はてなキーワード: 学術とは
有害な文とされるものを日頃楽しんでいますし、自分で書いたりもしています。
立命館大学の論文の件について、Twitterなどで色んな方の意見を読みましたが、
どの方も「有害な文」として「勝手に引用」し「作者まで晒した」事に憤っているように感じました。
しかし、大学側の引用は学術的な目的のもので、著作権法上問題無いように思えました。
ネット上で公表している以上、こうした目的で引用されても文句を言う権利は無いはずなのに、無断引用などという謎の言葉まで出て来る始末です…。
確かに、今回の件は法律上問題なくても心情的に難しいものがあります。
晒されてしまった方も気の毒です。自分の作品を自分の思いとは別に使用されていたわけですから。
そしてこの騒動を目の当たりにして戦々恐々とされた方々も多かったはずです。
ですが、それでも私は論文を公開した大学側が悪いとは思いません。
作者が著作権法さえちゃんと理解していれば、誰でも閲覧できるネットに公表することで何が起こり得るのかを考えられたのではないかと、避けられたことではないのかと思うのです。
そしてもう一つ、大学側がこういった研究を進める背景を考えた時、そういった作品が簡易に検索できてしまう現状が問題だと感じました。
昨今の同人界隈は急激に便利になりました。好みの作品をすぐに検索できるし、分かりやすく表示してくれる。サイト時代に比べかなり検索が楽になったと感じます。
秘密の入り口を探してクリックしまくっていた頃に比べて、こんなに簡単にR-18作品が検索できるなんていいのかな、と思ったこともしばしばです。
昔は支部でも腐作品はランキングに載らないように気を使ったりもしていたのですが…。
SNSが爆速で広まって、色んな人に見てもらいたいという承認欲求が肥大して隠れることもしなくなってしまった。
Twitterなどでは鍵なしでのR18発言、イラストを垂れ流しにしている人もいますね。
よく同人界隈には「見たくないなら、見るな」が横行していますけど、
それを世間が実践しようとして「有害なものにフィルタリングを」という研究が出てきたのは自業自得ではないでしょうか。
論文の内容にまで口を出したりあれこれと文句を言う前にもうちょっと「何故今回の研究があるのか」をよく考えた方が良いと思います。
R-18タグつけたからオッケー、プロフィールに注意書きしたからオッケー、あとは運営サイトがなんとかしてくれる…訳ないです。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
の記事を見ながら考えたこと。
今回の分野がどうだったか知らないけど、私が見てきた分野だと使ったものは閲覧日も添えてURL載せるべきだと思う。閲覧日は今回みたいに作者が引っ込めたら困るじゃん。困るっていうか、本だったら第何版みたいな話。あと他の人が"オラもやってみっぺ"ってなったら元データは必要じゃん。
ただ載せるべきだと思うからこそ、発表者側が「配慮」として作者に使用確認できればよかったよねとは思うよ。こういうデータの扱いについて、所属大学が研究倫理指針としてどういう考え方を持っているかは確認していないけど。
あと「学術論文」を前提とした話をよく見るけど、アレは「全国大会論文集」だろ。それを学術論文として話を進めるのはどうなの。雑に言えばレジュメじゃん。査読なんて入ってないじゃん。そりゃ、指導教員何やってたとは思うよ。筆頭が学生だし。M1ってことはおそらく卒論ベースの発表でしょ。URL載せるかどうかという問題以前に、ゼミ発表レベルで突っ込んでおいてよ、というところはあると思ったもん。
でも会場にいたと思われる人のツイートに
ってあって「学術論文」になる前に揉めなきゃいけないところはもめてるじゃん。アレに対するツッコミがその2つだけかって言ったらそんなことないけど。でも学会発表の場なんて、時間制限もあるだろうし。
同人屋としての感情論を言えば、そんなわざわざ(無料とはいえ)会員サイトまで来て掘り起こして研究に使わないでくれと思う。そりゃね。でも両手で足りるような会員数ではない企業サービスに何かしらの形でアップロードしておいて、一般に公開してない!って言うのは確かに無理があったなと考え直している。変な話だけど、今回学会に参加しただろう人数よりずっと多数のユーザーに公開していたのではないか。
「作品」が個人情報か、と言ったら心情的には個人情報に近いものはあるのかもしれない。twitterアカウントも載せてることも多いし。「作品」に紐付けられる形で、同一のサービス上に「個人情報だと感じるもの」を出してるのも、結果的に不用意だったかもしれない。
結論:場合による
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この辺見てると、「そうだよね」というものと「いやいやおかしいでしょ」というものがどちらもある。批判している人の中には文系の慣行に詳しくない人もいるようなので、しがない文系出身者が「文系だとだいたいこんな感じ」というのを提示してみる(「お前の感覚おかしいよ」という指摘があれば教えてください)
「分析に用いている時点でこれは引用ではない」みたいなやつがおかしな意見の代表。いやいや、分析対象として使うのも立派な引用ですから。
たとえば、「私が好きな○○さんの二次創作小説はマジ文学なので文学作品として研究対象にします」だったら、それがマイピク限定とかでなく全体公開されている限り無断で引用して差し支えない(他人の机の中にしまわれている黒歴史ノートを無断で引用するのは当然のことながら違法です)。10年前に20部だけ頒布された同人誌に載っている内容でも引用してよいし、「バナナ」とか「前立腺」とかいう単語も容赦なく引っ張ってきてこの表現の含意はとかここで使われている暗喩法はとか分析していい。
文学研究ってそういうものなんで。たとえばナボコフの研究では、英語版とロシア語版を照らし合わせて登場人物の名前がどんなふうに変更されていてそれにはどういう意味が込められているかとかそういう細かな点を論ずる研究というのも実際あるし、そういう研究対象としての引用というのはまったく問題がない。作者に許可を取る必要もない。
それが本当に研究する価値のある文学作品であり、文学研究としての作法を踏まえているのなら、ラノベだろうが官能小説だろうが二次創作だろうが分析対象にしていい。異世界転生で俺TUEEEEEEであってもそこに文学として研究されるに値する何かがあるならガンガン引用することが許される。文学研究であるなら著者名と出典を明記することは研究倫理上むしろ必要不可欠だし、仮にそれで元の投稿者がマイピク限定にしちゃったりしても、このケースならそこまで研究倫理的に問題はない(と、私は判断する)。
現状、それをやっている人がほぼ絶無なのは、
という理由であって、やっちゃいけないなんてことはない。二次創作書きから直木賞作家とかに登り詰めて死後に全集が作られるような身分になったら生前に書いたピコ手の二次創作小説が掘り起こされて「若き日の習作」として分析対象になってしまうのも甘んじて受けよう。
しかし、問題は、これ文学研究じゃないですよね、という話で、テキストにあらわれる語の頻度を分析してフィルタリング機能に活かそうとかそういう研究だとまた違う話になる。たとえば「夏目漱石の作品中における接続詞の使用頻度」みたいな研究なら著者を明かすことに意味はあるけれど、この場合はそうじゃない。まあ一般的な語の用法の分析じゃないからコーパス使えないことはわかるけど、「有害な表現のフィルタリングのため」という目的で用法を研究するなら研究対象の具体的なURLと作者名は伏せた方がいいだろうし(これがまだせめて「“尊い”という語の用法」みたいに価値判断を加えていなければよかったかもしれないけど)、そもそも個々の作品のURLを列挙できる段階でちゃんとした研究とはいえないんじゃないんですかね。ふつうそういう研究なら、「○○新聞のデータベースで××年分の記事を検索して調べました」とか「pixivのデイリーランキング上位20作品を平成××年△月から△月まで○ヶ月にわたって調査しました」みたいなデータになるはずで、分析対象が10作品だけって段階でサンプル少なすぎるでしょ。いやもちろんサンプルが少ないから悪いというわけではないけど(談話分析とかならたった30分程度のTV番組を分析するだけで論文1本書けるだろうし)、フィルタリングを情報工学的に考えるならまずサンプルたくさん集めないと話にならないというか……
「pixivの規約に引用禁止と書かれている!」という主張はなんとも微妙だ。「は? それpixivの内輪ルールだろ? 著作権法上は自由なんだよ!」というカウンターも見られるが、そう簡単な話でもないと思う。
一般論として、引用は著作権法で保護されているので、それが適正な引用である限り(主従関係とか出典の明示とかそういうことね)自由に引用してよい。なので「無断引用禁止」と書かれている痛いサイトも自由に引用して叩いてよい、ことになっている。そういう意味では、「支部の規約より著作権法の方が偉いに決まってんだろボケ」派の言うことは正しい(実際、著作権的にはこれ問題ないとみなされる可能性が高いのではと思うが、法学クラスタの皆さんその辺どうなんでしょうか)。
しかし、ここで問題になってくるのは
ということだ。
それを読んでいるということは、検索で行き当たった作品を引用しているのではなくpixivのアカウントを取得してログインしそれらを読んでいるということだ。ということは、利用者としてpixiv規約を守る必要があるのではないか。少なくとも、利用しているサービスの規約に反して収集した情報を引用するのは、研究倫理に反するのではないか。
※追記:pixivの規約見たら「本サイト及び関連サイトにアップロードされている投稿作品の情報を、当該著作者(創作者)の同意なくして転載する行為」が禁止なのね。じゃあ、別に引用はしてもいいんじゃん。少なくともこの点で研究倫理がどうこう言うのは不当な非難だと思うので謝罪の上撤回します。
たとえそれが個人的な談話であっても、社会学や文化人類学では引用してよい。「○○村の女性Aさん(45)が私に語って聞かせた結婚生活の愚痴」なんてのも、これらの分野では立派な研究対象だろう。ただしその場合、事前に「私はこの村に社会学や文化人類学の調査で来ているので、皆さんの発言を研究に使います」と断る必要がある(増田にはフィールドワークの経験はないので、実際にどんなふうに許可を取るのかは知らない)。たとえそのような許可を取って滞在している村の住人の発言であっても、「これは絶対に論文に載せないでね」と言われたのに論文で引用したら、そらアウトだろうと思う。
だいいち仮に許可を取ってのことだとしても、社会学や文化人類学の研究なら普通は発言者をボカす。社会運動の指導者とかでもない限り、現代社会に生きる無名人の名前をそのまま載せるなんてありえない。ふつうは、AさんBさんとか、長門さん(仮名)と陸奥さん(仮名)みたいに処理した上で引用するの。
仮にそれが著名人であったとしても、使っちゃいけない、使うべきでない類の資料というのもある。たとえばちょっと前に、毎年ノーベル賞獲れなかったと騒ぎになる某作家さんの高校時代の図書館での貸し出し記録を調べてドヤ顔で記事にしてた新聞があったけど、と、図書館の自由に関する宣言~~~~~ってなりますよね(実際日本図書館協会は激おこだった)。
これが歴史学だとまた話が違ってくるというか、たとえば、百年前の新聞の投書欄を分析して当時の世情を研究するみたいな研究は割とある。その投書欄に書いているのは農民だとか小役人だとか、まあ市井の人々なわけだけど、投書欄に実名を載せているなら実名ごと引用され分析される(ていうかふつう実名をそのまま引用することはないけど、「○○という人物は次のように言っている」と地の文で書かれるとか、注釈で書誌情報の一部として実名が記されるとかはよくあること)。
ただし、これは「百年前の」「新聞への投書」だから許される話だ。書いた本人はたいてい死んでるし、遺族がいたとしてもたいして不利益はない。これがたとえば、公開を意図せずに書かれたお役所の文書だったらどうだろう(近代史でメインに使う史料というのはたいていこれだ)。もちろん、単に「○○という市民が食糧配給が少なすぎると文句を言ってきた」程度の内容なら実名を出してもいいだろうと思う。でも、それが故人の名誉を傷つける内容だったら? 徴兵された普通の人々がどのようにして戦争犯罪に加担していくか、という研究で、某中二病患者に人気の国の国防軍関係の史料が引用された時には、登場人物の多くがイニシャルだった。
インターネットにおけるレイシズム、みたいな研究で、twitterの膨大な投稿を分析し発言者を特定しない形で差別発言の例を挙げることは許されているけど、それが実際のアカウントと紐付けられる形で提示されたら、やっぱまずいんじゃないの。研究対象が著名人であるとかなら別だけど(twitterで右寄りの発言ばっかりしてるラノベ作家がいたとしたら、その人の思想を研究する上でそういうツイートを参考資料として引っ張ってくるのはまあアリだとは思う)、研究というのは告発のためのルポルタージュでも責任追及のための裁判でもないのだから(レイシズムに無批判であるべきだ、という意味ではないので念のため)。
それを考えると、やっぱりあそこで個々の作者さんの名前を出す正当性は全然ない。出典の明示にしても、「○○というサイトで××年~××年にかけて上位20位に入った計△△作品を分析しました」でじゅうぶん。その上で個々の発言者が特定されない形で「バナナ」という語の使われ方を存分に研究すればよかった。
=何が言いたいかというと、確かにあの論文は研究倫理に反するけど、それは同人小説を研究対象として引用することがいけないからではないので、批判する側も適切な論拠を選んだ方がいいですよ、というお話でした。
何でこんなもんを載せたんだ、査読してないのか、という意見もあるけど、してないか名前だけのザル査読なんじゃないかなあ。これ、フルペーパーではなくて学会発表のプロシーディングでしょ? 情報系は知らんけど、人文系だと学会発表で査読しないところもまだまだ多いですよ(内容が酷ければ質疑応答でボコボコにするか論文投稿時に査読で落とせばいい話なので口頭発表時点で査読が無いことは別に悪いとは思わない)。まあ、PDFとして載せちゃった以上は責任問われるのも仕方ないと思うけどね。最低限そこは査読なかったとしても編集委員会の判断とかで弾こうぜ。
あとこれ多分M1の学生の研究に助教と准教授が名を連ねてるだけだとは思うのだが、まあ共著者として名前連ねてる以上は責任を負うってことなんだろうし、実際M1の学生が袋叩きになるよりも准教授が叩かれる方がマトモだとは思うので、うん。
社会調査するならこれ読んどけ! 的なものとしてマサキチトセさんの翻訳が拡散されてる。
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1758
マサキチトセさんの訳は丁寧だし、社会調査しようと思うなら必要だと思うけど、これこの件に関係ないよね? ごっちゃにしてない?
いちおう言っておくと、
ってこれ全部別の話だからね。
正直、腐女子が研究者や研究者コミュニティに不信を持つのは当然だと思うし、それは腐女子を面白いオモチャとしか見てこなかった研究者サイドの自業自得なので、「法的に問題がないことはわかったけど、あいつらのやっていることは信用できない」と思うのは無理ないです。その感情を否定したいわけじゃない。ただその感情の根拠としてぼくのかんがえたちょさくけんほうとかわたしのかんがえたけんきゅうりんりとかを振りかざさないでほしいだけ。正しい認識の上に立ったところで研究者に対する信頼が急に生まれるなんてことあるわけないんだし。
研究で「引用」というと文献リストに載せるやつなので,今回の件では研究用語的には「引用」では無いんじゃないかなあ。法的には分からない。pdfは全発表のを出してるんだから,いちいち弾いてらんないでしょ。
文系では文献リストは必ずしも必須ではないのよね(この辺、理系からすると何それかもしれないけど)。たとえば文献情報を全部脚注で書いちゃうやつだと文献リストはなくてもいい(だって書誌情報、つまり引用元の出典は脚注で示しているんだから論文の最後にリストとして挙げる必要はないでしょう? もちろん脚注にきちんと文献情報載せない場合は文献リストが必要ですよ)。あと、参考文献リストにない文献を引用するときに注で補ってもいい。
これ日本だけのローカルルールじゃなくて英語圏でもあるからね。たとえばNationalism and Ethnic Politicsなんかはこの方式のはず。
いちいち弾いてらんない、ってのは、せやな。こんな発表が許されるなんて学会の研究倫理はおかしい! とか騒いでる人もいて頭が痛いよね。アホか。
こうして燃えてる時点で侵襲性があるということになるのでは。「衆目に晒された→恥ずかしい→公開をやめる」が「過剰反応」だとしてもそのせいで研究対象は消えてしまったわけで。
ここで言ってる「侵襲性」ってのは、研究発表以降の話じゃなくて研究をする段階の話です。つまりデータを採る段階。
お医者さんだったら、患者さんを診察室に呼びつけて、服を脱がせて、相手が医者じゃなければ屈辱的な姿勢(ケツの穴を見せるとかね)をとらせたりして病気を診察して、それで病気や怪我のデータを採るわけですよね。社会学だったら、時間を割いてアンケートに答えてもらったり、面談してもらったりする。文化人類学なら、調査地に住み込んで、同じメシを食って家族の会話に割り込みながら相手の文化を学んでいく。そういう研究手法が、侵襲性のある、侵襲性の高い研究だってことです。
こういう研究をするときには調査される側の同意が必要だし、データをどこまで公開していいか決める権限は調査される側が持っている、というのが、あちこちで訳知り顔で語られている社会調査の鉄則です。
でも、文献調査はそうじゃない。いったん公開してしまった情報であれば、それを調べる段階では調査される側=文章を書いた人にとっては基本的に関係のない話。だってそうでしょう? いったん公開された情報については、研究者は、本屋さんで本を買ったり、図書館で雑誌のバックナンバーをあさったり、パソコンの前でマウスをポチポチするだけなんですよ? これにいちいち事前の同意が要るという主張はどう考えてもおかしいわけで。
医学論文でもカルテ調査するなら患者本人には(直接的には)迷惑かからず、それを氏名つけて公表したあとに患者本人に影響出る可能性が出てくるわけで"根本的に違う"というのがよくわからん。
カルテって、出版されたり、数万人の会員がいるSNSにアップロードされたりしてるんですか? 根本的に違うってのはそういうことです。当たり前ですけど、二次創作小説でも「作者が誰にも見せずにしまっているもの」「数人の親しい友人以外には見せていないもの」を引用するには許可が必要だし、無断で引用したら大問題ですよ。
会員制で見たい人だけが見られるようにしてある物を引っ張り出してきても許される、引用や研究ってそんなに万能なんです…?
少なくとも引用は万能です。数人の仲間だけにパスワード教えて見せてたならともかく、捨てアドがあれば誰でも会員になれて、数万人規模の会員がいるところに、会員なら誰でも見られる状態で置いてあるものは、著作権法上公開されたものと考えていいと思います。なのでそれが適正な引用方式に従っていれば引用はオッケー、お国の法律が認めてくれてます。やったね!
(ていうかその理屈だと、お金払わないと読めない学術雑誌に掲載された論文は無断で引用しちゃいけないことになりますけど、それでいいんですかね……? NatureとかCellもウカツに引用できない世の中、やばくね?)
研究はこれから議論されていくところなんじゃないかな。少なくとも昔は、書かれたものというのは「書店や図書館に流通し誰でも読める状態に置かれる」か「私家版としてごく少数の人のあいだで流通するか机の引き出しで死蔵される」の二択だったわけですよ。「数万人の会員がいるサイトで公開されてるけど一般公開はしてません」なんて状況、想像もしてなかったでしょ。この辺は今後頭を悩ますしかない。そういうめんどくさいのが嫌な人は歴史学とか古典文学とか考古学とか関係者が軒並み死んでる学問をやりましょう。
二次創作が研究対象になるなんて前例がなく誰もそんな想定をして書いてない。これは前例がないことだということを頭に入れていきなり研究の場に引き釣り出されて心の準備が追い付かない人の気持ちも憂慮してほしい。
前例はあります。
今手元にないんで間違ってたら申し訳ないんですが、2004年に男性向け作品での美少女表象を研究した本が二見書房から出ていて、バッチリ同人誌も引用されてたような。手元に確実にあるやつで確認すると、2009年に創刊されたコンテンツ研究系の学術誌に載ってる尾道の聖地巡礼史を論じた研究では、聖地巡礼同人誌が引用されてます。探せば同人誌を引用した研究はもっと出てくるんじゃないかな。コンテンツ研究だと痛絵馬の分析とかもやってるし、そこまでおかしな事態じゃないです。この辺の学術動向知ってれば「前例がない」なんて発想こそ出てこないですよ。何を今更。
まあ、素人さんがそういう学術動向知っとけ、って無茶ですよね。でも、これでわかったと思うけど、学術って開かれているけれど閉じられた世界なんです。興味のないことには誰も目を向けない。同人誌も同じです。女性向けの島中に置かれてるマイナーCPの薄い本なんて、理屈の上ではコミケ来場者全員に買う機会があるけど実際に買うのはごくごく一握りでしょ? はっきり言って今回の論文だって似たような位置づけなわけですよ。知らない場に引きずり出されて不愉快に思うのはよくわかるし、同情もしますけど。
あとこれ言うと揚げ足取りになっちゃうんであまり言いたくないんですけど、『アララギ』とか『白樺』だって同人誌だし(ていうかあっちが元祖)、そういう意味での同人誌ってたくさん研究で参照されてるし、CiNiiで「同人誌」で検索かけたら戦時中の誰も読んでないようなマイナー文芸同人誌を詳しく紹介するみたいな論文がヒットするわけですよ。同人作品だから引用しちゃいけないとか研究の場に引きずり出してはいけないって言われても、それどこの星のルール? っていう感じがします。明治文学研究とかルール違反の百貨店や~。
これ発表してから2ヶ月近く経って、いろいろ考えましたが、やっぱり私は研究倫理には反してないと思いますね。人に不愉快な思いをさせることがすべての局面において研究倫理に反するわけではないし、やっぱり引用の権利は厳然としてあるので、そこを突っぱねるのは筋悪かな、と。
雑感
もともと文科省は獣医を増やしたくなさそう。新しい要請に対しても、今の定員・体制でやってくれという態度。
それをふまえて、「ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野」だけでなく、「既存の大学・学部では対応が困難」という条件がついた「日本再興戦略改訂2015」があったのだと思う。
その視点で見ると、京都は新たな分野の主張や、鳥インフルエンザ研究センターなど強い基盤を持つといった利点があるものの、「既存の大学・学部では対応が困難」へのアピールに欠けるように感じられた。たとえば、「地域振興に資する産業動物獣医学教育の実施」として、「1.産業動物獣医学に重点を置くシラバスの設定」「2.京都府農林水産技術センター畜産センター、碇高原牧場を活用する実践教育の充実化」「3.自治体、農業団体、生産農家でのインターンシップ」とあるが、これらは他の大学・自治体で提案する場合でも同様に書けることではないだろうか。その一方で、四国には獣医系大学がない現状で「危機管理発生時の学術支援拠点」を作り、四国ゾーンとして家畜の感染症の1次封じ込めを目指すというのは地域性に根ざした説得力があるように感じる。
まあでも、「日本再興戦略改訂2015」で「現在の提案主体による」と言ってるのはまあ気になりますかね。諮問会議では「地域での感染症に係る水際対策」とか「現在、広域的に獣医師系養成大学等の存在しない地域に限り」としているし、それなりの目論見つけた上での言い方はしてるよね。
今日の参院厚生労働委員会。福島瑞穂議員は、たぶん速記録が出た時点でブログで公開してくれるので、書き起こす気力がわかないわけですが、福島さんはやさしいなぁと思った次第。これが森ゆう子議員なら、「差し替え依頼のメールなり手紙なりを見せろ」というところだと思うよ。てかこんなん許しちゃダメでしょ。日精協のほうがまちがえていたということだけども、向こうの口封じなり、つじつまあわせなりはちゃんとできているのかな?
「重度かつ慢性に関する診断基準、これは資料と新聞を付けておりますが、厚労省は、第五期障害者福祉計画、二〇一八年から二〇二〇年度において重度かつ慢性に該当しない長期入院精神障害者の地域移行を目指すという方針を出しています。また、これからの精神保健医療福祉のあり方に関する検討会、あり方検討会によると、一年以上の長期入院精神障害者、約十九万人、認知症を除くの六割以上、約十一万人が重度かつ慢性に該当するとされています。 障害者の地域移行は世界のスタンダードです。であるにもかかわらず、十一万人もの人々が地域移行から排除されるのは問題ではないでしょうか。」
「精神病棟に入院後、適切な入院医療を継続して受けたにもかかわらず一年を超えて引き続き在院した患者のうち、精神症状、行動障害、生活症状、身体合併症などの基準から重度かつ慢性の基準に満たすとされる方についての御質問でございますけれども、当該基準を満たすことを理由に地域移行へ向けた取組の対象から外れるようなことがあってはならないと、それから当該症状を有する障害者にはより手厚い入院医療を提供することで、できる限り地域移行に結び付けていくことが方向性として確認されているものでございます。
また、第五期障害福祉計画では、平成三十二年度末の長期入院精神障害者の地域生活への移行に伴う地域の精神保健医療福祉体制の基盤整備量を明記することといたしてございます。この第五期というのは平成三十年度からのものでございます。 基盤整備量を算出するに当たりましては、御指摘の重度かつ慢性の基準に該当する患者以外の地域移行だけでなく、治療抵抗性統合失調症治療薬の普及等によって御指摘の重度かつ慢性の基準に該当する患者の地域移行が進むことも想定しているもので
ございます。」
「ただ、十一万人が重度かつ慢性というのはどうでしょうか。この基準作成は厚労省の補助研究事業研究班が作成しておりますが、この研究班やあり方検討会に精神科病院の業界団体である日本精神科病院協会幹部がメンバーとして入っております。十一万人が地域移行をするのか、それとも引き続き入院したままなのかは極めて重要な経営問題でもあります。利益相反ではないでしょうか。」
「御指摘の重度かつ慢性の基準は、精神症状、行動障害、生活障害、身体合併症について重症度を評価するものであることから、精神医学の専門的な知見を有する医師等が中心となって作成したものと認識してございます。 また、これからの精神保健医療福祉のあり方に関する検討会では、当該基準を満たすことを理由に地域移行へ向けた取組の対象から外れることはあってはならないこと、当該症状を有する精神障害者にはより手厚い入院医療を提供することでできる限り地域移行に結び付けていくことが方向性として確認されてございます。
このため、精神科病院の医師等が作成しているということで利益相反にはならないというふうに考えてございます。」
「ただ、この十一万人がまさに重度かつ慢性というこの診断基準はおかしいと思います。資料として、配付資料八、九に付けております重度かつ慢性を診断する際の基準となっているBPRS、簡易精神症状評価尺度は、その第一項目、精神症状の評価基準として十八項目における点数、なしの一点から最重度の七点までの七段階評価の合計を四十五点以上としています。十八項目の総得点が四十五点以上ということは、一科目平均二・五点以上で重度かつ慢性とみなされるという意味になります。
しかし、BPRSの点数表においては、二点はごく軽度であり、三点は軽度となっています。四点が中等度、五点がやや重度、六点が重度なんですね。ということは、二・五点平均点で取っていると、でも三点が軽度で二・五点はごく軽度なんですよね。ですから、各項目における評価基準と総点数の評価基準とが著しく乖離していて、評価尺度として適用するのは不適切ではないでしょうか。」
「精神疾患の重症度を評価する重度かつ慢性の基準を構成するBPRS、簡易精神症状評価尺度の評価基準につきましても、研究班に参加している有識者の合意形成に基づき作成されてございます。研究代表者によりますと、BPRSの評価基準につきましては、総得点四十五点以上は治療抵抗性の精神症状を評価する際の目安として学術的にも用いられている、いずれかの項目で六点以上となれば重度な症状を有していると言えるといった考え方の下、有識者の合意形成に基づき設定したとのことであり、一定の合理性があるものと考えてございます。
いずれにいたしましても、これからの精神保健医療福祉のあり方に関する検討会報告書においては、御指摘の重度かつ慢性の基準によってより配慮された名称並びにより適切な基準となるよう、学会など様々な場において引き続きの検討が必要であるとされてございまして、今後これを踏まえて適切に対応してまいりたいと考えてございます。」
「でも、重度かつ慢性が十一万人、六割以上がそうだとなると、地域移行の歯止めになっちゃうじゃないですか。イタリアとかは御存じ、入院をしないようにするとか、大臣はいろんなことに明るい方ですから、もっと精神障害者の問題を地域へというのはよく御存じだと思います。その意味で、これの重度かつ慢性の評価基準はおかしいと思います。」
この利益相反指摘に対する資料の話。かいつまんで言うと、日本は他国に比べて、身体拘束をする、重度・慢性とされる患者の割合が非常に高いわけで、その基準が精神科病院を経営している、日本精神病院協会によって決められているっていうのがやっぱりまずいんじゃないですかっていうのが前の福島議員の指摘。それで資料請求したら、5月11日に届いたんだけれども、その内容が5月15日に届いた河合孝典議員らに配られたものと、利益相反の有無についての回答がしれっと書き換えられていた、というのが今日の冒頭の指摘。
この後採決に向けて、理事会開催のためと思われる休憩で、散会しないとアーカイブが見れないので覚えてる範囲の概要だけ。詳細は福島さんのブログに明日、あさってぐらいにはアップされると思いますよ。
・福島議員が、たまたま河合孝典議員らと、示された資料を一緒に見ていたら、福島議員のものだけ、川崎市の病院で行われた研究班の26年度報告書に関して、利益相反はない、と書いていて、他の2議員のものは利益相反の可能性があると書いてあった
・これはいったいどういうことですか、ときくと、日本精神病院協会から提出された資料について、本年5月8日に、日精協のほうから、資料に間違いがあったので、差し替えて欲しいという依頼があったので差し替えた。
・福島議員に古いものを渡してしまったのは単なるミスといいはる堀江部長。
・福島議員は、これは国会で取り上げられたから、利益相反ではないと考えている旨を書いてあったらまずいと思ったから、厚労省から頼んだのか、日精協が頼んだのかしらないけど、あとから言ってみれば捏造したんじゃないのかと指摘。
・あくまで間違いであって、これを差し替えさせてもらったと言い張る堀江部長。
・福島議員は、この2年間、間違った自己申告に従って。拘束の基準となるような重大な会議の資料が作られていたというのならば、こんなにサラッと修正しましたーで済ましていいわけがない、ミスならミスとして、誠意を持って対応するのならば古いものと新しいものを2枚くっつけて、こちらは間違っていて、いついつまではこちらが使われていたとするべきじゃないか、と指摘。もし私に間違えて古いのを送ってこなかったら、こっそり差し替えて、何事もなかったかのようにしてたんじゃないのか。厚労省ぐだぐだだけど大丈夫ですか、と塩崎大臣に振る。
みたいな流れ。これはまぁ、4月25日質疑で、利益相反じゃないかっていう話題になって、それを当事者が自覚してないみたいな報告書になってるのはまずいから、こっそり差し替えたはずが、間違って古いのを渡してしまったって話で、いってみりゃあいつもの証拠隠滅をするつもりが、失敗しちゃっただけだと思うんだけど、福島さんはやさしいからなぁ。
おじゃまじょどれみのどれみたちの股間部分をどう解釈するかがなかなか面白い
りんごに鉛筆が2本つきささってるみたいな股間だから、普通の股間とは絶対違うんだよね
したがって俺がどれみの薄い本を集めるのはそういった学術的興味であってやましいものが第一ではないといいたいがそうでもないんだよな
おんぷちゃん大好き
20世紀に出た面白い本は学生時代にザーッと読んできた。エンタメも学術書も好きだった。でも21世紀からこっち書店にも図書館にも足が伸びなくなった。自覚はないけれどやはり好奇心が落ちたのだろう。一旦読まなくなると情報が入らなくなり読書の動機もどんどん無くなっていく。読まなくたって仕事には何の支障もないしね、なんて思ってたら負のスパイラルまっしぐら。
これではいけない、俺は本好きだったはずだろう、そう思いながらもう17年。よしと一念発起、しかし久々に手にとる分厚い本に挫折、挫折につぐ挫折。すぐに寝ちゃう。読む体力の無さに愕然とする。こんなはずではと思うもこれが現実。こんなとき若いころなら手当たり次第にオモシロそうな本を読みあさったのだろうけど、もう本当にそんな気力はない。ないの。
なので表題が「サクッと読めて面白い本を教えてくれないか」となるわけだね。できれば最近に出た本がいい。もう一度読書を始めたいオッサンに情報をよろしくおねがいします。
東大医学部の面会交流論文が、話題となっている。http://www.scirp.org/journal/PaperInformation.aspx?PaperID=74779&#abstract
DVを行ったとされる父親との面会交流を行っている子どものほうが、行っていない子どもよりも、ひきこもりや抑うつなど、精神的問題、行動上の問題を抱えやすい、という論文である。
この論文は、フローレンス・駒崎弘樹氏が3月末にそのブログで、面会交流によって子どもの心が壊される、という彼の主張を裏付ける「エビデンス」として紹介したことを皮切りに http://blogos.com/article/215491/ 、4月末に行われた「当事者の声を国会へ」と題する衆議院第一会館での院内集会や、「「国連・人権勧告の実現を!」実行委員会」による「第20回学習会 ハーグ条約と親子断絶防止法案」 http://jinkenkankokujitsugen.blogspot.jp 等でも取り上げられたようであり、さらに5月5日には産経新聞にも紹介された。
つまり、これは、現在、国会議員らによって提出が検討されている「親子断絶防止法」の策定を左右しうる重要論文である。
日本では、別居親と子どもの面会交流は、家庭裁判所が間にはいる場合、月1〜2回、4時間程度できれば良い方で、高葛藤や面会拒否が強い場合は月1回に2時間未満のことが多いと思われる (参考: http://oyakonet.org/documents/report_h2308.pdf )。DVがあったとされる父親であれば、その頻度・時間はさらに減少するだろうし、FPICのような第三者機関の補助を得て行うことがほとんどで、面会交流時にDVあるいはそれに近いような行為をすることは稀であると考えられる。父親も子どもを愛おしく思い会うでのあるから、短い時間の中ではその子どもを喜ばせようとすることが多いであろう。そのような状況で父親に会うだけで、本当に子どものひきこもりや抑うつの危険性が高まるというような因果関係が本当にあり得るのだろうか?
そこで、研究論文を読むことのできる有識者にこの論文を読んで学術的に評価してもらった。そうしたところ、この論文は、きちんとした学術研究のレベルに達していないひどい代物であるようだ、ということがわかってきた。
研究対象としている母親の数がわずか38名、面会交流を行っている子どもの数が19名、面会交流を行っていない子どもの数が30名と、この種の簡易なアンケート形式の研究としてはNが圧倒的に少ない。混交要因の統制が全くなされていないどころか、群毎の基礎的統計の記載すらない。各群の基礎的な数値(Demographic characteristics)が両群でまとめて書かれてしまっていて、分けて記載されていないのである。つまり、母親の学歴・収入、精神疾患罹患の統計値、離婚の有無、別居からの経過年数、子どもへのDVの有無・程度などが、各群で分けて記載されていない。加えて、両親間の葛藤の強さ、裁判・調停・審判などの有無、なども混交要因として示されるべきであろう。これらの混交要因候補の指標のうちいくつかについては、この程度の少ないNであれば、各群で偏りが出てしまうことのほうがむしろ普通である。本来、これらは分けて記載すべきなのに分けてないということは、これらのどれかで差が存在してしまっているので、それを意図的に隠蔽している可能性もかなりあると推定される。対象の被験者集団は非常にヘテロな集団で、僅かなサンプル数しか取得していないにも関わらず、これらの指標について群ごとに示していないようなものは、まともな調査研究と言えるレベルのものではない。
「面会交流を行っている子ども」が父親と面会交流を行っている頻度の平均が、なんと僅か平均2.2回/年。Nもたったの19名。そのSDが2.2でレンジが0.5回~6.5回/年。年間2.2回というのは半年に一回しか会わないということであり、年間0.5回の面会交流というのは2年で一回しか会わなかったということ。しかも、この研究では、DVをしていたとされる父親との引き離しからの平均年数が6.9年も経っているのである。仮になんらかのDVがあったとして、引き離し後に7年もたったあとの、そのような僅かな回数の面会交流が、引きこもりや抑うつのリスクを統計的に有意に上げることは、常識的に極めて考えにくい。
この研究は、質問紙を使ったアンケート形式のもの。回答を行ったのは子ども本人ではなく、DVを受けたと称している母親。最近のことであるので、当然、親子断絶防止法のことも知っている母親が多いであろう。回答者が研究の(政治的な)目的を知った上でバイアスのかかった回答をしている可能性があり、そのような可能性を排除するような工夫が全くなされていない。
方法によると、リクルートされた69名の母親のうち、8名が「精神疾患に罹患している」という理由で除外されている。除外されていない回答者の中にも精神に問題がある人がいるようであるが、除外の明確な基準は何か?都合の良い恣意的な除外なのでは?また、回答した60人のうち、22人が、「質問に全部回答できていなかった」という理由で除外されている。合わせると実に35%もの被験者が除外されているのである。このような被験者数がごく僅かの調査において、全ての質問に回答しなかった、という理由のみで除外することが許容されるのか?この研究では、各質問について統計解析を行っているのみで、それらの統計を行う上で、「質問に全部回答する」ということは全く必要とは言えない。つまり、除外する必要がない人を多数除外しているのである。これは、後付で、そのように除外することによって「有意差」が得られるからではないのか?
このジャーナルを出している出版社はいわゆるpredatory open access publisherに分類されている。以前、過去にどこかで発表された論文をたくさん集めて無断で掲載していたことをNature誌に報道されたこともあったり、意図的にでたらめな論文を作成し投稿された論文を掲載してしまったり、無断で研究者を編集長として掲載していたり、という前歴のある「ならずもの出版社」の一つ。 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_Research_Publishing 当該の論文を掲載しているOpen Journal of Nursingも編集長を調べると、教育しか行っていないような大学教員であり、責任著者としてはこの10年で1報しか論文を出していないような人である。このジャーナルは、医学生物学文献の権威あるデータベースPubMedにも、もちろん掲載されていない。この出版社のジャーナルではまともな査読がなされていない可能性がかなりあり、筆者らの所属大学を筆頭とする多くの日本の大学が、この出版社をうまく利用してしまっている事実が指摘されている。https://science.srad.jp/story/15/12/07/0554222/
上記の各ポイントは他の標準的査読が行われている科学雑誌では指摘されるのが当然であり、普通はこのままでは受理はされない。であるからこそ、このような出版社のジャーナルから発表している可能性が高い。
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以上のような深刻な問題を抱えている論文であるため、その有識者は、この論文の著者にデータの開示や、群毎の基礎的統計の提示を求めるなどの連絡を責任著者に対し行った。当初、責任著者からは何の返事も得られず、そのため、その責任著者の所属の学科長にも連絡を行った。それでも何の返事も得られなかったため、所属大学の「科学研究における行動規範に係る不正行為に関する窓口(本部)」に通報を行った。
文部科学省の「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/08/__icsFiles/afieldfile/2014/08/26/1351568_02_1.pdf
「研究者に対して一定期間研究データを保存し、必要な場合に開示することを義務付ける規程を整備し、その適切かつ実効的な運用を行うこと」
を義務付けている。
「国立大学法人東京大学における研究活動上の不正行為の防止に関する規則」
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/au07410491.html
には
「研究者は、研究活動の正当性の証明手段を確保するとともに、第三者による検証可能性を担保するため、文書、数値データ、画像等の研究資料及び実験試料、標本等の有体物(以下「研究資料等」という。)を別に定めるところにより適切に保存し、開示の必要性及び相当性が認められる場合には、これを開示するものとする。」
とある。
当該論文は、国の立法に影響を及ぼすことを目的として各所で用いられているのであり、データとその解釈に科学的に正当な疑義が提出されており、また開示しない特別な理由もない以上、データ開示の必要性があるのは疑いがないところであろう。
つまり、この定義によると、再三のデータ開示の求めにも応じず拒否し続ける責任著者らが、この規則に違反しているとみなすこともできるであろう。つまり、この規則によれば、この論文の著者らは、ある種の不正行為を行っている可能性があることになるのである。
この通報後、窓口担当者らは、本件について医学部長らと議論し、その結果、この論文の責任著者はその有識者に回答のメールを送付した。しかしながら、その回答には、
・倫理委員会で承認された研究手続きを逸脱することになるのでデータは開示できない、
・混交要因の候補の変数について両群で比較した結果、有意差はなかった(実際の統計値の提示は全く無し)、
・その他は、科学者コミュニティーでオープンに議論すべきなので、当該Journalにletters to the editorとして質問せよ、
との主旨の内容があるのみで、リクエストや指摘の重要ポイントについては、実質的な回答は全く得られなかった。
その有識者は、4月26日にその論文のウェブサイト上のコメント欄に上記ポイントについて書き込みをした上、議論を行うよう著者にメールにて依頼を行ったが、著者らからは、5月9日現在、何の返事や回答も得られていないとのこと。
http://www.scirp.org/journal/PaperInformation.aspx?PaperID=74779&#abstract
著者らの誠実な回答と、著者らの所属大学による速やかで適切な対応が期待される。
その有識者は、こんなことを言っていた。
「科学の基本は「エビデンス」ではないのか?そしてその「エビデンス」とは、データそのもののことではないのか?そのデータがなぜ有識者にすら提示できないのか?連結不可能匿名化されたデータであれば提示はできるであろうし、すくなくとも重要な混交要因候補について各群ごとの統計数値のテーブルくらいは提示すべきではないのか?
データ不在で第三者による検証ができないような「科学」は、もはや「科学」とはいえないのではないか。それは控えめに言って疑似科学、さらに言えば、科学の名を借りたカルトである。そんなものに、国の立法が影響を受けること、そして多くの人々の生活が影響されることがあってはならない。」
・・・・・
以下、5月15日追記。
「ブログの文章を読む限り、分析の妥当性をめぐる疑問のように思われました。そういうことを、「不正」などと言ってはいけないと思います。」
との指摘をツイッター上でいただいた。
しかし、このブログで指摘した不正の可能性は「分析の妥当性」についてではない。指摘したのは、リクエストに応じてデータを開示しないことについての不正の可能性である。
「研究者は、研究活動の正当性の証明手段を確保するとともに、第三者による検証可能性を担保するため、文書、数値データ、画像等の研究資料及び実験試料、標本等の有体物(以下「研究資料等」という。)を別に定めるところにより適切に保存し、開示の必要性及び相当性が認められる場合には、これを開示するものとする。」
とあり、これに違反しているのではないか、という指摘である。この点、ご留意いただきたい。
・・・・・
以下、5月29日追記。
「東京大学大学院の研究グループが面会交流による子どもへの影響などを初めて調査した結果だ。」
「面会交流は子どもにとって良いことだと言われるが、DVがあった別居親との面会では、こどもたちは長期にわたり悪影響を受けている。」
などと、面会交流が子どもに悪影響を与えたと因果関係として紹介されている。
しかしながら、当該研究は単なる相関を調べた調査であり、しかも上記のように混交要因についてきちんと吟味されておらず、(仮にデータそのものが正しかった場合でも)因果関係については主張することは極めて不適切である。相関と因果関係の区別をしないという、基本的な誤りをおかしているといえる。
以下、6月28日追記。
春名氏による当該の論文サイト上での回答を受け、親⼦ネット、中部共同親権法制化運動の会、親⼦断絶防⽌法全国連絡会などが連名で、東京大学の窓口に不正疑惑の申立を正式に行った。
「全国連絡会は構成団体及び杉山弁護士、石垣臨床心理士と連名で「春名めぐみ 東京大学大学院医学系研究科准教授」の論文に対する下記申し立てを同⼤学科学研究⾏動規範委員会に対して行いました。」
千葉県が作成・保存する公文書を収集する県文書館が昨年、戦没者名簿や遺族台帳など第二次世界大戦の関係文書約500冊を廃棄していたことが学術団体などの調べで分かった。県は「『不要』と言い切れないものもあった」と落ち度を認めている。1952年度までに作成・取得した公文書を「歴史公文書」として文書館で保管するよう定める県の内規にも違反する運用だったという。
県文書館は2016年3月までの1年間に所蔵公文書1万177冊を廃棄した。歴史的文書や記録の保存・活…
ニュースサイトで読む: https://mainichi.jp/articles/20170407/k00/00m/040/133000c#csidxeb58b4cc8b897639ef0e1c6e0f919be
中途半端な学識経験をもった人が、大学への私怨を溜め込んでいることがある。
そういう人は、学術論文を書いて研究業績を増やすよりも、論壇誌やブログ、ネットメディアなどにせっせと文章を書いていたりする。
特に保守系の文章を書いていれば、そういうのが受ける時代なので、論壇誌には載る。中公や岩波でなければ、新書を出せることもある。たとえ学術的にはお話にならないレベルの暴論であっても。
だが、そういうレベルの原稿を書いていると、アカデミズムの世界はどんどん遠くなる。公募に出しても、選考委員に敬遠されてしまい、まず通らなくなる。公募とはいえ、一緒に働く同僚を探すのだから、ツイッターで暴論を吐きまくっているような人はできれば避けたいと思うのはやむを得ない。TS大学など、その手の人に甘い大学もあるにはあるが、なにせ数が少ないので、ポストも限られてしまう。
結果、その手の人は大学への私怨を溜め込むようになる。「自分が大学に就職できないのは、サヨク連中が大学を牛耳っているからだ」みたいな話になる。実際には学術的な業績が乏しいのが最大の理由なのだが、そこには目を向けない。
ということで、お気軽な論壇デビューは、アカデミズムへの遠回りになることもありえるので、特に若い人には十分に注意してもらいたい。
うんうんうん一橋から科技大になんとかっていう記事がバズっててそういううちも日本でトップ3に入る国立大学の某理系准教授の配偶者なんだけどさ。
給料まじやっすい。一橋よりちょっとだけ高いけどほぼ同じぐらいやっすい。
いや、一般企業からしたら普通とかちょっと高いかもしれないよ。
でももろもろの家賃補助とかなんだとかみんな入れて年収700弱ぐらい。
で、日本の学術界のトップでこれだからね。共働きじゃないとまともに子どもに教育させてマイホームとか無理。
で、ものすごい激務。だいたいみんなものっすごい優秀な人ばかり集まるから普通の人の何倍ものスピードで仕事回して、事務作業に追われて、研究できなくなって、以下どこかで見たようなテンプレの出来上がりで、年収700弱だから。
大学所属の研究者は例え日本の学術界トップの国立大学所属の准教授でも、家族を持って子供にまともな教育を受けさせようとしたら、都内では中古のマンションしか買えないかもしれないってちょっと夢がなさすぎじゃない?若くて将来有望なできる日本人は研究者にならないほうがいいよ。まじで夢なさすぎだから。
海外に出ろって?同じこと言ったら、日本が好きだし、海外に出たらもうたぶん日本に帰ってくるの無理だからって。
講演とか本で儲けろって?同じこと言ったら、まともに仕事してたらそんな暇ねーよって。
1:「お前が言うな」の声も想定していた——キュレーション騒動を受けてNAVERまとめが新方針を打ち出した理由 | TechCrunch Japan
2:プログラマーの力量を見極める質問まとめ - NAVER まとめ
1:四の五の言ってないではやくやめろよ
1:面の皮が厚いな、というか。表に出てきて、話をすりかえるとか、すっとぼけるとか、逆に印象悪いよ
2:ブコメ読むと非難轟々だけど、この辺の知識あるとなしでコーディングし始めると有意な差が出るけどね。ググればいいって言ったって時間は限られるわけだし
1:NAVERまとめが役に立った事はないし、今となっては押し間違える事もない か ら正直どうでもいい。みんなも「楽して儲けてるやつが憎い」以外の感情はないのでは。
1:ちゃんと引用の定義に従ってるまとめもごくまれにあるけど、大半が転 載やんけ。もしかして本気で「引用」の定義を理解せずにメディア事業の担当者とかやってるのかな
2:職種:PG(いわゆるコーダー)でSES一山いくら、みたいな感じで動員するのであればこの質問は悪くないと思う。ただそもそも単なるコーダーが欲しいなら日本人である必要もないと思うけど
1:“ネット界隈で有名な人に引用されたら「ありがとうございます」となるのではないでしょうか”役員からしてこの認識とか、ほんまク ズやな。
両方共批判した人
http://anond.hatelabo.jp/20170316115322
http://anond.hatelabo.jp/20170316112345
前記事に書いたとおり「(物的か精神的かは別にして)利益を得られる」だよ。精神的利益には「学問を得たことによる満足感や幸福」も含まれているわけ。「他人に自慢できなきゃ学問に価値がない」と思うことのほうが余程おかしいよ。
「別に自慢したいわけじゃない、コミットメントしたいだけなんだ」って思うのであれば、その「コミットメント」の内容を自分でよく精査してみればいい。そしてそのコミットメントで得られる何かが、学問を通してしか得られないのかどうかを考えるべきだ。最先端の学術領域には、たしかに「それ」があるよ。ある研究が他の研究に着火して、知を先に推し進めるというのは、論文の引用網というコミットメントに支えられていると言える。でもWebの知識自慢みたいなものに、それって本当に有るの? 「覚えたことを誰かに語りたい」は「賢い」じゃないんだよ。
「発達障害は親のせい」はデマ。発達障害の診断は、これからを考えるためのステップ 児童精神科医・姜昌勲さんインタビュー - messy|メッシー
「発達障害は、親の育て方によらない、生まれつきの生物学的疾患です。だから親のしつけなんて関係ない。大間違いなんですよ。もう、アホかバカかって感じなんですけど(怒)。」
確かに、「診断結果と療育を受けることを受容するまでは」という条件付きなら正しいと思いますよ。
しかし、その後も「しつけなんて関係ない」と言えるのか甚だ疑問ですね。
もちろん、生まれつき=遺伝=親のせいという短絡的な話は論外として、親には「しつけ」る義務があるはず。
「当事者」と「親」、そして、「身近な支援者」が望んでいるのは、生き辛い状況を汲み取って=発達障害の特性を勘案して、世間の秩序と折り合いをつけて「当事者」が生きていくということのはず。
専門家の視点では、発達障害の特性を勘案して折り合いをつけられようにすることは「しつけ」ではないと言うかもしれない。
しかし、それは学術的に定義された用語を使用して表現をしなければ正確な議論が出来ないからであって、「当事者」と「親」、その他「悪意のある第三者」も含めた「周囲の人々」から構成される現実社会の実践の場では、「定義された」"それ"と「しつけ」を区別することに何の意味もないんじゃないか。
むしろ、「しつけ」という言葉を、「何が正しくて、何が正しくないかを教えて、世間の秩序と折り合いをつけられるようにすること」と再定義しなおして、『「当事者」の特性に応じた方法で、「親」や「身近な支援者」が「しつけ」を行えるように支援することが必要です』といった方が議論がしっくりと来るのではないのか、と思うのだが。
あと、インタビューでこの人が言っていることは正しいけど、デマを打ち消す意味では、少なくとも「もう、アホかバカかって感じなんですけど(怒)」はないんじゃないかと。
正直、「当事者」の問題行動は、対処方法があったら、「なーんだそんなことか」って場合もあるんですよ。
金八先生みたいな熱血先生に相談して「先生ありがとうございました」とかじゃなくても、幼稚園、保育園、小学校の先生などの「身近な支援者」に、ちょっと腹を割って話をして、「うちの子取説」を渡したら上手くいくケースも結構あるはずなんですよね。
それなのに、良く勘違いしている「当事者」の「親」達が居て、「発達障害についての勉強をして、ちゃんと支援してくれなきゃ困る」とか、ネットで仕入れた知識を振りかざして言いたい放題。
味方にしなきゃいけない「身近な支援者」を敵に回してどうするんですか??
幼稚園、保育園、小学校の先生などの「身近な支援者」は「運命共同体的な関係者」ですよ!!
頭下げてお願いして、一緒に「当事者」と向き合っていかなきゃだめでしょう。
ちょっと考えてみてくださいよ。
法整備がされて「発達障害」が特別扱いされる前のほんの10年くらい前までは、園長先生や校長先生に頭を下げてお願いしていたはずなんですよ。(まあ、所謂モンスターペアレントなるものはありましたが・・・)
10年前まで出来ていたことが、今出来ないっておかしくないですか? (まあ、出来てなかったかもしれないが・・・)
ちなみ、「周りの支援者」は「運命共同体的な関係者」なので、半年か1年に一回相談に乗ってくれる程度の専門家は入らないと思いますよ。
実際、幼稚園、保育園、小学校などの先生は上手く「しつけ」出来ないと現場で困るが、たまに相談に乗る専門家は全く困らないから。
つまり、専門家の意見は第三者的な助言であり、それを以て、「当事者」と「親」の運命を決定するなどというのはあり得ないということは、「当事者」の「親」には、気を付けてもらいたいと思っていますね。
産んだら不幸になるからが水子芸とかいう謎論法。産んだら存在してしまうので水子じゃないんだが産まれた子供と産まれなかった子供が同一だというキチガイ理論を垂れ流すクソの子供ってキチガイになりそう。
産んでないんだから一休さんの虎とか言ってる阿呆もいるけど、存在しうる存在を現実には確実に出てこない虎にたとえるって相当頭悪いぞ。それを言うなら存在してない産まれなかった子の意志なる概念を持ち出してる方に言うべき。
トラバまとめ
http://anond.hatelabo.jp/20170305212416
http://anond.hatelabo.jp/20170305215044
はい?たとえば遺伝が確実な障害を持ってるのに産んだら、環境が悪いのに産んだら、不幸になる確率は健常者よりも高いよね?^^
これは社会学や生理学や遺伝学で証明された事実なので、きみらがわーわー喚いたところで、何の意味もないですよ?
健常者や現在勝ち組に入れた障害者等の側の人間が、努力や認識でぜったいにぜったいに幸福になれるもん!とか喚いてるのって、典型的な感動ポルノだよね笑
努力や認識で幸福になれる~という期待を勝手に子供におしつけて産むのは虐待と言っても過言ではない。
幸福にできる可能性が低いなら、産まないという選択は必然だよね。
☆脳ミソ腐ったクズトラバがまだ喚いてるのか笑http://anond.hatelabo.jp/20170308165310
最初にセリグマンを持ち出して低所得など外部環境では不幸かどうかは決まらない!遺伝子でほとんど決まるんだ!と熱弁していたクズが。
「不幸かどうかは幸福を感じやすい遺伝子という要素で50%決まる」という議論があるけど、この命題が正しければ一般人と発達障害者など不適応者のうつ病にかかる率は同じでないといけない。しかし、実際は後者の方がうつ病にかかりやすい。つまり「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子が低い傾向にあるので不幸になりやすい」か「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子を持っている場合があるが、それ以外の二次障害で不幸になりやすい」である証明がなされた、ということになる
こうやって論破された途端に、外部環境でも不幸は決まるかもしれない!とか言い出す議論にもならないゴミ笑
しかもさんざん可能性が上がるという話と高いという話は別だぞと言ってきたくせに、可能性が上がるから~とか言い出しててワロタ
☆以下の消えたトラバで「不幸かどうかは幸福を感じやすい遺伝子という要素で50%決まる」という議論があるけど、
この命題が正しければ一般人と発達障害者など不適応者のうつ病にかかる率は同じでないといけない。
つまり「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子が低い傾向にあるので不幸になりやすい」か
「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子を持っている場合があるが、それ以外の二次障害で不幸になりやすい」である証明がなされた、ということになる。
さらに50%以外の要素は、人間関係など、不適応者が苦手なものなので、より不幸になる確率は高いといえる。つまり、「他人が幸福になれるかどうかは、わからない。」、「 子供とはいえ他人の幸不幸を判断し得ると考えるのは愚かだ」という主張は間違いだといえる。また、トラバに対する反論をまとめておく。
・下層ですら適応できずに苦しむ可能性が高いなら産まなくていいってことですね~
次にサービス業が増えた現代では下層でも感情労働しなきゃいけないのでストレスたまりっぱなしで大変ですね~
体力仕事だと30代後半で詰みが見えるね~
特に発達障害者は身体性が低かったりストレス耐性が低かったりするから難しいですよね~
下層で適応できてるって、要は諦めで現在の快楽に逃避してるだけでしょ?
不幸になる確率が高い子供に感動ポルノを期待して不幸を味わわせるのってマジで可哀想
・幸福になりやすい脳があっても仕事や人間関係が人生の大半なのでそこに不適応を起こしやすい遺伝子の結果、ストレス値が高くなるので不幸につながる
他にも発達障害は特にフラッシュバックが起こりやすいなど不幸を感じやすいというデータがある
・某さんの依拠してるであろうセリグマンは人間関係の重要性について謳ってるしね。
人間関係不適応になる確率が高い人間は不幸という指摘をしている俺の主張を補強するものだ。
また、セリグマンは不適応なうつ病や統合失調症の遺伝率は幸せを感じる遺伝子の遺伝率よりも高いと本のグラフで提示していた。
・うつ病患者も不幸な子供を産む確率が高いという点においても俺の主張を裏付けるものだね。
・人生の大半は仕事や人間関係である以上、それに適応できなければ不幸になる確率が高いのは当然。
その場合に環境や遺伝が大きい影響があるというのは学術的根拠がある。
努力や認識論に持ち込むのは健常者や既に適応済の人間の感動ポルノにすぎない。
学術的に不幸になる可能性が高い親がいるという事実は否定できません。