はてなキーワード: 有効とは
屋根は西暦2000年前後のノンアスベストコロニアルの破損も目立つ
物置は宙を舞った。なんも誇張もなく宙を舞った。
アンカー工事はある程度有効だった。それでもアンカーが破れた。紙のように破れた。
いろいろおかしい。
主義(ism)の問題ではなく、機構(system)の問題ではないか?
民主主義でない国家ものきなみそのシステム自体が機能不全に陥っているようにしか見えないので、俺は、パッチを当てようが何をしようが近代の「国家」というシステム自体が大量のハック・クラックを受けてそろそろ有効期限切れな(そして更新保証ももう切れてる)のではないかと思ってる。
そうなると、むしろ一見枯れたと思われている技術で作られた「目に見えるシステム」で構築された集団・社会の方が、今後有効なのかもしれんね。地縁血縁とかファミリーとかそういうの。そうして中世に逆戻りか。だが、壊滅的な破局を迎えるよりマシなのか。
PS4のDQ11はしばりプレイも含めてプレイ済みで、DQ11Sの体験版を最後までやりました。
しばりプレイ設定は、「防具なし」以外全部にしました。防具なししばりは、防具装備が必要なクエストがクリアできなくなるため、やりこみスタイルと反するので最初から外してます。
はずかしい呪いしばりにくわえての、レベル上限しばりと敵が強いしばりは、ゲームの性質が少し変わりました
体験版で出会ったバグは、ホムスビ山地でジャンプしながら先制アタックしてたら、先制アタックのカーソルが一切出なくなったこと。一度冒険の書に戻っても同じままで、一度ゲームを終了させたらもとに戻った。
たしか、学生たちのお手本として先生方がポスター発表するとどうなるかみたいな企画での一場面だったと思う。
研究発表だと新規性、有効性、信頼性なんかが必要なので、発表でそれらを網羅しているかちゃんと紙に書いてチェックして、無かったら不足しているところを聞くという話だったと思う。
ただ、夢を持ちすぎるな!!!!!
夢を持ち!!すぎ!!るな!!!!
育毛剤1ヶ月使えばフサフサ~とか、んなわけあるか。あったらハゲはいないわ。
ちゃんとメーカーが指示する通りの用法用量で、最低3ヶ月は使え。
あとは個人差だ。
毎日メールとか手紙で感謝の連絡くるけど、法律の関係で表に出せないんだ。
色んな商品作ってるけど、マジキチの割合がやばい。ほんとにすごい。
夢持ちすぎて1ヶ月使って、詐欺だ!!!!騙された!!!!ってなるやつ多すぎ。うるせーハゲ。
ダイエット系とか美容液なんかの女性向けではそんなこと全然ないのに、ハゲはやたらキレる。
あと、育毛剤とか発毛剤とか色々あるけど、ちゃんと自分で調べろ。
これも法律とか色々めんどくさくて、店とかメーカーは説明できないから。
簡単に言うと、
効果も、値段も、刺激も。
とりあえずキレるな。夢持ちすぎるな。すぐに諦めるな。
他に知りたいことあれば答える、かも。
献血NGなのは飲み薬だけ。塗る方は関係ないから興味あるなら手遅れになる前に使え。
正直なとこパッケージと香料が主な違い。発毛剤とか薬は女性不可のものばかりだけど。
ミノキシジルのがいいのはわかる。
けど、高い。値段もハードルも。あと副作用。1回試してみてもいいけどプライド高いハゲ多いから家でぽちーで買えて安いやつみんな買う。
自分がハゲだと思ったらすでに周りからはとっくにハゲだと思われてるぞ。
朝シャンは禿げない。頭皮汚いハゲ多すぎるから頭洗え。洗いすぎて傷ついてたり感想になってるハゲは洗うな。
維持になる。
禿げる前兆は頭皮が固くて薄い感じがすること。ハゲはみんなそう。
コスパいい発毛剤かー。発毛剤自体日本で作ってるところ少ないから。中身同じだし。リスクあるけどコスパいいのは海外から輸入。
詐欺商品。はい、でたーー。ハゲはすぐそう言う。そんなのないよ。どこも真面目に作ってる。効果ある方が売れるから。効かないのはただの相性。
Wikipedia読んだ。
条約締結以前の1946年、日本政府は日本企業に対して朝鮮人に対する未払い額を供託所に供託するよう指示を行っている。2009年8月現在、日本に供託形態で保管されたままとなっている韓国・朝鮮人への不払い賃金額は、強制動員労務者2億1500万円、軍人・軍属9100万円などで総額3億600万円となっている
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定 - Wikipedia
・第2条が日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」規定
・この協定に基づき、日本は、韓国との正式国交開始と同時に、韓国に対し、合計5億米ドル(無償3億米ドル、有償2億米ドル)及び民間融資3億米ドルの経済協力支援を行った。当時の韓国の国家予算は3.5億米ドル程度、日本の外貨準備額は18億米ドルであった
2009年8月14日、ソウル行政裁判所は、大韓民国外交通商部が裁判所に提出した1965年当時の書面に「日本に動員された被害者(未払い賃金)供託金は請求権協定を通じ、日本から無償で受け取った3億ドルに含まれているとみるべきで、日本政府に請求権を行使するのは難しい」と記述されていることを明らかにした[2][3]。韓国政府は、日韓基本条約締結時からこの付随協定の内容を韓国民に伏せて
2005年の盧武鉉政権から、韓国政府は慰安婦、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題については日韓請求権協定の対象外だったと主張し始めた
韓国の与野党議員27人が、1965年の日韓基本条約が屈辱的であるとして破棄し、同時に日本統治下に被害を受けた個人への賠償などを義務付ける内容の新しい条約を改めて締結するよう求める決議案を韓国国会に提出するとともに、日韓両政府が日韓基本条約締結の過程を外交文書ですべて明らかにした上で韓国政府が日本に謝罪させるよう要求した。
2009年8月14日、ソウル行政裁判所は、大韓民国外交通商部が裁判所に提出した書面に「日本に動員された被害者のための(未払い賃金)供託金は請求権協定を通じ、日本から無償で受け取った3億ドルに含まれているとみるべきで、日本政府に請求権を行使するのは難しい」と記述されていることを明らかにした
韓国政府は元徴用工の対日補償請求はできないと表明していたが、韓国大法院は2012年5月23日、日韓併合時の日本企業による徴用者の賠償請求を初めて認めた。
韓国大法院は「1965年に締結された日韓請求権協定は日本の植民地支配の賠償を請求するための交渉ではないため、日帝が犯した反人道的不法行為に対する個人の損害賠償請求権は依然として有効」とし、「消滅時効が過ぎて賠償責任はないという被告の主張は信義誠実の原則に反して認められない」と主張した。
また、元徴用工が日本で起こした同趣の訴訟で敗訴確定判決が出たことに対しても、「日本の裁判所の判決は植民地支配が合法的だという認識を前提としたもので、強制動員自体を不法と見なす大韓民国憲法の核心的価値と正面から衝突するため、その効力を承認することはできない」と主張した
韓国の下級裁判所では元徴用工と元徴用工の遺族が日本企業3社(新日鉄住金、三菱重工業、不二越)に損害賠償を求める裁判を相次いで起こしている。
2015年12月24日現在、確認されただけで係争中の裁判が13件あり、このうち5件で日本企業側に損害賠償を命じる判決が出ており、3件が韓国大法院の判断を待つ状態になっている
2015年12月23日、1965年に締結された日韓請求権協定は違憲だとする元徴用工の遺族の訴えを審判の要件を満たしていないとして却下した。
韓国大法院は2018年までの約5年間徴用工訴訟について判決を出していなかったが、2018年に韓国の検察当局は朴槿恵政権期に大法院が大統領府や外交省と協議し故意に判決を先送りしてきた疑いがあるとし法院行政所の元幹部などを起訴[19][20]。2018年12月3日には職権乱用などの容疑で当時大法官(最高裁判事)だった朴炳大の逮捕状をソウル中央地裁に請求した
2018年10月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は差し戻し審で新日本製鉄(現新日鉄住金)に対し韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じた。徴用工訴訟において大法院で結審したのは初めて。
2018年12月、戦時中に日本企業に徴用されたとする韓国人とその遺族が、1965年の日韓請求権協定で日本政府から3億ドルの無償支援を受け取った韓国政府に補償責任があるとして、韓国政府に対して1人当たり1億ウォン(約1千万円)の補償金の支払いを求める集団訴訟を提起することが明らかになった[23]。
小学校の教科書から「漢江の奇跡」を削除……韓国の歴史とは「道徳教育」である | 文春オンライン
韓国大統領、教科書から「黒歴史」消してさらなる親日潰し(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
でも8月15日時点ではここまでやばくなかったんだよな
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
アナウンサー学校の授業のように妙にはっきりとした発音で「あ」と発した正面の座席の女子中学生は、顔面からバタンと倒れて動かなくなり車内は一瞬で鎮まりかえった。彼女の隣に座っていた警察官風の男が慌てて窓を開けると、床に散らばっていたプリント類が窓の外に吸い込まれ、紙吹雪が車窓を通して一枚の襖絵になった。もし10年後にこの日の事を思いだすとすれば、この瞬間のこの光景かもしれない。私は涙が止まらなくなり、隣の人にリュックサックを預け、車掌を呼びにその場を離れた。2つ車両を移り一番先頭のダクトテープで完全に密閉されていた車掌室に着く頃には、時計の針は午後4時を指していた。やはり車両が前に行くにつれて時間の進みが早くなっている気がする。電車の進むスピードを考慮に入れても、明らかに加速している。一抹の不安を抱きながらエレベーターで地下4階に降りると、かつて駐車場だった場所にはミニサイズの遊園地ができていた。小さい頃に一度だけ行ったことがあるが、その時は一番の幼なじみだった友人が取り残された。今もあの時のままの姿でいるかもしれない。ブルーベリーに含まれる鉄分が有効だと一般的に言われていたが、それらの資源は20世紀前半にほとんど彫り尽くされてしまった。やはり最初の段階で心音に耳を澄ませておけば良かったと後悔している。これが今日のハイライト。
・誰?
長年サービス業でクレーム対応を担当してきた。アルバイトスタッフで対応できないと回ってくる感じ。
15年。
・今までの戦歴
無敗。
・職種
・なんでこんなこと書いてんの?
「激しく怒鳴るクレーム客には「怒鳴り返すように謝る」と最高に効く!」って記事を読んで最高に危険!って思ったから。
クレーム対応は何に謝るかを間違えると解決できないどころか事態が悪化するだけ
相手のトーンに合わせる謝り方はテクニックの一つとしては有効だけど、絶対的な解決手段ではないです。
・実例
例えばスマホの電池持ちが悪いというクレームを言われた場合はどちらが正しい対応でしょうか。(自分の業界とは関係のないお話です)
2.「弊社の製品が原因でお客様の気分を害して申し訳ございません」
この2つ、何が違うかというと、事実に対して謝罪ができているかどうかということ。
ということで正解は2。
バッテリーが悪いと謝る→確定していない事実を謝ってしまう→お客様の中でバッテリーが悪いという事実が決定してしまい、要求が次に移る
お客様の気分を害してしまったと謝る→製品に原因があるかは別として、怒っていることは事実→まずは怒りを鎮めることで次の対応のステップに移ることができる
クレーマーと一言で言っても、その人その時によって状態が全く異なります。
本当に問題を解決して欲しい人、自分の怒りに共感して欲しい人、被害を被ったから補償して欲しい人、金品目当て、話し相手欲しさ、パワハラ、その他
もともと決めつけて来る人もいれば、こちらの対応次第で状態を行き来する人もいます。
製品に原因があると認めさせたい人は、とにかくそのことを執拗に求めます。
そこで不用意に製品の不備を謝ってしまうと、相手にしてみれば製品の不備を認めたこととイコールになってしまうわけです。
どんな口調やトーンで謝ろうとも、謝る対象を間違ってしまえば解決は遠ざかってしまいます。
かといってそれを恐れるあまりに「謝らない」ということが最も危険です。
相手は絶対に間違いを認めさせようとあの手この手を使ってきます。
その結果、恫喝やSNSからの炎上など、対応コストばかりが跳ね上がってしまう最悪の結果に至ってしまうことさえあります。
とある大手企業のクレーム担当に話しを回された際、わざとこちらを激昂させてクレーマー扱いすることで問題に取り合わなくなるといったことをされたことがあります。
うおおおー!そんなクレームの解決方法もあるのか!と驚いたものですが、そんなくそ企業の製品は二度と使わないと心に決めました。
クレーム対応は無敗でしたが、クレーマーとして挑んだ唯一の敗退でした。
・じゃあどうすんの?
事実だけ謝っていれば物事は解決するのか?と言われればもちろんNOです。
例えば、「バッテリー持ちが悪いからバッテリーを交換してほしい」などです。
これに素直に従うことが問題の解決にならないことは皆さんもご理解頂けていると思います。
ではどのように対応するのが正解と言えるのでしょうか。
ここで、相手がクレームに至るまでの3つのステップに目を向けてみましょう。
例えば先程の例ですと、相手はまずバッテリーのもちが悪いという事象に遭遇します。
そこで相手は自分なりに考えてバッテリーに原因があるのだろうという原因Aを想定します。
その結果、バッテリーを変えてほしい、製品を返品したいなどの要求Aが発生します。
つまり、クレーマーの要求は、原因A→事象→要求Aというステップを経て発生していることがわかります。
しかし、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、バッテリー持ちが悪い原因というのは何もバッテリーそのものに原因があるとは限りません。
中で特定のプログラムが悪さをしているかもしれないし、電力消費モードがなにかの拍子で変わってしまったかもしれません。
ここでまずクレーム対応に求められることは、相手の要求と観測した事象をもとに相手が想定している原因Aに辿り着くことにあります。
「私はあなたが考えている原因Aを共感できました」と相手にしっかりと伝えることです。
もし本当に原因Aがトラブルの原因だとしたら、規定に従って要求Aに対応すれば終わります。
規定以上のものを求められているのであれば、それはまた別の対応が必要になります。
しかし、相手と原因Aが共感できていないままに要求Aだけを拒否していれば解決できるものも解決できなくなってしまいます。
なぜなら、「相手は要求の可否だけしか耳を傾けず、製品の問題に目を向けようとしない!」という新しいクレームを生んでしまうからです。
みずから対応コストを増加させてしまったと言わざるを得ません。
もし原因Aが本当に問題の原因ではない場合はどうするのがよいでしょうか。
相手からできる限りの事象を聞き出すことで、本来の原因である原因Bに辿り着く必要があります。
このあたりは当然業界や内容によってノウハウもツールも変わってきますのでここで言及することはできません。
こちらだけ原因Bにたどり着いていても、相手がまだ原因Aが原因だと信じている以上は要求Aが変わることはありません。
一つ一つの事象に説明を加えていくことで、相手にも原因が原因Bなのだと理解させます。
原因A→事象と相手が思っているのなら要求Bには絶対に誘導できないということです。
原因Bが相手と共感できてはじめて原因B→事象→要求Bからの解決へと導くことができるわけです。
こうした正しいステップを踏まずして、闇雲に謝っていたところで問題が解決するはずはありません。
それは、できることとできないことを明確にして、それを相手にはっきりと伝えることです。
それが曖昧であればあるほど、相手は要求をエスカレートさせ、それを得られないことを自らの被害だと考えるようになります。
それをもとに要求が加害に変化してしまうことだって想像に難くありません。
もしそこでできること以上に相手から要求があるなら、それこそ「申し訳ございませんができない決まりになっています!」と謝ってしまうことで、相手の要求が過剰なんだよとやんわりと教えることができます。
その時はじめて、「激しく怒鳴るクレーム客には「怒鳴り返すように謝る」と最高に効く!」と言えることができます。
3ファクタ認証などと若い人達が盛り上がっていますが、ラピュタのリアルタイム世代からすると
驚きなんですよ。あれは「シータとパズーが同時発声しているから有効」と我々以上の世代は
ラピュタが制作、公開された時代は、ソビエト連邦(ソ連)という超大国がまだあったんです。
ソ連と米国は2大超大国として地上に君臨しており、お互いに大陸間弾道核ミサイルを向けて
睨み合っていたんです。一方が発射してしまうと報復のためもう一方も発射しますので
「核の冬」が来て北半球は壊滅的になる、と全世界が憂慮していた時代なんです。
2011年に福島近辺に大量の放射性降下物が降ったので今でも人が住めないですが、
そんな時代ですから、核ミサイルの発射は厳重に管理運営されているのか、みんな興味があって
ドキュメンタリー番組やニュース番組でよく取り上げられていました。
そしてそのときによく放映されていた映像があるんですよ。「発射には二人の担当者がそれぞれ
キーを差し込んで同時に回さないと発射されない」という様子の映像です。
当時、宮崎駿もそれを当然見たでしょうし、観客もそうです。
30年くらい経つと世の中で共有されていた当たり前のような前提知識も失われるんだなぁ
と驚くし、寂しい感じです。が、仕方ないことでしょうね。
N国の立花氏と立ち話
“週刊現代の報道によれば、1997年8月27日、セントラル・テキサス・カレッジ在学中、当時交際していた同級生の日本人女性に、電話料金の支払いを断られたことから暴行を働き、鼻の形を変形させるなどの怪我を負わせ、同年9月5日にキリーン市警察に傷害罪で逮捕され、1998年5月29日、テキサス州ベル郡第2裁判所により罰金650ドル、12か月の保護観察処分が言い渡された。しかし、この判決が出る前の同年5月23日にも同女性に暴行し、「家族や同居人への傷害罪」すなわちドメスティックバイオレンスで2度目の逮捕。保証業者に立て替えさせ2,500ドルの保釈金を納め保釈されるも逃亡し、1999年6月25日に開かれた公判にも出廷せず、当日出された「仮判決文」では保釈金没収が宣言され、「被告の再逮捕の令状発行を求める」と記された[72][73]。テキサス州ベル郡当局は、米国での菅野の逮捕状について「アクティブ(有効)です」と断言。弁護士の島伸一は、テキサスの刑事訴訟法では州外に出れば時効は停止し、逮捕状が有効であれば逮捕される可能性があるとしている[74]。菅野本人は自ら運営するホームページで、報道された2件の暴行事件を事実と認め、自身が「国外逃亡中」の身であるとした上で「実母の死去や生活に追われ出頭することができないまま、司法機関や相手方からの強い要請もなく、裁判が収束に向かったと合点しておりました。」と説明し、認知行動療法などのプログラムを受けていると弁明した[75]。なお、菅野は週刊現代の記事が掲載された直後の8月1日、2017年10月4日から出演していたRKBラジオ櫻井浩二 インサイトのインサイトコラムを降板した。”
2012年7月9日、菅野が携わっていた政治運動に賛同した女性を「新聞に意見広告が載ることになった」「会って挨拶したい」などと都内マンションに誘い出し、切羽詰まった様子で「某国会議員が俺のことを公安経由でかぎまわってる」「今日一日、ずっと尾行されている」「すぐにパソコン作業をする必要があるから家に行っていいか」などと説明し、録音を条件に応じた女性(原告)が悲鳴を上げるのも構わずベッドに押し倒し「怖いねん、抱っこして」と性行為を要求し、キスを迫るなどの性的暴行を与えた。被害者は仕事を辞めて、精神的カウンセリングと治療のために病院に通い続ける事態になった。 これを受けて女性は2015年末に200万円の損害賠償を求めて菅野を提訴[76][77]。被害者から謝罪や損害賠償以外に「twitterアカウントを削除」「女性の権利問題に関する言論活動を今後しないこと」を求められたため示談交渉は決裂した[78]。菅野は「性的な行為を働いた」と認めて謝罪文を書き署名・捺印していたが裁判になると主張を180度変えた[79]。一審・東京地裁の判決後に菅野側は「(性的暴行の)回数が1回で短時間」「特に性的自由侵害の程度が高い部位には触れていない」「事件報道で社会的制裁を受けた」と主張して、「慰謝料は5万円を超えることはない」と慰謝料100万円の減額のために控訴した[80]。
2018年2月8日、同訴訟の控訴審判決が東京高裁でおこなわれた。阿部潤裁判長は女性側の主張をほぼ認めた一審・東京地裁判決を支持し、「慰謝料100万円は高額ではない」「不当な社会制裁ではない」「被害者の苦痛は慰労されていない」として菅野側の控訴を棄却した。被害女性は高裁による控訴棄却判決後、被害者は、「心からの反省の言葉が得られないことで、より傷つきます」と述べている[81][82][83][84]。その後菅野は最高裁判所への上告は行っていない[85]。
本事件を含め「自分の加害癖、ハラスメント癖」「自分の子供さえを含む自分の周りにいる「自分より弱い人」「自分より立場の悪い人」に対して、自分は極めて横暴に振る舞い、相手の尊厳や自己決定権を踏みにじる行為に及ぶことが往々にしてあることを、痛感した」ため、2018年7月現在も認知行動療法をはじめとする様々なプログラムを継続して受け続けているという[75]。
2019年5月、警視庁は菅野を強制わいせつ未遂容疑で書類送検した。容疑を大筋で認めているという[86][87]。その一方で自身のTwitterでは「それ(知人女性の自宅マンションで女性に性行為を迫り、ベッドに押し倒し、キスなどをしようとした)で強制わいせつになるのなら、是非とも、厳罰に処してくれ」とも発言している[88]。”
と。。。
・・・。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)