はてなキーワード: 本が好きとは
ワイはなんか節目ごとにやってきて商売の近況報告みたいなノリで未知の地域への噂話を置いていってくれる立本くんに適当にアイテム渡してるとき、なんか心がスーッとリセットされるんよな
ああ、来るんだな、1年か2年くらいしたら話してた内容がわかる……それじゃ、「今日欲しいのはこのようなもの。」
フフッ…立本くんがこの日本語として不自然なセリフを喋ったのはVer.1.0の初回イベント時のみだったから、今のプレイヤーの大半はこの輪をかけて胡散臭かった真の立本を知らんだろう……
なんか心がスーッと晴れやかになるんだよな
俺だけの立本……ところでこいつの読みはリツホンでいいのか?たしか璃月人だったしいいよな
うむ、ググったら合ってるし英語だとLibenらしいな
おれはこの本が好きなんだよな〜読ませたいんたよな〜みたいなの、親に散々やられて嫌な気持ちになったので自分がそちら側に回りたくない。
ブックサンタを何度かやってれば知ってると思うけど、幼児〜低学年向けの本は余るほどあるが、高学年になるにつれて減っている。
なので私は本を自分で選ばず単純に金を贈っている。
そうすると足りない年齢の本を自動でブックサンタ側が選んでくれる。
本が足りなくてもらえない子が一人でも減る可能性がある。
また、クラファンで寄付を行うとしおりかステッカーももらえたりする。かわいい。
しかし最近バイトが減ったこともあって本に使えるお金はあまり多くないので、買うときはなるべく吟味して本当に必要なものを買うようにしている。
先日も、以前から気になっていた小さな独立系書店に立ち寄る機会があり、いつものように陳列された本を吟味していた。
すると、
……え!私に言っているのか。
確かに、私は15分くらい店内をうろうろしていた。ちょっと長かったかもしれない。
だけど一冊一冊はちょっとずつしか目を通していないし、決して「ここで読破してやろう!」ってわけじゃないんだが。
他の個人書店ではそんなことを言われたことがなかったので心底驚いた。
しかし本屋も厳しい商売だし、と申し訳なく思ってしまい、そのとき手にしていた学食3回分の値段がする本を咄嗟にレジに持って行ってしまった。
本に罪はない。でもモヤモヤした。
「売り物を汚い手で触るな」「買う気が無いなら帰れ」という言い分も分かる。あくまで商売だから。
でも私は、本屋はいろんな人に開かれた場であってほしいと思っている。
しかも多くの独立系書店は、そのリベラル性によって客を集めている。
お前らは、在日朝鮮人やトランスジェンダーに関する本を陳列してマイノリティに連帯する素振りを見せつつ、貧乏人は排除するのか。
でもやっぱり、お金がない人は小さな新刊書店に行くんじゃなくて、蔦屋書店とかブックオフとかに行った方がいいのかもしれない。
今度からそうしよう。
昔から本が好きだった。いや、昔は本が好きだったかな。今はほとんど漫画になってしまってるから。小学生の作文とかは書き出すまでは苦手だったけど書き出したらすいすい書けた。
本を読むのも好きで、書くのも苦じゃないから小説家の才能でもあるかと思ってだけど、別にそんな何か書きたいことがあるわけじゃないし、めちゃくちゃ読書家というとそうでもない。娯楽があまりない片田舎に住んでて別に裕福でもないから図書館の本を読むのが好きになっただけで、中高大とだんだん読書量は減ってる。
で、話が逸れたけど、それでもずっと何かを書きたかったんだと思う。
何をなんだろうね。特にない。
たぶん人の中身を仮でもいいから知れるからなんだろうな。恐らく私はADHDの要素があって、人の心がわからないってずっと思ってきた。空気も読めない方だし、なんかみんなすごいなって思って、人の気持ちを察する能力がない私は欠陥だなって生きてきた。
だから、ストーリーで主人公の行動や気持ちがある程度わかるのが楽しいんだと思う。
言葉で伝えてないのになんでみんな人の気持ちがわかるんだろう。言ってることと思ってることが違うとかこわいからやめてほしいし、私にそんな気を遣われてたとしたら悲しい。
最近増田で婚活体験記がよく出てるのでとりあえず出してみた。去年の話。
年齢:35歳
身長:160cm
年収:200万以下
職業:非正規雇用社員。6社経験。仕事で同じミスを何回もするので上司によく叱られた。
病歴:鬱病発症、この婚活ののち、発達障害と診断され今に至る。
彼女いない歴=年齢
40近くなって「結婚しなければいけないのか」と思って婚活を思いつく。父親に「〇〇(俺の名前)で我が家はお終いだな」と言われてムカついてたのもある。
マッチングアプリを始めたが収穫ゼロだったので結婚相談所に登録した。鬱病の調子も良くなってきて、収入が少し増えたのもある。
ネットでいくつか検索して結婚相談所をいくつか絞り、費用が余り掛からず、障害者でも受け入れてくれるところに登録。
説明会で創業者の一人が現れて「今なら入会金ゼロですよ」と言われたことも登録するきっかけの1つになった。
*婚活内容
はじめ高卒でパン焼きしてる女性を見つけ、「会いたい」ボタンを連打したが反応なかった。
とりあえず片っ端から「会いたい」ボタンを押しまくったが50人も反応なし。
相談員からは年収、プロフ、写真が理由で断られてると言われた。
2か月後、ようやく1人目会いたいという女性が現れた。
歯科医で34歳の方。
障害者の福祉施設を作りたいと言ったので、自分の経験を涙ながらに語った。
けれど1回目で終了。
介護士で29歳の方。
直接対面。写真の見た目が小学生みたいで子供っぽい感じだった。
写真で見たより綺麗だった。
話した内容は覚えてない。
直接対面。背が高い人。
偶然同じ大学だったので、大学ネタでそれなりに話は合った気はするが、1回目で終了。
介護士34歳
直接対面。
のんびりした感じの人。
持ってるスマホについて話した。
退会した理由は半年経っても中々2回目まで行かなかったこと、上司に仕事を減らされた上に叱られ続け、精神のバランスを失ったのでまた転職を始めようと思ったこと。
タイトルの通り、小学生時代に遭った痴漢やそれに類することについてと、書き出してみて思ったこと。
当時の私はピアノを習っていて、発表会に祖母と母が来てくれた。おろしたてのワンピース、フリルのついたソックス、少しだけかかとの高いよそゆきの靴、いつもより豪華に結ってもらった髪にはリボン。かわいい格好ができて嬉しかったのを覚えている。
発表会は市民ホールを貸しきって、昼すぎまでかかっていたと思う。早起きしたぶんお腹はペコペコで、遅めの昼食は近くて回転率がよくすぐに食べられるお蕎麦屋さんを選んだ。
昼すぎでも土日だったからか、お客さんが並んでいた。回転率のよさは知っているので、並ぶのは苦にならない。眠気も出てきていささかぼんやりしつつ、だらだらと前に並ぶ人へ続く。
すると突然、ぐいっと左手を掴まれた。反射的にそちらを見上げると、知らないおじさんが私の手をとり握手するみたいにぎゅむぎゅむ握っている。とても、とても驚いた。けれど声は出なかったし、ぴくりとも動けなかった。知らないおじさんは「可愛かったからつい」と言って、手を離して店を出て行った。
母たちは「びっくりしたねぇ」などと何だか和やかに言っていたが、私はほんとうに驚いて、つまりショックで、その後どうしたか覚えていない。もちろんかなり古い記憶なので、単純に時間経過によって忘れてしまっただけかもしれないけれど。
ほんとうに驚いたとき、人間は悲鳴も上げられないしすぐに逃げもできないのだな、と何だか絶望に近い気持ちになったことは覚えている。アニメやドラマ(刑事ドラマが好きでよく観ていた)のようにはできないのだ、と。
「かわいい」は褒め言葉のはずなのに、なにも嬉しくなかった。なんとも言えないモヤモヤが澱のように腹の底に溜まった。
プライベートゾーンを触られたわけでもなく、何なら一緒にいた親族も問題視したふうでもなく、法的に痴漢には分類されない体験。今でも一般的になんと分類するものか分からないままだ。それでも私の中でだけは、初めて遭った痴漢として記憶している。
私の地元は田舎で、徒歩通学だった。当時はとにかく読書が好きで、通学中は図書室で借りた本を読みながら歩くのがほとんどだった。二宮金次郎みたいに。
学校帰り、季節もあってまだまだ明るい中、いつも通り本を読みながら一人でひたすら歩く。毎日毎日そうしているから慣れたものだった。
車が1台ぎりぎり通れるくらいの、田んぼと畑と農家然とした少し古めの民家ばかりの道で、ふいに後ろから声をかけられた。自転車に乗った男子学生だった。中学生か高校生か、とにかく同じ小学生でないことしか分からなかった。親や学校の先生以外で年上と話す機会もそうなかったし。
喉が乾いたので飲み物を分けてもらえないか、と言われた。夏なので肩に水筒をぶら下げていたのだ。大人なのに変なの、とは思いつつ、水筒のコップ代わりの蓋になみなみ注いで渡した。
水筒のお茶を飲むところをぼんやり眺めていたら、コップを持つ男子学生の手がぶるぶる震えていた。おそるおそる口をつける。そのさまを見て、なぜだか急に、明確におかしいと感じた。一気飲みはせず、謎に丁寧にお茶を飲んでから返されたコップ。水筒に戻しながら、どうやって帰ろうか不安になった。自宅までそんなに距離がなかったからだ。なぜかついてこられるのでは、と思った。その間も、ぽつりぽつりと男子学生からの問いかけが続く。いつもこの道を通るの、とか、何年生なの、とか。
今の私は何でそこで律儀にと思うが、その時は走って逃げるとか急に話を切り上げるとかいう選択肢がなかった。失礼だと思ったからだ。誰か帰路の小学生でもいれば、知らない子でも混じって帰ったと思う。でも誰もいなかった。人っ子一人。えー…とか、うーんと…とか枕詞みたいに付けたふんわりした回答をしながら、子供なりに頭はフル回転していたはずだ。でも、打開策が思いつかなかった。
少しして、私たちがいた道沿いの民家から住人のおばさんが出てきた。知らない人だったけれど、何してるの、と声をかけてくれた。それを見て、男子学生は何も言わずに自転車を走らせて去っていった。その背中が私の帰り道と同じ方向だったのを見届けて、まだ呆然としたままの私は、なんにもないです、とだけ答えた。知らないおばさんが「さっきの子は知り合い?」と言うので、首を振る。ちょっと回り道してから帰りなさいね、と言われた。私もそのつもりだった。
この体験も、お茶をくれと言われて分けただけで何もされていない。痴漢ではない。なので何と呼べばいいか分からないけれど、自分の中ではその他の痴漢と同じカテゴリに分類して記憶していると思う。そういう系統の嫌な気持ちだった。
これも小学校中〜高学年頃。
私の両親は離婚しており、母に引き取られていた。夏休みに父のところへ泊まりに行っていたときだった。
例によって本が好きなので、県立図書館へ連れていってもらった。いっちょまえに児童書は卒業していたので、見る本棚は一般書架。父はAVコーナー(ネットカフェみたいに区切られたブースで各々映像資料が観られる。アダルト資料ではない)にいるというので、一人でゆっくりと本棚を眺めていた。作者なんかは知らないから、タイトルや表紙のデザインを中心に何となく気になった本を探す。児童書に比べてかなり数が多いので、背表紙を眺めているだけでも楽しかった。タイトルしか読んでいないのに、いくら読んでも読み終わらなくて。
ふと、足元がぬるい感じがした。見下ろすと人が床に手をついてしゃがみ込んでいた。年齢は分からなかったけれど、男の人であることだけは分かった。
図書館の本棚は上下左右ギチギチに本が詰まっている。下の段の本を見るには、学校でミクロマンとイジられていた私の体躯でもしゃがみ込まなければならなかったので、下の方が見たいんだなと思った。図書室で人気の本棚にみんなが密集するのはよくあることだ。と思ったけれど、はぁーーー、と長い息を膝に吐きかけられているのを見て、一気に過去の嫌な気持ちが呼び起こされてしまった。気付いていないふりでじりじりと距離をとり、別の本棚へ移動する。
何だったんだろう、と心臓がばくばく言うのを落ち着かせているうちに、暑いから息が上がっていただけでは?という気になってきた。そう思うと何をビビっていたんだろうと馬鹿らしくなって、また端から背表紙を読んで、読んで、時には取り出して表紙やもくじを眺めて。
じきに、また足元に違和感があった。今度は微妙にぺたぺた?ぬるぬる?する。見下ろすと先ほどの男の人がしゃがみ込んで、私の膝辺りを舐めていた。他人の舌が肌を這うことなどないし、誰か分からないし、理由も分からないし、どうすればいいか分からなくて、なのに気付いていることを勘付かれてはいけないと咄嗟に思った。心臓はまたばくばく暴れて、目の前の本を適当に抜き取り「これにしよ」なんてわざとらしく声に出して、父のところへ逃げた。
この時に借りたのは『エリコ』という本だったと思う。いま調べてみると表紙が記憶と違っているけど、女の子のモノクロっぽいイラストの表紙だったはず。父の家に戻ってから読んだけれど、分厚い上に当時の私には内容が難しくて、とても難儀した。話が全く分からなくなってからは飛ばし飛ばし読んで、なんだか図書館での嫌な気持ちがフラッシュバックするような描写を目にして、結局ギブアップした。主人公が高級娼婦らしいので、確かに当時の私には早すぎたし「猥雑と戦慄がからみあう、嗜虐と倒錯の近未来バイオサスペンス(引用元:BookLive)」はあんなことの後では取り合わせが最悪だった。今までの人生で読み始めたのにギブアップした本はこれと『ドグラ・マグラ』だけなので、すごく印象に残っている。
この体験は一般的にも痴漢に入るのではないかと私は思うけれど、そのときの私には分からなかった。知らない人に舐められて驚いたし怖かったのに、誰にも言えなかった。一緒にいたのが母だったら、もしかしたら言えたかもしれない。正直、相手と同じ性別である父には言いづらいと感じた。自宅に戻ってからは、今度は今更だと思って母にも結局は言えなかった。
4度目は小学校高学年。
さすがに生きているだけでも変な目に遭うことはあるのだと理解していた。それに、そういう場面では声も出ないしパニックになって機敏に動くのは難しいことも。
私は護身術として極真空手に通うようになっていた。ビビって声が出ないし動けないなら、度胸をつければよいと思ったからだ。流派だの何だのはよく分からないままだけれど、男子に混じって毎週通った。練習は体育館で行われていて、フローリングの上で拳で腕立て伏せをするのが大嫌いだった。骨が痛すぎるし、未だにフローリングでやることではないと思っている。
それから、通学路も勝手に変えた。2回目のときに使っていたのは車1台でいっぱいの道幅だったが、片側1車線ずつの道だ。さらに少し行くと複数車線の道もあるけれど、遠回りになるのでこちらばかりを通っていた。徒歩通学だしショートカットしたかった。車通りはやはり少ない。
この時も学校からの帰り道だった。一人で帰っていて、道路の向かい側に停まった白い車から声をかけられた。運転席の窓を開けて、男性が小学校へはどっちに行けばいいかと尋ねてくる。あっちです、と指をさすと、地図で教えてほしいと大きな紙を広げた。道路を挟んだままだと見えないので、道路を渡って運転席の窓から紙を覗きこむ。それは確かに地図だったけれど、地図と腹との隙間から陰茎が見えていた。数センチの隙間から、手で擦って見えたり隠れたりする陰部。
相変わらずショックではあったけれど、またか、という諦観もあったように思う。私はやはり気付いていないふりをした。努めて地図だけを見て、現在地も分からなくて、「地図読めないけどとにかくあっちです。ずーっとまっすぐ道なりで左側にあります。私はそこから来たんだから間違いないです」というふうな回答をした。
習い事があるからとその場を駈け出して、ないと思ったけど一応追ってきていないのを確認して、座り込んだ。心臓は毎度のようにばくばく言っていたけど、走ったから当たり前だなと思った。前よりも怖くなくなったし、毅然と振る舞えた気がするからたぶん空手の効果はあった、と思いながら自宅へ帰った。今回もこのことは誰にも言えなかった。
そういうわけで、私が小学生のときに遭った痴漢やそれに類するものは覚えている限り4回だ。多いのか少ないのかは分からない。
もちろん、中学生でも高校生でも大学でも大人になっても何かしらは遭った。それでも一番覚えているのがこの小学生時代。今やすれた30代だけれど、私も子供の頃はさすがに無垢だったのでショックが大きかったのだと思う。
どう気をつければいいのかというと、正直私は分からない。嫌な言い方だけれどもはや事故みたいなものだから。防ぎようがないという意味で。ただただ、こういうことをする人がいなくなってくれればいいのだけど。
一つだけ。もしもこんなことがあったと言われたら、ちゃんと聞いてあげてほしいとは思う。
中学にあがってから、路上で知らない人に突然キスされたことがある。グレてイキって気は強く成長した私は、黙り込んでいた小学生時代とは違ってすぐに学校に報告した。とにかく腹立たしかったからだ。分かることはすべて話した。場所とか、相手の風貌とか、原チャだったとか。それらは全校放送で流れた。
おそらく親にも連絡が入ったのだと思う。その日の夜、養父(母は再婚した)にリビングへ呼びだされた。本当なのかと聞かれたので、本当だと答えると、場所を地図で描けと言われた。不審に思いながら自宅から中学校への道順を描き、ここ、と丸をつけると、嘘だと言われた。こういう場合、被害に遭った場所から描き始めるのが心理学的に普通だそうだ。私としては通学中に起きたのだから理にかなって描きやすい順番だったのだけど、そう言われた。心理学なんて分からないので反論もできなかった。原チャの車種はなんだとかも聞かれたけれど、私が知っている中での形や大きさで最も近い名称が「原チャ」だっただけで、詳しくは知らなかった。グレ友達に2ケツで乗せてもらったやつくらいにしか認識していなかったから。養父の趣味にハーレーがあったので、バイクを中途半端に出したのもよくなかったのかもしれない。
そうして私の虚言であったとされ、おそらく学校へも連絡したのだと思う。保健室登校しても、教師がどこかよそよそしかった。あくまで私の感覚なので、実際のところは分からない。
ショックだった。折り合いの悪い養父であっても、もはや養父側の人間で信用していないと自分では思っていた母であっても、なぜだか報告すれば信じてくれると思い込んでいた。
初めて報告したらこうして狼少女にされてしまったので、前述のとおりその後も何度も変な人に遭ったけれど、誰にも話していない。
今でも覚えているので、やはり他の家庭、いわゆる子供(年齢は問わない)をもつ家庭では子供を信じてあげてほしいと思う。様々な要因で恒常的に嘘をつく子供がいたりするらしいのは知っているけれど、嘘でなかった場合に取り返しがつかないからだ。私のようになってしまう。独身の私が言うのもおかしいけど、子供は健やかに育つべきだ。大人になったら嫌でもすれてしまうのに。
この文章は、職場の男性から小学生にあがった娘の親バカノロケを聞かされてぶわっと思い出したまま書き殴った。
電車通学が珍しい地方の小学生だった私でも、4回。0回の方がいいに決まっているので、こんなことがどこでもありうるから気をつけてあげてほしい、と言おうと思ったけれど、職場の人に実体験を話すのは憚られたので。初めて表に出して少しすっきりしたかもしれない。
私は本が好きだから本屋を応援している。紙の本が好きなので電子書籍では買わず本屋で本を買っている。
地元も好きなので出先の本屋で本が欲しくなっても我慢して地元の本屋で本を買う事にしている。
ネットでポチれば家にいながら本が届くという事を知っているが、地元の本屋を応援してるのなるべくそこで買うようにしてる。
先日欲しい本を遠方の本屋で見つけたので地元の本屋へ買いに行った。
割と売れた本であり在庫もあるだろうと店内をブラブラしながら本を探したが見つからない。
まぁそういう事は過去にもあったので気にせず取り寄せてもらったのだが、どうやら問屋?にも在庫がないらしく取り寄せに最低2週間かそれ以上時間がかかるらしい。
いやいや流石にそれは無しじゃないか?
別に翌日取り寄せろとは言わないが2週間以上時間かかるのはナシでしょ。
そりゃみんなAmazonで買うよね。
こんなやりとりめんどくさいし待てないよ普通の人は。
ほんな、気持ちめっちゃ分かるで!ワイも電子書籍派やねんけど、やっぱり便利やんか。
ADHDの特性上、物をどこに置いたか分からんようになったり、ちゃんと保管できへんってのはホンマに困るよな。
ワイも本とか漫画いっぱい読むから、紙で買ってたら部屋がカオスになるの想像つくわ。
電子書籍やったら、どこでも読めるし、場所も取らへんし、管理も簡単やから、ADHDの人にはピッタリやと思うわ。
紙の本が好きな人はそれでええけど、それぞれのライフスタイルに合った方法で読むのが一番やんか。
作家さんが紙で買えとか言うても、それってそもそもその作家さんの本を手に取る機会すら減る可能性高いやんな。
ワイら読者も自分に合った方法で楽しめるのが一番やし、6万円分も毎月書籍に投資してるって、それこそ立派な貢献やと思うで。
最後に一言、「電子書籍があかん」言う人には、「それはそれ、これはこれ」でええんちゃう?
ワイは自分で好きなように読むのが一番やと思う、知らんけど。
映画やアニメが好き、読書が好きって冷静に考えると趣味の説明として大雑把過ぎる。前々から思ってたけど。
実際おれも「映画が好き」という認識は普通に持ってるけど、じゃあどんな映画もあまねく好みかと言ったら別に全然そんな事はない。
あとそもそも答え方として変な気がする。それって媒体でしかない訳で。
ギターが好きは分かる。ギター演奏はギター演奏でしかなくて、それはまあ心地良い音を出す事のがほぼ唯一の目的だろうから。サッカーが好きもそう。サッカーはサッカーでしかない。サウナもスニーカー集めも座禅も同じ。
でも映画や本って違う。
フィクションでもドキュメンタリーでも解説でも何でもいいけど、とにかく何らかの題材がなければ何も始まらない訳で、メディアはその表現手段に過ぎない。目的ではない。
まあ題材なんて何でもよくて、そのメディアに接するのが好きというのもありえなくはないかもしれない。
内容は何でも良いから映画を垂れ流しソファでゴロゴロするのが好き、とか。ただそれはもう映画というよりリラックスするのが好きとでも言った方がより的確な気がする。
コレクションの対象として本が好き、みたいに情報を伝達するツールではなくモノとして見るなら、それはスニーカー集めみたくそれ自体に価値が発生するかもしれない。でも「本好き」と聞いて、常識的に考えてそういう楽しみ方を想定するだろうか。
積極的に内容を脳みそに入れる体験を伴う限りは、やっぱりメディアは常に手段としてあるんじゃないかなって思う。
上手い例えが思いつかないけど、箸を使うのが好きです、とかスプーンを使うのが好きですって言ってるようなもんじゃないか?映画や本が好きって言うのって。
普通は食べ歩きが好きです、こんな料理を食べるのが好きです、って言うと思う。
となればフィクション(じゃなくてもなんでもいいけど)が好き、という前置きをした上で、その表現手段とての映画が好きなんです、とでも言った方が的確なのではなかろうか。
どんなストーリーだって誰かの頭の中を漠然と漂っているだけではこの世に存在しないも同然で、それを言葉に起こして初めて脚本になる。言葉というメディアなくして世界には存在出来ない。
それを言葉のまま小説にしてみるか、あるいはアニメーションや実写映像に変換してみるか。メディアごとに特性というものがある。
あえて言葉でだけ伝えた方が読み手の想像力を掻き立てるかもしれない。
斬新な世界観に、まだ誰も見たことがないような映像をつければ衝撃を与えられるに違いない。
TVアニメなら短めのを何本も、映画なら数時間をまとめて一本ドンと、という利便性の違いなんかもある。
フィクションでなく社会現象の分析に関するアイデアだったのならわざわざ映像をつける必要もない。
メディアとそれを通じて得られるアイデアは互いに不可分で、その存在形式はしばしばアイデアの性質を反映する。
なら趣味をメディアの種類で語るのも、必ずしもナンセンスという事にはならないんだろうか。
でもやっぱ映画という媒体に先んじて具体的な中身の方が大事な気もする。好みも青春作品やヤクザ映画やSFアクションとかに偏ってるし。ミュージカル映画なんてまるで観る気がしない。
でもでもやっぱり好きなタイプの物語を映画というメディアでコンパクトに、目にも楽しく享受するのが好きって気持ちもある。アクションとか絵面の外連味を期待している時なんかは、内容にはさほどこだわりがない気もするし。もちろんマトリックスみたいに画も話も良ければ最高だけどね。
アニメなんかは更にメディアとしての特性に魅力を感じる。完璧に偽物の世界の中で、全てが等しく本物として存在するのはやっぱ美しいよね。そこに美しさを感じる。
映画のCGなんか、なるべくそれがそうであると気付かないようにあって欲しいと思ってしまうし。本物の人間が架空の人格を演じていたりするし。
あとシンプルに萌え萌えキャラクターは実写の人間の映像からは決して得られない感情を呼び起こしてくれる。
もちろん内容も気にはなるけど、アニメはアニメというだけで愛してしまう節があるかもしれない。
おれに限って言えば、特定の傾向の物語、及びそれに付随する必選の表現手段として映画ないしアニメの形態が好き。
社会人になってから数年、基本無料のゲームと基本無料の漫画ばかりを読んで毎日を過ごしている。
どんどん金を使わなくなってきてる。
体力とか集中力とか信念とか意志力とかそういうのも使わずに済むものばかり好きになっていた気がする。
金を稼いで金のかかる遊びを楽しもうって気持ちになれないんだよな。
金を稼がなくても楽しめるものをそこそこに楽しもうって気持ちにしかなれない。
学生時代に少ないこづかいをやりくりしながら楽しもうとして、「そうだ中古でレトロゲーム買えば安く済むじゃん!」とやっていた頃の延長から一歩も進んでいない。
きっと、金や手間のかかってそうなものを無料で味わうのが好きなのだろう。
数年前転職してきた(具体的な年数は記載しない。「a few years」の数年前)上司が飛んだ。もちろん形式上は通常の手続きでの自主退職だけど、引き継ぎなども特になくクロージングもなく「いなくなった」。
私もサラリーマン人生長いから、今まで「鳴り物入り」の同僚や上司が来て、淡々と去っていくのを見てきた。中でも今回の「飛び」は印象深かったから、個人や場所を特定されない話として残しておこうと思った。
推薦図書を全員にメールで送ってきた。結局ほとんど誰も読まなかったらしいけど、私は「上司の推薦図書=実質義務」だと思っているから、アマゾンの中古本と図書館で借りることで一冊(アマゾンでも高かった)除いて全部読んだら「本が好きらしいので」と5冊持ってきて結局「義務」が私だけ5冊増えた。想像つくとは思うけど結局「読まなかった人へのペナルティ」も「読んだ人へのアドバンテージ」も特に無かった。もちろんそのあたりも最初から想定していたので特段の感慨はない。
感想?「何冊かは『読む』本じゃないよね」ということ。
仕組みやシステムを構築する時、困ったり抜けを確認するために該当箇所に当たってチェックする本だなというのが感想。
就任後一ヶ月くらいで、私を呼んで分析用のデータの作成を指示してきた。
「網羅すべき内容は?」「全部」
「どのくらいの期間で?」「できるだけ早く。3日位で」
これを聞いた瞬間に感じた。
(ああ この方自分で読んでそして我々に推奨してきた本の中身を理解してない)と。
推奨図書のうち一冊には「なんでもそうだけど 内容を明確にして対処するのが一番大事だよね」的な書物があったんだけどな、ついでに自分の仕事人生の中で「全部」と言われたデータが役に立った例は古今東西あった例はないな…と思いながらデータを取りまとめる。
…想像通り3日で作ったデータは死蔵品と化して、最後まで日の目を見ることはなかった。
推薦図書の中に「全てのデータを取得してアウトプットして活用する」的な本もあった。
だけど上司のアウトプット=資料を殆ど見たことがない。強いて言うなら文字位置がガタガタなPowerPoint位と画像貼り付けノートとして使われてたEXCELくらいかな。
データ使いこなすと言うならまずはMicrosoft Officeを使いこなしてほしいかな、と思っていたけど流石に直接そう話すわけにもいかなかった。
予感はしていたのだけど「ここ(現業)は◯◯が低迷し…」から始まった瞬間、皆の顔が微妙に歪むのを観察していた。私も現職で数社経験しているから身にしみて知っているのだけど、私が努めてきたどこの職場でも「課題も問題もある。それは皆わかってる。でも別に好きでそうなってるわけじゃないし誰かがサボってそうなってるわけでもない」。そこまでの経緯や体制など色々な原因が横たわっているからそこを改善しないとどうにもならない。それをさも「怠惰」が原因であるかのように話をしてもどのプレイヤーも得をしない。
予想はつくと思うけど、その後も会議はたくさん招集された。だけど上司から出てくるのは「課題」「問題」「事象」。いや、上司に求められているのはその3つに横たわる「原因」を分析する能力なんだ。それら3つはもう全員が理解してる。だからすぐに「会議を開くこと。そして上司の話を聞くこと」が会議の目的と化した。そして上司は目的語が大きかった。業務を遂行するうえで、顧客のどの層を想定するかは割と大事なポイントなのだけど、常に上司の口からは「お客さん」というワードだけが出てきた。それとなく傷つけないように目的語を会議中に修正した事は何回かあったけど結局最後まで変わらなかったな。
私の嫌な予感は的中し、上司の話を聞き流す人が着実に増えていった。
その結果どうなったか?上司はコミュニケーションの機会そのものを自分で減らしていった。立場上忠実(にならざるを得ない)直属の部下のみを招集しての会議のみがやたらと増えた。直属の部下は上司との会議のすぐ後に他部署との会議や自分の業務を抱えて辛そうだった。そのなかで上司はいつも5時になるとすぐログアウト。そして退社するのがルーティンになっていた。
いいか悪いか、は別として、現職の経営層は管理職に「プレイングマネージャー」であることを望む傾向が強い。仮にプレイングマネージャーでなかったとしても、課題も問題もあるわけだから暇な訳が無い、だからポジションを募集して貴方が来たんでしょう?と思うのはごく当たり前のこと。だから「イマイチ何をしているのかわからないが毎日定時で退社する上司」が現職の職場で目立ち始めるのに時間はかからなかった。
私の現職の部署はやや職場の位置が特殊で、本社の中枢部分に数人のデスクがあり、分館みたいな所で私を含む大部分のスタッフが働いている。
そんな中で、上司は分館の会議室に脇目もふらず直行して会議だけ行い(内容は少し聞こえてくるのだけど、何かが決まっている雰囲気はあまり感じられなかった)会議が終わるととてつもない速さで分館からいなくなり、分館スタッフと話す事は殆どなくなった。
コミュニケーションを嫌がる(怖がる、かもしれない。少なくとも私にはそう見えた)ものだから、メールの返信もいつも一行から三行位。「ふわっとした」疑問形で返されることも多かったから、メールの案件が上司が介入した結果結論に到達せずに途中で止まってしまう事が多かった。
承認書類も途中で止まるようになった。上司の承認が止まるものだから業務も案件も滞る。その中で招集された会議で上司の承認待ち案件について「あの案件が停滞しているのは何故?」という発言が当の上司から出てくるというギャグみたいな状況に数度直面した。
でも両方とも魔法使いじゃない。外部業者やコンサルと打ち合わせを行うと、初回で外部業者が必要しているデータをそもそも持ち合わせていないことがわかり数回の打ち合わせで大半が立ち消えとなり、事前検証や打ち合わせの時間分の工数が消える結果となった。
おそらくは経営陣側が「上司の力量に一旦は任せてみよう」という判断になったのだと想像している。その一方でこうも思った「後日経営陣は確実に費用対効果を確認してくるだろう。まあ私が問われるわけじゃないからいいけど…」。
良くなかった。
基本的には与えられた条件の中で新たな費用を発生させないことを前提としているが、どうしても少額の費用(最近はサブスク的な月1000〜2000円とかの定期支払いが多い)が必要になる時があるが、そういう少額費用の決済が恐ろしく渋くなった。どれだけ費用対効果を説明する資料を作っても駄目。
その中で「稟議通過したこの件だけど、まだまだ足りないからもっともっと金を使うぞぉ」的な資料を見つけてしまいため息しか出なかったのをよく覚えている。
会社は数字でのリターンを求めてくる。でも部下とのコミュニケーション同様「ふわっとした」説明しかできなかったらしい。資料を作って見せるスキルもないからすっかり経営層から「マーク」されたらしい。
その結果、上司が分館に来て誰とも目を合わさないテーブル(デスクではなく)で黙々とノートPCと向かい合って「何か」をして、5時になると姿を消す姿を連日目にするようになった。
だけど一つだけやっておきたいことがあった。
着任後半年くらいしてから「現業の未来像をどうするか」でブレーン・ストーミング会議を行いたいと言われてメンバーが招集されたことがある。
結局はブレーン・ストーミングでもなんでもなかった。
「役員が”将来像”は『A』になると言っているから、皆『A』にするための方策を考えて」だった。
私は基本的に官僚スタッフなので、方向性として示された事をいかに実現させるかに頭を絞るのが職務だと捉えている。だがこの件は看過しているとまずいと考えて話をさせてもらった。「『A』はできない訳ではないのですが、会社の体制と対応そのものを変える必要があり現職の状況には沿っていないと考えます。恐らくなのですが『B』という考え方があり…」とホワイトボードを使って説明した。参加者全員が納得してくれ、上司も「まあいいでしょう」と話をして次の会議予定を設定した。
次の会議になった途端、上司が『A』の話をし始めた。私から「先日お話した『B』の話は役員にしていただけましたか?」と話したところ「役員は『A』と言っているから」の一点張り。結局この将来像は、微妙にどうなっているかわからない状態になっていた。
上司の退職が決まって10日後位のこと。この”将来像”とは別案件で当の役員が来ることになった。別案件とは書いたが、この別案件の作り込み方は”将来像”によって180度に近いくらい作り込みが変わってくる。私もそれで悩んで色々な絵図面を散々描いては直し、を繰り返してきた。
私が事前に”将来像”について役員に直接確認する必要があるよねという話をしていたので、自ずと役員を前にその話題に流れていくことになった。
『B』だった。
私が話した内容とほとんど一致していた。
誤解しないでほしいのは、別に自分の自慢をしたいわけじゃないということ。
少しだけ捕捉すると『A』は「0か1か」の案で、『B』は「濃淡をつける」案。
外部の方からするとどっちも似たようなものに見えるのだが、実際は業務の作り込みから顧客への応対からシステムから何もかもが違ってくる。
恐らくなのだが、役員が『B』で話したのを、上司が忖度して「役員の期待?に応えるためにはもっと厳しくしないと!『A』じゃないといけないだろう」と脳内変換したのではないかと推測している。
念の為だけど上司を責める気はまったくない。誤認や勝手な忖度は初めての案件の場合よくあること。問題はそこからどう修正するかであり、それを可能にするのがコミュニケーションだと思っている。
その会議には退職間近の上司も参加していてほとんど何も喋らなかったが、役員が『B』を笑顔で話している時に上司をちらりと見たところ、ずっと下を向いていた。
会議後、役員は次の会議に向かった。そして上司はそっと席を立った。その時、他部署の方が「◯年前にさっきの話を聞いていればこんなに時間かからなかったのに…」と言っていたのが全てを表していたと思う。
その日から10日間、上司はほとんど別館のテーブルノートPCをおいて「何か」を見ていた。手は殆ど動いていない。誰かと会話する時間は一日10分程度。それでも定例の直属部下とのミーティングは開催されるし、案件の会議には一応「出た」。そしてほとんど何も喋らなかった。
外部業者(ほとんど実現可能性のない案件を相談)から次の打ち合わせの打診がメールで入ってくると「◯◯が設定します」の一行メールで返信が入ってくる。当該◯◯さんに「どう進めます?」と聞くと「話聞いてそれで終わりだねー」と「せやな」で返すしか無い見解をいただき安心した。つまり上司が片っ端から声をかけてきた外部業者やコンサルトのルートはほぼすべてがクローズされるという結果となった。
やっと手が出るようになったのだが、他部署に関わることのため話の持って行き方をずっと考えていた。何とかうまく「敵に回さないよう」話ができた後、上司から話しかけてきて「やっぱりダメだよね◯◯部署。ところでXXのデータには当たってみた?」
‥いや違うんだと。◯◯が怠惰でやっていないのではなく、現職の業務体制で手が出ていないだけでそこに「悪」は存在しないんだと。そして私がやるべきなのは問題提起と提案まで。実務は◯◯に依頼しなくてはならないから、私がXXに当たる意義はほぼないんだと。何より私はただ一件の話をしているのではなく、背後に眠る数百件の類似ケースとその検証に手を回せない体制を改善しようとしているんだと。
純粋な親切心でそこまで言おうかなと迷ったが、意味も意義も無いのでやめた。
(退職メールではなく、普段から自分の口と文章と資料で経営陣とも部下ともコミュニケーションを怠らず「わかってもらう」努力を欠かさなければ結果が変わったかも…)と思いながら返信。
返信した30分後位に挨拶に来た。
聞いてみたところ、メールを出してすぐログアウトしたので返信は見ていないとのこと。
なので私の画面で返信をお見せした。
私の返信を要約すると「理論は大事。だけど現実とリンクさせないと殆ど無駄打ちに終わる」「コミュニケーション不在はやばい」となる。できるだけ親切に描いたつもりだった。
上司からの感想はなかった。「頑張ってください」の一言だけだった。
私も想定内だったので「ありがとうございます」と挨拶した。話を聞く限り返信を返したのは私だけのようだ。
恐ろしいのはここから。
上司が退室して10分後には「なんの支障もなく回る活発な職場」「上司がかつて通した稟議案件は(経営陣が追加コストを嫌気して)廃止になるかもしれないから準備をしておこう、と話すスタッフたち」の姿が。
…そう、最初からそんな人は「いなかった」んだよ。という扱い。
程度の問題ではあると思うんだけど、人間には承認欲求というごく当たり前の感情があるはず。これが怖くない人はいないと思う。
お前は本が好きなんだが、そういう言い方を始めるなら、好きなものがビジネスシステムなのかは、改めて考える必要もある。
俺も本は好きだ。
だが俺の読書趣味の大きな部分を占めているラノベは、多くがweb掲載の書籍化になるようになって、そうなると大好きな作品だからといって買うかはまた別の話になるよな。読めるのであれば、べつにwebサイトで良かったのだ。
俺は、別に大学時代関係の学術書や文学系の本も読むから、それは買うが、これだってなろうみたいな奴から無料で出力されるならほんまに買うのかどうか。
それはかつて不可分だったが、近い将来、分離し始めるのかもしれんのだ。既にそれは一部始まっている。
一人で時間を潰すのは全く苦ではなく、自分の中に新しい物語や知識が
流れ込んでいくのがただただ楽しかった。
一人の時間に耐えられない人、
暇を潰せない人種のことを少し見下していた部分もあったと思う。
非人道的なほど満員の電車に毎朝揺られるうちに自分も上に書いた人種のようになってしまっている。
あまり本も読めなくなったし、楽器を演奏する時間も減ってしまった。
今では暇があればスマホを開いてYouTubeを開いてたいして見たくもない動画を
垂れ流しているし、
定時で上がった後も何をやればいいかわからずとりあえず居酒屋に入って
ただ酒を飲んでタバコを吸ってそこにいる人と話したり話さなかったりして
酔いが回ってこういったことも考えられなくなって気づけば眠りに落ちている。
単純に仕事によって自分の時間と体力が奪われているからそうなったとも思えない。
中高の学生生活でも9時5時くらいの時間は毎日拘束されていたわけだし
なんならそのあと塾とか部活に行ったりもしていたから自由な時間という
おそらく合ってない社風向いていない仕事をずっと続けることは
自己肯定感の低下に大きく影響する。そして低下した自己肯定感のもとでは
新しいコンテンツや創造的な趣味に取り組む意欲も湧きづらくなるのではないかと思う。
毎朝ベッドから出る意味が見出せない、1日を始めるモチベーションが湧かない。
本を開いても目線は活字をただ撫でるだけで、自分の中に新鮮なイメージや意味を
与えてくれない。世界は平板化してしまってどこに行って何をしても結局同じなんだ
という感覚がつきまとって離れない。
タイトルの通りの身分です。学生です。自分の書いている文章を客観的に見れず、もうどうしたら良いのか分からなくなってきました。文章遍歴です。長ったらしいです。
まともに文章を書き始めて一年ほどの若輩者です。二次小説を書き始めた動機は絵が下手だからというとても不純なもの。本が好きで、作品が好きで、なおかつ小さい頃から人並みよりさくさくと文章を書けるタイプだったので軽い気持ちで書き始めてしまいました。
普段は旧Twitterと支部で短編を上げています。人気ジャンルのCPで書いたものが400ブクマ付いて喜んでいる程度の薄っぺらな書き手です。
衝動で書いた一作品目に評価がついたとき、初めて文章の質というものを意識しました。そういえばこれって他人に読ませる文章じゃん、と。慌てて自分の書いた文章と、自分が大好きな作家さんの文章を比べました。適切な比喩、ちょうど良い一文の長さ、形容詞の位置、描写の順番……などなど、素人でも分かる違いが山ほどありました。それはもうバスタオルと羽毛布団くらい違いました。要するに幼稚な文章なんです。色がありません。温度もありません。パッサパサの乾パンでした。
次に文章を太らせようと思いました。もうちょっと情報量を増やそうと。そしたら今度はすごく冗長でつまらないものが出来上がりました。文字の量を増やすだけでは10Lに薄めたカルピスみたいな読むのが苦痛な作品になるだけでした。
ここまでもし読んでくださった方がいたらこいつど素人にもほどがあるだろうとお思いになると思います。字書き経験のある先輩方でしたら尚更です。ごめんなさい。
語彙を増やそうと思いました。毎日通学時に周囲の写真を撮って、匂いや気温を書き取って、その時に見た景色をメモ帳に描写しました。Web辞典と、プロの一次作家様の文章を横に並べながら。なんだかちゃんと文章を書いてる気がしてだんだん楽しくなってきました。「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる……」また比喩を使っちゃいますが、枕草子みたいな感じです。
よっしゃやるぞーと思ってまた二次創作を書き始めました。今度はプロットなるものが立ちはだかりました。起承転結というやつです。この辺りで私は、あれ、小説書くのって想像以上に難しいのでは……と気づいてしまいました。二〜三千字くらいのワンシーン切り取り型の書き方ならともかく、私は数万字に及ぶ長編に憧れてしまったのです。プロット無しの見切り発車で書くのはあまりに危険でした。しかし、見様見真似で書き起こしてみるものの全然上手くいきません。浮かぶのはつまらない展開ばかりでした。そんなこんなで今は三千から五千字のものをちまりちまりと書きながらいつか長いもの書きてぇとぼやいています。
冒頭に戻ります。本当に良い描写は脳みそにスッと入ってくるんです。たった一文で全部を分からせてくるアレです。難しい言葉も要らないし、何度も言い換えて重ねる必要もない。あれって天賦の才なんですかね。最近、解像度の高いものを書こうと思って気合を入れて書いた作品が、2週間後に読み返してみたら装飾過多、結局何が言いたいの?と思われそうな駄文になっている、ということを繰り返しています。カッコいい文章に憧れます。
ネット上の二次創作においては、流麗な描写よりもオタクに刺さる台詞のある作品のほうがたぶんウケます。自分もそういう作品は好きでした。自分自身、以前は難解な地の文なんかポイポイっと読み飛ばしてキャラ読み(?)していたわけですから。でも書き始めてから、読み手にウケるかどうか以前に自分が「こんな適当な文章で推しを表現したくない!」という執着に取り憑かれてしまったんです。もう自己満足の部分もあると思います。推しの眺めている花はただの花じゃなくて、真っ白で、透けるくらい薄くて、とても良い匂いがして……
文学オタクの扉が見えてきました。もう戻れません。知れば知るほど、私の小説はつまらない。どうつまらないのか分からないけどとにかくつまらない。引き込まれる表現が足りない。たぶん内面描写も浅いし、そもそも二次創作として、公式設定資料を読み込むのを怠っていました。なんてことだ。しっかりとした長編で評価されている方々は本当に凄いです。
自分が心底納得のいく小説が書ければきっとある程度の評価はついてきます。でも、その「自分が納得のいく小説」までにどれだけの差があるのか、具体的にどこがダメなのか、分かりません。あぁ、誰か私の小説に適切に文句をつけてくれる人居ないかな。雑魚メンタルですが最近批評が欲しいと思えるようになりました。
長々と書き連ねましたが、要するに良い作品が全然書けなくて、目標までが遠すぎて死にそうです。文章の指南書をこの前注文しました。でも本当にあんな凄いものが書けるのか……?神字書きの皆様へ尊敬と羨望と、諸々の気持ちが溜まっていきます。
文章うまいね、そんな言葉1ミリも要らないんです。いや嬉しいは嬉しいんですけど、要らないです。正直やっぱ欲しいです。でも上手くなるほうが大事です。批判が欲しい。
そういえば触れてませんでした。一次創作書けばいいじゃんっていう話についてです。私の今のモチベーションの核は、ひとえに好きなキャラを最強の文章と構成で表現したいという衝動で成り立っています。つよつよな文章で推しが喋ってる……うおお……という感動を味わいたいです。それだけです。
世の中、腹が立つ作品には批判が飛んできます。でもつまらない作品には何も言ってもらえません。ありふれた話ですが、それをとても実感しています。