「誕生日、何がいい?」
母親に聞かれて、わたしは喉から出かかった言葉をつぐんだ。別に欲しいものがないわけじゃない。むしろ、ネットショッピングは好きなの方なので、「これいいな」と思うものは結構ある。
けれど、この時ばかりは、何も答えられなかった。
頭が真っ白になって、欲しいものが思い浮かばなくなって、23歳になる、もう結構な大人なのに、思春期みたいに「どうせ言っても意味ない」とばかり考えてしまって、悲しくなる。
どうしようもなく、涙が出てくる。
たった一言なのに、なぜこんなにも涙が出るのだろう。
そう考えて、ぶわりと、過去の思い出が連想されて、蒸し返してしまったからだと気付いた。
わたしは絵をかくのが好きな子供だったので、ペンタブレットに結構なあこがれがあったのだけど、それを母に見せて誕生日にねだったら「何それ笑」と一蹴された。
鼻で笑われてしまって、当時、かなりショックだったことを覚えている。
結局、誕生日プレゼントは古着の服だったけ。それはそれで普通にありがたく着てました。
思えば、それ以前にも、母親はわたしを軽んじている節があったので、よく馬鹿にしていた(いや、まぁ普通に馬鹿な子供だったから普通に馬鹿にしてただけかもしれない)。
だから、中学生の頃は、結構勇気を出してほしいものを口に出した。まぁ、相変わらず鼻で笑われてしまったけれど笑笑。
高校生のときは、ナチュラルに誕生日を忘れられてたっけ。あのときも普通にショックだった笑。
まあそんな母親だけど、ケーキは買ってきてくれていた、ような気がする。
気がする、というのはわたしの記憶にあまり残ってないから。毎年祝われていた感覚がうすい。
なんでうすいんだろう。と考えて、思った。
ずっと母親に嫌われていると思っていたから(実際に嫌われていたのかもしれない)、ありがたみとか、感謝とか、感じてなかった訳じゃないけど、怯えと遠慮が勝って印象にあまり残っていないのだ。
愛されていた感覚がうすい。家事を手伝ったって、「お前にされても嬉しくない」とバッサリ言われるのだから、わたしは常に母親の顔色を窺って生きていた。
だから、子供の頃から、あまりうれしくないプレゼントをもらっても、もらえなくても「祝ってくれるだけでうれしいよ」と模範解答が言えた(実際にその答えは一般的に美徳でもある)。
けれど、大人になって、いい子ちゃんを演じる必要がなくなったときに、抑圧されてきたわたしの中の子供が泣いているのだ。
今更わがままを言ったって大人なんだからしょうがないけれど、わたしの中には確かに、未だ愛されたい子供がいる。
10年余りの時を経て、当時にくらべて随分性格が丸くなった母親に「誕生日、何がいい?」と聞かれ、「ねこちゃん」、とか「イグアナ」とか、まぁ欲しいけど本命じゃないプレゼントを適当に言う。
けれど本心では「どうせ本当のことを言ったって応えてくれない」という思いがある。
子供の頃から親を信じて、期待してきたのに、男を家に連れこんであんなことあこんなことを見せつけられて、裏切られ続けてきた結果、信頼できなくなってしまった。
愚痴のサンドバックにはもうならないように回避できるし、適当に話を合わせられるけど、心から信頼することはもう、できないんだな。
それがとても、かなしい。
たとえプレゼントをもらったって、祝ってもらったって、本心から喜べない自分がいやだ。
もう卒業しなきゃいけないのに、自分の中に子供がいる。どうすればいいんだろう。
つらいな。死にたいな。
「あんたにプレゼントをもらっても嬉しくない」といえたら、どんなにスッキリするだろう。
けれどスッキリするのはわたしだけで、母親はきっと泣いちゃうから。大人として、その言動はどうなのって思うし。
もらえるだけでありがたい、本心でそう思えるような人間だったなら、どんなに良かっただろう。
誕生日に死のう死のうって思っても死ねないアホだもんね、仕方ないね。
こんな、世間一般で見ればくだらないことでもやもや悩むのはもうやめにしよう、と考えて、未だに辞められない日々を過ごしながら、自分と向き合って少しづつ改善できたらいいな。
こうして文章にして吐き出したら、整理できたし、すこしスッキリできたので、今日は泣かずに寝れそう。
おやすみなさい。
いいこ いいこ