はてなキーワード: 打上げとは
世の中には、女と一緒じゃないと酒飲みたくない奴というのが意外と多くいる。
女を酒の肴にしてるとでもいうか、とにかく酒の席に女がいないと面白くないというのであるが、まったく理解できない。
ワタクシ個人の経験からこのようなオジサンの例を挙げると、まずそいつは酒に誘った際、
「女の子いないの?」
と聞いてきた。
何某かの集会後の軽い打上げだったので、集会に参加していない女性を呼ぶなどという発想はなく、
「もちろん居ないよ」
と答えると、そいつは
「じゃあ呼んでいい?」
と言ってきた。
この時点で「女いねぇと酒飲めねぇタイプかよ」と思ってゲンナリしたのだが、かと言って「いや女呼ぶならやめよう」というのもなんか変なので、
呼びたいなら呼べば?と答えたのだが、会場の居酒屋に現れたのは、アラフィフの既婚女性であった。
我々もアラフォーのオッサンなのであるが、わざわざ「女を呼びたい」というのだから、もっと若い女性を呼ぶのかと思っていた。
しかし来たのは、言葉を選ばずとも紛う事なき年上のオバサンである。
別に女性が居なくても酒が呑める。なんだったら気の知れた仲間と酒を飲むのが一番美味いとワタクシは思っているので、
ワタクシが驚いたのは、そいつが「酒の席にいてほしい女」というのは「どんなのでも構わない」と思っているという点についてである。
そのレベルで女に側にいてほしい、そうじゃないと酒も飲みたくないという考えが、ワタクシにはまったくなかった。
逆に若い女を呼ぶのなら意味がわかるのである。若い女侍らせてキャッキャウフフと酒を飲みたいというなら、それはごく普通だ。
しかし、そいつは「女だったらなんでもいい」と考えていたのである。まったく理解できない。
ワタクシ自身、こんな考えを持つ自分を女性差別だとか、ミソジニーだとか、ルッキズムなのか?と思わんでもないが、
考えてみると、この男が度を超えた女好きでしかないという結論に至った。
長々と書いてきて、ここでこれを読んでいただいた諸兄にお尋ねしたいのだが、
このような
「女性がいないと酒が美味しくない。どんな女性でもいいので酒の場にいてほしい」
という男は珍しくないのだろうか?
J氏からの性加害を訴える告発をこれまで見てきて、どうにもモヤモヤしている気持ちを抱いているのでここに書いておく。
当初は告発が事実だとしたら、被害者は救われて欲しいと思っていた。
ただ加害者は死亡していて本人からの謝罪は不可能なので、どういった形が被害者にとってベストな解決なのか。会社が見ないふりをして自分たちを排除してきたというなら、会社からの謝罪と慰謝料などの救済は必要だろうな、と思っていた。
引っかかったのはバックにいるのが以前事務所からJ氏の性被害についての記事で訴えられて負けていた文春で、BBCへ働きかけてあの番組を作らせたことを伏せて報道したり、告発している元Jrの証言に矛盾や事実でないことを確認もせず記事にしていたり ※1、そもそも元Jrたちに何百万円払うから被害を告発してとDM送りまくってたり※2、証言したJrと会見する度打上げ会してたり、何やら某政党と繋がってると告発してるJrが漏らしてたり、あれれ?という思うことがどんどん多くなってきた。
告発者たちの顔ぶれが、DVで訴えられそうになってるのとか、以前追っかけマップ作って迷惑かけたやつとか、事務所へ身内を入れてた上それ言う的なのとか、入所をすすめる記事書いてたやつとか、今も精神的に不安定で病院に通ってますと言いながら会見の後の記者と飲み会楽しかったとかいうやつとか、よくもまあという人たちで。
明らかに盛ってないかと思える証言※3や、そこまでいる?と言う描写入り証言とか、何より告発者たちの求めることの大半がお金と事務所を潰すことなのも、段々疑惑の目を向けたくなるのも自然なことで。
一番わからないのは、証言している告発者たちが現社長を非難している一方で、揃いも揃って当時Jrを管轄していた事務所のお偉いさんであったI氏と、Jrのトップとして長年取り纏め、デビュー後もJrを監督し、スノストをデビューさせるのに貢献し、ついこの間まで副社長として長年Jrを一番見てきていたであろうT氏に誰も何も言わないのは何故なのか。
現社長はデビュー組にしか興味ないと一部で揶揄されるほどほとんど関わっていないので、一番近いところにいた事務所側の人たちに、マスコミ、いや文春がまず証言取りに行かなくてはいけないのでは?
特にもう今は事務所側にいない人間なのだから忖度なく話てくれるはずと、お得意の突撃をすべき対象では?
一番何もかもを知っているはずだし、もし証言が正しければJ氏に加担していた人たちなのに。
真っ先に責任追及されるべき存在であるにも関わらず、全く名前が上がらないのが逆におかしい。
J氏が以前ゲイであることを否定していたことや、事務所離れた元タレントたちやJrが、そんなことはなかったという証言をしても報道されないのも随分一方的だ。
その一方的な報道に対して、現タレントへの中傷や風評被害はもとより、事務所は潰れろと言う人たちがいるのが腹立たしい。
そもそも、もし本当にJ氏が性加害をしていたとして、J氏はもとよりM氏が亡くなるのを待ってやっと証言出来たと言うのが事実として、じゃあ事務所にいる全タレントが被害者だと決めつけて言うのはセカンドレイプに当たらないのか。
そしてその被害者たちが未だ事務所に所属し、タレントとして成功しているから加害者側に立っているとか、仕事を取り上げるべきというのはおかしな理屈では?
もしも万が一、二人が亡き今やっとアイドルとして心置きなく仕事が出来る、けど過去のことは忘れて話したくないと思ってる被害者が居たとしたら、それは救われなくてもいい被害者だということなのか?
今事務所のファンとして望むことは、本当に被害者がいるなら救われて欲しいし、間違っていることがあるなら正して欲しいということ。
何が本当で何が嘘なのか、あったことをなかったことにはせず、なかったことをあったことにせず、それらを公明正大に明らかに出来るのはやはり司法の場ではないかと思うので、もし本当に彼らが「自分たちのような存在を二度と出さないように」と言うならまず法的に訴えて欲しい。
こうして勇気を出して告発して国会に行くぐらいなら出来るはず。
きちんと法の下で裁かれる事案であることは間違いないのだから。
法の下で出た結論を待って、応援している彼らとの向き合い方を考えたいと思うのは間違いではないはず。
あ、それからペンライトとかいうファンを名乗る集団は、元々言動がファンじゃねえなと思ってたら香ばしい集団だったので無視。
https://www.youtube.com/@paperhousekun
先輩グループのバックでホテルに泊まっている時→その時地方公演のあるグループは日帰り
ジャニー氏が車椅子に乗ってジャニヲタが心配していた時期に被害?
などなど。
本人のつらい記憶が時期を間違えていたとして、記事にするならある程度調査してから記事にすべきでは?それでジャニヲタからツッコミが入ったら、批判されたといいながらちゃっかり記事を訂正してたりするのは信憑性を疑われても仕方ないのでは。
※2
※3
一回5万貰って二年間で200回と言ってる告発者いたけど、合計で1,000万円貰ってたのマ?
その前に毎日本業の演出や、稽古、地方公演へ同行、送られてくる履歴書を全部見るなどなど聞きかじっただけでも朝から晩まで忙しくしていて、その上何百人といる全タレントに次々手を出すってどんな性豪というか超人と思われているのか。いや、モンスターか。
・何年後か知らんけど次回の打ち上げがある
ここがポイント。
今回のように他人様の荷物を打ち上げる場合は、納期に指定場所に届けるのが成功で、それが不可能になったら失敗。
で、前回のを「中止」と言ってる人のほとんど(JAXA含む)が勘違いしているのが、予備日が2023年3月10日までだから3/10までに打ち上げなければならないという誤解。
今回の荷主は何年でも待たせられるので無理に3/10までに打ち上げる必要は無く、したがって納期(無限)までに荷物を指定場所に届けることは可能だった。
ところが「中止」派の大多数はなぜか「3/10まで予備期間があるから失敗ではない」と説明し、実際にも3/7に打上げを敢行した。
本来、前回あんだけ振動を与えた以上は総点検再整備しないと不具合が出るのは分かりきっているので、前回打ち上がらなかった時点で3/10までの打上は不可能であり、したがって仮に3/10を納期とするなら前回の時点で納期を守れないことが確定し「失敗」と判断しなきゃいけなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Comparison_of_orbital_launcher_families
Total: Flights which lift-off, or where the vehicle is destroyed during the terminal count
Note: only includes orbital launches (flights launched with the intention of reaching orbit). Suborbital tests launches are not included in this listing.
Space (regardless of outcome): Flights which reach approximately 100 km or more above Earth's surface.
Any orbit (regardless of outcome): Flights which achieve at least one complete orbit even if the orbit differs from the targeted orbit.
この部分が、成功率を比較するための項目と言って良いと思う。成功率そのものはこの記事では述べていないが
と見ればよい。
で、Totalの定義としては、「離陸するか、または最終カウントダウン中に破壊された数」。なお、衛星軌道への打ち上げのみをカウントし、弾道飛行テストはカウントしない。
1940 年代後半から 1950 年代前半、土木技術者は、今日の技術者と同様の問題を経験していた。しかし、1950 年代と 1960 年代の一時期、これは変化した。大陸間弾道ミサイル(ICBM)計画の運用計画が始まったことで、ミサイルの地上環境の設計者は、ミサイルの設計者と一体となって仕事をしなければならないことが明らかになりました。
第二次世界大戦後、空軍はドイツの科学者を採用し、ドイツのV-2ロケットの備蓄品を捕獲してミサイル開発に着手した。1953年8月にソ連が熱核爆弾の実験に成功したと発表するまでは、資金不足がその努力を妨げていた。突然、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、ソビエトに追い抜かれないようにICBMの開発に向けた大規模な努力を求めた。空軍の Bernard Adolph Schriever 少将は、ミサイルとその地上支援を開発するための努力の先頭に立った。
ICBMs
1.5段のアトラスと多くのサブシステムを交換可能な2段のタイタンの2つのICBMの開発がほぼ同時に開始され、知識ベースを広げ、最短時間で兵器を完成させるための競争を活性化させました。ICBMの開発と開発へのプレッシャーは強烈でした。推定 13 年かかっていた作業が、5 年以内に達成された。このことは、空軍の土木技術者にとって大きな意味を持っていた。時間的な制約よりも重要なのは、兵器システムの開発において、地上環境が後回しにされていないという事実であった。"飛行機は最低限の地上支援があれば飛行できるが、弾道ミサイルは適切な発射設備がなければ意味がない」というのが、このプロジェクトを主導した民間技術者の一人である空軍研究開発司令部弾道ミサイル部(BMD)民間技術部副司令官ウィリアム・レオンハード大将の見解である。
用地選定
ミサイルの特殊な要件と圧縮されたスケジュールは、建設作業のあらゆる面に影響 を与え、まず候補地の選定プロセスに着手しました。空軍のエンジニア、工兵隊の代表者、建築家・エンジニアファームのメンバー、BMDの職員で構成される数十人の調査チームが、アトラス計画だけでも250以上の候補地を調査するために、全国に散らばっていました。チームはネブラスカ州からジョージア州まで、ニューメキシコ州からニューヨーク州までを調査しました。候補地の適合性を判断する際に使用された厳格な基準には目を見張るものがありました。深さ174フィート、直径52フィートのミサイルサイロ、幅40フィート、深さ40フィートの発射管制センターサイロ、2つのサイロをつなぐ人員用トンネルとケーブルウェイを建設するためには、厳しい土壌と地質条件が必要でした。さらに、距離の要件は、サイロがその支援基地から少なくとも18マイル、人口25,000人以上の町から18マイル以上離れていなければならないことを意味していました。また、互いの距離は7マイル、人が住んでいる住居から1,875フィート、公道から1,200フィートでなければなりませんでした。サイトへの公共アクセス道路は、大型のミサイル運搬車を収容しなければならなかった。技術的基準が評価された後、最終的なサイトの選択は、サイトの経済的実現可能性に依存した。サイトが選択され、承認されると、作業を開始することができた。
地上設備の設計・建設を担当した技術者が直面した困難の一つは、ミサイルとその支援構造物の作業が同時進行で急ピッチで進められていたことである。ミサイルの準備ができたときには、発射設備を準備しなければならない。ミサイル自体に必要な設計変更が設備の変更に反映されてしまうため、ほぼ戦時中の緊急性の高い状況下での工事を余儀なくされていた。
ミサイルの保管モード、発射モード、ミサイルの分散度の多様性が技術者の作業に影響を与えました。例えば、アトラスDの一部のモデルは、サービスタワーで露出した垂直方向に保管されていましたが、他のモデルは水平方向に保管され、風雨から守られていました。アトラスEは半硬化構造の中で水平に保管されていました。アトラスF、タイタンI、IIはすべて、硬化サイロに垂直に格納されていました。
サイロの建設は膨大なエンジニアリング作業でした。例えば、カンザス州のシリング空軍基地では、エンジニアがアトラスFミサイルを収容するために12個のサイロを建設しました。作業は深さ40フィートの掘削から始まりました。これが管制センターの基礎となり、トンネルとサイロの上部を接続しました。その後、サイロの下部の残りの部分は、開 発部からさらに1.5m下で採掘されました。サイロ自体を構築するために、作業員はスリップフォームプロセスを使用しました。フレームがサイロの壁から約140フィート上に上がったところで、1時間に約14~16インチの速度でコンクリートが連続的に打たれました。作業員は昼夜を問わず、1つのサイロにつき、わずか6日間で500トンの鋼材と5,000立方ヤードのコンクリートを打設しました。完成時には、アトラスの1つのサイロには、15階建ての構造用鋼製ビル1棟の重量約1,500トンに相当する複合質量が含まれていました。
電力供給
打ち上げ施設に電源を供給するために、エンジニアはディーゼルエンジン、原子力、燃料電池、電池、ガスタービン、商用電源との様々な組み合わせなど、いくつかの代替案を評価しました。電源は、信頼性が高く、無停電で、打上げ施設内で自己完結するものでなければなりませんでした。また、核爆発による地上衝撃によって引き起こされる非常に高い加速度を吸収できるか、ショックマウントに取り付けられていなければなりませんでした。システムのイニシャルコストと運用・保守コストの両方が評価されました。サイトへの動力供給には、信頼性の高い旧型ディーゼルエンジンを選択しました。システムの設計では,水や流入空気の加熱など,装置から発生する熱を可能な限り利用しました.典型的なアトラスのサイトでは,各プラントに1,000kWのユニットが4基ずつ設置され,ミサイルのクラスターを支えていました.
サイロ上部ドア
サイロのオーバーヘッドドア設計は、エンジニアリングのジレンマを生み出しました。300平方フィートの開口部を覆うドアは、極端な天候、核放射線、過圧、構造的な反発からミサイルを保護し、ミサイルの発射と誘導に影響を与えないこと、発射合図後30秒以内に完全に開くこと、ミサイルのカウントダウン手順の中で連続した項目として動作すること、などが求められました。また、クロージャの構築、完全な組み立て、設置、フィールドでのチェックアウトを可能にするように設計されていなければなりませんでした。シングルリーフ設計やロールアウェイ設計のようなそれぞれの潜在的な設計には、それを考慮から排除する独自の特定の欠点のセットがありました。最終的に、ダブルヒンジ、ダブルリーフ、フラットドアのデザインが採用されました。2つの半分の間の中央の亀裂の問題は、ドアの特別なくさびの設計と、さらにシール性を向上させるためにネオプレンガスケットとステップメッシュを使用することによって解決されました。
様々なミサイルサイトの建設とアクティベーションに関与する多様な要素をすべてまとめることが、サイトアクティベーションタスクフォース司令官の仕事であった。彼は、親コマンドに関係なく、与えられた基地の弾道ミサイルサイトアクティベーションプログラムに参加しているすべての空軍の要素に対する作戦上のコントロールを与えられました。主に土木工学と諜報機関のキャリア分野から来た司令官は、現場支援施設と住宅の建設を指示し、建設監視を提供し、サイトの設置、チェックアウト、戦略航空司令部への転換を管理しました。土木、機械、電気技術者、低温工学、熱応力、衝撃実装の専門家、資金管理者、広報担当者、議会調査官への説明役などが求められた。要するに、彼らは空軍のためにそれを実現させた人物だったのです。1961 年までに、彼らはアトラス・ミサイル 120 発のアトラス・ミサイルを 11 基地に、タイタン・ミサイル 54 発のタイタン・ミサイルを 5 基地に配備していた。
おわりに
この記事では、この大規模な取り組みに関わった人々が直面した様々な工学的課題について簡単に触れただけです。その規模の大きさは今でも注目に値するものであり、土砂、岩石、泥の総量は3,755万立方ヤードに及びました。これは、ロサンゼルスからピッツバーグまでの深さ10フィート、幅10フィートの灌漑用水路に相当します。現場で使用された鋼材は、サンフランシスコからワシントンD.C.までの鉄道線路を建設することができました。当時、全国ニュース誌は「ミサイル基地建設計画はピラミッドをティンカー・トイの演習のように見せている」と述べています。アメリカ土木学会は、ICBM施設建設プログラムを1962年の "Outstanding Civil Engineering Achievement of the Year "に選出した。同様に重要なのは、この取り組み全体が、空軍の土木技術者に対する見方の転換点となったことです。空軍の技術者が自分たちのプロフェッショナリズムに対する尊敬と認知度の向上を求めていた時期に、ICBMプロジェクトでの彼らの仕事が道を切り開いたのです。