既に各役所で審査は終わっており、市長の考えうる懸案事項は通過済みだからだ。
市長が七面倒な人格者でも町が廻っていたのは、こういった役員達の努力による所が多い。
「慣習的な規範を選別したり忌避する向きも確かにあります。ですが、そもそも文化に基づいたルール自体は社会において必要なものですよ。でなければ法律でガチガチに縛るしかありませんので」
「もちろん箸の持ち方を法律で縛ろうなんて話はしていませんよ。いま話しているのは、法律のように強制力はなくても守った方がいいルールがあり、それが間違いなく社会を回す上で不可欠だという話をしているんです。それを手助けするのも政治の役割ですよ」
そして、それでも市長が渋った場合は、彼を言いくるめる理論武装も済ませてある。
「箸の持ち方を好きにさせろって人も他のマナーを守る時はあるでしょう。その他の常識、文化、マナー、規範といったものによって、快適に社会生活を遅れている側面もあります。そこにきて箸の持ち方だけ好きにさせろというのは理屈じゃないでしょ」
「あー、分かった、分かりましたよ、分かっていますよ!」
「いえ、どうしても判を押さないというのなら構いませんが、それ相応の理由は必要かと。でなければ他が納得しませんので」
「そうですねえ……」
「……昼時なんで、飯食ってきます」
「……そうですか、ではその間に考えをまとめてきてくださいね」
いつも利用する市役所の食堂を通り過ぎて、市長は外で店を探し始めた、
「さて、どうしたものか……」
そうして十数分、あてもなくフラフラしても考えはまとまらず、結局コンビニで適当なものを買うことにした。
市長自身、この件をなぜここまで渋っているのか上手く言葉に出来ずにいた。
ただ、この件が政治的に動くという事実と、それが後は自分の判の一つで決まるという状況。
そのことが、どうしても喉に引っかかって飲み込めなかったんだ。
「やっぱり私が、市政がどうこうするようなものでもないと思うんですよねえ」
あくまで市政がやることは、授業で使う矯正用の箸を作るための資金を出すこと。
市長が声を大にして「みんな箸は持つべきだ」なんて言うわけではない。
秘書はそうも言っていたが、自分の意志で判を押して、相応の金を出す以上はそうもいかない。
だがイエスにしろノーにしろ、今の市長にはどちらも言える気概がなかった。
≪ 前 「市長、こちらの書類にサインと判を」 「はー、やれやれ。ある意味で尤も重要なのに、尤も簡単な仕事なんですよね。政治システムのバグだと思うんですよ。放置せずデバッグ...
≪ 前 箸の持ち方を授業で徹底的に教えるというニュースは市内に轟き、そして他の学校も見切り発車気味に真似しだしたんだ。 そして広がりを見せると授業内容は最適化されていき、...
≪ 前 この授業での様子は市内の新聞でも取り上げられた。 俺はそのことを、行きつけの喫茶店で知った。 あの時の会話を弟が聞いていたのかと気づいたのも、この時になってからだ...
≪ 前 こうして、弟の学校で箸の持ち方が徹底的に教えられることに。 「まず、一本目の箸を鉛筆を持つ時みたいにして。この部分が動かないよう固定させるのがベスト」 「鉛筆の持...
≪ 前 そして、これも弟たちだけの話では終わらない。 このやり取りを学級内でやっているということは、教員達の耳にも必然的に届いた。 つまり、今度は教員や保護者の間で箸の持...
≪ 前 そして結局の所は、俺自身この件について心根ではどうでもいいと思っていたりする。 どうせ、このやり取りも今日だけで終わるんだ。 よくある仲間内での些細な諍い、日常茶...
≪ 前 「この持ち方が正しいのは箸が食べ物を掴む食器としての役割があるからだ。その持ち方で支障ないって言ってるが、それじゃあゴマや小豆をつまめないだろ」 「そのあたりは掬...
≪ 前 「音を立てるほど勢いよく啜るのは、麺に汁が絡んだ状態で口に運ぶためだ。物事には理由がある。その理由を無視して、従来のやり方を抑え込む方が愚かだ」 「えー、でもそれ...
≪ 前 今にして思えば、きっかけは何気ないものだ。 よく連れ立つ仲間達と、自宅で軽い昼食を摂っている時だった。 「袋麺を作るだけで、妙に自信満々だった時点で怪しく思うべき...
昔々、どのくらい昔かっていうと、フォークが二又しかなかった時代。 この頃のフォークは使い勝手が悪く、上流階級の人々すら未だ手づかみが基本だった。 手づかみで食べる方がマ...
≪ 前 昼飯を買ったが、未だ結論ではない。 このまま帰れば、何となく判を押して終わりだろう。 最後の抵抗とばかりに、イートインコーナーで昼食を済ませることにした。 「いた...
≪ 前 「ほぅ、マイ箸ですか」 市長は思わず声をかけた。 別に彼から箸の矯正について意見を仰ぐつもりではない。 ただ箸を綺麗に持つ者として、その“趣”を知りたかったんだ。 ...
≪ 前 ここにきて、紳士は相手が市長だったことに気づいたようだ。 「そうですが……どうかしましたか?」 「い、いえ、どうもしません。では、私はこれでっ……失礼します」 す...
もうそろそろ山場かな
書籍化したら「増田みたいなネットのゴミ捨て場か本が出た!?」ってな感じでちょっとしたムーブメントが起こりそうで楽しめそうなんだけどなあ。