はてなキーワード: 伝統とは
恐らくいつも通り円山公園から出発して四条を通り河原町を上がっていくのだろう。
ゴールは三条大橋下かあるいは市役所前広場辺りか。子供の頃から見慣れた光景だ。
彼らの主張する内容もまた聞き慣れたもので、戦争反対、安倍辞めろ、その他諸々、駅前で毎日共産党が叫んでいることと大して変わらない。
変わることと言えばやたらポップな雰囲気を醸し出していることといつにも増して大人数であることくらいで、四条河原町を封鎖して市民の足であるバスの往来が出来なくなるのも、外国人観光客が興味深げに写真を撮るのも普段と同じである。
その点だけ抜き出せば祇園祭とそう変わりはなく、この形態があと1100年ぐらい続けば時の京都市が伝統的無形文化遺産として指定するかもしれない。
それはそうとして。
実際、彼らが主張すること自体に対しては何の不満もない。
そもそも言論の自由は何人にも保証されており、彼らの口を封じようとする勢力とは断固として戦わねばならない。
僕個人としても立憲主義プロセスを無視しようとする現政権に対する不信感は非常に強いし、安倍晋三という政治屋ボンボン三代目がまともな政治家であるとも思わない。
しかし。
果たしてこの現代版踊り念仏が政治指向を持たない人々の心に響くかどうかは怪しいと言わざるを得ない。
理由は簡単だ。
「迷惑」と「聞き飽きた」。
ただでさえ混雑していた四条が行政の手で更に渋滞するよう作り替えられたのは記憶に新しいが、それに加えてデモによる道路封鎖が起こると四条だけでなく烏丸や川端、果ては堀川辺りまで波及する。
『主張しはんのは勝手やけどせっかくの休みやのに他人に負担掛けてまでやらんといて』と。
その時点で彼らの耳に主張は届かなくなるのだ。
これが良いことであるとは僕には到底思えない。
重要なのは政権批判そのものではなく、政権批判を行う仲間をいかに増やすか、であるはずだ。
左派には民主主義、国民主権を叫びながら国民に主権があることを忘れて政権そのものと戦おうとする人が多く、その点ではいわゆるネトウヨの方がむしろ主権者たる国民に向けて語っているのではないかとさえ思う。
『○○人はこんな悪事を働いてる!』というのは政権ではなく民衆に向けられた言葉だ。
この違いこそ日本のリベラルと呼ばれる勢力が弱い理由だと僕は考える。
より深刻なのは「聞き飽きた」ということだ。
彼らは先述のようによく政権批判の演説を行っているがこれがむしろデモの主張を陳腐化させているように思える。
またこの手の奴か、と。
普段から聞き慣れた言説に『多くの人が集まっているから』という理由だけで耳を貸す人間がどれだけいるだろうか。
これが大人しい田舎なら話は別だ。
ただ大規模なデモを行えばそれだけである程度衆目を集められるだろう。
その解決策は僕にも分からないが、飽きられているのは確かだと思う。
こんな風に書くと「典型的スノッブ京都人」扱いされるのかもしれないが、今回敢えて書かせていただいた。
重ねて言うが、僕は彼らの主張にもその内容にも文句はない。
と言うより京都は一種のアジールでなければいけないし、地方のサムライ・マチズモに由来し明治以来続く国内外に対する植民地主義に対抗する存在でなければならない、と強く思っているので、こういった主張はどんどんしてほしい。
しかし、主張する人間が自ら居場所を減らしているのではないか? と感じるのである。
報道によるとこのデモは若者が主催したもので、この日は2000人を超える人が集ったと言う。
彼らの心意気に敬意を表すると共に、彼らの心意気が無駄にならないことを祈る。
昨日、ひさびさに実家へ帰ったら黒のラブラドールと姪がバタバタと出迎えてくれた。
その瞬間、忘れていた記憶……幼き頃の夏の日を強烈に思い出すことになる。
もう三十年も前の話。
昔は今みたいに血統書付の犬ばかりではなく、
朝早くにラジオ体操を終えて家に帰ると父がいつになく険しい顔をしていた。
どうしたの?と聞くと
「野犬がでたで今から山狩りだ」と父が言う。
「やまがりって?」
「山へ逃げた犬をみなで捕まっえのよ」
捕まえられた犬が殺されることぐらいは幼い私でも理解していた。
そして、父は身支度を整えると山へ犬を捕まえに行った。
メルモちゃんを観て、お昼になって素麺をすすっていると、父が帰ってきた。
そして犬が捕まったことを知る。
「坊主、犬を見に行けっぞ」この時なんとなく嫌な予感がした。
父も素麺を食べてから公園へ行くと鉄棒に縛られたクロスケが低く唸っていた。
「あぁ、(クロスケだ)」
敵意むき出しの顔でこっちをみていた。
父には「一呼吸つく」という習慣が無い。
やることはすみやかに行う。
「犬をいけんすっとじゃっとな?」
「ついて来い」
家から歩いて5分程度の公園のすぐ横にコンクリート護岸の川が流れている。
その川にかかった手すりがない橋の真ん中にクロスケを置いた。
父は持ってきた麻縄の一端を首輪にくくり、反対側をあらかじめ用意してあったであろう
「犬を沈め」
「(!!!)」
いつになく真面目な顔で命令をする父が怖かった。
逆らったら自分が沈められそうだとも思った。
「おおおおおおおお」
私は無言で犬を放り込むことが出来なかった。
声を出し、勇気を振り絞り、犬を橋から落とし、ブロックも投げ入れた。
そしてクロスケは川底へ沈んで行った。
私はおおお、おおおおおと声を出して泣いていた。
沈みながらぎょろっとした目でこっちを見ていたクロスケが怖かったことも思い出した。
昨日……父の四十九日が法要があり、この時の思い出を母に語った。
母は、
みんな12歳の夏に犬を沈めるのだよ。母も父もそうしてきたんよ……と。
そして、今は野犬がいないから沈める犬を探すのに苦労しているとも。
「どうしてるん?」と聞くと、母は恥ずかしそうに笑って、
「それ用の犬を飼っているさ」と教えてくれた。
彼らはこの土地に埋もれた無尽蔵のペリック(Perik)鉱石を製錬する技術に長けており、日常生活においてもそういった文化の影響がしばしば認められる。
イウ(Yew)半島南方の平地に住む原住民の一派は、仲間の死に際してその亡骸を伝統的な手法で丁寧に洗浄し、毛髪や爪、ある種の内臓を取り除いてから鉱石と共に鋳る。
彼らの死はいつからか数え上げられており、十三の倍数にあたる死者は七人を一単位として特別大きな炉に並べられる。
然るべき日になれば、サグ(Shagg)と呼ばれる希少な鉱石とペリックを同時に鋳るための燃料となるのである。
古来、このように作られた合金は、季節の変わり目に豊作を願うのに用いる長い鎌などの祭具に姿を変えていたが、現在では魂の回収を行う際の触媒として有用だと広く認知されたため、ほとんどが中央政府に納められている。
■7:00 起床
最近使い始めたアラームアプリは簡単な計算問題を解く必要がある。
今日は27-13。
最初は良かったけど、最近は寝ながらでも問題を解けそうなので、
■7:05
■7:30 出社準備
またネットサーフィン。
未だにテスト駆動開発とか言ってるのを見つけて懐かしい気持ちになる。
去年死んだでしょ?
■8:40 家出
自宅を出て駅へ。
5分後ぐらいに別の交差点で会う。
数年かけて最短コースを探索したつもりだったけど、
まだ他に抜け道でもあるのか。
■08:57 電車に乗る
■09:30 会社最寄駅到着
09:15には出社する予定だったはずだけど気にしない。
コンビニでお昼ご飯を買う。
■09:45 会社到着
ネットサーフィンする。
相変わらず真面目で面白味のないやつだ。
2chも二次裏もニコ動もネトゲもはてなも発言小町も知らないらしい。
うむ、その生き方が正しい。
やっと雑用が終わってEclipseを立ち上げる。
起動を待ってる間にネットサーフィン。
木村岳史の極言暴論コラム、今度は「中国にも抜かれるIT後進国ニッポン、
この記事Facebookいいねランキング一位なんだけど…IT後進国だと実感するわ。
今日は早く帰るだろうと思い、残業用に残しておいた菓子パンも食べる。
■12:45
「達人プログラマー」を読み返す。本に書いてあるようには上手くいかない。
自分だけがDRY原則や割れ窓理論を守ってもしょうがないんや…
昼寝。
■13:00 午後の仕事再開
「この社内業務用のサイトがやたら遅いんだけどなんで?」
あーとりあえずF12押してからF5押してください。デバックできます。
…このサイト、ただプルダウン表示するだけでサーバと六千回通信してる…!?
■13:30
いつも思うけど、どうやったらあんなつくりにしようと思えるのか。
といっても朝だらだらしているうちにだいたい考えていたので、
あとはタイプするだけ。
■14:00
「去年君が作ったプログラム見てるんだけど、
一時期私の中ですべてXMLに書くのが流行った時期があるからですよ。
■14:30
本気で飽きたので業務と関係のない自動化プログラムを作って遊ぶ。
あとは上司にこのExcelを開かせれば楽しいパーティーの始まりだ!
だいたいこういう調子に乗っているときはよくないことが起きる。
■15:10
幸い運用は止まっていないけど今まで見たことのない挙動をしてる。
■15:30
「今日は様子を見るので遅くまで残っておいて」とのこと。
昼に菓子パン食べたの後悔。
■16:00~
記憶がない。
■21:00
帰宅準備。
落ちないかな、と思っちゃいます。」
古事記にもそう書いてある。
■21:30
スマホを取り出すとこの前の日曜に遊んだ女子大生からLineが来てた。
「ブラック企業って本当にあるんですか??」
もう一週間未読放置されてる。徹底的すぎるでしょ。
事務連絡っぽく送ったんだからせめて既読ぐらいつけてくれてもいいのに。
■22:00 晩御飯
■23:50
この日記を書き始める
日本の女性差別が超ヌルゲーかどうかはよく分からないけれども、西洋で魔女裁判で殺されるような怪しげな女は、日本では流れ巫女として(決して高い地位ではないが)娼婦を兼ねた祈祷呪いを生業にできていたわけでして。
少なくとも寡婦や嫁かず後家の地位は伝統的に最低限保証されている。
でなければタバコ屋のおばさんなんて措置、あんな金のない焼け跡時代に社会が認めるわけがないです。
まあ今JT元気ないから、時代も時代だし街角のタバコ屋さんもだんだん終わっていくんだろうけど、タバコ屋さんには悪意ないので、念のため。
あとなんかの本で読んだけど、西洋で思春期の不安定な少女が敵対するのは、これがまた伝統的に村外れに住んでいる怪しげな老婆で、魔法少女マギカマドカはちゃんとその対立を描いているアニメなのよ。魔法少女と魔女ね。
「偏見を離れ冷静に考えることで真実にたどり着くことができる」というのが一つの信仰の形。
通常は、それに「科学的な手法で実験と仮説検証を繰り返すことで真実に近づくことができる」という科学信仰も加わる。
どちらも、独立した人間理性を、伝統や社会や宗教よりも上位に置く啓蒙主義的な思考法で、
20世紀以降は、人類学や言語哲学等の発展で「社会から独立した人間の理性」の存在が疑われているから、
個人的には自分の「冷静に考える」能力をそこまで信頼していないし、
原始時代の葬送儀礼から始まる宗教が、啓蒙主義の洗礼もくぐり抜けて、
現代社会に確かに生き残っていることを考えると、
そもそもスマブラを格ゲーのジャンルに含めるのはとても違和感がある。
コンピューターゲーム黎明期からある「崖下に落としたら勝ち」っていう1画面ゲームを現代風に味付けし直した伝統的アクションゲームと定義づけるほうが妥当。新天地開拓というよりは、もっと身近な、駅前再開発とでも言おうか。
あれが今も生き残り続けているのは、スパロボが売れてるのと同じ理由だろう。シンプル安心なシステムとド派手な演出とキャラ人気あたり。
なぜ「ドローン」だの「もちと蒟蒻畑」だの「やめちまえ」のブコメになるんだ。
ドローンの危険性は操縦可能で撮影危機をつけたり、そもそもそれを狙った前例があったから法として整備しようとなっただけだ。
凧でそんなことやるかバカ。
もちと蒟蒻畑とははまた違うだろ。
そもそもあれは企業が新しく作った商品でそれを見てゼリーと思う人がいたために表示を変えたり消費者センターだかなんだかが警鐘をしたんだ。
死者が出たのはべつに伝統にこだわった結果じゃねぇ。
古いものを尊重しすぎた結果だーと言いたいのか、言いたいみたいだな。
お前みたいな短絡的な考えを持ってるやつが、「ネットとかオタクは人を殺す」って言ってんだよ。同じだお前も。
最大の問題はトラックを素人判断で変えたことと危険予知回避に対する議論が事前になかったこと。
もちろん、来年はやるべきではないと思う。
死者を出して平気で開催しようなんて愚の骨頂。
がっかり。
土俵における女子禁制をといた大相撲の伝統精神は破壊されると右翼共が大騒ぎしていた。
彼女が土俵に上がれば、日本の相撲の伝統精神が損なわれるらしい。
アホらしい話であるがどんなに能力のある女性でも拒否されるのだから、フェミニストからしたら大問題だ
公務員は全体の奉仕者であり、フェミニズムの奉仕者ではないと批判された大阪知事は
府の財政問題など大事なことは山積にしたままの無能であったが、相撲界の女性蔑視の解消にす越しだけ貢献したのだ
国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小へ転換 文科省が素案提示
http://www.sankei.com/life/news/150528/lif1505280016-n1.html
地方国立大学の中の人(教員)ですが、中の人の感想としてこれはやむを得ない感が強い。
まず無駄な混乱を防ぐためにも、人文系の学問の重要性云々の話は論点ではないことは明言しておきたい。
どんな学問だって崇高で立派だと思う。そこに優劣はない(と思いたい)。
しかし、それで飯を食ってる教員、授業料で負担している学生、税金で負担している国民がいる以上、
経済的活動としてどの程度の研究・教育活動の規模が適正かという議論はあってしかるべきだと思う。
どうして規模縮小が仕方ないと思うか、理由を考えた。
一方で、大学に入りさえすれば、就職がなんとかなると思ってる人が多すぎて困ってる。
メディアのニュースの取り上げ方からしても、大学卒業=適切な就職先が見つかるべき。
といういささか謎な前提を皆受けれいている気がする。
まあ社会的に見て若者の労働力化を進めるという立場からすれば妥当な価値観なんだろうけど。
本来的には、大学(とくに人文系)っていうのは社会の価値を見直すという側面があるから、
就職などという現世は忘れて、人類の高みを目指して謎修行しますとか、放浪してしまうとか
そういう人が出てきてもいいはずでそういうのが本来の大学だろうと思う。
しかし現場では、国立大学に入学できたんだから、就職先はそれなりのところに落ち着くだろうという期待を
そのギャップが今の大学の抱える課題の大きな要因だと思うことが多い。
大学の中の人は、そこを都合よく使い分けていて、すこしズルいなと思う。
高校生に期待だけ持たせて、3年後に厳しい就職活動を経験させてしまうことを繰り返してる。
そういうことを受験前の高校生に説明してあげないと詐欺っぽいと思う。
その説明を十分に行った上で、いまの定員が満たせるんだったらそのままでいいんじゃないかな。
一方で、理系の一部の学問分野で学べば、プログラミングや機械の設計など
とてもわかりやすすぎる技能獲得ができるわけで、そういったライバルに対して
獲得できる能力の社会的アピールという点で、圧倒的に負けてるとも思う。
教授会という学問自治を盾にした会議がある。まあはっきり言って実に議論がくだらない。
そこである程度教員集団が合意しなければ、組織的な意思決定が出来ないようになっている。
端的に言って、大変な時間をかけて、ろくでもない意思決定をしてる(個人の感想です)。
一方ネットが普及して、人々が知識や技能を獲得するという教育本来のプロセスに
かつてないイノベーションが起きつつある。特に高等教育の分野で、専門的な知識の獲得で顕著である。
にもかかわらず、テクノロジーを理解している人が人文系には少ない上に、
伝統を重視しているのか、意思決定できないのかよくわからないけど、
まあこれは人文系に限った話とは限らないのだが、人文系の酷さは
「社会に合わせて変わろう!」という方がどうかしているんだろう。
それなりに善処しようと頑張ってる人も多い。
結構、重大な局面だと思うのだよ、これ。むしろ「勝った勝った」とはしゃいでる左翼的な陣営こそ、次にちゃんとした手を打たないと取り返しのつかないことになる可能性がある。
橋下の引退により、おそらく「維新の党」は求心力を失う。解党するかどうかはわからないが、もともと個人商店であった以上、以前のような影響力は持ち得ない。やはり去年に解党した「みんなの党」も、もはや跡地すら残ってない惨状。こちらも個人商店だったし。
で、重大なのは、どちらも一定の支持層を持っていたこと。たぶん都市部のホワイトカラー層が中心。20代〜40代が多いはず。
この層の受け皿が完全に崩壊した。
この志向性を持った層が支持する先が安部自民一党になることの危険性。
民主党はデフレ推進してきた反省が見られないし、共産党は「大企業=悪」なテーゼが根強い。
公明党は「安定は希望」というキャッチフレーズである時点で論外。
リバタリアニズム的な志向性を持った層が支持する先がなくなってしまった。
つまり「経済成長歓迎・インフレターゲット支持」と「歴史修正主義・ナショナリズム」
のパッケージか
のパッケージか
個人的にはレイシズムも歴史修正主義もうんざりなのに、それに対抗する軸がまともな経済政策を打ち出さずにげんなり、というのがここ最近の印象。
ピケティがブームになったときも「成長か、再配分か」みたいな二者択一にしたがる人たちが多くて本当に辟易した。
再配分を重視することと経済成長は両立する、というかむしろ両輪として機能するはずなのにね。
というわけで。
・LGBTなどマイノリティー人権擁護(「伝統的な家族観」とか言わない)
・「歴史戦」とか言わない
少なくとも、従来の「左翼」とか「リベラル」とか言ってる人たちは「勝った勝った」じゃなくて
ちゃんとビジョンを示してくれよ、と思う。
・
労組に詳しくないけれども、一時労組の人とお付き合いがあったので許して欲しい。
そして実態や事実でなく個人的な印象なのでさらに申し訳ないのだが、私も増田の書いている事に共感する。
推測だが、伝統的に左翼的労組は相手を国家や体制という極めて大きいものと想定し、安保破棄や基地撤廃など獲得目標も極大化させ、負けて当たり前の勝負を挑む事で自己保身と承認を図ってきたのではないだろうか。
自ら「悪」と印象付けた大きなものに挑む事で正義に殉じる闘士を演じ、周囲の一部から称賛を得てきたのだと思う。
その歪な成功体験から抜け出せず、あるいは労働組合の本来の意義が理解から抜け落ち、また自由主義経済の結果に全く対応できず今の惨状に至っているのだと思う。
事ここに至っては、大きな事業所においては第二労組を結成し、本来の労働問題にのみ真摯に取り組む組合員を増やさなければ労働者の立場は日に日に弱まっていくだろう。
「万国の労働者よ団結せよ!」おそらくこのようなスローガンが間違いで、同じ職場の同じフロアーや課の人と団結というか協力して、職場環境や労基法の順守について取り組む事が今最も求められていると思います。
高校名重視とか大学名重視とか、そういう感覚ではなしに、伝統ある高校のほうが、なんとなく行きたいわけよ
大学だってさ、東大に行っても東北大に行っても同じ会社の同じ部署に勤務、とかは普通にあるじゃん
でも、将来になんら関わらない結果になるとしても、どっちの大学でも行けるなら東大に行きたいじゃない
高校だって同じで、県内二番手と県内一番手だと、一番手の方がなぜか行きたいって思うわけ
現実的な話でも、一番手のほうが偏差値も高いし進学実績も高いわけ
残念ながら県内二番手は中高一貫になったところで、県内の序列が覆らないわけだ
しかし、自分が県内一番手の高校に行ったって東大に行けずに地元の国立大に行くことになるかもしれないし、
だから、中学高校のシステムとか、高校名重視とか大学名重視とか、そんな話じゃないのよ
京大がどれだけいい研究して iPS で世界をリードしても、日本一の大学は東大じゃなくてもはや京大だな!とはならないわけ
それと同じく、地方の県庁所在地政令指定都市であっても、県内一番手の高校はいつだって一番だし行けるなら行きたい高校なわけ
だから県内二番手高校の中高一貫と、一貫じゃない県内一番手の高校だと、「今なら10万円あげます、三年後なら100万円あげます。どっちを選ぶ?」と言われてる感じだ
関西関東に行った人たちが戻って就職して初めて、地元でいろいろな大学名語れるようになるじゃない
メーカー勤務のエンジニアがいかにキャリアチェンジに失敗し、価値観の転換を迫られ変化しつつあるかについて記す。
話は2009年頃にさかのぼる。リーマンショックと円高、さらには震災により日本の電機業界は縮小を余儀なくされ、度重なる大手企業のリストラ報道に触れることで自らのサラリーマンエンジニアとしてのキャリアの継続に不安を覚えるようになった。
それ以前から自らのスキルの中核が会社の本業とは少しずれたソフトウェア、Webよりのところにあることを自覚しており、その分野での知識、経験を伸ばすことでエンジニアとしての成長、生き残りの手段と出来るのではないかと考えるようになった。
もともとネット依存な傾向と学術的な活動への未練があってはてな界隈でのの情報収集を行っていたのだが、その中で見いだしたのが機械学習関連の勉強会であった。Web業界を中心とした技術勉強会は2008~2009年頃からツイッターなどのSNSを通じて盛んになって来たように思われる。機械学習関連の勉強会参加者はその中でも博士課程進学者や社会人博士が一般の技術職に比べてずっと多く、知的エリート的雰囲気を感じるものであった。
自分が勉強会に参加するようになってから少したった2010~2012年頃になると周辺のコミュニティーはどんどんと活気を増していった。
ソーシャルゲーム業界の爆発的な成長、そこではWeb関連の技術とは異なる学術的色彩の濃いバックグラウンドを持った人間を求めていること、待遇も(安定性を差し引けば)伝統的な大企業に劣らないどころか収入、技術追求の環境としては遥かに凌駕するものであるとこと、自分と同様電機業界出身の人間も多く転身していることなどその魅力ばかりが目につくようになった。そして勉強会は新興企業が優秀な人材を獲得する場であることにもすぐに気づいた。
そんな空気を勝手に感じ取って勉強会、ブログやSNSでそこそこ積極的に情報発信を行うようになっていった。
技術情報を発信する活動は承認欲求、自己顕示欲を十分に満たすものであり、まさにソーシャルゲームがゲーマーにもたらすものを開発者サイドとして並行に体験しているような感じすらもった。しかしその魔力に取り付かれることで成熟した会社、業界内のサイロ化した技術の習得、それを用いた地道な作業の繰り返しにモチベーションを感じることが出来なくなり、次第にプロジェクトで主体的な役割を果たすことを避けていくようになった。
昼間の仕事に熱意を持って取り組めなくなったことから不眠そして鬱に悩まされ、仕事と勉学に割く時間の質と量は減っていった。
数年の年月が経過することで勉強会周囲の人間が少数は華麗に、多数はぼちぼち、あるいは人知れず職を変えていった。公の場での発表を続けるもの、所属企業を巻き込んでそれを拡大するもの、全く姿を消してしまうものなどその動向は様々であった。
周囲を見ると転職成功者はSNSを使いこなしてオピニオンリーダーとなるような行動力、コミュニケーション能力が頭ひとつ高いようにも見えた。そもそも勉強会に出て発表してある程度の知名度を得るという時点で最低限の技術力、現状の組織には依存しないという意思がスクリーニングされていたと言えるのかもしれない。
そんな周りの人間の状況や数年にわたる知識の蓄積、景気の改善や人工知能、機械学習、統計などの分野へ全ての産業が注目しているような状況を追い風と感じて2014年後半から2015年に掛けて本業とリンクした業界で活動をしてみた。
しかしながら会社において明確な業績がある訳でもなく、また活用できるような知名度や人脈があった訳もなかったからなのかあえなくお祈り攻勢にあうようになった。
もっとも同世代のより経営状況の悪い会社に勤めていた友人と比べると質、量(応募数)ともに圧倒的に少なく客観的に見ても転職の本気度が疑われるような有様で、その姿勢が採用担当者に見透かされていたのかもしれない。
転職活動の失敗と並行して仕事と勉強会関連の活動という二足のわらじに近い活動は肉体、精神の健康を蝕んでいった。
精神的な転機は職場の同期や友人の結婚、出産、親世代の訃報であった。アラサーのライフイベントを避け続けて仕事と勉学に取り組み続けることが精神的に不可能になり、元々あった不眠、鬱傾向に拍車がかかり、休職一歩手前の段階にまで悪化していってしまった。そもそもの自分の活動の契機であった電機業界のリストラに伴う人材流動化がもたらした環境の変化が社内に及びそれもまたストレスの原因となった。
恋愛関係やサークル活動などの濃密な人間関係の経験やストレス解消法が乏しかったこと(いわゆる非リア)が精神的健康の維持を妨げていたようにも思えるが、そうでもない人もいるので一概には言えない。元々の体質も影響しているかもしれない。強いて言えばストレス耐性の不足によるものだろうか。
体調の悪化や周囲の同年代のライフスタイルの変化が勉強会を中心とした活動への力を失わせ、また社内における信頼も完全に失われてしまった。
仕事での信頼、そして同期との業界知識経験の格差を取り戻すのはほぼ不可能に近く、次の景気後退、経営悪化ではリストラ対象になることはほぼ間違いない。だが生活の維持のためには地道な作業の繰り返し=労働が必須であること、自分はすでに新技術の習得でボーナスがもらえるような年ではない普通以下のおっさんになってしまったこと自覚できたことがわずかな収穫かもしれない。
高橋はるみ。経産省官僚から知事選に出馬し当選。4期目になる。女性知事としては5番目の人(確か)。
選挙の無い戦前の道庁長官は官僚がなってたわけだが、この高橋はるみもまた公選だったとはいえ北海道にゆかりの無い経産省官僚から知事になった人物であり、道政の伝統ともいえる人材である。途中病気もありながらもこのたび知事4期目に入る。
っているのはまぁわかるんだが、高橋はるみがなんでこんなに長期政権を築いているのか。
その一端には確実に「かわいい」ってのがある。
北海道の夜。酒を飲んでるとどこからともなく「俺ははるみちゃんのために頑張らんとならん」的な話が耳に入る。
公務員か否か、道の人間であるか否かを問わず「はるみちゃん」を応援したいおじさまが結構居る。
なんとなく「はるみちゃん」と呼びたくなる、そんな魅力がある。CMとかでの動きが「かわいい」のだ。
本人はどこまでこれを自覚的に武器にしているのかはわからないが、
http://anond.hatelabo.jp/20150410101845
エウリアンにはついて行くな
秋葉原などの繁華街で絵葉書を無料で配っているお姉さんたちがいる。
しかし、ついうっかりお姉さんから絵葉書をもらってはいけない。
言葉巧みに画廊へと連行されて、気が付くと大して価値もない絵(というか版画)を、何十万ものローンを組まされて買う羽目になる(絵画商法)。
エウリアンにも新社会人にも全く興味はないんだけど、版画への冒涜は許さん。
君が代に過剰反応する左翼のように、どんな文脈だろうと、どんな事情があろうと、版画をdisられるとプッツんしてしまう。
エウリアンの売る版画というものがどんなものか知らないけれど、これだけは言える。
生でみなければ、版画の魅力はわからない。
否、
触ってみなければ魅力はわからない!
断言するけど、江戸時代の浮世絵から最近の現代作品に至るまでの伝統木版画、これを見たことがある日本人はほとんどいない。
そんなものは、世界の車窓からのDVDをみて海外旅行に言ったと言ってるようなもの。
和紙の質感!どんなに拡大しても粒子が見えてこない無断階のグラデーション!摺りによって出来た凹凸!
まず、床や机において窓から差し込む斜めからの光のもとでみて堪能。
テレビ番組の映像や、窓から差し込む車のヘッドライトが絵の面を瞬間的に照らした瞬間も美しい。
入ってくる光の方向、光の種類によって、表情が変わる。
そして、やっぱり手に持って鑑賞だ。
パンツが見えそうで見えないグラビアを、下から覗いてみえないはずのパンツを見ようとする、アレを浮世絵でやるとすごい。
ちょっとだけ見える。見えないはずのところが本当に見えてくる。
目の錯覚でしかありえないんだけど、紙のたわみと、光の加減で、ときどき本当にみえてくる。
うわぁぁんってなる。
ぶっちゃけ、浮世絵美術館、あんな一般展示なんかやめてしまえ!!
額やショーケース越しでしか見れないなら、触れないんなら、カラーコピーで十分だろ!
額装やショーケースに入れる職員の目しか楽しませられないなんて、時間も無駄!文化財の無駄!
触らせないんなら燃やしてしまえ!
よさが微塵も伝わらないのに飾ってみせる価値が有るのか?
1億円と書かれた小切手を飾って見てるようなもんだろ。
医学とか物理学とかは、100年前と今では大きく違うけど、絵は、たいした進歩してないだろ?
ぶっちゃけ、1万5000年前のラスコーの壁画と、そのへんの美大生の絵のどっちが上手いかって言ったら、芸術とかよくわからん俺にはどっちが上かわからん。
でもね、印刷という技術を手に入れた、触れることが出来る!その素晴らしさ!
俺ね、江戸時代の浮世絵の価値は認めるよ、でもさ、浮世絵のいいところって、ライブ感なわけ。
絵師が描く、描いた絵は板に貼り付けられて、その上から刀を入れられて紙ごと彫られてゴミとなってしまう。
絵師の絵を活かすも殺すも彫師次第。
それから、色の指定があって、色の数だけまた彫りがあって、そんで摺師が摺って、試しに作ったものに対して、あーでもないこーでもないっていうディスカッションがチーム内でされたわけ。
色の調節をして、時に柄を変えて、セッションによって出来上がる。
売りだしたあとの、町の人々の評判さえも取り込んで、みんなが主役のライブだったわけ。
俺、音楽はよくわかんないけど、たとえしょぼいバンドの小さなライブハウスでのライブでも、有名フィルの録音にも負けない感動があるでしょう?
一番有名どころだと、北斎あたりだと思うけどね、もうね、ヤバいの。
元々が天才でしかも努力もしまくったらこうなるってやつ。努力ってのが普通の努力ってんじゃないの。
だいたいにおいて、他派の画法を学んで破門されたあたりからだけど、もう何でもあり。
大和絵も漢画も銅版画も油絵も、手段を選ばず学んでるようで、見りゃ誰でもわかるんだけど、もうホントヤバい。
すべて独学で。本読んで覚えたってより、ひたすら描いて描いて描きまくって吸収したという感じで。
貧乏の理由が、お金を封筒でもらったまま中身の確認もせず、支払いの時には「その封筒からもってけ」くらいに無頓着だったからという馬鹿。
掃除をすれば、「ここにあった蜘蛛の巣どこ行った?(描きたかったのに)」くらいの馬鹿。
誰よりも自信家で、本が売れたのは俺の挿絵が良かったからだ!と言って作者と喧嘩する傲慢な一方で、猫がうまく描けないっていう理由で80歳で悔し泣きをする馬鹿。
30回画号を変えるってのがもうよくわからん。たとえば漫画家が30回名前を変えてデビューするとかないだろ。売れっ子が新人に戻るってことだろ。馬鹿かと。いや馬鹿だよ。
そんな絵中心のわけのわからない生活を、88歳で死ぬまで続けちゃうってのがもうね。
例えば、水木しげるが週刊少年ジャンプで週刊連載をしてて、CG(北斎はコンパスや定規やらも使いこなしてるようで、幾何学や製図も知ってる様子。当然おそらく独学)を使いこなし、ありとあらゆるジャンルを書き分け(春画から、行ったことのない中国の古典小説の挿絵まで)、30回新人デビューとかしてたら、人間じゃないだろと。
で、そんな北斎の線ときたら線の始まりから終わりまで、この線以外じゃダメっていうカンペキ。筆の入り、筆の終わり、太さ細さ、もうすごい。線が凄いってわかるってことは、彫師が凄い。フリーハンドじゃアリエナイような精密で、コンパスや定規ではありえないような強弱があり、油絵なら何度でも塗れるだろうし鉛筆なら何度も消せるし、CGなら何度でも書き直せるけど、最小限の輪郭線で森羅万象を切り取ってる。
写真を目指してたんじゃないだろうか。
写真というものがなかったので、目指してたというのは変な話だけど、露光時間調節やピントズレに近い表現があって、写真を目指し、写真を超えたなにか他のステージに足を踏み入れようとしてた、ように思う。写真なんかなかった時代に。
で、それがわかるっていうのは、彫師がすげぇ。
摺師がすげぇ。
俺がこの数ヶ月で買い集めた70枚ほどのほとんどは復刻だけどさ、復刻もまたライブなんだよ。
摺る工程を見せてもらったわけ。
濃い絵の具を数種類用意するだけで、都度混ぜて薄めて版木に塗り、摺る。
なんということだと思わないか?同じものをたくさん作るなら、同じ濃度に調節したプレミックスを作っておくべきだろう?
絵師と彫師と摺師だけじゃないの。
版木を作る職人、紙を漉く職人、紙にドーサを塗る職人、絵の具を作る職人、バレンを作る職人、数えきれない職人たちのライブが木版画。
だから響いてくる!
で、ライブが存続するためには、絶えず誰かが買わないとダメなわけ。
材木から板を作る職人は消えちまったそうだよ。ただ板を平らにするだけじゃダメらしい。
バレンを作る職人も消えかけらしい。
だからさ、エウリアンが木版画を扱ってるかどうかはしらんけど、なりふり構わず売るということは少し理解できる。
俺だって、1ファンとして、こんな見苦しく匿名掲示板で見苦しく宣伝してるけどさ、どうせ中の人だろ、ステマうぜえって思われてるんだろうけど。
日本中の浮世絵美術館が燃えることより、職人がいなくなることのほうが損失はずっとずっとずっとデカいんだよ!
復刻浮世絵なんて一万円そこそこで買えるんだよ!
数万円となった山桜の版木を何枚も使うわけだし、キャリア何十年の職人が一月かけて彫るだけで、いくらの人件費だ?
キャリア何十年の摺りの職人が、今では手に入らない材料で自作した絵の具で、人間国宝が作った紙に摺る。
一枚200枚やそこらは売れないと滅びるだろ。
お願いだから買ってやってくれよ。
俺がビルゲイツだったら、もっと買ってやれるんだけど、安月給なサラリーマンじゃこれが限界なんだよ。
財布に入ってる1万円札、あれに1万円の価値があるのか?あんな小さな銅版画にわくわくするか?
せっかくだから文句を言いたい。
千円札の富士山わからんでもない。写真を銅版画にするなら許せる。
5千円札、2千円札、屏風絵を銅版画にするとか、絵巻物を銅版画にするとか馬鹿なの?オマージュにしたって、もうちょっと工夫しろよ。
100万円札を和紙で作れ!木版画で作れ!一枚一枚違う味があって味があるだろ!
偽造されてしまう?
偽造けっこう!本物と見紛うような彫りと摺りの技術が世界中に溢れれば、日本銀行の信用がどうなろうと、人類の幸福の絶対量は増加する!
木版画紙幣の発行は無理でも、一つの可能性として、造幣局で木版技術に関わる職人を世話してやってはくれないだろうか。
造幣局に一人くらい、材木から板を作る職人がいたり、絵の具を調合する職人がいたっていいだろう?
多少脱線しましたが、そういうわけで、ちょっとだけエウリアンを擁護してみました。
終わり。
考えてみればライブって凄いよな、芸術家って、基本的に俺が俺がじゃないか。
当然だけど、絵も彫りも摺りも極めることなんか出来ない。
それが、分業制、買う客の声も含めて、一人一人が主人公、思いがけない方向に転ぶ面白さ。
今でも、現代作家が版画にするために専門業者に頼んだりはするけれど、基本は作家の意思が優先で、作家の作品という域を出ない。
やはり、売れないことには、ちまたに溢れないことには、あれがいいこれがいいと話題の中心が木版画にならないことには、木版画に未来はない。
音楽としてどうかはわからないけど、AKBの会いにいけるアイドルという路線は、一つ評価したい。
あれが、理想の姿。
巷に日々木版画が溢れ、あれがいいこれがいいと、皆が好きに意見を言う。
町の人々の意見を取り入れ、流行の先端を走り、絵師や彫師摺師が腕を振るう。
たまらんじゃあないか。
そもそも歴史修正主義という言葉はもともとは歴史学において、歴史を叙述し直すことを主眼とした、歴史学における試みの一つを表す。
一般には、伝統的な歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいう。
つまりただ単純に新たな資料から考えなおしてみることを指しておりそこにイデオロギー的な意味等は含まれていない。
有名なものとしては以下の様な物が歴史修正主義の立場から新たな観点として持ち込まれた。
鎌倉時代の始まりについてはニュース記事などになっていたりするので知っている方も多いと思う。
いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府という覚え方をした方が多いと思うが現在では1185年の成立説が優勢になっており
中学や高校教育での教科書などでも1185年に改定されている場合が多い。(らしい
というように主に歴史学において使われる言葉ということになる。
ホロコーストは存在していなかったという言説を声高に掲げる勢力が台頭してきた際に、彼らは自らのことを「歴史修正主義者」と名乗った。
つまり、正しく歴史を認識しているのは我々であり正しい形に修正するというような意味合いで彼らは使ったわけだ。
そしてこれらに反発した人たちが当然出てくる。
そして彼らもまた、ホロコーストのように広く知られた事実を否定する「歴史修正主義者」たちを悪し様に言うようになった。
といったような内容を発言する人もいる。
しかしながら私はこの歴史修正主義という言葉そのものが非常に危険なフレーズだと思っている。
通俗的な意味としてwikipediaには以下の様な意味で記述されている。
ある特定の歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いることがある。
この用法による「歴史修正主義」とは、「客観的な歴史学の成果を無視し、都合の良い過去は誇張や捏造したり、悪い過去は過小評価や抹消したりして、
自らのイデオロギーに従うように過去を修正するもの」であったり、「既に修正された歴史観の再修正をするもの」という意味で使用される。
特定のイデオロギーを持つグループが反対グループに対して使用される。
「慰安婦が存在しない等というのは捏造だ。歴史修正主義者はこれだから」
ただ、現状のイメージとして、左派が慰安婦否定論等を使う右派(ネトウヨ)に対して使っているイメージが非常に強い。
特に安部総理に対して使っている記事やはてなブックマークのコメントでもで散見される。
Twitterなどでの論説を見るとレイシズムなどと歴史修正主義を結びつける人がいたり、非常に安易かつ混同した使い方をする人がいる。
もちろん、慰安婦が存在した資料をしっかり示したり、きちんとした言葉で反論するのであればそれは非常に健全であるし、どんどんして良いことでは有ると思う。
しかしながらこの言葉を安易に使いすぎると非常にまずい状態になってしまう可能性があるのではないかと思うのだ。
特定のグループ内で共有されている歴史的に正しいとして考えられている事と正反対の意見を述べるグループに容易に
歴史修正主義者という非常に「ネガティブ」な意味合いを持つ言葉でレッテルを貼るという行為がもし広まった場合、議論が成立しなくなってしまう。
歴史学は基本的に異なる説がいくつも存在しており、その中で多数派であったりするものが教科書などに採用される。
だが、そこには明確な証拠や、非常に練った方法で歴史を調査・推定しているのだ。
ただ、その場で相手を悪し様に歴史修正主義等と批判したりすることが容易に行われた場合どうなるのか? 当然反対意見がのべづらくなってしまう。
なにせ歴史修正主義という言葉のバックボーンにいつの間にかレイシストという意味がはびこってしまっっており、反対意見を述べたに過ぎないのにレイシスト等と罵られる事と同義になってしまうのだ。
もし、南京事件が存在しないという論が日本国内で多数派になった時どうするのだ?
今度は劣勢になった側が歴史修正主義者、つまりレイシストと言われるようになるのだ。
そうなってしまった場合どんなに資料や証拠を突きつけても覆すことが非常に難しくなる。
「正しくない歴史を主張するものは差別主義者であり、キチガイなのだから当然だろう?」
こんな使い方を考えなしにのべつ幕なしに使っていれば自分の首を締めることにもなりかねないだろう。
もし反対の意見を述べるのであれば安易なレッテル貼りを行うのではなくきっちりと資料や発言等を引用して反論することを強くおすすめする。
便利だからってアホみたいに使っちゃ駄目よ。
以上。