はてなキーワード: 満身創痍とは
【オレオレFC】無念…ドローで奇跡起きず。MF鈴木、先制点で望みも、終盤失点で力尽きる。
<YBCルヴァン杯:広島1-1オレオレFC>◇プレーオフ第2戦◇11日◇Eスタ
ルヴァンカッププレーオフステージ第2戦が11日に各地で行われ、第1戦を0ー3で落としたオレオレFCはアウェイでサンフレッチェ広島と1ー1の引き分け。合計1ー4で敗れ、2年連続の8強入りを逃した。前半から攻勢を仕掛け、30分にMF鈴木が豪快なミドルシュートで先制点を挙げた。後半も攻め込んだが、追加点が獲れず、逆に同42分に失点して、力尽きた。この悔しさを18日にリーグ戦が再開するホームでの清水エスパルス戦でぶつける。
3点差以上での勝利を目指した試合で1-1の引き分けに終わった。2年連続のベスト8進出に届かず、試合後、イレブンはガックリ肩を落として引き上げた。相田満博監督は試合後「選手たちは最後まで諦めずにプレーしていた。敗因は第1戦目で消極的な、逃げの采配をした私にある。全て監督の責任です」とイレブンを労い、自ら敗退の責任を背負った。
勝つしかない状況で、攻撃的布陣を採用した試合。イレブンも奇跡を信じ、開始から球際の攻防で圧倒し、積極的に攻めた。すると前半30分にMF鈴木がペナルティーエリア内から「狙い通りだった。打った瞬間入ると思いました」と、右足で豪快なミドルシュートをねじ込み先制ゴールを挙げ、逆転進出へ一筋の光を手繰り寄せた。
後半も攻めた。同20分には負傷離脱していたFW吉田、ジュシエ、ペドロを投入し、DFを2バック気味にして5トップにし、逆転へあの手この手を使って攻めた。だが決められず。逆に42分に痛恨の失点を喫して敗退が決まった。シュートは広島が6本だったのに対し、オレオレは20本放ったが、1得点止まり。MF山本は「(失点は)一瞬のスキをつかれた。自分も含めて、アタッキングサードでの冷静さが足りなかった」と肩を落とした。
チームは満身創痍だった。MF宮城、FWキム・スヨン、奥原がとある事情のため不在。ベンチ入り予定だったMF岡本は9日の練習で左肩を脱臼し離脱。それでもイレブンは誰一人諦めず、奇跡を信じ、最後の1秒まで走り回った。GK村上は好セーブで救い、出場機会はなかったが、ベテランMF加藤、GK杉本、交代で退いた選手、コーチ、監督がラインギリギリまで声を出し、チームを鼓舞した。
その姿勢はサポーターも受け取っていた。試合後、肩を落として挨拶に来たイレブンに「下を向くな」「悔しさを忘れるなよ」「次は勝とう」と拍手と激励の声があった。次は18日、ホームで清水とのリーグ戦に向かう。山本は「結果につながらなかったのは申し訳無い気持ち。こういう試合を糧にして、チームとしてより1段階、2段階強くなっていけるようにします」と前を向いた。敗退を糧に10試合負けなしのリーグ戦で再出発する。
2回に分けたうちの1回目で初回は重いものを持って運ぶ回
普段長時間運転をしないからそれだけでも疲れたのに、肉体労働も重なって許容量を超えた気がする
以前引越し業者さんに頼んだ時、運送屋のお兄さんが一人でやってくれたから出来るだろう考えてた
いざやるととても出ちゃダメな汗が出ている感じがする程ヤバかった
ぎっくり腰にならなかっただけ良しとしよう
そんなこんなで夕食を食べたのが9時過ぎ
そして、今日
体が動く事を拒否するほど怠い
体が鈍っている事、年齢の事、引越し先から次の引越しする時の手間を考えてと更に鬱々
部屋も片付けないと行けないし、プライベートの頼まれ毎も片付けないと行けないと思うと憔悴感
あー…何もかも面倒くさい…
満身創痍でブスに挑むやんけw
mochinki スーパーの買い物袋と子どもとベビーカーを全部抱えても平気な筋力とリーチの長さは、育児にとても役立つよ。
kijtra 向いてるかどうかで判断しちゃうと、女性より育児に向いてる男性もいるだろうから平行線だよ。
hiroshe 前提がステレオタイプ過ぎ。全然当てはまらないケースも今はたくさんあるで。
strbrsh うちは多分父母ともに子供と過ごす時間は半々くらいで持ってると思うんだけど、最近はお父さん好き!みたいな感じで、好意の比重は行ったり来たりしてる。妻も俺も得意不得意あるので、補い合えてるんじゃないかと。
catbears そうかも知れないし生物的に実際そうであっても、それを超えて機能するために社会があるわけで苦手な側は克服する手段が必要でそれを選べる豊かさと機能はあるはず。
konayama 出産直後で満身創痍の母親より体力のある父親の方が長時間抱っこや夜泣きに対応できるし育児に向いているのでは?
napsucks 新生児期は睡眠時間ズラして夫が夜中に哺乳瓶でミルクをあげると妻は6時間眠れるのでメンタル破損防止になる。空腹で泣く前に哺乳瓶を突っ込むドリームフィードをすればほぼ手間もない。手抜きしてラクラク育児!
vkara そんなことはない。世の会社が社畜欲しさに母親に押し付ける社会を作っただけ。妊娠出産で苦しまなくても、養子とかで血のつながりはなくてもちゃんと愛して育てられる。
c87 頑張って抱っこしてた夫によくなついてますけどね
yoru_zi 「自分以上の命であるように、我が子を慈しみ大切に育てる」妊娠中、鬱すぎてそんなこと微塵も考えられなかったよ。全ての女性がそんな感性持ってるわけじゃない。男性の方が慈しんでるパターンもあるよ。
adhd1978bba えー。10ヶ月大変に自分を呪い、子を呪い、産むしかなくて産んだ人を知ってる。慈しみってなんやねん。「手術無しでおろせないか」みたいな日々の人もいるよ。男性保育士で有能な人いっぱいみたよ???
nami-hey75 粉ミルクなどない時代には太古の昔から母親が乳を与えなければ死んでいただろうけど、現代ではどちらが乳を与えようと栄養さえ摂取出来れば赤子は死なない。よって性別は関係ない。
vndn 筋力があった方がいいだろうから、傾向で言ったら男性の方が適性が高いのではないかと思う。
yako_baum 育児は向き不向き関係なく子がいたらしなきゃいけないものだから、問いにならない。私だって向いてないなぁと思いながら10年以上子育てしてる(なぜ3人産んだ)(本文読んでない)
liif 10ヶ月お腹にいたから男女差あるって乱暴すぎな理論な気が。やむなき事情や選択で母乳あげない母親もいるし。向いてるかどうかは個人差の方が男女差より大きい気がする。
alt-native 性別関係なく 少なくとも自分は向いてないと思っている。
matchy2 仮に女性のほうが育児にむいているとして、必ずしもむいているひとだけに押し付けられるものではないと思うのだけれど
villoxu “男性の筋肉質で堅い腕より女性の柔らかみのある腕に抱かれる事を好む。"については幻想な気がするし、筋肉質なほうが抱くのに向いてそう。
damehobbyanimelike-913 なるほど抱っこ紐やベビーカーも代用品ですね。カンガルーにでも子育てをさせるのがよいかと……科学の力ナメんな
issai1010 うちは母乳以外は全部夫がやるくらいの気持ちで(とはいっても実際は6割くらい)やったけど、寝るときはパパにくっつくし外ではパパと手をつなぐし転んだ時の第一声は「パパ~泣」だよ。嘘だと思うならやってみ?
akashi735 あなたの感想ですよね。ウソつくのやめてもらっていいですか?ってやつ。うちの息子は0歳から今までずっとパパっこ。
Phenomenon がっつり育休取ったけど「おっぱい出ない」以外では同意できないな。出産で体力落ちてる女性より男性のほうが体力的に向いている気さえするよ。
hope_ring 母親が育児放棄気味で父親が引き取った例を知っている。性差による傾向はあるかもしれないが個人差っぽい
mkotatsu もし男が育児するのが当たり前の社会だったら「男の方が育児にむいてるよね。力持ちだし、感情的で子供の情操教育にぴったり」て言われてると思うわ。人類のこの周りに合わせた雑さが地球で覇権取った秘訣だと思う
monacal 母乳以外は父親でも何とかなる、と男性による育児漫画でよくみる。育児は体力勝負なところもあるし2人がかりでできるならそれに越したことはない。何より出産直後の母親は全治1ヶ月の重症みたいな状態だし。
wildhog 子供と荷物とベビーカー抱えて階段登ったりするのは男の方が得意かも
wdnsdy 個人的には、父親の方ががっちりしてて安定感があって高さもあったから、父親に抱き上げてもらう方が好きだったが…父親の方が25センチも高いから普通に眺めが良かったし。子供は柔らかい方が好きってどこ情報だよ?
ayumun 父子家庭全否定だな。粉ミルクが無い時代は山羊の乳とか米の研ぎ汁を飲ませてたので、増田の理論だと人類男性よりも山羊や米の方が育児に向いている事になるな。
Domino-R 生物学的な比較なら、家事育児は結局は体力仕事なので男の方が向いてる。経験的には抱っこは嫁よりオレの方が上手かったぞ。ただ問題は誰がやるかより、どれだけ(周囲が)サポートできるかだがな。
Nigitama 0~4歳くらいまでは腕力が必要なので、平均を取るなら男性のが向いているのでは?
chikayours 産後体力のない母性よりは力仕事が可能な点においては男性のが育児に向いてるのでは。他人の生命を維持するために要するタスクを覚えて実行することにおいては障害がない限り男女を問わないと思うよ。
kagecage ここのブコメを見ると「男性が育児において不利というわけではない」ということがよくわかっていいな。/夫の方が繊細な気配りができるので育児向いてるだろうなーとは思っている。
masanoT 身体的なところもあるかもしれんけど、それ以上に自分が育児することを前向きにとらえているかの方が大きいよ。自分に向いてないって思ってる人は単純にめんどくってやりたくないんだよ。
chi-Haya 最初は誰でもいいけど少ししたら長くいる人のことが好きになるという話がある。母が一緒のことが多いから、母が有利?になりやすいだけ。母乳じゃないとダメなら母乳飲めない子は死ぬと言う生物学的選択があるはず。
hedgehogx アジアでは男性が育児する風習が結構あるので1度行ってみるといい。
exaray 「違いがあるかどうか」と「役割分担を完全に区別せねばならないほどの有意な違いがあるかどうか」は全然別の話ですよ。「違いの有無」ばかり見て、「違いの程度の問題」を無視してはいけません。
L3msh0 まだこんなこと本気で思ってる人がいるんだという驚きがある。
studymonster 性差が大きな意味を持つ分野もあるけど、育児に関して言えば個人差と経験が大きいと思う。子煩悩の夫の育児スキルは私より高い。お腹の子を慈しむのも夫の方が上で、妊娠中の私のガサツな行動はよく叱られていた。
wakuwakuojisan 向き不向きは個人差でしかなく性別差ではないと思う。というか仮にそうでなかったとしても政治的正しさとしてはそういうことにしておかないと「男の方が仕事に向いているから」って理由で賃金格差も正当化されちゃう
misomico 多くの点で、性差は個人差を超えない
moandsa 傾向はあるかもしれないが個体差はもっと大きい。だいたい慈しんでとかそんなロンマンチックなもんない。切られた傷と寝不足と乳首痛いだけ。体力ある人が適任。
differential 私の母は子供も育児も嫌いで我が子だから仕方なく育てたと言ってたよ笑。孫にも興味なかった。性別より個体差の方が大きんじゃないかなぁ。子を虐待する女も掃いて捨てるほどいるでしょう?
shields-pikes お前は日本会議かなんかの父権主義カルト信者か。/乳児は完全ミルクでも立派に育つ。男性にできない育児家事なんて存在しない。懐くかどうかなんて、接触時間の長さ次第だよ。育児に本気で時間を割いてないだけ。
noki_e 事実ではないですね。有害な言説なので二度と言わないでほしい。我が家では幼児の危険予測と安全確保やら遊び相手も駄々を宥めるのも寝かしつけのゆらゆらも夫のが全然上手いよ馬鹿にすんじゃねえよ
Fuggi 否。むしろ女性は一般に情動・共感力が強すぎて新生児育児に向いてない。赤ん坊が大泣きしてるのは不満があるからだが、母親を責めてるわけじゃない。感情を切って必要なことだけする男性の方が向いてる。
amematarou 女性が向いてるんじゃなくて、女性はホルモンやメンタルの作用で子育てに命がけで取り組むが、男性は一歩引いて見ている。結果、女性がやりたいだけやるので女ばっかりになる。別に向いてるんじゃない。
sin20xx "自分以上の命であるように、我が子を慈しみ大切に育てる"は所謂呪いの言葉な。男性でも女性でも一定の割合で子供に無償の愛を注げるのと同じで男性同様に女性にも我が子ですら愛情が湧かない人もいる。それが現実。
greenbuddha138 性差より個人差の方が大きいことは知っておくべき
kaishaku01 女で母性本能ゼロなので、こういう意見を見るたびに自分がろくでなしに思えてつらい。子供は一生懸命育てているしかわいいが、確実に向いていないと痛感する。
ginga0118 母親はお腹の中にいる頃から繋がっていたのでよく赤ちゃんの鳴き声でなにを欲してるか分かると言うが、あれは嘘だ。単なる経験による気配りによるもの。嫁より俺の方が子供の言いたいことは分かっている。
quick_past ぜんぜん違う。男性が男性の世界を守るために女性をなんとしても家に閉じ込めたい。そういう偏見を補強するための詭弁だよ。本人が望んでもやらせない上に、ちやほやされなくなるぞと脅す。それが君等だ。
esbee 増田、ワイ育休取得したけど、別に変わらないよ。ほっといたら死ぬんだからやれる人がやるしかないんだよ。それが女性であるべきというのは原始時代の発想で、文明社会である自覚があるんなら否定せなあかん
ameshonyan そうかね?うちの娘はマッチョなパパに高い高いしてもらったり体使った遊びしてもらうときが一番ご機嫌だよ。それぞれが得意なことを分担するのがいいんじゃないの。
kerokimu 子供が懐くのは単に世話して愛情を与えてくれる人だからな気がするが
camaci_mv おれ育休とって母親が働いてるあいだガッツリ育児したけど、2歳になる息子氏はかなりパパっ子ですよ。「父親に育てられた子は不幸」という萩生田発言は根にもってる(唐突な政権批判)
yomichi47 初乳後はミルクで大丈夫、実践済。妻は子の泣き声の意味を理解出来ず、自分が全対応したので子供達は私の抱っこじゃないと寝なくなったし、私宛にしか泣かなくなった。結論、赤子の要望に対応できる方が向いている
pptppc2 未来人です。「アンドロイドに育てられた子供は人肌の暖かさを知らないから冷たい人間に育つ」などという差別が未来でも後を絶ちません。このような考え方はこの増田のような人間が発端であると考えています。
atahara 筋肉のある男性の方が子供を長時間抱っこ出来るし、元気な子供に付き合って遊ぶのも体力のある男性の方が向いてるとも言える。この辺は個人差の方が大きいよ。
el-condor 「事実」と言うに足るだけのデータを持っているなら学問的価値が高そうなので公開宜しく/ヒトの本能支配の弱さを考えると、個人差の方が余程大きそう。
vanillayeti あのね、女だって産んだ瞬間から母性本能ダダ漏れになるわけじゃないんだよ。女だって最初の出産子育てはわからないことだらけだけどやるしかないからやってるだけ。女もあなたと全く同じ人間なんだよ
abinosuke 「授乳しながら寝落ちすると子供を死なせてしまうリスクがあるから身体に授乳器官を備えた女性は育児に向かない」なんて事だって言えるよ。育児環境はそれぞれ違うから向く向かないなんて発想は無意味だと思う
nowa_s 子育てしたことないけど、もしすることになったら、行動にムラがあってガサツでうっかり屋で人の気持ちが分からない自分(女)より、何かと行き届いててマメで几帳面で人をよく見てる夫の方が向いてそうだとは常々思う
grdgs んなこたあない。この増田は女を家庭に押し込め、男が社会的強者の位置を譲りたくないという意図があるようにしか見えないね。
tvxqqqq 下方婚して夫にガッツリ育休とってもらって自分は仕事復帰したけど、うちの家庭だと乳以外の面では「長い時間一緒にいた人間を好む」が答えだったよ。夫の育休期間は夫がいないと泣いてた。
mayumayu_nimolove 男女で分ける考え方が良くないんだよ。男でも保育士とかいるだろ。性別関係ない。で、何でこの考え方がいけないかって言うと、女なんだから、男なんだからって性別で押し付けられちゃう社会。わかる?
Yutorigen 身体的特徴の差と見せかけつつ殆ど精神論じゃねーか。男性にマウントを取りたいのか女性に育児を押し付けたいのかは知らんが黙っとけ。
t-tanaka 「向いている側だけがやる」という考えが根本的に間違っている。子供は必ず複数の大人で育てなければならない。向き不向きば関係なく,育児は全員でやるんだよ。
そうですかね?「男性の育児能力は女性に劣る」とは考えにくいです
2.能力的に多少
まず、「女性は10か月以上」からの件はただの精神論で客観性に乏しいです。
また母乳を高評価するのは良いんだけど、それは乳児期の授乳という年代的にも分野的にも限られたものとなります。
子どもは柔らかい肌を好むから女性の方が育児能力が高いは出典不明です。仮にこれが大きな差であったとしても0歳1歳程度にしか関係がないのではありませんか。
逆に言って女性の優位性と言うのがこの程度しか出てこないならば女性は育児に向いているというのは買い被りである可能性が高いように思います。
ステレオタイプでしょう。
男性でも育児に向いてる人もいるし女性でも育児に向いてない人もいる。
ここまで見た傾向として
という傾向が分かった。ブックマーカーの意見を統合すれば「育児の上手い下手に性別は関係ないが、体力と筋力の方で男性の方が有利」という事になった。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
あのさ、
有名な映画の大林監督作品の尾道三部作と言えばターミネーター三部作と肩を並べて超有名なビッグタイトルだけど、
また話は別よね、
販売が今月末までだと言うことで、
これを機に3Dシリーズも挑戦してみようか!ってやる気満々の満身創痍!暖簾に腕押しでポチったワケなのよ。
買ってから気が付いたんだけど、
この三部作クリアするまでの時間ボリューム私にはあるのかしら?って
重さが重くならないのはどうなってるのよ?って思ってしまうわ。
とりあえず
早速思ったのが
そしたらよ、
そしたらスーパーマリオ64の最初のステージからもういきなりどこに行っていいか分からない状態で
どうやら一番上の所まで言って、
バクダン兵の王様を投げ飛ばせばいいらしいことは分かったのよね。
で、なんとか頂上まで行ってバクダン兵の王様を投げ飛ばせることまでは成功したの。
でも何回かやっぱり投げ飛ばさなくちゃいけないみたいで、
ヘイヘイヘイ!って挑発したら、
まんまとむんずと掴まれて放り投げられて一番下の地上まで投げ飛ばされちゃったわ。
えーまたあの頂上まで登るの?と思ったら絶句だけど、
もうスーパーマリオ64ですら前途多難感ありありな出だしで、
でもちょっとサンシャインもギャラクシーも冒頭のちょっとだけ遊んでみようかなって、
もう早速5分やって他のゲームに移っちゃったの。
なんか凄いゲームでとにかく、
3Dの中を歩き回って
水鉄砲撃ったり夜空を飛び回ったりと
なんかこれもあと2作あると思うと、
いったいスーパーマリオシリーズ何作あるんだよ!ってもう遊び尽くせない感じがして、
マリオ恐るべしって思ったのよ。
なんか小さな惑星を逆さまに歩いたり走ったりするので気持ち悪くなっちゃいそうな雰囲気で
面白すぎて前途多難すぎるわ。
それにともなって色々な技を繰り出せるみたいなんだけど、
こんなのフラッシュ暗記暗算大会の上位入賞者の人じゃないと一画面を見て一度に暗記できないわ!ってゾッとする操作方法の種類にまた驚愕よ。
楽しいけどさ、
これをまたクリアしていくと思うと辛いわ。
でも毎回毎作ごとに連れ去られるピーチ姫のことを思うと
彼女の不憫さと比べると私の三部作へのクリアの重荷と比べるとたいしたことないのよね。
ピーチ姫は毎作大変な思いをさせられて大変だなーって。
でね、
ちょっと前にスマホの携帯ゲームで出てるスーパーマリオランもやってみたんだけど、
あれはただただタイミング良くボタンを押していくだけでクリア出来ちゃうから、
あんまりマリオに接したこと無い私だったからこんなモノなのねって楽しさがよく分かってなかったのよ。
だけど、
マリオ感がやっぱり堪能できないのよね。
きっとそう思うわ。
そうなると対峙するソニックシリーズもまた私研究対象として研究しなくてはいけないソニックシリーズもコンプしてクリアするという苦行を行わなくてはならないと思うと今からゾッとするわ。
やっぱり超巨大コンテンツとしてのマリオって楽しくてスゴいわね!って思うしかないのよね。
これを機にまたユニバーサルスタジオジャパンのマリオのアトラクションも私遊びたくなっちゃうのかしら?と今から思うと、
関西に行く口実にもなるわよね。
何度ここへ来たって大阪弁上手くなれへんのよ。
そんな思いも裏腹に、
まずは
心に決めた攻略本を見ないって誓いも
スーパーマリオ64の一番最初のステージでどこに行っていいか分からないからすぐ見ちゃったという、
私の意志の弱さ。
ため息が出るわ。
でもまあ一歩一歩頑張るのみよ。
前途多難長い道のりだなーって
応援してね!
うふふ。
ちと朝からは重たかったかもと思いつつこれってもしかしてチンして温める前提なのかしら?って思うほどの出来栄えで美味しかったわ。
朝たくさん沸かしておいておいたので
たくさん飲めるわよ!
ごくごくごく!
水分補給はこまめにまめにしてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
その時の所感を思い出話も兼ね、ここにエントリーを残そうと思う。
拙い文章だしまとまりの無い雑記で恐縮だが、もし興味があれば最後まで付き合っていただけると幸いだ。
そこまで興味ねえよ、って方は『デルタの羊』(著:塩田武士)を読むか、
『アニメーション制作進行くろみちゃん』(制作:ゆめ太カンパニー)を観れば良いと思う。
大分アニメ業界をマイルドに表現しているが、ある程度リアルな現状が分かるだろう。
大学を卒業後、国家資格が必要な仕事でそれなりに安定した生活を続けていた。
そのうち、毎日の仕事に退屈さを覚え、自分の好きなことに関われる仕事をしたいと考えるようになった。
そう決心してから実行に移すまではそう遅くなかった。
一度だけの人生、自分の想いには素直になりたいと思って転職をした。
中途採用の面接は驚くほどアッサリとうまくいき、無事志望していた制作会社に入社することができた。
他にも経験したポジションはあるのだが、書きすぎると特定されかねないのでここで留めておく。
そうして入社したアニメ制作会社に、新卒時代の仕事よりも長い年数身を置くことになる。
一般企業からすれば規模は小さいように見えるが、業界内からすれば大手制作会社といえる。
今の職場で、制作に携わったアニメをオタクじゃない先輩に話したら「あー、あのアニメ作ってたの?」って
言われるほどには結構作品自体の認知度は高いし、結構覇権認定された作品も制作していた。
会社についても、そこそこアニメオタクからは話題に上がるほどだ。
毎年新卒の制作進行が複数人入社するし、抜けた数だけ中途採用ですぐに補填できるほど、
ひとことで言えば「縁の下の奴隷」と称すのが正しい。
制作進行という仕事について、「立派な名前は付けられているが、テレビ番組のADと変わらない」という認識かもしれない。
概ね合っている。
付け加えるとすれば、漫画の編集者の仕事の一端も担っていると言って良い。
漫画の編集者は、大体一人の編集者が一人の作家を面倒見るものだと思う。
アニメの制作進行は一話につき約10~30人の原画担当、そして数人程度の作画監督、
監督の追っかけまでするのはスタジオによってまちまちだろうが、概ね他社も似たような状況だ。
クリエイターからすれば、アニメ自体に何の付加価値も与えていない使い捨ての道具程度にしか見られていないが、
実際のところ制作進行が居なければどんな作品が作られるだろうか。
高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』のように、制作期間と制作費をドブに捨てた「儲からない作品」のできあがりだ。
制作進行、制作デスク、ラインプロデューサー、こういった旗振り役が存在するからこそオンエアのスケジュールに沿ってアニメ作品は作られる。
全く軽んじられている仕事に見えて、実はアニメ制作の仕事においては重要な役割だ。
給料は中堅拘束アニメーターや演出の拘束費よりも、自分の新卒時代の月給よりも少ないのに。
また、大手のアニメ会社といえど、社内の作画スタッフだけで作品を作れるかと言ったらそういうわけでもない。
フリーや他社のアニメーターに声をかけて「うちの仕事しませんか?」と営業するのも制作進行の仕事だ。
これについては、大変なおもいをしてアニメーターに罵倒されつつも満身創痍で人集めしていたかと思うと
実はそこまで酷い目に遭ったことは少なかった。(全く無いわけではない)
結構ウチの社名と参加タイトル出しておくと集めやすかったというのが他社スタジオに籍を置いていた先輩の感想だ。
他にも、「外回り」といって作画担当の上がりをアニメーター宅やスタジオまで回収しに行く仕事もほとんど無かった。
会社のブランドによるアニメーターの集めやすさ、物理的にしんどい外回りが不要であること、これらは大手ならではの強みだろう。
アニメ業界にいる人間は大体低賃金で働かされるという問題が取り沙汰されるのは、業界の外の人間にとっても聞かない話題では無いと思う。
年齢が50代後半を迎えたベテランにも関わらず、相変わらずボロアパートに暮らしている人間は少なくないし、
税金を未納しているほど経済状況に困窮しているアニメーターも知っている中で若干名存在する。
キレイな上がりを出して作品に多大な貢献している人は月に50~100万、中堅でも安定している上がりを出せれば20~30万と、
作品に対して一定以上のクオリティを保っていれば普通に生活できているのが実情だ。
そんな実情なのに生活に困っているアニメーターは、新人である以外に思い当たる大きな要因としては以下の三つだと考えられる。
①病気のためしばらく仕事ができていない(激務だし生活サイクルが安定しないので、結構体を壊しやすい)。
②上がりは平均程度なのに性格に難があるから、次の仕事に繋がりにくい(この手の人は作品の納期がヤバいと起用される傾向にはある)。
③そもそも上がりのレベルが落書きだから仕事を干されている(なおかつスケジュールも守れないパターンも割とあるのでかなりタチが悪い)。
性格に難があったり、上がりを出すまでが遅くても使われ続けるアニメーターって、結局押さえるべきクオリティを押さえられている。
にも関わらず「アニメーターは低賃金だ! 彼らの生活を安定させろ!」と騒ぐのは業界をよく分かっていないモグリの発言だ。
新人アニメーターの生活を安定させろという話もあるが、これについても新人なら新人なりにキャリアの無いうちにフリーにならず、
どこかのスタジオに籍を置けば実はある程度解決できる話に過ぎない。
じゃあ稼いでいるアニメーターって具体的にどんなアニメーターだろう、と聞かれたら真っ先に以下の三点が挙げられる。
①納期厳守
②安定したクオリティの上がり
①さえ守っておけば仕事は来るし、②だけが強みな人も生活できるレベルで稼げる、③については納期を平気で破ろうが高い拘束費を貰って仕事ができる。
③をできる人が居なくても①と②を心がけられる人が居さえすれば生活なんてできるし、一ヶ月程度の休暇を取ったとしても生活している人だって居る。
制作の人間からすれば、あまりクオリティ追求しすぎず納期を守ってくれさえすれば文句は無い。
その理由は次項で話そう。
原画担当が演出指示に従って構図とキャラ等の位置関係等を下描きする工程。
最近では3Dモデルを使ったレイアウトを制作会社が用意して、その上に作画担当が描くパターンもある。
出来上がったレイアウトを演出担当が指示通りに描いてくれているか、
もしくは気が変わったからこういう風に直してくれという指示を挟む。
あまりに酷い上がりだったらこの時点でリテイク指示して作画に差し戻し、もしくは制作進行にブチ切れる。
演出の指示がしっかり作品の雰囲気や世界観に沿っているか確認する工程。
監督が演出を兼任している、監督の業務負担が重すぎる、演出の力量が高い、などの時には
作画監督(作監)が②③の工程で出た修正に加え、絵柄の統一を図る。
基本的に①で出てくる上がりは作監以上のクラスの人間が描かない限り、全く絵柄が作品に合っていないパターンが圧倒的に多い。
というか原画担当にキャラクターデザインの通り描かせたら時間がかかってしょうがないので、
総作画監督(総作監)がキャラを大写しにしていたり、動き方が大事なカットを修正する。
これに関しては、必要最低限なカットだけを修正させることで、総作監の業務負担を減らすことになっている。
④もしくは⑤の工程が終わった戻しのカットを、基本的には①の作業者が清書する。
演出、監督、作監などのメインスタッフが起用NG出したり、作業者のスケジュールが合わないなどの場合は、
別の作業者を制作進行が第二原画担当を探してお願いすることになる。
エンドクレジットに出てくる第二原画はそういった「レイアウト作業者の尻拭いをしている人」という認識でいると良い。
上がった原画がしっかりレイアウト修正を反映しているか演出がチェックする。
問題なければ、動画検査に回して動画会社や社内動画に描いてもらう。
これでも直っていなかったら作監にまた修正をお願いすることになる。
細かい工程は少し省いたが、一覧で見てみてもご推察いただけると思う。
上がりが上手ければ上手いほど、③~⑦の工程で省ける箇所が増えるのだ。
その省ける工程のおかげでアニメ制作がスムーズに動き、それができる作画担当はアニメ業界において重宝され、
貢献度に応じて対価が支払われるようになる。
作画担当のそうした活躍は拘束費の引き上げ、作監以上への格上げ、更には演出や監督デビューにも繋がる。
中にはずっと絵を描いていたいということで、生活が少しくらい苦しくても作画のままでいるアニメーターもいたりはする。
ここが前項で述べた「クオリティを重視し過ぎなくても良い」と言った理由だ。
昔のアニメに比べて、今の時代のアニメだからこその進化がある。
出来上がった作画に光の陰影だとか、無機物ののっぺり感を抑える処理。
これを撮影班や美術担当が加工することで立体的でリアリティや臨場感を与えてくれる。
『鬼滅の刃』を制作したufotableが、自分が思うにこの技術力は随一だと思っている。
あそこは動画については、海外の動画会社に撒いているので動画枚数にこだわりがあるというわけではない。
その分、撮影や特効によってリアリティのあるごまかしで、キレイな上がりになっているように見せている。
少し話題は変わるがtwitterのTLを巡回していたときに「あの作画やべえええええええ」って3Dモデルが動いているだけのカットを
絶賛していて、アニメ観ている人ってその程度の認識でしかないよなあって少し落胆してしまった。
演出助手になっても、制作デスクを担当しても、上がる給料は少ない。
それでも嫁と二人暮らしで、嫁の方もフルタイムで働いていたのでこれまでは問題無かった。
先立つものがなくなる不安で仕事にも集中できなくなり、再度新卒時代に携わっていた国家資格が必要な仕事に戻ることにした。
アニメ業界は、左うちわで稼げるようになるまでの時間が途轍もなくかかる。
特に制作側で入った人間は一層そこに至るまでに苦労を強いられる。
これを詳細に語ると当時を思い出して気が滅入るので、箇条書きで記載する。
・上がりの納期を守ってくれる作画が知り合ったアニメーター数百人中両手で数える程度しかいない。
・今でも当時の罵詈雑言の日々が夢に出てきて真夜中に起きる。
同年代の新卒社員と中途で入った自分とで、自分の方が給料が高い、なんてこともあって
大手の制作会社でも決まった給与テーブルが存在しないパターンがある。
あと、規模さえ考慮しなければアニメ制作会社の面接は驚くほど簡単に通りやすい。
簡単なコミュニケーションや、自分がこれまで経験したことをありのまま受け答えして、
最後の質疑応答でアニメ業界に興味ありげな質問さえしておけば大体通る。
落ちたらよっぽどのコミュ障か、社会不適合者レベルだとも言えるのではないだろうか。
そんな割と適当な業界でもあるので、ある程度新卒で働いてから考え直しても良いと思う。
10社転職してから入った人も居るような業界だし、思った以上に門戸は広い。
それでもアニメ制作会社に入りたいのであれば「アニメが好きなこと」と「アニメを作るのが好きなこと」は違う、
これは肝に銘じておいたほうが良い。
入りたての頃、自分が制作に関わったアニメのオンエアが観れなかったほど、アニメが嫌いになりかけたことがある。
そこを経て色んな感覚が麻痺し始めてから、真のアニメ業界人の一歩だろう。
道のりは前途多難だが、アニメで成し遂げたいことがあるならば健闘を祈る。
昨年の桐生ココ3D化~湊あくあソロライブ~戌神ころね登録者数100万達成の、せいぜい半年間だったと後世語られそうな雰囲気になりつつある今日このごろ。
というのも、当時から何度も言われていたとおり、急成長に対し会社の規模が見合っていないという問題を未だに解決できず、このままだと自滅する未来しか見えないから。
結果、以下の不安要素により辛うじて満身創痍な状態に留まっているだけであり、正直夜しか寝られない。
このまま徒花の象徴みたいな形で記憶に残るとしたら、なんとも忍びない話である。
出たよ話のすり替え。
ここのコメの増田、まるで女を家畜か何かみたいな扱いしたがってるよう奴多くて草。
自分はめちゃくちゃしんどい思いして重たいもん10ヶ月も抱えながら生活して、金以外に価値がない人間の衣食住を世話してやって、一昔前じゃあ生死かかるような苦痛味わって満身創痍になっても2、3日したら(見た目だけ)元気なんだから家事しっかりやれってガキの世話と子供おじさんの世話しなければならないんだよね?地獄!
子育て手伝ってよ!って父親であるはずの存在に言ったら「仕事で疲れてるのにさー無理矢理手伝いやらされんだよねw自分は家に一日中いてゆっくりしてるのにさwうちの嫁まじ鬼wとか言いふらされるし。
国は「子供産んでね!産んだ後?自分の子なんだから自分でどうにかしなよ? え?虐待?死亡?母親は何してたの?は?父親?男様は関係ないだろハイおまえ逮捕w」って言ってくる。
私まだ若輩者だからわかんないや!
・はじめに
スクスタ20章をクリアしました。実をいうとストーリー攻略をサボってて、17章で止まっていたのですが、20章をプレイした人たちの阿鼻叫喚を聞いて、気になって急いで進めました。
クリアした感想としては、確かにこれは賛否が別れそうなストーリーだな、と感じました。基本的に私は物語を客観的に見るようにしているのですが、やはり見てて辛い部分もありました。
自分の想いをまとめるために、拙いですが文章を書かせてもらいます。題名の通り、単なる私のお気持ち表明ですので、賛否あると思いますが、他の誰かの感想を否定する気は毛頭ありません。
あと、ネタバレがありますので未クリアの人は気をつけてください。
後、誤字脱字も多いと思いますが許して。
・ 鍾嵐珠(ランジュ)について
19章のラストで登場して、20章でニジガクを引っ掻き回すことになったランジュ。強烈なキャラクター性と理事長の娘という立場もある同好会を徹底的に追い詰める役目だ。
最初に言っておくと、彼女が嫌いだという人がいるが、その意見は正しい。20章における彼女の役割はまさに敵役とも言っても過言ではない。強権を使って(しかもそれは彼女自身の力ではなく理事長の娘、生徒会長の幼馴染という立場を利用して、だ)同好会の自由を奪い、主人公を蔑ろにする。普通にプレイすれば彼女に良い感情をもてというのが無理だ。
しかし、その一方でメタ的な視線を持てば、1話全編でいきなりMVが入ってきてることからすでにモデリングがなされており、曲データも存在することから何らかの形でプレイアブル(と表現するべきかはわからないが)になるのもわかる。
現在、彼女に対する嫌悪感を感じる人が多いのはそれが合わさっているからじゃないだろうか。強権を使って同好会に対してだけ圧政を布き、分断させ、プレイヤーの分身たる”あなた”を蔑ろにする。そんな憎いやつなのに仲間になる可能性が高い。とてもじゃないが受け入れられない、という気持ちが強いのは当然だ。正直、私もその気持ち悪さをどうするべきか悩んでいる。
同じようなことは彼女の幼馴染でもある栞子にも言えるはずである。彼女も個人的な感情で同窓会に対して強く当たっていたが、現在は(正しくは19章まで、だが)同窓会のメンバーとして馴染んでいるし、受け入れている人の方が多いだろう。これは、栞子がシナリオを進めていく上であなたや同窓会のメンバーと交流し、理解して言った上で仲間になることが分かったからだ。心情的にも受け入れやすい。
対するランジュは正直言ってプレイヤーから良い印象はない。幼馴染の栞子が「彼女も悪い人間ではない」とフォローを入れてくれているので、本当は良い部分もあるんだろうが、現状ではプレイヤーはそれを理解できるシーンがない。そんな状態で仲間になる可能性があるのは、受け入れがたいものだと感じる。
一方、彼女の言ってることはある種の正当性もある。スクールアイドルは良くも悪くも見世物だ。表現する側はともかくとして見る側からすれば完成度が高いに越したことはない。それを彼女はプロの力を借りて高度な物へと持っていっている。手段はともかくとして表現する側として完成度が高いものを追い求める姿勢は間違ってはいない。
だが、スクールアイドルとしてどうなのか、なのだかこれは後で纏める。
・果林の選択について
20章で最も批判が集まったように感じているニジガクメンバーの分断。果林と愛はランジュの言葉に一定の理を感じて同好会を離れて部へと向かっていった。正直、果林と愛を推している人には辛すぎる展開だ。私は箱推しなので辛うじて堪え切れたが、自分の推しがシナリオの展開とはいえ敵対する展開は見たくないと思うのは当然だ。しかもそれが、同好会のメンバーを苦しめる役目なのだ。受け入れがたいのは当然だ。
特に果林は同好会ノメンバーにたいして「馴れ合いで入ったわけではない」と言い放ち、ランジュの持っているプロの技術を使ったスキルアップに対して理解を示している。これに私も最初は戸惑ったが、納得はしている。納得できても辛いのは辛いんだけどね。
元々、彼女は読者モデルをやっている。モデル業界には詳しくないものの、アイドルと同じように競争は激しい業界のはずだ。彼女はそこで人気を保つためにあらゆる努力をしていた人間だ。体形に気を使い、いろんな研究もして人気の読者モデルとしての地位を確立した。だから学校でも有名人で、食堂にいれば名前も知らない下級生から話しかけられて、黄色い声を上げさせる、元々はそういう人物である。
そんな彼女がランジュの言葉に理を感じるのは当然だ。少なくともランジュの用意した環境は下手なスクールアイドルでは実現できないレベルのものだ。そこにいることでスキルアップが望めるのならば向上心の高い彼女がそちらを選択を不自然なことではない。これは彼女が薄情というわけではなく、彼女自身がそこまで”スクールアイドル”という存在に本気になっているからだ。だからこそ、貪欲にスキルアップできる場所があるならそちらに向かう。それが例え同好会のメンバーを裏切るような形になっても、だ。理解はできる。だが、やっぱ見てて辛い。
彼女はとにもかくにもギャップが印象的なキャラクターだった。クールビュティーではあるが、子供っぽいところやウブなところ、抜けているところがとにかく描写され、親しみやすい人物として描かれてきたし、プレイヤーもそう思ってきた。だが、20章ではそういう部分は鳴りを潜め、大人としての視点を持ち、ある種残酷な選択が出来る部分も描かれた。19章までの親しみやすい彼女に慣れしたんだプレイヤーが困惑するのも当然ではある。
・エマの怒りについて
果林がある種、大人の選択をしたこと、そしてランジュに対して彼女が最も過敏に反応している。普段のおっとりさからは想像できない、怒気を孕んだ言葉で対応しているシーンが多い。特に果林と対峙した際の会話が顕著。最も、皆を幸せにしたいと願いスクールアイドルをしている彼女とランジュの姿勢は真っ向から対立するものだし、彼女がはっきりとは言わないものの、彼女を拒絶しているのもちょっと新鮮だ。……新鮮なだけで見てるこっちのこころはボロボロなわけだが。アニメニジガクの5話見た後にこんなの見せられるの拷問以外のなにものでもない。
だが、エマは果林に対して怒っているというわけではなく、ランジュのバックダンサーにされている果林の境遇に対して怒っているように感じる。果林のスキルアップに最適な環境であるという言葉に対して、エマは果林自身のステージが見られず、ランジュのバックダンサーの扱いにされていることに怒っている。これは悲しい平行線なのであるが、同好会が元々「個人のキャラクター性を尊重する、そのためにあえて一つのグループにならずにソロ活動をする」という選択をしたからだ。ランジュの活動はそれを否定する形になっており、自分よりも実力があればセンターを譲ると言ってはいるものの、それは実力がなければ果林・愛(そして栞子)の個性を否定するということである。自身の大切な仲間を蔑ろにされている状況、それをエマは許せないのだろう。
20章はとにかく重たい話だった。残った同好会のメンバーは現状を何とかしようとするが、ランジュの強権で身動きが取れず、μ'sの力を借りてなんとか同好会としての体裁は取り戻すものの、状況はあまり好転していない現状だ。
反撃ののろしとして計画されたゲリラライブ、何となく話の展開から上手くは行かないんだろうと覚悟はしていたが、想像以上に辛い展開だった。それは、トップバッターがかすみであったことが大きい。
かすみというキャラは自身を全肯定している。それは「自分はかわいい」という絶対の信頼を持ち、それが自信となって溢れているキャラである。だが、それと同時に彼女はその全肯定の自信の上にあぐらをかくことなく、かわいいを追求し、誰よりも自分がかわいくあれるように努力し、その努力を誇らない人間でもある。彼女がアピールするのはあくまで自身の「かわいい」であり、そのかわいいを生み出すまでの努力は決して見せない。なぜならそれはかわいくないからだ。そのプロフェッショナルさは日常生活ではギャグのオチのように扱われているものの、果林やせつ菜等、仲間たちもいろんな媒体で認めている。
だが、彼女のその全肯定から来る自信は、ゲリラライブを潰すために行われた部のライブで徹底的に打ちのめされる。新進気鋭で演出の完成度も高い部のライブに観客はあっさりと奪い取られ、残されたのは数少ない観客。彼女の積み上げた努力も、ライブにかけた想いも、冷たい現実の前に踏みにじられてしまう。正直、シナリオを読む手が止まってしまった。それぐらいいショッキングな展開だった。
だけど、”中須かすみ”という人物は折れなかった。牙は折られて、満身創痍に打ちのめされても、冷たい現実に声は震えて涙声になっても。だってそれは”可愛くないから”。目の前にいる残ってくれたファンのために、彼女はライブをやり遂げる。
そのかすみの姿に、しずくは可能性を見出す。演出も技術もなにもかもが上のはずのランジュ率いるスクールアイドル部のライブ。だけど、それに勝る何かがかすみのライブにはあった。それはランジュが取りこぼしていて、もしかしたら果林と愛が見失っている何かだ。
その”何か”を確かめるために、しずくはあえて同好会を離れる選択をする。その決意は残念ながら同好会のメンバーには理解できず、可能性を見せたかすみからは拒絶すらされてしまう。だけど、あえて彼女はその道を進む。親友が見せた、おそらくスクールアイドルの輝きを確かめるために。
果林・愛の分断は悲しみや戸惑いという感情が多かったが、しずくのこの決意はむしろ希望に思えた。スクールアイドル部に向かった彼女がどうランジュ、そして果林・愛の2人と向き合うのか、それがどういう結果を貰たらすのか、非常に重要なポジションだと思う。
ランジュの所でも書いたが、彼女の言ってることは全部が全部間違っているわけではない。アイドルとしてファンにライブを見せるにあたって、完成度の高いものを追い求める姿勢は間違ってないし、完成度が高いライブを見せた方が勝つのも当然なのだ。実際、μ'sやAqoursが戦ってきたラブライブという大会はそういう場所だった。
だが、彼女がやっているのは”アイドル”ではなく”スクールアイドル”なのだ。
残った同好会ノメンバーやプレイヤーたる我々が感じているランジュに対する違和感とは、まさにスクールアイドルへの姿勢なのだと思う。そして同時に、セカンドシーズンにおいてニジガクが最初に問われるのは「スクールアイドルとは何か?」なのではないだろうか。
μ'sとAqoursもこの命題に向き合ってきた。μ'sは自身たちの永遠を望む声を聞きながらもそれを「限りある時間の中で輝くもの」とした。Aqoursは時間とともに移り変わりいくことに戸惑いながらも「輝きを受け継ぎ、次代に託していくもの」とした。
ならばニジガクは?
ランジュはスクールアイドルフェスティバルを見てスクールアイドルに憧れて日本へと来た。だが、彼女の姿勢はスクールアイドルとしてはあまりにも歪で、大切なものを見誤っているように感じる。同窓会や”あなた”が感じているそれは、永遠を望まれたμ'sや、3年生が居なくなったAqoursと同じ戸惑いなのだと感じる。
20章は非常に重くて辛い展開だった。だが、希望は確実にあって、私はそれをかすみのライブシーンに強く感じた。そしてしずくの決意の中に感じた。
正直、辛い気持ちが強いのも事実だが、セカンドシーズンはまだ始まったばかりで起承転結の起の部分でしかなく、物語はどう転んでいくのかわからない。賛否が起こる理由もわかる、正直、ここまで拗らせる必要はあったのかと思う。でも、ここだけで判断しては全体が見えない、という気持ちもある。複雑な心境である。
何とも複雑な気持ちなのだが、しばらくはイベントストーリーのほんわかした雰囲気で心を癒しつつ、21章を待つしかないかな……。