はてなキーワード: 美徳とは
大手メディアまで囲い込みに協力してdaigoを謝罪に追い込んで、「まあ良かった」って思っているかもしれんけど、ちょっとdaigo叩くのに必死になって大切なこと忘れてない?
究極的にはYoutubeからdaigoを追い出せば、はてブ民は溜飲が下がるだろうけど、daigoは反省も後悔もしていないよ?
「やっぱ生活保護者はクズだわ」ってノリのまんまニコ動やNoteとかセミナーで暴れまくるだけでしょ。
きっとdaigoは今回のことなんて「たまには一発ドカンとやんねーとなww」程度しか思っていなくて、ひょっとしたら次はパワーアップしてきてホームレスの犯罪率や結核感染率の論文まで持ち出して来るかもね。
あと、daigoの「口出さずに金出せよ」みたいな発言が論点ずらしみたいに叩かれていたけど、これでdaigoが言いたかったことは「お前らの言葉は本気か?」ってことでしょ。大人(に限らないだろうけど)はその言葉が本気かどうかは、実際に金が動いているかどうかで判断するわけでさ。ちょっと前に中国のTwitterアカウントが「欧米はウイグルで人権人権うるさいけど、めっちゃ貿易しまくっていて口嫌体正直やん」っていうのと似ているわな。
今回残念なのは、はてなーやTwitterとかで高尚なことを言って美徳シグナリングを誇示する人はたくさんいたけど、例えば「年収の1割は寄付しています」とか「50万寄付しました」みたいなスクショを貼るような人はいなかったんだよね。金が伴わない言説は重みがないから、daigoも「こいつらペラッペラだなww」って判断されちゃっているよ。
つまり「生活保護者やホームレスは金をかけるほどの連中じゃないらしいから、次はもっとうまく差別しよーっと」ってなってんじゃないスッかね。
言うの忘れたけどYoutube(Google)はdaigo側だから、通報している人たちは滑稽だよ。Googleの所在地のカリフォルニアってホームレス天国で有名だからね。Google社員はいつも専用のバスに乗ってホームレス連中なんてガン無視を決め込んでいるよ笑。
女性たちが男に比べて人間的に劣って見えるという意見は、色んな場所で聞く。
いい機会なので私が回答しよう。
男は感情を表に出さずに、いつでも理性を発揮するべき、って「男らしさ」の理想像があるんだ。そういう枠に自分を当てはめてるうちに、男は、自分自身の本当の気持ちを見失ってしまう。周りの人間に合わせて自分の気持ちを押し殺してしまう。だから実態は「女は感情、男は感情の欠落」なのさ。
そんな男にとって、自由に気持ちを表現できる女性は、自分勝手に見える。
「パスタが食べたい」って言えない男は、「うどんが食べたい」って言える女性を、ワガママと見てしまう。でも本当は、男が自分の意見を素直に提案できたなら、当然、女性だって妥協できる。提案がないならば、女性の見えてない側面を見る機会もない。
女性は世間からいろんな役割を押し付けられる。回復役・職場の華・指示される弱い立場…
タクシーの運転手が女性相手だと横柄な態度に変わる、って話は有名だ。
「女だから」と、ぞんざいに無理に枠にはめて人間らしさを奪おうとする圧力。
それに対抗するには、どんなときでも「まず自分」を優先できる強かさが必要になる。
強さは自分を守ってきた証だ。心折れて社会に屈伏せずに、大切なものを護りきれる人間性は「こんな人の隣にいられたら」と思える美徳だよ。
ときに言葉さえ飛び越えた、全面的なコミュニケーションによる、お互いへの深い理解があり得るんだ。
そういう精神的結びつきは、掛け替えのない充足と、愛し愛される喜びを与えてくれる。本当に幸運でないとそれが出来るパートナーに巡り会うことは出来ないけれど、もし恵まれたのなら、得られるものは——私見だが——単なるセックスとは比較にならないほど意義深いものに感じられる。
ただ短い時間、となりにいるだけなら、“干渉しない” で事足りる。
察すること、察してほしいというシグナルを送ること。現在の関係性に甘えずに、アグレッシブにコミュニケーションを重ねて、より高いレベルでの信頼関係に至った2人の生活は、信じがたいほどに滑らかに回っていく。本当の幸福はそこにある。
最近、「人権感覚のアップデート」とか言われることが多い。しかし、人権思想は短く見積もっても200年~300年以上の歴史があるので、過去もアップデートがあったのは間違いない。
人権思想の走りと言うべきもの。いわゆるマグナ・カルタや権利の章典などで人権思想の基本となる考えが整備されていった。
いわゆる「国家からの自由」と平等。政府が令状なしに逮捕したり、法律の規定や裁判なしに刑罰を与えたり、特権階級をもうけたりすることを禁じた。
いわゆる「国家への自由」。要するに参政権。必然的にこれもついてきた。
人権における画期的なアップデートである「国家による自由」が実装された。19世紀末~20世紀前半に成立し、これにより近代的な人権制度が一応の完成を見たといってよいだろう。
単に自由なだけでは恵まれない人が割を食うばかりになるので、生存権、教育を受ける権利などのように最低限保障すべき権利を規定し、政府が施策により実現することを義務とした。もちろん、これが特権であり平等性に反するという主張もあったが、現実に劣位に置かれている人を、平等な水準にするということで理論的な解決を見た。
「かわいそうな人」の権利を守るために、そうではない人の権利を制約しようと言う思想。
アンチファによるヘイトスピーチ規制の主張や、フェミニストによる表現規制の主張、性犯罪に対する要件の緩和や厳罰化などが人権3.0。
しかし、これは当然に、権利の制約になるので、人権1.0と真っ向からぶつかることになる。
もちろん、人権1.0でも、他人の人権を侵害する行為は禁止する(=政府が処罰する)ことはできる。殺人を行う自由という人権は認められない。
しかし、これは同時に、他人の人権を侵害したことが明確に立証できないことは禁止(=処罰)できない、ということと等価である。これを問題視する向きが人権3.0を主張し、人権1.0を攻撃している。
今日の、立憲民主党本多議員の離党騒動はまさに、この人権1.0vs人権3.0という問題である。人権1.0の立場に立てば、明白な権利侵害があることに対して「のみ」規制されるべきと考える。だから、様々な限界事例を例示して、規制の問題点を指摘する。対して、人権3.0の立場に立てば、明白な権利侵害があるかどうかはっきりしない事例でも、加害者の処罰が漏れることが到底許し難い。これに対して人権1.0の立場からは「十人の真犯人を逃すとも 一人の無辜を罰する勿れ」「刑法典はならず者の権利章典である」といった原則が掲げられ、被害者やその周辺の感情に寄り添わないことが美徳とされる。
増田は、この人権3.0へのアップデートを、バグが多く、危険なものだと考えている。罪刑法定主義や法の適正手続きといった手法、権利の衝突の解決手段としての公共の福祉、明白かつ現在の危険、こういったさまざまな近代的な人権と法制度に基づく道具立てとコンフリクトをする思想は、最早、人権とは呼べないだろう。単なる魔女狩り裁判を正当化し、フォークデビルを火あぶりにする、俗情との結託である。こんなものは、全く「立憲主義」などではない。
細田守はスティーブン・スピルバーグ、そして、彼と比較されがちな日本の偉大なアニメーターである宮崎駿の両方に不満を抱いています。
細田(人道的傑作『未来のミライ』が三年前にアカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートを受けた)はハリウッドのデジタル至上主義や宮崎の女性描写にうんざりしたものを感じているといいます。
最新作である『竜とそばかすの姫』がプレミア上映されたカンヌ映画祭におけるAFP通信のインタビューで、細田はスピルバーグの『レディ・プレイヤーワン』をはじめとする多数の映画に視られるネットに関するディストピア的な表現は万人にとって、特に女性にとってあまりよろしくないと発言しました。
自身も幼い娘の父である細田監督は、彼女たちの世代が恐怖に怯えるのではなく、デジタルな運命をコントロールできるように力づけていきたいと考えています。
「彼女たちはインターネットとともに成長してきました。しかし、常々、ネットが悪意に満ちた危険な空間であることも教えられてきたのです」
『竜とそばかすの姫』では、内気で無垢な少女すずのジェットコースターのような感情の体験が、21世紀を舞台にした『美女と野獣』をベースに見事に表現されています。
彼女自身にとっても、他の人々にとっても驚いたことに、すずは「U」というアプリの仮想世界内で、ベルと呼ばれるポップ・ディーヴァになります。何十億人ものフォロワーを獲得したすずはネット上でいじめやハラスメントを受けたりもしますが、「ベル」の歌を通じてアンチや自分自身の悩みを乗り越えていきます。
「若者にとって、人間関係は複雑で、甚大な痛みを伴うものです。私が見せたかったのは、こうした仮想世界が辛く、恐ろしいだけなく、ポジティブなものとなる可能性です」
すずとそのギークの友人は日本の一般的なアニメの女性とはかけ離れています。ここが名作『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞を獲ったレジェンド、宮崎駿との態度を異にするところです。
「日本のアニメを観るだけで、日本社会において若い女性がいかに過小評価され、見下されているか(underestimated and not taken seriously)がわかります」
この監督(その映画は宮崎作品よりも現実に根ざしている)は、当時として珍しいことに、シングルマザーによって育てられました。
2012年に公開された名作『おおかみこどもの雨と雪』は、彼女がたった一人で”小さな群れ”を育てた、その猛烈な自立心を讃えた作品です。
細田監督は、「日本のアニメでは、若い女性が聖なるものとして扱われていますが、それは彼女たちの現実とは無関係です。そのことに私はとても腹を立てています」と、悔しさをにじませます。
細田監督はジブリの創立者である宮崎駿の名前を出さずに、厳しい意見をのべつづけた。
「名前は伏せますが、アニメーションの巨匠でいつも若い女性をヒロインにしているひとがいます。率直にいうならば、彼は男としての自分に自信がないからそのようなことをするのだと思います」
「若い女性を崇拝することははっきり言って不快ですし、わたしはやりたくありません」と彼は主張する。
彼は、彼のヒロインを美徳とイノセンスの模範とすることや、”誰からも好かれなければいけないという抑圧”から解放されなければならないと考えています。
53歳のときの彼は宮崎駿の正当な後継者とみられていました。のちのオスカーノミネート作『ハウルの動く城』の監督として外部からジブリへ招聘されたのです。
しかし、細田は制作なかばでジブリを辞め、自らのスタジオを立ち上げました。
細田は「人間の良いところも悪いところも描く、その緊張感こそが人間の本質」というような物語を好んでいました。
そうした性向が『美女と野獣』を現代にアップデートすることに惹かれたのでしょう。
「原作における野獣は最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、暴力的ですが、同時に繊細で傷つきやすい内面を持っています」
「美女(ディズニー版ではベル)は取るに足らない人です。見た目がすべての存在です。私は彼女を複雑で豊かに作り変えたかった」
そうした二面性は、彼の最初のヒット作『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』から観られるようなデジタル世界の魅力にも現れています。
「私は事ある事にインターネットへ立ち返りつづけています。最初は『デジモン』で、2009には『サマーウォーズ』、そして、今もまた」
そして、インターネットを諸悪の根源とみなしてはいけないと、これまで以上に確信しています。
「若い人たちはそこから離れることはできません。彼らはネットともに育ってきたのだから。私たちはネットを受け入れ、よりより使うことを学ばねばなりません」
色々と言い訳するだろうけど、お前の主張は「飲食店で一時は成功したって本当?。だとしたら飲食業の人は一目をおくはずだが?」「本当は健常者が発達障害をたてに中枢神経刺激薬をコンサータを獲得するだけの言い訳に使ってないか?」「お前の ADHD は、医学的に総意を得た ADHD なのか?」「そもそも日本人の殆どは早稲田に受かんない頭脳だけど、お前がスペシャルであるだけなんじゃないの?」「俺の理論が正しい、何故なら『本が売れたから』というのは『正しさ』の証明にはなってなくね?」「早稲田に行って『飲食で成功する』ってのも変じゃないか?」という疑問はペンネームを使う以上は、消えない問題なんだよ。
「本当に早稲田なの?、ADHD なの?、成功したの?、再現性あるの?」というのはさ、「私は〇〇です」というリアルな名前があって一対一対応するわけじゃないですか。はやい話が発達障害を【カルタシス】に活用したビジネスを「借金玉というペンネームで匿名性を借りてやっている」のだったら、詐欺師と同じだと思うのですね。だから、貴方の主張をリアルと比較したい。それには借金玉という人の「本名」が必要なんです。この疑念は「私は〇〇です」といわない限り、消えることはありません。諦めてください。
あと「債権玉という人が本当にいて、借金玉が『免責される自己破産』を、自らの意思で返済した」のを美徳化するのは絶対にめてくれ。やり方がヤクザだ。日本国で自己破産を正しくされたら、貸した金は損金で帳消しされるのだ。資本主義社会というのは「債権主、貸し手、株主」はリスクを取ることで、利益を上げているのだから「債権玉は借金玉に投資した責任」をとらされるのは当然じゃないか。もし仮に「債権玉」という人がいたら、世間的には「会計・法的な根拠がなく、利益を受け取る受け取る自然人」がいることになるし、それを出版社が肯定したら「反社会的勢力」に認定されるのが、令和なんじゃないのか。
借金玉、俺はお前を信じたい。お前が「イケダハヤト」「与沢翼」のような早稲田に行った、昭和60年に生まれた「詐欺師」ではないのだと。お前には才能がある、と俺は確信している。お前が苦労したことは、やがて俺がやることになるし、今まではリアルで再現された。なぁ、「都会の荒波は、田舎者には眩しくて辛かったよな?」「東京に生まれたらセンター試験を受けないで済んだよな?」「コンサータを飲んだら、別人になったよな?」。なぁ?俺は、お前の主張を信じたい。だから、名乗り出てくれ。じゃないと、俺はお前を信じられなくなる。
あと、訴えないでねー♡。
「誕生日、何がいい?」
母親に聞かれて、わたしは喉から出かかった言葉をつぐんだ。別に欲しいものがないわけじゃない。むしろ、ネットショッピングは好きなの方なので、「これいいな」と思うものは結構ある。
けれど、この時ばかりは、何も答えられなかった。
頭が真っ白になって、欲しいものが思い浮かばなくなって、23歳になる、もう結構な大人なのに、思春期みたいに「どうせ言っても意味ない」とばかり考えてしまって、悲しくなる。
どうしようもなく、涙が出てくる。
たった一言なのに、なぜこんなにも涙が出るのだろう。
そう考えて、ぶわりと、過去の思い出が連想されて、蒸し返してしまったからだと気付いた。
わたしは絵をかくのが好きな子供だったので、ペンタブレットに結構なあこがれがあったのだけど、それを母に見せて誕生日にねだったら「何それ笑」と一蹴された。
鼻で笑われてしまって、当時、かなりショックだったことを覚えている。
結局、誕生日プレゼントは古着の服だったけ。それはそれで普通にありがたく着てました。
思えば、それ以前にも、母親はわたしを軽んじている節があったので、よく馬鹿にしていた(いや、まぁ普通に馬鹿な子供だったから普通に馬鹿にしてただけかもしれない)。
だから、中学生の頃は、結構勇気を出してほしいものを口に出した。まぁ、相変わらず鼻で笑われてしまったけれど笑笑。
高校生のときは、ナチュラルに誕生日を忘れられてたっけ。あのときも普通にショックだった笑。
まあそんな母親だけど、ケーキは買ってきてくれていた、ような気がする。
気がする、というのはわたしの記憶にあまり残ってないから。毎年祝われていた感覚がうすい。
なんでうすいんだろう。と考えて、思った。
ずっと母親に嫌われていると思っていたから(実際に嫌われていたのかもしれない)、ありがたみとか、感謝とか、感じてなかった訳じゃないけど、怯えと遠慮が勝って印象にあまり残っていないのだ。
愛されていた感覚がうすい。家事を手伝ったって、「お前にされても嬉しくない」とバッサリ言われるのだから、わたしは常に母親の顔色を窺って生きていた。
だから、子供の頃から、あまりうれしくないプレゼントをもらっても、もらえなくても「祝ってくれるだけでうれしいよ」と模範解答が言えた(実際にその答えは一般的に美徳でもある)。
けれど、大人になって、いい子ちゃんを演じる必要がなくなったときに、抑圧されてきたわたしの中の子供が泣いているのだ。
今更わがままを言ったって大人なんだからしょうがないけれど、わたしの中には確かに、未だ愛されたい子供がいる。
10年余りの時を経て、当時にくらべて随分性格が丸くなった母親に「誕生日、何がいい?」と聞かれ、「ねこちゃん」、とか「イグアナ」とか、まぁ欲しいけど本命じゃないプレゼントを適当に言う。
けれど本心では「どうせ本当のことを言ったって応えてくれない」という思いがある。
子供の頃から親を信じて、期待してきたのに、男を家に連れこんであんなことあこんなことを見せつけられて、裏切られ続けてきた結果、信頼できなくなってしまった。
愚痴のサンドバックにはもうならないように回避できるし、適当に話を合わせられるけど、心から信頼することはもう、できないんだな。
それがとても、かなしい。
たとえプレゼントをもらったって、祝ってもらったって、本心から喜べない自分がいやだ。
もう卒業しなきゃいけないのに、自分の中に子供がいる。どうすればいいんだろう。
つらいな。死にたいな。
「あんたにプレゼントをもらっても嬉しくない」といえたら、どんなにスッキリするだろう。
けれどスッキリするのはわたしだけで、母親はきっと泣いちゃうから。大人として、その言動はどうなのって思うし。
もらえるだけでありがたい、本心でそう思えるような人間だったなら、どんなに良かっただろう。
誕生日に死のう死のうって思っても死ねないアホだもんね、仕方ないね。
こんな、世間一般で見ればくだらないことでもやもや悩むのはもうやめにしよう、と考えて、未だに辞められない日々を過ごしながら、自分と向き合って少しづつ改善できたらいいな。
こうして文章にして吐き出したら、整理できたし、すこしスッキリできたので、今日は泣かずに寝れそう。
おやすみなさい。
どこかの誰かが成功したのは運が良かっただけで、実力のある自分が成功できなかったのは運がなかったからだ。
そうやっていつでも言い訳をして逃げ回る事ができる。
あるいは、誰かが株で儲けたのは運が良かったからで、自分が働いて得た給料は実力で勝ち取ったものだ。
そうやってなんでも正当化して一人の力で考えて行動しようとしない。
ところが、進化も、変異も、淘汰も、すべては運によって左右されるものだ。
成功とは賭けに勝つことであり、失敗とは賭けに負けることだ。
自分たちはリスクを取らないで堅実に生きていたつもりでも、実際には銀行預金という賭けに負けてしまった。
何も変えないというリスクを取って、誰も責任を取らないのが日本の美徳だとするならば、
自己責任で行動してリスクを取る人たちは、日本人にとってのアウトローだ。
・VRゴーグルでバーチャルリアリティゲームをやる
VRゴーグルでバーチャル世界に行くので元が何者でも関係がない。
たとえばこれがアイドルモノでやるのならキャラクターの意外な一面という感じになるのかもしれないが、競走馬をモチーフとした擬人化キャラでやっても元のキャラの個性が減るので結果として没個性的な話になる上にキャラの性質が減るので総合力でマイナスになる。
ゲームをプレイしてたら~~ではなくいきなりゲームがぶっ壊れる。
そしてそれを雑に救いに行く。
話の雑さも酷いし伏線もなにもない。
今までのイベントであればキャラクターの掘り下げという部分があったが、今回はエルとグラスという今までも散々掘り下げたキャラのいつものムーブしかないので掘り下げられる要素がない。
SSRカードの柄がネタバレになっているので語ってしまうがゴールドシップが魔王(ウマ王)として君臨しているのだが、それもキャラクターイメージそのまますぎてなんの驚きもない。
学芸会レベルの茶番を延々と見せられることになるという地獄のようなイベントストーリーである。
終わったイベントなので起承転結をネタバレしてしまうので注意。
・アスレチックコースの途中でリタイアしかけるヒシアケボノをマヤノトップガンが助ける
・皆で仲良くゴールしてウェディングドレスを着る
酷い。
何が酷いってレース中に他のウマを助けるというシーンの競馬に対する侮辱たるや。
おててつないで仲良くゴールという文化は、そこに平等な世界を目指す文脈があるから成立する。
だがウマ娘の世界観は平等ではなく競い合って最強を決めることに意味を見出す文脈の上にある。
プロボクサーがリングでいきなり「殴り合いなんて良くない!KOするまで殴るなんて俺は出来ない!」と相手選手にかけよって傷の介抱を始めたらそれがどれほどの人に対してのどれほどの侮辱になるだろうか?
競走馬をキャラクター化させるという道を選んだ以上、絶対に守らなくてはならない文脈はあるはずだ。
それを平然と破り捨ててきたのだ。
ならせめて最初からレースもどきなんてせずに、お裁縫だのお料理だのナンパ大会だの大食い大会なりをしていれば……いやそういった催しであったとしてもそれが「競う」「試す」「目指す」といった要素を含むのならば、個人の戦いに他者が介入することは間違いだ。
競走馬達が併せのトレーニングをするのは、それがトレーニングだから成立するのだ。
同じ馬主の馬が他の馬を妨害するという展開、同じ馬をターゲットにした同士による協力的な潰し合いだってレースには確かに存在する。
しかし、自分が1位を狙える展開で、チームオーダーが存在するわけでもないのに他の馬のために勝利を譲るような馬がいるだろうか?
いない。
そもそも強い競走馬は闘志や競争心を美徳として兼ね備えるものだ。
擬人化美少女ゲームに出てくるレベルの超有名馬であれば、そのどれもが他のものを蹴落として自分が最強になることを目指す生まれついての勝利絶対主義馬のはずだ。
それが自身の勝利を目前にして他人のためにゴールから遠ざかる?
そんなストーリーがあっていいのか?
その世界だからこそ数々の夢が、それが散る姿が輝いていくのだ。
負け続けてもレースに出続けたハルウララがなぜあんなにも人気があったのか?
それは勝利が絶対の世界でそれでも負け続け、それでも走り続けたからだ。
絶対の価値に永遠にたどり着くこと無く、それでもそこになにかがあると思わせ続けたからだ。
勝利するということに勝る価値がないはずの世界に、負け続けながら居続けたことが人々の心に強く映った。
そして、何度も負けながら勝ちを目指し続けていた。
それに比べてウェディングイベントのマヤノトップガンはなんだ?
というかこんな描かれ方をして本物のマヤノトップガンのファンは許せるのか?
次のイベントのクオリティによっては、ウマ娘という作品に対して語られてきた「原作へのリスペクト」を疑わなきゃいけないんだろうな
世の中の人間は文章の最初と最後だけ読んで、わかった気になる馬鹿ばかりだ。
常に偏差値が70くらいあった。
別に私の頭がいいからとかではなく、単純に早い段階で教育を受けていたからだ。
具体的には保育園あたりから公文だの塾だのに放りこまれていた。
そりゃ常に勉強が出来てるんだから、10代は天狗になっちゃうよね。
でも、高校から自分と同じレベルの進学校に通い、勉強が出来るのは当たり前の世界になると考えが変わった。
そして大学で、たまたま行動力のある人間と友人だったので、そいつが在学中に作った会社に参加した。
超優秀な人間に囲まれて、実に仕事はきつかった。バリバリ大手の企業とやり合い、資金を引き出し、片手間でオリンピックに参加するような文武両道の怪物が平気でいた。
とにかく、私は所謂「上流」の世界では雑魚もいいところだった。
プライドを叩き折られ、社会にはすごい人がいくらでもいるんだ!と、ある種の幻想を抱いていたように思う。
その会社は大学卒業と同時に辞めた。というか正直に言うと、ついていけなかった。能力的に。
時期的にはこの辺りが、ちょうど「普通の感性」というものを持っていた時期だと思う。
人を見下さず、尊敬の念を持ち、謙虚さこそが美徳だという、通常な大人の感性だ。
でも、卒業後はSNSを活用する業界に飛び込んで、気づいてしまった。
「勉強が出来なくても頭がいい人はいる」なんてのは、それこそ幻想だった。
勉強程度が出来ない人間は何やってもダメだ、と再確認しただけ。
言ってしまえば、そう。「偏差値50の人間がどれだけ馬鹿なのか」という話である。
彼ら彼女らは、信じられないほどの馬鹿だ。アホだ。生きてて恥ずかしくないのだろうか。でも、それこそが世界の平均値なのだ。
馬鹿が政治について語っている。馬鹿が課金で搾取されている。馬鹿が適当に書いた記事に踊らされている。
いやあ、コミュニティの同質化ってのは本当に怖い。
私はたまたま、所謂偏差値50以下の「下流」の人々と関わる機会が多くなったのだが、これで、「上流」としか関わらない仕事についていたら、絶対にこんな考えには至らなかっただろう。
世の中の人は。みんな精一杯頑張って生きているなんて誤解したままだっただろう。
でも、なんだろうな。詐欺で生きているようで気分が悪い。
だって、私は一度もお金に困ったと感じたことはないけれど、馬鹿な貧乏人の気持ちは全て把握できる。
人種や性別で差別されたことはないけれど、差別される馬鹿の気持ちが完全に理解できる。
アニメや漫画が好きではないけれど、馬鹿なオタクが何を求めているのかアッサリわかってしまう。
だって、実際にそういう記事をプロデュースして、いくらでもPVを稼げるんだもん。しょうがないよね。共感の声なんていくらでも貰える。
でも、本当に頭の良い人達から見ると、私も同じ馬鹿の部類で、誰かにカモられて生きているんだろうな。
何が言いたいのかって言うと、世の中に出回っている情報メディアなんて私みたいな人間がクリエイトしているものだから、一々リアクションしなくていいよって話。
少し賢い馬鹿が馬鹿を騙すと、何故か金が生まれる。そういう仕組みになっている。
なんなんだろうね、現代社会って。
90年代前半、講談社から出版されていた『Mr.マガジン』という漫画雑誌で『ピカイチ』(原作・木内一雅、作画・三山のぼる)という作品が連載されていた。ストーリーの細部は忘れてしまったが、以下のようなエピソードが有った。
= ここから粗筋 =
主人公は中間材となる工業部品を製造する工場に勤務しているが、工場の従業員たちは「自分たちの仕事は取るに足りない、価値の無い仕事」と考えて意欲を失っていた。それを見かねた主人公は、彼らを大人の見学旅行へ連れ出す。
主人公が労働者たちを連れて行った先は、彼らが製造した中間材部品が、新幹線を始めとする鉄道車両に使用されて組み立てられる工場であった。
彼らが従事する工業部品製造の仕事は、華々しさとは無縁で地味な仕事かもしれないが、もしも部品の性能に問題が有れば、事故の発生などにも繋がりかねない。
彼らの部品が使われている鉄道だけでなく、我々の社会が滞りなく機能するのには、彼らのような工場労働者の真面目な仕事ぶりと、それによって生み出される信頼性の高い工業部品が有ればこそなのである。
こうして、主人公が見学旅行に連れ出した労働者たちは「自分たち工場労働者の仕事は、決して無価値ではない」と、人間としての誇りを取り戻し、仕事に前向きになる。
= 粗筋ここまで =
「フィクションにすぎない。そんな簡単に労働者が誇りを獲得できるものか」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、それでも、リアルタイムで読んだ時に私は、日本の労働者の琴線に触れるものが有る話だと思った。このエピソードに心を動かされたのは、私自身が非都市部の低所得者層・労働者階級層に生まれ育ったからだ。この漫画で出てくる工場労働者の姿は、私が生まれ育った社会を思い起こさせたのだ。
私の両親は、経済的理由から高校進学を断念して中卒だったが、真面目な労働者だった。子供時代の私が馬鹿なことを仕出かしたのを叱るのに、時々手が出ることはあった(昭和の時代には当たり前のことだった)ものの、癇癪を起こして物に当たるようなこと、物を壊すようなことは決して無かった。私が生まれ育った地域社会は、どちらかと言えば粗野な部類だったと思うし、隣近所や学校では、一時的な感情の爆発で物に当たり散らして、物を破壊する人間など珍しくもなかった。学校では週に一回ぐらい、授業中に何処かのクラスの窓ガラスが割れていた。隣近所の家々でも似たようなものだった。しかし私の両親は、そういう粗暴な行為には走らなかった。裕福な暮らしではなかったが、乱暴な地域社会の中で節度を保って紳士的に生きてきた両親のことを、今でも私は誇りに思っている。
物を故意に破壊しないようにするというのは、貧しい家庭の多くが贅沢を敵とし、節約生活を美徳としているのだから何ら珍しくないと、世の人は思うことだろう。物を壊したら修理や買換で出費を招くのだから。
しかし、それ以上に、私の父は物作りの人間だったから、我が家では「人が作った物を故意に破壊する」という行為は「それを作る仕事に実際に従事した労働者の誇りを踏みにじる、恥ずべき悪徳。卑しい振る舞い」と両親から教育された。「人間として、卑しい真似をするな」というのは、両親が口を酸っぱくして常々私に言い聞かせてきた言葉だ。
私はテニスをしたことは無いが、聞いたところによれば、テニスラケットの価格は一般人が使用するものでも数万円以上はするものらしい。それを叩きつけて破壊するというのだから、何とも豪勢で贅沢な話である。金は天下の回りものと言うが、その順回路に今も昔も含まれていない我が家からすれば、数万円もする物を自分の手で故意に叩き壊すことなど、夢のまた夢である。
それとも、こんな私でも、何かの弾みで大金持ちになったとしたら、ひょっとしたら数万円のものを簡単に壊すようになるのだろうか。その物の向こう側に存在する、それを作った労働者の存在を忘れて。
私は、彼女がテニスラケットを平気で叩き壊す姿を見ると「ひょっとしたら彼女は、物を作る労働者階級の人間のことを、自分と同じ『人間』と思っていないのではないか?」という思いを拭えない。
おそらく彼女も、最初から何億円もの賞金を稼ぐトップアスリートではなかったはずである。人生のどの時点で、彼女は何万円もするテニスラケットを心置き無く壊すようになったのだろうか?それを壊せるようになった時、彼女は「こんな贅沢もできるぐらい、自分は金持ちになったのだ」と誇りに思ったのだろうか?
たとえ何億円もの賞金を稼ごうとも、物を作る労働者の誇りなど知らぬと言わんばかりにテニスラケットを破壊する彼女の姿は、私の目には非常に卑しく見える。
圧倒的な強さを誇っていた超人が、全盛期を過ぎて勝てなくなってきてもなお競技に打ち込み続ける姿が好きだ。
世の中には、強者がその実力に翳りが見えてきた段階でいち早く引退することを美徳と捉える風潮もあるが、私はむしろ完全に勝てなくなるまで戦い続けるかつての超人にこそ美学を感じる。
「引き際」とか「有終の美」とかいう言葉はひとつの価値観だとは思うが、それが美しいのはあくまでレベル80~100の並のプロの話であって、レベル150の超人にはあまり似つかわしくないと思う。
その世界を完全に制覇した超人たちにとって、勝てなくなった自分の姿を晒し続けるメリットは本来多くはない。
かつての栄光を思えば屈辱は多く、ファンを失望させるのではないかという恐怖も大きなものだろう。
それでも超人が競技を続けるのは、おそらくひとつの時代を作ってしまった超人なりの責任の取り方なのではないだろうか。
敗北し泥にまみれながらも、次の世代へと時代が移り変わりつつあることを自分自身と世の中に対して納得させていく儀式。
あえて超人がその儀式を行ってくれるからこそ、次代の選手たちは「超人がいない時代だからトップになれた」という中傷から開放され「超人を正面から打ち倒した新星」の称号を正式に手にすることができるのだ。
ハミルトンに引導を渡されるまで戦い続けたミハエル・シューマッハ。
レギュラーから外れてもなおギリギリまで現役であり続けたイチロー。
藤井聡太という新たな超人の登場によって世の中に世代交代を期待する逆風が吹き荒れ、かつて総ナメにしたタイトルを次々と失いつつも今なお戦い続ける羽生善治。
彼らが全盛期を過ぎてもなお全力で挑戦を続けるのは、心からその競技を愛していることの証拠であり、また次代の競技者に対するせめてもの餞なのだと思う。
男性が不摂生をする事も「男らしさ」の一つとして、男性社会で美徳として扱われるからな。
「なんだよ、健康とか気にしてるのか?男らしくないな」
「うまいもの食って、夜更かしして、早死にしても後悔しないね」
こういった"蛮勇"を誇ることが、男性社会のホモソーシャル文化としてあって
健康とか気にするのは「女々しいこと」
実際には不摂生をしたからといって安楽にぽっくり死ねるわけではなく
ある日、生活習慣病で倒れて、そのまま健康を大きく損ねた状態で、それでも生きて行かざるを得ない。
(君たちも中年男性なら、同僚とか友人に、そうなった人もいるだろう?)
『独身男性が早死にするのは、(ケアをしてくれる)女から差別されているから』
永久に生きるカーチャンを求めているのが、すでに差別なんだよな。
地元市役所で「食生活改善普及運動」やってるから、相談するだけの気力がある人は頑張って生き残ってくれ。
「飯炊き女がいつか来てくれるから、自分の健康ケアはしなくて良いんだ!」
と信じる人は、まあ、がんばって
嬉しくてたまらない。
私は匿名ダイアリーで人の悪口を書いたり読んだりするのが大好きな暗い暗い人間だ。
こういう性格になった原因の一端は、私が「体育」が苦手だったことに間違いなく起因している。
そもそも体育=いわゆる「体錬」なんていう、本来近代日本の強兵政策に基づく「国民を使い勝手の
いい兵隊にするため」の科目を戦後にきちんと潰しておかなかったGHQが悪い。
日本の多くの子供たち(おそらくはどこの国もそう大差あるまいが)が「体育の授業」と「体育会系の部活」で
植えつけられるのは、「集団の利益が第一義であり、〈和を乱す者〉〈足を引っ張る者〉は散々叩かれパージ
されねばならないし、保身のためにはそういう者になってはいけない」という同調圧力と自己責任論、
そして、「絶対的な上下関係のもと、〈下は上に逆らってはならない〉というシステム」だ。
すなわち、汚職・癒着・不正の隠蔽・内部告発への圧力・ブラック労働・やりがい搾取・パワハラ・セクハラ……
この社会の「生きづらさ」の原因となる諸問題の根には「体育」がある。
(「諸問題」と私が呼ぶのは私が一市民であるからで、為政者にとっては素晴らしい「美徳」なのだろう)
オリンピックなどというのは、「体育」的価値観に諸国民が疑問を抱かないようにするためのプロパガンダ装置だ。
アスリートへの礼賛と神聖視。彼らの人生を感動ポルノとして消費する報道。「オールジャパン」なんて
空虚な言葉で飾り立てた同調圧力の奨励。「コーチや監督、団体から言われたことを唯々諾々と受け入れ、
疑問を抱かない思考停止」は「ストイックなプロ意識」となり、「体を壊してでも試合に参加する無計画と
自傷行為」を「尊い自己犠牲」と呼ぶ『1984』ばりの欺瞞に満ちたレトリックが何をもたらしたか?
無数のアスリートの死体と、自浄作用に欠いたクソみたいな社会だ。
私は体育が嫌いだ。体育会系が嫌いだ。体育会系的価値観に染まった、自分の脳みそでものを考えられない
馬鹿が嫌いだ。私を見下し、自分が何か特別な「許された」人間のようにふるまってきたあいつらが嫌いだ。
そしてそれを許してきた社会が嫌いだ。
私は嬉しくて仕方ない。ツイッターを開けば。ヤフーコメントを開けば。オリンピックへの罵詈雑言が読み放題だ。
テレビではオリンピック内定選手が、もはや自分たちがパブリックエネミーとなったことにも気づかずに、
「自分たちが頑張る姿を見て感動と希望を与えられれば」なんて上から目線のどうしようもないコメントをしている。
燃えろ燃えろ。アスリートたちよ自身の特権意識と、偉い人がやる気なら逆らえない風通しの悪さを晒して炎上しろ。
「ピンチをチャンスに」なんてクソくだらない不謹慎な言葉を使うつもりはない。
だが、夢見てしまう。
「なんで、たかだか『体を動かすのが他人より上手い』ってだけの連中があんな偉そうな顔できてるんだ?」
「上の顔色と周りの視線を慮って誰も何も言えないような、体育会系的価値観が蔓延した社会って危険なんじゃないか?」
つまるところ性に対して不浄なものだと決めつけて蓋をする派閥がこの国のマジョリティを謳ってるのが一番の問題んじゃない?腫瘍とでも言えばいいのかな?
何かの型にはめられないと安心できない生き方しか教えて貰えなかった哀れな人達なんだよ、あと20年もすればくたばるだろうけどそれまで待ってるのもしんどいのが難点
腫瘍はもう取り除けないくらいに広がって、転移に転移を重ねた結果子孫にも影響が出てしまうのに、清廉潔白を美徳としたせいで犠牲者を出しても問題にあげられない
政治と宗教を混同した法治国家を否定するいくつかの政党、政治家は粛清される。
(少なくともフランスにおいてはカルト団体として認識されている)
も同様に粛清される。
今自民党がやろうとしている改憲は中途半端に日本を中国のようにしようという目論見であるが、
初戦は付け焼き刃であり、中国四千年の歴史ある中央集権、独裁によるスピードには敵わないのである。
スピード「感」というのは、それはやってる感を演出している、というニュアンスを含んでいる。
しかもそれは言葉に留まらず、武力的な挑発、核戦争さえも辞さない覚悟である。
なぜ核戦争も辞さないと断言できるのか、といえばベトナム戦争である。
ベトナム戦争は北側のゲリラ戦法が勝利のカギとなった、というのはウソである。
本当は中国、ソ連が、アメリカが敗北を認め、ベトナムから撤退しなければ、
北アメリカ大陸への核攻撃を辞さない、という姿勢を明確に示したからである。
いわばアメリカは中ソにビビってしまい、戦争を終結させる妥協点を見出そうとしたが、
それさえも迷走してしまい、いわば外交の失敗でアメリカは中国に敗北した。
その間にベトナム現地における戦争の方向性がまったく放置されたため、
いわゆる戦争映画の多くに見られるような混乱した状態が続いたわけである。
アソウイシハラは口が達者なだけだが、
中国、ロシア政府は自国の利益のためなら核戦争に臆することはない。
例えば中国で自転車レンタルサービスが起業されても大失敗してしまい、
廃棄されたレンタル自転車が山になっている写真が日本で笑いものにされるが、
こういった大量生産大量消費のスタイルは高度経済成長時代の日本に見られたものと同様であり、
そもそも中国経済は実質的には国がコントロール経済であって、破綻はありえないのである。
日本ではもう20年近く中国経済は破綻する、不動産市場が崩壊するという論が唱えられてきたが、
一向にその兆しはないように思われる。
例えば洗濯機が1年で故障したとしても、保証期間内にクレームを入れれば新品と交換である。
畳と女房だけでなく、あらゆる製品は修理ではなく交換が基本である。
もしくはそもそも製品自体が安価なのだから買い替えた方がコスパも良いのである。
こういったスタイルはそもそもApple製品なんかでは常識ではないだろうか。
iFixItを挙げるまでもなく、
分解や修理する権利というものを破壊するというイノベーションをAppleは発明した。
私はかなり昔、Intel iMacを使用していたが、修理しようと分解してみれば、
中には大量の両面テープが使われており、ネジやはめ込みを使うべき箇所でさえ接着剤を厭わない。
こういったAppleのようなナウでイマいヤングにバカウケの設計スタイルは中国では当たり前である。
分解、修理できない洗濯機だろうが、安価であれば買い換えればいいのである。
そして、大量に廃棄された製品は廃棄処理場で、
貧困層や少数民族、黒人が有毒物質まみれで分解してくれるのである。
これにより都市鉱脈とも表現される金などは再利用されるのである。
そもそもエコというのはコストがかかるものであり、それは奴隷によってしか実現できないのである。
誰かがババを引かなければ実現できないのが世の常である。
ただ、AVのストーリーが警察の不正を暴くとか、国の政治に批判的な内容を含んでるとか、そういうのはアウト。
ところで、自民党も政治批判をネットに書いたら削除する権限を欲しているんだけど、
これって中国政府とまったく同じだよね。
自民党を応援する人は、もっと強力な中国政府を応援するべきだよね。
親学とか、お父さんお母さんを大切にしよう、みたいな教育は賞賛さえされるよ!
天皇はアウトだけど。
平等だね。
中国にはシリコンバレーが失った一攫千金の夢がまだあるんだよね。
そして、思い付きから高品質のプロトタイプ、投資家からの資金獲得、
書くのが面倒なので色々あって、量産、出荷までの過程がすべて一つの都市に集約されてる。
こんな技術者、製造業にとって夢のようなディズニーランドは世界のどこにもない。
なんか書くのが面倒になってきたぞ!
貧困層を犠牲にしてでも、少数民族を犠牲にしてでもロケットを飛ばすぞ!
フォン・ブラウンやロックスミスが大好きなら中国政府を支持するよね。
ぼくは少なくとも科学技術を最重要視する姿勢は中国を支持する。
自民党の政治家や党員でさえ疑似科学にどっぷりハマってる人が多い昨今だからね。
なんか核の疲れてきた。
この後に中国政府を指示しない方がいい10の理由を書くというネタだったはずなのだけど、
なんか最近疲れやすいし、ほんとに自分も遂にコロナに感染したのかもしれない。
コロナ太りしすぎたし、歯槽膿漏の出血は酷いし、身体中に蕁麻疹ができることがあったり、
皮膚症状もコロナではあるらしいし、しもやけに似た症状とか全部血管に関する異常なんだよね。
失職したのでお金が尽きたら役所に行くなどして無償でフードを提供してもらえると助かるのだけど、
まあ、日本は福祉があるようでなかったりする国だから仕方がないよね。
障害者の雇用とか待遇とか、酷いからもうイヤになってたところではある。
最長6年以内に台湾やフィリピンと中国が戦争するというのがアメリカ側の主張だし、
自分もそんな感じで見積もっていたので、意見が合致して寧ろちょっと自分で戸惑っていたのだけど、
まあ、俺より遥かに頭が良くて高給なアメリカ人でも、俺と同じぐらいの時間感覚だったんだ、
と思ったりもして、昨今の日本の政治のアホさ加減にウンザリしてたので、
コロナで早死には上等な気もするんだよな。
死ねば社会的責任とか長男長女の責任とか、この国の抑圧的な価値観からも解放されるわけで、
それはそれで願ったり叶ったりなんだよな。