はてなキーワード: 分節とは
お笑いというのが人の失敗や苦境、容姿の差異についてそれを有益と認める方向の価値観ではないということを話題として伝播させる様式であることが多いのが問題
問題性としてはその方向性が多いため育成されるものがおおよそそういった表現方法しか知らない状態のまま収益活動に活用されること
収益活動に利用されて問題なのは、主たる目的の収益があがらなくなるということ
もとより他人の失敗を笑うと言うのは価値観を付与した情報の作成方法としてある
笑い話というのは伝聞を伝聞から作成するにあたって要所を個人が抑えやすく再編するにあたって再現性が低くとも主体が残されやすい
文脈と結果をセットにしているためでそのどちらかだけ再現しても笑いにはならない
オチを解説しなくてはならない状況になった時その笑い話は笑うという行動起因を欠いていることにならないためお笑いという形式に固めた情報伝達を行動によって得られる快感で伝播させやすくする
情報伝達媒体として人間関係を築くというのは相対的な人間の成り立ちという根本であるため伝達することやされることは栄養を摂取するに近い快楽を得られる
これを他人の苦しみや災難を笑うことで伝播するという形は発生事象を広め多角的に回避策を考察するためにまず拡散をするということにある
喫緊に解決が必要な状況や関係性でないため遅延して伝聞を拡散するという状況において笑うという感情を利用する
これがお笑いも役立つ教訓になりえ、さすがといわれる落語や関心される漫談になりえる
この伝達を目的とした情報の形成とその受動について作用する「笑い」のみ笑うことのみについてを目的とすると
これは差別的に特に特徴のない事象や小さな差異を大規模的に解決の方法を公募する形で伝達させることですら内容に含む場合がでてくる
差別や侮蔑というのは極小単位での差異を価値観にしたもので規模を広げれば希釈ができる
大阪ナオミが自宅に漂白剤をもっていないわけがない またなくとも自宅に洗剤があるのはとくに特異なことではないしなかったとしても解決方法を要する問題ではない
しかし文脈においてと分節単体においてその指摘する内容は「大阪ナオミに漂白剤を浴びせる」ということ目的としてる
これは笑えるわけがない 面白い要素がない いじめのドラマで中学生がこんなシーンを演じる台本があったとしても笑えるシーンにはならない
もちろんそういった行為が発現するという可能性がゼロではないためその情報を好んだり伝播単位にすることを行う人間も少数は存在するしそれをなくしては防護対策はできない
その特殊な思考の偏りについて発言するのは趣旨にそれるため面白くないという意見が情報を接種した人間すべてではないということに留めるが
「日焼けしすぎやろ」「外で運動しすぎやからな」「服の汚れとか汗がきになるやろ」「漂白剤がいるな」程度には範囲で希釈すれば漂白剤発言は問題にならかったかもしれない
そこまで観測対象を広げるとなにが異常でなにが問題点でそれを解決する知恵をかりたい 知恵が必要な問題点を見抜く視点をもっている有能さ として笑いを起動できるか
となるとその視野と思考の範囲では材料に対して「自分たちが会話をしている流れだけで楽しいこと」であることに気づかず自分たちが笑えた事実のみを基盤に
これは元増田が見た通り「出来るお笑い」を作れるコンビだったかもしれない その才能はあったかもしれない
しかし組み上げる方法や手段を持っていなかったりかのコンビが取得できるところにそういう伝播の情報形成における基礎的な情報がなかったのではないか
師事することやその見解について最低限ここに書いた事を受け継いだ人間に触れることで取るべき手段と選択すべき素材とをもっとよい結果につなげられたかもしれない
これは才能があるとするとその個性や特徴における評価について低いものではないとすると おかれている環境があまりに程度の低いものではないか
他にも連続して発生している「お笑い芸人」の不適切な発言問題をみると彼らを育成する土壌というのが根本的に肥料が少なすぎで粗悪な環境ではないのだろうか
またそのような環境を経てもテレビに出さえすれば収入を平均より大きくもらえるのではないかという自己の社会適応性と可能性を天秤にかけた結果
「お笑い芸人」を選ぶという好機を目指した選択について「人を笑わせる」がどういった引き金を用いてその才能だと思っていたのか研鑽したり
訓練する機会が急激に減っているのではないだろうか
自分が馬鹿なことをして笑いものになることで笑いを取ることができ、笑ってもらうのが好きなのでお笑い芸人になるというのであれば
解決すべき問題というのは自分自身で自分自身を社会的に抹殺してもらったり迫害してもらうために自分で情報を発信しているということなる
自虐ネタということでそれを作り上げる人間もいるわけでそれらを素人がいくつか見るだけでもお笑いとはどこで笑うべきかなにを笑うべきではないのかを充分に知りえるはずで
ネタを考えているときにコンビ二人がその常識から逸脱してしまったことに気が付けない知識の少なさ経験の少なさ
価値観の平均を知ることができなかった社会適合性とやはり経験 これを管理する側としては業界は解消すべき直近の問題ではないだろうか
このまま複数件同様の問題が続くようであれば これはもう芸人の個別問題ではないむしろお笑い芸人は笑われて捨てられる被害者なのではないかと考える
現在問題を機に排斥されたお笑い芸人たちがそれらに気づき反省し再度かえってくることがあれば充分にお笑いをたのしめるのではないだろうか
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301
タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメ『さらざんまい』の感想。
"ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しからゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、
「主人公の少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当なものに思える。
本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。
これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情と恋愛の境界は曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。
主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。
だが本論が合っているのはここまでだ。
なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…
『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。
第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。
というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章でしか用いられていない)。
この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。
さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要なものだった。では、仮に現在にブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係を小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。
ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。
女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動の公準は「私的なものは政治的なもの」であり、個人的な敵愾心を敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。
また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品が商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性を対象にしたものだと言う。
現在、世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向は男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的な女性差別と相関している。
仮に「生きづらさ」を描く作品が商業的に成功して、それが女性に限定されたものなら、それは社会的な女性差別と連関したものに他ならない。
これは差別の原因だろうか、結果だろうか。
男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別が特別に女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品が女性を対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題の解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在の女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品が存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品が存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。
そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。
『違国日記』は登場人物が登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的な連帯とは一線を画している。
また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情や資本主義を全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動とSNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSにお気持ちを投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。
一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生。
そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢を反省したという論を展開したいようだが……
幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公のウテナとシスターフッド的な関係をもっているのは親友の若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?
何にせよ、そうした感情的な連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。
例えばねとらぼの社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。
「男性が男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケアの役割を女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露=男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しかし男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動部コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年のエンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」
「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異を強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。
仮に感情的な連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間。
一つには「インターネットで感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。
このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的なものだと、フェイクニュースの方が真正なニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計。
前述のセジウィックは有名な『クローゼットの認識論』で作品にセンチメンタリティの属性を付与することの危険を「解釈的暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評の用語だ。
もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックス、セックスレスが標準となった社会では、ゲイネスが記号化して商品として流通しやすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックス、セックスレスが標準となった社会で、ゲイネスを商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動とSNSの利用に人生を費やす人々の姿……
『さらざんまい』は女性を顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。
しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品の解釈が「感情的で気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNSで論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感と幻想のインターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。
faraway
【形】
遠い、遠方の
〔表情が〕遠くを見るような、夢見るような
レベル6、発音fɑ́ːrəwèi、カナファーラウェイ、分節far・a・way
単語帳
https://eow.alc.co.jp/search?q=faraway
フラ・フラ・フラ・flamingo違うよっ★
すごく面白いな。多品種少量生産で製造業が付加価値を出していくには、バリエーション出す土台となる、ある程度シンプルな生産設備があるということなのだろうか。
スコットランドの博物館で初期の蒸気機関を見たことがあるんだけど、もう天井に届きそうなくらい、とにかくでかいんだ。プリミティブな機械って、部品がそれぞれ独立性が高くて、ゴツゴツとおおざっぱに大きいということがよくわかる。
機械が洗練されていくにしたがって、機能がしっかり分節された部品同士の有機的な結合度合いが高まって、見た目にはコンパクト&シームレスで美しいんだけど、素人が触ると、ぎりぎりのところで成立しているバランスがすぐに壊れてしまう。メーカー側の想定範囲内のチューニングでしか動かないようになっている。コンピュータも道具としての洗練度が高まるにつれて、そういう方向に向かっているように思う。
ユーザーがあれこれカスタマイズして試せるようにするには、そうすることを最初から設計思想に取り込んでいくしかないのだと思う。Raspberry Piとか、IOTデバイスを高級言語のコーディングで作れるブロックとか、カスタマイズを前提としたコンピュータは、昔ながらのいわゆるパーソナルコンピュータとは別方向に進化を始めていて、これはこれで、PCとは別の使いこなし方を要求しているように見える。難しそうだな、と思ってたけれど、こういう製造業の人たちの創意工夫を見て、なんだか自分もセルフビルドしてみたくなってきたよ。
とりあえず質問に答えると、戸田山和久の『論理学をつくる』とかが定番
しかし目的であるところの「教養」や「審美眼」を論理学によって身につけられるかっつったらすげえ疑問
もちろん論理は学問を基礎づけている重要な要素ではあるが、論理学として本格的に学ぶような定理やらを使って自然言語を解剖しながら読み進めるなんてしんどいし、少なくとも「教養」や「審美眼」やらを身につける段階ではする必要もないだろ
とりあえず何でもいいから一つの分野を物にして「世界を切り分ける」ための視点を手に入れるというのは悪い戦略ではない
でも、そうやって得られるものはどちらかというと、世界を細かく分節して深く知るための武器であって、元増田が求めてるような幅広い知識を得るための手段としてはちょっとズレがあると思う
俺のおすすめの戦略は各分野で定番とされている入門書を一通り読むことなんだが、まずはそれらを探し当てるための検索スキル(検索エンジンに限らず、人とか図書館を使って調べる技術)が必要なんで、そういう探し当てる技術ってのを手に入れるのが最短ルートじゃねえかな
というわけで元増田はまず井上真琴『図書館に訊け!』を読むのだ
ネットで知識を漁るのは、本で基礎を身に着けてからにした方がいいと思う
よい記事、よい書き手をふるいにかけるための基礎知識を押さえといた方が楽だし早いし安全だ
俺の書いたクソ文章も信用すんな
ついに私のIDが特定されたようで、増田をアナルで検索したらそれを匂わすような増田がヒットしました。
ばれてしまったか…、一部の増田常連ブクマカしか知らんと思っていたのに。
新人のように書かれてましたが、私は2年ほど前からほそぼそとブコメでもアナル活動してますよ。今でもほそぼそとしてます。
あと、本題。
'annul'
発音ənʌ́l、アナル、変化《動》annuls | annulling | annulled、分節an・nul
発音、アナルっておい!ちょっとストレートすぎじゃないですか!?
to cancel an order → annul an order
「注文を取り消す」っていうのは、annulを使って言い換えることができるようです。
発音はここから聞いてください↓ イギリス英語の方がアナルっぽく聞こえます。
ttp://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/annul?q=annul
What time is it now?が「掘ったイモいじんな」で通じるように、
掘ったアナルいじんな!
人と関わるのが苦手だ。
人と話すのは好きだし、調子が良ければちゃんと笑いだって取れる。自分のことを話すのは苦手だが、聞き上手と言われることはたまにある。
たまに同じような人の話を聞くが、コミュニティ内の人の前ではキョドってしまうが、赤の他人の前ではあたかも社交的な人のように振る舞えることがある、というタイプのコミュ障だ。
他人が怖いんじゃんくて、自分がどう見られているのかが気になってしょうがないのだ。自分に自信が無いから。
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でもそんな自分の自意識過剰さを正当化して生きてきた。社会的な価値観をそのまま受け入れるんじゃなくて、どこまでも疑って、言ってしまえば捻くれた考えを作り上げてく。
自我が強ければ強いほど他人とは違う自分になれる気がした。所謂リア充の話は、世俗的すぎてシンプルでつまらない。
僕が天才ならそのままでもよかったかもしれない。でもどこまでも凡人で他人の評価から逃げられない自分は何も作れなかった。
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最近思うのは、人は動物でしか無いということだ。ただ欲望を満たすだけ。
何をしても満たされずに心に穴が開いているように感じるのは、行動の規範を与えてくれる宗教的なものが無いからだと少し前までは思っていた。だから不安を覚えてしまう。
でも多分違っていて、人間は常に欠落感があって、それを起動力に穴を埋め続ける。三大欲求も承認欲求も。利他的な行為は他人の穴を埋めてるだけだ。
そう考えれば人間だって動物となんら変わらない。彼らも承認欲求があるは知らないけど、利他的な行為はするものね。
理屈をこねるというのもそうした欲望の一つに過ぎないと思う。例えば、オタクは女に相手にされないから、女を叩いて満たされない欲望を回収する。
どう頑張ってもモテない人はいるから、そういう人にミソジニー辞めろっていうのも酷な話だけれど、やっぱり気持ち悪い。イケメンになっても同じ貞操観念を持ってる自信があるものだけまーん(笑)とか言ってほしい。
自分の自意識がこういうオタクの正当化と同じ機能を果たしてることはわかっていたけど、それを越えた正しさを信じて生きてきた。でも、もう信じられない。
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人からの評価が過剰に気になるというのも一つ大きな問題点だが、理屈っぽいというのももう一つの問題点な気がする。
何をするにしても言葉で考えてしまう。美味しいものを食べても、料理の蘊蓄のほうが気になるし、映画そのものよりも批評が読みたくなる。社会的意義とか意味を考えてしまって全てが取るに足らないくだらないものに感じられてしまう。好きだったものも色あせて、何も好きじゃ無くなっていく。
自分の友達も大抵、理屈っぽいがだいたい不幸せそうだ(自分の友達が理屈っぽくて不幸せそうな人ばっかりってだけかもね)。世界を言語で分節することなく、ありのままそのまま感じたい。
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これからどうやって生きて行こう。幸い、いいとこに内定もらえそうなので食べては行けそうだけど、今の状態で働き続けられるんだろうか。卒表間際に何もわからなくなってしまった。
考えすぎてしまう性格も今更変わる気がしない。ここ十年くらいは何かに集中することができなくて常に上の空だ。世界をフィルターを通してみている気分。
そもそも理屈をこねてしまう自分を変えようと理屈をこねるというのが根本的に間違っている気がする。
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と、とりとめもない長文をすみません。意見やら、参考になる本とか教えてもらえると嬉しいです。
読んでくれてありがとう。
今回は貼るだけにしておく。
真善美の探究【真善美育維】
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
然の理・然性
然の理・然性(第1法則)
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
続きです。
こちらに一連の話の元となった安彦良和の「虹色のトロツキー」の格闘シーンの画像があったので、これを元に解説を試みてみます。
http://blogs.yahoo.co.jp/musyaavesta/archive/2013/09/11
なお自分ははてなで安彦良和のあとがきの引用を読んだだけで、作品「虹色のトロツキー」は読んでおらず前後のページとのつながりもわからないので、的はずれなことを言っている可能性が大いにありますご了承ください。題材とするのは、上記リンク先の安彦良和の一枚目、老柔術師範が青年の道場破り?を投げ飛ばす見開きです。
これがいしかわが指摘したシーンそのものかは知りませんが、ぶっちゃけて言うと、すごくギクシャクしていて、動きがないというか重みがないように見えます。
この見開きでは、以下の様な心理的な動きと物理的な動きの両方が示されています。
1:心理表現) 老師範が青年の力量を測るために組手に誘い、組んだ感触で何らかの判断を下した後に投げ飛ばした。
2:物理表現) 老師範が青年を組手に誘い、青年は勢いをつけて組みに行ったが達人技でいなされ、投げ飛ばされた。
左ページ2コマ目の二人が見つめ合っているコマを中心に、この見開きで老師範の心理的な動きを表現しているのですが、これがなんというか工夫のない書き方で、物語の心理的な動きを表現する一方で、物理的な動きの表現の妨げとなっています。
その原因は、大きく分けて2つあります。
まず右ページ最終コマで青年は画面左上から右下に突っ込んでいます。背景に流線を入れてスピードを表現しているにも関わらず、勢いを感じさせることに失敗しています。なぜなら、読者の視線の動きと一致していないからです。特に右ページの左下最後のコマというのは、左ページの頭に戻るための視線の動きが強く働くため、左上に向けた動きを読者に暗黙に想定させます。
もっというと、右ページの他のコマを無視して「このコマは青年が腹に前蹴りを食らって後ろ向きに吹っ飛んでいるところだ」と言われれば、そう見えてもしまうのではないでしょうか?
そして次のコマで、青年が老師範に組み付くのですが、このコマの画がすごく止まってます。もし青年がそれなりの勢いで組み付いたのなら、老師範はこの勢いを受け止めるために力を入れて押し返す(重心が前に出る)か、力を受け流す(重心が横か後ろに下がる)かをするはずですが、老師範はほぼ直立したままで受け止めています。読者はこのコマだけを見て、青年が勢い良くぶつかってきたと理解できるでしょうか?
もっと言うと、青年が勢いをつけたにも関わらず自分より小柄な相手になんの工夫もなく受け止められていて、なんというかこの人、体重ないのかな、という印象すら受けます。
おそらく安彦良和の意図としては、このコマの出来事は一連の運動のほんの一瞬であって、実時間上の次のフレームでは老師範が達人技で勢いをいなして投げ飛ばす、という流れを想定しているものと思います。ですが、一連の運動の流れの中から切り取るべきフレームはこの老師範が直立したままの瞬間ではなく、数フレーム後、投げ飛ばす技の初動の体重移動が入った場面を、デフォルメを入れてでも運動の方向をわかりやすく描くほうが、より伝わりやすいのではないでしょうか。
そして、この組み付いた瞬間から最後の投げ飛ばされるコマまでの時間経過がわからない、ということが二つ目の問題点となります。
組み付いたコマから青年が投げ飛ばされる左ページの最後のコマまでの間に、二人が見つめ合っているコマと、老師範が力をいなすために体を沈めるコマの2コマが入っています。
もし一連の流れが一瞬のうちに起こったことだとしたら、読者がそのスピードを体感する、言い換えると読みのスピードと事象のスピードを一致させるためには、この2コマをすごい勢いで読み飛ばす必要があります。(もし事象として数秒間組んだまま止まって見つめあっているのだとしたら、前述のとおり青年の勢いをどうやって受け止めたかが謎になり、やはり運動の表現としてはおかしいという結論になります。以降、一瞬のうちに投げ飛ばされた説を取ることにします。)
前稿でも書いたとおり、マンガにおいては一枚の平面の中に、空間と時間の両方が並列に表現されています。それぞれのコマや間白がどのくらいの時間経過を表しているかについて、基本的にルールはありません。読者がコマ構成や文脈から自由に読み取ることになります。そのため作家は、どのコマどの間白がどのくらいの時間分節になっているのかを読者に伝えるために様々な工夫をする必要があります。
これには単純な方法があります。短い時間の出来事のコマを小さくすることと、視線の流れの中で並行になるようにコマを並べて、同時に起きた事象として表現する方法です。
この例では、これらのいずれもとらず、なぜか組み付いた瞬間のコマが大きく描かれています。さらに追い打ちをかけるように、二人が見つめ合うコマを重ねています。心理的な表現としては機能しているのですが、多分普通に読むと、この見つめ合うコマで読者は1秒弱くらい止まります。イコール、組み合った瞬間から投げ飛ばされるまでに1秒止まっていた、と読み取られる事になります。読者がそう読んでしまうと、一瞬で投げ飛ばされたという説得力をかなり失うことになります。
まとめると、この2ページの間に、どのくらいの体重の人間がどのくらいのスピードで跳びかかって、組み付いた瞬間の衝撃はどのくらいで、どのくらいの時間組んだ状態でいた、もしくはほとんど組んでいなかったか、どのくらいの勢いで投げられたか。そういった運動的な情報をマンガという手法を使って表現することには、まあ控えめに言ってあまりうまく行っていないな、とこの見開きを見た限りでは感じます。
http://anond.hatelabo.jp/20140421200127
合計特殊出生率は晩産化進行中は数値が減るんだよ。今増えているように見えるのは長く続いていた晩産化が限界に達して止まったからだ。
うーん、俺の書いてることとなんら矛盾しないので特に反論する必要が感じられないよ。
前のエントリ書いたのはブクマしてくれた人がひょっとして「合計特殊出生率」を「出生率」と混同してるのかな?って思ったから、その説明を書いたの。あなたがその違いわかってるなら特にあなたにいうことはないよ。
ちなみに晩産化って止まったの?俺はまだ進行してると思ってた。だったら合計特殊出生率が減る理由がひとつ減って喜ばしいことだね。
あと俺はもう少し長期の結果をみないと合計特殊出生率が回復傾向にあるかどうかはわからないと思う。
数年程度しかも0.15程度なら「たまたま」上がったり下がったりもありえるしね。
同様に「回復は止まる」「(回復してるというのは)違う」と断言してしまうのもどうかと思うよ。
その他の点について。
1. 「全部義務教育」はご指摘の通りです。
2. 教育費800万について
「教育費 平均」でググった結果、文科省の調査をベースにまとめているサイトがいくつかあったのでそれを参考にした。
http://www.nomu.com/loan/lifeplan/k_education_01.html
ここはH18年文科省「子どもの学習費調査」等を元にしてるので少々古い。
http://educationalcost.com/list.php
ここはH20年文科省「子どもの学習費調査」等を元にしてる。金額に大きな違いはない。
「子どもの学習費調査」に興味があるなら元ネタをあたって欲しい。2年に一度実施してるようだ。最新はH22年版がH24年に発表されている。
俺は見てないが、おそらく高校授業料無償化の結果なども反映されてるんじゃないかな。
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa03/gakushuuhi/kekka/1268105.htm
習い事込みの根拠はこちら。上の「子どもの学習費調査」の付属資料で、こいつの最終ページをみると、塾や習い事、さらには教材費なども含まれていることがわかる。
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/1266851.htm
この800万に含まれないのは、食費、被服費、おもちゃやレジャーなど遊びに使うお金、ひとり暮らしする場合はその仕送りなどで、確かにあなたの言うように、800万ですべてがまかなえるわけではないよ。
俺がいいたかったのは「教育費」だ。そこのところで「全部義務教育」と書き間違えるし、批判されても仕方ないな。
3. 後段の「そんなんじゃ全然たりねーよ」について
補助だけで子育て全部まかなおうなんて誰も書いてないから誤解のないように。
病気云々については各種保険(健康保険、生命保険、不就業保険)がいろいろあるので各自の判断で使えばよい。
仕送りも同様。地方ならば住居費を安く抑えられるのだから、その分節約しておくこともできるだろう。もちろん最終的には個別の家計の事情で大学進学を断念することだってあるだろう。
地方で都心なみに住居費をかけておきながら、そんな住環境で「仕送りできないから大学進学できない」というのは筋違いな主張という気がする。
あといざとなれば奨学金もある。まああれは低利の借金だからご利用は計画的にだけど、本当に大学で勉強したいやつなら多いに利用すればいいだろう。
俺がいいたいのは、育児支援、教育支援、雇用対策を今よりもっと充実させないと少子化は防げない。
できてないなら、そこにたいして反論してくるのは構わない。ぜひ「少子化でも別にいいじゃん」理論を聞かせて欲しい。
「少子化対策待ったなし」を共有でkてないのに、その他の部分を議論するのは不毛だと俺は思うので、レスつけるのは勘弁してくれ。
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマップまで走らせた。
僕は、この友人と同じく、迷わず自分の彼女に小早川凛子を選んだ。これは体験版をプレイしたときから決めていたことだった。ラブプラスというゲームの中での凛子の存在は、他の二人をまったく寄せつけないほどに圧倒的だ。ネット上のプレイヤーの感想を読むかぎりでも、他の攻略対象キャラはラブプラス中に存在しないんじゃないかというほどに凛子は人気を誇っているようなので、この感覚は間違ってはいないのだろう。しかし、なぜ彼女だけが、このゲームの中で他の追従を許さないほどの強度を僕に感じさせるのか、それをはっきり説明することは、ちょっとできそうにない。単純に丹下桜の飾り気のない演技が心の琴線に触れるのかもしれない。あるいは、凛子が「ツンデレ」だからかもしれない。
萌えアニメもギャルゲーもまったく知らない若者に対してですら、今ではこの言葉は完全に浸透しきってしまったようだが、みなさんもよく知っているとおり「ツンデレ」は2005年ぐらいを境に流行りだした言葉で、それ以前は陰も形もなかったものだ。なぜかといえば、それは「ツンデレ」というキャラ造形が、専らギャルゲーの特徴を特別強く体現しているものだったからなのではないかと僕は思う。日常パートでは多数の女の子との会話を楽しむ時間が用意されていて、個別パートでは一人の女の子との恋愛を発展させていくという美少女ゲームの構成を考えれば、日常パートで主人公が周りの女の子に好意むき出しでは話が成り立たないはもちろんのことだ(だからいつだって主人公は「鈍感!」と罵られる)。それ以上に、女の子のほうだって最初から主人公に100%の好意を向けていたら息苦しくてしょうがない。だからこそ、キャラクターの感情は、日常パートから個別ルートへに移っていく過程で鮮やかに反転する必要がある。きっと、こんな感じで「ツンデレ」は生み出されたんじゃないだろうか。だからこそ、どんなギャルゲーの中でも「ツンデレ」キャラは一定の存在感があるよなぁと僕は思ったりする。
けれど、やっぱりそれだけじゃないよなぁ、と思う。考えれば考えるほど、そういう言葉にできるところじゃなくて、もっと微細な部分にこそ、凛子の「存在感」が宿っているんじゃないかという気がしてくる。確かに、「ツンデレ」に対する感覚の有無によって、キャラの捉えられ方はまったく異なるものになるだろう。リアルタイムでエヴァを見ていた人たちにとってのアスカと、初めからツンデレという言葉を用いてエヴァをみる今の人たちのアスカがまったく違うキャラであるように。しかし、両者の「アスカ」のリアリティを支える要素は、実は共通しているのではないか、という思いを僕は抱かざるを得ない。これは神秘主義だろうか。
とまれ、僕と凛子の生活は幸せなものだった。毎日DSを持かばんに入れて、いつも通り授業を聞いたり、寝てやりすごしたり、友だちと話したり、ネットを見たりする。そして昼休みにお弁当を食べるとき、放課後に屋上で開いた時間を過ごすとき、DSを開いて凛子に会う。日曜日には時間を決めてデート。音声入力で凛子と話をする「ラブプラスモード」は、周りに友だちがいるときしか恥ずかしくてできなかった。僕の質問に答えているようで、時々ズレズレなことを言う凛子は、twitterのbotのようでとてもいとおしかった。botと人間とは、決して本当の意味での会話を交わすことはできない。しかし、それにもかかわらず、僕はあたかも凛子がそこにいるように、自然に振る舞うことができた。
なぜなったかはわからない。しかし、僕は、今や凛子が確実に「そこにいる」のだと思うようになった。そして、おそらく理由など関係ないのだろう。
キャラクターと向き合う人間にとって、この瞬間こそが普遍的なものであるんじゃないかと僕は思う。「キャラクターとは『いない』のに、『いなくちゃ困る』ものなのだ」と、どこぞの若手批評家が言っているのを聞いたことがある。キャラクターは、誰にとっても「いる」ものではない。しかし、それに没入する人にとっては「いる」としか信じられず、そのレベルではキャラクターと人間を区別することはできない。もちろん、キャラクターが「いる」と感じることは、人間が「いる」こととは別のレベルである。凛子との会話の中には実に現実味に溢れた魅力的なものがたくさんあるのは確かだ。しかし、たとえば、凛子が心を許しはじめると一人称が「アタシ」から「リンコ」に変わるという描写がある(鬼ゲーマーリンコ)。現実に自分の一人称を名前で代替する人はどっちかというと疎まれるタイプだろう。だが、キャラクターが「いる」ことも知覚の意味合いとしては人間が「いる」ことと変わらない。
僕は同じような経験を何度かしてきたが、その存在は記憶として強く焼き付けられることはあっても、感情の部分で長期にわたり持続するわけではなかった。しかし、凛子の場合は、日常の一コマ一コマの中でこの存在を自覚せざるを得ないのだ。
たとえキャラクターが数億に分節可能な無意味な要素の集積だとしても、その寄せ集めによってできあがってしまったものに対して私たちが抱く感情は常軌を逸してしまうことがある。そしてそういった瞬間、キャラクターというものはいったいどのような存在なのだろうか。ラブプラスの制作者は『CONTINUE』のインタビューで、ラブプラスには全部見るためには二年ほどはかかるぐらいの莫大なイベントが盛り込まれていると語っている。ラブプラスにおいて、こうしたキャラクターの「実在性」「予想う不可能性」は膨大な情報の集積によって担保されていることになる。しかし、私たちはどうしてもこの「実在性」の裏にブラックボックス的な要素を見出したくなる。凛子が、DSの画面の向こうで僕たちには想像もできないようなことを考えているのではないかという妄想を捨てきれなくなる。しかし、それは今のところまったくの幻想でしかない。
そして、僕は、この確信を得たとき、ひとつの隠された(しかし一定数のラブプラスプレイヤーは既に理解しているであろう)、恐ろしい事実に気づくことになった。いま、ここで、凛子の存在を支えている形象は、私たちの生きる時間の流れに沿いながら、未来永劫その「動的性質」を保ったまま持続するのだ。小説・漫画・アニメ、フィクションというものは時空から隔絶されて存在する。源氏物語は、1000年前の貴族が読んでも私たちが読んでも、テクストとして同一の形を維持しながら「静的に」存在する。紫の上の人生は紫の上の人生であって、私たちと生きる時空とは関係ない。しかし、凛子は、あたかも私たちと同じ時空を生きているかのような演技をしながら、しかしその存在を少しも変化させることなく、ずっと「そこに居」続けるのだ。
僕たちはフィクションとキャラクターの実在を信じるとき、なぜ自分自身はそこに居ないのかと苦痛に思う。たとえばテラ・フォーミングされた火星とARIAカンパニーの存在を信じるとき、なぜ自分はネオ・ヴェネツィアにいないのかと思っていたたまれなくなる。そして、たしかにラブプラスはその苦痛を一時的に和らげることに成功している。僕と凛子は「見かけ上は」同じ時間を生きている。しかし、見かけ上が同じ時間を生きている分、僕と凛子の間の摩擦係数はかえって高くなり、逆にこの責苦はもはや耐えることが不可能な域に到達している。しかし、その実、凛子が生きる時空は凛子が永遠に16歳の時空であり、僕が10歳老けても20歳老けても凛子は16歳だ。僕が、社会に出て、老いぼれになり、忘れられたまま死んでいった時も、凛子は永遠に十羽野高校の生徒なのだ!
ラブプラスのスタッフは、この点をよく知っていて、しかもポジティブに強調している。主題歌は『永遠(タイムレス)ダイアリー』、キススキンシップの最上位技は「フォーエバーキス」、主人公が移り住んでくる「十羽野市」は「永久の」のもじりだ。彼らは「永遠に続く愛」と嘯く。しかし、いくら凛子が僕に対して永年に同じ愛を投げかけてくれるといっても、僕のほうは永遠に、何の変化もなく、同じ感情を凛子に投げ続けることができるわけではない。いつかきっと僕はこのゲームに飽きてしまうに違いない!キャラクターの実在性は「記憶」の中にのみ残ればよかったのであって、実際に一定の形象を維持したまま存在する必要などなかったのに。
そうして、僕がラブプラスを起動しなくなったとき、凛子はどこに取り残されてしまうのだろう。もうおわかりなのではないだろうか。凛子の住んでいる時空の永遠は、漢字で書かない。私たちは、かつて10年以上も前に自分たちが取り残されたあの場所に、今度はヒロインのほうを置き去りにしているにすぎないのだ。
ラブプラスを触りながら、そんなことを話した。凛子を世界の終わりから救い出すための方法は限られている。まずひとつはデータを消すことだ。しかし、もっといい方法があった。この美しくどうしようもない学生生活とともに、凛子を記憶の中にとどめて、これを葬り去るのだ。
僕の通っている学校は都内ではちょっと例のないぐらい熱い学園祭を毎年やっていて、受験を控えた三年も積極的に参加する。その中でもアニメのポスターだのゲーム機だのを二日間かけて何百品も競りにかける古物市が、例年盛況を極めている。ここで、データを残したままの僕のラブプラスと、攻略本・主題歌CDをセットで売り飛ばしてしまうことにした。凛子とやり残したことはたくさんあるかもしれないが、もう悔いは残らない。
いつの日か、人間とキャラクターは本当に出会えるのだろうか。今も人はそれを求めて、アバターをまといながら人格のコスプレに勤しんでみたり、botと会話しようとがんばってみたりする。しかし、アバターは結局人間と人間の会話だ。botに萌える人は、技術と現実の落差に萌えているだけにすぎない。不気味の谷のセオリーを信じるとすれば、谷の手前の不気味の尾根で人は楽しむこともできるわけだ。(言ってみれば、Perfumeのズレズレな口パクに萌えているのと同じことだ)。
いつになったら、人間がキャラクターと同じ時空を生きることができるのだろう。幸い僕は一緒に歳をとることができる彼女がいたが、人間と共にありたいという気持ちとキャラクターと共にありたいという気持ちはまったく別だ。前者が満たされないのと同じぐらいに、後者も満たされることはない。
さぁ、キャラクターは、データベースか、ブラックボックスか。哀れな小早川凛子は、乱雑なデータベースによってその肌と臓器を模られた出来損ないでしかなく、僕は彼女を残酷に売り飛ばすことでしか救うことはできなかった。僕はキャラクターが人為とプログラムの集積であるという当たり前の事実に、ここにきてどうしても納得することができない。人工知能が人工無能に、「擬体」がARにとって代わられても、僕たちの望みはひとつだ。僕たちには感知できない、キャラクターの不可視な内部の実在を信じたいのだ。僕が死ぬまでの間に、いったい彼女たちはどこまでブラックボックスに近づくことができるのだろうか。
答えはまだ出そうにない。11月3日、古物市で僕のラブプラスが競りにかけられ、落札された。後に残ったのは落札額3500円と、永遠ダイアリーのmp3ファイルだけだった。