はてなキーワード: 初版とは
http://www.amazon.co.jp/dp/B013R6FGU2/ref=cm_sw_r_tw_dp_Eoz5vb0EER3WZ
なにも入っていない本です。
1月前にAmazonで「無」を販売している記事がそこかしこのまとめサイトで取り上げられていたので便乗。
ただあの商品は包装に凝っていてぼちぼち値段もするので、本当の意味で「無」ではない気が。
逆にデータなら完全な形で「無」=nullを提供できるのではないかと思いだしてみました。
KDPの審査に通るかびくびくだったのですが、「無」ゆえにフォーマットのチェックなどもかいくぐりなんとかセーフでした。
ただ実際は完全にnullにすると、ダウンロード後に本が開けないという事象が発生し、
ある種本当に無を誘発することになってしまったので一部工夫がしてあります。
今さらはさておき、正直個人が電子書籍を出せるようになったからといって、
市販の本に勝るクオリティの内容を個人が出せるとは到底思えません。
それ以外のkdpランキングに出てくるのはビジネス書まがいの情報商材が中心。
素人のオリジナル小説は吐き捨てるほどありますがほとんどがほんとに遺棄され、
そんな中ででた架空の歴史ノートシリーズは私の中で結構なインパクトでした。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00CP7Y9IK/ref=cm_sw_r_tw_dp_jDz5vb1MN8WQF
こういった書籍こそが、個人出版の電子書籍のもちうる力を前面に出した作品だと思います。
そのスピード感、コスト感、オリジナリティで従来の商業ベースでは到底出会うことのない作品です。
kdpが始まって数年経ちます。
以来こういう電子初期だからこその面白い本がどんどん増えて欲しいと思っていたんですが、
なかなか増えない気がします。
どうしても「本」というコンテンツに縛られている本が多いと思います。
というわけで、
私の出している「無」は単なる便乗商品ですが、
これを見た人がもっと独創性のあるふざけた本を出してくれれば幸いです。
http://www.amazon.co.jp/dp/B013R6FGU2/ref=cm_sw_r_tw_dp_Eoz5vb0EER3WZ
なにも入っていない本です。
1月前にAmazonで「無」を販売している記事がそこかしこのまとめサイトで取り上げられていたので便乗。
ただあの商品は包装に凝っていてぼちぼち値段もするので、本当の意味で「無」ではない気が。
逆にデータなら完全な形で「無」=nullを提供できるのではないかと思いだしてみました。
KDPの審査に通るかびくびくだったのですが、「無」ゆえにフォーマットのチェックなどもかいくぐりなんとかセーフでした。
ただ実際は完全にnullにすると、ダウンロード後に本が開けないという事象が発生し、
ある種本当に無を誘発することになってしまったので一部工夫がしてあります。
今さらはさておき、正直個人が電子書籍を出せるようになったからといって、
市販の本に勝るクオリティの内容を個人が出せるとは到底思えません。
それ以外のkdpランキングに出てくるのはビジネス書まがいの情報商材が中心。
素人のオリジナル小説は吐き捨てるほどありますがほとんどがほんとに遺棄され、
そんな中ででた架空の歴史ノートシリーズは私の中で結構なインパクトでした。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00CP7Y9IK/ref=cm_sw_r_tw_dp_jDz5vb1MN8WQF
こういった書籍こそが、個人出版の電子書籍のもちうる力を前面に出した作品だと思います。
そのスピード感、コスト感、オリジナリティで従来の商業ベースでは到底出会うことのない作品です。
kdpが始まって数年経ちます。
以来こういう電子初期だからこその面白い本がどんどん増えて欲しいと思っていたんですが、
なかなか増えない気がします。
どうしても「本」というコンテンツに縛られている本が多いと思います。
というわけで、
私の出している「無」は単なる便乗商品ですが、
これを見た人がもっと独創性のあるふざけた本を出してくれれば幸いです。
手塚治虫著「マンガの描き方―似顔絵から長編まで」って本にだな、こんなことが書いてある。
手塚先生のアシスタントが、ある日こんなことを言ったんだそうだ。
「あーあ、俺たちは生まれてきた時代が悪かった。手塚先生とか石ノ森先生とか藤子先生とかがあらゆることを描きつくした後だから、俺たちにできることはナ~ンも残っちゃいない」
あの神様はよく切れる人だってのはおいといて、このエピソードのキモは、「マンガの描き方」の初版がカッパブックスの一冊として出版されたのは1977年ってこった。
http://nendai-ryuukou.com/1980/comic.html
だが新刊書籍はまず買わない。
人文科学系のマニアックな専門書も、初版が4桁に届かないような本も所蔵されているので困らない。
人気図書(東野圭吾、宮部みゆき、村上春樹、三浦しをん等)は長いこと予約待ちを強いられるが、借りられないわけではない。
図書館にない本、時々手にとって参照するような本はAmazonのマーケットプレイスで中古を買う。
新品、Kindle版より安い。
状態も良く、帯まで付いていることが珍しくない。"新品"だった不良在庫を買い叩いたものだろう。
読み終わってBOOKOFFへ売る時も、綺麗だから悪くない値段(100~200円)で買い取ってもらえる。10~20円で召し上げられることは少ない。
ただ、雑誌のような「広く浅い情報」を扱う媒体は存在意義そのものが危うい。
インターネット普及期、真っ先に廃刊したのはコンピューター関連の雑誌であった。ITリテラシーの高い者がまず最初に雑誌を買わなくなった。
もうこうなると新刊書籍はダイエット本と宗教の本しか売れないのではないか。
それと、いち早く話題にキャッチアップしたい人が買うような本(足の早いタレント本とか)
あるいは荒俣宏先生のようなビブリオマニア、美装本や書棚に並ぶ背表紙を見て満足するような御仁なら"新品"にこだわるかも分からない。でもそんな人ほとんどいないよね。
しかしどういうわけかAmazonにも書店にも新刊書籍はある。いったい誰が買うのだろうか。
「1200円損したわ!」ってブチ切れる心配がないから、冒険できるのね。
YES!
ピース又吉「呼んだ? ちげぇ、読んだ?」
あと、図書館で本読むのは無理。
暇なオッサンとホームレスの溜まり場になってる。今頃だと夏休み中のガキがうるさい。
・図書館を占拠するホームレスにブチ切れている話 http://anond.hatelabo.jp/20150727174606
立花隆や宮崎哲弥みたいに、何件もマンション買って書庫代わりにすると便利(無理)
新刊買い逃がすと、古本屋やマケプレで高騰した既刊買うハメになるんだよな。
海外の出版社から取り寄せたり、大学図書館で大量の論文コピーしたり。
イノベーター(横文字)
ネズミの国のおかげで、浦安市立図書館は蔵書が充実しているらしい。
大学図書館は最強だよな。
賢明。
それな。
「この本ダメだな……」と思ったら、すぐ読むのをやめる。
分かる。
BOOKOFFはせどらーにかっさらわれていて、品揃えがショボイ。
もっぱら売りに行く場所だね、あそこは。
ダウト。
日本の図書館 蔵書数ランキング TOP100(2012年) http://10rank.blog.fc2.com/blog-entry-231.html
※訂正とお詫び
図書『館』密度のことか。すまん。
分かる。
でも税金納めてるし、カネがない人はある程度文化的献金を免除されても良いと思うんだ。ほら、貧困層に無料でオペラ開放してたのと同じだよ。
ネットで10、20冊予約してカウンターでまとめて借りる。書店で買うより楽だし速い。
……え? そんな人いるの?
待っている間に他の本読んだり、別のタスクをこなせば良いかと。
どうしても早く読みたいなら買えば良いと思う。
完全に盲点だったわ。
Kindle PaperwhiteのUXには絶望した。
・絶望した! Kindle Paperwhiteの出来の悪さに絶望した! http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140722235006
他方、液晶タイプ(FireとiOS,Android,Windows,MacのKindleアプリ)は目が疲れる。
品揃え圧倒的だし、本の評判チェックできるし、検索かければ一発で本見つかるし、まとめて借りられる(買える)し。
所有欲理解できない。
本そのものはただの紙とインクの染みじゃないか。
潰れた本屋の在庫、書店から返本された在庫の一部はいきなり"中古本"になりますね……
2週間で読めないの?
期限決まってるとノルマ課せられたような気分になって、否が応でも読まない?
禿同。
本屋一軒に対して1冊ない計算になる。ネット経由の販売加味するとさらに減る。
しかも1万部のうち大半は図書館に納品されてるから、本屋の取り扱いはもっと少ない。
ちなみに文芸誌の主な読者層は『小説家になりたいなぁと思っている専業主婦』
文芸誌以外の書籍? 想像するだに恐ろしいわ。数万部でも『よく売れた』とか言われる業界だからな……
私も一部の本は読み返す。
でもせいぜい三ヶ月、半年程度のスパンで読むだけだから、その都度借りれば良い。
週一とかで読むの? 暇なの?
一度読めば内容理解できるでしょ……
それともスルメ本のこと言ってるの?
本を出せば即印税がっぽがぽで左うちわみたいな印象を持ってる人って少なくないんだろうか。
契約条件にもよるが、一般的な印税率は10%。例の本は初版10万部だっけ?(豪気ですな) 単純計算だと価格1,500円×0.1×10万で1500万円。
でもたぶんこの額は手に入らない。10万も刷ったら余る。返品されまくると思うし、ブックオフにも大量に出回るだろう(類似例: KAGEROU)。
初版部数がでかいから、保証部数は3割として3万部、450万円。これが発売後に払われて、あとは年に一、二度実売部数に応じて振り込み。
ロングセラーになって何度も増刷がかかれば定期収入にもなるだろうけど、まあそういうタイプの本じゃないでしょう。
例の出版そのものの善し悪しは横に置いといて、いまどき本がドーンと売れること自体がレアだし、まして印税で一生安泰なんて無いに等しい話よ。
前に読んだことのあるノンフィクション作家。
以下、本人のtwitterプロフィールからひとつずつ突っ込んでいく。
作家。
死にかけ体験8回。
→前は3回くらいだったから数年で5回も死にかけたのか。
趣味兼仕事は旅と冒険。弓道、ジョグ、ジェットスキー、スノボ。
→前から旅好きな人だったようなきもするが、スノボしてたのは初耳。
懸垂毎日100回等。
→見るからにひ弱そうなんですがね…。
カジノと株はほぼ常勝。
→「ほぼ常勝」って日本語生まれてはじめてみた。たまに負けるってこと?
世界紀行120カ国余。
→紀行って旅行中の体験・見聞・感想などを書きつづった文章じゃないの?出版されてるんだろうか。
単著は約100点余。
→アマゾンで調べても100も出てこない。国会図書館でも100も出てこない。
→電子書籍は題名変えたり、章ごとにわけるなどして冊数稼ぎ。そしてどれも売れてない模様。
不定期有料マガジン1万7500部。
→Twitterのフォロワー数が17,200人くらい。メルマガ購読者数のほうが多いという謎。
著書累計725万部。
→調べようはないけど多分嘘。
→調べても全く出てこない。
という感じ。なんだか残念な人になっていた。
この他にも、ネット界隈を見てみると、
【日本の議論】悪い図書館「究極の寄贈図書館は東京拘置所」…市民にとって“気持ちいい図書館”が本当に良いのか(1/4ページ) - 産経ニュース
最初は、
という主張はどうかな、と思ったが、あながち間違いでもなさそうだ。
b:id:wackunnpapa ところで佐藤義亮は新潮社を立ち上げた後,角館町の公共図書館に自社の出版物をせっせと寄贈していたはずですが,自社の歴史に泥を塗るつもりかい,石井さんとやらは。
b:id:tamasuji 世の中には買いたい本と借りて済ませばいい本があり、買いたいと思える本は少ない。
スーパーの試食コーナーでタダで食べられるから、売り物もタダだろみたいな理論に賛同が集まる。かと思えば、買いたいと思うほどじゃないから違法ダウンロードしてもいいだろ、みたいな意見もある。なるほど、程度が低い。
としか(少なくとも記事中では)要望していない。それが図書館にとって受け入れ難いものだろうか。あるいは文化的な何かが衰退することに繋がるだろうか。
出版社とは元来(当然ではあるが)利益を追求する。そう言った意味で、図書館や古本屋を目の敵にしてもある程度は理解できる(しかし賛同はしない)。コメントでも
b:id:bogus-simotukare 新潮社のアホは本が売れないのを図書館のせいにすんじゃねえっての。そのうち「ブックオフの営業を規制して欲しい」と言いそうな勢いだな。
b:id:kako817v002 「子供たちを読書に誘う為の手段」とは考えないんですか、そうですか。
b:id:meshupecialshi1 自分達だけが儲かろうとするあまり、頭の悪い偏見を肩書きで権威付けて押し通そうとする(よくある)例。しかしこういうのが本当に大手を振ってまかりとおるようになってきましたね。
と、先入観というか決め付けを書き込んでいる人がいたが、今回の主張はそこまで過激ではない。図書館の目的に照らしても、速報性のない資料をすぐに貸し出せるようにする必要はないし、スタートダッシュを決めたいという戦略ならば、理解可能な折衷案である。図書館あるいは一利用者側としても、一過性のものに費用を充てるより、落ち着いて良書を買ってもらった方がよい。そういう意味で、出版社側の思惑とは関係なく、この提案が実現することを望んでいる。
無論、大抵の人たちが噛みついたのは「図書館のせいで我々の売り上げが落ちた」とする出版社側のイイワケだ。
b:id:saki_n 図書館のせいで「本はタダで読むもの」の認識が広がったと言いつつ、8割の人は来てないとか言ってみたり。結局図書館のせいではないと分かってるじゃないか。
b:id:The-Globe 返本率が4割近い、って需要予測がガバガバ過ぎるわ、ドイツの10%とは言わんから20%まで下げろ。日本の本需要は高い方だし物流は早いし図書館が極端に多いわけでもない、外部に問題を探す前に企業努力をしろ。
b:id:mugi-yama 複本の件はよくわからないんだけど「初版部数の9割が売れれば採算が取れるような価格設定」これがそもそもオカシイような気が…
結局、自分の不振の理由を分かりやすそうな所に求めているあたりは他と大差がない。外野から見れば、お前らが目を逸らしている問題を解決する方が先だろ、と思ったりするわけだ。しかしだからと言ってそういう輩に攻撃的になるのもナンセンスだ。その内絶滅するので「仇敵である図書館を打倒だ」とか叫ばない限り「おじいさん、ご飯は昨日食べたでしょ」といなすのが吉である。
老害はさておき、図書館とはどうあるべきか、というのは重要な問題である。
b:id:ssids かと言って「先生が読ませたい本」ばっかり揃って閑古鳥が泣くタイプの学校図書館みたいなことになっても無駄なわけで。
b:id:nowa_s 時間はあっても金はない人(子供や老人、主婦)が主な利用者だよね。被告人も確かにそうだ。図書館がなく新刊も買えないなら、本が読めなくなるだけ/古い本(古典や絶版本)も新しい本(流行本)もあるのが図書館のいいとこ
b:id:teebeetee 利用の指標として貸出冊数を使うのはしょうがないとして、複本は所蔵数で割るようには出来ないのかな。/ところで「図書館も人気ある本の需要に答えて当たり前」みたいなのって意見としては読んだことないんだよな。
b:id:yuki_chika 佐藤優氏が図書館の味方のような書かれ方だが、以前から図書館が商業出版を圧迫してると批判していた/書物が「商品」なのか地域・個人にとっての受け継がれるべきナレッジベースなのかは明確な解がない難しい問題
開発者のかっこ悪さやルールの範囲内(今回は修正不可ルールがいまいちだったっぽいけど、それを決めたのは対戦相手じゃない)で戦ったプロ棋士への敬意のなさはおいておいて。
IBMスルガ銀行訴訟やマイクロソフトの月次パッチに対する反応の時も少し思ったけど、はてな・Twitter界隈の流れを見る感じプログラム・システムの完璧さへの信仰、それをエンジニアに当然の如く要求する思いが渦巻いているようで純粋に怖い。
将棋なんか局面が10の220乗あり得る(らしい)ので、将棋を適切に行う機能に対するカバレッジ100%の検証を実施せよと言われたらそれをするしかないわけだが当たり前だが出来るわけがない。
工数やシステム投資は絞られるのに責任だけが増大している気がどうしてもする。初版から潜在不良なしのパーフェクトを求められる環境だとすると我々はどうすれば/どのような心持でいればいいんだ?組み込みなんかそれに近いわけだし教えてほしい。
もちろんだけど、版画で見て欲しい。
でも、いきなり画廊にいって手で持って鑑賞するってのもハードルが高いかと思うので(実際はけっこうこころよく手に持って鑑賞させてくれるよ)、伝わる部分、伝わらない部分をすこし説明しようと思う。
例によって、少し長くなるけれど、お付き合い願いたい。
かなり落ち着いてきたし、ずいぶんと絵の勉強もしたので、前よりもわかりやすく説明できると思う。
まず、色について。
画集はおそらく現存するもので一番古いもののうち、一番いい色のものを採用していると思う。
復刻版の浮世絵の色は、初版、あるいは最も有名な版の摺りたてを目指して作るというものと、摺ったものの経年変化まで考えて作るというものの2通りのものがある。
摺りたてを想像して作られてる。
そういう復刻版は明治大正の頃に作られていたんだけど、当時なら50年100年くらい経った浮世絵の再現ってことで、意味もあったんだろうけどね。
いまそれやったら、ほとんど灰色になってしまってよくわからない古ぼけた絵を作るってことだからね。
色については、復刻版のほうが圧倒的に綺麗。
ただ、いくつかの色については、江戸時代の絵の具そのものは使えないらしい。
たぶん、鉛とか水銀とかのように、水道法や毒劇物取締法にかかったりするものや、天然素材が資源保護の都合上手に入らなかったりとかだと思うんだが、詳しくは知らない。
それを差っ引いても、色については復刻版から見るべきだと思う。
画集ではとても再現できない。
まず空摺り、布目摺りという紙へのエンボス加工。
空摺りというのは、色をのせずに摺ることで紙につけるエンボス加工
たとえばこれ、巻物の縁の部分と、着物の衿の部分に注目。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/utamaro063/utamaro063_thumb4.jpg
布目摺りというのは、布を押し当てて紙に布のような質感を再現すること。
たとえばこれ、たなびく布が、本当に布のようなエンボスになってたりする。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige175/hiroshige175_thumb5.jpg
これについては生で見ないととてもわからない。
スマホ画面で鑑賞するのに適した作品として、まず歌川広重の名所江戸百景の亀戸梅屋敷を挙げる。
寝る前によく眺めてる。
ゴッホが模写したとかで有名なやつらしい。
なれないうちは有名どころからいくといいよ。たぶん。
さて、画像検索すると、ピンク色に染まった空の一番上の部分が、ピンクから赤へのグラデーションのバージョンと、ピンクから青へのグラデーションの二種類がある。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige160/hiroshige160_main.jpg
http://www.gogh-ukiyoe-museum.jp/images/kameido.JPG
どっちが本物でどっちが偽物っていうわけじゃない。浮世絵って色の違う別バージョンが無数にある。
さて、それはさておき、俺はこの絵をみるときに、画面いっぱいに広がる梅の木の幹ではなくて、幹のあいだから見える、その向こうにいる人だかりを見てしまう。
というのは、画面いっぱいに広がる梅の幹の木肌が滑らかすぎるんだ。
木の幹は視界に入っているのに入ってない。
フェンス越しでも野球がみれるように、手前の木のピンぼけは、木の影から覗いてるという風に解釈してしまう。
ピンク色の空が幻想的で、幹と幹の間から見える遠くの人々の会話が聞こえてきそう。
遠くで友達が花見をしてる、それに混じりたいのに出て行く勇気がなくて遠くから覗くしかない俺、っていう架空設定をついつい脳内に作ってしまったりする。
さて、これだけでも手品みたいな画面効果だっていうのに、広重ときたらもう一つ仕掛けをつくってる。
次に、白梅の花に目を移してみる。
そうすると、白梅がとびだしてきやがるんだ。
さっきの野球の例えだと、フェンス越しに野球をみてて、ふとフェンスに焦点をあわせるとフェンスがブワァって飛び出してくるような感じ。
そんなこんなでまたいずれ。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47
5つ星のもののリストとしていますが、正確には5つ星で、レビュー数が3以上のもののリストです。
レビュー数が1件、2件で5つ星のものがあるのは除外しています。
初版、改訂版、文庫本など複数の版がある場合はなるべくレビュー数の多い物だったか、
なるべく初版に近い方だったかを基準にしたような気がしますが、
ややうろ覚えで自信はありません。
漫画、ライトノベルなどの続き物で巻数の指定のない場合は第1巻で判断しています。
同じ本を挙げている方が複数いる場合は、先にコメントされた方のコメントにリンクするようにしようと思ったのですが、
途中グチャグチャになったので多分間違っているところがあります。
1065冊確認した中で4.5以上の評価のものは429冊。ちょっとフィルタリング結果が多くなり過ぎと判断して、5つ星以上に限定しています。
評価は星の画像で判断しているので0.5星ステップ。0.1星ステップの評価がテキストで書かれているのには今日気が付きました。
星4.5と、星5の面白さに差があるとも思えないので、
星でフィルタリングせずに、単にジャンル分けだけするというのもひとつの手だったかもしれません。
1000冊以上の本の評価を確認するというのは大変ではありましたが(手動でやってます)、
普段触れる機会のないジャンルの本に触れられて楽しい経験でもありました。
http://anond.hatelabo.jp/20141106161928
http://www.google.com/safebrowsing/diagnostic?site=st-hatena.com
st-hatena.com の現在の状況 現在のところ、このサイトは疑わしくないと認識されています。 Google がこのサイトを巡回したときの状況 このサイトで過去 90 日間に Google がテストした 2542 ページのうち 122 ページで、ユーザーの同意なしに不正なソフトウェアがダウンロードされ、インストールされていたことが判明しました。Google が最後にこのサイトを巡回したのは 2014-11-06 で、このサイトで不審なコンテンツが最後に検出されたのは 2014-11-06 です。 不正なソフトウェアには 110 scripting exploit(s), 19 exploit(s), 6 trojan(s) などがあります。感染先のコンピュータで平均 3 個のプロセスが新たに発生しています。 不正なソフトウェアは 40 個のドメイン(fn84.fr/, wkdjfgka.ddns.me.uk/, javaterm.com/ など)でホストされています。 15 個のドメイン(muramoto.net/, meomore.com/, fn84.fr/ など)がこのサイトの訪問ユーザーに不正なソフトウェアを配布する媒体となっていたようです。 このサイトは 29 個のネットワーク(AS9370 (SAKURA-B), AS701 (UUNET), AS209 (QWEST) など)でホストされていたことが判明しました。 不正なソフトの感染を広げる媒介をしていたかどうか st-hatena.com は、過去 90 日間に 59 個のサイト(vip2ch.com/, blog.goo.ne.jp/nakazato-hitoshi/, netouyomilitary.com/ など)への感染媒体となっていた形跡があります。 サイトで不正なソフトウェアをホストしていたかどうか いいえ、このサイトでは過去 90 日間に不正なソフトウェアのホスティングは検出されていません。
これは、a.st-hatena.com のカウントと一致する。
http://www.google.com/safebrowsing/diagnostic?site=a.st-hatena.com
a.st-hatena.com の現在の状況 現在のところ、このサイトは疑わしくないと認識されています。 Google がこのサイトを巡回したときの状況 このサイトで過去 90 日間に Google がテストした 247 ページのうち 122 ページで、ユーザーの同意なしに不正なソフトウェアがダウンロードされ、インストールされていたことが判明しました。Google が最後にこのサイトを巡回したのは 2014-11-06 で、このサイトで不審なコンテンツが最後に検出されたのは 2014-11-06 です。 不正なソフトウェアには 110 scripting exploit(s), 19 exploit(s), 6 trojan(s) などがあります。感染先のコンピュータで平均 3 個のプロセスが新たに発生しています。 不正なソフトウェアは 40 個のドメイン(fn84.fr/, wkdjfgka.ddns.me.uk/, javaterm.com/ など)でホストされています。 15 個のドメイン(muramoto.net/, meomore.com/, fn84.fr/ など)がこのサイトの訪問ユーザーに不正なソフトウェアを配布する媒体となっていたようです。 このサイトは 1 個のネットワーク(AS9370 (SAKURA-B) など)でホストされていたことが判明しました。 不正なソフトの感染を広げる媒介をしていたかどうか 過去 90 日間に a.st-hatena.com が他サイトへの感染媒体となっていた形跡はありません。 サイトで不正なソフトウェアをホストしていたかどうか いいえ、このサイトでは過去 90 日間に不正なソフトウェアのホスティングは検出されていません。
a.st-hatena.com はリダイレクト用のドメイン。
例えば http://a.st-hatena.com/go?http://anond.hatelabo.jp/ にアクセスすると http://anond.hatelabo.jp/ に飛ぶ。
はてなアンテナでリンクするときにクッションページの役割を担ってる。
なにかおかしいな、と思って goo.gl ドメインの結果も見てみたら似たような感じだった(後述)。
おそらくリダイレクト先が危険サイトだった場合、リダイレクト元のドメイン(goo.glとかbit.ly、t.coなど)もカウントされるような仕組みになっているんじゃないだろうか?
a.st-hatena.com + b.st-hatena.com + d.st-hatena.com + f.st-hatena.com + ... とすべて足し合わせたものが st-hatena.com の結果になるようだ。
はてなアンテナのリンク先(はてなと関係ないサイト)に危険なサイトがいくつかある、というだけ。
st-hatena.com は現状でウィルスを配信してはいないし被害を被ることもない。
・・・と断定していいだろう。
http://www.google.com/safebrowsing/diagnostic?site=goo.gl
goo.gl の現在の状況 現在のところ、このサイトは疑わしくないと認識されています。 過去 90 日間に、このサイトの一部で不審な動きが 1 回検出されています。 Google がこのサイトを巡回したときの状況 このサイトで過去 90 日間に Google がテストした 5488513 ページのうち 2753 ページで、ユーザーの同意なしに不正なソフトウェアがダウンロードされ、インストールされていたことが判明しました。Google が最後にこのサイトを巡回したのは 2014-11-06 で、このサイトで不審なコンテンツが最後に検出されたのは 2014-11-06 です。 不正なソフトウェアには 1174 exploit(s), 708 trojan(s), 200 scripting exploit(s) などがあります。感染先のコンピュータで平均 2 個のプロセスが新たに発生しています。 不正なソフトウェアは 594 個のドメイン(shop-corp24.com/, mt.co.kr/, jvvupdate.com/ など)でホストされています。 157 個のドメイン(feedburner.com/, finanstek.net/, padsdel.com/ など)がこのサイトの訪問ユーザーに不正なソフトウェアを配布する媒体となっていたようです。 このサイトは 1 個のネットワーク(AS15169 (GOOGLE) など)でホストされていたことが判明しました。 不正なソフトの感染を広げる媒介をしていたかどうか goo.gl は、過去 90 日間に 990 個のサイト(nudevista.tv/, vporn.com/, acervoamador.com/ など)への感染媒体となっていた形跡があります。 サイトで不正なソフトウェアをホストしていたかどうか いいえ、このサイトでは過去 90 日間に不正なソフトウェアのホスティングは検出されていません。
このサイトで過去 90 日間に Google がテストした 5488513 ページのうち 2753 ページで、ユーザーの同意なしに不正なソフトウェアがダウンロードされ、インストールされていたことが判明しました。Google が最後にこのサイトを巡回したのは 2014-11-06 で、このサイトで不審なコンテンツが最後に検出されたのは 2014-11-06 です。
もしも「st-hatena.com がウィルスをばら撒いている」と考えた場合、Googleもまた現在進行形でウィルスをばら撒いているということになる。
どちらも似たような結果になっている。
http://www.google.com/safebrowsing/diagnostic?site=bit.ly
http://www.google.com/safebrowsing/diagnostic?site=t.co
35になった今、ホント割にあわねーなって思う。
好きで選んだ道だけど
こんなに割に合わないとは思わなかったよ。
短期打ち切りだと3巻で9万。
1/10000とも言われる連載権勝ち取って。
それで360万。
景気の良かった20年前なら
1200万持って帰れた。
最悪でもそれならまぁ、頑張る価値はあったと思う。
でも今や360万。
馬鹿じゃねーの。
それ全部アシ代に消えるからね。
過去と違って
手塚の頃と一緒にすんなよ。
ヘタクソでもそれなりに金かかる。
大量に残るわけだ。
でも原稿料は変わらない。
全然ペイできないっつーの。
悪魔か。
一冊辺りの発行部数は減り、ヒット率も減り(単純計算で一番景気良かった1995年より3倍も売れづらくなってる)
本当にありがとうございます。
で
でもこれでもジャンプは一番マシな方。
やっすい原稿料で
1年かけて3巻出して印税70万円。
何のために書いてんのかって
「後に引けない」だけ。
マンガ書いてる奴なんて
年を食えば食うほどその乖離幅は膨らんでいって
マンガ以外に何もできなくなる。
他に出来る事は何もない。
でもホントさ
絶対恨み買ってると思うよ。
わたしがボードゲームを好む人を嫌う人を嫌いな理由
ボードゲーム自体は好き。完全情報、不完全情報問わずに、人と頭脳で対戦することは非常に楽しいと感じる人でもだ。
またその説明書がものによってはかなりいい加減だったりもする。
そしてデジタルゲームと違ってそれらがきちんと頭に入ってないとゲーム進行が止まったりする。
説明書のコピーだけ与えられて突き放されるのと、経験者がどのようなゲームか説明するのと、どちらのほうが安心感があるだろうか?
大多数が勝ち負けにこだわらない人だろう。
その人たちはゲームの雰囲気や駆け引きを重視している人だろう。
ゲーム内の事故に対して何か言い合うというのも決してつまらなくはない。
一人だけ逃げ遅れて「あいつ、無茶しやがって。」と言ったりとかね。
また、ボードゲームはそのほとんどが運ゲーの要素が高めである。
そして、これまた大多数が運の制御や把握(いかさまと言う意味ではなく確率の戦略的変動や確率を分析した上での状況判断)ができない。
ゆえに運ゲーだから必死になって勝ちを目指すのは・・・という思考に走りがちなのだろう。
私はガチよりなので一応勝ち負けにはこだわる。
ただ、極端なプレイング(特に3人以上の対戦において戦略の研究目的でもなく最初から勝ちを放棄し妨害のみに徹する)は許容できない。
PCゲームならAmazonやらSteamなどで何回かクリックすればほぼ確実に買える。
ボードゲームを遊ぶ人口は本を手に取る人口より少ないが、数万と言う数は決して多くはない。
賞は取れなかったが隠れた名作なようだから買ってみよう・・・と思っても、もうすでにお店に並んでいないことなどざらな世界なのだ。
そのような買う人を批判するのは遠まわしで無意味で無知な業界批判だろう。
おそらくそれは『駄作が比較的多い日本のボードゲーム同人界隈が嫌い』というべきなのに『自分で作るようになる人が嫌い』と勘違いしているのではなかろうか?
残念ながら日本製は商業・同人・オリジナル・コピー問わず、駄作が多いと思う。
(正しくは海外製の翻訳版は、翻訳担当が利益出ると踏んだというお墨付き&先述の買いまくる人が人柱になってくれたりもするため安心)
ノウハウが足りない、テストプレイが煮詰まっていなかった、製作者の誰かが○○○というカードを愛しすぎてしまった、とかいろいろ原因があると思われる。
(というか同人はゴロサークルまである、というか私自身がゴロサークルとは知らずに在籍していた事実がある)
で話は変わるが、たいていのゲーム(それがオリジナルのものであっても)はゲームバランスがあんまりだったりする。
ゆえにドラフトして運を丸くしようという試みが普通に行われる。
ローカルルール・調整が簡単に行えるところがボードゲームのいいところだと思う。
そういう面はゲームが悪いのであって人は悪くないので、批判しないでいただきたい。
「人に教えたい」「自分もなんでも知りたい」「所持したい」「自分も作りたい」
そういう『毎日毎日インターネットにかじりつく知識欲に駆られた人』を批判するだけの人
この増田を読んでる君みたいな『文は読むけど考えない』人が僕は嫌いだよ。
外に出なよ。
P2Pは実は意外と溢れてない。過去に流出した物は確かに多いが、「最新の」「欲しい物が」「確実に」は手に入らなくなってきてる。
理由は簡単で、俺を含む何人かがアップロードしてる奴を2chの該当スレッドでひたすら叩き続けたから。
「流すのが遅い」「画質が悪い」「○○書店限定イラストが無い」「ファイル名がおかしい」「初版以外は流すな」みたいな感じで。
アップロードする奴の呼称を「スキャン係」「作業員」とかに変えさせた。
で、数ヶ月で誰も新規をアップロードしなくなった。たまにゲリラ的にアップロードする奴は居るが、それを報告する奴もいなくなった。
私は原作の漫画は読んでいませんが、アニメは毎週兄と一緒に楽しく見ていたのでその感想を書いてみます。ネットでこころない大人たちによって叩かれすぎだと思うのです。すくなくとも私の周りでは大人気ですし、時代についていけないセンスのない大人たちが若者文化を叩くのを見ると私はとても悲しい気持ちになります(いつの時代もそうだったのでしょうか)。
私はこの作品に触れて、作品内容が類似しているかどうかはともかくとして、アルベール・カミュ『ペスト』、ジーン・ウルフ『新しい太陽の書』、スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、安部公房『飢餓同盟』、大江健三郎『万延元年のフットボール』などを思い出しました。『進撃の巨人』はこれらの小説のどれにも劣らない深みと非常に高いクオリティを持った稀有な少年漫画なのだと思います。その作風はアニメを見る限りたしかに単純で素朴で荒削りですが、作者の諫山創先生は、世間にあふれる自意識と自尊心だけは一人前の凡庸な作家たちが血も滲むような努力をしたところで一生得ることのできない文学的センスというものを無自覚のうちに獲得していらっしゃるようにわたしには思えます。
壁の向こうには海があって、海には宝とも言える塩がたくさんあるとエレンとアルミンが目を輝かせて会話するシーンがあったと思います(アルミンかわいい!)。壁の外に真の楽園を夢見ながらも、壁の外の脅威=巨人によって偽りの楽園である壁の内側にとどまるしかない人類。そして偽りの楽園は日々縮小傾向にあり、もはや人類は楽園という夢想を捨て現実に立ち向かう必要に迫られています。もし外からの脅威によって人類の生活圏が縮小しないのなら、人類はこのまま壁の内に閉じこもったまま、一種の自己欺瞞によって自らを制御し動かしながら、秩序を維持することに一生を捧げていたでしょう。そうした変化のない永遠の倦怠ともいえる世界では、いずれ歴史が失われ、始まりも終わりもない空白の永続状態だけが文字通り無意味に残る、いや、それは記録されないので残るというよりは虚空に漂うことになるでしょう。しかし『進撃の巨人』の世界では人類は変化を迫られました。そしてその変化を迫ってきたのは、脅威=巨人なのですが、その巨人とは人類自身だったというわけです。
現状を打破せよ変化せよという声なき声、暗号を発しているのが巨人ですから、巨人とは人類の無意識の飢餓感、欲望のメタファーだと思います。そして人類は自らの欲望の代理人である巨人と戦わなくてはなりません。これは自己矛盾をはらみます。人類はみずから欲望をいだき(巨人を生産)、みずから欲望を抑圧し(巨人を駆逐)、みずから破滅します。いつしか人類の欲望は敵となっています。それは生への意志を否定するものです。みずからの欲望が真の楽園への道を閉ざし、日々縮小する偽りの楽園において鬱屈とした毎日をゾンビのように送るしかなくなっているのです。原始においては槍で戦うしかなかった人類が、科学技術が進歩したことによって、核兵器や生物兵器などのとんでもない力を生み出すようになってしまいました。長い歴史にわたる真理の探求と知識への欲望が私たち人類の生活を豊かにし明るい未来へと導いてくれるはずでしたが、洗練された人類は新たなそれまでとは比較にならない圧倒的に暗愚で野蛮な状態に陥ってしまったのです。巨人に性器がないのは必然で、それは人類の欲望なき欲望だからです。欠如によってしか私たちは未来を示すことができなくなってしまったのです。
そんな行き詰まった世界で人類はどうやって生きていったらいいのでしょうか。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するでしょう。これは勝利なき戦いです。かならず負ける戦いです。私たちに突きつけられたこの運命に私たちはどう立ち向かうべきでしょうか。友情によって? 愛によって? 暴力によって? 狂気によって?
現代社会ではみなそれぞれが不安をかかえて生きています。それは生存の不安です。自分の不安に無自覚でいることはもはや許されません。人類の足場はもろくも崩れ去ってしまい、そうしたなかで人類は原始への回帰、裸で樹上生活をしていたころに戻ろうと、立体機動装置で最後のあがきをこころみるのです。これだけの技術力がありながらどうして他の兵器を作らなかったんだという批判がありますが、腰部から射出されるアンカーが射精のメタファーだということを考えればそれが無意味な批判であるということがわかります(そもそも巨人の完全駆逐は目的ではありません。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するからです)。人類はアンカーを射出しなければならなかったのです。それが人類の見た最後の夢だからです。かつて液状で運動性に優れていた精液はこの時代においては外的要因によって働きかけられないと動かない冷たい鉄になってしまいました。それでも人類は去勢不安を打ち破るために重い腰を上げてさびついたアンカーを射出しつづけなければなりません。それはまさしく不条理な悪夢ですが、しかしこれこそ現代の私たちがおかれている状況というわけです。
現代は論理的な未来予測というものをつねに逸脱し飛躍し暴走して、私たちの手の届かないところに行ってしまいます。私たちは世界から疎外され置き去りにされ、存在理由をはぎとられてしまっています。人類は人類自身と向き合い戦わなくてはなりません。しかしその戦いには勝利というものがありません。滅亡へのゆるやかな推移があるだけです。
私は『進撃の巨人』は現代社会へ警鐘を鳴らしているのだと思います。私たちは自分の巨人とどう向き合うべきでしょうか。私たちは当然のように幸福を追求しますが、その幸福とはいったいなんなのでしょう。希望なき時代の希望とは? 光なき時代の光とは? 私たちは絶対者、神を殺し、あるひとはそれを人類の勝利だと誇りさえしますが、依然として私たちには難問が残っているのです。
こんなニュースがありました。「進撃の巨人 : 最新巻が初の初版200万部突破 1巻の50倍超、「ワンピ」に続く快挙」(http://mantan-web.jp/2013/12/07/20131206dog00m200072000c.html) やはり時代に求められているので売れているのだと思います。批判している大人のひとたちは自分の愚かさをよく考えてみてください。
『生野区連続通り魔事件』の削除について 該記事は特筆性無しとの主張により数度の削除を経て、現在削除(白紙保護)という状態に陥っています。 経緯 ①(初版作成) ②Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130526(削除5、存続4)、管理者Muyo(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ③Wikipedia:削除の復帰依頼/生野区連続通り魔事件(復帰26、削除15)、管理者Freetrashbox(ノート/履歴/ログ)氏により復帰 ④Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130618(削除31、存続26)、管理者Triglav(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ⑤(復帰強行) ⑥Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件20130629(削除8、存続1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時削除、白紙保護 ⑦Wikipedia:削除の復帰依頼#生野区連続通り魔事件 - ノート(復帰1、反対1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下 ②③④ の段階では削除、存続意見が拮抗している状況が伺えます。つまり、特筆性無しでコミュニティでコンセンサスが得られている状況ではありません。しかし、④ の段階で削除が実施され、⑤にて手続きによらず復帰強行、⑥にて即時削除(白紙保護)がなされています。そこで、⑦にてわたしのほうから手続きに則り復帰 依頼をかけましたが、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下されてしまいました。事由としては<同じことを繰り返すな>ということですが、そもそもわたしの理解ではコンセンサスなき削除状態をただす依頼であったため、<同じこと>という認識は誤りだと考えています。 本件につきまして皆様のご意見、果たして特筆性無しというコンセンサスが得られているのかどうか、をお聞かせください。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月29日 (土) 14:54 (UTC) コメント ④の削除は、②の削除で合意不十分として③で復帰した経緯を全く無視したものに見える。よって⑦が提案されたものと考える。しかし、この経緯が理解されなかったらしく、⑦が即時却下されたため、まずここで認識の違いを埋める作業が必要だと考える。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月29日 (土) 16:23 (UTC) コメント この中で一番問題なのは⑤ですね。なので⑥は当然の処置、⑦は却下されて当然です。一方、②から④の判断が適切だったかどうかは削除依頼を隅から隅まで熟読していないので、判断は控えます。--JapaneseA(会話) 2013年6月30日 (日) 01:11 (UTC) コメント ②および④では、「特筆性あり。存続すべき」ということの妥当性を保証できるような情報がついに提示されなかった、ということでしょう。ですから、少なくとも④については、それぞれの経緯を踏まえた上での、問題のない判断だったと言えます。(個人的には、③では「復帰すべき」とするコンセンサスが得られていない状況だったので、復帰が適切だったのか、少々疑問に感じています。結果論ですが、あのまま「復帰せず」でも良かったのではないかと・・・)⑤は行為として最悪なので論外、⑥は当然の処置、⑦は却下されても仕方がないでしょう。⑦は、削除状態を「正す」のではなく「質す・糾す」依頼であったというふうに私の目には映っています。--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 02:26 (UTC) コメント 各依頼について、 ②の時点では存続意見より削除意見のほうが妥当(この時点から資料にニュースでは不十分、以後の経過次第では復帰可能と示唆されています)。 ③については削除依頼で不参加の利用者が多く参加した(何故最初の削除依頼で意見を言わなかった方々がこれほど参加したか原因は予想できますが)ため、意見の合意が出来てないという理由。 ④については意見が十分に出尽くしWP:DP#CLOSEで言うところの『審議がまとまった』(自分は削除意見と存続意見の大勢が出揃ったと解釈しております、意見がまとまったという意味ですと『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあります』と相反するものになるので)ところで、削除意見のほうが理にかなうという判断。 ⑥はGFDL違反が絡む案件。 ⑦は新たな材料が無いため③,④の焼き直しとなることは自明。 現状ではこういう解釈をしており、どの管理者の行為についても問題は無いものと考えます。そもそも特筆性を問題にされている案件なのに二次資料の提示がされないことが現状での特筆性の無さを示していると考えます。よそでも言ったのですが『現状では確認できる資料が新聞レベルでありその域を越える資料が提示されていないため、特筆性(WP:GNG)を担保する二次資料(WP:PSTS)がないためウィキニュースか最近の出来事止まりということです』。 ④において無効撤回も含め賛否コメントの内容を大分すると 削除意見「現状特筆性が無い、特筆性を裏付ける資料が無い、特筆性を担保する資料が出てきてからでも遅くは無い」27「ウィキニュースの範疇,報道量の不足」4「雑報である、単なる嫌韓感情」1 存続意見「犯行理由等が特異,人種にまつわる事件」10「特筆性の理由は不適」1「特筆性はある、資料は十分」11「ネットニュース,削除依頼などで多く関心を持たれている事が特筆性の証紙」3「発展性がある」3「削除に足る要件を満たさない」2「議論不十分」1「事件の大小は問題無く十分百科事典的」1--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) 分量が多いので若干見落としがある可能性などは否めませんが、だいたいこんなところです。加えて一度コメント入れて議論しない方もいますので編集者間の審議の合意は無理です、審議の内容であるコメントや議論に基づき管理者・削除者が削除の提案に合意をすることはあるでしょうが。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) コメント 大勢という文言を使ってらっしゃる方がいますが、基本的にWikipediaは多数決ではないと思っています。ですので、④の時点で「削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています。この間違いを糺そうとしたのが⑦の当方依頼および今次の議論提起です。削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です。多数決ではないんです、コンセンサスが取れているかどうかなんです。何回も書いているんですが、ここの観点でのご意見を伺っているのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:21 (UTC) コメント ヒートアップしすぎです。お茶でも飲みましょう。いま、生野の件の参加者を平等に招集したところでありますから、皆さんの意見を聞きましょう。 もう一点。返信を乱発するのはよくないので、私のコメントの一部を撤回しました。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月30日 (日) 05:30 (UTC) 仰ることはわからないでもないのですが、本議論を提起したことによりこちらWikipedia:投稿ブロック依頼/BlueSkyWhiteSunでわたしにブロック依頼がかけられています。わたしがブロックと決したならば、本議論も自動的にクローズとされてしまうでしょう。あまり時間は残っていません。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:37 (UTC) 『大勢』は『たいせい』であり大体の状況という意味です。すなわち削除意見、存続意見が大方出揃いコメントの傾向が定まったということです。 元々の英語版の『Wikipedia:Deletion policy』にある『Deletion discussion』によると「削除依頼に参加する編集者は削除するか否か見解を出せる」「可否は多数決により決まるわけではない」「参加者は各々が自分の見解について説明し方針を参照する」といった内容であり、利用者の間で合意形成をするのではなく、利用者各自が見解を述べ管理者・削除者に対し合意を得るというのが本義であると考えます。そういった意味ではWikipedia:削除の方針の削除依頼のところは主語が省略されており誤解を招きやすい表現です。 自分は削除依頼は利用者の間で合意形成をするものでは無く、個々人の意見が集まったところで管理者・削除者が判断し閉じるものであると解釈しております。今回の件に関しては存続方の見解が削除方の見解に比べ具体的な証左に欠けていたのではないかと考えます(特に資料が新聞・ニュース止まりで特筆性を押し出すには力不足であったと見ております)。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 08:03 (UTC) すべての合意は利用者間でなされるものと理解しています。管理者等は利用者間の合意に背くことはできないと存じます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 09:47 (UTC) 特筆性という『弱い』制約にしたがって削除するには合意のレベルが低い。合意が取れているのか自体も明瞭でない。--60.34.102.131 2013年6月30日 (日) 07:46 (UTC) コメント 「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています」とおっしゃられている方がいらっしゃるのでコメントします。そもそも、④の時点で「削除票が存続票より5票多いから削除しました」などという低レベルな判断・処置が行なわれたのではなく、削除票、存続票の中身をよく吟味し、検討して、総合的な判断の結果として、④で対処なさった管理者の方は「それぞれの投票時のコメント内容を見る限り、削除が妥当」と判断なさった、ということです。ですから、「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当』という解釈」があったかどうかということは問題になりませんし、④の時点での管理者の方の判断には「糾す・糺す」必要のあるような間違いもありません。「削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です」とのご意見については、結局のところ、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんから見た場合に、意地悪な言い方をすれば「全有効投票数における削除票の占める割合がある一定量以上でないと『削除』という判断を下せない」ということになってしまいます。そもそも、「削除票が相当な大勢を占めねばならない」とする根拠が不明です。ウィキペディアでは票の数でコミュニティのコンセンサスが得られたかどうかが決まるわけではありません。投票の際に、どのような理由を述べるか、が重要なのです。ぶっちゃけた話、仮定の話として「方針文書・ガイドライン文書と照合した上で、具体的に理由を述べた削除票5票」と「個人的・主観的な理由を述べているだけの、適当な理由付けの存続票5票」があったとした場合、表面的には「票が同数」ですが、これは「存続」以外では判断できないということなのでしょうか。そういう事ではないと思うのですが・・・。「多数決ではないんです、コミュニティのコンセンサスが得られているかどうかなんです」との仰せですが、一連のコメントを拝見する限り、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めねばならない。大勢を占めていなければ「削除が妥当」とするコンセンサスが得られたことにならない」という意見は、削除票を不当に軽く扱うものであると思います。その理屈ですと、「票の中身を検討する必要性」が度外視されているように感じますし、何よりもまず、「削除票と存続票の扱いや重さに極端な差をつけている」ように感じますが、ウィキペディアにおける「票」の重みは、「投票時のコメントの中身」によって決まるのであって、「削除票だから軽い」「存続票だから重い」というわけではありません。削除票が相当な大勢を占めていたわけではないことをもってコミュニティのコンセンサスが得られていないとするのはかなり無理があるのではないでしょうか。投票時のコメントの中身や説得力次第では、表面上の票数とは関係なしに、票数が少ない側(④のケースだと、「削除」側)の主張が通るケースもあるでしょう。しかし、④のケースでは残念ながらそうではなかった、ということでしょう。長文失礼いたしました。(結局のところ、「④の判断は誰が何と言おうと間違っていた。④の削除処置を糺し、正すために、記事を復帰すべきだ」ということなのでしょうか)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 08:18 (UTC) コメント そういうあなた自身が存続票の存在を不当に軽くみているとしか思えません。中身中身と仰いますが、一体どこで削除票には中身があり、存続票には中身がないということがあきらかになったのでしょうか。存続票に中身がないといっているのはあなた個人であってコミュニティはそのような判断はくだしていません。くだしていない以上、双方の見解票は同等の重みをもって扱われるべきでしょう。なお、「正す」「糺す」論については本論とは無関係なため割愛させていただきます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) 返信 (BlueSkyWhiteSunさん宛) 票の「中身」は管理者の方が判断材料としてよく読むわけです。そして、その結果として、記事は削除になったり存続になったりする、ということです。私は「存続票に中身がない」とは一言も申し上げておりません。強いて言うならば、存続票が削除審議に与えた影響力の結果は、管理者の方々のご判断(処置)に現れているのではないでしょうか。なお、「(存続票の中身についての判断をコミュニティが下していない以上)双方の見解は同等の重みを持って扱われるべき」とおっしゃられていますが、そうであれば「(削除票の中身についてもコミュニティが判断を下していない以上)存続票と削除票は同等の重みをもって扱われるべき」ということです。ということは、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という意見は説得力を失います。なぜなら、票の重みについていかなる予断もないはずの状況で、最初から「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」(語釈に忠実に言うならば「削除票は議論において相当な力を持つ中心勢力・メインストリームとならねばならない」となるでしょうか)とすることは妥当性がないからです。「相当な大勢を占めない限り、『削除票』を投じても記事は削除にならない」ということであれば、存続票に比して、削除票がクリアすべきハードルが高い(「相当な大勢」を占めねば考慮されない)という状況を招きます。しかしながら、「双方の見解は同等の重みをもって扱われるべき」であるおっしゃれたということは、「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という見解は撤回又は否定されたものと考えられます。なぜなら、「削除票の側だけ、クリアすべきハードルが高い」ということはなくなるからです。(翻って、存続票について考えた場合、存続票も「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」とお考えなのであれば、まだ話はわかりますが、一連のコメントを拝見する限りはそのようなお考えは読み取れませんでした)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 11:06 (UTC) あー、ごめんなさい。同等に扱われなければいけないのは「双方の見解」ではなく、「双方の票」ですね。これはわたしの2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC)のコメントを読んでもらえればわかると思います。それと作成された記事はWikipediaでは存続が基本です(誰でも勝手に記事作成はできますが、誰でも勝手に記事削除はできませんよね)。記事に対して削除すべきというのであればそれ相応の根拠がなければいけない。その根拠をまとめたのが削除の方針です。削除の方針を適用するためには根拠を述べて審議を通さなければいけないのです。なかでも削除方針ケースE(特筆性)は立証が難しい、というかほぼ不可能。であるならば、コミュニティの大勢を以って判断するしかないわけです。それが最前から繰り返しているコミュニティのコンセンサスです。もし、コミュニティの大勢が一致していない場合、つまりはコンセンサスがない場合、ケースEについては削除主張者は根拠立証不可であり、作成された記事は基本存続の原則に立ち戻るわけです。つまり、「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」ということはないのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 11:36 (UTC) コメント 私はもう、この事件に関連する議論はもう疲れたのであまり参加したくないのですが、会話ページにお知らせがありましたので、お知らせがあったら必ずコメントする義務はないのですが、一応コメント残しておきます。あと機種依存文字である丸囲み数字は代替できる時には使用を控えるべきかと思いますが・・・。 まず私からすれば、②の削除措置は私個人としては問題のない事だと思っていましたが、まぁ仮に合意が取れていなかったとしましょう。そのための③があり、現に復帰しました。私からすれば、復帰する合意も取れていないので、削除の合意が得られていないとする意見に対して復帰の合意が得られていない意見が出なかったの不思議なのですが、復帰依頼で十分な人数と期間を持って議論をすべきという意味合いがあったのかもしれません。では、その間で特筆性を有する資料をどなたか提示したでしょうか?私は無かったと考えています。特筆性が「ない」の証明は複数の状況から総合的に判断するしかないですが、特筆性が「ある」と証明するのは、たった1つの資料を提示すれば済むことです。それを悪魔の証明というかヘンペルのカラスというかは分かりませんが、そういうことです。 なお、⑤に関しては論外です。仮に前の復帰依頼で削除の合意が得られていなかったとしても、それは復帰の合意が得られている事と同義ではありません。議論を無視した復帰は方針に反します。したがって⑥の削除は全く問題ありません。 そして⑦についても問題ありません。というか、この議論もほぼ同義かと思います。④の削除でも言われていますが、記事の復帰にはこれまでに挙げられたもの以外の、全員とは言わずとも10人中8人くらいが「この事件には特筆性がある」と言える資料を提示すべきです。私はこの議論に対して最初から削除派を貫いていますが、そのような資料が提示されれば考えを変えますし、提示されても尚考えを変える気がないと判断するのでしたらいつまでも納得しない人としてコメント依頼を提出するなどの事は構いません。ですが現状では、はっきり言ってしまえばそういう現状を変えるような客観的な根拠を提示せずに復帰に固執する方が納得しない人に該当するのではないでしょうか?そして、各議論で「削除票と存続票は拮抗している」という意見が散見されますが、多数決主義ではないという方針は何度も述べられていますが、仮に票数を数えるとして、存続票のどの程度が中身の濃い、具体的な意見を述べていたでしょうか?依然出た意見とかぶるものもありますが、存続票が多いのに削除を断ずるのは不当だという意見は、中身の濃さを見ずに存続票と削除票のそれぞれの重さをないがしろにする意見かと思います。 --Kiruria281(会話) 2013年6月30日 (日) 08:33 (UTC) コメント 票の中身論については上にコメントしましたので割愛します。特筆性においての削除(削除ケースE)やその他の削除ケースは、削除要件によって削除を行うものです。そして、そのケースに該当しない場合、多くの記事同様、存続が適用されるわけです。削除を訴える側は自らの主張にともない、削除要件を立証する必要があると理解します。立証が不可能であれば削除を申請することは不可能です。ケースEについてはもっとも立証が難しいものでしょうが、コミュニティとして記事の特筆性がないという判断がくだれば、立証に代えることも可能でしょう。コミュニティとしての特筆性がないという判断、すなわち、コミュニティのコンセンサスが得られるかどうかが、ケースEの適用是非を決定するということになると考えます。しかるに本件の数次にわたる投票がなされている現況を顧みれば、コミュニティのコンセンサスが得られていないのはあきらかです。それを問うているのが本議論です。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 私は②には参加してませんが、読み返すと④の時以上に、②の存続票が酷過ぎるなと感じました。5対4と言ってもスピード違反の論理な意見が二つにそれと同調する意見だけでは、他の削除票と同価値と呼べるものではないでしょう。②の時点で削除で決着ついたと言わざる得ないでしょう。その後状況の変化があったわけでも、加筆されたわけでもない④の削除が正当か不当かなんて論じるまでも有りません。⑤⑦に至っては問題外でしょう。加筆さえされて充分量の内容になったのであれば、復帰に協力でもしますが、現時点ではあり得ない話です。--あな34(須魔寺横行)(会話) 2013年6月30日 (日) 09:25 (UTC) コメント 票の中身論については上に述べましたので割愛します。充分量の内容というのはどの程度の量か、具体的にご提示いただけますか。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 論点を整理します。ケースE(特筆性)による削除は立証は難しい(これは削除側にとっても存続側にとっても同様)、したがってコミュニティのコンセンサスを以ってその有無を判断せざるを得ない。本件については長期にわたってその特筆性の有無が審議されており、直近の正常審議の行われた④の投票においてもコミュニティとしてのコンセンサスが得られている状況ではない。票の中身云々については立場によってお互いが相手の票の中身を判断して良いものではなく、基本的にその票の重さはいずれのものであっても同等に扱うべきである。なお、わたし自身の特筆性を有りとする論拠は日本では稀有(初?)なヘイトクライムであること、外部のニュース媒体からWikipedia編集に関して報道があった、こちらも稀有(初?)なケースであることです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC) コメント 二度同じことを言うのもなんですが、削除の方針について日本語版のベースとなっている英語版では利用者各自が方針に則り削除すべきか存続すべきか意見しその審議内容から削除者・管理者が判断するようです。日本語版でもWP:DP#CLOSEに『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあり
595 :無名草子さん:2013/04/12(金) 11:36:29.77
村上春樹、どうですか?
売れてます?
596 :無名草子さん:2013/04/12(金) 14:37:09.87
まあこんなもんだろって感じ
597 :無名草子さん:2013/04/12(金) 15:11:39.11
配本5冊じゃどうしようもない・・・
598 :無名草子さん:2013/04/12(金) 15:34:01.09
村上 配本0 終わった
600 :無名草子さん:2013/04/12(金) 17:08:12.79
村上 配本1・・・取次営業に怒りの電話をしたが返事が来ない・・・
45万部ほんとうに刷ったのか?
602 :無名草子さん:2013/04/12(金) 17:36:52.36
たった45万部なの?
603 :無名草子さん:2013/04/12(金) 17:48:51.49
それでも足りないところはいっぱい出て重版を重ねて大手書店へどんどん送りこみ
商機が終わった頃に、余った本が街の本屋へ回る
619 :無名草子さん:2013/04/12(金) 22:05:18.50
>>603
605 :無名草子さん:2013/04/12(金) 17:55:47.09
今回はなんと倍の4冊もきた!
606 :無名草子さん:2013/04/12(金) 19:06:33.30
( ;∀;) イイハナシダナー
607 :無名草子さん:2013/04/12(金) 19:24:04.72
614 :無名草子さん:2013/04/12(金) 21:37:03.97
次の入荷はいつになるやら…
615 :無名草子さん:2013/04/12(金) 21:44:46.53
なんであらかじめもっとたくさん刷っておかないんだ
616 :無名草子さん:2013/04/12(金) 21:47:50.36
品薄商法だろ
いつものこと
618 :無名草子さん:2013/04/12(金) 21:55:08.94
今回ので言うなら
なんかニュースでやってるから買ってみよう派が多いから品薄商法意味ないよな
その層は後からじゃもうどうでも良くなって買わないぞ
てか覚えてすらいまい
って聞かれたか
621 :無名草子さん:2013/04/12(金) 22:34:59.76
なぜ責任販売制にしないのか。
622 :無名草子さん:2013/04/12(金) 22:36:43.69
責任販売制なのに初回配本足りません
とか抜かした出版社があったなあ
626 :無名草子さん:2013/04/13(土) 06:04:21.07
街の小さな本屋さんに沢山配本しますのでそちらで購入してください。
645 :無名草子さん:2013/04/14(日) 06:24:06.90
http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20130412k0000e040156000c&inb=mo&fm=knrn
東京・神田の三省堂書店神保町本店は1500冊を取り寄せ、14日までの3日間、屋号を「村上春樹堂」に変更し、営業する。
正面玄関には新作200冊を平積みした高さ約2メートルの「ハルキタワー」がお目見え。初日は通常より3時間早い午前7時に開店すると、行列を作ったファンが次々と買い求めた。
647 :無名草子さん:2013/04/14(日) 10:47:07.29
1500冊!!!!
653 :無名草子さん:2013/04/14(日) 16:15:41.25
あるとことはいいよな うちも本部もうちょい頑張って欲しいわ営業もだけど
654 :無名草子さん:2013/04/14(日) 17:13:52.09
配本2冊じゃタワー作れませんorz
取次さんせめて6冊下さい。
655 :無名草子さん:2013/04/14(日) 17:29:07.83
フランス文庫のタワーならうちでも できる。 配本0冊はきついわ
店頭客中、得意サンで 7冊いるのに。。。
656 :無名草子さん:2013/04/14(日) 17:30:25.75
コーナー作って新刊切れて既刊だけの春樹コーナーの空しさ
657 :無名草子さん:2013/04/14(日) 17:35:28.31
大型店以外で2ケタ入荷してる書店なんてあるのか?w
ここ見てると涙しかでてこねーよ
658 :無名草子さん:2013/04/14(日) 19:12:40.24
ウチまで回って来る=実は売れてない
660 :無名草子さん:2013/04/14(日) 20:14:49.25
>>658
わかるw
ダメもとで頼んだ本が満数来ると「やっちまった」って思うもんな
661 :無名草子さん:2013/04/14(日) 23:30:19.42
新潮にしろ、今回の文春にしろ、何故買い切りに踏み切らなかったのだろうか。
掛け率が76でもかまわない。
1Q84で自店がどのぐらい売れるのか、まともな店員・店長ならば見当がつくはず。
コストがかかり過ぎるのだろうか。
大手だけが書店ではない。絶対必要数にも満たない配本では、中小書店は商売にならない。
出版危機がこれほど叫ばれる中、なぜ業界全体で利益を分け合う選択肢を避けるのか。
ましてや新潮・文春ともに業界の最大手でリーダー的な存在だろう。
とにかく皆に行き渡る事を考えたのは、いまさらながら尊敬に値する。
1500冊のタワー?ご立派ですねぇ。
662 :無名草子さん:2013/04/14(日) 23:43:20.69
>新潮にしろ、今回の文春にしろ、何故買い切りに踏み切らなかったのだろうか。
書店側の理屈で考えたら何故でも、そりゃあ出版社の側からすれば買い切り=掛け率を下げたくないだろw
出版社もここぞとばかりに儲けたいだろうし、仕方がないと言えば仕方がない
663 :無名草子さん:2013/04/14(日) 23:46:21.85
てか毎度アホみたいな分配してんのは取次じゃねーのん?
665 :無名草子さん:2013/04/15(月) 00:23:34.25
初版45万が少なすぎなんだよ
666 :無名草子さん:2013/04/15(月) 00:24:51.71
>>662
別に掛け率を下げなくてもいい。
満数配本してくれるなら、今回限り掛け率上げてくれてもかまわないって
商品がなければ、売ることすらままならないわけで。
>>663
取次はめんどくさい事したくないから、ほっときゃ「アホみたいな分配」するだろう。
だからこそ、物がまだ言える大手が自発的に買い切りに取り組んでほしかった。
>>664
667 :無名草子さん:2013/04/15(月) 00:25:45.41
うちみたいな弱小でもKAGEROUは大量に来たのになぁ
明らかに配本が偏りすぎだし、そもそも初版も少ない