はてなキーワード: 少将とは
目出度く「ゴルディアン・ノット」作戦こと21世紀型ABCD包囲網の打破を目指すロシアン真珠湾の概要が公表されたので訳す。なお註釈のうち文中のものはすべて英訳者により、数字のものは註釈ではない和訳者のたわごとである。例により和訳者は頭の悪いのと精神病質者が大嫌いだがまあ共産趣味者とかインテリゲンツィヤとかアリストクラットが労働者を"対象"と捉えるのは今に始まったことではないから特に後ろめたく考えてはいない。
第三次世界大戦は始まったようだ; 同僚たちはシャンパンの封を切っている[1] - イラン・米国間の戦争は核合意を阻害しロシア産原油のイラン産原油による置き換え余地を封じる。ホルムズ海峡の避けられぬ封鎖は原油価格をうなぎ上りにする。筆者は[ロシア・イラン間の]一般的には理解不能な合意がある可能性すら信じているが、裏付けるいっさいの事実は持ち合わせていない。
今日はただわれわれ[組織としてのFSBにとって、#WindofChange個別ではなく]の目から見て差し迫ったロシアの"出口"と、クレムリンの"廷臣"について伝えようと思う。(帝政における皇宮について言っている)
これは(実際の摘要の)"複写"ではないがきわめて正確な再話であり、いかように扱ってもかまわず、内容を伏せずに全文を転載してもよい。
この作業はまだ取り掛かったばかりであるので現在はまだ輪郭があるのみで、最終的な報告書は分量があり、詳細で、より堅固になる。今はイラン-米国紛争にかかりきりであるので、筆者はのちより自身の(この新計画に対する)意見をくわえる予定である。『ゴルディアスの結び目』は深く修正・適合される(イランが在イラク米軍基地へミサイルを発射しているため)。
NATOから次から次へと武装と共に民間の武器導入インストラクターの軍事顧問が入って来て
27万のウクライナ軍は装備を更新しつつ防衛戦争だけに戦意は旺盛だが
ロシア人の方は親戚が住む国に何の大義もない戦争をしかけてるから
そんなんだからキエフどころかハリコフだって2日経っても陥落しないし
それにブチ切れちゃったプーチンさんは参謀総長を解任してしまうし
そうこうしてるうちに金融の核たるSWIFTからの排除をやられて
逆切れしちゃったプーチンさんは外国人の資産差し押さえをカウンターでやってセルフ制裁はじめるから
これは駄目だと見切ったキンペーさんもついには停戦しろと電話会談で言い始めるし
キエフを落としてウクライナ西部侵攻とか言う以前に東部の国境沿いも抜けませんしスーパーゼレンスキーに撃退されちゃいそう
キエフ陥落までは確実だって思えた位だったのにそれすら叶わないかも
1週間で終わるのはプーチンの夢の方だったね
いつもならイラストに難癖をつけるところなんだろうが、今回はケチのつけようがないためパネルに記載されていない(宿先で見ることができない)プロフィールをネタに燃やそうとしている。
この時点でおかしいだろう。萌えパネルが気に入らないとしても「not for me」で済ませればいいものを、わざわざ公式サイトをつぶさに見て、何か燃やせる要素がないか探し、プロフィールに狙いを定めたのだから。フェミやリベラル界隈がふだん吹聴してる「多様性」なるお題目は「私たちの権利だけを認めよ」というエスノセントリズムであって色んな人の色んな権利を認めようということではないとよく分かる。
しかもフェミは、2021年11月現在120名ほどいる温泉むすめの一部のプロフィールをことさらあげつらっているにすぎない。
まず、120名のうちほとんどは穏当なプロフィールであることを確認しておきたい。フェミはそのうちのわずか数名を強調することであたかも温泉むすめ全体がそうであるかのように印象操作している。同時に、わざわざそんな数名のプロフィールを抜き出せるほどに公式サイトと調べあげ瑕疵を探したとも言えるだろう。なぜそこまで執念を燃やすのだろう? それはただの萌えフォビア、オタクフォビアではないのか?
そして決定的なのは、温泉むすめプロジェクトが日本全国の温泉地や地方都市の魅力を国内外に発信するために作られた「地域活性化プロジェクト」であり、温泉むすめは人ではなく土地神であって、それぞれの土地の伝説等に依拠してキャラがつくられていることへの無理解だろう。
スカートめくりが指弾されている定山渓泉美は、その名の通り定山渓温泉の温泉むすめだ。プロフには「河童伝説からイタズラが好きなむすめ」とある。定山渓温泉といえば河童伝説であり、河童といえばいたずら好きと尻子玉だ。スカートめくりはそこから来ているのだろう、と容易に推測できる。定山渓泉美のキャラデザも広いデコは河童の皿だろうし、基調カラーが緑なのも河童を意識してのことだろう。
夜這いネタが指弾されている小野川小町は小野川温泉の温泉むすめ。小野川温泉といえば小野小町が偶然発見したことが開湯の由来になっており、「小野川」がそもそも小野小町に由来する。小野小町といえば美女として有名だがそれにちなんだ後世の創作として「百夜通い」がある。深草少将の求愛に「百日通えばあなたのものになる」と返したという伝説だ。「今日こそは夜這いがあるかも」という小野川小町のプロフィールはその伝説に依拠している。
肉感もありセクシーで叩かれている和倉雅奈は和倉温泉の温泉むすめだ。和倉温泉といえば織姫で、織姫といえば大国主と少名毘古那(スクナビコナ)をもてなした人物として知られる。プロフィールにある「スクナヒコの晩酌に付き合う」はそれに依拠している。キャラデザもショールを羽織っており、これも織姫の羽衣に由来するものだろう。「肉感もありセクシー」というのは織姫由来の美女表現の1タームであり目くじらを立てるようなものでもない。
このように、フェミが叩いている温泉むすめのプロフィールもオタクに媚びるために適当にでっち上げたものではなく、日本全国の温泉地の「地域活性化プロジェクト」として、それぞれの土地のそれぞれの伝説から丁寧に組み上げたものに他ならない。キャラクターやそのプロフィールを通して温泉地の伝説や温泉地のことに興味を持ってもらおうという試みを、フェミの視点のみで切り取って攻撃することは妥当だろうか?
そういった知識も理解しようという姿勢もなく、関係者の努力に対する敬意も当然なく、自分たちが嫌悪するものを叩ければそれでいいという態度は多様性に対する理解の欠如であり、まさに「エスノセントリズム」、まさに「フェミニストイズム」に他ならない。
一部フェミの萌えフォビア、オタクフォビアは本当に目が余る。やっていることが「女性の権利拡大」ではなくミサンドリーの発露であり、自分たちが気に入らないものに「性差別」「性搾取」とレッテルをはった徹底的な攻撃だ。そろそろいい加減にするべき時だろう。
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
1940 年代後半から 1950 年代前半、土木技術者は、今日の技術者と同様の問題を経験していた。しかし、1950 年代と 1960 年代の一時期、これは変化した。大陸間弾道ミサイル(ICBM)計画の運用計画が始まったことで、ミサイルの地上環境の設計者は、ミサイルの設計者と一体となって仕事をしなければならないことが明らかになりました。
第二次世界大戦後、空軍はドイツの科学者を採用し、ドイツのV-2ロケットの備蓄品を捕獲してミサイル開発に着手した。1953年8月にソ連が熱核爆弾の実験に成功したと発表するまでは、資金不足がその努力を妨げていた。突然、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、ソビエトに追い抜かれないようにICBMの開発に向けた大規模な努力を求めた。空軍の Bernard Adolph Schriever 少将は、ミサイルとその地上支援を開発するための努力の先頭に立った。
ICBMs
1.5段のアトラスと多くのサブシステムを交換可能な2段のタイタンの2つのICBMの開発がほぼ同時に開始され、知識ベースを広げ、最短時間で兵器を完成させるための競争を活性化させました。ICBMの開発と開発へのプレッシャーは強烈でした。推定 13 年かかっていた作業が、5 年以内に達成された。このことは、空軍の土木技術者にとって大きな意味を持っていた。時間的な制約よりも重要なのは、兵器システムの開発において、地上環境が後回しにされていないという事実であった。"飛行機は最低限の地上支援があれば飛行できるが、弾道ミサイルは適切な発射設備がなければ意味がない」というのが、このプロジェクトを主導した民間技術者の一人である空軍研究開発司令部弾道ミサイル部(BMD)民間技術部副司令官ウィリアム・レオンハード大将の見解である。
用地選定
ミサイルの特殊な要件と圧縮されたスケジュールは、建設作業のあらゆる面に影響 を与え、まず候補地の選定プロセスに着手しました。空軍のエンジニア、工兵隊の代表者、建築家・エンジニアファームのメンバー、BMDの職員で構成される数十人の調査チームが、アトラス計画だけでも250以上の候補地を調査するために、全国に散らばっていました。チームはネブラスカ州からジョージア州まで、ニューメキシコ州からニューヨーク州までを調査しました。候補地の適合性を判断する際に使用された厳格な基準には目を見張るものがありました。深さ174フィート、直径52フィートのミサイルサイロ、幅40フィート、深さ40フィートの発射管制センターサイロ、2つのサイロをつなぐ人員用トンネルとケーブルウェイを建設するためには、厳しい土壌と地質条件が必要でした。さらに、距離の要件は、サイロがその支援基地から少なくとも18マイル、人口25,000人以上の町から18マイル以上離れていなければならないことを意味していました。また、互いの距離は7マイル、人が住んでいる住居から1,875フィート、公道から1,200フィートでなければなりませんでした。サイトへの公共アクセス道路は、大型のミサイル運搬車を収容しなければならなかった。技術的基準が評価された後、最終的なサイトの選択は、サイトの経済的実現可能性に依存した。サイトが選択され、承認されると、作業を開始することができた。
地上設備の設計・建設を担当した技術者が直面した困難の一つは、ミサイルとその支援構造物の作業が同時進行で急ピッチで進められていたことである。ミサイルの準備ができたときには、発射設備を準備しなければならない。ミサイル自体に必要な設計変更が設備の変更に反映されてしまうため、ほぼ戦時中の緊急性の高い状況下での工事を余儀なくされていた。
ミサイルの保管モード、発射モード、ミサイルの分散度の多様性が技術者の作業に影響を与えました。例えば、アトラスDの一部のモデルは、サービスタワーで露出した垂直方向に保管されていましたが、他のモデルは水平方向に保管され、風雨から守られていました。アトラスEは半硬化構造の中で水平に保管されていました。アトラスF、タイタンI、IIはすべて、硬化サイロに垂直に格納されていました。
サイロの建設は膨大なエンジニアリング作業でした。例えば、カンザス州のシリング空軍基地では、エンジニアがアトラスFミサイルを収容するために12個のサイロを建設しました。作業は深さ40フィートの掘削から始まりました。これが管制センターの基礎となり、トンネルとサイロの上部を接続しました。その後、サイロの下部の残りの部分は、開 発部からさらに1.5m下で採掘されました。サイロ自体を構築するために、作業員はスリップフォームプロセスを使用しました。フレームがサイロの壁から約140フィート上に上がったところで、1時間に約14~16インチの速度でコンクリートが連続的に打たれました。作業員は昼夜を問わず、1つのサイロにつき、わずか6日間で500トンの鋼材と5,000立方ヤードのコンクリートを打設しました。完成時には、アトラスの1つのサイロには、15階建ての構造用鋼製ビル1棟の重量約1,500トンに相当する複合質量が含まれていました。
電力供給
打ち上げ施設に電源を供給するために、エンジニアはディーゼルエンジン、原子力、燃料電池、電池、ガスタービン、商用電源との様々な組み合わせなど、いくつかの代替案を評価しました。電源は、信頼性が高く、無停電で、打上げ施設内で自己完結するものでなければなりませんでした。また、核爆発による地上衝撃によって引き起こされる非常に高い加速度を吸収できるか、ショックマウントに取り付けられていなければなりませんでした。システムのイニシャルコストと運用・保守コストの両方が評価されました。サイトへの動力供給には、信頼性の高い旧型ディーゼルエンジンを選択しました。システムの設計では,水や流入空気の加熱など,装置から発生する熱を可能な限り利用しました.典型的なアトラスのサイトでは,各プラントに1,000kWのユニットが4基ずつ設置され,ミサイルのクラスターを支えていました.
サイロ上部ドア
サイロのオーバーヘッドドア設計は、エンジニアリングのジレンマを生み出しました。300平方フィートの開口部を覆うドアは、極端な天候、核放射線、過圧、構造的な反発からミサイルを保護し、ミサイルの発射と誘導に影響を与えないこと、発射合図後30秒以内に完全に開くこと、ミサイルのカウントダウン手順の中で連続した項目として動作すること、などが求められました。また、クロージャの構築、完全な組み立て、設置、フィールドでのチェックアウトを可能にするように設計されていなければなりませんでした。シングルリーフ設計やロールアウェイ設計のようなそれぞれの潜在的な設計には、それを考慮から排除する独自の特定の欠点のセットがありました。最終的に、ダブルヒンジ、ダブルリーフ、フラットドアのデザインが採用されました。2つの半分の間の中央の亀裂の問題は、ドアの特別なくさびの設計と、さらにシール性を向上させるためにネオプレンガスケットとステップメッシュを使用することによって解決されました。
様々なミサイルサイトの建設とアクティベーションに関与する多様な要素をすべてまとめることが、サイトアクティベーションタスクフォース司令官の仕事であった。彼は、親コマンドに関係なく、与えられた基地の弾道ミサイルサイトアクティベーションプログラムに参加しているすべての空軍の要素に対する作戦上のコントロールを与えられました。主に土木工学と諜報機関のキャリア分野から来た司令官は、現場支援施設と住宅の建設を指示し、建設監視を提供し、サイトの設置、チェックアウト、戦略航空司令部への転換を管理しました。土木、機械、電気技術者、低温工学、熱応力、衝撃実装の専門家、資金管理者、広報担当者、議会調査官への説明役などが求められた。要するに、彼らは空軍のためにそれを実現させた人物だったのです。1961 年までに、彼らはアトラス・ミサイル 120 発のアトラス・ミサイルを 11 基地に、タイタン・ミサイル 54 発のタイタン・ミサイルを 5 基地に配備していた。
おわりに
この記事では、この大規模な取り組みに関わった人々が直面した様々な工学的課題について簡単に触れただけです。その規模の大きさは今でも注目に値するものであり、土砂、岩石、泥の総量は3,755万立方ヤードに及びました。これは、ロサンゼルスからピッツバーグまでの深さ10フィート、幅10フィートの灌漑用水路に相当します。現場で使用された鋼材は、サンフランシスコからワシントンD.C.までの鉄道線路を建設することができました。当時、全国ニュース誌は「ミサイル基地建設計画はピラミッドをティンカー・トイの演習のように見せている」と述べています。アメリカ土木学会は、ICBM施設建設プログラムを1962年の "Outstanding Civil Engineering Achievement of the Year "に選出した。同様に重要なのは、この取り組み全体が、空軍の土木技術者に対する見方の転換点となったことです。空軍の技術者が自分たちのプロフェッショナリズムに対する尊敬と認知度の向上を求めていた時期に、ICBMプロジェクトでの彼らの仕事が道を切り開いたのです。
ケスラーへの愛はよくわかったけど、ちょっと気になったんだよな。
ケスラーがリップシュタット戦役に艦隊司令官として参戦するシーンが無いと、僚友たちが彼を「提督」と呼ぶ理由がわからないという状況になってしまう。
「提督」って、海軍の将官って意味だから。「将軍」は陸軍の将官な。
階級にadmiralってくっついてる奴には提督と呼ばれる資格がある。キャゼルヌもドーソンも俺は提督と呼んでいいと思う。
日本語だと、軍隊を率いる将としての「提督」「将軍」と、階級としての「少将」や「大将」が語彙の面で完全に分かれてるけど、西欧語だと分かれてないから。
第二次世界大戦期のドイツ海軍では、大将はGeneraladmiral、中将はAdmiral、少将はVizeadmiral、准将はKonteradmiral。
要するに、艦隊を率いる司令官を表す語としてadmiralというのがまずあって、海軍組織が単純な頃はAdmiral=艦隊指揮官でいいんだけど、艦隊の規模が大きくなると同じadmiralの中で順序をつける必要が生まれて総提督とか副提督とかいう呼称が生まれ、また組織が複雑化すると地上勤務の人間の階級にも当てはめられるようになる。
で、欧米だと艦隊率いてようが陸上で参謀やってようが、(階級としての)admiralがつく階級を持ってるやつには(称号としての)admiralと呼ばれる資格がある。
西欧語だと階級と称号が同一だからそんなに違和感はないんだけど、日本語は階級を表す語と称号を表す語を分けちゃったからな。
つまり、キャゼルヌもケスラーもドーソンも提督です。同盟軍では准将から「閣下」なので、フォークも提督です。少なくともそう呼ばれる資格があります。
(^ω^ ≡ ^ω^)おっおっおっおっお
2020年3月5日 2020年4月6日 https://t.co/iyxhG895Vg pic.twitter.com/2E2wYpW5Th— 右近衛少将 (@RunForTheR) April 6, 2020
ルジャンドルはフランスのウラン(Oullins)に生まれ、ランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家でエコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のとき、ニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララ・ヴィクトリア・ミュロックとブリュッセルで結婚した。結婚後すぐに米国に移住し、帰化した。
1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊の兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊の少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘に従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。
負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニアの荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日、ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリスの病院に入院したが、その間にも南軍の最後の攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨークに移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日に名誉除隊したが、1865年3月13日には准将に名誉進級した。
1866年7月13日、ルジャンドルは厦門の米国領事に任命された。7月にニューヨークをリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパ、アジア大陸を旅行し12月に厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門、基隆、台北、淡水および高雄に責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引の抑制に尽力した。
1867年3月12日、米国船ローバー号が台湾で遭難し、その乗員が台湾原住民に殺害されるローバー号事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾の中国側当局に問題解決の圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドルが台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。
ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍のヘンリー・ベル少将が懲罰作戦を実施したが、これも失敗した。さらに情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。
中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊を派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日に台湾に送られた。ルジャンドルは砲艦の派遣をベル提督に要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドルは9月4日に台湾に上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。
ルジャンドルは直ちに本来の任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民の酋長と難破した欧米の船員の安全を保証するための条約を協議した。
1871年9月6日、琉球(宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー号事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日、ルジャンドルは先に結んだ条約を日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドルは北京駐在の米国公使フレデリック・ロウ(en)とも不仲になってしまった。
1872年、厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドルは日本に立ち寄り、明治政府に台湾問題の武力解決を提唱した。これは副島種臣外務卿の意見とも一致しており、ルジャンドルは米国領事の職を辞し、1872年12月12日、外交および軍事顧問として明治政府に雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島民殺害事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として北京へ派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉は部分的には成功であったが、引き続きルジャンドルは1874年の台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドルは駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人の資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日、台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通が長崎に向かった。結局遠征部隊は5月18日に長崎を出港したが、ルジャンドルは大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドルは交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事に職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海で収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。
ルジャンドルは1890年まで日本に滞在し、大隈重信の個人的な顧問を務めた。
1890年3月、ルジャンドルは日本を離れ、朝鮮王高宗の顧問となった。1899年9月1日に漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。
ブリガデイロ(ポルトガル語: Brigadeiro、ポルトガル語で准将(但し、ブラジル空軍では少将)を意味する。
ブラジル南部の一部地域ではネグリーニョ - negrinhoとも呼ばれることがある)はブラジルのボンボン・ショコラである。
ブリガデイロは1940年代頃に創作された菓子であり、菓子名はエドゥアルド・ゴメス空軍少将の頭部の形がトリュフチョコレートを
連想させたことにあやかって名付けられている。ブリガデイロはブラジルやポルトガルでは非常に人気のある菓子であり、
通常誕生日パーティーで供されるほか、デザートとしても一般的に食されている。
ブリガデイロは甘いコンデンスミルクとココアパウダーを混ぜ込んで作る。混ぜ込んだ後、滑らかでいて粘りのある食感になるまで、
コンロの上においた鍋で加熱する。
加熱した後少し冷まし、バターを塗った手で球状に丸め、上部からチョコスプレーをまぶして完成させる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AD
http://anond.hatelabo.jp/20170116162327
リンク先『婆ちゃんに戦争の話聞いてきた』で語られている「婆ちゃんの工場を襲った」空襲はおそらく、1945年8月1日深夜から2日未明にかけて行われた富山大空襲のことだろう。
それ以前、7月にも市街地に対する比較的小規模な空襲は度々行われている(模擬原子爆弾、いわゆるパンプキン爆弾の投下も行われた)が、8月の空襲は市街地の実に99.5%を焼き尽くす大規模なもので、ブコメでも言われているように「空襲で全部なくなった」。燃え盛る炎が明々と夜空を照らしていたという証言はネットでも複数読める。
で、だ。問題は
ものすごく暑かったので、多くの人は川に逃げたらしい。そんな人でごった返した川めがけて、空襲は襲った。川に逃げた人はみんな死んだ。
というくだりである。この「川」というのはおそらく、富山市街地を貫流する神通川を指す。皮肉にも、上空から夜目にも目立つ神通川と広大な河川敷そのものが攻撃目標となって多くの犠牲者が出たといわれているが(富山大空襲 浅田 高明|戦争の記憶~寄せられた手記から~|NHK 戦争証言アーカイブス http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/kioku/31/ )、そのいっぽうでこんなことも行われていた。
(あの戦争「富山大空襲」 : 勝手に言ってます http://yosirin.exblog.jp/21519632/ )
火たたき・バケツリレーなどによる「防火演習」がしばしば行われ、空襲の際には、避難する道路に、警防団・警察・憲兵などが立ち、「戻って火を消せ」、「非国民!」などと、避難を押し止めた
(イントロダクション | 「富山大空襲」のことを知って下さい! http://www.geocities.jp/toyamakushunokaii/introduction.html )
逃げたらアカンかったわけである。何故か? これは日中戦争が始まる前に公布された「防空法」という法律に拠っている。直接的には、真珠湾攻撃の直前に行われた防空法の第一回改正、およびそれに基づく内務大臣の通牒で、空襲時の退去の禁止(罰則を伴う)と応急消火義務が国民に課せられたことに由来する。この規定が、10万人の死者を出した東京大空襲のあともなお有効だったことは、まさに富山大空襲でのエピソードが物語っている。
富山空襲ではまず市街地の周縁部に焼夷弾を投下し、市民の逃げ道を断ったうえで存分に焼き払うという手法が用いられたが、地上でも軍や官憲によって逃げ道が断たれていたわけである。その結果が婆ちゃんの語った戦争の話、ということになろうか。
最後に、いち地方都市にこれほど大規模な空襲が行われた理由がふるっている。
「これ(=第13回の大挙出撃)は、陸軍航空部隊の第28回記念日にふさわしい祝賀であった。またカーチス・E・ルメイ少将に対するすばらしい餞別となった。同少将は米国戦略空軍の参謀長となるため、第20航空軍の司令官を辞任する前に、この攻撃を自ら計画し、かつ指揮したのであった。」 (1945年8月2日付ニューヨークタイムズ)
「陸軍航空軍記念日である8月1日の攻撃は、持てる空力を駆使し、あらゆる努力を払うよう指示する。(米本国陸軍戦略航空軍司令部から、第20航空軍「現地」司令官への指示文書)
(富山大空襲と母のこと: 壺中山紫庵 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2010/08/post-78e5.html )
参考:防空法について
「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制 / 大前治 / 弁護士 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/politics/13238
10分で考えて増田に書き捨てたらしい妄想にそこまでの説明を求めるおまえが意味不明だわ。
実際にこの設定にもとづいて書かれた作品にそのあたりの説明がごっそり抜けてるなら分かるが。
だから地位が低い黒幕キャラなんてよくいるって言ってるだろ。おまえの主張のほうが破綻してるわ。
だから「元増田がそこが肝だと書いてる」なんて書いてねーだろ。
実際に作品を書くとしたら「なぜ暗殺でなかったのか」の説明は絶対に入るし、
そこが敵の動機の中心になるのは明らかなんだから、現段階でツッコんでも仕方ないだろって言ってんの。
出来てない。
こんなもんを書く奴も正当化しようと頑張る奴も要するに頭が悪い
設定のガバつきへの突っ込みに「想像力の多寡」を持ち出したのはオマエ。
>以上と言うことは大佐でもいいはずだ。
言い訳になってねーぞ。
「大佐以上」って言っておいて大佐だと破綻するなら単に設定がアウトじゃねーか。
何を開き直ってるんだバカ。
そんなラノベ読書暦みたいなもので誇られても笑っちゃうからやめてくれ。
けどそういう設定も何もない。ただ「ぐんのえらいひと」というだけのイメージ。
ただのバカじゃんこれ。
肝心のとこでそうやって逃げを打つぐらいなら最初から逃げてろよ。
だから、その大佐だか少将だかの謎がキモって書き方してねーだろ。
大佐の設定がおかしいのは「何か最大のウエイトの設定を秘めてるから」じゃなくて
で、質問を繰り返すけど
ガバガバ設定のクソをひりだすのは「イメージ豊か」といわない。
以上と言うことは大佐でもいいはずだ。
大佐であった時にこの設定はおかしい。別に少将でも中将でもおかしいけど。
それに、世界を左右する力を持ちつつ、それを隠して低い地位に留まる、というのもよくある設定。
そういうのをイメージしているんじゃないのか。
真面目に聞きたいが、そんなんが「よくある」界隈ってのはどこだ?
お前の生息域なんだろうけどどこかおしえてくれ。
昨今高い悪名を聞く「なろう」ってやつか?
どーみてもそこに重要なアイデアがある書き振りではないんだが。