はてなキーワード: 於いてとは
そろそろ眠る。
聖徳太子のようにマルチタスクでトラバ返しをしてゆくのも楽しいものだ。
もとより文章を書くのが遅い性質でもあり、多種多様の文体を使う経験もなかったため、よい訓練にもなる。
続きがあるなら後日返答するが、そろそろ別のエントリも上げたいため、やや遅れるだろう。
追記:いつものようにトラバ返しを含む自分の文章を見返してみたが、今回はあまり相手のテンションに合わせた文章を書けていなかったように思う。
また、相手が既に挑発的かつ攻撃的かつ好戦的な文章を書いているのに、未だごく淡々とした対応をしている場面が多々見受けられた。
職業柄これはとても楽な対応なのだが、しかし満点の対応とは言い難い。
「不特定の誰かに対する発言ならばともかく、特定の誰かに向かってイヤな事を言えば、まったく同じその相手からまったく同じだけのイヤな事を言い返される」
横から失礼するが
「過酷な労働」の定義を「最も多く価値を生産する義務を負う存在」
っていう形で定義すれば、市場原理主義型資本主義を前提にしても
一応正しいっちゃ正しいんじゃねーの。
大企業型、あるいはアジア型の資本主義に於いては馴染み深いものだと思うけれど。
この定義に強い違和感を感じるのは「資本主義」を共産主義の側のロジックから
「過酷な労働」なんて定義の難しいことを研究する人間は資本主義陣営にはまずいないから
おそらくどの本にも直接おなじことは書かれてないと思うけれど
「株式の自己所有ゼロの代取とか、要するに経営者と労働者の奴隷だよね」
って言い換えれば納得できるんじゃねーかな。
自分はワールドカップには全く興味ないので、普段は全く読み飛ばしているのだが、
今日は「代表23人のプロフィール欄」に書かれている「あること」が気になった。
なんと選手23人のうち11人が「著書」を出してる。
「出版界が芸能人やスポーツ選手に頼らざるを得ないお寒い状況だ」ということが、
★というか、こんなに著書を、それも「サッカー以外の分野の本を」書かせるのは
野球選手はここまで「野球以外の分野」について著書を書かないし、
「道を拓く力」「上昇思考」「夢ノート」「心を整える」「明日への足音」・・・
多分、自己啓発業界のゴーストライターがいて、名義を貸してくれるサッカー選手を探し回っているんだろう。
★こういう本の購入者って、「サッカーファン」が買っているというより、
自己啓発本ばかり買っている残念な人、それも選手の名前も知らないような人が、
「日本代表が書いた本!」というPOP広告に騙されて購入してるイメージがする。
自己啓発本を読み漁る人って、結局読むだけで実践しないんですよね。だから残念な人。
★そういえば、たまにネットカフェに行ったら、自己啓発本(ナポレオンビルの類)が「販売」されていた。
きっとネカフェにたむろするワープアが、「現状打破」の為に購入するんだろうが、
そんな本読むより、資格取得本を読んだほうが1億倍役に立つと思うのだが。
結局こういう人って、自己啓発本読んでいるだけで、「なんとなく、将来が拓ける気がする」という
オメデタイ人なんだろうなあ。
★多分、この手の自己啓発本って、そのままブックオフの特価コーナーの常連になるんだろうなあ。
サッカー選手系の自己啓発本は、まあそれよりは高値取引なんだろうが、そもそも中身がスカスカだから、高値が付くはずがない。
中身スカスカという点では、田母神・百田・竹田辺りのネトウヨ本と同列。
★百田や田母神の本の方が「どういうバカなことを書いているのか?」という興味本位で読んでみたい気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20140430123631
すげーくだらないけど会社経営者とくに社長は安物で良いので家を買った方がいい。と、いうのもIT系の社長とかベンチャーのスタートアップ数年後の会社の経営者は賃貸マンションの高級なのに住んでる事がすごく多い。会社名義で法人の社宅として借りてしまえば、家の審査は簡単に通る。しっかり利益でてればの話だけどな
だから一般的な社長で想像する、超広い戸建てで高級車所有なんていうのは少なく都心のタワー系レジデンスを借りてる。会社の利益が出てるうちはむしろ経費で家賃が落ちるのはメリット多いし業績がまずけりゃ解約して安い家借りれば良いのでメリットしかない。
会社の社長個人の資産がないから、審査しにくいのだ。ビルの入居申込みの多くは社長の個人保証をつけるから社長の住所なんかもオーナーは確認できる。そういう場合、大抵は持ち家か借家か調べる。持ち家ならば登記簿を確認して抵当〔借金〕の状況や差押えの履歴がついてないか確認する。持ち家で抵当がついてなければそれだけで資産状況として少しばかりは良い判断が下せる。
逆に車とかはどんなに高いもの持っていても意味はない。それが購入したものかどうかやローン状況など確認できないからな。
餅は餅屋ということでたとえ賃貸ビルの入居審査であっても不動産の所有はそれだけでもステータスだ。元増田が借家か持ち家かは知らんが不動産を所有してると後々便利だという話
タイムマシンの民間利用が開始されてから30年。開発当初の予測とは異なり、
最大3時間前への跳躍が限界で歴史改変は不可能と証明されたこの技術は、
結果的に短期的な事故を回避する手段として急速に普及しました。
人間に重篤な障害をもたらすと警鐘を鳴らしてきました。なぜなら人類は
やり直しのきかない一度きりの人生に対峙することこそが自然な姿であり、
人間が本来持ちうる健全な肉体は宿命たるカルマを受け入れる精神によって
培われるからです。現在の世界的経済停滞も、安易な時間跳躍の跋扈による
真摯さの喪失及び生命力の脆弱化によって引き起こされていると言っても
過言ではありません。
この問題は子ども達の精神、肉体に於いても深刻な影響が懸念されます。
ねじまがった時間の中で生きる子ども達に、真の幸福、真の成長は
訪れるべくもありません。
我々の提唱する、自然な時間をありのまま受け入れるLOMESスタイルは
先日発生した多重跳躍事故の悲劇がこの技術の持つ歪みを浮き彫りにし、
http://hotentry.hatenablog.jp/entry/2014/04/24/140653
を読んで考えたのだけれど、
つまるところ彼らはライターであって釣り師ではないのではないか?ということ。
インターネットに於いて、書かれたものが真実であるか否かということは実はあまり問題じゃない。
大抵の人は虚実ない交ぜになっているのを当然だと思っているし、
少なくとも、文章はあくまでその文章として評価され「匿名ダイアリー」である以上、
つまり、彼らは釣り師ではなく多くの人間が興味を持てる話題を提供しているだけなのである。
特に、「ニート本気出せ」の人に顕著だが、作品として徹底して作りこんでいる。
こんなの後だしで釣りだといわれても、「そんなの関係ない、面白そうな話題だから食いついた」としか言いようがない。
釣られて「畜生釣られた」という気持ちが全く起こらないのである。
彼らが釣りの達人であることは認めるとしても、釣られた側に「釣られた」という感覚が起きてこないのだ。
そして、大抵のエントリに共通することだが彼らは100%の嘘は書いていない。
ただ単に話題を提起しているだけなのである。
彼らを釣り師と定義するなら、世の中の大抵の書き物は「釣り」になってしまう。
ここまで書いて何を言いたいかと言えば、「釣り」であろうと「釣り」でなかろうと
何かの話題が提起され、それが多くの人に共有されるというインターネットの構造は変わりない。
ましてや「匿名ダイアリー」上で起きていることなのだから、そんなことは誰もが織り込み済みである。
面白そうだったら釣られてやればよいのだ。話題の始まりが釣りであっても、そこから発展した議論は釣りではない。
個人的に、匿名ダイアリーの釣り天狗達は良質な話題の発信者だと思っている。
もちろん、そうではないものもいるがそんなものはネットの常だ。
そういうわけで、私は今後も積極的に釣られていこうと思う。
「釣られる」ことを恐れて、興味のある話題に食いつかない方が遥かに損失だ。
さっき、隣の席でスーツを着た学生がOB訪問というやつをやっていた。先輩後輩でお互いに気心知れた関係なんだろうが、「いつもはレポートをコピペで片付けていたので、卒論ぐらいはちゃんと自分で書きたい」とか「あっ、こないだ面接ブッチした企業から電話来ちゃった」とか言い出す後輩。先輩は先輩で「あるある~、そうだよね~」ってノリで返していて、それってどうなのよと思った次第。
しかし、これがきっと世の中の平均的な学生――それも優秀な――なんだろうと思う。身なりはきちんとしていて、前向きな性格で清潔な印象。名前が出てくる選考中の企業も、新日鉄だの住友だの、日本を支える一流企業ばかりだ。面接官のウケも良いらしく、おそらく内定は時間の問題だろう。自分が就活をしていた時分でも、要領の良いこうした連中が幅を利かせていた印象がある。人間、適応できた奴が強いのだ。数ヶ月前まで汚らしい格好で女にちょっかいを出していた男が、似合わない短く黒い髪でスーツを着込んでいた。これはほんの一部の話なのかもしれないが、そんな人間たちが日本の中枢で重要な役割を果たしているような気がしてしまうのは、ただの妄想だろうか。
いっぽう自分はといえば、最後まで就活に意義を見い出せなかった。将来のことで親と意見が分かれて実家に居づらくなり、好きなことはひとつもできなかった。結局なんとか一般企業に内定は取れたものの、1年足らずで辞め、アルバイトだったが好きな職種に転職して、先日やっと契約社員に格上げされた。一流メーカーとか、インフラとか、そういう堅気の仕事ではないが、自分の仕事には誇りを持っているつもりだ。家族との溝はあれから埋まらず、お金が貯まった時点でほとんど家出のような形で実家を出てしまった。今も滅多に帰らない。
この違いはなんなのだろう。
人それぞれなんだから別にいいじゃないかと思うかもしれないが、それは結果論に過ぎない。運良く希望の進路に修正できたから今の自分がいるわけであって、もし転職に失敗していたらこうして物思いに耽る暇もなくくすぶっていたことだろうし、似たような状況にある人は現実にそこそこいると思う。ちなみに自慢じゃないが、自分は学生時代、面接の予定が被ってしまった場合はちゃんと自前に連絡したし、コピペでレポートを提出したことは一度もない。
就活とはいったいなんだったんだろうか。今考えてみても自分ではよくわからないし、わかるのは自分の人生に於いて就活は完全なる遠回りであったというだけだ。ただ、学生が就活以外の方法で社会に出る方法がもっとあってもいいんじゃないだろうか。そういう選択が、社会的にもっと尊重されてもいいのではないか。具体的にはフリーターとかしか思いつかないが、某パソナのようなよくわからない人材派遣会社の手伝いをさせられながら就活を続けるよりかはずっとマシだろう。そうなることで、社会の仕組みに疑問を持ちながらも選択を強いられる学生が、いくぶんかは救われてくれたら、と思う。
リクナビなどの就活サイトは一括エントリーができたりして年々便利で無駄がなくなっているが、世の中の無駄はどんどんふくらみ続けているような気がする。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar491549
こういうバカがいるから日本から差別がなくならないんだなぁ、とシミジミ思った。「差別」も「区別」も、やってる当事者の頭のなかで起きていることは同じ。問題は「それを外に見えるカタチで表現した時に、相手がどう感じるか」だ。
1.相手をヲタクだと考えて、区別してもいい。誰が何を考えているかなんて、言わなきゃ他人には絶対にわからない。
2.相手をヲタクだと考えた上で、相手に「君はヲタクだね」と言っても、問題ない可能性が高い。相手に対して表現しているんだから、それを表現した時点で言った人に責任が生じる。
相手が実際にヲタクだったら、そうだよ!と言うかもしれないし、相手がヲタクじゃなかったら、ちがうよ!と言うかもしれない。
どちらもただのリアクションで、良いも悪いもない。(でも、相手がヲタクだと言われるのを嫌だと感じていたら、それはもう差別だ)
3.ヲタクを暗に嫌だと考えていて、例えば学校で机に「ヲタクは帰れ」とか落書きしたら、それはもう100%差別。区別を起点にして、相手に嫌な気分を抱かせている=差別している。
既存の様々な区別(男女、人種、等)が、2までなら区別で済む可能性が高いけど、3をやったら絶対的にそいつが悪い。
相手の感情に依存する以上、差別を事前に100%回避するのはムリ。
でも、一対一の関係に於いて、自分のした区別が原因で悪意が無いのに相手が嫌悪感を持ってしまった(結果として差別になった)場合は、謝ればいい。
一対多(公的な関係、先日の人工知能学会誌の件のような)の関係では事前の注意を厳重にする必要があるけど、やはり謝ることができる。
つまり、
・「区別」と「差別」は、やっている人の頭の中では実質同じ。問題は相手がどう感じるか。
・自分の頭の中に留める限り、それは問題にはならない。
・だから常識に従って十分に配慮する必要があるし、意図せず相手を傷つけた場合は謝罪する。
この記事は、自分の頭のなかで起きている「区別」と、相手の頭の中で起きる「差別」をまったく分離できていない上で、「差別を全否定はできない」等と言って、自己肯定までしている。ましてや愛なんてなんの関係もない!そういう輩が公的な場で意見を発信できるようになっているのが、まったく大きな問題だと思った。
最近、地方の低学歴だけど、そこそこ幸せな「マイルドヤンキー」が話題
http://b.hatena.ne.jp/entry/diamond.jp/articles/-/48951
数週間前に、東京の湾岸マンションを渡り歩く(住まいサーフィンする)「湾岸タワマン空中移動族」が話題になったが、
「タワマン族」と「マイルドヤンキー族」の価値観が真逆な気がしてならない。
★「マイルド・ヤンキー」という概念が最近出来ている。家族の絆を重視、ネットより口コミ重視。
★東京湾岸タワーマンションの「空中移動族」とマイルドヤンキー族の生き方は真逆。
「タワマン族(とその子供)が逆にマイルドヤンキーになれるか?」といえば、能力的・生理的に「無理」だと思う。
一例:タワマン族は「虫が大嫌い」「電車が10分に1本以上来ないエリアは日本じゃないと思う」
★湾岸タワマンの空中移動族は、情報収集行為そのものが快楽。だからマンション相場をウォッチングすることそのものが趣味と化す。
タワマン族は「情報収集出来ない環境」に1日も耐えられない情報中毒。タワマン族がヤンキー族になれない所以。
ダイヤモンドにあったが、価格コムみたいな価格情報サイトの利用者は(低年収じゃなく)高年収が多いらしい。
「生活苦で止むにやまれず価格コムを使う」というより、「価格サーフィンが趣味で楽しんでる。」
★マイルドヤンキー族はなけなしのカネをワンボックスカーに使い、タワマン族は大金を住宅ローンと教育費に使う。
ワンボックスカーはマテリアルでリアルな経済価値。分かりやすい。
一方、タワマンの価格の半分以上は「土地の価値」と言う可視化できないバーチャル価値。
つまり、マイルドヤンキー族はマテリアル・リアルな価値を重視、タワマン族はバーチャル価値・先行投資を重視。
「将来が見えないから、最大限将来に備えた投資をする」のがタワマン族。タワーマンション然り、教育費然り。
一方、「将来が見えないから、見えてる今を楽しむ」のがマイルドヤンキー。
★タワマン族はネット上に顕在化した情報を収集したり加工分析するのは得意。
一方、ネット上に顕在化してない隠れた情報を見つけ出すのは大の苦手。
というか、ネット上に可視化されてない情報は、タワマン族的には存在しないことになっている。
マイルドヤンキーのカテゴライズがネット上で可視化されたのは最近。
だからタワマン族はマイルドヤンキーの存在自体を認知できなかった。
★一番の問題は、マイルドヤンキー側は「東京の城南城西湾岸に、自分たちとは違う人種が住んでいる」と自覚してるのに対し、
城南城西湾岸民側は「日本国内にマイルドヤンキーという人種が存在している」ことに無自覚なこと。
遊ぶのも柏や大宮や立川で、年収600万円の都心の仕事より、年収400万円の大宮や立川の仕事を選ぶ
しかしデベ関係者は、1都3県の若者は皆都心7区志向(勤務先もプライベートも)と固定観念で思い込んでる。
※多分野村不動産は「首都圏外縁マイルドヤンキー」の存在に気付いたんだな。それがオハナ
年収800万はある都心大企業社員がマイルドヤンキーを肌感覚で理解してなくて困る」とダイヤモンド紙上でこぼしてるが、
マイルドヤンキーを体感するなら、柏や大宮辺りをフィールドワークすれば、ある程度判ると思う。
★「エリアの中学受験率とマイルドヤンキー率は反比例する」説。
朝日新聞やNHK記者とかは、城南城西エリアに住んでるから、自身の子供も、同僚の子供も、子供の同級生も、皆受験してる。
そういう記者は「日本全国に中学受験がある」と勘違いした記事を書く。
親が同居又は近居なマイルドヤンキーエリアでは保育所不足はあまり深刻じゃないが、それを在京マスコミはあまり報じない。
北陸辺り、保育所が余りまくり、「子供の社会性を育むためには、ある程度の規模が必要」と統廃合してるのだが、
首都圏住みらしいママが「保育所が不足」と必死のツイートしてたりするが、そういうママに「北陸じゃ保育所余ってる」と
だから、「日本の少子化問題の半分は東京一極集中問題なのであって、首都圏への社会転入を社会転出へ変えるたけで、
★名古屋は「日本一のマイルドヤンキー都市」な気がする。京阪神や札幌・福岡は東京志向なのでマイルドヤンキー率低い。
出生率ワースト10自治体に、札幌・東京・京都・大阪・福岡はランクインしてるが、名古屋は入ってない。
(もっとも、皮肉なことに、可処分所得が東京の次に多いのは名古屋。つまり「高所得マイルドヤンキー都市」)
★マイルドヤンキー的生き方と湾岸タワマン的生き方、どっちが幸せなのかは悩む。
マイルドヤンキー族の子供が三木谷や孫みたく「成功」する確率は0.3%。これがタワマン族だと3%に跳ね上がる。
⇒「成功確率が10倍になるからガンバレ」と中学受験に必死になるのがタワマン族。
「タワマン族になっても、成功しない率は99.7%→97%になるだけで、誤差の範囲」と見るのがヤンキー。
どちらも正解だと思うのだが。
マンション地域と土着戸建地域の両方の児童館的な所に通っているけれど、
土着戸建地域の人々は子供の育て方に妙に自信たっぷりで安定感がある。
土着戸建地域で「うち、離乳食始めたのは遅くて7か月からなの(にこにこ)」というお母さんがいたけど、
てっきり、土着戸建地域はジジババ総出の子育てだからだろうと思っていたのだけど、大量の情報の中から常に選択する生き方を
していると自信もなくなるのかもしれない。
とにかく、多い。
仲間への感謝、親への感謝、パートナーへの感謝、ひいては環境、時代、自然だなんだ、いろいろなものに感謝する。それをいちいちブログやSNSで発表する。
そのこと自体は全く良くない事ではない。当然、みんなあらゆる現象、物、人のおかげで生きていて、それらへの感謝は果てしない物だとして、いちいちそれを「私は~に感謝しているんです」と第三者にいうことが気持ち悪い。
こどもの「できました」アピールのような、私は感謝出来る人なんですよみたいなのが、もう知らんがなです。
フェイスブックとかだとまた更にそれに感動とかして「ぐっときました!シェアさせていただきます」みたいな二重の阿呆までざらにいる。
実世界で、本当に感謝しあいながら、本質的に内面でつながって分かり合っている人同士のコミュニティであれば、そんな謎の発表し合いは必要ない。なんなら口でいちいち言わなくても感謝し合えているかどうかは分かる。
なぜ発表が必要かと言えば、お互いが本当に感謝しているのか、してもらえているのかがわからないから、いちいち文字としてログで残さないと確認出来ないような、実世界での薄いコミュニケーションの結果としてそこに発表されることになるのだ。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
作品によって複数・単体が違ってくる場合が多々あるのでメジャーそうな感じで配置。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | メラ | ギラ | メラミ | ベギラマ | メラゾーマ | ベギラゴン |
FF | ファイア | - | ファイラ | - | ファイガ | - |
BOF | パダム | - | パダーマ | パダーマ | パダメーマ | パドラーム |
女神 | アギ | マハラギ | アギラオ | マハラギオン | アギダイン | マハラギダイン |
DQ2ではギラが単体だったけど3でメラが登場したことによって、範囲化。
そして起こったメラギラ問題。
閃熱魔法系=ギラという事になった。
そしてメラゾーマに「ゾーマ」が含まれるのは何か理由があるのだろうか。
そしてこれのおかげで主人公・嫁・息子の編成となり、娘だけラストバトルに連れて行って貰えないDQ5、悲しみの象徴。
1に於いてパダメーマという魔法が存在したことを思い出したBOF。
ていうか1は8人の仲間で7番目に魔法使いが入るため、今までベギラマ止まりだった攻撃魔法が一気にギガデインクラスまで追加され、
移植版だと効果がガイドで表示されるけど最初そんなんなかってん…。
パダーマは作品によって単体の時と複数の時がある。
マハとくっつくと、英語の発音みたくアが消える所が言語っぽくてかっこいい。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | ヒャド | - | - | ヒャダルコ、ヒャダイン | - | マヒャド |
FF | ブリザド・ウォータ | - | ブリザラ・ウォタラ | - | ブリザガ・ウォタガ | - |
BOF | レイガ | - | レイギル | スーレイ | - | グレイゴル |
女神 | ブフ | マハブフ | ブフーラ | マハブフーラ | ブフダイン | マハブフダイン |
ヒャダインだけ敵全体となっている。
多分これに習ったのがBOF1のスーレイだがその後消えました。
ていうかレイガ、レイギルときてちゃんと氷っぽいのに、なんでそこでグレイゴルなんだよ。
でも、1のときのスーレイとグレイゴルのアニメーション効果がかっこよかった。
ていうか水攻撃って言われても困るよね…水鉄砲みたいにして攻撃とかもでない限り。
あ、FF3だと単体・グループ・敵全体と選んで魔法入れることもできたよ。
ブフの由来は多分吹雪なんだろう。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | - | - | ライデイン | ミナデイン | ギガデイン |
FF | サンダー | - | サンダラ | - | サンダガ | - |
BOF | - | バル | - | ババル | - | バルハラー |
女神 | ジオ | マハジオ | ジオンガ | マハジオンガ | ジオダイン | マハジオダイン |
全体攻撃みたいなイメージが強い雷系。
FFではファイアとブリザド系よりちょっとだけ高等魔法として扱われていること多し。
結局、1以降は全体攻撃でバル<ババル<バルハラーという活用に落ち着いた。
ジオはなんか雷っぽい響き。
ジオンガが腕を振り上げて暴れている獣っぽくて強そうで好き。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | イオ | - | イオラ | - | イオナズン |
FF | - | - | - | - | - | メルトン |
BOF | - | メガ | - | ドメガ | - | ドギガ |
女神 | フレイ | - | フレイラ | - | フレイダイン | - |
ギラ系をココにもってきてもいいような気がしないでもない。
(デボラはどうなってるか知らない)
FF6ではメルトンをガウに使われ全滅した懐かしい思い出。(敵味方全員にダメージ)
メギガーとかメマガとかあったのを検索してようやく思い出した。
割と爆発っぽい響きだぞ。
ついでにここに核熱とか入れた。
でもペルソナ1だとここに範囲としてメギドが入ってくるのだった…。
もうやめて!!
http://anond.hatelabo.jp/20131119111319
言ってることとの成否と人格を分けろというのなら、言ってることの成否に関わらず、人格攻撃をしていいという事にはならない。
しかし、言ってることが正しいという事理由に人格攻撃をする人は後を絶たない。
はてなに於いてはモヒカン宣言みたいなのを勝手に誤用してるんだとおもう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%97%8F_(%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E)
モヒカン宣言 掟 どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。 宣言 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない 間違いは、きちんと認めて修正すればいい モヒカン族5つの価値 校正 間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。 共有 アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。 ツッコミビリティ 校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。 全体最適化 たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。 差異 お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません
間違いを指摘する事を人格攻撃と思ってはならないと書かれているものの、
もちろん「間違った相手を馬鹿にしろ」とか「言い分が正しければ叩いていい」などと一言も書いてない。
それどころか「余計な装飾語はいらない」とある不必要な人格攻撃もこれに入るだろう。
相手を集団で罵倒するモヒカンと思われている人物に高木浩光氏がいるが、彼はmala氏からのその攻撃的な態度を次のように苦言を呈されている。
http://d.hatena.ne.jp/mala/20120830/
ここまで高圧的に堂々と言われたら「あれちょっと変だな」と思っていても、指摘できなくなってしまう。誰でも簡単に検証できることを、実際に検証する人が全然いない。
恐れ多くて誰も口に出せない、絡んでも得をしない。目立ちたくない。いわゆる高木信者と呼ばれるような人たちから、こいつはプライバシーを軽視する人間に違いないとレッテルを貼られ、集中砲火を浴び、そうやって当事者や中の人が情報発信できなくなってしまう。情報発信がされないことで、より一層、技術を理解する人と理解しない人の間での認識にズレが生じて、悪循環になってしまっている。
人格攻撃を行う事によって議論が歪んでしまうことの問題点が書かれている。彼とその支持者が人格攻撃を行う事によって、間違った事を言っても、人格攻撃をされたくないために訂正されずに拡散されてしまうのだ。
敵対者に人格攻撃を行うと言うのは橋下市長や石原知事などがよく行っているが、人格攻撃を行う事によってアレな支持者が喜び、「素晴らしい」と応援し、反対者が批判することにより外部に敵を作って強固な支持母体となるのだ。その結果まっているのは支持者の精鋭化と中心人物の老害化だ。
一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家の理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。
我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるものは祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。
耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。
欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先の心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権は神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先の神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。
一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約(婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等の社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼,耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教を排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法は権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法の研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限の威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝は血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会,権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるものは耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権の名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会は道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神に捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校の修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。
(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣,1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)
界隈で喧しく「生産性の概念欠如」が取り沙汰されている。曰く、日本の企業や社会には生産性という概念が欠如しており、これが経済の停滞や労働搾取をもたらしている、
というものだ。多くは企業者の立場からのもので、日本企業の文化的・制度的な生産性軽視を論じている。そうした「文化的背景」や「企業の人事制度」という点は今後も
議論されるべきであろう。、、、だがこのエントリーで論じたいのは、他エントリーで多くなされている下記のような主張が「本当だろうか?」というものだ。すなわち
>生産性を向上させれば、同一のアウトプットに対しより少ないインプットで済む
>従って、生産性の向上は「アウトプット量の拡大…よりよい商品提供」か、「インプット量の減少…余暇の拡大」を生む
>かくして、生産性の向上により、社会の富や厚生の拡大がなされるのだ!
という主張である。一見正しいように思えるし、うん、実際の所間違いではない。
だが筆者は、多くの論で曖昧に付されている点があると考える。それが何かといえば、「インプットは労働力=時間だけど、アウトプットはお金なの?それともモノなの?」
という点だ。生産性の問題を経済の問題として考えるのであれば、そして個々の企業ではなく将来に渡る社会全体の変化を取り扱うのであれば、それが「名目」なのか「実質」
なのかという点を明確にしなければならない。そして実際、この点を明確することでより有益な論点が摘出できる。
そこでひとつ、明確に「生産性」と区別して論じられるべき概念を提案しようと思う。「生産力」だ。
====
本論では下記のように用語の定義を行いたい。
・「生産性」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「金額」の増加分
・「生産力」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「モノの量」や「モノの質」の増加分
簡易な例を提示しよう。
皆さんが田んぼを耕して農業生産を行うとする。一定面積の土地に対し、100の労働を投下し、100kgのコメを生産し、それを100万円で売っている。いまここで新たな技術が
開発され、80の労働で100kgのコメが生産できるようになった。するとどうなるだろうか?
・「生産力」は、100kg / 100労働 だったのが 100kg / 80労働 となった。1労働に対する生産「量」でいうと、1.25倍となったわけだ。
・「生産性」は、100万 / 100労働 だったのが 100万 / 80労働 となった。これも「生産力」と同じ、1.25倍となっている。
かくして我々は 「いままでと同じ量働き、1.25倍の所得を得る」か「いままでと同じ所得で、80%働き、20%を余暇に充てる」という選択肢を選ることになる。
、、、だがここには重要な大前提が存在する。生産力と生産性がおなじ動きをするのは、「コメの価格が変わらない場合に限る」のだ。
ではモノの価格を決定するのは何であろうか?
もし「生産力」の拡大が個々の企業のみで起こったのであれば、その企業が他社に比べて競争優位を持つにとどまる。つまりその企業が「今より低い価格でも戦える」ように
なるだけで、価格はその企業の戦略によるだろう。だが検討するべきは、こうした「生産力」向上が社会全体で実現した場合、つまり我々の望む「日本社会の生産性拡大」が
実現しようとした場合だ。
社会全体でみた商品の価格決定は、極めて単純に「需要量と供給量のバランス」によって決まる。つまり「足りなければ高く」「過剰なら安く」だ。そして、、、賢明な読者の
方ならお気付きの通り、「生産力」の向上は「供給量」の増加をもたらし、その供給量に「需要量」が追いつかないのであれば、、、価格は下落し、「生産性」は向上しない。
労働に対する貨幣的評価が変わらなければ、給料(名目賃金)は、上がらない。
もちろん、価格が下がれば需要が増える場合もある。つまり「欲しいけど価格が高くて買えなかった」製品の生産力が向上した場合、価格の下落が需要の上昇を呼び、全体として
収益が拡大、生産性の向上をもたらす。これは成長産業のモデルであり、企業間の厳しい競争と市場の拡大が循環している場合、生産力=生産性の拡大は至上命題となるだろう。
例えば例に挙げた「コメ」。食べ物という商品は、いくら価格が安くなっても食べる量がそんなに増えるわけではない(かと言って不足すると大問題)。コメにしろ野菜にしろ
、需要量に対して供給量が10%上回っただけで、価格は20~30%下落したりする商品だ。つまり農業の「生産力」向上は「生産性」を減少させる。(蛇足となるが、TPPの議論
などで「農業の生産性を上げれば万事上手くいく」と言っている論者には、量と価格の関係を厳密に区別できていない方が多い)
さらに、「需要」が拡大しない産業における「生産力」拡大は、単純に失業者を増やす。なぜかといえば100の固定需要に対し、それを満たす供給量の生産に必要な労働力が減る
からだ。生産力が向上しているから、より多い生産が不要なら、「働く人が過剰になる」。こうした「特定産業における過剰人口」は、本来であれば成長産業に仕向けられる。
成長産業はその需要が満たされるまで労働力を吸収し、その需要が満たされるよう生産力の向上を図る。つまりよく言う「生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ労働人口が
移行」するのだ。、、、だがいま見てきたとおり、「生産性の低い産業」とは単に「需要が満たされており」「且つ生産力向上を図り」「過剰人口が発生した」産業も含まれる。
必ずしも努力や工夫の足りない・低レベルな産業ではないということを留意するべきだろう。
さて、今までのところを整理しよう。
1.「生産力」の拡大が「生産性」の拡大をもたらすのは、価格が変わらない場合
2.「需要」が頭打ちの環境下では、「生産力」拡大は「生産性」の縮小をもたらす
3. 社会全体で需要=成長産業がない場合、「生産力」拡大は失業をもたらす
多くの方がお気づきと思うが、今の日本は完全にデフレ経済=需要不足だ。そうした環境下での「生産力」向上がなにをもたらしたのかは想像に難くない。産業の多くが内需に頼る
この国で、デフレ経済を15年ほども続ければ、企業内での「生産力」向上への意欲が毀損されているのは驚くに値しない。むしろ、厳しい雇用規制により失業者が街に溢れかえる
ような状況が避けられていると考えるべきであろう。(もっとも、雇用規制が新たな成長産業の誕生を阻害しているという論者もいるわけで、循環的な問題を紐解くのは一筋縄では
いかないということか。紐を解くのに縄では足らぬとは皮肉なことだ)
また、アウトプットの量が給与に評価されないというのもご納得いただけるのではないだろうか。これは必ずしも労働者だけの問題ではなく、企業自体が「生産力」向上=「生産性」
縮小というジレンマを抱えているのであり、作ったものが貨幣として実現しないという社会全体の問題を内包していると見るべきだろう。
、、、そして、こうした「モノやサービスの実体的生産」が「貨幣としての生産」に結びつかないという問題は、一国の経済においてより根本的な問題として取り扱われる領域でもある。
http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-338.html
さて、筆者もこの国の根本的問題は少子化にあると考えているし、少子化に限らずいかに「人間の活動」を活発にするかが社会に幸福に直結すると考えている考えている。しかし
これまでの議論を踏まえると、ひとつの疑問が生ずる。
上で「生産性」を金額による評価基準と定義した。しかし子育てはカネを生むだろうか?残念ながらノーだ。いやノーであるどころか、、、子育てはカネを生み出さずむしろ消費する。
つまり「生産性」で見ればマイナスだ。実際我々はそう感じているのではないだろうか?子供を産み育てれば、それだけお金が必要になるではないか、子育てにかかる金額と子供を持つ
ことによる幸福とはどちらが大きいだろうか、と。いや、子育てに限った話ではない。今や恋愛も、結婚も、はたまた地域へのボランティア活動すら、「カネを費やす消費活動」と
化しているのではないか?
本質的に我々の社会を豊かにするのは「生産力」のはずだ。モノを作り、サービスを生み出し、それを社会の成員と分かち合うことで世の中が豊かになる。しかしそういった「生産活動」
の中には、「貨幣経済」を基に置くものとそうでないものとがある。「貨幣経済」に基を置く活動、一般に我々が「仕事」と呼ぶものは、すべからく貨幣=金額によって評価され、その
評価によってより効率的な生産を志向し、新たな生産物を生み出し、社会全体に流通する。一方で「非貨幣経済」貨幣によって評価をされない活動、例えば家事や、友人との交歓や、
恋愛から結婚まで、お金にはならないが社会に欠かすべからざる活動が行われている。
「貨幣経済」(あるいは市場経済・資本主義)は、あくまで「生産力の発揮」をより効率的に行うのに資する存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。事実これまで見てきたように、
社会全体として需要がある限り「生産力」向上が図られてきた。、、、では「非貨幣経済」の効率性はどうだろう?結論を言えば上昇した。家事を例に取ればわかりやすいが、すべて
手作業でやっていた時代から、炊飯器・洗濯機・システムキッチンなどなど「生産力」の向上は著しい。しかし、しかしだ、こうした「非貨幣経済」の活動を支える機械や設備が増加した
ということは、それの購入や維持により多くのカネがかかるということだ。しかし「非貨幣経済」の生産活動自体はカネを産まない。
つまり、「非貨幣経済」においても、「生産力」の拡大は「生産性」の縮小、、、というよりマイナスへの増進を意味する。そして「貨幣経済」においては失業者が生み出されたが、
こちら「非貨幣経済」においては、マイナスとなったカネの補填が絶たれるが最後、単純にその活動自体が萎縮し、消滅する。
さて、話が随分と大きいところに来てしまった。
上記のような問題を如何に解決するか?については意見がないことはないが、本来の話題から外れるのでここでは省略しよう。ここで主張したいのは、「生産性」を考える上では「カネ」と
「モノ」を厳密に区別するべきということだ。そして「モノ」の生産は必ずしも「カネ」として実現しない。それは「貨幣経済」においては「需要」(…同じく「モノ」単位としても観測
されるべき)との関わりのため。そして「非貨幣経済」においてはもともと「カネ」でその活動を評価していないためだ。従っていかに社会を豊かにするかを考えるときは、まず「モノ」的な
個人的には、貨幣経済がなくなることはないだろうし、資本主義に限界が来たとも思っていない。しかし、それらはあくまで社会全体の機能の一部として位置づけられるべきものであり、
その一部にすぎないセクターの「カネ」という評価基準をありとあらゆる部面に適応させるのは、おそらく「非貨幣経済」の縮小で見たとおり、我々の生活を徒に貧しくするだけに終わる
だろうと思うのだ。
なるべく短く、平易にまとめたため、こうした分野を専門に取り扱っている人なら「なんて適当な内容なんだ」と思われること請け合いの論となっている。例えば価格下落は実質賃金の上昇を
もたらすとか、失業者の増加は人件費を引き下げ新たな均衡をもたらすとか、はたまた供給は需要を作るから需要不足は社会的に起こりえないとか?
また私個人としても、未だ考えのまとまっていない領域が多くある。「質」の向上は「生産性」に結びつくか?社会的に見て「余暇」と「失業」は何が違う?海外貿易による影響は?貨幣に
とはいえ、一般の方々へ思考の枠組みとして「生産性」と「生産力」の区別とその必要性は明快に提示できたと思う。また、単一企業視点にとらわれず、マクロレベルで「生産力」と「需要」を
見なければ、我々が抱く本質的な課題には接近できないこともご理解いただけると思う。筆者個人としては、後半の「貨幣経済によらない生産活動」というところをもう少し掘り下げたいが、
私的にまとまっていないこともあり、簡易に付した。当論がネット界隈の皆様方にとって有益であればありがたい限りであるし、私個人としても皆様の様々なご意見・反論を得たいという気持ちに
溢れているということをご提示し、筆を置きたいと思う。
現在、私は30代半ばであるが、今までの仕事に於いては全てに逆らってきたように思う。
自分の思うやり方を通してばかりだった。
その結果、全てが失敗だった。
自分が一番正しい。自分のやりたいようにやるのが一番なんだという、
根拠なき思いだけで動いていた。
おかげで今じゃ何ひとつ残っちゃいない。
この歳になってやっと学習した。
素直に聞くべきだ。
そしてそいつのやり方でまずはやるべきだ。
少なくとも今は。
そいつの方法で成功して初めて自分のやり方を取り入れるべきだ。
それで初めて物事が順調にいく。
だから俺は今じゃ何でも素直に聞いて実行している。
やっと振り出しに戻った。
でももう30半ば。
ちょっと遅かったなぁ.....
そりゃそうですよ。大なり小なりみんな犯罪人種だと思って扱う。
他に、「犯罪」以外のリスクも色々あるし、外国人だってだけで大概はリスクプレミアム乗っけないと合わない。
日本に於いてはアメリカ人もそれなりの犯罪人種だと思って相手しないと何かとヤバい。
国内でも日本人より犯罪率高いしね。まぁ、それぞれ個人や企業の属性も加味して検討するけど。
中国人も抑えてトップに君臨する民族を、俺は最優先で犯罪人種として遇するよ。
当たり前じゃないですかそんなこと。
つーか、在日は犯罪やらかし過ぎだし道理が通じなさすぎるんですよ。
そんな奴らが「通名」なんて隠れ蓑持ってるのを許容できるわきゃねーってお話。
日本人に不利益を享受しろって話はそりゃ通らないでしょ。ここ日本ですよ。
これな
Midas
私は「スターを使って何かを表現する事自体が迷惑」でなく『引用スターを使って何かを表現すること自体が迷惑かどうかの判断は元の文を書いた人に任されてる(ブログへのコメントを非表示と同じ)』と言ってます
これは全くその通り。なので「はてな利用規約の解釈としては、Midasが正しい。」のだけど、この事実をもってしてMidasの「ルール違反だ」との結論を導く主張の部分がおかしいんだよね。
これはつまり「はてなスター」のシステムの性質上、他ユーザーのスターを消したりする操作をする事ができないから(運営の管理者権限のDB直接操作でスターを消す作業をやるから)こういった規約になっているのであって、別に「当該ユーザーの申告で問答無用に消せる」事自体イコール「それをはてなが言論活動でないと認定いたしました」では無いのだからね。
実際運用側として「各々のユーザーが誹謗中傷までは行かないけれど投げかけられたくない言葉」をいちいち把握して判断する事なんて「面倒でしょうがない」じゃん。ただでさえ「はてなスター如きでいちいち通報というか申告する」ユーザーって何かと面倒臭そうな人だったり揉め事を抱えてたりする人だったりするのに。
具体例を挙げたら「在りし日のありむーに『サカタク』と引用スターで一言」「地蔵に『指摘しました』」とか。結局のところ「運営がユーザーの要請で動く事例である以上、立場上カテゴリとしてはその他の迷惑行為にあてはめますよ」「こちらではいちいち消して良いかどうか判断するのは面倒なのでとにかく消しますよ」というエクスキューズでしかないのだよね。
そもそも上のMidasのコメント自体「(引用付きのはてなースターを消す事は)ブログへのコメントを非表示と同じ」だと言っている。だったら「はてなスターはブログへのコメントと同じ」だという認識しているのでは無いのか?と思ったんだよね。
さらに、元の文を書いた人が(それが迷惑に思うかとかは無関係に)消せる・非表示にできるという点では、はてぶのコメントだって各ユーザー配下のブクマ(b.hatena.ne.jp/「ユーザーID」)のコメント一覧ページに於いては「このブックマーク一覧の表示を制御」で「ブックマーク一覧を非表示」にしたり「特定のブックマークを非表示」にしたりできるわけで、それって自分で消すか運営に申請して消すかの違いだけで後は同じじゃん、っていう。
Midasお得意のコメントPermalinkにメタブクマのコメントだって、ブクマ元のユーザーは「問答無用で非表示」可能なわけで、だったら、それってイコール「ルール違反」だからなの?って話なわけで。
あまり関係無い話かも知れないけど、そもそも「コメントを伴わないはてなスターについては嫌がらせ、迷惑行為と判断することが困難であるため」という例外条件が変だと思うんだよ。
「無言&連打スター」による嫌がらせって、はてなスター当初からあったわけだし、わざわざ何で「例外」原則設ける必要があるのかって事なんだけど。
別に普通に「どんなスターでも申請があったら削除」で良くないか?と思うんだけどな。