はてなキーワード: 黒色人種とは
昨日、ナチュラルボディメイク団体であるJBBFの中でも最高峰の大会の一つであるオールジャパンフィットネスチャンピオンシップス 2022が行われた。
その中でというか筋トレ系Youtuberでカメルーン国籍で黒色人種でもあるパトリック氏が
「エントリまでは受け付けられたが大会当日に日本国籍がないので大会に出場できないと言われる」
という事件が起きた。
これについて当日にパトリック氏は「エントリまでできたのに当日に言われるのはショック」という動画を上げ、その後、再度当日に「もっとわかりやすく書くべき」「日本語が怪しいので公認ジムで受付をした」「もっと早く撥ねられたのではないか」「命を削ってやってるのに」という動画を上げた。
これに対してTwitterやコメント欄で「外国人差別だ」だとか「JBBFは変わっていくべきだ」「こんな古臭い団体じゃなくてもっと先進的な団体の大会に出るべき」などという意見が噴出、一部まとめサイトにも取り上げられた。
さて、オールジャパンフィットネスチャンピオンシップスには出場資格というものが存在する。
マスターズ年齢別クラスの出場には、それぞれ下記のクォリファイを獲得する必要があります。
日本に継続して在住し、日本国籍を有し、2022 年度の JBBF 公認クラブ・ボディビル個人・フィットネス個人登録選手で、アンチドーピング講習会(有効期限 受講年を含む3年間)を受講済の選手。
本人の動画では「わかりづらいところに小さく書いてあった」とあったが、
実際には出場資格項目の一行目一番地に書いてある。
元々この大会は「日本一を決める大会」であり、同時に「世界選手権に出場する日本代表選手の選考会」でもある。
そういった大会に「外国籍」の選手が出られないことは果たして差別だろうか。
大会当日まで地獄の減量を行ってきて、それで当日に「やっぱ出られません」となったことに対して同情はするが、
「命を削って(本人談)」やってきたんならなんで募集要項を上から下まで穴が開くくらい読まなかったのか。
本人は日本語を話すことは堪能だが読み書きには自信がないとのことだったが、では動画で横に立って憤怒していたパートナーやYoutubeスタッフは何をしていたのか。
エントリできたこと自体がおかしいという意見もあるが、ほとんどの場合エントリ自体は誰でもできる。
いろんな試験や催し物で、当日前エントリで当日会場入りする時点で「必須の証明書等」を提示できなくて入場できなかったケースなんでなんぼでもある。
出場費の返還がなかったのはひどいという意見もあったが、開催要項に「※一度お支払いいただいた出場費の返金はいたしません。」と書いてあるし、こういうコンテストや資格試験において事前支払いの出場費や受験料の返還が行われないことはごく普通の対応である。
そして事前にパトリック氏の受付を止められなかったのかという点について。
これは非常に難しい問題だと思う。
パトリック氏はまぁ、言葉は悪いが外面だけ見ればバリバリの黒人だ。
だが、日本語はそれなりに堪能だ。Youtubeチャンネルでは基本オール日本語で動画を上げている。
公認ジムで受付した際に、彼に対して「日本国籍を所持していますか」と聞くべきだっただろうか。
下手すれば「日本に長く住んできて日本語で受付対応もしたのに日本国籍かと聞かれたのは差別的だ」ということになりかねない(パトリック氏がそういうことをするというわけではない)。
では応募時の提出フォームに「あなたは日本国籍を所持していますか」という項目を付けたすべきか?
出場資格にきちんと「日本国籍を有し」と書いてあるのに、そんな項目は必要か?
出場資格すらちゃんと読めない人間がそんな項目をちゃんと読めるのか?
今回のJBBF批判には、元々JBBFが非常に古臭く適当な運営を行っているので
例:出場費を現金で普通郵便で送らせる、役員が大会出場費を横領しているのが発覚し出場者に再送金させる、順位をつけ間違える、前年時点では問題なかった大会を今年になって突然出場差し止めを行う、不明点を大会運営に確認したら電話で罵倒される、大会会場で会長が出場者を揶揄する、大会開始が2時間押す、個人審査の提出楽曲が流れず急遽共通曲で審査を行う、などなど
それに対する鬱憤が爆発した部分があるのはもちろん理解できるし、実際JBBFは変わっていくべきだとは思うが
それと出場者個人の確認ミスとそれを当日に差し止めた大会の対応は別問題だと思う。
今回大会運営は「出場者としては認められないが特別にステージでポージングを行うことはできるがどうするか」という特別対応を提案している。JBBFとは思えない柔軟な対応である。
今回は黒人がハネられたのでちょっとした問題として取り上げられたが、
ポリコレポリコレ言ってる人たちは「LGBTのパイが少ないからLGBTの役はLGBTの役者にやらせろ」とは言うけど、「LGBTの医者が少ないからLGBTの医者の数を増やせ」とは言わないんだよな。(LGBTは黒色人種でも黄色人種でもマイノリティなら何でもいい)
なぜかって、数合わせのために医者にしたやつがとんだヤブで人が死ぬと困るからだろう。
医者に必要な要素は、LBGTではなく、人種でもなく、適切な診断や治療法を考えられる頭脳だから。
でもそれなら、役者に必要なのは当事者性じゃなくて演技力と、役に合った外見じゃないの?(美しければいいとかではなく、運動神経抜群の設定の人物の外見がデブだったら違和感を感じるし、逆にデブだからいじめられてる設定の人物の外見がほっそりした美形だったら違和感を感じるという話)
LGBTだろうがなかろうが棒読みの素人だったら見るに堪えないし、LGBTであるかのように振舞えるなら、本人の性的志向とかどうでもいいと思う。もちろん、当事者の方が、演じている人物の苦悩がわかるから、リアリティのある演技ができる可能性はある。でも、当事者なら絶対にリアリティがあるというわけではないだろうし、それ以外の演技力が劣っている可能性ももちろんある。当事者性はリアリティのある演技をするために貢献するかもしれないが、本当に評価されているのは当事者性ではなく、リアリティのある演技ができるかどうかであるのではないか、と思う。
医者の子供は小さいころから親の仕事を見て、一般人より医学的な知識が多いかもしれない。でも、医者の子供だということを評価されて国家試験に合格したのではなく、医学的な知識を評価されて国家試験に合格したのだ。
実力以外で選ばれた人間が医者になったら医学のクオリティが下がり私が死ぬからそれはダメ。
でも役者なら実力以外で選ばれてドラマなり映画なりのクオリティが下がっても構わない。なぜなら私に害はないから。
って考えだとしたら、ずいぶん舐められてるなぁと、芸術関連に明るくない自分でも思う。
もしもLGBTの役者が演技力は十分なのに、偏見のため選ばれないのが問題ならオーディションでの評価を透明化するとか、そっちを変えるべきなんじゃないの?
オーディションを平等化するのは今は困難であり、平等化するための方法は試行錯誤中だ。いずれ平等に評価できるようにするから、それまでの次善の策として、LGBTに特権を付与している。という話ならまだ納得がいくけど、平等化するためにどういう方策を頑張っているみたいな話は聞かない。
そうなると、いつ次善の策から最善の策に変わるのかなど大した指標もなく、次善の策だけがなあなあでズルズルと続きそうな気がする。
ついでに言うなら今デモが起こってる理由の半分くらいはコロナの不安とかイライラとかをぶつけたい人たちが的を見つけたんだろうなと思っている。
常に差別問題に悩んでいる人もいないとは言わないが、過激化したのはコロナのせいだと思う。
まあ当事者から差別されたことがないからわからないんだ人でなしと言われれば、LGBT差別を受けたことがないのはその通りだし甘受するしかないが、当事者でもないポリコレ翼賛会の一員からなんか言われるとLGBTの問題はLGBTが言うべきでは? 文化盗用では? とか言いたくなってしまうな。
引用してるウィキペディアの10秒の壁中に「9秒台を記録した選手は、白色人種とアボリジニのハーフであるオーストラリアのパトリック・ジョンソンが2003年に達成するまでは、全てアフリカにルーツを持つ黒色人種であった」ってあるんやが
売れるとは言ってないだろ。
僕が言いたかったのは、
ということだった。
もし、ラノベの棚が飽和しているのだとしたら、それはラノベが売れているからだよね。
刊行されたラノベをひと通り置く義務なんて本屋には無いからね。ラノベ無い本屋もあるしね。
さて、棚が飽和してこれ以上ラノベを置けなくなるなんてことは個々の書店の視点では起こりうるけど、それが出版社の視点とか市場全体にそれほど影響するかな?
実際は書店の他に、アニメショップなんかのそれこそ本の棚はほぼラノベ(と漫画)しか無い店、ネット通販もあるわけだからさ。
ラノベが売れるなら、本屋のラノベの棚は増えるだろう。もし、ある本屋で君の言うように限界になったとしても、その分他のスペースに余裕がある本屋ではもっと棚を増やせるかもしれない。
全国で考えるとラノベの棚は増えるか? 増やせなかった本屋の棚の分も、スペースのある本屋が棚を増やせばラノベの棚は増えるね。
あるいは(ありえないけど)そんなにラノベが売れるなら新しく本屋ができるだろうさ。
一方で実質的に本屋の棚の代わりになるものはいくらでもあって、需要を満たすだけ増えることが可能だ。アニメイトだとか『丸善ジュンク堂ネットストア』とかね!
だから本屋の売り場がないから需要があるのに売れないなんて考えるのはナンセンスじゃないか?
いや経済は専門じゃないのであんまり偉そうなことは言えないけど。
それともなんかぜんぜん違うことを言っていてこの説明は全然見当違いなのかね。
その目論見がないとは言えないけど、
どっちかと言うと「ラノベみたいなのを読みたいけどラノベ売り場からは遠ざかっている」という人向けではないかね。
いちばん大きいのはやっぱり売り場の違いだと思うよ。
「ラノベみたいなのを読みたいけどラノベ売り場からは遠ざかっている」という人に売れると言っているんだよね?
それについては同意だ。
僕は「ラノベみたいなのを読みたいけどラノベ売り場からは遠ざかっている」人というのは何らかの理由でライトノベル読みたくないんだと思う。
本当に読みたいんならライトノベル売り場に行けばいいんだからさ。遠ざかる意味がわからない。
ライトノベル売り場に恥ずかしくてだったりバカにしてだったりして行けない人が一般文芸の棚でライトノベルっぽいのを探して買うってわけだ。
それはつまり内容は変わらないのに「ライトノベルではない。」という部分に価値を見出しているということだろう。
そうかな?
理由がなんであれ放っておけば、もともと理由がない人もそのうち叩くようになるかもよ?
補足すると黒色人種の定義は「肌の黒い人種」だから、黒人の定義は「肌が黒い人種に属する人」だね。
あのね、実際のところ黒人を定義しなくて不便なことなんか無いんだよ?
誰も気にしないならね。
でも、ある言葉が間違った偏見にもとづいて理解されてそれが広まる危険があるんならそれはちゃんと正して誤解を解くべきじゃない?
そうかな。売れるなら書店は棚を拡大するんじゃないかな。
売れるとは言ってないだろ。
売上と刊行点数との兼ね合いの中でラノベ棚の拡大も限界に来ているから飽和してしまう。
「ライトノベルとは違うんだ」っていうところに価値観を見出す市場が存在するからこういうブランド戦略で売れるだろう、という目論見があるのでは?
その目論見がないとは言えないけど、
どっちかと言うと「ラノベみたいなのを読みたいけどラノベ売り場からは遠ざかっている」という人向けではないかね。
いちばん大きいのはやっぱり売り場の違いだと思うよ。
ラノベの定義を「レーベル側(出版社)がラノベだと言ったらラノベ」というのはどうだろう。
これだと「ラノベレーベル」だと宣言しているレーベルの出す本は当然ラノベだし、ラノベとラノベ以外も出版するレーベルも包括的に定義できる。
ラノベ定義論においては有名な話なんだけど「電撃文庫はライトノベルと名乗らない」んだよな。
そもそも「ライトノベル」という呼称は読者側から発生したものなので出版社側に決定権を委ねるのは違和感があるよ。
実際の文化的状況に対しての妥当な定義付けは、論理的な根拠の無い区別=偏見や差別を横行させないために必要だろう、と考えている。
ラノベが叩かれるのは「自分たちとは別のコミュニティが急に現れて自分たちの場所を侵食している」からだろう。
「黒人を定義する際に、粗暴だとかリズム感がいいとかいう定義は間違っている、粗暴じゃなくてリズム感の悪い黒人もいる。黒人の定義は『黒色人種に属する人。』で十分だ」
と言っているのに、
「50%黒色人種の血が入っていて50%白人の血が混じっている人が存在するじゃないか! 黒人は定義できない! 」
と言われても困る。やれやれ。
ああすまん。新潮社の公式アカウントがラノベレーベルじゃないと言ったんだった。新潮社nex編集が言ったんだと理解してた。
参考: http://togetter.com/li/684962
そうかな。売れるなら書店は棚を拡大するんじゃないかな。
「ライトノベルとは違うんだ」っていうところに価値観を見出す市場が存在するからこういうブランド戦略で売れるだろう、という目論見があるのでは?
これはホント君の言うとおりだな。
ラノベの定義を「ラノベのレーベルから出ている本がラノベ」とすると講談社ノベルスの存在で破綻するということが判明したわけだ。
まあ講談社ノベルスの中の人が何を考えているのかはよくわからないけど。
そこで修正案を提案したいんだけど、
ラノベの定義を「レーベル側(出版社)がラノベだと言ったらラノベ」というのはどうだろう。
これだと「ラノベレーベル」だと宣言しているレーベルの出す本は当然ラノベだし、ラノベとラノベ以外も出版するレーベルも包括的に定義できる。
なかなか良い案じゃないかな?
ああ、確かにエンタメである必要があるという意味では内容は制限を受ける可能性があるね。
ラノベでは何でもできるみたいな言い方は間違いかもしれない。
大衆文学と比較してエンタメ傾向が存在することに起因する内容の変化はないということは言えると思う。
対象年齢については、文学作品の対象年齢に下限はあっても上限は無いと思う。
子供は漢字が読めなかったりするので読める小説に制限はあるが、低年齢向けに書かれたものが大人の鑑賞に耐えられない内容であるという説得力のある根拠はないからだ。
結局、「対象年齢が低い」ということを定義に含めるかという話をするべきだと思うんだけど、
今書いた理由もあって、それはするべきではないと考えている。
それに加えて「対象年齢が低い」というのがラノベの出自としてはあるとしても実際は児童文学を読んでいる大人よりも明らかに多くの大人がラノベを読んでいて
実際に大人の鑑賞に耐えうる作品も存在するという反論もそこここに見られる。
じゃあ今度は君は「大人のラノベ」はラノベじゃないのかよ、なんて話をし始めるのかもしれないけど、
まあ結局ジャンル分の定義は存在するものに対して後付でしていくものなので、世の中が変化していく以上完璧な定義はありえない。
結局、妥当性が高いものを共通認識として提案し続けるしか無いだろう。
僕は「ラノベ」っていうジャンルが、蔑称としても通称としても流通している現状は良くないと思う。
実際の文化的状況に対しての妥当な定義付けは、論理的な根拠の無い区別=偏見や差別を横行させないために必要だろう、と考えている。
「黒人を定義する際に、粗暴だとかリズム感がいいとかいう定義は間違っている、粗暴じゃなくてリズム感の悪い黒人もいる。黒人の定義は『黒色人種に属する人。』で十分だ」
と言っているのに、
「50%黒色人種の血が入っていて50%白人の血が混じっている人が存在するじゃないか! 黒人は定義できない! 」
と言われても困る。やれやれ。