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2014-10-31

創作小説、また一次選考で落ちる

以前ここでさらした者です。

さらしたら、その増田http://anond.hatelabo.jp/20140620190651)がちょっとブックマークされて、小説ブクマも伸びました。どなたか知りませんが、本当に本当にありがとうございました(´;ω;`)

ちなみに小説はこれです→『月精のコニーリョ』http://ncode.syosetu.com/n8411cb/

「なろう」の相互お気に入りユーザーの方に「1話読んだだけでおなか一杯」って言われたので、まあそうなんだろうなと思いました。活動報告にだらだら書きましたが(http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/445982/blogkey/928868/)、文体微妙ジュリアン・グラック意識したのでとにかくだるいです(いや、全然そんな完成度はないんですが)。

で、今回この小説を「なろう」との連動企画「第2回オーバーラップ文庫WEB小説大賞」に応募したんですね(タグはもうはずしました)。今日一選考通過作品が発表されたんですが(http://over-lap.co.jp/bunko/narou-award2/)、まあ、普通にぼくの名前はありませんでした。

でも一次落ちなんてよくあること。つぎは「創元ファンタジイ新人賞」を目指しています。ぼくはラノベはあまり読んでこなかったので(少女小説児童文学は好きなんですが)、こういう普通ファンタジーのほうが適性があるのではないかと思いました。

ちなみに、次回作スティーヴ・エリクソンをかなり意識してますスティーヴ・エリクソンのような大胆な構成で、日本サブカルチャーのぶっとんだ荒唐無稽さを利用して、人間おかしさ、悲しさ、愛、さらにはそれを超えた永遠性みたいなもの表現したいと思ってます。あと、大好きなル・クレジオエッセイ上橋菜穂子の某小説オマージュみたいな部分もあります

話は戻りますが、じつはこの『月精のコニーリョ』はガガガ文庫の賞でも一次落ちしたやつなんですよね(もちろんガガガ落選原稿を書き直して「なろう」に投稿したわけですが)。だから今回落ちたことにはあまりダメージはないんです。でもまあラノベはむずかしいのかなあとあらためて思ったりもします。ラノベってほんとにむずかしいよ。だからといって、自分ガチ純文学人間でもないので、めんどくさいんですが……。

ぼくは文学が大好きで、人生でそれしかやる気がないんですが、悲しいことにまったく才能がなさそうなのです。でももう引き返しません。もう人生消化試合なので。ほかにやることもない……。

ぼくの場合他人に認められるかどうかよりも、真の芸術がやりたいというか、結局自分が納得するものが書きたいのです。書けたらもう死んでもいいのです。もちろん他人評価されたほうがいいのだろうけれど、でも世の中つまらない低レベル作品ばかりが売れているので、べつに認められなくてもいいのかなとか思ったりもします。どうせぼくがすばらしい作品を生み出したところで世間は見向きもしないだろう、そういう失望感はあります。ただまあこれはワナビ堕落最終形態ですね……。それをいってしまったらおしまいってやつです。でも実際、ル・クレジオの『調書』が大好きな人間とか日本にあんまりいないですよね。そういう日本小説読者を相手にどうやって表現していったらいいのか……。わかりやすエンタメ、わかりやすエンタメ、わかりやすエンタメ……。

先日、冗談で『スタバ☆de☆マック』(http://ncode.syosetu.com/n0138ci/)というショートショートを「なろう」に投稿したのですが、ありがたいことに現在74ptついてます。書くのに全然時間かかってないのに。あ、ちなみに、わかると思いますが、書き出しはカルヴィーノオマージュです。あまり意味はないですが、ワナビなら一度はやりたくなりますよね!? こういう雑なギャグのほうが需要があるんだなあと、なんか自分で書いてて複雑な気持ちになりました。

なんだろう。真面目なファンタジーはだめなんでしょうか。もう日本ファンタジーはできないんでしょうか。でもぼくはまだファンタジーの可能性を信じたいです。というわけで、「創元ファンタジイ新人賞」に向けて頑張ります。でもまた一次選考で落ちると思うので、それを「なろう」に投稿して、また増田愚痴って、そうやっていつの間にか年を取って死んでいくんですねw

でもその辺の一般人人生なんてそんなもんかもしれません。なにかを成し遂げようと思ったはいいけれど、それを夢見ただけで終わってしまう。自分はいつも自分人生から疎外されているわけです。ため息が出ます

2013-12-07

女子中学生の私が『進撃の巨人』を見て思ったこと

 私は原作漫画は読んでいませんが、アニメは毎週兄と一緒に楽しく見ていたのでその感想を書いてみますネットこころない大人たちによって叩かれすぎだと思うのです。すくなくとも私の周りでは大人気ですし、時代についていけないセンスのない大人たちが若者文化を叩くのを見ると私はとても悲しい気持ちになります(いつの時代もそうだったのでしょうか)。

 私はこの作品に触れて、作品内容が類似しているかどうかはともかくとして、アルベール・カミュペスト』、ジーン・ウルフ新しい太陽の書』、スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』、村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、安部公房飢餓同盟』、大江健三郎万延元年のフットボール』などを思い出しました。『進撃の巨人』はこれらの小説のどれにも劣らない深みと非常に高いクオリティを持った稀有な少年漫画なのだと思います。その作風アニメを見る限りたしかに単純で素朴で荒削りですが、作者の諫山創先生は、世間にあふれる自意識自尊心だけは一人前の凡庸な作家たちが血も滲むような努力をしたところで一生得ることのできない文学的センスというもの無自覚のうちに獲得していらっしゃるようにわたしには思えます

 壁の向こうには海があって、海には宝とも言える塩がたくさんあるとエレンアルミンが目を輝かせて会話するシーンがあったと思いますアルミかわいい!)。壁の外に真の楽園を夢見ながらも、壁の外の脅威=巨人によって偽りの楽園である壁の内側にとどまるしかない人類。そして偽りの楽園は日々縮小傾向にあり、もはや人類は楽園という夢想を捨て現実に立ち向かう必要に迫られています。もし外からの脅威によって人類生活圏が縮小しないのなら、人類はこのまま壁の内に閉じこもったまま、一種の自己欺瞞によって自らを制御し動かしながら、秩序を維持することに一生を捧げていたでしょう。そうした変化のない永遠の倦怠ともいえる世界では、いずれ歴史が失われ、始まりも終わりもない空白の永続状態だけが字通無意味に残る、いや、それは記録されないので残るというよりは虚空に漂うことになるでしょう。しかし『進撃の巨人』の世界では人類は変化を迫られました。そしてその変化を迫ってきたのは、脅威=巨人なのですが、その巨人とは人類自身だったというわけです。

 現状を打破せよ変化せよという声なき声、暗号を発しているのが巨人ですから巨人とは人類無意識飢餓感、欲望のメタファーだと思います。そして人類は自らの欲望の代理である巨人と戦わなくてはなりません。これは自己矛盾をはらみます人類はみずから欲望をいだき(巨人生産)、みずから欲望を抑圧し(巨人駆逐)、みずから破滅します。いつしか人類の欲望は敵となっています。それは生への意志を否定するものです。みずからの欲望が真の楽園への道を閉ざし、日々縮小する偽りの楽園におい鬱屈とした毎日ゾンビのように送るしかなくなっているのです。原始においては槍で戦うしかなかった人類が、科学技術進歩したことによって、核兵器生物兵器などのとんでもない力を生み出すようになってしまいました。長い歴史にわたる真理の探求と知識への欲望が私たち人類生活を豊かにし明るい未来へと導いてくれるはずでしたが、洗練された人類は新たなそれまでとは比較にならない圧倒的に暗愚で野蛮な状態に陥ってしまったのです。巨人性器がないのは必然で、それは人類の欲望なき欲望だからです。欠如によってしか私たち未来を示すことができなくなってしまったのです。

 そんな行き詰まった世界人類はどうやって生きていったらいいのでしょうか。巨人を完全に駆逐したとき人類絶滅するでしょう。これは勝利なき戦いです。かならず負ける戦いです。私たちに突きつけられたこの運命私たちはどう立ち向かうべきでしょうか。友情によって? 愛によって? 暴力によって? 狂気によって?

 現代社会ではみなそれぞれが不安をかかえて生きています。それは生存の不安です。自分不安無自覚でいることはもはや許されません。人類の足場はもろくも崩れ去ってしまい、そうしたなかで人類は原始への回帰、裸で樹上生活をしていたころに戻ろうと、立体機動装置最後のあがきをこころみるのです。これだけの技術力がありながらどうして他の兵器を作らなかったんだという批判がありますが、腰部から射出されるアンカー射精メタファーだということを考えればそれが無意味な批判であるということがわかります(そもそも巨人の完全駆逐目的ではありません。巨人を完全に駆逐したとき人類絶滅するからです)。人類アンカーを射出しなければならなかったのです。それが人類の見た最後の夢だからです。かつて液状で運動性に優れていた精液はこの時代おいては外的要因によって働きかけられないと動かない冷たい鉄になってしまいました。それでも人類去勢不安を打ち破るために重い腰を上げてさびついたアンカーを射出しつづけなければなりません。それはまさしく不条理悪夢ですが、しかしこれこそ現代私たちがおかれている状況というわけです。

 現代論理的未来予測というものをつねに逸脱し飛躍し暴走して、私たちの手の届かないところに行ってしまます私たち世界から疎外され置き去りにされ、存在理由をはぎとられてしまっています人類人類自身と向き合い戦わなくてはなりません。しかしその戦いには勝利というものがありません。滅亡へのゆるやかな推移があるだけです。

 私は『進撃の巨人』は現代社会警鐘を鳴らしているのだと思います私たち自分巨人とどう向き合うべきでしょうか。私たちは当然のように幸福を追求しますが、その幸福はいったいなんなのでしょう。希望なき時代希望とは? 光なき時代の光とは? 私たち絶対者、神を殺し、あるひとはそれを人類の勝利だと誇りさえしますが、依然として私たちには難問が残っているのです。

 こんなニュースがありました。「進撃の巨人 : 最新巻が初の初版200万部突破 1巻の50倍超、「ワンピ」に続く快挙」(http://mantan-web.jp/2013/12/07/20131206dog00m200072000c.html) やはり時代に求められているので売れているのだと思います。批判している大人のひとたちは自分の愚かさをよく考えてみてください。

 
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