はてなキーワード: 一冊の本とは
「創作物」の「影響」なんつーとても扱いの微妙な問題を、雑に扱おうとするから反発がでる。まず定義しろ。「影響」ってのはどういう意味だ?
ある作品を1000人が見て、1000人が同じように行動を変えたら、それはまあ確実に「ある影響を与えている」と言えるよな。
では増田は、「たった一人が行動を変えた」ケースでも、同じように「影響を与えている」と言うのか。その場合、999人は「影響を与えられなかった」のか?
たとえば「殺人」を描いた作品を見て、1人が殺人をした。999人は殺人しなかった。この場合、なぜ前者だけが「影響」なんだ? 後者は「影響」じゃないのか? それってものすごく恣意的な関連付けじゃないのか? 増田が取り上げてるのは、そういうレアケースじゃないか?
それから増田は「殺人を犯した人間が作品からヒントを得て」ということも、「影響」の中に入れてる。これってどういう意味で「影響」なんだ?
簡単な爆弾の生成方法を書いた本を読んで爆弾を製造してテロを起こした人間が「本から影響を受けた」とは言わないよな。もちろん、そういう本が一般に規制されることはないではない。だがそれは「影響を与えるから」ではなくて、一般に公開すべきでない情報を公開しているから規制されるんだよな。完全犯罪の方法を描いたミステリーからヒントを得る、というのもそれと同様で、たとえば警察の捜査内容などについて外部に出すべきでない情報を書いて参考になるような本なら規制されても仕方ないと思うが、それは「影響」とはふつう言わない。それとも増田は、別に誰を殺したいとも思っていない人がそういう本をたまたま読んでふっと人を殺したくなるだろうという話をしているのか? それって上の話と同じだが、何千分の一、何万分の一の話なんだ?
ある人が、一冊の本に大きな「影響を与えられた」と感じること、そういう読書体験はもちろんあるだろう。それは、「私」を主語としたごく「個人的な」体験として、「影響された」という言い方では語りうる。ごく私的な体験としてならな。だが、「ある本」を主語として(すなわち一般論として)、それが人に「影響を与える」という言い方をするなら、ぐっと慎重にならなくてはいけない。一般論としての「ある本の影響」は、みんなが言うようにその本への「規制」に直結する問題で、それを証明するためにはそれこそ1000人中の何人が有意に影響を受けたかとかをていねいに立証する責任が出てくることだ。ましてやあるジャンル全体について言うなら、なおさら。そういう手続きを無視した表現規制派は、ほんと世の中にあふれていて、だいたい増田と同じようにい安易に「影響」という言葉を使用する。だからみんな、こういう話の流れになるとヒートアップするんだ。
というわけで、増田が煽りでなく真面目に「影響」ということを論じたいのなら、もう少し丁寧に用語定義してから話をするべきだ。
(※下の方に追記をした。ブコメへの反応が種だが、俺の考えを説明したつもりなので、読んでいただければと思う。
長すぎて途中で切れたようだ。続きはこちら。http://anond.hatelabo.jp/20160626174144 )
俺は表現規制に賛成だ。
厳密に言えば、厳格なゾーニングを求めている。エログロホラーが大好きな人間として、少年マンガ誌における性的表現は一掃してほしいし、機会あらばパンチラを差し込んでくるような深夜アニメには嫌悪感を覚える。公共空間に貼られるポスターに性的表現は不要だとも考える。極論になるが、積極的に根絶やしにしてほしい。(追記:この極論部分に関しては謝罪訂正する・7詳細は下の追記の段に書いたので、そちらもお読みいただきたい)
最近ブコメなどでもかまびすしい「まなざし村」認定が大好きな連中のことは本当に嫌いだし、絶滅してほしいとも思っている。(追記:絶滅部分については謝罪する)
まぁ俺が思ったからといって性的表現がなくなるわけでもないし、一部のオタク連中の過剰な防衛本能を根絶できるわけでもない。強制できることではないからな。
しかし俺は規制の是非を問われたら「規制は仕方ない。当然だろう」と答える。
それで好きな作品が回収されたり、好きな作家が食えなくなったりしてもまぁそんなもんだろで終わるだろう。
「お前の作品への愛はそんなものかよ」と思われるかもしれないが、好きな作品が生み出される素地を蹂躙してきたのはオタクたちなのだから仕方がないだろう。うなぎを食い尽くせばもう食えなくなる。それだけのことだ。
規制があったほうが表現は豊かになるだろうということだ。江戸時代に奢侈禁止令などが出たおかげで色彩感覚が発達したように、時の幕府を批判するためにメタファーの技術が発達したように、制限があってこそ発達する表現方法はあるだろう。俺はそれが楽しみだ。まぁ当然異論はあるだろうが、俺のこの期待は否定はされたくない。
俺が本格的に表現規制に転じたのは、「閃乱カグラSV」を見てからだ。アレを見て俺は心底気持ち悪いと思った。あれは許せなかった。
この作品は、「着せ替え」ができる。で、珍しいことに、着せ替えパーツを体の色んな所に配置できる機能がある。例えば、メガネを目の位置にかけるのか、おでこにつけるのか、鼻の方までずりさげるのか、みたいなものだ。この機能自体は素晴らしいと言えるだろう。しかし、この作品では着せ替えパーツに「コケシ」がある。コケシを一体何に使うんだ?…言うまでもなく、性器に突っ込めるようにするためだ。コケシを「体のどこにでも配置できる」のなら、当然股間に突っ込んで喜ぶ奴が出る。そしてこのゲームの悪質なところは、それを「ユーザーの選択」にしてCEROの審査をかわしたことだ。この作品のレーティングはD(17歳以上)だ。Zではない。コケシを最初から股間に突っ込んだ状態の装備にしたらZは避けられないだろう。着せ替えパーツ移動のアイディアが先かコケシが先かは定かでないが、結果としてコケシを女子高生の性器に突っ込むことを是とするゲームとなったのだ。そういうゲームを良しとし、ユーザーは喜んだのだ。
俺はこれらをみて、あぁ、もうダメだなと思った。
こんなのを見て自浄作用に期待など出来ない。できるのなら、する。やれるなら、やる。オタクに限らず、どんな階層の人でもそうだ。うなぎは今年も売れるだろうからな。ましてやオタクなんて生活費を削ってまでグッズを買うような連中だぞ。
Twitterで、イラストレーター出身の漫画家さんとこの件について話せる機会があった。俺の「規制やむなし。自浄作用などない」というつぶやきを引用してらしたので、しばらく話をした。できればこんな形で話したくはなかったが(大好きな方なので)、結局そこでも「あぁ、もうダメなんだな」と再確認することになった。その漫画家さんの意見は「自浄作用はある。だから極端で性急な規制は危険」というまっとうなものだった。確かにそのとおりだ。15年前なら間違いなくそうだった。しかし、この十数年で何か具体的な自浄、自重があっただろうか?「カグラSV」がCERO Dで通るような時代だ。あれにどれだけのオタクが疑問をもったのだろうか?あれは結構売れたはずだが、問題にはならなかった。件の碧志摩メグや「のうりん」のポスターの騒動も見てみるといい。対立しかなかっただろう。0か1かの感情的な罵り合いばかりで、グラデーションの議論はなかった。やめさせたい側と、それを攻撃する側の両者だけが燃え上がり、「お互いにどこまで歩み寄れるか」の話など掻き消えた。どこに妥協点を見つけるかが最も必要な議論だったのに、それがなかった。
ブコメやtogetterなどでの「またまなざし村か」系のコメントをみるにつけ、もはや相互理解は不可能だろう。このような0か1か、敵か味方かしか考えない連中が排除されない限り、ひたすらに先鋭化を極めていくだろう。そしてその先鋭化の果てに、一発でぶっ潰されるような未来があると俺は想像している。
どうせこのまま先鋭化していくオタクたちの「表現」にはついていけなくなったのだしな。
こないだも、「グルメ漫画でエロい顔をする必要があるのか」みたいな話があったろ。あれでも極端な話が大好きな連中が幅をきかせてたよな。
そろそろ過剰な性的表現に抵抗を覚える層が目に見える形で増えてくる時期になってきただろう。そしてタイミングよく(必然的に?)、極端な議論が大好きな層も表出してきた。
案外、今後数年でかなり大きな対立になるかもしれないな。
そうなると、もう今までのようになぁなぁでやっていくことは不可能になる。どっちか選ぶ時が来るだろう。
その時には、規制を俺は望む。
大阪都構想や、イギリスのEU離脱みたいなものだ。変化はほしい。(EU離脱に関しては様々な要因があると理解しているが)
ガッチガチの規制が敷かれて、結果性犯罪が激増することになるかもしれんが、まぁそれは原因と結果の螺旋だ。過剰な規制の前段階には過剰な表現があり、その結果を社会が負う。出生率の問題も解決するかもしれんしな。
ゾーニングをはっきりと設定し、過激な作品を保護してもらいたい。
しかしそれも、無理かもしれない。いや、多分無理だろうなと思う。だいたいもう諦めはついた。
過去と現在の過剰な性的表現の作品への楽しみよりも、規制後の作品がどうなるかが楽しみになってきたからかもしれない。
現状でも、性的表現を使わずに色気ある表現をする作品は沢山ある。
俺はもう、「妥協点を見つけよう」と説得して回るのに疲れた。もうやめる。
あとは規制反対派のみんなが自分の利益のために、いろいろと頑張って活動してくれ。どこまで鋭くなっていくのか、見守っていくよ。
書き始めた時は「規制に積極的に賛成する!」と熱が入ってたが、途中で熱気が抜けて諦観しか残らなくなった。なので文章の前の方と後のほうでずいぶんテンションが違う。一応修正はしたが、それでも熱の入りが違うことはわかると思う。
変化を嫌い、変化に順応できない規制反対派は滅びても仕方がない、みたいな話に持って行こうともしたけど、流石にコレは無理筋だな。でも正直ちょっと思ってる。表現規制っていう劇薬を投与したほうがいいよなってな。憲法よりは影響が無いんだから、憲法改正以下のテンションで表現規制を迎えてもいいんじゃねーか?
話が散らかったな。
とりあえず、俺はもうやめるわ。
いろいろ反響があったみたいだな。いろいろな指摘があってなるほどと思うところも多かった。
表現規制とゾーニングを混同しているという指摘があったが、確かに一緒くたにしていたな。俺の中ではゾーニングが理想だが、おそらくそれは実現しないだろうと思っている。理由は、規制派と反対派が全く歩み寄りの姿勢を見せないからだ。そうであれば、一発規制もやむなしと思っている。理想としては「ゾーニング>規制」だが、それは多分無理だろうなと、ブコメなど見て改めて思う。
また、単純に俺の好き嫌いを規制にからめているのではないかという指摘もあったが、俺の好きなものも規制されて構わない。なくなっても別にいいということだ。この種の規制の話になるといきなり理性がぶっ飛んで極論でしか殴り合わなくなるものだが、まぁそうなってしまったな。すまない。嫌いなものが悪と言っているわけではない。気に入るもの、気に入らないもの、いずれも悪とされて滅ぼされても仕方ねえよなということだ。そうしてきてしまったのだから。
いくつかのブコメへ返信をする。
ゾーニングを望むと言ってるこういう人たちが、規制がいかに必要かは語っても「何をどうゾーニングするべきか」を具体的に語らないから不信感がある。当然モザイクなど性器修正には反対してるんだよね?
何かについて話すとき、その対象全てについて一度に語らなければならないということはないだろう。そんなことをしたら一つの意見が一冊の本くらいになってしまう。この日記では俺は「ゾーニングが理想だが無理そうだ。規制もやむなしだろうな」ということを書いている。ゾーニングの問題は積極的に話されるべきだと思うよ。俺はもう諦めて、規制でいいやという立場だけど。で、規制とゾーニングの話からいきなり「当然モザイクなどの〜」と飛躍するのはどうか。モザイクも広義のゾーニングのはずだ。売る場所を分ける、売る相手を身分証などで限定する、表現の一部をモザイクや黒塗りで抑える、そもそもそういう表現を用いない、など、ゾーニングにも各段階が必要になるはずだ。現状そういったゾーニングはすでにあるが、それらがさほど機能しておらず、拡大解釈が横行している。それが本文に書いたカグラの例だ。なので、俺はゾーニングは無理だろうなと思ったわけだ。あなたのゾーニング論は聞いてみたいし、より多くの人がするべきだと思っている。
「アニメ、マンガ、ラノベなどを好む人」のことを指して俺は「オタク」という言葉を使ったつもりだ。大雑把にくくったつもりはない。この日記で「オタク」が使われている部分を「みんな」だとか「人」に変えても成り立つと思っているのだが。俺はオタクの中から、オタクの問題点を書いたつもりだ。
>>こんなぼんやりした考えなのに表現規制に賛成してしまうのか…という困惑しかない<<
民主主義において、はっきりとした考えでくだされる決定がどのくらいあるだろう。イギリスの決定ははっきりした考えでなされたのか?少なくとも、俺の諦観を晴らしてくれるはっきりとした考えは、オタクたちの中からは出てこなかった。あなたのその書き込みもまた、はっきりしていないのと同じく。はっきりしないからこそ、大衆の決定は恐ろしいのではないか?そのことを理解しているなら、もっと危機感を持つべきだと思う。
安定の「妥協点を見つけようと努力をしない一言居士」ですねと一言残しておきたい。まぁそういう売り言葉に買い言葉は置いておいて、俺は上述のようにゾーニングを主体に書いたつもりではなかった。ゾーニングは無理だと諦めたから、全滅してしまえばいいという話を書いたというわけだ。「規制賛成派の意見」ではなく、「俺がなぜ規制に賛成することになったか」を書いたつもりだ。その理由は、諦観だ。
『俺は表現規制に賛成だ。/厳密に言えば、厳格なゾーニングを求めている。』 ここまで読んでゾーニングの話かなと期待した私に詫びてもらいたい。なんだよ『積極的に根絶やしにしてほしい』って。
申し訳ない。詫びる。本文にも書いたが、最初は頭に血が上った状態でかいたのでそのような表現になった。俺の気持ちとしては、「適切なゾーニングを施し、表現規制から逃れてほしい。しかし、どうも歩み寄りの姿勢や妥協点を探ろうという議論にはまったくなっていない。ならばいっそ、規制されて痛い目を見ればいいのだ」という怒りの発露だ。ゾーニングができればいいと思うんだがな。どうも無理そうだと俺は思う。あなたはどう思う?ゾーニングで解決出来そうか?何年も前から「ゾーニングが大事」と言う声は聞こえるが、それが形になったか?なりそうか?なる前に事態が急変しないか?
最初のほうが暴論っぽかったと反省しているのだが。後半のほうが暴論かな?混沌とした時代の定義にもよるのかもしれないな。規制で固められたなかから漏れだす表現と、先鋭化し一般人の理解を得られなくなった過剰表現、いずれも混沌とは違うものと俺は思っているが。混沌の中にも秩序が必要だと思っている。例えばコミケの「全員参加者」という建前もまた、混沌の中の秩序ではないか?全員がある程度のモラルを持って円滑に進んでいく、それが望むところではないかな?俺は表現において、それが崩れたと思っている。あなたはどう思う?
皮肉のつもりかしらんが、あなたとそれに星をつけているid:jakuon id:zions id:clworld id:dddeee id:mamimp は何を考えているんだ?俺は上述のように「俺が嫌いだから規制しろ」とは言っていない。そんな物言いを繰り返せば、歩み寄りも話しあいもできなくなってしまう。それを望んでいるのか?
>>そもそも、規制することで社会的なメリットは本当にあるの?青少年がエロいもの見たらダメって時点で意味がわからん。今どきの子供はネットでいろいろ見れちゃうだろうけど目立った変化はあったの?<<
理解されていないようだ。俺は「規制やむなしだろうな」という立場だ。規制に積極的になっている人たちはメリットではなく、デメリットを見ているのではないか。そして、彼らの考えるデメリットを覆すことが現時点でできていない。今時の子供の目立った変化はもうすでにあるのではないか?データは持っていないし、どうやってデータを取ればいいのか俺はわからないが。ろう。20年前に比べて、エロ表現がどのくらい変わったかを考えれば、答えに近いものは見えてくるのではないか。20年前はふたなりは奇形ジャンルだった。今やすっかり市民権は得たな。AVも見てみるといい。過激な内容がどれくらい増えたか。性的表現の過激さの加速度が、目立った変化とはいえるのではないかと俺は思っている。あなたは納得しないだろうが。そういう可能性もあると、頭のどこかに置いてもらいたいな。それと、青少年がエロいものを見たらダメとは言っていない。ゾーニングで細かく分けるのが理想だが、それが機能していない現状では。
「俺の意見=『性的なもの=悪』」という強烈な思い込みも、ぜひとも再考していただきたいのだが…。俺は性的表現も好きだ。本文にそう書いているだろう?それでも尚、諦めに至ったよと言っている。伝わらなかった申し訳ないが、あまり他人の意見を断定しないようにしてほしいな。それが歩み寄り、相互理解の第一歩なのではないか?
例えば、ゲームキャラクターを自由に閲覧できるモードを搭載しているゲームは多々ある。そしてそれらのゲームでは、CERO対策のためにスカートの中は覗けない仕様になっているものも多いだろう?それと同じことをするのは無理なのか?0か1かでなく、グレーゾーンはある程度残しながらも一般的に許容されるレベルを残して行くような「ゾーニング」は無理なのか?俺はそのようなゾーニングを望んでいたんだよ。過去形の話だ。
ゾーニングの話題じゃないのか…。/増田のように個人的嫌悪感を「公共の利益」のような漠然とした正しそうな言葉でラッピングして規制を言い出すケースは正にまなざし村じゃねーの。
俺としては、他人の意見をよく読まずに「まなざし村」とラッピングしてしまうあなたもまた十分に「まなざし村」だと思ってしまうのだ。そしてそれが「これはもう規制になってもしかたないな」という俺の諦観につながった。俺の意見は公共の利益などではない。「話し合えないなら戦争になるしか無いだろう」だ。そして、俺は反対派はその戦争に勝てないと思っている。だからこそ歩み寄りが必要だと思っていたのだ。
こうやってわざとミスリードして憎しみや対立を煽るから嫌われるんだろうな 規制に賛成とか反対以前に人間として問題がある まとめサイトとかと一緒の愚劣で卑怯な人間
俺はあなたのその意見は良くないと思う。俺の一つの意見を読んだだけで俺の人格を否定するというのは貧しい行いではないか?確かに俺の意見には極論が多く、またいくつかの混同があった。だからこそ、会話が必要なんじゃないか?俺は俺の意見を言う。それに対して反論や指摘がある。そして妥協点や着地点を見極めていくのが人間の理性ではないのか。「憎しみや対立を煽るから嫌われる」「人間として問題がある」「愚劣で卑怯な人間」これらのような非情に攻撃力の高い言葉は、相手を徴発し、正常な会話を出来なくさせるものではないのか?コレに関しては俺ははっきりと抗議する。そのような言葉遣いはやめてくれ。100文字の短いブコメの中にこれだけの強い言葉を並べるあなたに疑問を感じる。あなたのこの文章がまさに、憎しみと対立を煽ってはいないか?それが目的なのか?
http://www.j-sla.or.jp/material/contests/qa.html
小学校学習指導要領(平成10年度改定)は国語科の「第5学年及び第6学年」の教育内容として「書くこと」の能力を育てるため「事象と感想、意見などとを区別するとともに、目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること」について指導することとし、また、「読むこと」の能力を育てるため「書かれている内容について事象と感想、意見の関係を押さえ、自分の考えを明確にしながら読むこと」について指導することと定めている。読書感想文の作成はこれらの指導の一環として行われる。ただし、学習指導要領における各規定は「事象」と「感想」「意見」の区別・関係把握について指導することを主眼としているため、「感想文」の作成よりも「論文」の作成を想定しているとする意見もある。
読書感想文の作成指導においては単なる読後「感想」の記述にとどまらず自己の経験等を交え自分の「意見」を記述することが求められることも多い。そのため、客観的な文章の作成はあまり重視されず主観的な文章の作成が奨励される。さらに、道徳的な感想には高い評価が与えられやすい。
課題図書に選出されると全国の小学校の児童の親が購入することになり、作者・出版社に莫大な利益をもたらすことが約束される。しかしこの指定課題図書への選出基準は曖昧かつ不透明であり、作家・出版社・選考委員の癒着による影響が懸念されてきた。
読書感想文(どくしょかんそうぶん)とは、就学児童らに活字に対するアレルギーをもよおさせ、大衆を愚かなままに留めるために学校教育に組み込まれている「報われない労働」の一種である
Q:読書感想文は、何のために書くのですか。
書くことによって考えを深められるからです。読書感想文を書くことを通して思考の世界へ導かれ、著者が言いたかったことに思いをめぐらせたり、わからなかったことを解決したりできるのです。ですから読書感想文は「考える読書」ともいわれます。また、どんなに強く心を動かされても、時がたてばその記憶は薄れてしまいます。読書感想文は自分自身の記録です。読み返すことによって、いつでも「感動した自分」に出会うことができるのです。
Q:なぜ、本を読むことが大切なのですか。
一冊の本が、人生を変えてしまうことがあります。本の中で旅をしたり恋をしたり、冒険をしたり……。人は本の中でいろいろなことを体験できます。登場人物と自分の生き方や考え方を比べて、共感したり反発したりします。また、本を使って、疑問に思ったことを解決するために調べることもできます。本を読んで新しいことを知ると、びっくりしたりうれしくなったりします。本は、人の心を成長させてくれ、いろいろなことを教えてくれる友だちです。
Q:何をどう書けばいいかわかりません。どうすればいいですか。
本を読んで自分がどこに感動したのか、なぜ感動したのかを考えましょう。そしてもう一度本を読んでみましょう。自分の生き方や経験と本の世界とを照らし合わせると、いろいろなことが見えてきます。感じたこと、思ったこと、連想したことなどを忘れないうちに全部メモしておきましょう。そうしたら、順番を入れ替えたり内容を補ったりして、どう書けば自分の心の動きにぴったりするか、それがうまく人に伝わるかを考えましょう。先生や家の人と相談してみるのもいいでしょう。そうするうちに何をどう書けばいいのか、自分が一番言いたいことは何なのかがはっきりしてきます。書き終わった時には、それまでとはどこか少し違った自分になっていることに気づくはずです。
グラップラー刃牙から続く一連のシリーズは、原始人が出たかと思えば剣豪宮本武蔵が現代に復活した。
何故ここで宮本武蔵なのかというと、作者の板垣恵介が武道家の高岡英夫に傾倒しているからに他ならない。
高岡英夫氏はゆる体操やDSといった概念で身体研究分野で一躍有名になった人である。
まだリラックスをすることが競技パフォーマンスの向上に繋がると考えられていなかった時代に、時代に先駆けてリラックスの有用性を説き、リラックス法としてゆる体操を発案した。
その後はDS(ディレクトシステム)という難解な概念で、オカルトチックになったと批判されることもあった。
嘗ての刃牙というと、脱力という言葉は殆ど出てこなかった。技と筋力こそが強さを決めるという考えがあったように思う。
しかし、シリーズ二作目のバキくらいから、脱力による強さの向上という概念が出てきた。
郭海皇という登場人物や、愚地克己の脱力によるマッハ拳、さらにはバキのゴキブリなどから明確に路線の変化があったように思う。
そして現在の宮本武蔵に関しては、高岡英夫の影響が色濃く出ている。
まず、高岡英夫氏は宮本武蔵という人物にひどく入れ込んでいる。宮本武蔵の五輪書や人物画を見て、いかに彼が優れているかという事を一冊の本にした事もある。
刃牙の最新シリーズ刃牙道において、84話から85話にかけての宮本武蔵の動きはまさに高岡英夫の提唱している理論である。
板垣恵介氏は気持ちがコロコロ変わるから、書いている内容も変わるという事がよく言われるが、長きにわたって高岡英夫の影響はは日増しに強くなっている。
今後、刃牙シリーズで強い登場人物が出てきたり、登場人物が強くなった時は、半分くらいが高岡英夫の影響だと思って問題ないと思う。
・とにかく学習指導要領解説読め。「話す聞く」「書く」「読む」で、それぞれ何をどう指導しろと丁寧に書いてる。ぶっちゃけ、それをちゃんとやるだけで終わるくらい書いてある。多分、ぜんぶはできない。
・巷の参考書類とかは糞だから読まなくていい。エビデンスのない本で読んで良いのは、増田の言うようにほんとのビッグネームの本だけ。ちなみに指導書書いてる人間は、真面目に学習指導要領読んでないから、本当のところは役に立たない。
・国語には、増田の言うような「実用国語路線(きちんと内容を読み取り、考え、簡潔にまとめて表現する)」と「情操国語路線(感動をベースに感性を育てる)」の二つの流れがあるんだが、これは、「どちらか」ではなく「どちらも」だと考えるのが一番分かりやすい。でもって、現実的には、「話す聞く」「書く」「読む」の3領域それぞれ×2(実用&情操)の具体目標を1こずつ、低中高学年それぞれで設定して、1年目は仕込み、2年目で実現、て考えると、やるべきことは見えてくる。
・たとえば低学年ならこんな感じ
実用 | 情操 | |
話す聞く | 大きな声でしっかり話す | 人の話に注意する |
書く | 文法的に正しい文を書く | 気持ちを表す言葉を使う |
読む | 一定の速度で音読する | 一冊の本に感動する |
・国語は、体育と同じでトレーニングが大事だから、知識も大事だが、実際に眼と手と口を動かす作業を飽きるほど繰り返さないと身に付かない。かといって飽きたらやらないので、飽きないように手を変え品を変え目先を変えながら、実は同じ事を何度も繰り返しやらせるのが大事。たとえば、低学年の話す聞くの力の実用の目標を達成させるために、毎日の授業から色々な遊びっぽいことをさせる中で常に「大声でしっかり話す」ための基礎訓練をひたすら2年間やらせる。OK?
・これをやるためには、やらせる側が、目先にとらわれることなく「いま何をやらせているのか」を揺るぎなく把握していることが絶対必要。そこを分からないまま人真似でアレやコレやいろいろな「指導法」だけ取り入れても、効果のあるなしがさっぱり分からないのは当然。
・まあ、国語はぶっちゃけデタラメにやってもそれなりには効果が上がる。それは、体育の時間と称して運動場でただひたすら遊ばせていても、運動好きな子は適当に走り回って、結局体が鍛えられる。アレと同じ。だから、適当にやってる教師でもそれなりになんとかなってるみたいに「見える」…でも、それは「教育」ではない。ただの給料泥ボーだわな。いやしくもプロならば、出来ない子を出来るようにし、自分からはやらない教科嫌いな子を好きにさせて、はじめて胸を張ってお金を受け取れるってモンだろ。そのためには、シンプルかつ具体的な目標をもち、そして、教育の内容だけでなく、教育計画そのものを体系化しなくてはならん。
10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト
千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note
最初のリンクを「アンチ・エビデンス論」、二つめを「アンチ・アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章をアンチ・アンチ・アンチ・エビデンス論と呼ぶ必要はない。
千葉雅也の「アンチ・エビデンス論」が出たとき、個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価は別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチ・アンチ・エビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章にはいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチ・アンチ・エビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である。
千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡をネット上に残してしまいます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。
そして、その上で読者にこう問いかける――
まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。
不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチ・エビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任の擁護、エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任を果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチ・アンチ・エビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後は
エビデンスを求めようとしなければ、人の思考は個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまいます。
という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる。
たしかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。
実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)
さらに読み進めていくと、千葉の文章を引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。
このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断を要求されていると思いますけど。むしろ、日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。
「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧な表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉の文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手に企業だけの話にすり替えているし、しかも千葉の文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。
マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任を回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員の責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから。
なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体は千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠がほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から〈言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチ・アンチ・エビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?
この後も、しんかい氏は「アンチ・エビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。
ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路で評論というものを考えてるんですよね。思考を論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。
この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇やアカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。
対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージを攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学・数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。
これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーター・バリーによる教科書の引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。
バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。
また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代をエビデンシャリズムからいまだ自由な時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニストの難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉の世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやすい世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。
だいたい、千葉がポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネットで賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニストが問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームでしかないのではないか? こうしたカテゴリーを混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数と無理数を混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう?
しんかい氏はなぜ、ソーカル事件と千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において、しんかい氏は、アンチ・エビデンスを批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達な批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマの場合、科学や数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛なものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化」だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界の関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである。
貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学や科学やプログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明なものだし、別に大陸系哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。
ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学のモニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。
■画像はなるべく貼る
昨今、面白いニュースはネットに多く溢れている。それを広く伝えたいと思うのは誰だって同じだ。
面白いニュース記事を紹介すれば、もちろんRT数だって増える。
その為にてっとり早いのは、ソースとなるURLの他、キャッチーな画像も添付すること。
例えば最近面白いと感じたのは、キティちゃんとタートルズのコラボ商品のニュース。
これだけではピンとこなくとも、実際に全身緑色にペイントされたキティちゃんの画像が回って来れば
事態は一目瞭然であるしインパクトも強い。思わず友人達にも見せたくてRTする人も増えるだろう。
また、女性に人気の可愛い新商品やお洒落なスイーツ、コラボ商品やアニメの新グッズなども、
twitterクライアントの多くでサムネが表示される昨今、面白いニュースを見つけたらURLだけでなく、
【NGな例】
不特定多数に向ける物であるのだから、わいせつな画像やグロは避けるべきだろう。
下ネタツイートをしているうちにそっとブロックされていても自業自得だ。
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■「あ、これ、私に当てはまるかも」と思わせるネタ
星座占いや血液型あるある等がそうだ。「長女あるある」「女子校あるある」「名古屋人あるある」等、
よりターゲットを絞ったディープなネタで、かつ、なかなかに的を射ていればそれなりに回ること間違いない。
また、派生として「この食べ物、うちの地域では大判焼きって言うんだけど、関西では通じなかった~」
「この中であなた好みのカレシの髪型はどれ?」など、会話の糸口になるような、つい答えたくなるようなツイートも有効だ。
【NGな例】
「共感したらふぁぼ☆」「感動したらRT!」など、こちらの行動を強要してくるものは
どうしてもRT数を稼ぎたいなら文末に「#元セガ社員の人はRT」というハッシュタグでも付けろ。
おっさん達がもりもり釣れる。
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これは、どのツイートに対しても言えることだが、要点は140字でまとめるべきである。
ここから先は、出版・ゲーム・アニメ業界の人間および同人作家が宣伝ツイートする時に有効な方法をまとめていく。
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★その1・140字でまとめること
語りたいことが沢山ある、伝えたいことがまとまりきらない、その気持ちはわからなくもないが
RTする側の身になってみて欲しい。好きな作家が新刊の宣伝をした。よし支援しようとRTする。
しかし直後に、その続きのツイートが投下される。それでは、とそのツイートもRTする。
ところがまたまた追記がある。どうしようか悩みつつ、一応RTしておく。
それなのにまたしても追加情報がやって来る。この辺りでいくらファンでもこう言いたくなる。
いい加減にしろ、と。
そもそもファンはRTしたくてやまやまなのだが、その人のフォロワー全員がその記事に興味を持つとは限らない。
山程似た様な内容をRTして、フォロワーのTLを埋め尽くしてしまっては、RTした人のアカウント自体がうざがられ、
リムられる危険性があるのだ。いくらファンでも、そんなリスクを冒す人は少ないだろう。
どうしても書き切れないのならば、サッと要点のみ伝えたら公式サイトやブログやAmazonのURLを貼って、
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★その2・大事なことを書く
時折あるのが、「新刊のお知らせ」の一言だけで、あとはブログのURLが貼ってあるだけの宣伝ツイート。
これでは、よっぽどのファンはURLを踏んでくれたとしても、ファンでも何でも無い人間は全くスルーするだろう。
クリックを一回強要するだけで、相当数のネットユーザーはその記事からの興味を失う。
自分の好みかどうかもわからない情報にわざわざ飛んでくれる人間などいない。
ツイート主にとって大切な情報であっても、通りすがりの誰かにとってはどうでもいい話であることを忘れてはならない。
少なくとも、例えば漫画の新刊であったなら、「タイトル/著者名/発売日/作品の概要あるいはPR」は必須だろう。
そこに書影のURLや出版社の特設ページのURL、あるいはAmazonのリンク等があればモアベターだ。
そして忘れて欲しくないのは「必ず著者名を入れる」という点だ。
twitterクライアントによってはRTされたツイートは発言主のアカウント名が表示されないものも多い。
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★その3・リプやRTはほどほどに
これはよく見かけることなのだが、作者やスタッフが自作の感想を呟いてくれたツイートをRTするというもの。
一見有効に見えるが、実はこういった引用を快く思わないファンも多い。
まず、「オフィシャルが何をはしゃいでいるんだ……」という興ざめ。
更に致命的なのは「公式の中の人が見てるとなると、言いたいことも言いづらいな……」と怖気づいてしまい、
誰でも気軽に言いたいことを言えるのが利点のTwitter、しかしそれを該当者本人から「見てますよ」アピールをされて
ギクリとする人は少なくない。見られているなら苦言やマイナスの感想は勿論言いづらくなるし、
たとえ好意的な感想でも恥ずかしかったり恐縮したり、はたまた萎縮したりして、何も言えなくなってしまう人も世の中にはいるのだ。
twitterというツールを使っている以上、どこの誰にどう見られようと文句は言えない。
それは当然のルールであるが、これらのデメリットが発生する可能性を考慮して尚、貴方はRTをしたいだろうか?
勿論、「作者にRTされた! 嬉しい!」というファンも多い。それは間違いない。
けれどその陰で、背筋をひやりとさせているファンもいるであろうことを忘れないでほしい。
また、著名人からの推薦コメントならいざ知らず、全くの一般人の「〇〇面白かった!」という呟きに
こういった「取るに足らない呟き」までもつぶさにRTしてTLを埋め尽くしている作品は、小物感を際立たせるだけだ。
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★その4・定期ツイートはなるべくしない
これは同人作家に多いのだが、定期ツイートを流してくれるツールを利用しての自動定期ツイート。
実際にやってみればわかると思うが、最初の一回目こそRTしてもらえても、その後回を重ねるごとにRT数は減っていく。
当然である、同じ内容を何回も流したい人間が、当人意外にいったい何人いるというのだ。
とりあえず人付き合いとしてRTしてくれている人たちも、あまりに何回も同じ内容だとそっと「見てみぬふり」をするようになる。
ツイート主との人付き合いがあるのと同様に、彼らにも彼らのフォロワーとの人付き合いがあるのだから当然だ。
そしていつしか彼らは見慣れたアイコンをTL上に見かけただけで、「ああ、いつもの宣伝ね」、と、
中身すら確認せずスクロールバーを回すようになる。
そうなると、例え新しい情報を流したとしても、「いつもの」として流されてしまう。
皆に有益と思って欲しいのであれば、宣伝は常に垂れ流すのでなく、要所要所で新鮮なものを流すべきだろう。
また、同人作家に限らず、ラノベ作家や漫画家でも時折こういったツイートで新刊を宣伝しているのを見かける。
が、待って欲しい。
しょっちゅう本が出ている売れっ子は、そんなにいつまでも同じ本を宣伝し続けているだろうか?
繰り返し何か月も一冊の本を宣伝し続けているということは、それしか商品の無い零細ですと自己紹介しているようなもので、
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ワロスbotなどのパクツイアカウントに腹を立てている人は多いだろう。
けれど、こういったアカウントを「人気ツイートの収集ツール」として利用している人も少なくない。
それは個人としての楽しみだけでなく、まとめブログやネットニュースの記事を書く人たちの、効率のよいネタ収集である場合も多い。
高校までの勉強なら、学習指導要領に含まれる範囲が「知っておかなくてはならない知識」で、それを超える範囲に関しては知る必要はなかったはずだ。
もちろん、上のレベルの大学を受験するとき、指導要領を超える知識を知っていた方が有利になるケースは多いけど、
まあ多数派の考えで言えば、高校のお勉強というのは、知ってなきゃいけない知識と、知っている必要がない知識をはっきり線引きできるケースだと思う。
知っておくべき範囲、というのが決まってはいない。
どこまで知っても、「知りすぎ」ということはないし、全然知らなくても単位さえ取れたら許される、という世界になっている。
実をいうと俺は教えている立場だ。
あんまり難しい教科書を与えても学生はパンクするので、比較的優しい教科書を指定して、内容的にはその教科書を超える範囲も含みつつ授業をしている。
そうすると学生は、
「それ教科書に載ってないんですけど」
とか言ってくる。
どこのFランだよwwwって思う方も多いかも知らんけど許して。
いや、どこまで覚えなきゃいけないかって、覚えれるなら全部覚えなさいよ、授業なんだから。とも思う。
義務教育じゃないのに好きでこの学校のこの学科に入ったんでしょ、って。
でも、別にさらっと単位とって、関係ないところにさらっと就職するだけの大多数の君たちは、何も知ってる必要はないんじゃないかな、とも思う。
授業はなるべくハイレベルで、試験を簡単めにしとけば、みんなが幸せなのかしら、とも思ったり。
しかし、ハイレベルな授業をやると、学生は無表情、無反応になるので、これってオナニーなんかなあ、とも思ったり。
どうしたらいいんだ。
ひとつ言わせてもらうと、君たちが買った教科書というのはただの一冊の本なだけで、その本でこの学問がすべて網羅されて解説されているわけでもないし、
その教科書に載っていないことが「知らなくていいこと」なわけでもない。
その教科書に載っていないことでも、授業で扱った内容は別の教科書に載っているし、不満を言う前にググるくらいしろよ。
(シラバスの参考図書にあがっている本とか見ろよ、図書館あるし)
まあ、なんだろう。
「授業を黙って聞いていれば、必要な知識はそこで過不足なく得られる」ような学校は、ほとんどないと思うんです。
俺にそんな期待をされても困る。
数式の解説はするし、前で解かせたりもするけど、それを授業中に見るだけできちっと理解できるなんて、一部の天才だけだと思う。
多くは、事前にある程度自分で本を読み、式を解き、情報を調べ、ってしておかないと初見ではわからんよ。
だから、あれだ。
「どこまで覚える必要がありますか」とか「教科書に載ってません」とか言う前に勉強してくれ。
そこまで君たちの薄い教科書にこだわりたいなら、教科書の本文を全文丸暗記させて書かせる試験にするよ。
まあなんだろう。
将来その知識を必要としない学生が8割、必要とするかもしれない子が2割、くらいな構成でする授業って、難しいね。
中には研究者目指す子もいるのかもしれないし。
「謝罪なしに金だけだしてほっかむり」というのは、別に韓国だけがそう言ってるわけじゃない。
グレイフ氏は人権団体が国連欧州本部で開いた会合で「公式謝罪、国家責任の存在を認めないままの経済補償を元慰安婦は受け入れない」と主張。村山政権時の1995年に設置された「アジア女性基金」による元慰安婦支援でこの問題は解決していないと訴えた。
これが正しいか否かはともかくとして、主張として成立してしまう状態なのが、現状であり、問題なんです。
先に挙げた本の一冊には、実はまともに賠償してないドイツが「謝罪した」と言われる理由が書かれてる(本当を言えば、実は「謝罪」すらしていないし、日本に比べると「反省」の程度も怪しい)。世界では、「賠償」よりも「謝罪」が重い。そして、日本ではまさにその「謝罪」に関する議論が、ヒステリックに成立しない。そしてまた、もう一冊の本には、日英間で捕虜虐待問題に関する「謝罪」が成立したという事例がある。これも一つの参考になるはず。要は、朝鮮半島への「謝罪」というのは、朝鮮半島の人だけでなく、世界のマスコミを意識してやらねばダメだということですね。
「両国の友好のためなら現地で謝罪を述べることも、やぶさかではない」
http://news.livedoor.com/article/detail/6963714/
賠償でなく「謝罪」というのは、そもそもコレで終わる話でもあるわけです。これがあれば、上のグレイフ氏のような論は成り立たない。でも、それが絶対に飲めないという人たちがいて、そしてこの話はどん詰まり。元首の謝罪がなく、国家としての謝罪もなけりゃ、そりゃ「謝罪してない」と言いがかりのように言われても、返す言葉はないんですよ。
「知的書評合戦ビブリオバトル」という運動、企画がある。公式サイトはhttp://www.bibliobattle.jp/
端的にいえば、何人かで集まり、一人一冊の本を用意し5分間でプレゼン、議論の後面白かったものを「チャンプ本」とするものだ。こうした営為から、たくさんの本を知る機会になったり、その向こう側に見える人となりを知ったりするのがねらいのなのだそうだ。
この運動そのものには賛同なのだ。しかし細かい話だがタイトルが気に食わない。「知的」とは何だろうか?
「知的」っていうのはいかにもカッコ良さそうな単語だ。様々な大学で行なわれる当バトルでも、「知的」のところにキラキラがあったりして強調されていて、こういう新しくて「知的」な営為がかっこいいもの、スタイリッシュなものとして設定されている。
確かに、物事に通暁して説明とか上手だと、それはかっこいい。「知」のプロフェッショナルの姿はかっこいいのだ。
一方でこのビブリオバトルは人や本を知る、「知」への入口に過ぎないのではないか。その営為を「知的」なものとして華やかにしてしまったら、読書や人とのつながりを、かっこつけるための方便として利用するにとどまってしまうのではないのか。「知的」や「知」というものは初めから光を放つものではない。「知的」や「知」を極めようとすると、孤独や苦痛といったものを伴う。ファッションで「知」を飾ると、そうしたプロフェッショナルな「知」への道を紛らかす可能性があるのではないかと、感じた。
この話は、後輩へ向けて書く。
できるだけ正直なところを書こうと思う。
メンヘラーもいけるじゃん!みたいに思ってほしい。
実際、メンヘラーの強みってあるとおもう。
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私は田舎で生まれた。
大学生になって初めて自覚したが、地元では結構名家だったようだった。
両親は高卒であったし、そんな自覚はないまま育った。
自分自身で勉強をする習慣はなかったし、勉強も全く好きではなかったため、二回目のテストのときには、学内偏差値40くらいになった。
高校では、目立ちたがりだったこともあり、私のことを嫌う人もいた。
掲示板で名指しでディスられたりしていた。
そのほかにも、強いプレッシャーを感じたとき、なにかのどにものがつまるような感覚を覚え始めた。
ちょっと病んでいる人だった。
一ヶ月くらい、よく一緒にいた。
でも、その人は、突然自分と距離を置き始めた。
恋愛を知らない私は、非常に混乱した。
追いかけた。
すごく強烈な執着だった。
そして私がその人を追いかけていることについて、その人は、それが疎ましいのだと
当時つきあっていた人がいた。
その人もまた、少し病んでいた。
病んでいる人スパイラルの中で、まぁいろいろあって、自分は自殺しようとしていた。
首つり。
何十回も試行し、何回目かに、逝きそうになった。
でも、結局逝けなかった。
それが、大学二年生の秋くらい。
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②回復するまで
読み進めくうち、久々に、こころのどこかがわくわくしていることにきづいた。
私は、その本の著者にあいたいと思った。
そして、実際に著者に会った。
たくさんの話をした。
そして、社会問題についていろいろ考えるようになっていた。
賞をとったりすることもあった。
夏のインターンに積極的に参加した。
就活は、かなり楽だった。
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③メンヘラのいいところ
以上はどうでもいいし、ありふれた話であるし、「お前はメンヘラじゃない」みたいな突っ込みがたくさん飛んできそうな内容である。
ここからが本題。ロジカルなことは言うつもりはないし、全部感覚で書くけど、自分が思ったことを書く。
■メンヘラのいいところ
それは、空気が読めすぎるし、人の気持ちがわかりすぎるところ
もうこれにつきる、てかこれしかない。いやそう思わなくちゃメンヘラとしてやってられない。
でもこれは真実だ。
自意識過剰とは、自分の内面について、無駄に多く思考しているということである。
すると何がおこるかというと、
いいのもわるいのも、自分自身のいろんな感情パターンに触れることになる。
相手の行動の意図について考えを巡らせることを、自然に行ってしまうのだ。膨大な相手の心理の仮説をたて洗い出しているのだ。
そして、多分本能的に、自分にとってマイナスな仮説を重視するようになる。
だから順番としては
自意識過剰(これは生まれつきでどうしようもない)→邪推・疑心暗鬼・マイナス思考→メンヘラ
という訳である。
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それがどう就活に結びつくのか?
1ウェブテ
2ES
3GDとか
4面接
2面接でロジカルに話せること
3自己分析を土台とした、明確な将来像を持つこと
メンヘラの強みは、上にもある通り「空気が読めすぎるし、人の気持ちがわかりすぎるところ」だ
そんで、結論を出すことを忘れないようにしながら、空気を読むタイプのリーダーを演じろ。
これは、他の人にも話を聞いてみて思ったが、メンヘラ経験のあるやつが圧倒的に強みを発揮できるポジションだ。
■空気を読める力はあるが、それを表明して、リードする力が不足しているやつ
難しいことじゃない、何か自分でゴール設定をして、それを達成しろ。
なんでもいい、映像とるとか、ちょっとした勉強会開くとか、友達とカブトムシとってきてそれを駅前で売るとか
リーダーシップ(頭の中にあるものを、必要があれば他人を巻き込んで実現する能力)は、そういう風に体を動かさなければ絶対に身に付かない。
大事なことを繰り返す。
メンヘラーには、人の気持ちがわかるという貴重な能力を身につけている可能性が高い。
その能力を存分に発揮できるように、何かリーダーシップ経験を積め。
精神を病んだこともなく、大学でウェ〜イしている人たちにはない能力が、やんでいるお前にはある。
いますぐ、自分の病んだ心を、すこしでも反らしてくれるものを見つけろ、見つけろてか、すでにあるかもしれないから、気付け。
なければ、しつこく探せ。アタック回数が多ければ、それに出会う可能性もあがる。
それができたときにはもう、就活は、自己実現の手段でしかなくなっている。
以上。
実際はもうちょっと修羅なエピソードもあるが、適当にぼかしてある。
強調したいのは、自分がまじで精神がもうちょっと振れていたら死んでたかもしれないくらいどうしようもないメンヘラだったってことだ。
ちなみに今でもたまにぐじぐじしたりする。
今はてブのホッテントリに内田樹のブログ記事が並んでるのを見て読んでみた。
内容はいつもどおり、「突き詰めるとグローバリズムとか新自由主義が悪い!」というような感じである。
ああ、なるほどなぁ……と思うところもあるのだけど、それを言われたところでどうしようもないじゃんという落胆が大きい。
今回の記事だとはっきりと「手のうちようがない」と書かれていてまだ潔いなと思うわけだが、物によってはただ問題を指摘してはいお終いということも少なくない。
それがおおよそ個人の内面的な部分に起因する問題であるとかいう指摘ならまだ読者としても手の施しようがあるものの、大体の場合は極めて大きな構造上の問題なのである。
それもだいたい今回のエントリ同様グローバリズム批判に終始する場合がほとんどであるように感じられる。
別にその指摘自体が全く意味のない無駄なものであるとか言っているわけではない。
ただ、そこで得た見識を用いて次に活かすということが出来そうもないものばかりであるという点で釈然としない。
言ってみれば希望が持てないのが嫌なのだ。得られるのは絶望感だけ。
もちろん大半の問題はそうやすやすと解決出来るものではないし、一冊の本に仕上がる程の大きな問題なら尚更そうであろうことも分かる。
だからといって「どうしようもないし、俺は知らない」と匙を放り投げてしまうのは如何なものかと。
という風なことを、彼の文章を読むといつも思ってしまうのだけど、そういう時はどうすればいいんだろう。
某ピースボートクルー経験のあるLife系社会学者の人が出してるような、いかにも希望を出汁にお前ら社会的弱者を釣り上げてやろうと言わんばかりの本とかに当ってみると良いのだろうか。
スワイプだけでフォルダー内の全ファイルを閲覧。すべてのファイルが横に並んでいる。[[参考:m>notes]]のように。
縦にファイルをつなげる。これはファイルのグループ化。これも[[参考:m>notes]]。親となるファイルに独自記法が書かれていればつながる。親子管理用のデータは持たない。(Dropboxなどで他端末にコピー、デスクトップアプリで開いた時に有効になるように相対パスでファイル指定)UI上は記法ではなくファイル選択(親を開いて子を選択・子を開いて親を選択。選択肢にはファイル名によるフィルタリングをしたい。できればファイル内容の全文検索でも。UIは統合できるはず)親を子にすれば子が孫になるように。見た目はリスト、でもデータ構造はツリー。
設定項目に「ホームフォルダー」。その外にも出られる。制限しない。戻れることが大事。
自動命名・自動保存。ファイル名がどうしても付けられないなら適当なファイル名で適当なところに残す。開きやすければいい。
アンドゥ。「キーロガーと併用して」で済ませるのもあり。
起動時のビュー(最小化から復帰した時除く)は設定可能。ビュー別にホームアイコンを作成することも可能に。
モーダルダイアログ排除。またはダイアログ外タップで閉じられるように。
アプリにカーソルキー不要。大きく表示するビューを用意。ダブルタップや長押しで切り替え。文字を打つときには戻るように。でもこれはAndroidに任せるべき。
カーソル位置が分かりにくい上に意図しない位置へ行くのでアンダーライン必須。でもアンダーラインよりも背景色を行ごと変更したほうが分かりやすい。背景に横罫画像も使える。
検索とキーワードハイライトを統合。検索キーワードは検索のたびに追加。検索キーワードの目次生成。置き換えでも追加。置き換えた箇所が強調表示になる。自動的に追加されるハイライトの色はモノトーン。追加されるたびに古い強調表示は弱くなる。操作で別の色に変更できればいい。強調箇所は独自形式のデータにするしかない。どうせ他のアプリでは再生できないのでこのアプリ専用データ。
[[ファイル名(拡張子不要)]]でリンク。最初の「.」以降不要。あってもいい。それで重複が発生したらタップ時にリスト表示。選ばせる。
自動リンク。同一フォルダー内のファイル、ファイルのあるフォルダーからの相対パス、ホームフォルダーからの相対パス、絶対パスに。
ファイルを集めて一冊の本に。リンクを応用、見出し(正規表現で定義)へのリンクを自動生成して1つのファイルに書き出し。1フォルダー内のファイルだけでいい。そのファイルの冒頭には「本」ファイル用の見出しを入れる。その見出しだけの本を作れば本の本、同じプログラムで本の本の本の本も生成可能。設定項目が増えそうなので不要。
1. のあとで改行すると 2. が生成されるような。
タブストップ調整。タブ文字1つで表組み。LTSVが崩れのない表になるような。
スクロールバーには目次を表示したい。ドラッグ中に半透明で画面の右側だけを使って表示するとか。
RIGHT:[[:t/App]]
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とある書店でGJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベに不要なもの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というものが存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはいえ現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格の書店員にキュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実の書店員はガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。
GJ部原作の1巻が刊行されたときのキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部の原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公的ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。
GJ部が面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェスの天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生が一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレそのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビやネットの受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というものは人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家の仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。
「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」
けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。
――「神様のメモ帳7」
薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルのクオリティで作品を量産しつづけるのは普通の作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメに翻訳することがそもそも困難だから。映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。
唐突に杉井光を引用したのは、GJ部の原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光を指導していたことがある、というよく知られたエピソードからの連想であるが、しかしよりにもよって新木伸と杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光は業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くものも時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかしGJ部のアニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部の原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんやドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもんや長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福にアニメ化されているのだから、作家としては疑問符の新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味で杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳のアニメはまったく話題にもならず、ヒロインのアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係の記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。
しかし人生は続く。平野耕太はアニメHELLSINGの最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸の物語が「杉井光は電撃文庫でデビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメがGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。
皆様…本当にありがとうございます 書いて良かった…
今日は一生忘れられない日となりました。読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。感謝の気持ちを込めて、是非この本を紹介させて下さい。ドミニック・ローホーさんという方が書いた「シンプルに生きる」という本で、まさに今の自分に相応しい本だと思いました。心からオススメです。
↑どう見てもここでいきなり幻冬舎の本の紹介とか、唐突すぎるだろ。
酒井法子著『贖罪』に寄せられたレビューと同じようなノリを感じさせる↓
謝罪会見にて。。。
「この度は、薬を使ってしまい、その上、薬抜くために逃亡を図ってしまい、大変反省しております。 申し訳ございませんでした。。
…さて、この度反省の思いと、私の生い立ちを一冊の本にまとめました。タイトルは「贖罪」です。
皆様におかれましては、是非私の思いを手にして頂き、読んでいただければと思います。
「百歩譲って、オレの番組が子供に悪影響だったとしよう。でも、それなら親であるあなた方が、『マネしてはいけませんよ』と言えばいい。
仮面ライダーの「変身!」、ライダーキック、北斗の拳ごっこ、かめはめ波、アバンストラッシュ、
あ、聖闘士星矢のクロスを段ボール作ったヤツもアウトな。犯罪までいかなくても、創作物は人の言動に影響を与える。
黄色い傘のアバンストラッシュで目潰したら、十分悪影響を与えたことになる。
楳図かずおや「デビルマン」、「ぬ~べ~」とか読んでトラウマなったヤツいるだろ?
いい映画体験・読書体験がないって言ってるのと同義なんだから、文化的水準が低いことを恥じろ。
矛盾に気づけ脳なし、何自分が犯罪予備軍だって自慢してるんだよ。同じ男として恥ずかしい。
鏡見ろキモオタ。レッテル貼りあってどーすんだよ。批判すべきは外見じゃなくて意見。
でも「作品の力」を、文化の力を見誤るな。お前らが見下すな。
たった一冊の本で、人生が変わる事はある。それくらい創作物は「危険な武器」なんだ。
それはオレ達こそが一番よくわかってるんじゃないか?
その原因は紛れもなくネット。ウェブ。得にはてなブックマークとかが原因。
だいたいさぁ、ブックマーク数が結構ついてるエントリーとか見つけると気になって仕方なくなるんだよ。
なにか自分がまだ認識していない大切なことがわかったり、自身の思想とか価値観とか人生観とか世界観とかを劇的に変えたりとか
それらについて考えさせられる考えるべき何かとか、要するに
「自身が価値があると感じられる、未だに認識してない、認識するべき何らかの情報が広大なネットや本に存在しているのではないか?」っていう疑念。
いや存在しているのだろう、それは無数に。 こういった無限に膨張し続ける情報に取り巻かれている今
粛々と受験勉強なんてしてて良いのか? っていう思いが募りだして2年ぐらい経つ。
ある一つのエントリー、ページとか一冊の本とかで何かが変わったり、東大合格と健康維持という目的(目標)ぐらいしかない俺が
他の何か、素晴らしい夢とか目標とかやりたいことを獲得するかもしれない、、、
今年で一浪目だが、合格できるかどうかわからん;; それほどまでに俺は心を奪われてしまっているんだよ、目の前のこれに。
最近どうしようもなく怖いんだ。
いつか東大を諦めてしまうようなことになるのが。
このことが原因でただ情報を漁って逡巡することに膨大な時間費やして
大して行動せず何も為さないままだらだら生きていくことになるのが。
現役で東大に合格した受験生と俺、何が違う?彼らは情報をいかに処理したのか?
なんで俺とかはいつまでも足踏みしてんだ?
もうどうすればいいんだ… もう完全に俺の問題解決能力では手におえない。助けて欲しい。
とにかく東大に入りたい。なんで入りたいかはこの際どうでもいいはず。各位、自身の抱く目標に置き換えて
それを阻む要因として俺のこの疑念がそれなら一緒に解決しよう。解決してください。お願いしましたよ。
>元々勉強できるやつだったら別にゲームしてようが何してようが東大でも何でも受かるし
勉強が手につかないのに受かるわけないだろ!
自分がどういうタイプだろうが俺はどうしても東大にいきたいんだよ!
ほりえもんって受験のとき、起きてから寝るまでの間、食事、風呂、トイレ以外、勉強しかしなかったらしいけど
今の俺にはそういうストイックさが必要なんだ。
なぜ他の何かに現を抜かす俺のようなどうしようもない人間と
おおよそどんな目標でも達成してしまいそうな ほりえもんや孫正義のような人間がいるんだろう 同じ人間なのにどこが違うんだろう
好きで好きでしょうがなかったけど、パリンパリンの童貞だった自分には彼女にアプローチを仕掛けていく術など無く、「彼女に触れたい」という思いはいつしか「彼女が触れたものに触れたい」という気持ちに転化して、必然的に変態行為に走ることになった。
しかし変態行為が彼女に発覚してしまってはすべてが終わってしまう。表面ではあくまで紳士的にふるまいつつ、悟られぬように事を行わなければならない。言ってみれば変態紳士だ。
手はじめに、蔵書整理の時に彼女が使った軍手を持って帰って匂いをかいだ。ホコリの匂いがした。
それからおもむろに股間にはめてオ○ニーをしたが、終わったあとはものすごい罪悪感におそわれて、彼女をそういう卑猥な対象にするのはやめようと思った。ホコリまみれの軍手をはめたせいで股間に雑菌が入って大変なことになったが、天罰だと思って耐えた。
彼女が使っている髪留めと全く同じものを買い求め、こっそりとすり替えて匂いをかいだ。ゴムの匂いがした。
もっと強く嗅げば彼女の匂いがするかもと鼻の穴にねじ込んだら、奥まで入りすぎて勉強机の上に嘔吐した。親から勉強のしすぎでストレスがたまったかと疑われて検査入院させられたり、いない間に机の掃除をされて秘蔵のエロ本が軒並み廃棄されたが、天罰だと思って耐えた。
ある夏の日、彼女の水泳バッグが準備室に置いてあった。準備室には自分ひとり。逡巡の後バッグを開けて顔を突っ込んで、思いっきり匂いを吸い込んで元に戻した。塩素の匂いがした。次の日の水泳の授業の時にそのことを思い出して勃起してしまい「勃起ング」という不名誉かつ月並みなあだ名をつけられたが、天罰だと思って耐えた。
放課後の貸出カウンターで彼女は私物の本を持ち込んで読んでいることが多かった。図書館にはこんなに蔵書があるのに、それ以外にも読む本があるとは!との畏敬の念と、集中して本を読むその横顔を眺めるのに夢中でついぞ声を掛けることなどなかったのだけど、勇気を出して何を読んでいるのか聞いてみた。尾崎翠の「第七官界彷徨」だった。もう何回も読んでいるから興味があるなら貸すよ、という申し出に一も二もなくうなづいて借りて帰った。
自室で正座して本を広げると、わずかに花のような香りがした。劣情を催すよりも、どうしてお互い図書委員で本が好きなのは分かっているのにこういう普通の交流が思いつかなかったのかと、自分の浅はかさに慟哭した。
一週間かけて何度も読み直し、いかに素晴らしい本であったかを控えめかつ熱意をこめて感想を述べると彼女は微笑んで「気に入ってもらえて良かった。今度は君のお気に入りの本を貸してね」と言った。
しかし自分は吉川英治や山岡荘八などの時代小説しか読まないうえに、自分で本を買う金を惜しんで図書委員になっているくらいだったから蔵書というものもなく、あれこれ悩んでいるうちに受験シーズンとなり貸出業務のローテーションから外されて、彼女に本を貸す機会にはついに恵まれなかった。
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彼女は女子高に進学し、それから全くの音信不通となった。クラスも違えば共通の知り合いもなかったので、彼女がどこで何をしているのか知らないままに僕は大学を出て地元に戻って就職した。
働き始めて1年たってようやく気持ちに余裕が出てきたので、久しぶりに本でも読もうと市の図書館へと足を運んだ。何冊か物色して貸出カウンターに行くと、そこには彼女が、当時の面影を残したまま、いや、それよりもだいぶ/かなり/相当きれいになった彼女がいた。
「「こんなところで何やってんの?」」
とふたり同時に言って、ふたり同時に笑った。
貸出の手続きを終えて「それじゃあ」と言って図書館を出た後、しばらく外のベンチに座って頭の中を整理して、もう一度貸出カウンターに向かった。
「どうしたの?」
「裏にケータイのアドレス書いてるから、時間があるときにでもメールちょうだい」
と言って返事もまたずに家に帰った。本当は、
「借りるのを忘れた本があるんだ。君という一冊の本を。あの時読みたくて、読めなかった本。貸出期限は無期限で頼むよ」
と言うつもりだったが、言うのをやめて本当によかった。言っていたら多分、天罰だと思っても耐えきれなかっただろう。
幸いなことに彼女からはその日の夜すぐにメールがあって、何度かのやりとりの後には映画に行ったり美術館に行ったりして、なんやかんやあって今年の秋、彼女と結婚することになった。
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中学高校大学と、華やかで彩られた学生生活とは無縁の人生を過ごしてきたけれど、人間地道に真面目に生きていればいいことが起こるんだなあと、しみじみ思っている。なので、現在のところ暗い学生生活を送っている人も、自暴自棄にならないでいい感じに頑張るといいと思う。
それと、件の変態行為については彼女は全く気がついていなかったようだ(勃起ングという不名誉なあだ名は伝わっていたけれど)。そのおかげで今の生活があるのだと思うと、変態行為を行うのは男として仕方のないことだけれでも、あくまで紳士的に、相手になるべく迷惑のかけない形で行うのが良いよ、と伝えたくてこの文章を書いた。今では思う存分、彼女の脱いだ靴下や下着の匂いを嗅いでいます。
今日、苦手な英語を勉強しようと家の近くにある市立図書館に足を運んだんだ。
開館直後に入って席に座り「よし、やるぞ」と心の中で意気込み、いざ勉強。
だが、勉強初めて1時間と少しくらいで飽きてしまったのか、集中が切れたのか、急にやる気がなくなった。
やる気がなくなったものの「何かやんなきゃな」とか思ってたら、
バッグの中に結構前から読もうと思ってたちくま文庫があることを思い出した。
でも、ただ読むだけじゃつまらない。
そこで「字の練習」と「本に出てくる漢字の復習」をする為に、
中に出てきたある程度難しい漢字を無駄紙に書き出しながら読むことにした。
日頃から「お前の字汚いな」とか言われたり、書きたい時に頭の中に漢字が思い浮かばない私にとっては良い機会だ。
普段一冊の本を読む時に「中身を吟味する」という一つの目的しかない私に違う二つの「目的」を加えた。
どうしたもんか、頭に文章がスラスラ入ってくる。理解もできる。おまけに集中も尽きない。
結局閉館まで集中力が尽きることなく、読み続けた。