はてなキーワード: 精神論とは
新しいワクチンぐらいだと、増田(これ書いてる人ね)みたいな、高卒でちょっとSFとかに興味あるぐらいの文系人間でも仕組みっぽいのは理解できる。
実際のところは、わからない。
が、なんか効果ありそうで、副反応的なのもそこそこ大丈夫そうだよねーって思うのは、
やっぱり、偉い人や機関が認めてて、反論的なのが少ない、弱い、反論してる人が芳ばしい、ってのが判断基準になってる。
普段から、ニュースとかツイートとかでも、ブコメとかリプとか見て判断する癖ついてる。
けど実際周りにいる人ってそれが出来てない人が多い。凄く不思議に思うけど、そうやって生きてきた人はそれが普通なんだろうなって思う。
身内に疑似科学やスピリチュアルにハマってった人が居るけど、そういう人って大体信者化してる。
あるいはアンチ化か。
サンプル数は少ないけど、結構数字に弱い人達。論理的な思考もできなくて、精神論に偏りがち。
初めはそれこそ、健康のためにヨーグルトを食べよう! とか、自分の性格を把握して人付き合いとか生き方を向上させよう!
みたいなマイルドなところから手を染め始めるんだけど、「ヨーグルト」や「自分の性格を把握」有効で止まるんじゃなくって、それを教えてくれた人に依存していっちゃってる。
戒律? 守ったら人生上手くいきますよ~ っていうのは宗教のいいところでもあると思うんだけど、戒律重視じゃなくて教祖にぞっこんになるというか。
話がそれたけど、
これだけなくせばみんな騙されないと思うんだけど、学校じゃ教えてくれなかった。今は教えてるんだろうか。
って考えたら、20年ちょい前とかって、受け取る情報を信じるしかなかった時代なんだよね。
google検索もできないし、Wikipediaも見れないし。
めっちゃ趣味で読書してるとか、仕事で研究とか勉強してるとかじゃない限り、わざわざ図書館行って本探して……って手間がかかる。
DNGが上手く育てば、なんか解消されて行きそうとも思ったけど、普通に生きてる周りの若人って、面倒くさがって調べないし、リプやコメント読んでから反応とかもしてないな。
上手く行っているときはいいのだが、負け始めると開き直る、という状況になることが多くないだろうか。
上手く行っている時は、色んな人からアイデアが出てくるのだけれど、旗色が悪くなってきたなとなると、さーっと手を引いていく。
皆で決めたことにして責任が曖昧にするとか、そういったところから来ると想像するが、自身は開き直り、棚上げし、犯人探しを始める。
損切りもできず、打開策も出てこない。
台風が通り過ぎるように、注視し時間が経てば、どこかで一発逆転ホームランが起こると開き直りつつ希望を持ち始める。
(なろう系が流行るのも相性がいいのだろう)
この打開策が出てこないのも何故だろう。
身体障害者の方は身体のどこかが不自由な分、物理的な制限を課されていると思うの
身体障害者と自分を、ましてや他人と自分を比べて「自分の方が不幸だ」とか、他人は良い、とか、そういう物言いがムカつくから言わせてもらうね。ただの愚痴程度だったらマジレスでごめん
精神論、根性論のようなことを言ってしまうけど、事実を述べるつもりで言うから傷付いたらごめんなさい、元増田さんの障害もなにかはわからないから、的はずれなことを言うと思うので、スルーしてね
もし身体的な障害がない、障害を持っているのなら、あなたは動ける身体を持っているのだから、変われるよう動いてみたらどうかな。
その差を初めから明確にするルートを選べば、それを知っての上で受け入れてくれるところは沢山ある
あと、そのルートはきっと賃金が低い道だし、それが差になると思うだろうけど、国の支援で障害年金とかも貰えるのでプラマイゼロになるはずだよ。
もしそれすらもやり尽くした、と言うのなら、もっともっとやり尽くした方がいいよ、試行回数が少ないと思う
それすらもハンデで苦しいと思うけど、人と比べて嘆くくらいなら自分で行動しなよ。周りを、行政も、福祉もいくらでも巻き込んだっていいんだからさ。
逆に、自分のハンデを周りに隠して自分の力で差を隠して生きる道もあるよ
元増田がどんな障害を持っているかわからないから、あてはまらないなら他人の話だと思って無視してください
もし貴方が何も変われなくて鬱憤が溜まって増田に書いていたのだとしたら、少しでも元増田さんの選べる道が増えたらいいなって思ってます
元増田です
うーんそもそも、ミスがなんであかんのか、何がいけないのかを理解してもらったほうがいいんじゃないかな〜
それを理解したうえでそうしているなら、仕事をどうでもいいと思っている人か、めちゃくちゃプライドが高いかのどっちかだと思うな
わたしは仕事に就いた以上、コンビニバイトであれなんであれ、要らないミスで人に迷惑かけるべきじゃないと思うし
接客業やっていたからかもだけど、お客さんとか取引先がいるなら尚更そうだと思うのね これは、精神論とかじゃなくて対価とかのはなし
その人に対して、「間違えたという自覚はあるか」ということ、そして自覚があるなら「なぜミスを無くした方がいいのか」ということ、自分も周りもサポートする、(する気があれば)とのことを伝えてあげた方がいいと思います
固有アビリティ装備してみたの。
自炊で使うお鍋をフライパン1つで何でもやっちゃおうってアビリティなのよね。
お湯を沸かすのはフライパンで沸かすと
テファールより早くて笑うわよ。
たぶんテファールのフライパンで沸かせばもっと新記録行くと思うわ。
まだまだ
ガスコンロでいっかなーって思ったワケなのよ。
よく町中華屋さんに行くと
中華鍋一つで煮たり揚げたり炒めたり器用に何でもしちゃうじゃん。
それを家で手軽にフライパン1つでやるってことと一緒なのかも知れないぐらいに
結構もしかしたらフライパンで空も飛べるんじゃないかしら?って思うほどよ。
特殊能力の必要の無い鍋で行うことは全てフライパンですますことができるわよね。
こ、これは!ってそのメリットをスケールを最大限に引き出さなくちゃって思ったの。
まあ魚焼くってのは
なかなかフライパンでは難しいのでと言うのも、
脂の多い魚は焼くというより
だからそう言った焼く専門の物は焼く機械に任せておけば良いのかも知れないし、
もっと私もフライパンを卓球以外にも使えるようにしなくちゃって。
本格喫茶店のトーストもフライパンで美味しそうに焼くって言う話もあるし、
なんだか二重表現をしているような気がするけど、
それも試してみたいところね。
今度キャンプに行くときはフライパン1つでいいのかも知れないわ。
作れるのは目玉焼きだけじゃないってところをもっと知るべきだわ。
とにかく
乾麺を茹でるときイタリア人が激おこするパスタを半分に折ってから茹でるアニメシーンを彷彿とさせるぐらい
折らなくて済むのも、
ダイレクトに長さが長いまま長いパスタのために鍋にぶっ込んで入れられるのは便利極まりないし
イタリア人にも怒られないし、
なにもひと手間加えることなく
ただフライパンで茹で上げたパスタだけで美味しくなっちゃうもうパスタ精神論の話になってしまいそうなぐらい。
だから
その話を思い出して欲しいの。
そしてもしジョイフル本田のフライパン売り場でフライパンを探している人がいたらそれはたぶん私よ!てなもんで、
思い立ったら思い立ったらでその都度都度行くんじゃなくて
広すぎてって意味よ。
遭難しないことを祈っていて。
うふふ。
殿堂入りの玉子サンドもたまには食べたくなるから不思議殿堂ね!
また時期早いかなと思うけど水出し麦茶ウォーラーもやってみました。
キンキンに冷えたのは冷えすぎだと思ったけど、
いいかもしれないわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昼飯を買ったが、未だ結論は出ない。
このまま帰れば、何となく判を押して終わりだろう。
最後の抵抗とばかりに、イートインコーナーで昼食を済ませることにした。
「いただきます」
心ここにあらずでも、割り箸を横向きにするのは忘れない。
これが身についたのは市長がまだ市長でなかった頃、政治家を志してからだった。
親の庇護下だった頃は実践の機会がなく、知識として教えられていた程度。
彼の親からすれば、自分の子供が割り箸を使うような食生活を送るなんて想定していなかったからだ。
しかし親の元を離れ、市長に立候補しようとした時、今度は政治コンサルタントによる教育が始まった。
やってきた政治コンサルタントが、開口一番そう言ってきたのを今でも思い出す。
むしろ親の教育よりも、この時の方が身に沁みているかもしれない。
“市民は、世間は、あなたの一挙手一投足を気にかけます。文字通りね”
その時、「さすがに、そこまで気にする人はほぼいないだろう」と思ったが、それを見透かしたかのようにコンサルタントは言葉を続けた。
“もし気にかけられないなら、市民に興味を持たれていないということ。興味のない人間は批難されませんが支持もされません”
批難も支持もされない人間は政治家になれない、とまで言われては従う他ない。
そうして、ありとあらゆる“政治家しぐさ”を学んだ。
その賜物……かどうかは正直なところ実感が湧かないが、いま市長をやっているのは事実だ。
「私自身は構いませんが、子供たちや一般市民の方々に、そこまでさせる意味って……あっ」
にも関らず、この日は久々に箸を割るのに失敗してしまった。
“箸の乱れは心の乱れ”
コンサルタントに何度も言われた、いま考えてみても謎の精神論。
だが割るのに失敗した箸は、「そら見たことか」と自分を指差しているように見えた。
「むぅ、割り箸もどうにかしないといけませんかね……環境問題とか色々ありますし」
市長が八つ当たり気味に環境問題を呟いた時、ふと近くで座っている紳士に目がいった。
男の持っていた箸はどうやら自前らしく、一般的な箸よりもかなり細長く、先端は鋭く尖っているようようだ。
その上で持ち手の割合は申し分なく、箸先もピタリと合わさっていた。
それだけで、彼が箸で食事をすることに並々ならぬ拘りがあるのが分かる。
b:id:citron_908 氏、信頼のおけるブクマカの一人なので、この間違いについては指摘しておいてあげたい。
去年のゴールデンウィークあたりの時点で当時の安倍総理がテレビで精神論ぶってたのを見て、政府に打てる手は尽きたと確信してたのだが…そっから先も(万策尽きてるにしても)酷かったからね
https://b.hatena.ne.jp/entry/4701707418747980354/comment/citron_908
「敬意・感謝・絆あればウイルス克服できる」てあれ、TBSの完全なるミスリードだからね。
(他国でも自己犠牲を賛美する風潮はあるが、露骨に特攻を命令するのは貴重な兵士というリソースの無駄使いであり、普通はありえない
今の日本の政治家も悪党としては小物感が漂いすぎてて、こすいというかケチというか
WWIIもそうだけど、上層部は小悪党なのに強い言葉(コロナに勝った証とか)を言うだけで、結局は全部現場に丸投げでしかない
現場に丸投げというなら米国のベトナム戦争もそうだったわけだけど、流石に特攻を命令したり賛美したりはしない
(ベトナム戦争は北軍のゲリラ戦術が勝因ではなく、実際は中ソが米国への核攻撃を匂わせたため、米国は核による脅迫という外交で負けたのである
特攻が嫌で徴兵から逃げた息子を親が捕まえたり、特攻するために出兵する息子を親もご近所も万歳三唱したり、
GHQに支配されても、やっぱり日本人の本質は変わってないんだと今回のコロナでも思ったよ
国難というか、困ったことが起こると先に精神論に持ち込んでしまう
日本人以外に頑張る系の自己啓発は基本的に「ダルい」という反応しか得られれないと思う
(そうすると従業員やチームメンバーがついてこなくなるため、上層部は妥協案や合理化を考える
良くも悪くも基本的に真面目、
だから、上の人間にその真面目さを体よく利用されやすいのだと思う
付け加えるなら、ズルをしてでも敵国に勝つ、ズルをしてでも勝って支配する、領土を奪うという「欲」がない
キリスト教だってプロテスタントは「合理的禁欲」という考え方が根本にあるため、
お金を無駄使い散財しない→いざというときのために貯蓄する→資本主義
という流れがあったが、しかしあくまで「合理的」禁欲であり、仏教のような無欲を良いものとは考えていない
そもそも、無欲になりたい、という欲で座禅や修行をしているというトートロジーがある(一休宗純
うろ覚えだが、アニメのコードギアスでもシュナイゼルには「欲」がなかった
欲や執着心がないことがかえってルルーシュに負ける敗因になってしまった
自己啓発などで欲や執着を捨てようというネタもよく散見されるが、これはバランスの問題であって、
欲や執着が自分を苦しめるなら量を減らすべきだが、欲や執着がなければなんの成功にもたどり着かない
老後になったらオレオレ詐欺で無一文になっても構わない、なんてことはない、
それでは明日から生きていけないわけで、死ぬまでお金や何かに人間は執着するべきなのである
そう考えてみると、この国はコードギアスのシュナイゼル側に似ているとも思える
欲や執着心が足りないのに、「美しく」勝利しようとする
これが自分には良くないように思う
「美しい国」だの「国家の品格」だの言い出した時点で、アベはシュナイゼルにどこか似ているように思う
持論だが、まず「美しく勝とう」などと考えてはならない
大切なのは「みっともない形でもまずは目標を達成する」ことである
ダクトテープによるプロトタイピングとか、まずはみっともなくても完成させる、目的を達成することである
この段階から「軍神」がどうのとか、戦場に美的感覚を持ち込みすぎてはならない
勝利よりも何よりも、まずは目的を細分化し、その1つ1つをみっともないながらも達成していくことである
そして、そこから今度はそのみっともないものをブラッシュアップしていくことである
私は格闘ゲームをやったことがほとんどないのだが、人間がコンボを入力するのはバカげている、
キー操作を記録して一発のキー入力で技が発動できないか、みたいなことを考えるのである
WWIIの日本は、根性でみっともない形で達成しても、それを合理化、単純化しようとしない傾向があるように思える
また、そういった合理化や単純化を悪としたり、そういうのは美しくない、みたいな余計な美観が介入しているように思える
ズルをしてでも勝たなければならない
軍神がどうの、天皇がどうの、そういう美観を戦場に持ち込んではならない
そういう意味で、仮想敵国である中国はやはり良くやっているように思わざるをえない
ホリエモンだったか、自著の自己啓発本で「真似される奴になれ」とか偉そうに書いているらしいが、
真似をするというのは一位の背中にピタリと追随してスリップストリームを利用して走る二位のようなものである
そんな二位がゴール手前で一位を押し倒して一位になってしまうものである
たしかに「真似される奴」はオリジナルであり、ブレイクスルーを作り出すものであり、偉大な存在である
しかし、ホリエモンは起業家としてビジネスの歴史をそれなりに知っているはずではないのか?
ビジネスの世界で意外と最後に勝利するのは二番手だったりすることが多いのである
シュナイゼルについてうろ覚えなのでググってみたが、この文を書いていて、ついアベ氏と似ていると書いてしまったが、
goldhead氏だったか、安倍晋三氏がテレビで演説しているのを観て、
なんて空っぽで空虚な人なんだろう、みたいに思ったようなことをブログだかに書いていたと思うのだけど、
それは自分も同感であって、
安倍晋三氏=シュナイゼルと考えると意外と彼という人物を理解できる気がしてきた
まず、生まれながらにしてすべてが揃っているため「欲」がない、執着がない、
そして、「周囲が望むことを喋り、実行するだけ」の、
ある意味、気味が悪いぐらいよくできた長男みたいな人物だということだと思う
それが見える人には見えるのだけど、見えない人には見えない
なぜなら、安倍晋三氏が空虚に見えない人にとって、そういった一部の大衆が望むようなことを声高に喋るからである
自分のフラストレーションを代弁してもらっているような気分になるから、彼が空虚に見えない
しかし、その崇め奉っている彼は単なる「鏡」でしかないのである
端的に言うなら、二世だから出自が恵まれすぎている、生まれてこの方金銭関係などで大した苦労もない、
それが人間性に反映されて「欲」がない、
しかし、悪い意味で「いい子ちゃん」だから、周囲の望んだことを喋る、
そうやって有権者中の有力者の気持ちを代弁することで味方を増やす、勢力を付けるという戦法だったように思う
そう考えてみると、私はマシュマロ・テストというのがやはり解せないのである
今はルルーシュにくれてやるとしよう、みたいな台詞がうろ覚えだがあった気がする
もちろん、戦争であれ何であれ、意図的に負けてやる、忍耐みたいな姿勢も大事であることは理解できる
しかし、マシュマロ・テストというのはあれも極論めいた話であって、場合によるのである
では、目の前のマシュマロを誰よりも先に奪わなければ死ぬとしたらどうだろうか?
弱者男性論が多少は盛り上がってきたけど、「これは女をくれという意味ではなくて」というのを何重にも重ねないといけなくなってんの、ダメでしょ。
弱者男性側に肩入れするブクマカも、HN出してコメントする奴は大体「女をあてがえなんて思ってるやつはほとんどいないだろ、だから弱者男性論はあてがえ論だと黙らせるのは不当」みたいな言い方ばかりになってるの、ちょっと待てい、って感じよ。
何がダメかわかる?
女と愛し合いたい、イチャつきたい、生活を共にしたい、そうじゃないと辛くて仕方ないという飢えを抱え、それが満たされないことで病んでいく男が存在しないことにされるからだよ。
そりゃあ、そういうやつらはいない事にした方が多少は意見の見栄えがよくなって議論で有利になるだろうけど、長期的にやばいっすよ。
フェミニストが議論に勝つために「立派なフェミニストとしての生き方考え方」ばかりを強調してきたら、実際の女たちの多くがついていけなくなって、しゃーないからバッドフェミニストでもアリと言い出したけど効果が微妙という、あれの二の舞になるのが目に見えてる。
恋愛と性愛と生活のパートナーがぶっちゃけ精神の安定に不可欠だというのが本音の、立派でない弱者男性の存在をないことにするな! 叩いて黙らせるな! それは弱者を言論上でも抹殺することだ。
このような話をすると、そもそも男は女がいないと幸福感を得られないと言うのが思い込みで、社会的な恋愛至上主義の刷り込みでしかない、なんて言いたくなる人間は多いだろう。
そして、ロマンチックラブイデオロギーという近代になって成立したにすぎない感覚から脱出すれば楽になるのだ、と。
でも、それってホントなのかな。
現代基準で、恋愛や結婚なしの人が多くて、健康で幸福で持続可能な人生が実現できてる社会って、すくなくない?
昔は簡単に人が死んでたから、ロマンチック不足による孤独な死が沢山あっててもあんまり目立たなかっただけだったりしないか。
「昔の人は粗食で普通だった」とか言うけど実際は平均寿命クソ短くて、現代基準の「健康で文化的な最低限度の生活」のためには粗食じゃなく十分な食事じゃなきゃダメでした、みたいなのと近かったりとかさ。
まあ、これはただの思いつき。
「恋愛性愛パートナー抜きでは、現代社会で男は心が満たされないのだ!」と主張する科学的根拠は、俺にはない。
だが「パートナー抜きでも幸福!」と主張する科学的根拠もない。個別でそういう人間の例はあるが、大多数の男に当てはまるかは別の話だ。
だからとりあえず、「女と仲良くしたい!苦しい!」という感覚を、女の人権を侵害するからと言って即黙らせるようなことはせず、堂々と表現させて、それを専門家なり学者なりが丁寧に聞き取り分析し議論をして、その感覚の理由と、飢えの満たし方を開発すべきだろ、ってこと。
現時点では、「お前らの飢えと不幸は、女でなくても満たされます」と言い放たれる意見は、俺の知る限り、現代社会と人間心理の分析が不十分で、自己啓発精神論みたいなものにしかなってない。
「要は性欲と会話欲と承認欲と金だろ」なんてクッソ雑な切り分け方しかしないから、風俗と友人と仕事と福祉で満足でしょ、とかの乱暴で役に立たない結論になるんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20210407023455
↑の増田みたいにな。
「そんなに異性を必要とするのが理解できない」と思うんだったら、理解できないからこそ丁寧に紐解くべきだ。
何か未知の理由により本当に必要不可欠なのかもしれないし、なんらかの代替物でカバー可能なのかもしれない。
丁寧に研究された上でなら、どっちが判明しても世の中の幸福に繋がるだろう。
だが今みたいに雑に「風俗と友人と仕事と金ねハイハイ!」と片づけてるんじゃ、誰も救われない。
現に存在する人間心理を、雑に解釈してズレた解決策を提示するな。社会運動全般に言える事だ。
こんな文章ですら、匿名でなきゃ怖くて書けない程度には、「なんだかんだ言って女と愛し合えなきゃ辛い」という欲望は悪とされて抹殺されかけている。
「俺個人は、女でしか満たされないとは感じないし、女はいらない」って話すならいいけど、「女でしか満たされないと感じる奴はいない、いたとしてもそいつらは自分の欲求を勘違いしてるに違いない」という話にはするな。
道徳的に揉めそうな欲望だからって、抹殺して世の中に存在しないことにはするな。
(悪いとは言わないが)エグい欲望の存在を認め、それを告白することもできる世の中でなければ、対処や救済の方法を考えることができない。
実は俺自身も、かつて弱者男性論の記事を書いた時に、「あてがえ論だなどと批判がくるだろうがそれはズレてる」みたいな主張をしたのだが、今では反省している。
その時の記事は確かに、女と恋愛させてくれという主旨でなかったかもしれないが、女とイチャつきたいという欲求は悪であり僕の記事はそういう悪しき欲求と別物だから読む価値ありますよ、みたいな浅ましい意図があったのは事実だ。
社会問題の多くは人権と人権の衝突であり、議論によって双方の人権をどの程度侵害しあうかという落としどころを見つけることが必要だ。
大体の社会政策は、広くとらえれば○○の権利を削って××にあてがえって内容だと解釈できるし、それでよいのだ。
だから、弱者男性論だって、貧困対策だって、介護だって、広義のあてがえ論になることを恐れてはいけないし、聞く側はそれを非難すべきではない。
広義のあてがえ論だからと内容を熟考せず否定するようでは、税金は財産権の侵害であり、再分配は金をあてがえ論だから廃止しろ、という風になってしまうからな。
努力は無駄になる可能性がある そんなん含みある言葉で匂わせるようなクソい大人は無人島で暮らすかさっさと墓に入れ。
報われ方を知らないだけで、ゴールが1つしかないと思い込んでるのが視野狭すぎな。
高みに向けて努力することで得られる代用可能な能力の体得を忘れんな。
報われてる事に気が付かないだけ。
そこに目向けもせずに、てめえの無能さ加減を棚にあげんな恥ずかしい。墓ん中に隠れてろ。
誰のどのどういう背景で努力できてんの?
支えもなしにやれんの?
気づけよ他人のありがたみ。
ここまでは独りで努力できた?自分の底力を自分で体感したやろ良かったやんやるやん。底力がさらに深まるよ
精神論は?
メカニカルトレーニングのどういうポイントがどう作用したの?逆にどういう要素がトレードオフになった?
ルールの言語は?英語由来?ドイツ語?日本語と言語的ギャップはあった?
業界の動向とか追ってた?
全部至近距離で見てきただろ。
それらは部分的な違いは当然あれど、他の分野にも有るから。少し頭をスイッチしたら名詞と目標、構造、規模が違うだけで、それぞれが持ってる依存関係や共存関係は一緒だから。
その報われ方は君が「今」望んでなくても、
必ず両手いっぱいのお土産を持って、次のステージでもそのステージのどこかにでも居られるはず。
将来孫に聞かせてもいい。
君の意外な一面になるだけかもしれない。
けど、それこそ個人の深み。
そういう努力の先に、男性とか女性とか性別や職業で呼ばれるような人間・個人を無視したような姿勢から、くっきりとした個人を獲得できるよ。
大人の多くは傷付かない、傷付きたくないプロなんだよ。傷のなめあいも得意なやつらだよ。頼り方、関わり方は考えたほうがいいやつらばっかりだよ。
キャンセルカルチャーに勤しんでるしょーもないはてなブックマカーの諸君、聞きたまえ。
これは努力は報われない と微塵でも思ってる奴ら全員に
仲のいい友だちみたいな距離感で言うよ。
お前ほんっとつまんなくなったな。
理屈はともかく安倍晋三がトップで中国と戦争になったとき勝てる気がしないので却下かなあ
歴史とは勝った国が書くもの、塗り替えるものなので、今度こそ戦勝国にならないとマズい
歴史の教科書を書き換えるのにご執心になる前に戦争に勝ってほしい
今度こそ世界大戦で日本が勝てば、戦勝国として好きなように教科書だって書き換えられるだろう
戦争で負けたから謝り続けなければいけなくなる、イチャモンをつけられ続けるのであって、
今度こそ戦争に勝たないと、また同じことの繰り返しになる
教科書の紙の文字を書き換えるのに熱心な老人たちは何の役にも立たない
中国であれロシアであれ北であれ、本来なら日米同盟下の韓国であれ、
ちょっと前に、暴力団員に虐めにどう対抗したらいいか質問したみたいな話がネットにあったが、
暴力団員が暴力に同じレベルの暴力で対抗する、つまり闇討ちするとか凶器を使うとか言っているのに対し、
組長は相手より更に強い力を持つものに相談しろ、だったらここに連れて来い、みたいに言っていて、
それはできるだけ非暴力的にやるなら弁護士とかに頼るべき案件だろう
虐めのレベルによるが、家庭内の虐待だって虐めのようなものであり、まずは警察、学校だったら教師、
無駄かもしれんがまずそこに相談するのは、敵より暴力的にも強い存在であるからだ
だったら、胸糞悪いと話題になっていたが、ウシジマくんの作者が最近描いている漫画のように弁護士に相談だろう
法治国家は決闘で白黒を付けるような野蛮な世界ではないのであって、非暴力で決闘するために法律は存在する
国際法だろうか?
たしかに国際法上日本側が正しい、中国側が間違っている、みたいに主張することは大事だ
何も解決していないのではないだろうか
結局、様々な条約や戦争をするにしても取り決めがあり、戦争にもルールは存在はするが、
国家レベルになったら、今度はこの世界や地球を取り締まる弁護士や法曹がいるとしても何の役にも立たないと思う
それは憲法の重箱の隅に拘って改正しなくても問題なくできるように思えるのだ
民生品と大きくかぶる部分もある
今の時代はMicrosoft Hololensみたいなものも軍に導入するのは重要なように思う
そもそも、安倍晋三氏は自衛隊が違憲なのを合憲にしたいだの言っているが、
違憲だと声高に主張してるのは日本共産党、それから公明などの一部なだけではないだろうか
そういった理想すぎる平和主義は単なるノイズであって、そんなノイズは無視すればいい
違憲だろうが何だろうが、自衛隊は他国の軍隊と同様に人命救助にも活躍している
毎日、中国やロシアからの領空侵犯、領海侵犯にスクランブル対応している
それで十分ではないだろうか
今の我々に必要なのは軍拡であり、それは英国のジョンソン氏が核を増やすようになったことも同様であって、
中国が新造する巨大空母や軍需も関係する宇宙開発への対抗である
そもそも、宇宙に電源をという発想は、私は子供の頃に万博でスペースコロニーなどと一緒に見たわけだが、
あの頃のスペースコロニーは棒状だった、つまりガンダムに登場するあれである
しかし、それからスペースコロニー構想の形状は変化していき、ガンダムとは異なり棒状ではなくなっていったように思う
アリゾナだのに建設された閉鎖環境で農業をしたり水を循環させたり閉鎖環境で人間が生きる実験ももう行っていない
宇宙で太陽光発電も頓挫していたが、比較的最近になってNASAは再開するようなことを言い出した
説明した人は実現するための要素技術が足りなかった、例えば、それは宇宙環境でメンテナンスするロボットであり、
当時は必要な要素技術がなかったが、今それがそろいつつあるという話だったと思う
しかし、宇宙で発電に関しても中国はかなり進めている可能性が出てきている
まあ、ハッタリかもしれないが、国家が世界中から天才を集め、全力で金を出して取り組んでいるのは確かだろう
宇宙で発電が成功すれば、原発は必要なくなる、エネルギー問題にかなり決着が付く可能性さえある
もちろん、今スペースXが実験したり爆発させたりで頑張ってるみたいに、
気楽に宇宙に物を運んで上がれる定期便みたいなものが必要だろう
中国がそういったものも並行して開発しているのか、すでに実現しているという可能性はかなり低いと思われるが、
しかし、とにかく中国は世界の下請け工場としてやってきただけあって、物や金が集まるのである
深センというエコシステムもそういう意図的な狙いがあったと考えられる
これに今回の香港なども加わり、金、物、ロジスティクスなどが主に沿岸都市に強化されて揃うことになる
つまり、なんとなくアイディアが浮かび、とりあえず3Dプリンターなどがそのへんでも売っているので買ってきて、
それで出力して、電子パーツも入手できるのでダクトテープなプロトタイピングができたとする
ここからちゃんと設計し直して、金型工場なども近隣に隣接しているため委託できる、
ホワイトカラーのハイテクビル群と量産化できる工場、それがセットになっていて投資家がうろちょろしている街、
アイディアから量産までが一気通貫できる街、そういった都市が日本にあるだろうか
今の中国は共産主義だの社会主義だのではない、血みどろの資本主義、新自由主義であり、
我々はこういった力に、暴力に、狂気に、更なる上の力で立ち向かわなければならない
そういう意味でも、安倍晋三なんてスケールの小さい、みみっちい話である
安倍晋三は戦後の間違った教育を煮詰めたような奴とか言ってた気がするが、本当にそう思う
まず、山田風太郎も言っているように、日本人は科学を軽視する傾向がある、だから負けた、というのがある
神道のように特攻を美化するなど以ての外であり、これから来たるべき世界大戦を負け戦にする思想である
くだらない精神論を捨て、科学を重視し、現実を数字やデータで真正面から受け止める
しかし、戦後から何年経っても日本はそれを理解できていないのである
負け犬根性が染み付いた民族だと揶揄されても仕方がないものである
それが悔しいのであれば、隣国に謝罪要求を繰り返されるのが腹立たしい、悔しいのであるならば、
それ以外にない
フォロワー2.6万人いて某コンサル会社所属のインフルエンサー?なツイッタラーがいる。
コンサルなんて狭い世界なので見る人が見ればどこのファームか大体察しがつく、というか同じ会社だろうしそりゃわかる。その人は恐らくシニアマネージャー(プロジェクトをいくつか回す、ほぼ現場の最高責任者)。
言ってることがおもろいし、趣味も合うし、とにかく"ロック"を志向していて旧態依然のダサいことを糾弾してるのとか痛快だったし、こんな人と一緒に仕事できたら楽しいだろうななんて思いながら黙って結構長くフォローしてた。
仕事がしんどくなった頃に重なってか、なんとなく言ってることが激務自慢、若手の現状とか視界に入ってない感じにちょくちょく違和感を感じるようになったけど、そこまで鼻につくわけでもなくフォローしたままだった。
ある時、彼がLINEか何かの画像を無言でTwitterに上げていた内容を見て呆気にとられた。
『なんかさ
若い子に多いのよ
やりゃいいじゃん。目の前にいくらでもある。それが見えなくて、会社からミッションとして与えられないと出来ないならそれは向いてないわけよ
それはそういうカテゴリの仕事やってるイケてる自分になって安心したいだけだよね
いつか起業してぇ、事業課題考えたいって言ってれば救われるみたいなさ。信仰の領域なのよ
それが出来ないなら一生出来ない
と、オレは思う』
ムカついた他人の文章をわざわざ手打ちするのって自分でもどうかと思うけど、内容は以上。
すごいフォロワー数だし安易に触れるのもアレなのでその時はスルーしたけど、フォロー外してもそもそも彼に限らずコンサル界隈って本当にイキったツイートがよく流れてくる。
その度に思い出すので、どこにも需要ないだろうけどここに吐き出す。コンサル興味ない人とかクソ長いわりにつまんないと思うからこの下読まなくていいよ。何様だと思ってりゃそんな"若い子"相手にイキれんの、ってムカついたってだけの話。
まず、今の若手の現状、システム系の案件がめちゃくちゃ多い中でその一番下の立場にアサインされるというのがどういうことかわかってんのかなと。
(必要かわからんけどクソ雑に補足すると、ビジネス系とIT・システム系の概ね2種のプロジェクトがある。通常"コンサル"で思い浮かべるバリバリパワポ書くのは基本前者。後者はがっつりシステム導入・改修も含まれる。もちろん二分できるわけじゃなくある程度入り混じる)
若手に一旦システム学ばせるスタイルが間違ってるとは思わない。つーか当然勉強になるし将来的にやった方がいい。お客さんのためにもどうしても手駒が必要なものが多いし。
でも、根本的に、昔と今の案件におけるビジネス:システムの比率(二項対立ではないにしろ)・深さが全く違う。大変なんだぜ自慢じゃない、単に必要な勉強量が異なる。本職のSEが本気でやっていることかそれ以上のレベルの仕事を、段違いの単価で請け負う以上必然的にそうなる。
そもそも、『ミッションとして与えられて』もいない別の仕事を若手ごときが独断でするだ?お客さんに原則時間単位でチャージするコンサルという商売上おかしい。キャバ嬢が突然プレゼンおっ始めるくらいおかしい。それがもし本当に必要な仕事ならミッションとして振れていないリードがおかしい。自主性云々じゃない。
業務時間外だって、システム系の仕事をしているなら今や無限大にあるシステム関連の知識を業務を主軸に広げていく勉強をするのが正しい。俺ら以下の世代が仕事の合間に必死で読むのはロジカルシンキング本でもマーケティング本でもなく、スッキリわかるXX入門や野生のプロが書き残した英語のコード。助けてくれたのはOffice田中先生だ。
それでもなお『やりゃいいじゃん』と仰るのなら、もしかしたら、彼の認識では、システムとビジネスは頑張れば手の届く距離で直結するものなのかもしれない。だがたとえ上司の仕事を巻き取りまくる全知全能若手マンが出現しようと、その上司だって今やってるのはより高度なシステム仕事でしょうよ。システム系のプロジェクトである限り。
以上により、フツーに入社してフツーにアサインされてフツーに仕事してる今の若手の「ビジネス系のプロジェクトに行きたい」は、見たこともないけど海ってもんに行ってみたいべ~、的なぼやけたものになりがち、だしそっちの方が自然。浮気せず真面目に仕事してきてくれた子なんだねって思う。もう彼らの志向する仕事は『目の前にいくらでもある』わけがない。あっても若手が勝手にやっていいなんてもっとありえない。
こういう現状を本当に知ってて揶揄してんのかな。つーか本来俺なんかよりよっぽど知ってるはず。当事者と一緒に向き合ってないから、目の前に海を見ながら仕事出来た(あるいは飛び込めば褒められた)自分の若い頃の生存者バイアスかかった眼鏡で実情が"見えてない"からこういうことがドヤ顔で言えるんじゃないのかと。
んで、自分が今「やりたいこと」をやれてるのを自分の個体値・努力故だと信じ切っているのがキツすぎる。
今ビジネスを楽しめてる立場の人は、ある程度ビジネスに近い領域で叩き込まれ、それを必死で打ち返す、午前様当たり前、しんどい時こそ飲み交わす、そういう血の絆かよって環境で鍛え上げられてきて、ようやく自由と責任を負える立場になれたからだと思う。こういう世代は決まって「俺たちの頃は(大変だった)」と昔話を始める。もちろん今とはケタ違いの戦場だったろうし、ドロップアウトする方が多い中で生き残ってきたことはすごいと思うし尊敬している。またその話かよとか思いつつもさ。
その頃と今、どれだけ時代が変わったと、最近の「若い子」に全く別の意味でしんどい仕事や時間がどれだけ多く、残業を睨まれる厳しさがあると思ってるんだよ。あなた方、18時から本気出す世代でしょう?彼らは18時にはPC閉じなきゃ怒られちゃうんだよ。さぞ息苦しいだろうと思うよ。
システム系の案件なら中途や派遣のプログラマーの方が、あるいはビジネス系なら業界経験者の方が当然仕事ができる。そういう人が転職してきて入社1年未満だろうが問答無用で上司(かそれに近いポジション)になる。上司だって必死だ、部下どころじゃない。
今の子らは、研修が海外どころか対面ですらない。プロジェクト入れば顔も見たことない上司に指示を受けてリモートでがじがじ勉強している。"師匠"的な上司、ワザを盗むべき先輩、アホな雑談する同期すら隣にいない(つーか同期の顔も知らないだろう)中、なんとか孤独に仕事、あるいは作業をやっている。頭が下がる。
そーいう、彼らの思い描いた未来とズレて苦しんでる現状を、憧れられるような・相談される側になるようなキャリアを歩めた側の人間が、『イケてる自分になって安心したいだけだよね』と、自分の苦労を盾に踏みにじる。これ投稿されたの、今年の2月すよ。新入社員で一度も出社したことない子なんて、不安だらけに決まってるだろ。
どんな会社かも知らずに入ったwって笑うツイートとかもさ。コンサルタントになりたくて入ったクッソ優秀で頑張ってる子もいるんだよ。どうでもいいのかもしれんが。
そんでもって、その立場でそれを言うのかと。
口だけやりたいやりたい言ってて努力しない意識高いマンってゴロゴロいるし若いほど鼻につく、そういう世間知らずのガキがウザいのはわかる。
でもさ、「最近の若い子」はとにかく上述の環境にぶち込まれてなんとか「SIじゃなくてコンサルぽいことをやりたい」の翻訳が「しんきびじねすにかんするあんけんをやりたいでしゅ」「じぎょうかだいをなんとかするでしゅ」であって、どうせ実態はパワポ書いてみたいとかそんなもんでしょ。逆に言えば、その程度が叶ってないんだよ。
やりたいやりたい言ってる中身がわかってないって、わかってるわけないよ。やったことないんだから。やらせてもらえてないんだから。ほんでこういうカウンセラーなり先輩なりに相談したら、「どういうのがやりたいの?具体的に言ってごらん」 「ほら言えない。もう少し勉強してから志望しようね」 って跳ね除けられると。重ね重ね言うがシステムやるのが悪いって話じゃない。
社名やブランドや組織の意向やらと個人の志向性の乖離ってのはいつの時代にも起きる。これからは「もっとシステム触ってかっこいいデジタルっぽいことできると思ったのになんでビジネスなんか」と思う若手が増えるかもしれない。
そういうのを先人と腹割って話したりしてなんやかややってきたんでしょ。ご多分に漏れず飲み会だとかも厳しい中、心理的安全性を保ちながら将来のキャリアとか青臭いこと話してお互いモチベ上げてく~みたいな機会は昔よりずっと少なくて、どうやってけばいいかみんな模索してるんじゃないの。
『やりゃいいのよ。やりたいなら自分がどこにいるかに関わらず それが出来ないなら一生出来ない と、オレは思う』
親に中高一貫校・予備校入れてもらって東大行った人間が言う「勉強なんてどこでもできるじゃん」かよ。
教師になれってんじゃない、学校じゃないんだから。後進の苦しみを鼻で笑うのがその立場ですることか?俺だってケツは青いがマネジメントする立場じゃ自分より「若い子」は基本的に自分よりよっぽど面倒な時代を苦労して生きてきているって肝に銘じて接するべきだと思ってる。イイ人ぶりたいんじゃない、会社もコンサルって仕事も嫌いになってほしくないってのが近い。前○○子でもない。それが俺らの仕事だろ。いつまでもプレイヤー気取りでデキない下っ端を嗤ってドヤるんじゃなくてさあ。
助け船が出せんでも、せめてちょっとは寄り添おうと考えないもんかな。わかってないくせに口だけ一丁前(笑)って突き放すのは簡単だけど、本気で考えるとすげえ難しい問題じゃないの。簡単に『向いてない』とか人様によう言えんよ。
どうして、自分より圧倒的に弱い立場の、しかもキャリア志向を打ち明けてくれた下の人間の苦しみを、誰かにぺちゃくった挙句、2万人以上フォローしてるTwitterでゲラゲラ嘲る真似ができるのか。それ、クソダサくないか。
要は、目の前におもしろいことがいくらでも転がってるアマゾンで育った連中が、
砂漠で水も飲めずに「せめてコンサルらしいことやりたい」と嘆く若い子に、木の上から「水ならそこらへんにあるじゃん(笑) どういう水?ほんとに飲みたいの?(笑)」とニヤニヤ煽っている。
そういうグロテスクな図だと思った。
勢いに任せてぐだぐだ書いちゃったけど、俺は多少かじった言語あったから入社後そこまで苦労しなかっただけで別に一流大学出でもない。今の職位もある程度運が良かったから、面白い仕事をさせてもらえたのは恵まれていたからだと本気で思う。
すげえ頭よくて責任感強い同期が必死こいて障害対応しつつ初アサインから数年同じプロジェクトで抜けられなくなってるとか隣で見ていてやるせなくなってただけ。
単に、尊敬できると思ってた上司がそんなことなかった、みたいなガッカリ感ってだけの気もする。つーかこの人に限らず本当多いこういう下の人間バカにして気持ち良くなってる奴。この界隈特有か知らんけど。『「画面一覧作ってね。通常はExcelなどの帳票にしますが、帳票設計や作業が分からなかったらMgrさんにどうやって作るかを聞いてからやるんですよ」と若い人に言い残して約1日経ったら、まじでスクリーンショット200枚くらい圧縮して貼って「終わりません…ごめんなさい」って言われた(天使の笑顔)』ってツイートとかね。ただの虐待だろ。
誰かを咎める書き込みをいんたーねっとでしたことないからビビってるけど、さっきなんとか次の会社のオファー1個もらったので記念カキコ。
[追記]
昼飯食おうとして血の気引いたわ、まじか。書き殴りにすみません。後でちゃんと読みます。同業以外も読むのかよ。本人に通報する人とか固有名詞ベラベラ言う人とか意外といなくて皆ちゃんとしてんなって思った。あざす。
なんつーか、ままならないことをままならないよねえ、って一緒に頭抱えられるリーマンでいたいよね。精神論嫌いだけど。ままなるっ!(ドン)じゃなくて。お疲れ様です。
>長い
長いって言ったじゃん…クソ長えな。すまん。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/