私は原作の漫画は読んでいませんが、アニメは毎週兄と一緒に楽しく見ていたのでその感想を書いてみます。ネットでこころない大人たちによって叩かれすぎだと思うのです。すくなくとも私の周りでは大人気ですし、時代についていけないセンスのない大人たちが若者文化を叩くのを見ると私はとても悲しい気持ちになります(いつの時代もそうだったのでしょうか)。
私はこの作品に触れて、作品内容が類似しているかどうかはともかくとして、アルベール・カミュ『ペスト』、ジーン・ウルフ『新しい太陽の書』、スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、安部公房『飢餓同盟』、大江健三郎『万延元年のフットボール』などを思い出しました。『進撃の巨人』はこれらの小説のどれにも劣らない深みと非常に高いクオリティを持った稀有な少年漫画なのだと思います。その作風はアニメを見る限りたしかに単純で素朴で荒削りですが、作者の諫山創先生は、世間にあふれる自意識と自尊心だけは一人前の凡庸な作家たちが血も滲むような努力をしたところで一生得ることのできない文学的センスというものを無自覚のうちに獲得していらっしゃるようにわたしには思えます。
壁の向こうには海があって、海には宝とも言える塩がたくさんあるとエレンとアルミンが目を輝かせて会話するシーンがあったと思います(アルミンかわいい!)。壁の外に真の楽園を夢見ながらも、壁の外の脅威=巨人によって偽りの楽園である壁の内側にとどまるしかない人類。そして偽りの楽園は日々縮小傾向にあり、もはや人類は楽園という夢想を捨て現実に立ち向かう必要に迫られています。もし外からの脅威によって人類の生活圏が縮小しないのなら、人類はこのまま壁の内に閉じこもったまま、一種の自己欺瞞によって自らを制御し動かしながら、秩序を維持することに一生を捧げていたでしょう。そうした変化のない永遠の倦怠ともいえる世界では、いずれ歴史が失われ、始まりも終わりもない空白の永続状態だけが文字通り無意味に残る、いや、それは記録されないので残るというよりは虚空に漂うことになるでしょう。しかし『進撃の巨人』の世界では人類は変化を迫られました。そしてその変化を迫ってきたのは、脅威=巨人なのですが、その巨人とは人類自身だったというわけです。
現状を打破せよ変化せよという声なき声、暗号を発しているのが巨人ですから、巨人とは人類の無意識の飢餓感、欲望のメタファーだと思います。そして人類は自らの欲望の代理人である巨人と戦わなくてはなりません。これは自己矛盾をはらみます。人類はみずから欲望をいだき(巨人を生産)、みずから欲望を抑圧し(巨人を駆逐)、みずから破滅します。いつしか人類の欲望は敵となっています。それは生への意志を否定するものです。みずからの欲望が真の楽園への道を閉ざし、日々縮小する偽りの楽園において鬱屈とした毎日をゾンビのように送るしかなくなっているのです。原始においては槍で戦うしかなかった人類が、科学技術が進歩したことによって、核兵器や生物兵器などのとんでもない力を生み出すようになってしまいました。長い歴史にわたる真理の探求と知識への欲望が私たち人類の生活を豊かにし明るい未来へと導いてくれるはずでしたが、洗練された人類は新たなそれまでとは比較にならない圧倒的に暗愚で野蛮な状態に陥ってしまったのです。巨人に性器がないのは必然で、それは人類の欲望なき欲望だからです。欠如によってしか私たちは未来を示すことができなくなってしまったのです。
そんな行き詰まった世界で人類はどうやって生きていったらいいのでしょうか。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するでしょう。これは勝利なき戦いです。かならず負ける戦いです。私たちに突きつけられたこの運命に私たちはどう立ち向かうべきでしょうか。友情によって? 愛によって? 暴力によって? 狂気によって?
現代社会ではみなそれぞれが不安をかかえて生きています。それは生存の不安です。自分の不安に無自覚でいることはもはや許されません。人類の足場はもろくも崩れ去ってしまい、そうしたなかで人類は原始への回帰、裸で樹上生活をしていたころに戻ろうと、立体機動装置で最後のあがきをこころみるのです。これだけの技術力がありながらどうして他の兵器を作らなかったんだという批判がありますが、腰部から射出されるアンカーが射精のメタファーだということを考えればそれが無意味な批判であるということがわかります(そもそも巨人の完全駆逐は目的ではありません。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するからです)。人類はアンカーを射出しなければならなかったのです。それが人類の見た最後の夢だからです。かつて液状で運動性に優れていた精液はこの時代においては外的要因によって働きかけられないと動かない冷たい鉄になってしまいました。それでも人類は去勢不安を打ち破るために重い腰を上げてさびついたアンカーを射出しつづけなければなりません。それはまさしく不条理な悪夢ですが、しかしこれこそ現代の私たちがおかれている状況というわけです。
現代は論理的な未来予測というものをつねに逸脱し飛躍し暴走して、私たちの手の届かないところに行ってしまいます。私たちは世界から疎外され置き去りにされ、存在理由をはぎとられてしまっています。人類は人類自身と向き合い戦わなくてはなりません。しかしその戦いには勝利というものがありません。滅亡へのゆるやかな推移があるだけです。
私は『進撃の巨人』は現代社会へ警鐘を鳴らしているのだと思います。私たちは自分の巨人とどう向き合うべきでしょうか。私たちは当然のように幸福を追求しますが、その幸福とはいったいなんなのでしょう。希望なき時代の希望とは? 光なき時代の光とは? 私たちは絶対者、神を殺し、あるひとはそれを人類の勝利だと誇りさえしますが、依然として私たちには難問が残っているのです。
こんなニュースがありました。「進撃の巨人 : 最新巻が初の初版200万部突破 1巻の50倍超、「ワンピ」に続く快挙」(http://mantan-web.jp/2013/12/07/20131206dog00m200072000c.html) やはり時代に求められているので売れているのだと思います。批判している大人のひとたちは自分の愚かさをよく考えてみてください。
これのどこが中学生の感想なんだ