はてなキーワード: 試行錯誤とは
○ご飯
朝:サンドイッチ。昼:天丼。夜:人参と玉ねぎとウインナーのスープ。パン。チーズ。間食:チョコ。
○調子
むきゅーはややー。仕事はそれなりー。
○グラブル
闇は人材不足と装備サボりが相まって一番苦手な属性なのでかなり苦労した。
何しろ今さっき終末三凸(四凸じゃなくね)作ったぐらいにはサボってた。
スパルタジータ、リミフェリ、リミオリヴィエ、μ’s3年生、ヴァンピィ、ビカラでギリギリなんとかクリア。(ってかフェス限3人も使っといて人材不足も何もない気がして来た)
闇有利の高難易度イベントのたびに、にこちゃんが活躍してる気がする。
ダブルアタックが痛いのと、ゲージが短かったのでオリヴィエの1アビと2アビが大活躍、の予定だったのだけどデバフがガバりまくって大変だった。基本成功率低いんかな? と今書いて気づいた、LB振ってなかったわ。ごめんオリヴィエ! ワーフリの方で超級アドミンのレギュラーとして愛でてるから許してほしい。
苦戦した理由に一つに、天井するぐらいのお気に入りキャラのレイを使おうと試行錯誤したのもある。結局抜いてしまった。
このキャラ難しい。
極端にモデル化すると 雑魚戦xN→ボス戦 のなかで上限のある資源(HP、MP、アイテム……etc)をやり繰りして何処で資源を集中させて突破するかというパズルゲームなのである
雑魚で資源を使いすぎるとボス戦で火力がなくて詰み、雑魚で資源を使わなさすぎると突破できなくてボス戦にたどり着けない、的なジレンマを試行錯誤で解消するゲームなのだ
しかしながら、ストーリー偏重キャラ偏重の制作がまかりとおり、おっしゃるとおりのヌルゲーからのゲー無となっているものが多々あるのはそのとおりである。
そういうのやりたいなら電子紙芝居形式で充分なのだ……避けられない動画弾丸はいらないのだ……
こういうリソース管理を主体においたゲームはインディーズでポチポチでてきたね
Slay the Spire とかDarkest Dungeonとか
母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。
僕の昔住んでいた田舎の実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。
その後、父と母と、一緒に住んでいた次男は一時的に市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎが放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。
父はぶっ壊れていた。
僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージを試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。
しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。
そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事、洗濯や、子どもが病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。
父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。
一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。
あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費をほとんど持ち出してしまったこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日は地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。
中学、高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分の人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校であんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。
高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。
進学は田舎から遠い関東の大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。
結局僕は関東の大学に合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽な文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着ける空間だった。
外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学のサークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。
そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。
色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。
それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。
僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しかし自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しかし思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。
僕は自分の普段の生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたま母から電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。
とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。
結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。
しかし、施設の費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。
そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。
僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。
それから数年が経った2019年の年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。
しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。
年末になり、実家へ帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。
さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。
母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。
部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。
父はたしか僕の子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。
そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。
最後に大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。
それから半年ほど経った。コロナが流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日。
妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段の生活をおくらせてあげたかった。
しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。
とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。
葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日が告別式ということも忘れそうだった。
次の日、起きて甥っ子たちはフォートナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。
葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休みや冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢でマリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんにはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休みに大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。
おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我の治療は前頭葉があるため、簡単にはいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。
しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。
その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。
導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイクと全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフが誘導したのがおかしかった。
おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。
そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまったこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。
元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまったことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。
母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかわからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。
そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。
その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。
その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。
焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。
次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフがボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。
そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。
その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当にバラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。
しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。
しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。
スタッフに説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。
そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。
僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故で死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。
父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。
父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。
昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。
その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親の介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂、トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通の生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。
女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達とショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームのキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルのライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。
父のため仕方がない、と思いながらも、女性が毎日どれだけ苦しいかを想像をするだけでも苦しくなる。
その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分の介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分の娘。小さな頃から育てながら思うことは、この子が楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分の未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。
しかしその全ての未来を自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇にさらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。
でも、死ぬということは難しい。自分で死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さらに介護されている状態で自分で死ぬこと自体がそもそもできない場合もあるだろう。
この世には安楽死が必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度が必要。綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。
とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。
【21新卒SWE】 私はこうしてGoogleに落ちた ~Googleに挑んだ120日~
https://note.com/grouse324/n/n1f329de5ee50
Google特定じゃなくてこの業界の一般的な流れなんですが。
もともとコーディング面接って、特定の技術分野に強い人じゃなくて、何でもできるポテンシャルの高い人を採用するための手段として使われてきたんですよね。
それが機能していた時代(10年くらい前?)は、競技プログラミングやそれに類する経験のない人のほうが多数で、そういう人たちが競プロ的な課題をその場で解いたり議論してたりしてたんですよ。
ところがその後、競技プログラミング勢が増えてきたことによる弊害が明らかになります。というのも、彼らの競技プログラミング勢の入社後のパフォーマンスが明らかに低い。そりゃそうですよね、予習なしで面接課題を解ける人たちと、予習込みでないと解けなかった人たちとでは、前者のほうが優秀に決まってる。
しかし、時既に遅し。それが明らかになった頃には、いろんなソフトを書いてきた優秀なプログラマではなく、競技プログラミングに特化したアスリートばかりが入社するようになってしまっていました(というのは言い過ぎで、超超優秀な人たちはソフトも書けるし競技プログラミングでも優秀だから、そういう人たちは入社後も活躍している)。
事態を更に悪化させたのが、LeetCodeやモックインタビュー等によるコーディング面接対策サービスの勃興でした。コーディング面接に特化した訓練を積んだ面接者が激増した結果、エンジニアとしては十分優秀なのに面接訓練を積んでこなかった人が面接に非常に通りにくくなるという現状が生まれてしまいました。
もちろん各社この状況は十分認識していて、さまざまな試行錯誤が行われている状況です。ですが、これといった対策は未だに生み出されていないようです。
どうすればいいんでしょうね?
今のように動画サイトがない時代では、あれほどポピュラーな野獣先輩ですら最先端のヤバいネタだった
せいぜいビデオ1つか2つ分の語録をかき回しているだけで「ネットのアングラネタに詳しいヤバい奴」が気取れた、今から思えばあまりにも安易な時代だった
淫夢厨はそこから様々なネタに触れては消化し、徐々に己の許容範囲を拡大させていったに過ぎない
MAD作者が変な動画を上げ、視聴者側が草を生やしながらそれを受け入れていく試行錯誤の結果、漫画のようなパワーインフレが達成されてしまった
もちろん、あの界隈には著作権やゲイフォビアなど諸々の問題があるので、決しておおっぴらに持ち上げるわけにはいかない
ただ、好みや許容範囲というのは絶対的なものではなくて、周りの環境次第で狭くなったり広くなったりするというのは、女子の皆様も覚えておいていいんじゃないだろうか
ここに流れてるお気持ち長文とか見ると、「何かが好き」というより「何かが好きというグループに属している」という部分にちょっと重きを置きすぎなんじゃないかとか、そういうことを思ってしまう
高校に通っていたのはもう20年近く前のことだが、当時、自分の通っていた学校では「男子の側頭部の髪は耳にかからない程度の長さ」と校則で決まっていたので、ツーブロックはありだった。モヒカンもセーフだったと思う。でもロン毛はだめだった。
校長はベレー帽のような形状のヅラをいつも頭頂部に載せていたので、そのこととロン毛が禁止されていることとの間に何か関係があるのではないか?と我々はしばしば憎まれ口を叩いたものだ。
女子は側頭部の髪が耳にかかってもよいが男子はダメ。男子生徒が地毛を伸ばしてロン毛にするのはダメで、校長が偽の毛を頭頂部に載せるのはアリ。謎は深まるばかりだった。
髪が短いの長いの、好きにさせろやと今でも思う。むしろ子供時代に色々試させたほうが後々のために良かろう。どんな分野でも試行錯誤せずにセンスもマナーも磨けるものではない。髪型だってそうだ。一層のこと、授業の一環で「とにかく無駄に攻撃的な髪型にして1週間過ごしなさい」とか「髪を肩まで伸ばした後に、その髪に自分の好きなアレンジを加えてみなさい。」とか、試行錯誤を促すような課題を学校側が率先して出すくらいのほうが教育的だ。
例えば攻撃的な髪型にする課題を実習すれば、「攻撃的な髪型にすると気分が高揚するな」とか「痴漢されなくなった」とか「コンビニ前でたむろしてる輩に凄まれなくなった」とか「むしろ絡まれるようになった」とか「思いのほか恥ずかしい」とか「セットするのが面倒くさいな」とか、人それぞれ思うことがあるはずだ。最終的に、その髪型を気に入って続ける人もいればやめる人もいるだろうけれど、髪型が人に与える印象や、そのメリットデメリットについて各人の理解が進むことは間違いない。
たいていのことは、一律禁止するのではなく安全策は講じた上で自由にやらせてみるほうがはるかにいい結果を生む。そんなことは歴史や政経の時間に当の学校が生徒に教えているはずなのに、肝心の学校側が実践できていないのだ。
「『最高でした』の一言でも感想もらえたら嬉しい」という主張をTwitterなどでたまに見かける。
「感想ほしい」系の話題になったとき、「シンプルに『読みました、良かったです』だけでもめちゃくちゃありがたい」とツイートしているフォロワーもいた。
私はそう思わない。
「最高でした」とか「良かったです」とか、ほんの一言しかコメントがこなかったら、がっかりする。
2015年から2017年ごろ、私はpixivで小説を書いていた。漫画もたまに描いた。
覇権というほどではないけど、その時期放映していたアニメの中ではかなり人気のあるジャンルだった。
流行のさなか、投稿した小説は最高5,000、漫画は4,000程度のブックマークがついた。
もちろん流行ジャンルの力があってこそだけど、それにしても、かなり読んでもらえていた方だと思う。
目にとめてもらえるだけでもありがたいのに、気に入ってブックマークまでしてもらえるなんて、書き手冥利に尽きる。
ただその多くが
「最高でした」
「良かった…」
「尊い…」
いやぁ……
これがねぇ、驚くほど嬉しくない。
オタクならわかってくれると思うけど、アニメで好きなキャラ達が動いて喋っているのを見ると、うおああああ…と悶絶してしまう。
愛しさとか憧憬とかいじらしさとか切なさとか、ありていに言えば萌えとか、いろんな感情が胸にきて、どうしようもなくなる。
うんうん頭をひねって、自分の中のあらゆる引き出しを開けて、ぴったりくる表現を探しながら書く。
ああでもない、こうでもないと試行錯誤する。思うように表現できずに苦しい時もある。
「なんで私、苦しんでまでこんなことしてるんだろ…」と冷静になりそうな自分を「好きだからだろ!」と激励して書く。
書いているうちに「死ぬほどつまんないな」と思って、ダーーーッと文章を消して、また1から書き直したりする。
時には3万文字だったり5万文字だったり7万文字だったり、本が出せるほどの長文になった(本も出した)。
「最高でした」
「良かった…」
「尊い…」
…………。
なんていうのかな、肩透かしって言ったらいいのかな?
ワクワクしながら確認したら、安っぽいコメントが、たった一言しか書き込まれてない。
えっ?それだけ??? と思う。
もっとこう…あったでしょ? って。
何も400字詰め原稿用紙3枚以上の感想文をよこせって言ってるんじゃない。
長文感想以外認めない!ってわけでもない。
ただ、もう少し具体的に
「あのシーンの〇〇のセリフにこれまでのすべてが詰まっていて最高でした」とか。
「ハッピーエンドで良かった…最後に2人が結ばれて本当に良かった…」とか。
「読み終わった今、胸がいっぱいで言葉にならないです…。尊い…」とか。
せめてそれくらいほしい。
マジの一言しかないと、「あんなに必死で書いたのにそれだけかい」と思う。
(さらにひどい場合pixivのコメント欄で使えるスタンプだけポンと送って来られたりする。
一時期本当にスタンプしか送ってもらえない時があって、ゾウが鼻血出してる絵を見ると未だにげんなりする)
「神」「最高オブ最高」「てえてえ(尊いを崩した言い方らしい)」など、オタクが使いがちなネットスラングが便利なのはわかる。
あちこちで使われすぎて手垢まみれだし、薄っぺらくて陳腐だし。
オタク各位、創作物を読んで抱いたご自身のお気持ちは、もっと大切にされた方が良いかと思います。
感想を送ろうと思い立った際には、そのお気持ちを、もう少しだけ丁寧に言語化していただけないでしょうか。
「気持ちを言語化するのが苦手」という人もたくさんいるだろう。
「言語化はできるけど、情熱込めた感想送って、気持ち悪いと思われたら嫌」って人もいるはずだ。
でも、使い古された脳死コメントや、pixiv運営が万人向けに用意したスタンプを送られるくらいなら、
Twitterに作品リンク張って「これ最高だった!読んで!」って宣伝してもらえる方が、私はずっとずっと嬉しい。
「感想もらえるだけありがたいと思え」と言われればその通り。
世の中、一言のコメントどころかスタンプさえもらえない創作者がいるのはわかってる。
だけどやっぱり、
1万文字まで送信できるメッセージ欄からビッシリ長文で感想を送ってもらったり、
イベント会場で感想がつづられた手書きのお手紙を対面で渡してもらったりして、贅沢を覚えた身としては、
一言コメントを送られると「それだけかよ…」と思ってしまうわけだ。
しかし「一言しか感想もらえないとがっかりする」なんて発言したら普通に引かれるだろう。
こいつ性格悪っ!誰が感想なんて送ってやるかよ!となって、一言コメントさえもらえなくなるだろう。
あまつさえ「陳腐なコメントよりしっかりした感想送ってくれ」「スタンプ送るくらいならTwitterで宣伝してくれ」なんて言おうもんなら学級会案件になってしまう。
拡散力のある人が拡散してつるし上げられたら大炎上して、ジャンルにいられなくなるかもしれない。
インターネットを使い慣れたオタクの皆さんなら承知の上と思いますが、念のために言っておきますと、この記事に記した内容はすべて個人的な意見です。
冒頭に書いたとおり、たった一言のコメントでも嬉しいという創作者さんの方が多数派だと思われます。
こんな贅沢でワガママなヤツもいるんだな~くらいの気持ちで受け取ってください。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
~以下余談~
そのジャンルでの二次創作には区切りをつけて、2018年~現在、別のジャンルで活動している。
2010~2013年ごろ流行していたけれど、今はピークを過ぎており、公式からの情報が途切れて久しい。
ストレートにいうと斜陽ジャンル(そのためか年齢層もやや高めに感じる)。
このジャンルで小説を投稿すると、驚くほど濃密な感想文が送られてくる。
「〇〇の場面で××が△△したのは伏線だったんですね」とか
「この行動には□□に対する作者の皮肉が込められていると思う」とか
「ラストシーンを安易に〇〇にしなかったのが逆に感動的だった」とか。
感想だけじゃなく、考察や評論がコメント欄で交わされていて、とても面白い。
ブックマークは多くても300~400程度だけど、コメント率がとても高い。こうなると書き甲斐が段違いだ。
ポリコレポリコレ言ってる人たちは「LGBTのパイが少ないからLGBTの役はLGBTの役者にやらせろ」とは言うけど、「LGBTの医者が少ないからLGBTの医者の数を増やせ」とは言わないんだよな。(LGBTは黒色人種でも黄色人種でもマイノリティなら何でもいい)
なぜかって、数合わせのために医者にしたやつがとんだヤブで人が死ぬと困るからだろう。
医者に必要な要素は、LBGTではなく、人種でもなく、適切な診断や治療法を考えられる頭脳だから。
でもそれなら、役者に必要なのは当事者性じゃなくて演技力と、役に合った外見じゃないの?(美しければいいとかではなく、運動神経抜群の設定の人物の外見がデブだったら違和感を感じるし、逆にデブだからいじめられてる設定の人物の外見がほっそりした美形だったら違和感を感じるという話)
LGBTだろうがなかろうが棒読みの素人だったら見るに堪えないし、LGBTであるかのように振舞えるなら、本人の性的志向とかどうでもいいと思う。もちろん、当事者の方が、演じている人物の苦悩がわかるから、リアリティのある演技ができる可能性はある。でも、当事者なら絶対にリアリティがあるというわけではないだろうし、それ以外の演技力が劣っている可能性ももちろんある。当事者性はリアリティのある演技をするために貢献するかもしれないが、本当に評価されているのは当事者性ではなく、リアリティのある演技ができるかどうかであるのではないか、と思う。
医者の子供は小さいころから親の仕事を見て、一般人より医学的な知識が多いかもしれない。でも、医者の子供だということを評価されて国家試験に合格したのではなく、医学的な知識を評価されて国家試験に合格したのだ。
実力以外で選ばれた人間が医者になったら医学のクオリティが下がり私が死ぬからそれはダメ。
でも役者なら実力以外で選ばれてドラマなり映画なりのクオリティが下がっても構わない。なぜなら私に害はないから。
って考えだとしたら、ずいぶん舐められてるなぁと、芸術関連に明るくない自分でも思う。
もしもLGBTの役者が演技力は十分なのに、偏見のため選ばれないのが問題ならオーディションでの評価を透明化するとか、そっちを変えるべきなんじゃないの?
オーディションを平等化するのは今は困難であり、平等化するための方法は試行錯誤中だ。いずれ平等に評価できるようにするから、それまでの次善の策として、LGBTに特権を付与している。という話ならまだ納得がいくけど、平等化するためにどういう方策を頑張っているみたいな話は聞かない。
そうなると、いつ次善の策から最善の策に変わるのかなど大した指標もなく、次善の策だけがなあなあでズルズルと続きそうな気がする。
ついでに言うなら今デモが起こってる理由の半分くらいはコロナの不安とかイライラとかをぶつけたい人たちが的を見つけたんだろうなと思っている。
常に差別問題に悩んでいる人もいないとは言わないが、過激化したのはコロナのせいだと思う。
まあ当事者から差別されたことがないからわからないんだ人でなしと言われれば、LGBT差別を受けたことがないのはその通りだし甘受するしかないが、当事者でもないポリコレ翼賛会の一員からなんか言われるとLGBTの問題はLGBTが言うべきでは? 文化盗用では? とか言いたくなってしまうな。
オンライン授業を受けることで家から出なくて良いし、自分の場合は実家暮らしだからありがたいことに買い出しに外に出ることもない、それに普段からも休日は出来るだけ引きこもっていたいインドア派から楽だ.......とそう思っていたのは最初の1か月だけだった。
私の大学は5月からオンライン体制が始まり、初めは教員や生徒側も、授業形式に慣れていこうとのことで試行錯誤でのスタートだった。その時はすべての授業やzoomなどを利用したいわゆるリアルタイムの授業はなく、配信される動画を視聴して授業を受けるものだった。そして6月に入り、真の辛さ(※自分調べ)というものを実感することになる。
動画配信で授業を受けることに慣れてくると、動画が公開されている限りはいつ見ても良いわけである。当然、明日やれば良いやと授業を溜めてしまうのだ。
明日やろうはバカやろうなので積み重なっていき、課題の提出期限ギリギリに授業を受け、毎週やり過ごしていた。そして無限ループするのである。
授業が溜まるともちろん課題が溜まる、無限ループをしていた時は、常に(早く授業と課題を終わらせなきゃ、)と精神的に追われていた。そんな時にちょうどいい逃避の方法がスマホだった。布団の上で弄れて、暇つぶしにもなる。何時になったらやめよう、きりのいいとこまで見たらやめよう、などやる事があると辞められなくなってしまう。
見ているものはSNS、Youtube、まとめサイトなど、あくまでも”暇つぶし”をしているという程になる。(しかし逃避のためなので、下手すれば永遠に”暇つぶし”をしてしまう。)
また、昼夜逆転したときに睡魔防止にも永遠に見てしまう。挙句には授業を受けながらもスマホを見てしまうために授業に集中できなくなる。
酷い時でスクリーンタイム(スマホ起動時間)が平均1日17時間前後だった。
これは私自身の問題かもしれないが、上記の通り早くやらなくちゃと精神的に追われると、一連の事が終わるまでは娯楽、趣味禁止と自分を制限してしまうため、授業が溜まると授業をしていない時は一日中逃避としてスマホを触ってしまう。
つまり、寝ている時間・ご飯を食べている時以外はずっとスマホを触っている事になる。逃避以外にスマホを使えないので、授業前は見てたNetflixも見る時間がない(時間はあるが課題やら授業やらがあるので見れない)解約してしまった。虚無すぎる。
夜型なので長期休みがあるとよく昼夜逆転していた私だが、授業前はいくら昼夜逆転しても気にならなかったが、6月後半からzoom授業が増えたため昼間起きないと困る事に。15時からの授業に寝坊したときは流石にまずいと思った。
直す方法を何回も調べたけどそもそもアラームで起きれないので仮眠は無理、一日中耐えるにしても何処かで寝てしまうので、無理やり寝る方法がちょうど良かった。
自粛前はNetflixを見たりアニメ見たり、当分好きなことをして過ごしていたが課題が溜まるようになってからはずっと課題漬け、課題をしていないときはYoutube、増田やまとめサイトをずっと見てしまうので”何も得ていない”のだ。SNSで友達が絵を描いたりアニメを見たりしていて羨ましい。
こういったように堕落生活をし続けてしまった。メリットは家から出なくていいという点だけで、自分のように自己管理のできないやつはデメリットしかない。後期もオンラインだったら楽だとは思うけど人間性の損失を感じるから出来れば全部Zoomか登校ありにしてほしい でもマスク苦しいから登校となると必須なのめんどくさい!クソッファッキンコロナ!
いやアイマスMR ((横浜DMM VR THEATERで開催されていた 「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC GROOVE」のこと)) 自体は1stの真回見てたんですよ。
チケット余ってるな~765AS大丈夫か(笑)と思ってたら初回見たP達の口コミが凄くて、なんかヤバい気配を感じて片道5時間運転して行って、
正味1時間見てすぐそのままトンボ返りしたけど高いチケ代に見合う価値は十分にあった、むしろもう一度真に会いたい…と思うぐらいにはMRに感情を揺さぶられていたので、
アイマスMRの凄さは十分に分かっているつもりだったんですね。
ただMRってあのクッソ狭いDMM THEATER((DMM THEATER 狭い狭い言ってるけどすごく良い箱でした))に純度高いPが密集しているからこそ成り立つ空間だとも思ってたんですよ。
星野源がアイマスを『皆で嘘を作っていくうちに嘘が嘘じゃなくなっていく感じがすごい好き』って表現してくれてたけどもまさにそれで、
アイマスは宗教と良く言われるが本当にその代名詞に見合うだけの揺さぶりと多幸感をくれるわけですよアイマス教は。
MR STAGEについて言えば、その場にいる全ての人間が765プロのアイドルは実在する/実在させたいと心から100%願ってその空間に向き合うからこそ、その場にアイドルを顕現させられるワケで。
こう書くと本当に神を降ろす宗教儀式めいて見えるが実際その通りなので仕方ない。知らない人間から見ればアイマスPは全員狂人なのだ。
だからSHOWROOMで美希の配信やるっていった時、コロナ禍でMR中止になって美希だけがMRの舞台に立てなかったのが悲しく本当に落胆してたので心底喜んだんだけど、
それと同じくらい不安だったのよね。DMM THEATERのようにクローズドな空間じゃないから万一失敗した時取り返しがつかないし、
なまじ全世界配信だからMRの時のように100%善意のPじゃないお客様(蔑称)も当然来るだろうし、MRの時みたいにあの狭い劇場の臨場感で脳がバグる地形バフも効かないだろうし、
しかもMRじゃない生配信って形態も初めてだし、MRの時でさえ試行錯誤してたのに本当に大丈夫だろうか…?と不安大で観ておりましたが、
いやーーー完全に杞憂でしたね。星井美希トレンド入りですよ。今2020年だぜ?これは過去?それとも未来??一体ここはどんな世界線??
生配信って体で進行してたけど、めっっっっちゃ美希がカメラ近いのな!!!あの距離感ヤバい。MRの時の同じ空間にいるっていう臨場感とはまた別物っていうか…。
画面越しなのに実在性を感じるのって何なんですかね…?大体画面越しっていうんだったらステラやミリシタの中にいて普通に動いてるんだけどさ…
いやそれが普通のキャラクターの在り方だってのは分かってるんだけど…。やっぱり違うんだよな。
ゲームの中で予め動きが決められている動き喋りをするあの子達を眺めるのと、今目の前でどう動くか何を話すかって身構えながら望むのと…。
こないだのMRとか今回のSR配信特有の、あの「生で」、今の同じ時間を「本当に」一緒に生きてるって感じ…。なんて言えば伝わるんだろう…。
アーカイブ配信するみたいだけどアーカイブでこの感じちゃんと伝わるのかな…?アーカイブ組の感想気になるな…。
アイマスに限らないけど、ディズニーでもジブリでもガンダムでもラブライブでも○○(あなたの好きなIPを入れて下さい)でもなんでもいいんだけど、
我々はこの世知辛い現実を生き抜くために、色んなフィクションのキャラクターに元気を貰ったりしてるじゃないですか。大仰な言い方をすれば『生きる力』みたいなものをさあ。
なんかそういうのを送り手側も分かってくれてるのが分かるような本気具合でそこが堪らなく嬉しいのよね。
普通だったらさ、当然我々もそれらのフィクションのキャラクターだって分かってるから、あくまで架空の話だと踏まえた上でキャラに対して愛したり思い入れたりするんだよね普通は。
でも今回のSHOWROOM配信を覗いてた人達って(自分も含めてだけど)765プロのアイドル達にガチで実在して欲しいって思っている人達ばっかりなんだろうなって思った。
これってかなり頭ヤバいんじゃなかろうか。例えばディズニーのミッキー、現実にいるって思う人いないじゃない?
…いや実際のディズニーファンはいるって信じてるんだろうか…?例えが悪かったかな…。
他の例えで言うなら大人になったのに未だにサンタクロース((グリーンランドの公式サンタクロースでは無いプレゼントを配る存在としてのサンタのこと))が実在すると思い込むのと同じくらいのヤバさ。
配信終了後の感想観たけどみんななんかの熱にアテられたみたいで感想がなんかフワフワしてるんだよな。星井美希は実在したみたいな、当たり前のことをさあ。
…当たり前じゃなくてフィクションだろって?いやでも美希居たしな…。さっきまでSHOWROOMで生配信してたし…。
ここまで書いて思ったけど、こんなにもリアルの実在性に拘泥するIPってなかなか無いよなーって。
冷静に考えればですよ、声優の人がキャラクターに声を吹き込むってのは分かってるわけでしょう。
例えば悟空の声だったら野沢雅子さん。美希の声だったら長谷川明子さんが声を当ててるってのは分かってるわけで。
大体、普段ラジオとかライブとかだとあくまで星井美希役の長谷川明子さんに感謝の手紙とかメールとか送ってるわけじゃん。
にも関わらず、今日は誰もアッキーのことに触れずに星井美希星井美希としか言ってない。なんかこういう時ばっかり都合の良いところに目を瞑る調子の良さあるよなwww
アイマスPのそういう頭キマってる所が私は好きですが、今回すごいと思ったのはそんなに熱心に見えないかつてのPとかアイマス離れた人もみんな一斉に星井美希星井美希って言ってんの何なんだろうな。
みんなで頭MADになってるとしか思えない。いやでもすごいことですよこれは。みんな自然と嘘を本当にしようとしてるんだもの。
なんかTwitter上でVTuberとの違い云々って流れてたけど、…VTuber詳しくないので断言できないけど、そもそも別の性質のものだし競合するものでは無いと思うんだよな。
VTuberの方々はもうそこに”実在”しているわけじゃん?VTuberとして。外側は可愛かったりイケメンだったり二次元のガワ被ってるけど、中身は個人としてあるわけでしょう。
モデルが粗かろうが流麗だろうが、そこに実在していることは変わらない訳で、実在証明する必要が無い。だっているんだもの。
アイマスのアイドルは架空なのよ。元々がゲームのキャラクターだから。あくまでフィクションなの。
だけどゲーム自体のすごく滑らかに動く3Dモデルとか、演者が身体張ってライブでキャラ降ろしたりとか、そもそもユーザーに勘違いさせるプロデューサーというロールプレイを強制したりとか、
本気で色々プロデューサーごっこしているうちに現実と虚構の区別が付かなくなってきた。
だからその実在性を証明するためにタートルトークだったりモーションキャプチャーだったり生アテレコだったりと、彼女たちを実在させるために出来ることは何でもする。
そのために色んな技術が注ぎ込まれてるけどあくまで架空のアイドルを実在させる目的のための手段であって。
どちらも同じ3Dモデルで声当てて動かすって同じ手段使ってるけど、それぞれの目的が違うよね。
VTuberはどんな活動をするかがコンテンツ。アイマスは実在することがコンテンツ。
だからアイマスの技術はVTuberには必須ではないし、VTuberのコンテンツ内でなんでもできる感はアイマスと相性が悪いだろうし。
似てるけど非なるものだし、バンナムが殴り込みみたいな書き方はちょっと違うんじゃないかなと思うんだけど…。
今回VTuberの方々が美希に言及しまくって言葉を無くしていたのは大変ありがたい…嬉しい…という思いでした。
中の人のことにも触れとくか。
なんか観てる最中はうわー美希が実際に動いてるって認識してるんだけど、ふとした瞬間にアッキーの気配を感じる時があってさ。
おにぎりの話してた時もみんな好きだよ~って当たり障りなく言ってたりして、美希だと結構ドキッとするような遠慮ない返ししそうな気がするんだけど、
アッキーの人柄の良さっていうか配慮ある控えめな感じが受け答えに出てたような気がしてさw
普段は演者が上がってるライブを観て、ステージ上にいるのは演者の人だって分かった上でその奥にキャラの気配を感じ取るわけじゃん。アイマスライブ知らない人には知らんと言われるだろうけどそうなのよ。
いつもとは主と従が逆になってるのがさ…。いつもはステージにいる実存の長谷川明子さんを通して星井美希を見てるのが、今回の配信だと画面の星井美希を見ててアッキーの気配を感じられるんですよ。
…ということは、やっぱり画面に映っていた星井美希は実在していた…?(頭が狂ってきた)
これはもう完全にアイマスオタクとしての感想だけどさ、最初はキャラ好きになって入って声優なんか知らんっていうスタンスでいるつもりでも、
段々とそのキャラに寄り添って大事に演じ続けてくれていることの感謝の念が演者の人達にも芽生えてくるのよ。
段々中の人への思い入れもキャラに追い付いてくるというかさ。もう中の人も大好きなワケですよ。
というか15年もキャラと一緒にいるって凄いことよな…。美希15歳なんだからキャラの実年齢と同じ時間が経ってるわけでしょ…恐ろしいな…。
これ今回配信があったのを受けて、他のアイマスアイドルも同じように見たい!っていう声がもう上がってて、そういう要望が出るのは分かるんだけど、
これって多分そんなに簡単にホイホイできる企画じゃないからな!!
いや普通の動画とか配信とかでも一般人が考えてる100倍くらいの労力が掛かってるのがあまり知られてないって言われてるけど、
多分これ普通の動画とか配信の労力のさらに100倍くらいのエネルギー注がれてるだろうなって…。
何というか、今回に限らずMRでもなんだけど、『頼む……!この幸せな時間が何事もなく無事に終わってくれ……!!』って思ってしまうのよね。
見ている側もハラハラしてしまって気が気じゃないんだよ。たった30分で作り手も受け手も消耗しまくる超ハイカロリー配信。何これ?
あの30分の配信のためにどれだけの技術的苦労と精神的負担が関係者に掛かってるかと思うと恐ろしいよね。
15年分の受け手の期待とかそういうの全部背負ってるわけじゃん。自分だけのものじゃないわけでさ。そういうものに正面から向き合って現実化するっていうのものすごいわけだよ…。
アイマス門外漢の人にも結構驚かれている感じがあるけど、そういう背景を何となく察知した上でこれ凄いなって評してる人が結構いるのが印象的だった。そうだよな…。
「Pじゃない自分がこれだけ凄いと思ってるんだから根っからのPの人達は死ぬんじゃないか」ってほんそれだから。実際ふわふわしてやることが手についてません。今日休みで良かったな。
ニコニコMAD見てた時の自分に『15年後に美希が配信するんだぞお前』って言っても『へーすごいね』って言われて終わりだろうなと思う。
そもそも当時10年もアイマス続くと思ってないしな。あの時はニコ生すら無かったし。
2007年頃に初めて無印(XBOX版の家庭用アイマス)のポリゴンモデルを見たとき本当にビックリしたし『この子達はマジで生きてる…』って思ったものだけど、
2020年に『美希が実在してる…』って同じようなこと考えされられるとは思わなかったわ。
いや同じようなこと言ってるんだけど13年前のそれとは意味合いが違うんだよ!?
つーか技術はめちゃくちゃ進歩してるっていうのに自分の語彙は全然進歩しねーな!!
なんか2月からのコロナ禍自粛と私生活のイベントが重なって色んなものに興味が持てなくなってたんだけど、
コロナ禍で中止になったイベントの代替的な配信でコロナ禍に立ち向かう元気を貰えた感じがして、もう本当美希ありがとうって感じ。
俺も実生活がんばるわ。
給料の100%を毎月使い切る「金の貯まらないオタク」のテンプレだった人間が1月1日から貯金を始めて、今日までに起こった心境の変化など。
どうしても当てたいライブツアーが発表されたのが昨年末。最初はツアーに余裕を持って参加できるであろう20万を春までに貯めようという計画を立てた。1〜4月に出るお給料で、毎月5万貯めればクリアできる計算だった。
●使い道の無くなった貯金
ところが3月末にはすでに20万ちょっと溜まっていた。というのも、すでに決まってたイベントの返金が相次いで5万ほど返ってきたり、「そろそろ申し込みスタートかな?」と思っていた時期にライブツアー延期のお知らせがあったり。手元には使い道を失った20万が残った。
●目標を50万に変更
3ヶ月間の貯金生活は、意外にも負担がなかった。単に貯金計画を圧迫する現場がなかっただけなんだけど、しばらくエンタメ業界に投資する機会もないだろうし、もうすこし貯金を続けてみることにした。
私がしていた貯金は給料から毎月6万を先に抜くというもので、順調にいけば6月末で50万に到達する計算だったので、目標を50万にした。
はずだったんだけど、趣味に全力だったころの後遺症(クレカの引き落とし)のために実際は平均4〜5万くらいだったと思う。給付金とボーナスを合わせて無事に6/30で50万+に到達した。
①将来について考えられるようになった
毎月給料を使い切っていた頃は、とにかく目先の快楽を追い求めていて、「今」幸せになりたくて仕方なかった。
実家暮らしなので精神面でも経済的にも楽な暮らしをしているとは思う。でも奨学金とマイカーローンという借金を、大卒と同時に背負ったのは私には十分に重かった。絶対に仕事辞められないんだなって初めての返済月に覚悟せざるを得なかった。どちらも自分の意思で借りたお金ではあったけれど、今ははやいとこ一括返済できるように実家暮らしをとことん利用してやろうと思ってる。
マイカーローンを返し終わったら家を出てもそれなりに貯金できるようになる計算なので、ひとまずマイカーローン用の貯金計画を進めている。オタ活のための貯金だったのに、こんな風に路線変更するなんて半年前まで想像もしてなかった。
どうして毎月十数万も使ってしまっていたのか。結論は簡単で、学生時代の反動。これしかない。
大学4年間は一人暮らしをしてたけど、親からの仕送りがなかったので、奨学金とバイト代で最低限の暮らしをしていた。常に赤字だったので、家計を見直す意味を感じる瞬間もなく、とにかく毎月ギリギリの暮らしをしてた。
就職を機に家に帰ってきていろんな意味で楽になった私は、学生時代に我慢してた買い物と美容と旅行にお金を使いまくった。学生の頃には逆立ちしても買えないものを買えるようになった自分が嬉しくて、ものすごくテンションが上がった。
浪費を浪費と自覚していたから、お金を使った瞬間は楽しくても後から後悔することももちろんあった。でも使うことをやめられなかったのは、学生の頃に感じた「お金を使わないのは惨めな暮らし」という気持ちが強すぎたからだと思う。
でも、いま思うのは「限界まで出費を抑えること」と「不要なものを買わないように自分を抑えること」とは全然違ってた。欲しいものは、ちゃんとお小遣いの範囲で買ってもいいよってルールを作ったら、お買い物がちゃんと楽しくなったし、好きなものしか手元に残らなくなった。
浪費を止めるきっかけがあって、本当によかったと思う。推しに最大級の感謝。
●お給料の使い道について
貯金→6万
という感じで、平和な暮らしを維持できるようにいろいろ試行錯誤してこの配分に行き着いた。
やりくり費の5千円は、楽しいものにしか使わないようにしている。たとえばグッズとかCDとかスイーツとか。5千円を超える楽しい買い物に関しては、自分の気持ちと何度も相談をして、後悔しないと思った時にだけカードで買って翌月の貯金額を減らすようにしている。
カードを使うのは毎月の貯金額が減ることよりも、いま貯まってるお金を崩すことに抵抗があるからだけど、追々はクレカも手放したい。
7月のお給料からは「使える貯金」を20万貯めて行こうと思っている。いつでもオタ活ができる心の余裕にしたいなあと。延期になってるライブ参加費もこの枠の中でやりくりして、いま貯めてる50万には触らないつもり。真剣に本来の目的を見失ってるんだよなあ……。
キャッシュレス全盛期に前時代的なアナログ貯金をしているけど、半年いろいろチャレンジしてこれが自分なりのベストだと思ってる。
以上おわり。
タイトル通りです
私はこの人生の大半をスポーツに捧げてきました。小学校から大学まで何かしらの部活に入り、熱中し、成績はそこまで残せなかったけれど(よくて地区大会2位とか)楽しい生活を送っていました。
そして社会人になり、ふと気づいたのは全く恋愛をしてこなかった、ということ。仲の良い男友達はいるけれど、そういった関係になりそうな事はなかった。(厳密にはあったが、お互いにそうじゃないよねと友人関係を続けている)
思い返せば、歳を取るにつれて恋愛の話は多くなった。私はその度に関係ない話だなぁと相槌を打つばかりだった。
「〇〇にも彼氏できるって!」
そう言われても興味のないものはない。だから、そうだねと言って知らないフリをしていた。
社会人になり、仲の良い友人はだいたい彼氏持ちかつ同棲してるから誘い辛くなった。そもそも私から遊びに誘うことがないから、だんだんと疎遠になっていくのを感じた。そのときにふと、こういうときに恋人がいれば寂しくないんじゃないかと思うことがある。
ちなみに私は全く恋愛経験がない(一度だけお付き合いしたことはある)が、恋人は男でも女でもいいなぁと思っている。ただ、今回はタイトルの通り男の人の事について書こうと思う。
と、ここまで前置きが長かったが、私のこれまでの人生で別に男の人と関わることが少ないわけではなかった。男女混合の部活だったから当然のように男の人と関わるし、好意を寄せたことも何回かある。
ただ、そこから私が動けないのは完成に容姿にコンプレックスを抱えているからだ。
まずは、170超えの高身長。高身長がモテないわけではないが、どうせなら小さいかわいい女の子に憧れる。私の周りの友人がみんな小さくて可愛いからかもしれない。
そして、特徴のない顔。これといった特徴がないからメイクで化ける、なんて事もなく。せめて目が二重だったらとアイプチをしたら余計にバランスが悪くなる。辛いね。
容姿に自信がないと、「こんな私が好意を寄せてるって知られたら」と被害妄想が爆裂するわけだ。そしてひっそりと眺めるだけの片思いが終わる。
そんな感じで生きていたからこそ、もっと容姿を努力でどうにかならないかと今は試行錯誤を繰り返している。社会人になって覚えたメイクもちょっとずつ良くなっていってるし、服装も前よりも似合う格好がわかってきている。
だから、いつか「かわいいね」なんて言われたらすぐに好きになってしまうと思う。例え浮気されてても、私の事を召使だと思っていても、その「かわいい」の一言で許せてしまう。そんな気がする。だからそんなダメ男に釣られないように、恋愛はしたくない。
上記の記事ではあまりメリットが見えづらいと思ったので自分の経験を載せます。
自分は10年以上この生活スタイルです。中学・高校からだからもっとかもですが。今は嫁と二人暮らしだけどちゃんと成り立ってます。
https://www.hario.com/seihin/productgroup.php?group=GIS-200
Amazonで購入したので7000円台。
一人暮らしを始めるまでは
https://www.igamono.co.jp/index.html
このシリーズを使っていました。
よく土鍋ご飯だから美味しい、という意見がありますが自分はそこまでとは思っていません。そもそも自分の舌は決して高性能ではないため、ある程度の品質以上ならば美味しさの違いを測ることは困難です。ご飯の美味しさは米に依存すると勝手に考えています。
ではなぜ土鍋ご飯をしているかというと、ずっとそれで暮らしていたから、というのが大きいです。もしこれを読んだ人で、土鍋ご飯は美味しいと思っている方がいれば、それは幸せなことだと思います。
土鍋ご飯って料理なんです。炊飯器に入れてポチッとすればでてくるご飯と比べれば、圧倒的に料理感が強い。なので一つの料理としてどう捉えるかですね
土鍋ご飯の手順自体は単純です。「1. きちんと30分以上浸水させる」「2. 水加減をぴったりにする」「3. 火加減」「4. 時間」に注意すればいいだけです。つまり普通の調理となんら変わることはありません。ですが他の料理と比べるとリカバリーが難しく、素材で勝負するために料理としての難易度は高いと思います。
これらは土鍋ご飯のデメリットと言うより「調理そのもののデメリット」です。
その上で、初心者向きではないと思います。普通の鍋ならば水加減をちょっと違えたからと言って味が変わることは希です。しかしご飯の場合は食感に大きな差が出てしまいます。
弱火にするところをうっかり中火のままにして焦がしたり、時間が短くて半生にしてしまうことだってあります。伝統的なご飯の炊き方では最後まで蓋を開けることをしませんので、何も見ずに調理する人には向きません。
炊飯器はその点、一つの料理に特化することで圧倒的な手軽さと失敗のなさを実現しているとも言えます。
わかりません。鍋がどういうものかにもよるので、答えは自分で探るしかないと思います。長谷園はちゃんと手順が書いてあるのでそれに従った方がいいです。
HARIOのタイプならば沸騰させてから弱火で10分が目安です。でもそれ以外にも炊き方はあるでしょう。
幸いにも米はだいたい毎日食べるものなので、日々試行錯誤すればなんとかなるでしょう。
自分は別にご飯を作るのが楽しいから土鍋ご飯にこだわっているわけではなく、単なる習慣としてやっているだけです。
一人暮らしをするときに炊飯器を考えたこともありますが、結局初期投資が安く済むのと、長年の経験から問題ないと判断して今も継続しているだけです。
抽象化ってのは高度な機能というのがよくわかる。おかあさんといっしょが実写なのも試行錯誤があったんだろうなと思う。
自分の会社の方針、と言うか求められ評価される人間は向上心や積極性がある人。
自ら進んで何かにチャレンジしてそれに対して結果を出せば良いだけのこと。
そんなこと自分の会社だけではなく社会全体での常識だと思ってる。
そしてその「評価」をする当たって立てた目標に対する自己評価をしたり、他者からの行動に関しての評価をまとめたりして定期的に面談が執り行なわれる。
で、ここからは完全に愚痴なんだが、毎回毎回「目標」を立て面談で話すわけで。
それが自分だけなら良いのだが、話を聞けば大半同じようなことをされてるらしい。
直近の行動や目標にはボロクソに言い、代替案も出さずに面談終了。
まぁ勿論それが誤った方向に進む行動となり得るなら芽が出る前に「潰す」のは良いことかも知れないが…
その面談を担当する人間よりさらに上の偉い人に同じ話をすると、賛成する意見をくれたりそれに応じた的確なアドバイスまでくれたりする。
なぜそこで意見の相違が出てしまうのか、これってただのパワハラなんじゃないか?とまで最近思い始めた。
鬼のように厳しくあたり、試行錯誤を繰り返し世間一般で言う「出来る人間」になれってことかも知れないが、あのやり方では誰が何をしようと花開く前に腐ってしまう。
勿論こんなところで愚痴を吐き、人のせいにしてる時点で己の成長につながらないこともわかってる。
生きるってめんどくせえ。
こういう感想来なくて病んでる系の話聞くたびに思い出すのは、感想欲しくて工夫や試行錯誤してる人が昔叩かれてたなあってこと
たとえば新刊の感想くれた方先着〇名様からリクエスト受けます、みたいな企画を女性向けで見たことがあるけどけっこうな陰湿さで粘着されてたのを見たことがある
感想欲しいから感想もらうために頭使ってる人に偉そうに陰口叩いて「感想来ない」って愚痴ってるだけの人はなに考えてるんだろう、って感想いらない派の自分から見てもほんとに意味がわからなくて気色悪い界隈だなあって思ったんだった
「私が感想欲しいって心の中で思ってるんだから、察して感想寄越さない相手が悪い」って相当不健全で気持ち悪いし、だったら「感想欲しいです!感想もらうためにいろいろします!」ってほうがすっきりしてて別に共感はしないけど「そっかもらえるといいね頑張れよ」って応援できる
感想欲しくて作品作るのは別になにも悪いことだと思わないんだけど、心の中でただ「感想欲しい」って思ってたって読者はエスパーでもおかあさんでもないんだから他人にそうそう不要不急の手紙書くような手間はかけないし、欲しいならそれなりの戦略は練るべきなんじゃないかなあという話
仕事のある日の朝って何年経っても辛いよな。
増田は特に血圧低めで毎朝仕事辞めようか葛藤しながら起きてたよ。
だから、朝快適に目覚める方法っていうのをアレコレ試行錯誤してきたんだけど、人生で一番快適に起きれてる今、その方法を共有したる。
1. iPhoneを用意して、自分が起きる20分前にアラームをセットする。この時大事なのが、バイブレーションはつけないことと、音量は小さめに設定しておくこと。ちなみに増田はサウンドにスローライズを選んでいる。
2. 自分が起きるべき時間、つまり1.の20分後にアラームをセットする。そのときには、1.よりも音量は若干大きめに設定しておく。なお、バイブレーションは不要。
3. 安パイとって2.の10分後に強めのアラームをセットしておく。そのときには、バイブレーションもつけておく。何がなんでも起きないといけない環境にしておく。
1.で20分前にアラームをセットするのは、『スタンフォード式最高の睡眠』で書かれていたからだ。
詳細は、本書を読んでくれ。
以上!