ではなく、監督などの「勝ち負けを考える人」によってなされる。つまり選手は反射的に体が動かせるように何度も繰り返し覚えることが重要なのです。
大局を見るのが大切だといっておきながら、一手を見る行動をしている人を邪魔する親や教師をみると笑えてきますね。
話がずれてますが単純に、良い悪いって気にすんな。走れってことです。評価の声は、十中八九自分の声ですから。だって本当に楽しいことを夢中でやっているときは、『良い悪い』って声、聴こえてこないでしょ?