はてなキーワード: 公言とは
俺は他種の生き死に対して薄情な人間だとよく言われる。
実際、自分でもそう思っているし、それの何が悪いのかとすら考えていた。
平等だっていう人もいるけど、現実はまるでそうではないだろう。
同じ人間に対してだって、身内の死と、知らない人の死を同じようには思えない。
有名人の死だって、その人のファンだったら冥福を祈りたくても、さして関心のない人物だったらスルーする。
同じヒト相手にその調子なのだから、他種に対する命の測り方はよりゾンザイだ。
ほとんどの人間が、皿に盛られた命の残骸に思いを馳せたりしない。
動物や魚を食べるのにも関わらず、イルカやクジラとか種類によっては庇護したがる。
ベジタリアンだって植物に情を感じないし、感じていたとしても動物よりは軽いものであることを事実上認めている。
だったら、どうすべきか。
出せる答えはそう多くない。
「はあ……俺が飼おう」
俺は渋々といった具合にそう告げた。
みんな驚いていた。
「厳密には『好きでも嫌いでもない』だ。好きだからといって飼っていいとは限らないように、好きじゃないからといって飼っちゃダメとは限らないだろう」
「でも、他に動機がないじゃん。何で飼おうと思ったの?」
「まあ、強いて言うなら“情にほだされた”って感じかな」
この時の俺は上手く言語化できなかったけど、いずれにしろ勝手な理由だ。
だが同じ“勝手”なら、自分の心に従ってマシだと思う方を選びたい。
何かと理由をつけて、そのエゴを避けられると思うほうが欺瞞なんだろう。
それでも答えを迫られるときがあるから、人間はその“勝手さ”と付き合っていくしかない。
そう開き直った俺は、その宿命に身を委ねたまでさ。
「馬鹿なことを。その場限りの安易な気持ちで、貴様はその猫を生かすというのか?」
「そういうことだな」
「他の猫も殺されそうになっているのを見かけたら、その度に同じ行動をするのか?」
「しないだろうな」
ウサクは呆れ果てている様子だった。
確かにこの猫を一匹を助けたところで俺たちの自己満足でしかなく、大した意味はない。
それを分かった上で出した、俺の結論だ。
「なんでそこまで、堂々と自分が身勝手な人間だと公言できる?」
「まあ、“人間のサガ”ってやつなんじゃねえの」
こうして俺は、人間のエゴによって殺されそうになっていた猫を、安易な人間のエゴでもって「キトゥン」と名づけたのだった。
今でも滞りなく飼えているのが、我ながら不思議だ。
余談だが、俺たちの国では害獣扱いのジパングキャットは、ジパングでは益獣らしい。
ウナギが増えすぎて邪魔なので、それを処理してくれるからとか。
ただ、最近はジパングキャットも増えすぎたので、天敵のジパングースを意図的に放って数を調整している。
猫を殺すほどの獰猛な動物を野放しにしていいのかと疑問に思うかもしれないが、ジパングースは寿命が短く繁殖能力も低いため、放っておいたら勝手に死ぬという算段らしい。
「この国でもウナギが増えたら、キトゥンたちは害獣にならなくなるのかな」
「どっちでもいいさ。それは“俺にとって”重要なことじゃない」
動物相手にどう振舞っても、人間のエゴであることを避けられないんだ。
せめてその選択に信念を持ち、相応の振る舞いをするのが関の山なんだろう。
わたしはGID(性同一性障害)の治療を受け現在は戸籍も希望のものとなり、いわゆる埋没、元の性別を伏せる形で普通の社会生活を送っている者です。
来歴について敢えて公言することはありませんが、親しい人には話していますし、ある程度付き合えば薄々わかるものかとも思います。恥ずかしいことをしているとは思いませんし、何がなんでも絶対に隠すというものでもありません。
しかし一般の社会生活ではまだまだ偏見もあり、そもそもさして親しくもない人に敢えて話す内容でもありませんから、できるだけ伏せて静かにやっていきたいと思っています。
先日ある信頼していた人物により、この来歴がネット上に晒されることになりました。
本人はさしたる悪意もなく、なまじ「そういう人」に対する偏見がないがために(多分ないのだと思います)、大したことでもないと思ってさらっと書いたのでしょう。
しかし公の目に触れる場でそういうことをされれば、こちらの社会生活にも影響の出かねないことなのです。
近年になってレズビアンゲイについてアウティングが問題にされることが出てきました。
レズビアンゲイの当事者が伏せて生活している性的指向を本人の意図に反して公開されてしまう事例です。
これについては、一定の層の方々なら、ある程度ことの重大さを認識されるようになってきてはいるのではないかと思います。
しかしGID当事者、特に移行を済ませて希望の性別で生活している人々に対するアウティングの問題は、あまり知られていないのではないかと思います。
場合によってはレズビアンゲイ以上の事態を引き起こしかねないことで、軽々に考えてはもらいたくないのです。
そのことを「やめて欲しい」と伝えるだけでもセカンドレイプ的な屈辱を味合わされるということを、どうか部分的にでも理解して頂きたいのです。
わたしの場合、本人に伝えたところ削除はして頂けましたが、ことの重大さはまったく伝わっていない様子でした。「ああごめんごめん」程度の反応です。
正直、最初に書かれたこと自体より、この反応の方に深く傷つけられました。彼にとってはその程度のことだったのか、と。
今現在に至っても、この人物が悪い人だとはまったく思いませんし、人として肯定的に見ています。それだけにとても悲しいです。
わたしたちは単に希望の性別で普通の人間として暮らしたいだけです。
多大な苦労の末に身体や戸籍まで変えた挙句に「トランスジェンダー」などと軽々しく言ってもらいたくはありません。
「元○○」というのが事実であり、かつ恥ずかしいことではなかったとしても、世の中はそういう風に見てくれる人ばかりではないのです。
それをビジネスにしているタレントか何かならともかく、こちらはただの一市民です。晒し者にされるいわれはありません。
つまらないことかと思われるかもわかりませんが、一当事者の声として、匿名ながら愚痴を書かせて頂きました。
泣き言のような内容で申し訳ございません。
女性専用車両は法だ憲法だ運用会社の約款だ、どのレベルの制約か知らんけど、まあ少なくとも法律では無くてブッチしたところでそれだけでは即たとえば条例により5万円以下の罰金が科せられますとかそういうもんでは少なくともないだろう。たぶん。
ホームでは目印のとこで並びましょうみたいな「みんなで協力して社会を回してゆくルールの呼びかけ」みたいなマナーとか社会規範とか、を、鉄道各社等が呼びかけている、みたいな実態なんじゃなかろうか。調べてないけど。優先席とかさ、法的な根拠は? 優先されるべき人員の定義は条例とか鉄道会社を利用する際の規約かなんかの第2条あたりにかいてあんの? といったら、そうじゃないみたいに、女性専用車両は、他と変わらんハコにシールをぺたっと貼って、みなさーんココは女性専用車両にしましょうねえ、という呼びかけをされている、くらいのもんにすぎない。
従って、思うところあってブッチする男性がいたところで彼の持つ権利の行使を禁じることはできないはずだ。女性専用車両を女性専用車両足らしめているのは利用者の協力だけにすぎないのだから。彼はおまわりさんにしょっぴかれはしない。周りの人にできるのはその非協力者に協力をお願いすることだけである。たぶん。一回駅員がむりやり下車させて裁判でもすればハッキリするんだろうけど。
で、このルールの危うさというのはなんとなく隠されていて、それがまたルールを強化しているんだろう。「女性専用車両の運用にご協力ください」とはいわず「女性専用車両です」と言うみたいに。
そこらへんも踏まえて反・女性専用車両派の男性というののパフォーマンスがあるんじゃないかな。
世の中、アンチ女性専用車両を公言しにくいのは、被害者女性←→加害者男性みたいなレッテルの構図を元にした制度ゆえに、加害者側が被害者側の感情を軽視しているがゆえの廃止論みたいに取られがちなのがあるだろう。つまり痴漢がいちばん悪い(当たり前)。
潮目が変われば「うるせえ隣の車両は死ぬほどぎゅうぎゅう詰めなんだよ」みたいなのを後押しに、女性専用車両であることを無視する男性が一気に増える、ことも、ありえなくはないと思う。そしてそういう流れが起きた時に、止めることは難しいんでないか。
個人的に女性専用車両、なんかなあと思うのは、そういうやり方が「異性を誘惑するからポニーテール禁止」の校則だとか、イスラム教の学校は全部男女別学(いかがわしいから!)とかと同根のものを感じで、こう、痴漢前提のハードってそれはよお、という感じ。
理想を言えば痴漢防止策を十分に取った上でのまんをじしての女性専用車両の廃止だろう。現状、女性専用車両っての作ろうか、と判断された時からそっちのそもそもが改善された印象は無い。そっちが改善されないことには廃止への動きも鈍くならざるをえない。
「ラッシュ時は使えないけど割安の定期券」で企業にオフピークを促す、監視カメラの増設、鉄道警察の取り調べ体制の変革など、やれることはあるはずだ。
はやくそっちをやってくれ。
https://anond.hatelabo.jp/20180214155553が文字数制限?に引っかかってしまったのか途中で切れたので続きです。
「003: アメリカ政府より強力」~「005:ジェダイのマインドトリック」の前まで
続きはhttps://anond.hatelabo.jp/20180214161344
巨大テクノロジーに屈服してしまったのは連邦政府だけではない。アマゾンの第二本部への入札の一貫として、州とシカゴ市の役人はアマゾンに13億ドルの給与税を免除し、そのお金をアマゾンが適切と考えるやり方で使えるようにすることを提案した。すばらしい。シカゴは徴税権をアマゾンに渡してしまい、シアトルの企業がシカゴの住民に最適な方法でお金を使用してくれることを期待しているわけだ。
政府の服従はそれからひどくなるばかりだ。もしあなたがアイスキャンディーを作って子どもたちに売ろうと思えば、高額な食品医薬品局のテストを無数に受け、また原料・カロリー・糖分を表示した完璧なラベルをつけなければならない。しかし、インスタグラムのユーザー同意書にどんな注意書きが書いてあるだろう。我々はソーシャルメディアのプラットフォームがティーンエイジャーの抑うつ状況を悪化させていることを示す大量の研究の存在を知っている。自分自身に問いかけてみよう。もしアイスクリームが子どもたちを自殺させやすくしているとしたら、我々はドレイヤーズのCEOがシリコンバレーのディナーで大統領の隣に座るのを肩をすくめるだけで見過ごすだろうか。
こうしたソーシャルメディアのプロダクトがタバコと同様の中毒媒介システムであることを信じない人は、7才の子供からiPadを取り上げようとして、自分の殺人計画を告げるような視線で見られるといった経験がないのだろう。この手のプラットフォームの中毒性を信じないなら、どうしてアメリカのティーンエイジャーが一日平均5時間インターネットにつながったスクリーンに張り付いているのか、その理由を自分で考えてみればいい。ソーシャルメディアが与えてくれる様々なご褒美のせいで、我々はまるでスロットマシーンの前にいるように自分の通知をチェックさせられ続ける。子供や十代の少年少女はこうしたプラットフォームがもたらすドーパミンの欲望にとくに影響を受けやすいという研究もある。多くのテクノロジー企業の幹部が自分の子供にはこうしたデバイスを触れさせないと公言しているのも不思議ではない。
以上のような問題は全て正当な懸念だ。しかしこれらの理由のどれ一つとして、あるいはこれら全てを集めたとしても巨大企業の分割を正当化する理由としては足りない。これから述べるのが、私が信じる四大企業を分割すべき理由だ。
ヴァンダービルト大学のロースクールの教授であるガネシュ・シタラマンの主張は、アメリカには中産階級が必要であり、我々の代表民主制が上手く機能するために富がバランスよく分配されるよう、憲法もデザインされているというというものだ。富めるものがあまりにも多くの力を持ってしまえば、寡頭政治につながる。だからアメリカの民主主義という舟を安定させるためには中産階級が舵にならなければならないのだ。
経済とそのキーとなる主体である会社の基本的な目的は、中産階級を作り出し維持することであると私は信じている。1941年から2000年にかけてアメリカの中産階級は世界の歴史においてもっとも優れた「善」の担い手だった。アメリカの中産階級は正しい戦争に資金を提供し、戦い、勝利した。高齢者の世話をし、ポリオの治療にお金を出し、人類を月に送り、世界の他の国に対して、自分たちがモデルとなって、消費とイノベーションが社会・経済を改革するエンジンになりうることを示したのだ。
経済の上向きのスパイラルは家庭と企業の間での循環に依存している。家庭が資源と労働を提供し、企業がモノと仕事を提供する。競争は発明と優れた製品(ハッピーアワー、リアビューカメラetc.)を提供するモチベーションとなり、車輪はいつまでも回り続ける。巨大企業はステークホルダーに対して莫大な価値を作り出す。それなのにどうして私たちの目の前で、歴史上初めて、他の国の中産階級が成長しているのに自分たちの国の中産階級が没落するという事態が起きているのだろう。経済が中産階級と中産階級が育む社会の安定を維持するためのものであるならば、我々の経済は失敗してしまっているということだ。
過去30年でアメリカの生産性が大幅に向上したのは間違いない。アメリカの消費者があらゆるレベルで自由主義社会の羨望の的になったことを否定することはできない。しかし生産性の拡大と消費者の地位の向上の結果作り出されたのは、高給の雇用と経済の安定をすばらしい電話と1時間以内に配達されるココナツウォーターと交換してしまうようなディストピアだった。
どうしてこんなことが起こったんだろうか。2000年代になってから、企業と投資家が夢中になったのは人間をテクノロジーで置き換えることによって急速な成長と利益の急拡大を可能にしてくれるような企業だった。こうして作り出された巨額の富が安価に資本を引きつけ、他のセクターは脆弱になった。古い経済に依存する企業と巣立ったばかりのスタートアップには何の希望もなかった。
結果として出来たのは企業にとっても人々にとっても勝者総取りの経済だった。社会はイノベーション経済の側(領主)とそうでない側(農奴)の二つに分かれてしまった。一つの素晴らしいアイデアがウン億のベンチャーキャピタルを集める一方で、普通の人、あるいはただ幸運でなかった人々(私たちのほとんどだ)は退職後の貯金をするためにもっともっと働かなくてはならなくなった。
億万長者になるのが過去に比べて簡単になったり難しくなったというわけではない。痛いほど明らかなのは、過去30年で見えない手が行ってきたのが中産階級を締め上げることだった、という事実だ。30歳の人間がその両親が30才だったころに比べて貧しくなったのは大恐慌以来始めてだ。
何か手を打つべきなのだろうか。こうしたイノベーションのアイコンたちが、経済の調子を保つための一時的な撹乱を行っているだけだとしたらどうしよう。トンネルの向こうではより強い経済と高給が待っているという見込みはないんだろうか。しかしこんなことがありえないという証拠はすでにある。事実、二極化は勢いを増しているように見える。これは我々の社会に対する最大の脅威だ。これが自分たちの住んでいる世界なのだから仕方ないという人も多いだろう。でもその世界も私たち自身が作り出したものではないのだろうか。百万人の百万長者を生み出すことからひとりの一兆長者を生み出すことに、私たちは意図的にアメリカの使命を変えててしまったのだ。アレクサ、これって良いことなのかね?
今まさに我々は劇的なマーケットの失敗の只中にある。そこでは政府が巨大テクノロジー企業への大衆の熱狂によって黙らされてしまっている。頑丈なマーケットは効率的で強力だが、グランドに定期的に入って旗をあげ、チームを動かすレフェリーなしではフットボールのゲームが成立しないように、枷のない資本主義が私たちにもたらしたのは気候変動、抵当危機、そしてアメリカの医療保険だ。
独占はそれ自体常に違法だったり望ましくないものだったりするというわけではない。単一の企業が投資を行い、安価にサービスを行うのが合理的であるところでは、自然な独占が存在する。しかしこの場合トレードオフとして厳しい規制が伴う。フロリダ電力は1000万人にサービスを提供し、親会社であるネクストエラ・エナジーは時価総額720億ドルだが、その価格とサービスの基準は市民に受託された人々によって規制されている。
対象的に四大企業は厳しい規制なしに独占「的」な権力を維持しおおせている。私が彼らの力を「独占『的』」と表現したのは、アップルだけは例外かもしれないが、彼らがほとんどの経済学者が独占の核心だと考える、顧客向け価格の釣り上げを行ってはいないからだ。
しかし、四大企業は我々が本能的に感じる大きな政府への反感を見事に利用し、競争が――私有財産、賃金労働、自発的な交換、価格システムと同様に――資本主義のエンジンの不可欠なシリンダーであることを忘れさせてしまっている。彼ら四大企業のサイズの巨大さに加えてチェックを受けない権力によって競争市場は抑圧され、経済が本来の目的を果たすことも阻害されてしまっている。つまり、活力ある中産階級を作り出す、という目的だ。
どうしてこんなことが起きるのだろう。1990年代にマイクロソフトがどうやってネットスケープの息の根をとめたかを思い出すのは有用だ。はじまりは何の問題もなかった。ある会社が優れた製品(ウィンドウズ)を作り出して、それがセクター全体へのポータルになった。今であればプラットフォームと呼ばれるだろうものだ。その成長を維持するため、その会社はそのポータルを自社製品(Internet Explorer)の方向に向け、パートナー(Dell)をいじめて競争をシャットアウトした。ネットスケープのブラウザの方がより人気で90%のシェアを得ていたとはいえ、マイクロソフトが意図的にインターネットエクスプローラーを援助しているのでは勝ち目はなかった。
同じ状況は四大企業ではどこでも起こっている。グーグルが上手くマネタイズできるよう、検索結果の最初のページがゆっくりと支配されていくことや、iPhoneの画面上の準標準プロダクト(アップルミュージック等)、強豪相手(Snap)を邪魔し、叩きのめせるよう会社(フェイスブック)の持てる全ての資源を按配すること、他の会社がとても競合できないような要求水準の設定と攻撃的な価格設定(アマゾン)。
もしかしたら消費者にとってもこういった「自然な」独占の方が都合が良いのかもしれない。しかし司法省の考え方は違ったようだ。1998年に、連邦政府はマイクロソフト相手に訴訟を起こし、反競争的な慣行を非難した。裁判を傍聴していた人が報告するところによると、マイクロソフトの幹部はインターネットエクスプローラーをタダで提供することで「ネットスケープの空気の供給を断」ちたかったと証言したのだそうだ。
1999年11月に、ある地方裁判所ではマイクロソフトは反トラスト法に違反しており、会社を二つに分割することを命じるという判決が出た(一つはウィンドウズを売り、もう一つはウィンドウズ用のアプリケーションを売る)。会社分割の命令は高等裁判所で却下されたが、マイクロソフトは会社の独占的な慣行を抑えることで最終的に政府と和解に達した。
和解内容に対して甘すぎるという批判もあったが、司法省があの時マイクロソフトを有望新進企業を芽のうちに潰してしまうという罪状で警告することがなかったら、今のグーグル――今や7700億の市場価値があり、自由市場の信奉者にとっての希望の的だ――が存在しえたかどうか、考えてみる価値はある。反トラスト法がなければ、マイクロソフトはマーケットの独占を利用して、ちょうどウィンドウズによってネットスケープを安楽死させてしまったように、グーグルよりもBingを使わせるよう仕向けていただろう。
司法省のマイクロソフトに対する訴訟が、マーケットに新鮮な酸素を送り込むという点で最も大きな効果を持った例であることは確かだ。株価にして何兆円ものドルを解き放ったのだから。四大企業による力の独占は、酸素不足のマーケットを作り出してしまった。私は何十回も小さな会社によるベンチャーキャピタル向けプレゼンを聞いたことがあるが、そこで説明される内容はどこでも、いつでも同じだ。「四大企業とは直接戦えませんが、四大企業の買収先としては素晴らしい会社になれます」。その細い針の眼を通すことが出来なければ、会社はその幼少期を生き抜くために必要な酸素(資本)を絶たれてしまう。IPOもベンチャーキャピタルの資金提供を受けた企業の数も過去数年で着実に減少している。
かつて「悪の帝国」そのものだったマイクロソフトと違い、グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾンは巧妙なPRを洗練されたロビイング――オプラ・ウィンフリーとコーク兄弟をかけ合わせたようなものだ――と組み合わせて、マイクロソフトに課されたような批判からほとんど逃れおおせている(https://anond.hatelabo.jp/20180214161344に続く)
中でも、ギターの彼のことがとても好きだった。きっかけは初めて行ったライブの物販だったと思う。当時は若かったし、恋愛経験も少なかったからかな。ミーハー心に写真を撮ってもらった時に、あまりの距離感の近さに動転して、ライブのかっこよさと相まって完全に目がハートになってた。目があった気がしてたのもあった。
それから、私はライブに足繁く通い詰めるようになった。私自身も表舞台に出る活動をしていたので、バンドのファンを公言しつつ、そちらも密かに続けていた。
遠征はしないものの、近場のライブはほぼ全て行き、物販で大好きな彼と話す。最初はぎこちなかった会話も、いつしか私のプライベートの話だったり、彼の趣味の話になっていった。この時からもう完全に恋してたんだと思う。でも彼女の存在を風の噂に聞いていたので、このままずっとガチ恋が続くんだろうな、となんとなく考えていた。住む世界が違うし、単純にそれだけで楽しかった。
そうして、1年以上経った時だっただろうか。偶然大きいイベントで対バンになった時、彼が私のステージを見に来てくれた。それから、流れで食事に行った。お金は全額彼が出してくれた。不思議な気分だった。しかし、舞い上がっていたのもつかの間、私はファン仲間から彼が既婚だという事実を知らされた。
正直、ショックだった。彼女がいるのは知っていたが、ガチ恋だったせいでやりきれない思いの方が大きかった。聞いてみると私以外のファンには割とオープンにそのことを伝えていたようで、遊ばれていたのかなと落ち込んだ。
しかし、色々あって、彼とはまた2人で会う約束をしてしまった。もう散々泣いたし、今更どうにかできることでもないので、割り切って友達として接しようと思っているのだが、一番仲の良いファンの友人には「悪い噂もあるし、やめなよ」と言われる。でも、凄く優しくていい人なのだ。それにプライベートで会う彼には、ライブハウスで感じていたようなあの高揚感はない。もちろん大好きには変わらないが、どちらかというと知識欲で会っている気がする。私が彼女いるのを知っていることは彼もわかってるはずなので、お互い承知の上の健全な関係だと思うのだが。そんな感じでも、やっぱり会ってはいけないのだろうか。友達には否定されるし、知り合いには不倫じゃない!?となじられるし、なんだかよくわからなくなってきてしまった。
友人らととある二次元アイドルのライブに行ってきて、最高に楽しい時間を過ごしてきた。
中でもその作品内で最古参の私の推しグループが歌う場面では、そのグループのファンで、この作品のファンで本当に良かったと思える素晴らしいものだった。
ライブは本当に最高だった。
本当に良いライブだった!古くから応援していたひとりのファンとして、本当にかけがえのない時間を貰えた。
それがなんでいまモヤついているかというと、自分のこの『自分こそが古参ファン』というしょ〜〜〜もない、ほんとにしょうもない、自分でもわかっているけどこのしょうもない感じの驕りが原因であるのだけれど。
友人らが自分とは別のそのグループ推しの友人ばかり気にかけるのが気にくわない。
いやその子は確かにそのグループ推しって普段から公言してて、私はあまりアピールしないから仕方のないことであるのだけど。
でも私にも「すごくよかったね!君がこれを観れてよかった!」って私にも!言って!!!
なんて自分勝手なことだろうとは思う。
ファンなら輝いている彼らのことを観られただけでいいじゃないかと。
でも自分ではどうしようもないくらい嫉妬してしまう〜!悔しい!私のほうが先にファンだったのに!とか!言いたくない!
私じゃん君にそれ勧めたの!そりゃ今では君のほうが立派なファンやってる!
でも私だって昔からのファンで、彼らのことが大好きなんだから私だって友人らに「彼らがあんなに素敵だから君がどうなってしまうことかと心配したよ」と言われたい。
クソどうしようもない嫉妬。
声の大きいあの子ばかりが推しのファンとして友人らに見られているという現状がつらい。
言ってもどうしようもないのでこんなところで増田になるしかなかった。
彼らのステージ、本当に輝いてた。
私は二次創作が好きだ。
『自分の好きなキャラクターを、自由に表現すること』がいかに楽しいか、今日まで日々実感して生きている。
とあるジャンルで、私はAというキャラクターに出会った。かっこいい!少し厳しい所もあるけど主人公の頼れる兄貴分だ!かわいい!
Aの部下で相棒関係のBというキャラクターとも出会った。Bも理知的で、どこか抜けてる所もあってかわいい!Aへの忠誠心がたまらない!
私は腐女子なのでそういうキャラが2人いれば勿論そういう目で見る。
私はAもBも好きだった。ふたりのその関係性が好きだった。グッズもどちらも漁っていた。
幸いにも、仲間がいっぱいいた。AもBも脇役だけれどもA×Bで創作している人がいっぱい居たのだ。創作仲間がたくさんいる!私は嬉しかった。合同誌も描いたし小説も交換しあった。
しかし、私は段々とそのジャンルの人、そのCPの人と交流をしなくなっていってしまった。
みんな良い人だったのに。何故か。
理由は一つ。
『鬼畜なAと従順なB』『上司Aに振り回される部下B』『Bの美しさに息を呑み、虜になって無理やり犯すA』『Bが可愛すぎて暴走するA』
こんな作品ばっかりだったのだ。
みな口を揃えて『Bちゃんかわいい!』と言う。わかる。Bはかわいい。でもAは?相棒だしかっこいいしAもいいキャラだよ?だがある時1人から『Bにしか興味がない。Aはぶっちゃけどうでもいい。よく知らない。』と公言された。
まったく関係ない『D×E』が好きな人が現れた。私は最初この人とも、疎遠だが仲良くやっていた。A×Bに関係は無いが、D×Eも好きだったのだ。
だが彼女が嬉々として創作しはじめたのは、『Aに犯されて傷を負ったEを、Dが慰める』といったものだった。
Aは狡猾で人の心に付け入るレイパーで、可哀想なEきゅんの心の傷となる存在だった。
耐えられなくなった。
私はそのジャンルの人とは今ごく少数の人としか交流をしていない。Bだけが好きでAはどうでもいい!と公言せずにいる人、Aをレイパー扱いしない人だ。Bはお姫様で誰からも愛されると言わない人だ。
しかし、そんな人はごく少数で、相変わらずAは都合のいい鬼畜彼氏(笑)扱いばかりだ。
ここまでを平たく言えば、『二次創作の雰囲気に合わず、ジャンルを逃げ出した腐女子が愚痴ってる』という内容だ。
だが、私はそのジャンルに限らず上で挙げたような類の二次創作が大嫌いだ。
私は絶対に自分の作品で書かないようにしている。当て馬になるキャラにも好きな人は居る。そう思って、ヘイトが溜まるような創作はしない、欲を言えば書いてる作品に出したどのキャラのファンも楽しめるような作品にしたいと思っている。
私がこれが大嫌いな理由は『書きやすいから』、それだけに尽きる。
分かる、気持ちは痛いほど分かるよ。
私も中学生時代、Pixivをはじめて知った頃、書いていたのはそういった作品だった。
みんながそれを持て囃します、推しのキャラを奪い合います、攻めは無理やりにでも連れ去ります。ハッピーエンド!
紆余曲折はあれども、大体こんな感じだ。
それは推しのいいところを書け、と言われればおそらく100個くらいは余裕で書けるからだ。
そして、書いた良いところを作中で推し以外のキャラに言わせる。他のキャラは推しにメロメロ。
はい、これで受けちゃん可愛い可愛い小説の完成。とっても簡単!
創作をこなしていくにつれ、私は受けちゃん可愛い作品というものが虚しくなっていった。孤高の受けにアタックしては張飛ばされる攻めとかも。
どんなジャンル、どんなキャラクターで書いても似たような話ばかり描いている人もいる。寒気がした。
私はそういった作品を読み漁るのもやめた。そういったものを書いてる人も、軽蔑するようになった。思考停止した脳死作品だからだ。他のキャラクターに「推しキャラちゃんかわいい!」と言わせなければ魅力的に描けないからだ。
当て馬は他のキャラクターを挟まなければ自分の推しCPを魅力的に書けないからだ、受けちゃんを可哀想で可愛くするために使わないといけないからだ、と。
ここまで読んだ人へ
最初に言った通り、私は『好きなキャラクターを自由に表現できる二次創作』が好きだ。
そう、自由。
総受けだろうと総攻めだろうと当て馬だろうと自由。関係性が云々と言うのも自由。
だからこれは意識高い系腐女子(笑)の燻り言だ、誰にも明かさずに心に留めておくべきだったものだ。総受けと当て馬は思考停止した脳死作品だと内心罵倒して、お高くとまって居れば済む話だった。
『二次創作は自由だから』『他人の書いているものにまでとやかく言うな』
そう、コメントで言われるだろう。分かる。
だが、つい最近別ジャンルで私は同じような経験をした友人に出会った。その人もジャンル内で流れるCPの雰囲気に耐えきれずに去ってしまったらしい。これはそれを聞いて、この機会に今まで思っていたことを書いてみようと思いたった次第だ。
だからこれを読んでどうしろ、というわけでもない。有り難〜いアドバイスを言えるわけでもない。ただただ、二次創作の中で好きなキャラがそういう扱いを受けて許せなかった腐女子が愚痴を言って、そういう人間だから総受けと棒扱いと当て馬は大っ嫌いだし、傷つく人もいる。どんなキャラクターにだって好きな人はいる。
読み辛かったから整理したぞ。
〇自己紹介
私は落ち着いてる人なんて滅多に増えないジャンルで活動中の既刊の在庫があり、通販を行っている腐女子だ。本を出版したり感想を言い合ったりして、身内ジャンルに似た状態でのほほんと楽しんでいた。けれど、新しく入ってきたある人物の存在が耐えられず、嫌になった。その人物は自分の趣向を他人に押し付けており、強要し続けている。何を見てもその嫌いになってしまった人の影がちらつく。
その趣向とは、女体化だ。後天性女体化で最後には元に戻るという話であれば、まだ理解出来る。最初から女として生まれてきたならそれは全く違う別人で、同じように成長はしなかった筈という拘りを捨てきれない。
〇貴方は好きでも私は好きではない。
小さなジャンルで長くいてくれたら嬉しいなと、感想を言いあう。それから親密にもなる。しかし地雷シチュの話を創作してとせびられても無理なものは無理だ。私が女体化を描かない理由は次の通りだ。萌えないものには労力を割けない。好きだといいきかせて作ったものが、人の心をうつとは思えないのだ。他人の萌えをある程度のラインまでは許容出来る。でもその好きを強要されても同意出来ない。大多数の人間が好きだというものを全ての人間が好きになるわけじゃない。自分の好みを「世間が」とマジョリティを振りかざして押し付けられている。その他の誰かの好きは私には関係ない。好きだと言っている人とだけ楽しんで欲しい。嫌いだと公言した事はなく、好きだと公言した事もない。好きじゃないものは、敢えて公言してない。女体化の話をみんなでしていても、その輪の中に加わることはない。好きじゃないから、わざとそうしている。何も言わない事と好きを履き違えないで欲しい。そうして、好きじゃないものを強要され続けて、好きではなくなってしまった人と同じジャンルで、今まで通りいる事が辛くなってしまった。
〇結論
もう疲れてしまったが嫌いな人を突き放し、対立する気力はない。嫌がらせをし、攻撃して、他人を追い出して得た安寧に価値はない。自分の正しさが絶対ではないが、私が今いるこの場所は、他人を傷つけてまで、欲しがるほどのものではない。
なので私がこの場所を離れるしかないのだ。嫌いを共有したくないというスタンスの為誰にも話をしていないが、賛同者が居る可能性はある。でも私はその人を置いていく。本当に好きな人だけが残ればいい。数年後にはその人はいなくなっているかもしれない、そうなったらまた帰るんだろうし、もっと夢中になれる事を見つけていれば帰らないかもしれない。その点は自由にやるつもりだ。
一度ジャンルを離れよう。ズルズルと継続するのは嫌だ。それはきっと辛い。行きたいジャンルはまだないがそれでも何か新しい好きを探すのは、きっと楽しい筈だ。しかし名残惜しいのであと一回だけ、イベントを申し込んでいるのでそれで本当におしまいにしよう。
ジャンル自体も落ち着いてる。人なんて滅多に増えない。その中でのんびりと楽しく本をだしたり感想言い合ったりして、身内ジャンルみたいな状態でのほほんと生きてたし、それが楽しかったけど、新しく入ってきた人の存在がもう私には耐えられなくて、嫌になってしまった。
ジャンルは好き。かきたいものはある。でもあの人がいるなら別にかきたくないし、発表したくない。地雷シチュの話をふっかけられても、何にも楽しくない。好きじゃないから。
他の人もみんなその人がいう地雷シチュの話をし始めたら、もう駄目。自分が好きなものがないから嫌なんて、そんな子供みたいな事言わないでって自分でも思う。でも駄目。私には女体化の良さは分からない。
多分よっぽど地雷らしい地雷なんてない。スカもリョナ・モブレも自分が好きかどうかは置いておくけど、嫌いじゃないし読めるし読む。
大スカは多少抵抗あるけど、小スカは割と好きだしモブレも好き。性癖の範囲はそれほど狭くない、と思う。ハピエンもバッドエンドも死ネタもなんでもOK。
でも女体化は違う。
一時的に何かのアクシデントで女性の体になって最後には元に戻るみたいな話なら、まだ受け入れられるけど、先天性の女体化って本当に無理。
最初から女として生まれてきたならそれは全く違う別人で、同じように成長はしなかったでしょう?
二次創作全般を、キャラを筆者の玩具にする行為だと認識した上で言うけど、それってキャラを都合のいい玩具にしてるだけで別に好きなわけじゃないでしょ?
私は男性同士の恋愛を好んで読むしかく、腐女子だから、男同士であってほしい。
特殊性癖だから配慮しろ!と声を大きくして言うつもりもない、配慮なんてしなくていい。
そもそもBL自体が特殊性癖だから。かきたいものをかきたい時にかきたいように、かけばいい。
でも自分が好きなものを他人も当たり前のように好きだと思わないで欲しい。貴方は好き、でも私は好きじゃない。
大きくないジャンルで、王道CPでもないから、最近になって話をするようになった人は勿論目に入る。
長くいてくれたら嬉しいなと思うから、感想を言ったりする。それから仲良くなったりも、まあする。
でも地雷シチュの話をかいてってせびられても無理なものは無理。
だって微塵も興味がない。好きじゃない。わざわざ好き好んで見たくない。
自分に、自分の好きなものを認めない攻撃性がなくて良かったと思う。
自分の萎えは他人の萌えだと理解しているから、世の中の全ての事象をある程度のラインまでは許容出来る、出来ている。
みんな良いって言ってくれるのに、みんなも好きだって言ってるのに。ってだから何?みんなって誰?他の誰でもない、私の主人格の私が好きじゃないって言ってるんだから、他の誰が好きでも、確固たる事実として、私は好きじゃないんだよ。
大衆が好きだっていうものを全ての人間が好きになるわけじゃないよ。自分の好みを「世間が」なんて大義名分振りかざして押し付けないで。
「みんな好きだって言ってるし、かいてるんだから○○さんも次の新作とか新刊は」ってその他の誰かの好きは私には関係ない。
好きだって言ってる人と楽しんで。私は嫌いだと公言した事はないけど、好きだと公言した事もない。
女体化の話をみんなでしていても、その輪の中に加わることはない。
でも嫌いだとわざわざ公言して、周りに配慮しろというつもりがないから、嫌いだと公言してないの。
嫌いだと言わないのは、他の誰がそれを好きでもそれを他人の事として受け入れられるからであって、決して好きだからじゃない。
どんなものにも好きな人がいる以上、わざわざ嫌いだと口に出す必要がないから、嫌いだと言っていないだけ。
何も言わない事と好きを履き違えないで。
そうして、好きじゃないものを強要され続けて、好きじゃなくなってしまった人と同じジャンルで、同じようにいる事が辛くなってしまった。
何を見てもその嫌いになってしまった人の影がちらつく。
でも今のジャンルは好き。
楽しい。
嫌いに、なれない。
そんな気持ちで半年同じ所にいたら、もう心の方が先にダメになってしまって、最終的に女体化をかかない私の作品なんて、誰も求めていないんだって思うようになってしまった。
好きに、なれないから。
好きだといいきかせて作ったものが、人の心をうつとは思えないから。
好きだけど、距離を置いて、作品も全部一回消してしまって、既刊も全部処分して、通販もやめてしまって、何も残さず、何も持たず、全てを今ここに置いていく。
そうでもしないときっとズルズルと好きで嫌いのまま、継続してしまうから。
それはきっと辛い。
何にも持たない私はきっと心が軽くて、どこにでもいけるんだと思う。
行くところもいきたいところも、何にもないけど、それでも何か新しい好きを探すのは、きっと楽しい。
嫌いな人を嫌いと言わない事に。
嫌いな人と仲良くする事に。
好きが嫌いに変わる前に別れれば、きっと好きなままでいられる。
どうでも良くなってしまうかもしれないけど、私に嫌いな人を嫌いだと突き放して、人と喧嘩をする元気はない。
嫌がらせをして、攻撃して、他人を追い出して得た安寧に価値なんてないし、意味もない。
そもそも自分が嫌いなものを、人には言えないような手段で排除して、それでも同じところにいるなんて、正しいと思えない。
自分の正しさが絶対だとは思っていないけど、私が今いるこの場所は、他人を傷つけてまで、欲しいものではない。
きっと私が愛したあのジャンルは、あの人が自分の好きを他人に押し付けて、強要し続ける限り人が減っていくのかもしれない。
嫌いを共有したくないから誰にも話をしていないけど、にこやかに話している裏で同じように苦しんでいる人が居るのかもしれない。
でも私はその人を置いていく。
数年後にはその人はいなくなっているかもしれない、そうなったらまた帰るんだろうし、もっと夢中になれる事を見つけていたら帰らないかもしれない。
それならそれでいい。
あと一回だけ、イベントを申し込んでいるから、それには出る。それで本当におしまい。
終わりはいつでも寂しい。
でも、「オタクと呼ばれ続けてきた人」達は全く共感しないと思う。
例えばね?
君がリアルで「僕は増田に書いてる」って宣言して、悪い人間ばかりじゃないと公言したとする。
でも、そこで返ってくるのは「増田って何?」だとか、「ああ、あの2ちゃんねるっぽい匿名の日記ねw」だとか、「えー?www オマエあんなとこ使ってんの?ww」みたいな言葉で、そういう認知が定着している(とする)状態で、「増田を悪く言わないで欲しい」なんて言っても笑われるだけなんだよ。
仮に誰か一人が悪意を持っていたとして、「ほら、やっぱり増田ってああいう奴が多いだろう? 気にしなければいいのに」って陰で言ってたらどう対処する? 多数派になれると思うかい?
メディアに関わる人間自身が「ネガティブなソースの方がポジティブなニュースより注目されやすい」って言ってるし、分かってるハズなんだよ。
その上で法に触れてしまう個ではなく、場合によって定義も変わるような集団として黙らせてきている。
「オタクはうるさい」ってね。
もし仮にオタクって言うのが禁止になっても、元増田の意図とは真逆な言論封殺に近くなるし、今度は既存メディアのほうが畏縮していくかもね。
すでに言われてるけど、好きなら匿名でいいから感想を送れ!!!!!!!!!!!!!
人によっては見てくれる可能性は下がるけどRTして一言でもいい。
感想伝えないと熱狂的ファンであってもこの世にいないのと一緒。
私もめちゃくちゃ好きで描いてるジャンルがあるけどくそマイナーなんだよ。
感想なんて滅多に来ないの。
嬉しいけどね。
どういう意図でどういう意味で反応してくれてんのかわかんないし。
ほとんどが「消費」ってスタンスでめちゃくちゃ気軽にファボしてると思ってる。
自分でもいいなって思ってファボした絵でもすぐ忘れたりするし。
感想は違う。気軽な感想でも全然いいんだけど、一手間あるから。ファボとは意味が違う。
それを伝える勇気。
本人が感想いらねを公言してなくて、「好きだもっと見てぇ」って思ったら送った方がいい。
実はローカルで描いて、それだけで満足して上げない絵もいっぱいある。
基本的には自分のために創作するスタンスなので、言ってしまえばネットに絵を上げる必要がない。
それでもネットに上げるときは、頑張って描いたし見て欲しいし共感して欲しいし感想欲しいマンと化してるのだ。
あまり大々的には(恥ずかしいから)言えないけど。でも欲しいわけ。不器用なんだよ。
感想もらえたら描いてよかったなぁ、私以外にもこのキャラがこのシチュが好きな人がこの世にいるんだなぁと思って嬉しくなる。
次も描いて本出すかぁって思う。
イベントに出てると、「絵をネットで見てます。好きです」「初期の頃から本買ってます、好きです」って言ってくれるひとが稀にいる。
もう、うわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!マジでか!!!!!ってなるよ?
だって、たまにつくファボだけじゃそんなの伝わらないもん。
え、好きなの?見てくれて認識してくれてんの???マジで?????本当に????ってなる。
そんなん嬉しいわ!
あの絵もあの絵もあの絵も気軽ファボだけでネットの海の藻屑と消えて意味なんてなかったんじゃないの?
一回読んでゴミかよって思われて古本屋に売られた世界線の可能性だってあったのに?そうじゃないの?
伝えてくれないと分かんない。
でも、ネガティブだけど、好きとかもっと読みたいとか次も期待してるとか言われたらそりゃあもうポジティブにならざるをえない。
陰キャだけどいぇーいうぇーい生まれてきて良かった〜っ次も描くぞ〜描いて発表するぞ!て気持ちにもなる。
感想大事説ってネットで散々言われてるし色んなとこで目にするけどほんと大事なんだよ。
そして「他の人が言ってるだろうから自分の感想はいいや」とかは駄目。
ツイで神が感想ありがとうございましたって言ってたら、あーまぁいいかって思っちゃったりもするけど
全然よくない。
あなたの感想はこの世でひとつしかなくてそれは死ぬほど価値がある言葉と体験になるので送って。
チャップリンは、自分の映画の出演女優ミルドレッド・ハリス(16歳)に手を出し妊娠させたというスキャンダルが発覚し、急遽できちゃった結婚をしたが、この妊娠話自体が狂言であった。
次の結婚も、自分の映画の出演女優リタ・グレイ(16歳)に手を出し、本当に妊娠させての出来婚である。
好きになったら年齢は関係ない!
#ロリコン
#禁断の愛
#許されざる恋
#純愛
日本人の体格は江戸時代の後期が最も身長が小さく成人男性平均が150cmだったが、戦後の栄養状態改善で体格は大型化した。これに伴い思春期も早期に発現するようになり、女子は初経年齢つまり性成熟の時期も早期化した。
つまり13歳くらいで結婚していた昔の方が、未熟な子供に欲情していた。
「心を開こう、誰にでも」
必ず両想いになれるなんてことはない。というかむしろ、両想いになれる確率の方が少ない。でもいいじゃない。好きだって。https://twitter.com/ren_i_bot/status/817637053294788608
誰だって、好きな人のことを幸せにしたいって思ってるんじゃないかな。
https://twitter.com/ren_i_bot/status/817788049253765120
君は君らしく生きていく自由があるんだ
#大人たちに支配されるな
誰かと違うことになにを躊躇うのだろう行動をしなければNOと伝わらない
NOと言いなよ
「nudist」をGoogle先生に聞いてみると、けっこう若い女性とか老若男女の裸体を見つけてきてくれるぞ!
nudistは楽しく爽やかなことなので、児童虐待等に当てはまる訳が無いと、児童ポルノには厳しいGoogle先生も公認だぞ!
ヌーディストって基本的にエロではありません。小さな子供連れでヌーディストビーチに来て開放感を楽しむ方も多いです。
子供も映ってるヌーディストのビデオってヌーディスト団体自らが販売していて、欧米では文化として合法になっています。
「メイジーの瞳」という映画らしいです。
素敵ですね。
pic.twitter.com/RDfIgRETsk
Youにゴチュウサの絵を踏ませ、踏んだら児童虐待者として逮捕し、踏まなかったら児童ポルノ愛好者として逮捕だっ!!
#ロリコン
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子供時代にレイプ被害にあったある女性は「子供に対する性暴行事件を起こすのはポルノではない。ポルノの有無にかかわらず、そのような嗜好を持つ人が犯罪を行う。当局はインターネット監視をやめて、外に出て本物の犯罪者を捕まえるべきだ」と述べた。出世目的の警官が効率よく偽犯罪者を捕まえる
韓国のアチョン法でマンガアニメが児童ポルノ扱いされるようになって
2012年に韓国警察が児童性犯罪に関連して捜査に着手した事件は2224件
漫画規制が盛り込まれる前に比べて22倍に増えた。捜査対象者の相当数が学生や女性である。
明治16年福岡県統計書の現住結婚者年齢ノ對照(国立国会図書館デジタルコレクション p.51)
妻年齢15歳未満と夫年齢18歳以上は564組
妻年齢15-17歳と夫年齢18歳以上は1428組
妻年齢18歳以上と夫年齢18歳未満は101組
夫婦共に18歳未満は697組
全7072組
2011年に日本性教育協会が全国の7682人の学生にアンケート調査したところ
が性交経験済みという結果になった。
性的同意年齢は13歳ですが、性行為は青少年保護育成条例で禁止されています。
これって逆に言えば青少年は管理されないと自己判断は全て信用できない。と言われてるわけで、
まあ騙したり脅したりする大人は100%悪いのですが。
セーラームーンは、日本でも海外でも女の子から大人気のアニメですが、
主人公のセーラームーンの正体は中学2年生で、恋仲のタキシード仮面の正体は大学生です。
#ロリコン
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http://masterbiero.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
l o l i-con光源氏の完成だ!
#年号
光源氏18歳の時に、9歳ぐらいの美少女を見つけて連れ帰り、理想の女性に育て上げつつ添い寝をして暮らしていたが、5年後に性行為におよんだ。
ピュリツァー賞の写真を「児童ポルノ」として削除 Facebookが検閲撤回へ
#ロリコン
http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/10/kiddie-porn_n_11946664.html
#ロリコン
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小 ( ゚д゚) 吾り
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( ゚д゚) 小五ロり
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現代でも一部のポリネシア社会では12歳を過ぎると性行為の同意能力があるとみなされ、多くの女性が12歳から15歳の間に初出産を経験するという伝統が受け継がれている
常に妊娠出産を繰り返し、初潮を経験しない者も少なくない
割合は少ないけど、おじさん好きの女子中高生もいるんですよ。
ロリコンを犯罪者予備軍として差別することは、彼女たちも犯罪者予備軍として差別することにもなります。
昔は15歳ともなれば世界中で大人として扱われ、結婚することができた。
15歳の人とのセックスはダメ!犯罪!ということに世界中でなったのは、ここ20~30年の間の変化である。
#ロリコン
20~30年前の日本では、オカマはキモいやつ、ロリコンは若い子好きのスケベ、小児性愛者は変態という扱いだった。
今やオカマは社会的に配慮されるべき健常者に格上げされ、ロリコンや小児性愛者は犯罪者予備軍に格下げである。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
しかし、全ての自分の嫌いなものを法律で縛るという考え方は間違っています
嫌いだからと法規制するのは、それを好きだと思う少数派の権利の侵害です
ゲイの友人がいたとしても、その人のいないところでホモネタで笑ってたら「寛容」とは言えない。
小児性愛者の友人がいたとしたら、「寛容」に接するのだろうか
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
安倍死ね→許される
フランスでは、1994年に実在する未成年者のポルノ写真の製造配布が禁止された(それ以前は児童ポルノは合法だった)
マルク・デュトルー事件をうけ1996年に仏マスコミはペドフィリアに対するモラルパニックに襲われ
児童ポルノの描画は1998年に、単純所持は2002年に禁止された
文化人類学者による無文字社会の民族研究では、女性の平均初婚年齢は15歳くらいである社会が多いことが明らかになっています。文明社会でいわゆるロリコンがタブー視されるようになってきたのは、高学歴化によって女性の社会的自立可能年齢が上昇したからです。
児童の合意を得たと言えるのはどのような条件か
等を議論すべき
この手の話題はキモイって言う人多いけど、現実で面と向かって言われたら「お前も○○な部分キモイじゃん」って100%反論できそう
キモイ部分は誰にでもある
ネットは、誰しも自分のキモイ部分には目を瞑り、他者をキモイと呼ぶことで対照的に自分はキモクないと言い聞かせられる
自戒を込めて
少子化の今、児童誘拐なんかの事件が多発している現代では子供の身が危惧されている。
かと言って世間では子供がちゃんと大切にされてるかと言えばそうでも無い。
親に大事にされない故に家出をして生きていく為に身を売っている子供さえいる。
近年、マスコミの取り扱いが変わった。同性愛の差別は許されないが、小児性愛を肯定することは決してない。マスコミが変われば社会的風潮として小児性愛は叩かれる。少し前まではマイナージャンルとして存在していたけども、例の連続殺人のせいで、悪い意味で認知されて、その後はロリコン=犯罪者
虎舞竜の楽屋に来た14歳の三船美佳に、38歳だった高橋ジョージが一目惚れ。結婚を前提にした交際に発展したという。
交際を2年間続け、三船美佳の16歳の誕生日に結婚、結婚生活は18年続いた。
この当時の三船美佳には責任能力が無く、性的に蹂躙されたのだろうか?
大人と17歳の恋愛は犯罪者扱い、18歳以上ならエロい事し放題というのは確実に変
法的線引きは必要だろうが、18歳まで責任無能力なのは確実におかしい
刑法では14歳から、民法では小学校卒業から責任能力があるとされ、子供でも商売をし、親の許可無く運営資金の借金等は法律上認められる
小児性愛は、妊娠・出産に死の危険があるからダメっていう人は、
#ロリコン
宮沢は撮影前にはヌードの話を聞いていなかった、嫌だった思い出はひとつもない。と語った。
goo.gl/UyN3f9
小児性愛差別者は「差別や感情的な拒絶はダメだが私が嫌いな対象にはそれをやっても良い」という人が多い
1950年代、手塚治虫のロボット等の描写は、荒唐無稽なデタラメを描く子供の敵と非難され
明治中期、近年の子供は夏目漱石等の小説ばかりを読んで漢文を読まない、子供の危機だと言われた
未成熟な身体の女児に性的感情を抱くのがキモいと非難するのなら、
50代の妊娠不能な熟女に性的感情を抱くのもキモいと非難しなければならない。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
「人口増加に寄与しない」「生物として不自然」という人が責められるのだとしたら
「宗教に身を捧げて、生涯伴侶を持たない」っていう人も責められなければならない。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
それで慰められて犯罪が抑制されているという可能性は考えないのだろうか
それが有ることで犯罪が助長されるというなら、痴漢・強姦もののAVやヤクザ映画の方が問題では?
漫画なんて単なる線と点の描画だし、ドールもただの人形に過ぎない。
http://thailog.net/2016/04/08/340189/
「こんなものはあってはいけない。この人形で少女を愛する練習をして、実際の少女が欲しくなったらどうするんだ」という批判の声も上がる
格闘ゲームで練習して、実際に殴りたくなったらどうすんだ!
小児性愛者も、LGBTと同じように、カップルでデモ行進できるようになれば良いけど、同性愛よりは大人と子供はカップリングが難しい。
だから、小児性愛者はLGBTより性的マイノリティであり、性的欲求の解消が難しい者として配慮されるべきなんだ。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
小児性愛者は、相手が大人になると興味が無くなる期限付きの愛で無責任だという意見があるが、
多くの人は結婚をする気がない相手との恋愛を楽しむし、真実の愛があれば何でも乗り越えられる。
「ホモ=欲求のおもむくままに男を襲う犯罪者またはその予備軍」
と言ったら差別主義者だと言われる。
「ロリコン=欲求のおもむくままに少女を襲う犯罪者またはその予備軍」
という扱いは当たり前のように行われる。
これは差別だ。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
ロリコンは、ロリコンであることを公言し、それは社会的に認められるべきだ。
もちろん、合意の無い性行為は、老若男女問わず犯罪であり許されないということは言うまでもない。
#ロリコン
フェミニストが乳製品を摂ることは矛盾か、という議論が喧しい。
https://togetter.com/li/1194767
http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2018/01/29/162209
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2018/01/30/152800
はじめに言っておくと、わたしはヴィーガニズムやアニマルライツには明白に反対である。しかし、それらを一部のバカによる寝言だとは思わない。むしろヴィーガニズムは正しいと思っている。いや、より正確に言うならば、ヴィーガニズムは正しすぎるがゆえに問題なのだ。
ヴィーガニズムへの反対に理屈をつけようとすると、かなり高い精度でブーメランとなって戻ってくる。人間と動物は違う! 白人と黒人、男と女を代入して同じことが言えるだろうか? 人間は他の動物より賢い! 男が力強いことを男性が優越していることにしたい性差別主義者は、古今東西どこにでもいる。人間が動物と違うのは社会の常識だ! アメリカ南部の奴隷主たちも、同じことを思っていただろう。
10年ほど前、はてなで「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない」というフレーズが話題になった。まったくその通りだ。「同じ人間を差別してはいけない」にも理由はない。理由はないが、道徳律とはそういうものだ。差別はいけない、なぜならそれは差別だからだ、という主張は空虚だが、しかしその正しさを疑う人はいないだろう。差別は正しくない、これは自明です。
ところで、「同じ動物を差別してはいけない」という主張は、「同じ人間を差別してはいけない」と論理的に同型である。空虚である。空虚であるが、ではそれゆえに正しくないと主張することは可能だろうか?
人類の平等への闘いは、「同じ○○」の範囲を広げてゆくことだった。「同じキリスト教徒を差別してはいけない」という議論に対して異教徒が声を上げることは必要だった。「同じ成人男性を差別してはいけない」という主張では、無産階級の男性のことは救えても婦人参政権は実現できなかった。ようやく今、人種差別や性差別が「同じ人間を差別してはいけない」として斥けられる時代になったのだ。
しかし牛や豚からすれば、その「人間の平等」は、「白人のなかでの平等」や「男性のあいだでの平等」と寸毫変わらぬであろう。
それがヴィーガンやアニマルライツの訴えの核心である。これを安易に「人間と動物は違うんです。以上」で切り捨てることは、安易に「だって男と女は違うじゃん」と切り捨てることと、いったいどこが違うというのだろうか? このふたつの主張をまったく別物だと切り分けること、それ自体が彼らの批判する種差別なのだ。
何でフェミニストにばかりそういう要求や追及がなされるのか? と疑問を呈する人もいる。断言するが、それは最悪の戦略である。
第一に、ヴィーガン界隈を見ればわかるが、彼らは一般人に対しても肉を食ってさえいれば無差別にマサカリを投げつけている。それが今回たまたま件のフェミニスト氏に向けられただけであり、構図としてはセクシーな萌えキャラの出てくるポスターをフェミニストから批判されたオタクが「何でオタクばっかり叩くんだ?」と過去の女性運動の蓄積も知らずに愚痴っているのと寸分違わない。やめておいたほうがいい。
第二に、差別に反対する運動の中で別の差別が行われていたとき、それを厳しく追及してきたのはフェミニストたちだったではないか。人種差別に反対する運動の中で性差別が起きたとき、人種差別だけでなく性差別にも反対すべきだ、そうでなければ真の反差別とはいえない、という主張はそれなりの説得力をもって受容されてきたように記憶している。であるとすれば、性差別だけではなく種差別にも、という主張が向けられることは自然な話であろう。
つまり、既存の反差別運動の側は、迂闊にヴィーガニズムを揶揄しているとブーメランが帰ってくるわけだ。反差別、正確には、反人種差別および反性差別を支持する者として、味方がブーメランに撃ち抜かれて斃れていくのを見るのはやるせない。
ではどうするか? わたしはまず、敵対関係を認識すべきだと主張したい。
フェミニストは男性優位社会の敵である。奴隷解放論者は南部社会の敵であり公民権運動の闘士は白人中心主義社会の敵である。それと同様に、ヴィーガンは人類社会の敵である。
このことは、現在のヴィーガニズムの支持者が全員人類であることと何ら矛盾しない.家父長制と闘う人びとの中には男もいた。奴隷を逃がしたり黒人とともに座り込みに参加した白人もいた。そして彼らは、男でありながら男性中心主義の敵であり、白人でありながら白人至上主義の敵だった。ゆえにヴィーガンが、人類でありながら人類社会と敵対するのは何ら矛盾ではない。
わたしたちにはふたつの選択肢がある。ひとつめの選択肢は、敵が提示する平等のテーゼを受け入れることであり、つまりはジャイナ教徒のように虫の一匹も殺さぬようマスクをし箒で道を掃きながら歩く生活を選び取ることだ。もうひとつが、平等と敵対することである。種差別の何が悪い、人間は動物とは違うんだ、人間の都合で動物を搾取することは当然だ、と傲然と言い放つことである。
最悪なのは、この敵対性に対して目を瞑ることだ。敵を「なんか頭のおかしい人たち」として片付けることだ。そうではない。彼らは正しいのだ。彼らは正当な抗議者として、つまりはわれわれの敵として扱われるべきなのだ。
この敵対性を隠蔽してしまったら、他の敵対性が隠蔽されることに抗えなくなる。それは平等への闘いの自滅だ。敵対性がそこにあることを明るみに出すことは、常に闘いの出発点なのであるから。
なのでわたしは宣言する。肉うめぇ。これはヴィーガニズムが提示する平等への敵対だ。朕はたらふく食ってるぞ、汝畜生食われてろ。数百年後、あの世代は動物差別と動物大虐殺を何とも思っていなかった民度の低い連中だ、人類の進歩を阻害してきた、と糾弾されるかもしれない。それでもわたしは、種差別を正しいと信じる。人間は動物とは違っており、この差別は当然だと主張する。未来の子供は、わたしのこの言明を醜悪なスピーシシストの声明として読むかもしれない。ユダヤ人は劣等だと言い放ったちょび髭の指導者や、女は男よりも劣った生き物なのだと公言してきた家父長たちが扱われるように、動物を殺して恥じなかった我々現代人も扱われるかもしれない。ひょっとすると数十年後に革命が起きて、人道に対する罪で訴追されるかもしれない。自己批判を強要されるかもしれない。それでもわたしはヴィーガニズムに敵対する。この差別は正しい差別だからだ。
さあ、みんなもそう叫ぼうじゃないか。種差別は必要だ! 種差別は正しい! 今ここで種差別を! 明日も種差別を! 永遠に種差別を!
仮面ライダーの脚本は元々おばさま(母親)がメインターゲットでしょ。
子供はどうせストーリーは理解せずかっこいい変身やバトルがあれば満足だから、
ストーリーは一緒に見ている母親を楽しませる(んで子供と一緒にハマって貰っておもちゃ買う財布の紐を緩めて貰う)のを主目的にしてる。
でもプリキュアの脚本はオタク以外の母親(勿論父親も)にハマって貰う事など最初から想定しておらず、子供向けで大人が見て面白いようなものじゃない。
親層へのアピールは精々「親に嫌がられるような教育に悪い要素は入れない」と言う程度でしかない。
食べ物で攻撃するのは教育に悪いからスイーツだけではなくアニマルスイーツにしましたとかその程度。
メインキャラが(ライダーのように)大人ではなく子供女子な時点で、美少女萌えオタ以外の大人の視聴に耐えうる話にはしにくいとか、