はてなキーワード: 自己顕示とは
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
2022年も終わるし、今年の汚れ今年のうちにということで書く。
先に言っておくと、良かったのはカービィの可愛さとアンコールだけです。
25周年のオケコンとは違う、アップテンポでノリの良い「これぞ星のカービィの音楽フェス!」とテンションMAXで楽しめるフェス
【お出しされたもの】
フェスがしたいのかコンサートがしたいのかメンバーの意見が対立したまま当日を迎えた発表会
【音楽】
ノリノリでペンライト振っているのに突然変拍子入れてくるのは微妙。
フェスで通すなら深く考えずに単純に振れて楽しいアレンジのほうがよかったと思う。
大画面でカービィがぽよぽよ振るのは可愛いけど、あまりにもペンライトが振りづらかったので途中から振らされてる感が強くなってきて正直ペンライト邪魔とまで思った。
カービィでも出さんと何も楽しくないもんな、だから出したんだな、という感じ。
一部の曲目が明らかにフェス向けではなくオーケストラコンサート向けの雰囲気で、コンセプトが一貫してないから結局フェスとしてもコンサートとしても中途半端に感じてしまった。
フェスだのコンサートだの関係なく、曲自体のアレンジはよかっただけにコンセプトのぐだぐだ感がより気になった。
一番ノイズになったのは指揮。
中学校の音楽部の学生指揮者かと思うレベルで動きも面白みもなく、なんで指揮者立てた?とひたすら疑問に感じる完成度。
そもそも今回の演奏スタイルで指揮者立つ必要ある?立つ必要があったとしてもあのクオリティはない。せめてもっと楽しそうにやってくれ。
唯一楽しくていいなあ、と感じたのはアンコールだけだった。あの指揮はとてもよかった。
正直、このアンコールですべて救われた感ある。
【演出】
ペンライトとカービィの映像についてはさっき書いた通り。カービィの可愛さで許されている。
バルコニー後方から眺めた無線制御のペンライトはすごく綺麗だった。
今のディレクターさんは俺が俺がの自己顕示精神強すぎて個人的に苦手だったけど、このフェスの全体的な雰囲気もそれに引っ張られてる気がして、よりいっそう苦手になりました。
カフェでの演奏ムービーも一体何が良くて何が面白かったのかよくわかんなかった。
【演奏以外のこと】
一番高いチケットの席範囲広すぎ。自分は比較的低層のバルコニー席だったけど、もっと高層の奥の方まで全部S席指定でアリーナとの差が激しすぎる気がした。
せめて3~4段階くらい金額の幅設定したれよ……正直このフェスのクオリティで13,000円はカービィでもさすがにぼったくり。
これはイベント運営会社の問題だけど、誘導スタッフの一部の行動が微妙。
会場周辺のデジタルサイネージに映るフェスの告知を撮ろうとして十数人が通路を塞いでいおり、スタッフが常に「通路を塞がないでください!」を声をかけてたんだけど、
それでも動かない人に対してかなり接近していって「ねえ、今言ったこと聞こえてますかね!?塞がないでください!ふ・さ・が・な・い・で・く・だ・さ・い!!!!」と喧嘩腰で注意していたのはちょっと驚いた。
そもそも通路を塞いで動かないファンが一番悪いのは当然なんだけど、あの注意の仕方はトラブルのもとになるのでは…と見かけたときにヒヤッとした。
会場内に入ったら今度はエスカレーターの二列乗りをイライラ叫ぶスタッフもおるし、なんか全体的に物騒な雰囲気のスタッフが目立った気がする。
あと演奏中に自分が座ってた席の近くで急病人が出て周辺が一瞬慌ただしくなったんだけど、スタッフっぽい人が一切来なくて扉の近くに座っていたお客さんが介抱したり扉開けて介助したりしてて、
こういう時ってスタッフ来ないもんなんだな…と思った。
ネットで見る限りは大絶賛の声しかなかったので、こう感じた人も現場にはいたんですよ…という声も投げておこうと思った。チキンなのでここでしか書けなかったけどね。
いやああいうところにいるのが中高生とか大学生だってのはわかってるんだ。お子様が痛い発言してても、それはお子様の特権みたいなもんだからばんばんしていいしするべきとは基本的には思ってるんだけども。
……という前提があります。
匿名ラジオを好きでよく聴いているんだけど、YouTube版のコメント欄を見ると、痛いコメントが割と並んでて鳥肌が立っちゃうという話。
たとえば「#31」では女子高生がテーマになっていて、コメント欄には女子高生を名乗るコメントがある。それ自体は、まあそういうわざわざ所属を書く自己顕示って中高生はやるよなあと思っていたんだけども、「女子高生で匿ラを聴くのはセンスがいい」という旨のコメントがぶら下がっていた。これを見てすごく鳥肌が立ってしまう。
それだけでなく、どうもリスナーの一部には「匿名ラジオ(ないしオモコロも?)はインターネットの深部」という意識がありそうで、それってグロサイト表示して「Welcome to underground…」ってやつと一緒じゃん!ゼロ年代の反復!!
いまどきインターネットなんて無限コンテンツ生成機で、いわゆるダークウェブなんていかなくても謎コンテンツが死ぬほどあるのに、数時間で数万回再生されるネットラジオが「ディープなインターネット」って意識なのか?新宿で映画行くときTOHOシネマズじゃなくて武蔵野館に行くからドヤ顔してるくらいの痛さだ。でも中学生ってそういうことだもんな。再生数数百以下の動画をディグってから言ってくれ〜。
「性格が悪い」と言われる匿名ラジオはインターネットで見がちな痛い行動(Twitterの無断転載画像リプで喜んでるひとたちとか)を揶揄するのがひとつの芸風だと思うのだけど、ついに最近の回で「大声で泣いちゃった」を揶揄してて笑った。だってそれって匿ラとかオモコロchのコメント欄でも見るやつだもんな。「でかい”聲”出た」とかね。
そもそも万バズほぼ確のARuFaが発信してるコンテンツはかなり浅めのインターネットなような……?
かなり前に久川凪のなりきりアカウントがインターネットのユーモアを「オモコロ的」「ギークハウス的」「小林銅蟲的」と分類していて、なんて性格が悪いんだと震えたことがあった。オモコロはそのなかでも比較的上の層にいると思う。別に深けりゃいいってもんじゃなくて、なんとなくユーザーの「うちらはインターネットカルチャーにどっぷりです」みたいな身振りがあいたた!ってだけなんですけどね……。
オモコロchでホワイトすき焼きをやっていたとき、私が想起したのはデイリーポータルZのYouTubeチャンネルであるプープーTVで大北栄人が何年も前にやっていた「すき焼きに砂糖入れるの躊躇しな男」だった。でも勿論そんな類似への言及はほぼされておらず、悲しくなった。再生回数は何十分の1だし……。
なんか古参アピになってしまったが、でもやっぱりあの感じで「ふふん、これが””インターネット””なんだぜ」とやられるのがあいたたた!となるのだろう。
だってきっとそのひとたちは10数年前だとしたら「速読王山口」とかを見つけるひとというよりは、ドラえもんのグロアニメとか見て爆笑してる層だろうから。
(年収270万で)プログラマーを引退して、医学部にきた俺が真面目に考えてやろう。
真面目に読んでいて、ちょっと気になる箇所がある。たとえば PostgreSQL を postgre とか書くヤツは現場では嫌われるぞ。少なくとも postgres と書いてくれ。お里が知れるぞ。
消えていくエンジニアの特徴だけど、叱責されたり馬鹿にされるのが嫌で VCS にコミットしないヤツ、または貪欲にコードレビューをされるのが嫌がるやつは、成長しない。
この業界は数年前には『デジタル土方』と揶揄される業界でした。ちなみに、アメリカでも「テック系はハードだから避ける」という雰囲気でした。つまり何をいいたいのかというと、ソフトウェアの開発者っていうのは「泥臭い領域」なんだよ。エリートとは程遠い場所にあるというね。
いやぁ、是非とも楽天で働くべきだよ。どうせ野村総合研究所とか NTT DATA なんて無理だと思うから。
うん、ココはまずい。基本的にフロントエンドなんて給料が安いのよ。だって、誰にやらせてもデータベースにクソなDCLを飛ばせないから。逆に、データベースを触れることができるプログラマーはリスクと責任が大きいから、給料が高いのだよ。B4 になってもそれが理解できていないようだと、この先くらいよ。
君はソフトウェア・エンジニアになりたいのだろ?世の中は分業で成り立っているのだから、全部やろうとするやつはアホだよ。
インターン生はお客さんなの。君のスキルが通用したのはすごいと思うけど、同じ感覚で仕事はできないから注意しときなよ。
なに言ってるの?そんなことは言い訳にならんよ。プログラマーになりたいのだろ?勉強をしろよ。
逆にいうと、あなたがインターンとして週3で20万円貰えていたのは、参入障壁が少ないからでしょ?強強エンジニアが生き残っているのは、それだけすごいということだよ。
いやぁ、違うと思うよ。その問題が「難しい」なら切り分けて、上に「ココが自分の能力では解決できないです」と持っていくだけなんだからさ。CS じゃないのだったら、仕事をするまで「扱わないまま」なんだよ?しかも、土日に勉強する気もないとなったらいつするのさ?
諦めなよ。ソフトウェアというものが「変化できることに価値がある」ものだから。変化する業界はストレスフルだけど、立身出世する可能性が高いでしょ?安寧なばしょではないの。
いやー、CSでない博士課程に行って、雇ってくれる企業があるかね?無いと思うけどな。
この時点で、君はコピペしかやってきてないことが理解できる。おそらく QUIC か MQTT あたりだろ?逆にいえば、それが実装できたら他社と差のつけられるプロダクトだったはずだ。つまり会社の利益の源泉であった部分をみすみす実装できないようでは、そこらへんの専門卒以下だぞ。
ムカつくというか、虫酸が走る書き方だ。箇条書きにすると、
プログラミングに年齢はないから。自分は9歳ではじめたけどね。
あー、俺も天才が高校のときにいて、マーチの情報工学と旧帝の院の学費を会社持ちという驚異的なやつがいたよ。今もブログ見てると、Android と iPhone のアプリを書いているみたいで、元気そう。
それを上手にコントロールできるプログラマは世界中にもほとんどいねぇ。むしろ、月20万でやるもんならギルドから苦情が来るぞ。オレもアビームの人に給料を答えたら、「こんなヤクザな会社はやめろ」と耳うちされたよ。
人より良い経験をしたいという願望はあるのは素晴らしいと思うよ。しかしながら、君が到達したノウハウは他人にもできることだからね。ワン・オブ・ゼムになりたくないなら、努力し続けることだな。勉強をするのをやめたら、数年で中卒に負ける世界だからな。覚悟しとけよ。
P.S. 医学部に来たのは家庭の都合だよ。それに、自己顕示しないと「場末のコーダー」で読んでもくれないだろ?年収については、自分も低いと思うよ。なぜ低かったかというと、都内私立大学多浪中退の自分にはベンチャーの皮を被った助成金搾取がメインの反社会的勢力のフロント(ベンチャー)企業ぐらいしか相手にしてくれなかったからだよ。そこの会社は外国帰りの MDMA をキメて、未成年の子女に手を出しては警察沙汰スレスレのことをしているキチガイが社長をやっていて、人工知能を作ろうと学生インターンを酷使している会社だったのだけど、「サイバーエージェントに紹介する」という嘘にひっかかって、特定派遣事業の免許がないのに客先常駐させられ、土曜は帰社日、日曜は社長の Python の勉強会に参加させられる、というブラック会社にいてピンはね率(60%)となると、まともに考えることもできず働くアリになってしまってたからだよ。
P.S. ② 年収については、初日から派遣先の会社に引き抜きのオファーをもらって、2ヶ月後に新しい会社に移動したけど、300万だったので CodeIQ というサイトで転職をする準備をしていたよ。たしか、DMM とかサイバーエージェントの面接にいこうとしてたような記憶。その後で家庭の都合で、医学部に来たけど。
P.S. ③ 医学部医学科の6年生だよー。みんなが嫌いな私立医学部だけどね。ちなみに、俺もこの大学が嫌いだ。
P.S. ④「GraphQLをわざわざ書くのは理解できるけどな。」そうだとすると、REST や SOAP も書かないとまずくない?書くのだったら「Rails と Next のデータ受け渡しにGraphQLを使った経験が」という感じだと良いと思うけど。
P.S. ⑤「野村総研とデータを挙げるあたりSI寄りの仕事してたのかな。 」ちゃうねん。オレっちは多浪したからさ、そこのエントリーシートをかけなかったのよね。まぁまぁ大学が名門でさぁ、OB が誘ってくれるけど、年齢で弾かれて辛かったねん。
P.S. ⑥「ダウト。学費をどうやって稼いだんや 」えぇ、親の金です。だから家庭の都合でと書いてるじゃろ。
P.S. ⑦「本当に医学生ならここ数年の技術についてこの指摘ができる程詳しいわけないし少なくとも10年位は業界にいないとこういう感覚は身に付かない。 」たしかにおかしいよな。Kubernetes や Terraform を弄って、CI は GitHub Actions、CD には AWS CodeDeploy を使って、ブログは Jekyll で静的サイトジェネレータを使いつつ、自前のサービスを立ち上げるために Rails, Next, React, PostgreSQL, Redis, Kafka, Elasticsearch, S3 の勉強をしつつ、スマホ環境のために Kotlin と Swift を触れているなんて変だよな。そういえば、Docker が来るまでは Vagrant で環境をつくっていたのも忘れてたよ。あと Rust を今年に学ぶ言語にするなんて、受験生にあるまじき行為だよな。うん。
P.S. ⑧ 年収については、基本給が 22万で、残業が200時間超えたらプラスだった気がする。あと、反社ベンチャーは「ポートフォリオの作成にまる一ヶ月間で拘束された、しかも無給で」という時点でヤバいのだけど、その会社にコミットしたのは「サイバーエージェントに紹介する」ということだけであって、同時期に DMM も面接に行けそうだったのよね。馬鹿なことをした。
P.S. ⑨「特にフロントエンドを見下す感じとか」オレ自身はフロントエンド出なんだよ。何を隠そう、Adobe Flash のゲームをつくっていたから。それでもって言うよ、バックエンドが一番大切だと。
P.S. ⑪「5~10年前に人売りに捕まった話とするなら、年収270万も現実味を帯びる。」特定派遣は消えてくれてよかったよ。俺のところは特定派遣すら未登録だったけど。
P.S. ⑫「いい医者になるのだよ 」うん、頑張る。「オッサン」「社会不適合者」「あるき方がキモい」「プログラミングwww」「同じ班になりたくない」「親も頭が悪い」「生きてて恥ずかしくないの?」とか言われてるけど、頑張る!
P.S. ⑬ 「フロントエンド別に給与低くないよ。」えっ、そうなの?WebDesigning を読む限りだと、400万もいかないイメージだけど。
P.S「医学部6年でまだプログラムに興味あるの不思議。」好きなんだよ、言わせるな///
P.S. 「フルタイムじゃないのでしょ?」いいえ、東京都内でフルタイム(ひどいときで、朝7から夜24)でしたよ。入った会社が「法律よりも、派遣先の評価」という会社だったからね。
P.S. サイバーエージェントさん、ときどき御社の社名を使って「弊社に恩を売ると、サイバーエージェントに紹介する」というベンチャーが跋扈しているので、どうにかしてください。わたくし、1ヶ月間もその嘘で jQuery と Django を回収させられた挙げ句、月給 2000円だったのですけど。本当に千円札2枚だったのですけど。ついでに、Android(Java) と iPhone(Objective-C)と jQuery を使ったフロントエンドシステムに、バックエンドに Rails + Postgresql のシステムで、AWS を介したサービスを作らされたのも「サイバーエージェントに紹介する」と言われたからなんですけど。いったい、何なんですか?お前ん所は、コンプライアンスどうなってんじゃ。
P.S. 「好きそうだし医学部卒業してシレッとgoogle行ったれ 」無理っすよ。オレのスキルじゃ。
P.S. 「病院は」親がクリニックを持っていたけど、潰したよ。クリニックは人に患者がついていて、アルバイトを充てがっても患者さんが不幸になっていくのをみちゃったからね。自分は責任を持って患者さんを見たいから、バイトなんて使わないよ。
P.S. 自分はコードを書きたいタイプだったから、SIer みたいな UML とか書いて下請けにコードさせるみたいなのは絶対に嫌だったのよね。だから SIer にはならなかったよ。やっぱり、現実にある計算機が解決できる問題を、より直接的に触れて解決したいと思っているから。仕事がハードでも全く問題なし。
P.S. FPGA すごいよね。ザイリンクスとアルテラが Intel と AMD に買収されて、すごいと思ったよ。2010年頃だっけ?、CPU の限界を FPGA で突破しようという話があったけど。手を出そうと思ったけど、高性能なチップが 100万ぐらいして挫折した記憶があるよ。
P.S. 「東海大の医学部・学士」は自分は大学を卒業してないから無理でした。あと、それ以上の詮索はやめてくれ...
P.S. 「MySQLそんなに嫌いなのか。」そんなこと書いたつもりはないが、あれ?確かに MySQL は PostgreSQL より嫌いたけど、それは Oracle が親元だったり、Unicode の扱いがファッキンだったり、ストレージエンジンが切り替わるときにカオスな目にあったけどさ、MySQL は好きだよ。お世話になったし。
P.S. 給料については契約後に言われたのよ。というか、もともとは「サイバーエージェントに紹介」するという理由で、ポートフォリオの作成や Django の改修を手伝ったつもりで、入社とかする気は全く無かったのよ。それが、いきなり他所の会社に面接を受けさせられて「君は明日からXXで働くから、履歴書を書いてね」と言われて、抗議したら「俺に恥ずかしい思いをさせるのか!業界に入れなくするぞ!」と大声でシャウトされて、気がついたらあっちが用意した履歴書に拇印してしまったのよね。有料職業紹介と派遣登録をしてない会社だったから、そんなかとはできないはずなんだけどね。ホームページには「年収550万」と書いてあったけど、実際はまったく違ったのだけどね。
P.S.「うーん、いらないかな。IT土方としての仕事しかないと思う。」だよな。おとなしく医者になるよ。ありがとう。
P.S. Elasticsearch は全文検索機能がほしいからやってるよ。Redis はインメモリなセッションストアとして使いたいのよ。Kafka はさ、twitter のファボをじっそうしたいけど、RDB の書き込み速度が上がらないから利用したいの。TensorFlow は全く理解できてないよ。それは、指摘されたとおり。
逆に聞くけど、以下の知識があったらどれぐらいもらえるわけ?東京23区で。
なんであそこまで自己顕示したがるんだろうなー
自分で何か目標を見つけて、それに向かって努力して成長していける人は素晴らしいと思う。
その反面、意識が高い自分に酔って伊達に生きているだけの「意識高い系」の人間が死ぬほど嫌いだ。
高専で学生やってた頃にそんな人種が湧いていて辟易していたが、新卒で就職した会社の同期にもいて生理的に無理って感じになってしまった。
幸い今は身の回りにそんな人種がいない環境に来れたので平穏に暮らせているが、たまに思い出すだけで不愉快な気分になるので、ここで愚痴っておこうと思う。
それで次第にバカバカしくなって、忘れていけることを期待して。
=====
影響力がある人にやたらと引っ付いてくる。まさに金魚の糞。
同期で3人座っていたデスクで、目の前でリーダー的存在のAと腰巾着のBが延々と話しながら一緒に仕事してる中、自分だけ仕事も与えられずに自習させられてた地獄の期間が何ヶ月も続いて、毎日が惨めだった。仕方なく電話対応とか来客対応とかしようと頑張ってたけど、張り合うようにその仕事すらもBに取られていった。
結局、仲間外れのような状態のまま自分だけ配属され離れ離れになった。しばらく経ってAが久しぶりに同期で集まろうみたいな話をしてくれたけど、Bが自分の都合で一ヵ月も予定を引き延ばしてきて腹立たしくなって自分だけドタキャンしてしまった。
その後、一年くらい同期のLINEグループで相も変わらずAが発言するたびにBがすぐさま乗っかってくるような状況が続いて、次第に気持ちが死んでいき精神衛生を守るためにグループを抜けた。Slackも自分がチャンネル作ったのに自分で抜けた。
Aのことは憧れの存在として思ってたから、その分Bが占有するようになって、もう関わりたくもない人々に変わってしまったのが堪らなく悔しかった。
向こうからは「なんか知らないけど自滅した」とか「邪魔者が消えてよかった」としか思われてないんだろうな、きっと。その上、人を除け者にしてまで学生気分続けてきたくせに、意識高いマウントはしっかり取ってくるのな。自分本位すぎて笑っちゃうわ。
学生の時も似たような経験があって、その時は寮だったからさらに地獄だった。
いつも取り巻きみたいなのが大勢くっついていて、見ていて気持ち悪かった。生きてて恥ずかしくならなかったのかな。
意識高い系は、その薄っぺらさ故にカリスマ性など持ち合わせていないので、結局、腰巾着に徹するしかないんだろう。
にわかオタク以下のつまらない話しかできないから、便乗するしかできない。
その癖、自分が一番かであるように偉そうに振る舞うので、図々しいとしか言いようがない。
腰巾着の分際で「他にも友達たくさんいますから(笑)」とアピールしてくるのが、さらにムカつくポイント。
こちらが腰巾着が湧いたコミュニティから離れようとすると、追いかけるようにして自分が逃げた先のコミュニティに絡みに行く。
うざいったらありゃしない。自分が嫌われている自覚はあるんだろうか。
うちの母校(というかほとんどの高専で)は定期試験の過去問を先輩達からもらって試験対策するような文化があり、意識高い系の人間はその広い人脈(笑)を使って先輩方から過去問を回収して回り、それを自分を支持してくれる人に回して人権を得る。
酷いときは、この科目はちゃんと授業受けなくていいみたいな風潮をこいつらが蔓延させていたこともあった。
真面目に授業を受けて一人で勉強してると、学校生活がバカバカしくて仕方がなくなっていった。
意識高い系は多趣味(笑)アピールも酷くて、何個も部活動を掛け持ちしてくる。
当然、自分が所属していた部活にも意識高い系が湧いてきて居場所がなくなっていく気がした。
人を引っ張って行くような事はしたがらないくせに、やたらと人目に付くところに出て行きたがる。
これによる実害が自衛ができないこと。名前を見るだけで悪寒が走るので、ネットだったら即ミュートしてる。
同期の意識高い系は、会社Slackの全員が見えるチャンネルでほとんどの投稿にリアクションを残している。イントラの残業超過リストに出てきたときは、名前載せるために残業してるのかとさえ思った。存在を忘れたいので、Chrome拡張作って除名するようにしたら幾分かスッキリした。
誰も聞きたくないような自慢話を、周囲に聞こえるような音量で延々と話す。キーボードの音が異様にうるさい。ここら辺はネットでよく聞く意識高い系と同じ。
意識外に置ければ自分とは関係の無い存在として割り切れるのに、度々自己主張してくる。忘れたころに顔を出してくる。もうたくさんだ。
何かと事あるごとに張り合ってくる。本当に他人と張り合うことしか頭にない感じ。
大体、同調圧力の諸悪の根源となっていたのが意識高い系だった気がする。
何か自分の好きな事について話してても、それに対する知識マウントしかしてこない。「ニッチな俺、カッコイイ(笑)」ってか。
自分の好きな事でも、マウント取りの道具にされると一気に冷めてしまう。好きな事にのめり込もうと思っても、マウンティング野郎の顔が浮かんで嫌になってしまうのが苦しかった。
「〇〇は暗記しないとダサい」「〇〇は反則」「〇〇してる方が偉い」みたいに。
ネットで謎校則がたまに話題になるけど、意識高い系の連中は我々を「自分で何が正しいことかも考えられない、言葉で服従させられる小中学生以下の人間」だとでも思っているのだろうか。
それと、うざいほど他人の真似をしてくる。自分磨きのためだったらいいけど、明らかにマウント取りのためなのでいい迷惑でしかない。
自分が何か成し遂げて褒められると、それを多人数で集まって同じ事をして張り合ってくる。
コンテストとか大会とか、何か目標を持って真剣に取り組んでる人は素直に格好いいとは思う。でも意識高い系の連中は、必要以上に群れて馴れ合いと自己顕示を目的としているので最高にダサい。
若干自意識過剰だが、こっちが好きで一人で努力してやり遂げたことをゴミ以下の馴れ合いでこなして「ハイ、俺の勝ち~~(笑)」と虚仮にされているようで、プライドをズタズタにされるような悔しさを感じた。
昔いじめられたりした時よりも、意識高い系が存在している空間にいる時の方がよっぽど居たたまれない気持ちになった。
端から見たら勝手に逆恨みしているだけかもしれないけど、生きているだけで惨めだった時期もあった。
意識高い系は、そのまま意識たかいたかーいして他界してくれればいいのになと思う。
なんかもう誰とも比べられたくないし比べてしまいたくないし、自分らしく生きられるようになりたい。
なんだかんだで今はもう身の回りに意識高い系はいないし、今後は対等な関係でいられるような人間関係が築けるといいなと思うけど、これもなかなか難しい。少なくとも、他人を自分の思い通りにさせないと気が済まない人間とはしばらく距離を置きたい。
ここまで書いたけど、別に被害者面で誰かを否定する意図は無く、自分が感じた嫌悪感を書き連ねただけ。
見返すとあまりに支離滅裂な文章だし、読み手には書いた奴に問題があるんじゃないかと思われるのも重々承知している。
コメントは最初から見る気なかったけど、ふと思い出して確認してみたら思ってたよりは反響が出てしまったようで驚いた。
スルーされるか「キチ○イキタコレww」と大喜びで揶揄されるかとしか思ってなかったから、少しでも共感してくれた人がいたのはすごく嬉しかったし、救われた気持ちになった。ありがとうございます。
非難されるのも、自分の腐った妄執がそれで祓えればいいかなと思う。
詰まるところ「勝ち負けの概念しかなく、他人を無理やり自分の土俵に上げて殴って気持ちよくなってる人」が無理なんだけど、コメント見る限りそういう人はどこにでもいるんだなと諦めるしかなさそう。
この際だから、長文の言い訳とやらを書いてみることにする。こんなことをするのも、もうこれっきりにしたい。
タイトルのせいで釣りみたいになってしまったのは、本当に申し訳ない。造語でもでっち上げようかと思ったけど、「意識高い系」で検索してみて出てきた特徴があながち違ってなかったのでこのままにした。
端からノイローゼ気味な奴の愚痴として書くつもりだったし、それとなく断りを入れておいたつもりだった。「意識高い系」あるあるを期待されていた人はごめんなさい。
まあでもスタバでMac広げている人に対して「死ぬほど嫌い」は通り魔かよって思うし、マルチ商法で人生壊されたとか期待されていたのだろうか。そっちの実態はよくわからない。
ただ、過去のことなのにずっと頭の中でもやもやしてしまっていることを書き出して、自分の問題と環境の問題を切り分けたかった。
憂さ晴らししたいのが滲み出て過剰な表現をしてしまったのは反省している。無意識に他人を見下してる風なことも素直に書いて、それって恥ずかしいことだって思えるようになりたかった。もちろん全文恥ずかしいし、生きてる事自体恥ずかしい。
自分が正義だなんて言うつもりはないし、完全に主観で書いてる。悪口だけにならないようにこう言う書き方になったけど、上手くまとまらなかった。
例えば、人脈が広いっていうのは自分にも真似できない才能なのは認めるけど、こっちから見たら嫌いな奴がどこにでも居て逃げ場が無くなっていい迷惑って話。
何をするにしても張り合って来られると、常に競争させられてるみたいで何一つ楽しくできないし、やがて、自分のやってないことでも自慢されるだけで気疲れしてしまうようになる。
高専の闇的な話も補足すると、過去問回して勉強するのも一つの手段だとしても、仲良くても無力であるべきだと思ってる人には何も渡さずに成績を馬鹿にするだけなのが胸糞悪かったし。授業中に複数人でゲームやり続けてそれが普通みたいになってて、先生が可哀想だった。
ちなみに、自分は意識高い人は嫌いではないけど崇拝もしていないしぶっちゃけ少し苦手。「意識高い系」と「意識高い人」を区別するために、人の方を立てる言い回しをしていた。こういうと、系の方が人外みたいだけど。
できるだけマイペースに生きたかったのに、家庭の影響もあってコンプレックスの塊になってしまって、だからこそ個人的に卑怯なやり方で自尊心を満たしてるのが許せなかったのかもしれない。みんなそれぞれ頑張ってるのに、出し抜くことばっか考えてるんじゃねえよと。コンプレックスの殴り合いなんてもうしたくない。
やたらと他人の粗探ししてきて足引っ張る気満々って奴は、一緒に切磋琢磨する仲間じゃなくて意識高い系マウントマンと断定して距離を取るようにしたい。
腰巾着が湧き出したコミュニティからも離れるようにしたい。長いものに巻かれたいのが人間の性なのかもしれないけど、値踏みされるような人付き合いが嫌だった。
普通に話してても毎回途中で割り込まれて置いてきぼりにされるし、同じ環境にいて仕方なく付き合わなきゃいけなくて、こっちがいくら対等な関係を築こうとしても向こうが差を付けようとしてくるから本当に疲れる。
結局のところ、価値観が合わなかったり裏切ってきて嫌いになったりした人間と、学校や職場という長い時間一緒くたにされて拘束される環境で、執拗に自己主張され続けたらそりゃ精神的に来るよなってことだけなのかもしれない。
思い返すと、最初は全く相手にせずに気にもしなかったけど、どんどん環境が悪化して塵積で追い詰められていってダメになってしまった。
高専入ったときは、中学の荒れていた環境からようやく解放されて自分の好きな事で勉強できるんだって思ってた。でも蓋を開けたら虚栄心の塊が牛耳る環境で、馴染めなくても寮だったから逃げ場もなく過ごすしかなくてつらかった。
社会人になってから、今までの反省も踏まえて今度こそ上手くやろうと頑張って初めは仲良くできたのに、対等な関係を目指して親切にしたら図に乗って裏切られて、仕事の機会すら奪われて悲しかった。
自分が要領よく調子よく立ち回れなかったのが悪かったんだけど、自分勝手な人間が得をする環境ならそこに留まるより距離を取った方がマシだった。だけど、変なプライドと悔しさだけが誰にも話せずに残ってしまって、振り切って前に進むこともできなかった。
外堀を埋められるようなやり方をされてきたから、当時は誰も味方なんかしてくれないと思ってたし、実際マイノリティな悩みだから理解してくれる人も少なかっただろう。世の中、そんな悩みは淘汰されるしかないんだから
自称鬱病みたいに思ってたけど、今でも過敏に嫌悪感を感じてしまうなら、やっぱりちゃんとカウンセリングなり精神科なり行った方がいいのかも。
学生時代に行ってたときは、クソ親が病院の先生に成績が落ちてるから何とかしてほしいみたいなことを吹き込んだのを聞いてから嫌になって行かなくなってしまった。
大人になってから行けばまた何か違うのかもしれないけど、あそこいつもめちゃくちゃ混んでるし、今回試してみて自分の悩みを明確にして話すのもかなり労力がいるということも分かったし、何というか本当に生きるのって大変で辞めたくなる。
https://anond.hatelabo.jp/20210210234834
本当に初心者への教え方ってもんがあろうに。
ここはお前の知識ひけらかしの場じゃねえ!(「え、あの程度でひけらかしとか…」って思うお前がすでにもうダメ)
まずだな。
(1)誰でも聴いたことのあるメロディーを含まれているもの。もしくは非常にノリがいいもの。
(2)できるだけ短いもの。
(3)ジャンルを選ぶ。
こんな感じ。
ポップスしか聴いたことのない奴は、クラシックはとにかく長い・退屈と思ってしまうから、交響曲とかをいきなり勧めてはいかん。勧めても1つの楽章だけだ。組曲も全曲じゃなくて1つの楽曲だけを紹介しろ。
(3)はオーケストラが好きなのか、ピアノが好きなのか、くらいでいいと思う。
オーケストラもしくは弦楽で、聞き覚えのあるメロディがあるものならこんな感じだ。よく入門的なCDやレコードにある奴だけど、そういうふうに導入としてすでに確立されているわけ。
10曲を厳選する。
・パッヘルベル「カノン」(「3つのバイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」)
・ベートーベン「トルコ行進曲」(劇付随音楽「アテネの廃墟」より)
・チャイコフスキー 組曲「くるみ割り人形」(これは全曲どれも有名なのでOK)
・モーツアルト 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(第一楽章だけでも全曲でもOK)
こうやって書くとなんか本当に「初心者向け」っぽくなるが、それでいいんだよ。初心者向けなんだから。自己顕示やめろ。
まあ、それを聴いたら、アレだ。ちょっと難しいのに手を出してみるのもいいな。
曖昧だからこそ残る余韻ってあるじゃないですか。私はそれを楽しみたい。
最近SNSで自己顕示を満たしたいせいかやたらと深読み(多くの場合深読みですらない)したがる人が増えてきてる気がするんですよね。
その行為自体は結構で、エヴァみたいなそれ自体を楽しむアニメならいいと思うんです。
でもそんなの必要ない日常系やアイドル系コンテンツにまでそのスタンスを持ち込むのはどうなんでしょうか。
深読みで済むならまだ良くて、あまつさえ支離滅裂な小っ恥ずかしい妄想まで垂れ流して。
基本的に引用芸は小説ではかなり昔からあって、アメリカ小説で一挙に大量引用されるようになった感じ(間違ってるかもしれん)。一見さんお断り文化の一種で、親切心が足りないので好きじゃない。間口として新規が入っても面白いし、オマージュに気づく素地がある人が見ても楽しいものにしたほうがいい。ただしこうした間口の広いものでも、読者・視聴者間のマウントは発生すると思う。
いずれにせよ、元増田の言うところの引用魔は、各作者に対するリスペクトと同時に自己顕示が感じられるものが多くて良い文化だとは思えない。巻末・巻頭にある「〇〇に捧ぐ」も俺は作家としてここまで大きくなった、という表明にしか見えない。引用芸はメタ表現の一種で、メタ表現自体間口が狭い。
筆者は学生時代に「オタクだから」と嫌われていたので、何故「オタクは嫌われやすいのか」を考えた。以下、全て個人の意見であって、直接嫌ってきていた周囲に聞いたものではないことを記しておく。
オタク仲間と推しの良さを大声で語ったり、わざわざネットスラングやオタク用語を用いて話したり。周囲へのオタクアピールを毎日のようにしていた。
何故オタクアピールをしてしまうのか。それは何らかの形でアイデンティティを示したかったからだと思うし、友達が少なかったことで自己顕示欲や承認欲求が肥大化していたんだと思う。
でもこれは悪影響しかないのは明らかだろう。推し語りを大声でするのはオタク以外の人に「あなたとは趣味が合いませんよ」と表明してることとほぼ同義だからだ。誰も全く趣味嗜好が合わない人に積極的に関わろうとしないのは当たり前だろう。
そして、オタクは異常にコミュニケーションが苦手な割合が多い。授業中に指名されて答えるときはボソボソと小声で言ったり、話したことのないクラスメイトから業務連絡をされたときに「ありがとう」のひとつも言えなかったり。(言わなかったのでなく、言えなかった)
そんな人がいきなり教室で友達と大声で話し出したらどうだろう。正直怖くないか? 話している内容はよく分からないし、そもそもそんな声出たんかい、とドン引きされるかあるいはうるさくてイライラする、いつもみたいにコソコソしてろって思われるだろう。
それから、周囲にオタクアピールすればするほどどんどん苦手意識を持たれていく。そうなると「どうせオタクだから嫌われてるし」と卑屈な考えを持つようになる。そして自分の仲間であるオタク以外と関わりたくないと考えてしまう。自分が思っている以上に、周囲には「ああ、関わりたくないんだろうな」と察されて余計に距離を置かれてしまう。
それは一言で表すならば、「常識的な行動ではないと認識されているから」だ。
人は普通(一部除く)発狂したりしない。例えばTwitterで「ア"ア"ア"推しかわいいア"ア"ア"ア"」「うわああ推しいいいいい!!!!!!」とか言ってる人がいたとする。オタク同士で端から見れば「あーあの人推しに狂ってるよ」と思うかもしれないが、実際は真顔で書いてる人が多数だろう。それから公共の場で「ちょっと待ってえ!!?!?!」などと言ってその場に崩れ落ちたり暴れまわったりする人をオタク以外で見たことあるだろうか。少なくとも筆者にはない。もしTwitterで狂うのではなく実際にこれらの行動を周囲へのアピールなしで行っているのなら、もう少し落ち着きを持った方がよい。
(このTwitterでの発狂ごっこもわざとらしくて個人的には好きではないが)
こういった行動をするのはオタクしかいないのだ。アイドルオタクでも二次元オタクでも。何かしらのオタクしかしない。それが何年も続けられてきた結果オタクにとっては「発狂度合い=オタク度合い」で、一般人にとっては「オタク=キモい」になったのではないか。だからこの「オタクアピール」をやめれば、一部の周囲から「オタクだから」という理由だけで嫌われないのではないか。
それから余談だが、家など周囲に人がいないときはTwitterで発狂してみせて、周囲に人がいるときは突拍子もない動きや大袈裟なリアクションをしてみせるのだろう。それはつまり自分ではない「誰か」へのアピールに過ぎない。Twitterで発狂するのは別に自由だが、周囲の人が不快になるような自己顕示はオタク関係なく控えた方がいいだろう。
以上を簡単にまとめると、嫌われやすい理由は主にこの3つだろう。
・人に話しかけられても攻撃的あるいは友好的でない返しばかりする
・どうせオタクだからと卑屈になり、オタク仲間以外とは関わりたくないと思い、それを相手にも伝わるような振る舞いをしてしまう
そして、過去の自分に出来るならアドバイスをしたかったのは「大きすぎず小さすぎず普通の声量で話す・話しかけられたら丁寧な返答をする、出来なくてもそれを心がける・落ち着いた行動を心がける」というこれ以上ない当たり前のことだ。