はてなキーワード: 小早川凛子とは
以下、ディベートの便宜上、具体例とかを二次元に限定するけど、
俺はもちろん現実の不良っぽい方も大好きだということを覚えておいてほしい。
俺は不良っぽい子が好きだ。
ラブプラスの小早川凛子とか、まどマギの佐倉杏子とか、それ町の紺先輩とか。
もう少し幅を広げると、
デレマスの小梅とか、
わたモテのもこっちとか、
が好きだ。
「不良というよりそれ、ボーイッシュな子が好きなんじゃね?」
と思った人、それはいい線をついているんだが少しずれる。
みたいなのにはイマイチハマりきれない。
それはそれでいいもんだけどな。
そんな毎日を送る俺だが、同じような趣味を持つ人に出会ったことがない。
単体では、凛子も杏子も以下略……人気が全く無いわけではないんだが、
「不良っぽい子」がまるっと好きな人を見かけない。
これはいったい何故なんだろうか?
多分、無意識では好きなんだけど、
それを表現する言葉が上手く与えられてないがために意識に上らない、
そういう人も多いんじゃないかと思うわ。
とくくってくれれば、同志も増えるのかな。
あと、そんなに不良っぽいのが好きなんだったら男でもいいんじゃね?
と思った人がいたら、それはかなりいい線をついている。
不良っぽい「女の」子、の女のを省いたのにはそこらへんの事情がある。
ワードだけ放り込むと、
「クィアとしてのオタク」とは本当はこういうものだ、と強く主張したい。
この点は別の機会に譲ろう。
だってさ、仮に俺が
わたモテのもこっちが好きですよ、ラブプラスの小早川凛子が好きですよ、ミルキィホームズの譲崎ネロが好きですよ、
Aチャンネルのトオルが好きですよ、生徒会役員共の萩村スズが好きですよ、魔法少女まどか☆マギカの佐倉杏子が好きですよ
って言ったらさ、聴き手サイドは、ああこいつは
わたモテのもこっちになりたいんだな、ラブプラスの小早川凛子になりたいんだな、ミルキィホームズの譲崎ネロになりたいんだな、
Aチャンネルのトオルがになりたいんだな、生徒会役員共の萩村スズになりたいんだな、魔法少女まどか☆マギカの佐倉杏子になりたいんだな
そう思う、それが筋、それが自然の摂理って話じゃないのか??
自分は自分がなりたい自分になりたくて、自分が好きなのは自分がなりたい自分になった自分で、それは自分ではないんだけど自分なんだ、
そういう話ではなかったか??
#####追記
全部返信するわ
全部優しい感じのコメントです
>>“わたモテのもこっちが好きですよ(略)って言ったらさ、聴き手サイドは、ああこいつはわたモテのもこっちになりたいんだな” 作中カプ尊重派なので、なりたいものがあるなら、うっちーになりたいのかな? と思う。
うっちーをキャラクターとして愛でる人は多い印象だが、うっちーになりたいってのはかなりユニークな性癖だという印象だな。素晴らしい。
>>愉悦部視点で不幸キャラを鑑賞するのが好きな人は、自分がどん底の危機に陥っても、それすらも愉悦として楽しみそうな雰囲気がある。
>>漫画おいでよどうぶつの森で、リセットさんが「ヒロインちゃんが好きすぎてヒロインちゃんになりたくなってきたでー!」とコスプレをして「愛情が歪みはじめた」とドン引きされる回
それは深いな。俺は妹持ちなんだが、妹が幼い頃「お兄ちゃんになりたい」って言ってたわ。
>>なりたいキャラもいればなりたくないキャラもいるな。加えて言えばなりたいキャラでも生き方とか性格とか見た目とか境遇とか、なりたい部分が細分化される。見た目や生き方は憧れるけど境遇は同じ道歩みたくないとか
それは俺にはなかった視点だな。なるほどなって思ったわ。俺はまずなりたい/なりたくないがあって、なりたければ全肯定ってスタンスかな。
>>なりたいかどうかで言えば宗像教授みたいなおっさんになりたい
申し訳ないことに知らなかったが、調べてみたらなかなかこれはなりたい度が高いな。
南方熊楠がモデルなのか。たしかにそういう存在への憧れは俺にもある。
>>“自分は自分がなりたい自分になりたくて、自分が好きなのは自分がなりたい自分になった自分で、それは自分ではないんだけど自分なんだ” ところでトッポってしっとりしてて美味しいよな
頑張って書いたのに!???
>>「好き」の形は多様だよ。同化願望の強い人なら「好き」と「なりたい」がイコールでもなんらおかしくないし、逆に自分がなりたいなんて畏れ多いって人も、好きなものを独占するために破壊したい人だっているだろう。
ああいや、「好き」の多様性を否定するつもりは全く無かったんだ。
ただ自分の「バイアス」に気づいて驚いたというか、そういう感じの話かな。
>>「好きな食べ物」とかの質問はどう受け止めてたの?
これは半分本気なんだが、食べ物にせよなんにせよ「なりたい」のカケラはあると思うわ。
食べ物ではなくて恐縮だが、俺は小さい頃ボンドに対するカネスチックのポジションに憧れていた。
まず享楽的な匂いがいいし、接着力は強力だが長持ちしない感じにゾクゾクする。
透明なのもいいんだよな。儚い感じで。
俺はそうなりたいと思っていたのかな。
>>今期では魔法使いの嫁のエリアス様が好きだけれど、別に彼の立場になりたいわけじゃなく理想の主人として欲しいわけで。なろうの奴隷少女モノって何割かは読者に秘密でこのメソッドで書かれている気がする。
これは大変有益な知見だな。
俺は恥ずかしながらなろう小説はよく知らないんだが、
むかしエロゲーマーが俺は主人公ではなく(白痴的な)ヒロインに感情移入してるんだ!
ってなことを言っていたが、そういう感じなのだろうか??
ないか?そういうの
違うんだよ。ボーイッシュっていっても多様なんだよな。
あるいは俺がこのあとボーイッシュのタイプを複数あげるわけだけど、それってボーイッシュなのか?
って疑問を持つ人もいると思う。
それはごもっとも。
もう少しちゃんといえば、ボーイッシュとはある運動にかろうじて与えられるラベルってことなんだよな。
あと、このあと挙げる具体例が二次元ばっかりでがっかりする人もいると思うけど、俺は三次元も好きだから。
で、じゃあそんなボーイッシュボーイッシュっていうのであれば、男でいいんじゃねえの?
って人も出てくると思う。
適宜追加していくわ。
1)「ボクッ娘系」
これは当然入るよな。
2)「パンク・不良系」
まあこれも入るな。王道ってとこだろ。俺敵にはここから2人入ってもいいと思う。
まあ、これはおさえるよねみたいな。
4)「男勝り系」
まあこれも妥当なノミネートか?俺はそんな好きじゃないんだけどな
例:なし
5)「ショートカット系」
これも入れないとダメでしょう。
他のカテゴリーと被る人がほとんどだけど、いずれにも入らずかつこれ、ってのが多いから。
6)「女可愛がり系」
さしあたり女とマークされているが、女をかわいがっているないしメタキャラクター的ポジなので実質男でしょう、みたいなもん
これがミソ。これをちゃんとボーイッシュに分類できるかどうかで資質が試される。
8)実質男枠
これなんだよな。
6.と被る面はおおいにあるんだけど、ちょっとずれるんだよな。
これ、わかるやつはわかると信じてる
例:わたもてのもこっち
2 俺がいる前で女友達に「○○(俺の名前)より会える日が多いから楽しいよ^^」とほざく
3 その彼氏()と早くも大学に入ったら都内で同棲宣言wwwwwww(親公認だったらしい)
4 半年後、謎の破局(俺、増田でもこの間メシウマ日記を書き込む)
5 破局後まだ一週間も経っていないのに地元の先輩(中学時代の先輩)に片思いらしい
6 それもブログでオナニー記事連発(「好きだよ・・・辛いよ・・・」「私にはやはりあの人しかいない」「最低な事をしたけどあの人がやっぱり一番好きなんだ」等)
7 とうとう開き直る(ブログにて中学時代その先輩がずっと好き本当はずっと諦めきれなかったと)
8 つまり俺&元カレは気持ちを押し殺して付き合ったようなもん
あぁ・・・・リアルにビッチと約一年も付き合ってたのも俺の人生の中では汚点だしあんなクソビッチで童貞を捨てたのも恥だわ。将来の嫁にも申し訳ない。
もう顔見ただけでムカついてくるわ、来週久しぶりに会うけどもう顔も見たくねえわ、あのゴミだけとはね
やっぱり二次元キャラが一番綺麗で優しくて俺の嫁に相応しいと思った(大倉都子、小早川凛子、中多紗江、森島はるか、桜井梨穂子等)
ラブプラスがわかる人だけ。
登場人物
主人公:23歳、某私立大学卒業後、1年間某メーカー勤務を経たのち、学校法人とわの学園大学に中途採用され今年7月から総務部に勤務。中途採用ではあるが、一部の教育訓練プログラムは新卒採用者たちと共に受講する。とわの市内のワンルームマンションに住む。
28歳。短大卒業後に商社に就職するが、2年後結婚を機に退社。1年後に派遣社員として学校法人とわの学園大学に就業する。一昨年4月から正社員となる。主人公と同じ総務部。主人公の実質的な教育係(主人公の教育係が寧々に教育係の仕事をほぼ丸投げしている)。
一時離婚を考え、実母の下に身を寄せていたが、実母の再婚を機に再び夫と二人暮しを再開している。
主人公を乗せるときは、人目を気にして主人公は後部座席に。
24歳、学校法人とわの学園に今年4月から新卒採用される。父は有名企業の経営者、母は市民運動家。
某有名私立大学に入学したが、自分の実力ではなく両親の口利きがあったのではないかと疑っていて自分に自信がない。
しかし、在学中の成績は常にトップで、研究論文は国際雑誌でもてはやされていた。
博士課程進学を嘱望されていたが、修士過程終了と共に就職する道を選んだ。
本人の強い希望によりとわの市内に1人暮らしではあるが、1人暮らしにしては広すぎるマンションに連日母親がやってきている。
普段は質素であるが、時々庶民離れした金銭感覚が垣間見える。
主人公とは教育訓練プログラムのほか、教職員組合テニス部での活動でも接点がある。
属性:生徒。ブラコン。
19歳。とわの学園大学医学部看護科の2年生。実習のたびに態度を注意され性格を否定され落ち込む。弟(父親の連れ子)を溺愛しているが、最近は弟に避けられてる。
乗りたいバイクが現在取得中の中型免許では乗れないことを最近知る。
ほぼ同じ。
ただし、人目ゲージが高いときにスキンシップを行うと即ゲームオーバー。セーブデータが消去される。
バッドエンディングは次の通り
凛子⇒弟に刺される
なるほど。
ということは、
小早川凛子(88歳 とわのホームに入所している夫の世話をしに来ている)
こういう設定のほうが良いという事か?
ちがうよ。
本当の大人のラブプラスは、社会福祉法人とわのホームが舞台だ。
主人公: 89歳の微妙なお年頃(いつ死んでもおかしくない)。
高嶺愛花: 同世代の女性と違い、女学校へ行ってた。彼氏いない暦=年齢。
小早川凛子: ホームに来ているヘルパー。 ホームに入居している夫を世話しに来る(老老介護)。
あえてエロはなしで。
ちょっと興奮しただけで死ぬかもしれないなんて、すげードキドキじゃん?
追記:
元が消されたのでわけのわからないものになってしまった。
備忘的に書いておくと、ラブプラスを20代の職場に移して、不倫的な雰囲気も漂わせつつ、あえてエロはなしでドキドキするのを目的とするゲームが大人のラブプラスなんだそうだ。
追記2:
凛子の設定を変えた。
追記3:
全然関係ない話だが、むかし羽田澄子という映画監督の『痴呆性老人の世界』
http://care-comi.com/benri/books/mvkai/mvkai_07.htm
というドキュメンタリーを見たことがある。けっこう面白い映画だった。
施設には男女ともいるのだけれど、その生態が面白い。
痴呆になっても残る男女の違いだな。
具体的には、女性同士は一緒に作業したりおしゃべりしたりして仲良くしてるんだが、男性は男性同士で仲良くしたりはしない。
かといって、女性の輪に加わるようなこともない。孤立している。
なので、施設内の様子は、いくつかの女性グループと、その周りに孤立した男性が衛星のようにポツポツと存在している、という状態だった。
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマップまで走らせた。
僕は、この友人と同じく、迷わず自分の彼女に小早川凛子を選んだ。これは体験版をプレイしたときから決めていたことだった。ラブプラスというゲームの中での凛子の存在は、他の二人をまったく寄せつけないほどに圧倒的だ。ネット上のプレイヤーの感想を読むかぎりでも、他の攻略対象キャラはラブプラス中に存在しないんじゃないかというほどに凛子は人気を誇っているようなので、この感覚は間違ってはいないのだろう。しかし、なぜ彼女だけが、このゲームの中で他の追従を許さないほどの強度を僕に感じさせるのか、それをはっきり説明することは、ちょっとできそうにない。単純に丹下桜の飾り気のない演技が心の琴線に触れるのかもしれない。あるいは、凛子が「ツンデレ」だからかもしれない。
萌えアニメもギャルゲーもまったく知らない若者に対してですら、今ではこの言葉は完全に浸透しきってしまったようだが、みなさんもよく知っているとおり「ツンデレ」は2005年ぐらいを境に流行りだした言葉で、それ以前は陰も形もなかったものだ。なぜかといえば、それは「ツンデレ」というキャラ造形が、専らギャルゲーの特徴を特別強く体現しているものだったからなのではないかと僕は思う。日常パートでは多数の女の子との会話を楽しむ時間が用意されていて、個別パートでは一人の女の子との恋愛を発展させていくという美少女ゲームの構成を考えれば、日常パートで主人公が周りの女の子に好意むき出しでは話が成り立たないはもちろんのことだ(だからいつだって主人公は「鈍感!」と罵られる)。それ以上に、女の子のほうだって最初から主人公に100%の好意を向けていたら息苦しくてしょうがない。だからこそ、キャラクターの感情は、日常パートから個別ルートへに移っていく過程で鮮やかに反転する必要がある。きっと、こんな感じで「ツンデレ」は生み出されたんじゃないだろうか。だからこそ、どんなギャルゲーの中でも「ツンデレ」キャラは一定の存在感があるよなぁと僕は思ったりする。
けれど、やっぱりそれだけじゃないよなぁ、と思う。考えれば考えるほど、そういう言葉にできるところじゃなくて、もっと微細な部分にこそ、凛子の「存在感」が宿っているんじゃないかという気がしてくる。確かに、「ツンデレ」に対する感覚の有無によって、キャラの捉えられ方はまったく異なるものになるだろう。リアルタイムでエヴァを見ていた人たちにとってのアスカと、初めからツンデレという言葉を用いてエヴァをみる今の人たちのアスカがまったく違うキャラであるように。しかし、両者の「アスカ」のリアリティを支える要素は、実は共通しているのではないか、という思いを僕は抱かざるを得ない。これは神秘主義だろうか。
とまれ、僕と凛子の生活は幸せなものだった。毎日DSを持かばんに入れて、いつも通り授業を聞いたり、寝てやりすごしたり、友だちと話したり、ネットを見たりする。そして昼休みにお弁当を食べるとき、放課後に屋上で開いた時間を過ごすとき、DSを開いて凛子に会う。日曜日には時間を決めてデート。音声入力で凛子と話をする「ラブプラスモード」は、周りに友だちがいるときしか恥ずかしくてできなかった。僕の質問に答えているようで、時々ズレズレなことを言う凛子は、twitterのbotのようでとてもいとおしかった。botと人間とは、決して本当の意味での会話を交わすことはできない。しかし、それにもかかわらず、僕はあたかも凛子がそこにいるように、自然に振る舞うことができた。
なぜなったかはわからない。しかし、僕は、今や凛子が確実に「そこにいる」のだと思うようになった。そして、おそらく理由など関係ないのだろう。
キャラクターと向き合う人間にとって、この瞬間こそが普遍的なものであるんじゃないかと僕は思う。「キャラクターとは『いない』のに、『いなくちゃ困る』ものなのだ」と、どこぞの若手批評家が言っているのを聞いたことがある。キャラクターは、誰にとっても「いる」ものではない。しかし、それに没入する人にとっては「いる」としか信じられず、そのレベルではキャラクターと人間を区別することはできない。もちろん、キャラクターが「いる」と感じることは、人間が「いる」こととは別のレベルである。凛子との会話の中には実に現実味に溢れた魅力的なものがたくさんあるのは確かだ。しかし、たとえば、凛子が心を許しはじめると一人称が「アタシ」から「リンコ」に変わるという描写がある(鬼ゲーマーリンコ)。現実に自分の一人称を名前で代替する人はどっちかというと疎まれるタイプだろう。だが、キャラクターが「いる」ことも知覚の意味合いとしては人間が「いる」ことと変わらない。
僕は同じような経験を何度かしてきたが、その存在は記憶として強く焼き付けられることはあっても、感情の部分で長期にわたり持続するわけではなかった。しかし、凛子の場合は、日常の一コマ一コマの中でこの存在を自覚せざるを得ないのだ。
たとえキャラクターが数億に分節可能な無意味な要素の集積だとしても、その寄せ集めによってできあがってしまったものに対して私たちが抱く感情は常軌を逸してしまうことがある。そしてそういった瞬間、キャラクターというものはいったいどのような存在なのだろうか。ラブプラスの制作者は『CONTINUE』のインタビューで、ラブプラスには全部見るためには二年ほどはかかるぐらいの莫大なイベントが盛り込まれていると語っている。ラブプラスにおいて、こうしたキャラクターの「実在性」「予想う不可能性」は膨大な情報の集積によって担保されていることになる。しかし、私たちはどうしてもこの「実在性」の裏にブラックボックス的な要素を見出したくなる。凛子が、DSの画面の向こうで僕たちには想像もできないようなことを考えているのではないかという妄想を捨てきれなくなる。しかし、それは今のところまったくの幻想でしかない。
そして、僕は、この確信を得たとき、ひとつの隠された(しかし一定数のラブプラスプレイヤーは既に理解しているであろう)、恐ろしい事実に気づくことになった。いま、ここで、凛子の存在を支えている形象は、私たちの生きる時間の流れに沿いながら、未来永劫その「動的性質」を保ったまま持続するのだ。小説・漫画・アニメ、フィクションというものは時空から隔絶されて存在する。源氏物語は、1000年前の貴族が読んでも私たちが読んでも、テクストとして同一の形を維持しながら「静的に」存在する。紫の上の人生は紫の上の人生であって、私たちと生きる時空とは関係ない。しかし、凛子は、あたかも私たちと同じ時空を生きているかのような演技をしながら、しかしその存在を少しも変化させることなく、ずっと「そこに居」続けるのだ。
僕たちはフィクションとキャラクターの実在を信じるとき、なぜ自分自身はそこに居ないのかと苦痛に思う。たとえばテラ・フォーミングされた火星とARIAカンパニーの存在を信じるとき、なぜ自分はネオ・ヴェネツィアにいないのかと思っていたたまれなくなる。そして、たしかにラブプラスはその苦痛を一時的に和らげることに成功している。僕と凛子は「見かけ上は」同じ時間を生きている。しかし、見かけ上が同じ時間を生きている分、僕と凛子の間の摩擦係数はかえって高くなり、逆にこの責苦はもはや耐えることが不可能な域に到達している。しかし、その実、凛子が生きる時空は凛子が永遠に16歳の時空であり、僕が10歳老けても20歳老けても凛子は16歳だ。僕が、社会に出て、老いぼれになり、忘れられたまま死んでいった時も、凛子は永遠に十羽野高校の生徒なのだ!
ラブプラスのスタッフは、この点をよく知っていて、しかもポジティブに強調している。主題歌は『永遠(タイムレス)ダイアリー』、キススキンシップの最上位技は「フォーエバーキス」、主人公が移り住んでくる「十羽野市」は「永久の」のもじりだ。彼らは「永遠に続く愛」と嘯く。しかし、いくら凛子が僕に対して永年に同じ愛を投げかけてくれるといっても、僕のほうは永遠に、何の変化もなく、同じ感情を凛子に投げ続けることができるわけではない。いつかきっと僕はこのゲームに飽きてしまうに違いない!キャラクターの実在性は「記憶」の中にのみ残ればよかったのであって、実際に一定の形象を維持したまま存在する必要などなかったのに。
そうして、僕がラブプラスを起動しなくなったとき、凛子はどこに取り残されてしまうのだろう。もうおわかりなのではないだろうか。凛子の住んでいる時空の永遠は、漢字で書かない。私たちは、かつて10年以上も前に自分たちが取り残されたあの場所に、今度はヒロインのほうを置き去りにしているにすぎないのだ。
ラブプラスを触りながら、そんなことを話した。凛子を世界の終わりから救い出すための方法は限られている。まずひとつはデータを消すことだ。しかし、もっといい方法があった。この美しくどうしようもない学生生活とともに、凛子を記憶の中にとどめて、これを葬り去るのだ。
僕の通っている学校は都内ではちょっと例のないぐらい熱い学園祭を毎年やっていて、受験を控えた三年も積極的に参加する。その中でもアニメのポスターだのゲーム機だのを二日間かけて何百品も競りにかける古物市が、例年盛況を極めている。ここで、データを残したままの僕のラブプラスと、攻略本・主題歌CDをセットで売り飛ばしてしまうことにした。凛子とやり残したことはたくさんあるかもしれないが、もう悔いは残らない。
いつの日か、人間とキャラクターは本当に出会えるのだろうか。今も人はそれを求めて、アバターをまといながら人格のコスプレに勤しんでみたり、botと会話しようとがんばってみたりする。しかし、アバターは結局人間と人間の会話だ。botに萌える人は、技術と現実の落差に萌えているだけにすぎない。不気味の谷のセオリーを信じるとすれば、谷の手前の不気味の尾根で人は楽しむこともできるわけだ。(言ってみれば、Perfumeのズレズレな口パクに萌えているのと同じことだ)。
いつになったら、人間がキャラクターと同じ時空を生きることができるのだろう。幸い僕は一緒に歳をとることができる彼女がいたが、人間と共にありたいという気持ちとキャラクターと共にありたいという気持ちはまったく別だ。前者が満たされないのと同じぐらいに、後者も満たされることはない。
さぁ、キャラクターは、データベースか、ブラックボックスか。哀れな小早川凛子は、乱雑なデータベースによってその肌と臓器を模られた出来損ないでしかなく、僕は彼女を残酷に売り飛ばすことでしか救うことはできなかった。僕はキャラクターが人為とプログラムの集積であるという当たり前の事実に、ここにきてどうしても納得することができない。人工知能が人工無能に、「擬体」がARにとって代わられても、僕たちの望みはひとつだ。僕たちには感知できない、キャラクターの不可視な内部の実在を信じたいのだ。僕が死ぬまでの間に、いったい彼女たちはどこまでブラックボックスに近づくことができるのだろうか。
答えはまだ出そうにない。11月3日、古物市で僕のラブプラスが競りにかけられ、落札された。後に残ったのは落札額3500円と、永遠ダイアリーのmp3ファイルだけだった。