はてなキーワード: 合唱とは
オリンピックで流れていたケニアの国歌が、なんだか日本の民謡にも通じる独特な感じで、かっこよかった。
なんでも、伝統的なケニアの子守唄のメロディーがもとになっているらしい。
で、他にもかっこいいのあるんか?と思って探していたら、ネットでちらほら話題にされてるすごいのみつけてしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=VWy4USruuR4
すごい。かっこよすぎる。
なんだろ、スペースオペラ系のSF映画で、主人公が砂だれけの惑星に遭難してぐるぐる巻きにされて、
砦に引っ立てられて、そこにいよいよ惑星を支配するボスが手下ひきつれて登場してくるときの音楽だ。
で、「これでおしまいか」と思ったら、実はこのボスがいい人で、結局、一緒に戦うための軍隊だしてくれんの。
(我ながら、たとえがよく分からない)
wikipedhiaにもあんまり詳しいことは書いてないが、Tolia Nikiprowetzkyとかいうロシア生まれでフランスで活躍した作曲家が、伝統的な旋律を編曲したらしい。
日本語版では「作曲した」となっているが、英語版では「Music traditional (arrangement Tolia Nikiprowetzky)」ってなってるから、そういうことなんだろう。
まあ、植民地から独立した国に「国歌作曲してください!」ってたのまれて、あのメロディーはつくらないよね、普通。
なお、モーリタニアって国、マダコがたくさん取れて日本にも大量に輸出しているが、現地の人は気味悪がって食べないらしい。
「君が代」は、西洋的なメロディーではない曲で、実際、そうなんだとは思う。
でも、時々ネットでみかける「他の国は西洋音楽ばっかり! こんな独自な国歌を持ってる国は無い!日本サイコ-」っていう愛国ポルノは、
ちょっとちがうよね。
https://www.youtube.com/watch?v=YIyLUBdNAC8
https://www.youtube.com/watch?v=gE6beEdzhtI
もとが子守唄っての、よくわかるし。
https://www.youtube.com/watch?v=pI7V324e1zg
シン・ゴジラを観た。
だが同時に庵野および日本映画の限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。
この映画は、
復興ありき、
再建ありき、
日本にはまだ力がある、
立ち直れる、
そういう答えがもう先にある。
出来レースっぽい。
これは映画に限らず様々な場面で3.11の震災後なんども繰り返されていることだ。
力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能なイデオロギーのように保持しているのは、
俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。
もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。
この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。
しかし、せっかくゴジラほどの大怪物を召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。
俺らスゲーの出来レースはゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。
ゴジラというキャラはもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞の物語のなかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。
新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、
新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画の手法を発明するよう強いられる。
しかしそうした危機とテーマである当のゴジラが、ほとんど空虚な存在であるがゆえに(たしかにわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語の構造そのものに関わることはない)、
日本万歳のその国の概念そのものに反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法の発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
シン・ゴジラはエヴァンゲリオンで庵野が確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省も発明も見つけられない。
もちろん何の変化もないわけではないが、
そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的な視野に同一化する点、
自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性の視点に同一化する点は、
たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国の政府との交渉だろう。
ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女のキャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕している点で、やはりこの映画を保守的なものにしている。
石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、
しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的な欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。
演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的なキャラのあり方だと思う。
日本と米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的な必然性をもっている。
日本と米国の関係はいわばスネ夫とジャイアンであって、ジャイアンのマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件を解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
ここでは常識人と変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人が変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。
「〜アルヨー」とか「〜デース」とかいう言葉遣いのキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、
彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本側からの観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。
視聴者たちが米国の目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。
このようなわけで、この映画は日本男性の精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、
しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的な価値が大いにあると思われる。
これほどありありと、日本的および日本男性的想像力の限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
しかしそうした戦中日本の精神の限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。
したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスとコミカルの関係性ということになろう。これはどういうことか。
さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画は限界を証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。
つまり、エヴァンゲリオンを踏襲し、ナショナルなものとジェンダーの領域において日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕するこの保守的な映画は、
限界を自ら反復し、演じている、ということであった。
日本の男性政治家が米国の女性とシリアスにセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。
しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである。
そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである。
したがって、このように問うことができるだろう。
限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界を茶化すことでもあるのではないか。つまり限界を批判することでもあるのではないか。
たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法の発明の努力を放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか。
そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。
つまり、シン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。
あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。
風磨ソロ入りました。多少のネタバレがあります。ご注意ください。
まず感想。
面白かった!!
風磨担でも、他Gを通ってきた生粋のジャニオタでもありませんが、単純に楽しかったです。
風磨くんのソロにレーザーを使った演出はハマってて気持ち良かったですし、
お?そうくるか~!!という意外性もあり、知らない曲が多くても楽しめました。
何よりコントの完成度が高くて、こんなコントを日替わりにするなんて贅沢だな~と思ってました。
でも、ごめんなさい。映像のストーリーはまったく響きませんでした。
風磨くんの言ってるまぶしい言葉、受け入れられない。
今までなぜ風磨くんのことをどうしても好意的にみれないのか疑問でしたが、
彼のスクールカースト高い感が合わないんだ!
カースト低くて、でもプライドだけは無駄に高くて捻くれていた中学時代。
カースト高い人が苦手で。その理不尽さに傷ついて心の中でバカにしてた。
仲間のノリを強制するとこが苦手。ノれないと笑いものにされる理不尽さ。
仲間のノリは受け入れさせるのに、こちらのことは受け入れてくれないのね。言えないけど。
文化祭とか合唱コンとか仲間内で勝手に盛り上がるだけにしてよ、熱くなっちゃってさ~こっちにもそれ求めないでよ(笑)
こんなでバカにしてた。
それがもう悔しくて悔しくてたまらなかった。
こんなに私イヤなのに、でもしょせん下。下だから怖くて何もできない。そんな自分にムカつく。
あいつら、自分たち仲間が言ったら周りもそれを当然やるって信じて疑わないんだよ、
むしろ当たり前だから信じるとかすらそういう段階でもないんだろうよ。
私許さざるを得ない。
すっごくムカついてた。でも怖いからそれを表に出すことができなかった。
そう、八つ当たりです。
風磨くんたち仲間のカースト高い感に触発されて、過去のカースト高い“仲間”達へのムカつきが蘇って。
怖くないから、ここぞとばかりに勝手に過去のムカつきを発散してるだけです。
ふうまくん、ソロコン終わりのあいさつで魔法をかけてくれたね。
過去は変えられないから、10年後、20年後の未来の私を今からやりなおせるように。
でも今さらでも発散したいくらいのムカつきを溜めこんだのは、変えられない過去なんだ。
ふうまくん、ごめんなさい。
大変身勝手だけど、私が発散しきるまでムカつきのサンドバックにさせてください。
シン・ゴジラを観てきた。
実際にゴジラが現れたら、本当にこんな後手後手の対応に回るんだろうなというリアル感。
自衛隊が本気で攻撃しても倒せないという、お約束の展開をリアルに描くことで生まれる絶望感。
すごく面白かった。
ところでシン・ゴジラの評価として、エヴァっぽいという声をちらほら聞く。
オーどこに目をつけているんだいキミタチィ。
なぜそれが分からないのか、分かろうとしないのか。
と思うので思うところを書く。
エヴァと言えば言わずもがな、『セカイ系』と呼ばれたジャンルの最高峰である、と言われている。
セカイ系の特徴には諸説あるが、概ね、世界の命運がごく少数の登場人物の意思決定によって左右される物語だとされている。
時として世界の命運を左右するのは、数奇なめぐりあわせのために巻き込まれた、覚悟も力もない少年少女であったりする。
そこで生まれるドラマを描くのがセカイ系というジャンルである。
シン・ゴジラはこのようなセカイ系の特徴を徹底的に排した物語構成を行っている。
ゴジラと戦うのは民主主義の手続きによって選ばれた、国民の代表たる政府関係者と自衛隊である。
何を決定するにも会議を行い、議事録が残り、行動するには法的根拠が必要で、無いなら法案を作るという、民主政治のプロセスが正統に実行されている。
また、ゴジラは確かに脅威ではあるが、セカイを滅ぼす存在ではない。
自衛隊の装備で傷をつけられずとも、米軍の空爆でならダメージを与えられる。
それを使えないのはヒトの都合である。
第2、第3形態のゴジラを自衛隊が攻撃できなかったのは、ひとえに憲法9条下における自衛隊の不自由な運用のためである。
第4形態のゴジラに核を撃ち込めないのは、ゴジラが東京のど真ん中にいるからであって、要するに今まで都市のインフラに投資した金がもったいない、というだけの理由である。
もし東京が壊滅しようと、京都に首都機能を移転し大阪が経済の中心となって、日本という国はつつがなく回っていくだろう。
日本が滅ぶとしたら、劇中で指摘されている通り、株価、円、国債などの暴落によるデフォルトである。
日本の滅亡すらヒトの側の都合で起こる。
滅ぼさないのだ。
そんなセカイを滅ぼさないゴジラと、対策チームは不眠不休で戦っているのである。
なぜなら、誰もセカイを救う力なんて持っていないから。
普通の秀才の集まりだから、不眠不休で対策を立てても、勝てるか分からないのである。
できるだけ多くの協力者を募り、政府の研究機関や民間企業に情報提供し、他国へのコネを活用して、ゴジラを倒す作戦を立てるのである。
それが、セカイを救う力なんて持っていない、普通の日本人達のリアルだから。
なんのために戦っているかと言えば、仕事として、国民の生命と財産を守るために戦っているのである。
避難すれば命は助かるが、それは今までの生活を全て捨てることを意味する。
「簡単に言うなよなぁ」
とボヤかせるのだ。
だから、劇中の所々に見られる、主人公の演説も、ドラマ的な演出もなく淡々と行われる。
聴衆の歓声も、勝鬨の声も上がらない。
作戦決行直前の演説も、演説の内容は重大であるが、その光景はまるで中小企業の社長が朝礼で社員に演説するかのような様子である。
こうして観ると、シン・ゴジラは全然エヴァっぽくないということが分かると思う。
ゴジラが現れようが暴れようが、セカイは盤石だ。
それを倒すのにも、優れたリーダーの英断の下、日本の科学力、工業力、軍事力を集結すれば可能なのだ。
冗談みたいなIQの天才もいらないし、自己犠牲の特攻も必要ない。
国を守る覚悟のなってない、思春期の少年少女の出番など、どこにもない。
庵野はどうしてエヴァの映画を作るのを放って、これを撮ったんだろうか。
少年少女の意思決定が、そのまま人類の滅亡を引き起こしたりする。
そういう話の持つ面白さは、そういう面白さとして存在するが、きっと庵野はもう飽きたんじゃないだろうか?
それより、ヒトの社会の営みの豊かさ、力強さに惹かれてるじゃないだろうか?
そう言いたいんじゃないだろうか?
物語の全編から、もうセカイ系なんてやめよう、エヴァみたいな物語なんて作るのやめよう、というメッセージが伝わってくる。
そりゃ同じ人が作ってるんだから、同じような演出になるのは当然だろう。
上っ面ばかり見て、どうこう言われて、庵野も気の毒だね。
いや、主語はちゃんと使おう。
田村ゆかりと新谷良子がやってたラジオで、スタッフが全員死んで、2人がラジオの主題歌を歌うと、スタッフが生き返って、全員で合唱していたが。
俺の中では本当にスタッフは死んだと思っている。
それぐらい、俺は純粋なんだ。
(どうでもいいけど、このラジオドラマで松来さんがえっげつない下ネタを言っていた記憶があるが、ソレ以外彼女が何をしていたか思い出せない)
だからもう、辞めてくれ。
あんなことして、何が嬉しいんだ、何が楽しんだ。
ただただ、こうして裏切られたときに、ツラくなるだけじゃないか。
もう…… 辞めてくれ……
なあ、なばいとは嘘だったけど、ゆいかおりは本当なんだよな?
あっちゃんぺっちゃんはもうペッティングぐらいはしてるんだよな?
青木瑠璃子と伊福部崇はお似合いのカップルだと言われるたびに、七瀬さんは胸が苦しくなってるんだよな?
ああああああああ
あああ
あああああ
あ
あああ
あ
あああああ
あ
ああ
もう……やだ……
社会人になって数年が経った。
合コンに行った。
合コンの中で、「テンションが上がってわーーっ!と感情が高まるものってなに?」という話になった。正直に言ってそんなものは私にはない。日常ってそんなに刺激に満ちあふれたものか?刺激に満ち溢れている必要があるものか?
いや、正確に言うと確かに仕事の中でスリルやドキドキを持つ場面はあるだろう。だけど、単発で瞬間的に感情が高ぶって、我を忘れて感情を露わにするようなものがあるか?マジックを見て、それが現実だと思ってしまって騒ぎ出す幼児じゃあるまいし、社会人にもなっていまだに何かに感情を爆発させていたら普通に生活を送ることなんてできるんだろうか?
まぁ、そんなことを言って場がしらけるのも何なので、黙ってその質問には答えないでおいた。すると二つ下の後輩が「え~私は家を出て、雨が降っていた時ですかね~~。濡れちゃうじゃないですか~~~」と宣った。
いや、そうじゃないだろ。
明らかにそうじゃないだろ。
家を出て雨だったら嫌だけどさ、そこで感情を爆発させるか?近所にそんな奴いたら絶対やばい奴だよ。
おかしいおかしい。なんなの?紙なの?雨が生殺与奪権を握ってる訳?いや、仮にあんたが紙だったとしても、その時わたしなら有給とるよ、叫びはしないよ。。。。。。。。。
そもそもこういう話ってキャリア論とか人生論になるはずのものだったんじゃないの?いや、合コンだからそれはないか。結局かわいいこをGETできればそれでいいんだよな。
けど質問にはちゃんと答えるのが、かしこい女の子アピールには必要でしょ。。。ってことは、やっぱりだめだよそんなの。
と、ひとり思いながらカシオレを流し込んでたけど、男どもは「わかる~~~!!」って大合唱。
お前らも紙だったのかよ。。。。。。。。。。
追記
後でわかったんだけど、実はその男どもは大手製紙メーカー勤務で、そこから後輩は仕事自慢の話につなげていた。後輩のこと、今度からは敬称つけよう。
KID AみたいなアルバムがビルボードチャートTop3に入ったことなんかは
伝説みたいに扱われてる
U2、コールドプレイみたいな聞き馴染みがよくて覚えやすい曲を連発していたり
なんかここ最近下痢が止まんないんだよね。月曜からだからかれこれ6日目突入か?
ガス抜きする気でミが微量漏れたり、感覚が全くないまま液漏れしてたことにトイレ入って初めて気づいたりしている。6日でパンツ3回汚してるしうち1回は着替えに帰るはめになって遅刻したりしている。
あとなんか出てくるモノが変なニオイする。いつもは快便で「腸の型を取りました!」みたいな堂々たるブツなんだが、最近は軟便の見本みたいなやつか、なんというかナタデココを噛んで吐き出したヤツとガムを噛んで吐き出したヤツをミックスして痰で和えた的なモノのどっちかしか見てない。軟便は快便よりひどい悪臭がするし謎の和え物は逆に全然便ぽくないニオイがする。例えづらいんだが、なんか甘いともさわやかとも言えそうで言えない変な香料みたいな。
そんで、地味に下痢より困ってんのが腹痛。これまでの下痢の腹痛と明らかに異質で、「先日間違えて刃物を食べたので内臓の某所に傷ができています」みたいな痛み方なんだよ。みぞおちからへそにかけてのあたり。
なにが困るってものを食うと沁みて痛いのが困る。うどん食っても痛い、ウィダーインゼリーも痛い、水を飲んでも痛いで参っちゃって、自然1日1食状態になったんだけど昨日とか出勤早々手の震えとか頭がぼーっとするとかなるし。明らか低血糖だったんでカロリーメイト食ったけど、やっぱり沁みるし。
医者行かなきゃダメかなあと思うんだけど、腹痛と下痢くらいで来やがってとか思われんの嫌だし下着汚して云々とか白状したくないけど黙ってていい情報なのかわかんないし、内視鏡だのバリウムだのってなったらイヤじゃん?バリウムとかぜってー沁みるし嫌すぎる。
あと触診っていうの?痛いところ特定しようとしてハラ押す医者いると思うんだけど、最近太っちゃって腹部は割とどこもパンパンなんで今回の腹痛とは無関係にそういう触診の手が腹に食い込むこと自体の痛みが著しかろうと想定されるわけですよ。自分で押してて痛いもん。押してること自体が痛くて、「押してくる手が特に沁みるのはどこか」みたいなのはよくわからん。
そんなこんなでずるずる週末突入したけど腹が痛くてメシがまずいことこの上ないし、ガス抜きするのにもいちいちトイレ行ってやらないとならないし、洗っても洗ってもパンツが足りない乾かないで水道代やばいし、明日とか人と会う約束してんのに外出厳しい状態で本当困る。
この前やっちまったとき履いてた手洗いできないスカート、アレにはダメージなかったのが唯一の救い。
追記
やりたい放題書いててふと「あれこれ叙述トリックみたくなるんじゃね?」って思いついてホクホクしてたのにみんなそんなのそっちのけで病院病院の大合唱かよ。ありがとうございます今日治らなかったら明日診察受けます。
ただ、書き方は叙述トリックだが内容には一切嘘偽りはない。ガス抜きで事故、液漏れ、刃物の誤食疑惑的腹痛、スカートは爆撃を免れた、全て事実である。笑えねーってなんだよ笑えよ。こんだけ茶化し倒したのにまだ足りねーのかよ。はてなーの笑いレベル高すぎだろ。
でもこれそんなに病院案件かなー。だって嘔吐してないんだよ? 出てきたブツは軟便か正体不明ではあるものの、鮮血色でもコールタールでもないんだよ? そして増田を書く余裕があるのだよ?
腹痛で検索すると腹膜炎とか肝臓や膵臓がぶっ壊れた系だとだいたい冷や汗流してうずくまったり転げ回ったりしてるじゃん。いや一時は冷や汗流すくらいの痛みはあったけど、いわゆる普通の下痢の痛みでであって刃物痛自体は流石に冷や汗レベルではなかったのよ。もともと腹痛からの迷走神経反射が起こりやすい体質だし、下痢でなら冷や汗はセーフの範疇かなみたいな。念のため婦人科系の腹痛の情報も漁ったけど下痢って時点でコレジャナイ感あるし。卵巣だのなんだのが炎症起こしてそれが飛び火しているにしては肝心の「卵巣だの何だの」が痛くなさすぎるような気がする。痛さの種類的には寄生虫も考えたが、腹痛前3日くらいまで遡ってもサカナ食べてないし少なくともアニサキスに噛まれたってのはちょっと考えづらい。急性胃腸炎か、最悪トラバの指摘通りちょっと潰瘍くらいだろこれは。腸捻転とか腸閉塞の超軽いのとかさ。癌wwwねーよwwwいや検査もしねーで100パー無いとは言えないが、他にもっと疑うべきなのあるだろwww
あと生理用品な、あれ下着ガード用であって今回の液漏れとかは保守範囲外だから、あくまで応急処置にしか使えないのな。6日で3回の1回目だけみたいな。構造上液漏れ発生箇所から吸収までの過程がノーガードになるから、あれだ、ケツの谷間っつーんですかァ? そこらへんが漏れたアルカリ液で荒れてえらい目見る。トイレットペーパー巻いて挟んどいて頻繁にトイレ行った方がコスパ的にも良かった。
それから、太ったくらいで腹押しても痛くないだろという(おそらく)殿方におかれましては、アザラシをイメージしていただきたい。分厚い皮下脂肪に阻まれて生半なちからではそもそも触診にならず、触診が成立するほど強く押したら普通に筋肉やらなんやらが巻き込まれて痛いという、そういう感じである(当社比)。
あー、それにしても痛い。今日治んねーかなー。出かけづらいの本当きつい。
くちびるに歌をを読んだ。方言が可愛らしい。あたたかな物語だった。
主役となる中学生たちがみんな純な感じがして心地が良かった。何かしら特殊な使命を帯びていたり、陰湿ないじめにあっていたり、部活のエースとして活躍していたりするわけじゃないのが優しい空気感を醸し出していた。一人二人癖の強い人物が配置されていたけれど、彼らも自分達の存在感を声高に主張していないのが上手いと思った。
みんな純だって言っても、それぞれがそれぞれに家庭なり人間関係に複雑な影を持っている。一応主人公になるナズナとサトルの家庭には、深く覗き込むと胸を締め付けられそうになる気配が漂っていて、そっち方面に転がそうと思えばどれだけでも転がせていけそうな奥行きを持たせていた。
でも、それらが気配として作中に潜んでいるのみで、一つ大きな筋として合唱に向き合う等身大の中学生たちが描かれていたのが良かった。加えて、作中にも書いてあった『手紙~背景 十五の君へ~』の歌詞が一つ一つスルメみたいな味わいを出してたと思う。
また個人的に一番注目したいのが自称ニートの臨時音楽教師、柏木先生だった。この人の心理描写は作中じゃほとんどされないんだけど、たぶん読者の心情に寄り添うような形で変遷したんじゃないかな。
何があってWiiの操作ばかり上達するに至っのかは書かれていないのだけれど、エピローグで彼女はもう一度東京へと旅立っていく。慌ただしくてめまぐるしく変化していく都会へ、十年も景色や人が変わらない田舎から立ち向かっていく。彼女は再び戦地へ向かうわけなんだよね。
日々の生活はいろんなことが大変で、様々なことでめげそうになることが多いと思う。それでも再起する柏木先生の姿が表しているのは、作者から読者へのエールなんだと思う。頑張れって、頑張ろうって、背中をそっと押してくれているような気がする。
ところどころに先へ先へと読み進めたくなる謎も散りばめられていたのでするする読めたのも良かった。折角自由曲を自作したんだから、その内容が読みたかったのだけ残念だった。
『手紙』の歌詞が、重層的にリフレインしてくる小説だった、中高生はもちろんのこと、大人にも読んでもらいたい、元気になれる一冊だと思う。
無理ゲーな自動車での人身事故。これがおきるたびにわき上がる運転手かわいそうの大合唱
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1881176.html
だいたいいつも要約すると次のような意見が集まる。
それに違和感を覚える。という話。
自動車の免許もったことない奴は、もしかしたら知らないのかもしれないが、こんな状態でも責任を背負わされるのが車の運転手で、運転手はそれをわかったうえで運転している。
そのことは、わざわざ18歳以上の責任ある運転手本人が、みずから試験まで受けて、免許してもらってるわけ。なんかの生命保険の契約書みたいに、気付かれず小さく書いてある条件ではなくて、試験までうけて自覚している前提で成り立っているもの。
運転手は、絶対にどんな無理な状態でも、自分と同乗者と周りの安全に対して全責任を負うのが決まりである。
もし運転手の中で、「そんなこと自分は知らなかった」もしくは「知ってたけどやっぱりそんな条件は自分はのめない」というのであれば、免許返上(もしくは自ら立候補して法律改正)という行動を起こすことも、許されているわけ。このこと(条件がのめないなら免許返上すべき)も、確か試験に出るから免許保持者みんな知っている事実。
「いやいや、免許返上なんて極端な。身分証明書として事実上運転免許証は必要だから、条件はのめないけど免許返上はできない」というのであれば、ご安心を。
免許を返上しても、身分証明としてだけつかえるようにする方法もある。
「無理ゲーで人ひいても運転手が悪いなんて納得できない!」って主張したいんだったら、まずは免許返上を。
じゅうぶんに信頼できる自動運転が発達することは望ましいが、運転手の責任を解放してくれる類のものではない。
自動車という道具は、便利だからという理由だけで出発点から到着点までの全ての生命財産をおびやかす道具であるということを、いまいちど運転手は自覚する必要がある。
周囲の安全に対する責任を一手に担っているのは、運転手本人であり自動運転はその補助でしかない。
自動運転は交通安全の特効薬ではなくて、ましてや自動運転だから運転手の責任が解放されるわけではない。むしろ機械の動作の責任まで負わなければいけなくなるので、運転手の責任は増えることになる。
一番最悪なのが、「ひかれた奴が悪い」という意見。
ひかれたほうが、危険なことをしていたことは変わりがないが、それでも死ぬほど悪いことをしていたわけではない。
「これは運転手は悪くない、ひかれた奴が悪い」といってる奴は、ひかれた奴は死んで当然なほど悪いことをしていた、と同じ意味のことをいってることに気付いてほしい。
だれだって、事故を起こそうとして起こす奴はいない(少ない)。
ここに人がいるからひいてやろう、とおもって起こすわけではない。絶対にここには人がいないだろうと思った箇所に人がいるから起きるのだ。
ハンドルを握るたびに、もしかしたら自分は今から誰かを不幸にするかもしれない、という覚悟くらいは、せめて頭の片隅にでも置いておいて欲しい。
あなたが、今からひき殺すかもしれないその人は、死んで当然なほど悪いことは、していない。確かに、危険なことはしていたかもしれないが、それだけだ。
喉が痛くて耳鼻科行ったら喉の食道と声帯の境目あたりに炎症ができてるって言われて、
とりあえず炎症抑える薬を数日飲んでたら楽になったけど、もしかしてこれ、逆流性食道炎とかだったのかな?
前から胃酸モッサモッサ出てる気がするというか、胃がムカムカしたりウプってなったり、
平らなところに横になると腹の中を熱い液が喉の方に上がってくるのがわかったりする体質ではあったし。
喋ってる最中に酸味がのぼってきそうになって飲み込むとかもよくあるし。
元々胃のトコの弁が弱いのか頻繁に上がってくるので飲み下すことも多いけど、油断してると噴きだすから幼いころから人よりもどす機会は多かった。
思い出せるだけでも、むせゲロ、笑いゲロ、嗚咽ゲロ、激おこゲロ、歓喜ゲロ、緊張ゲロ、走りゲロ、踏ん張りゲロ、跳ねゲロ、逆上がりゲロ、
腹筋ゲロ、格ゲー熱中ゲロ、早口ことばゲロ、腕相撲ゲロ、ドッヂボールゲロ、合唱ゲロ、腹パンゲロ、胸倉掴まれゲロ、背中叩かれゲロ、
ヨガゲロ、フラフープゲロ、夜の営みゲロ、前屈ゲロ、ゲロワット、ラジオ体ゲロなどなど、数々の事故を経験しながらも奇跡的にいじめられることもなく、
あなたの暮らしにマーライオン、Mr.ゲロルシュタイナーの称号を欲しいがままにしてきた私ではあるが、よもやこの年になって病気を疑うことになろうとは。
我々取材班は、未だはてな原住民の勢力下にあるという増田村に潜入取材を試みた。
現地のガイド犬(スコティッシュ・テリア)に案内され、増田村との接触に成功した取材班。
いきなり村の入口の異様な光景に驚かされる。
村の入口に並んでいたのは無数の頭蓋骨であった。
ガイド犬「ああ、これは別の増田村の村民たちの骨ですね。彼らは年中同族同士で殺し合ってるんです」
取材班「明らかに増田ではない骨格の頭蓋骨もいくつかありますが……」
ガイド犬「(直接質問には答えず)安心してください。我々は敵ではない、と先方に伝えてありますから」
ガイド犬の口調は力強かったが、未開人の野蛮な風習を見せつけられたショックは大きい。
取材班「こんな文明から隔絶した、恐ろしい土地が現代インターネットにも存在したなんて……」
インターネットの闇は深い。
随分、興奮しているようだ。
ガイド犬「大丈夫です。あれは、彼らの言葉で『あなたに会えたことを神に感謝します』と言っていて、まあ定形の挨拶みたいなものです。我々は歓迎されてますよ。ほら、見てください」
犬が鼻で示した先には、煮えたぎる巨大な鍋が。
中身は排泄物のような色合いの液体で満たされており、ちらほらと魚の頭?のようなものが突き出している。
増田たちはそのシチューのような何かを木製の器によそうと、満面の笑みで我々に差し出してきた。
取材班「我々に食べろ、と?」
ガイド犬「これはサバカレーといって、増田族に伝わる神撰のひとつです。外部の人間とこれをわかちあうことで、永遠の友情を築けると彼らは信じています。ヤクザの盃とおなじですね。友好の証ですよ。ぜひ、いただきなさい。おいしいですよ」
サバカレーはぬちゃぬちゃして、とても苦く、お世辞にもおいしいとはいえなかった。
が、せっかくのおもてなしを無下にはできない。彼らの機嫌をそこねたら、魚の次にシチューの材料にされるのは我々だ。
我々は無心でサバカレーを口の中へかきこんだ。
取材班「ごちそうさまです……」
二時間後、悪戦苦闘の末、我々はサバカレーを完食した。地獄のような二時間であった。しばらく茶色い食べ物は焼きたてのパンでも食べたくない気分だ。
増田たちは、戦後直後の占領米軍兵にチョコを乞う浮浪児たちのごとく、一斉に両手を我々に向けてつきだしてきた。
ご馳走の見返りをよこせということだろうか?
ガイド犬 「ああ、ブックマークを欲しがってるんですよ。彼らは。くれておやりなさい。減るもんでもないでしょう」
ガイド犬「は?」
ガイド犬の目つきが明らかに豹変した。
ガイド犬「そんなことも知らないで……増田村までやってきたんですか!?」
増田たちの「ブクマ!ブクマ!」の大合唱がどんどん強まっていく。
ガイド犬は増田村の村長に向かって、あわてて何事を申し立てた。
増田村長はガイド犬と二言三言、短い会話を交わしたのち、ベニヤ板の床をドン、とひとつきし、増田たちを黙らせた。
増田村長の大喝に、一旦はクールダウンしたかに見えた増田たちもふたたび狂騒を取り戻す。
増田たち「ゴジョカイ! スイヨービ! ノーブクマ! スイヨービ!」
ガイド犬「まずいな……」
ガイド犬はそれには答えず、こちらへ憐れむような一瞥を投げかけたと思うと軽やかに身を翻し、青二才のごとく狂騒の村長宅から逃走した。
われわれを置き去りにして。
増田たち「ゴジョカイ! スイヨービ! ノーブクマ! スイヨービ!」
増田たち「ゴジョカイ! ダップン! ノーブクマ! ゲリピー!」
我々を輪のように取り囲み、じりじりとにじり寄ってくる増田たち。
その目はどれも尋常ではない光を帯びている。
命乞いは、無駄であろう。
取材班「なんてことだ――増田村に、はてな原住民にさえ近づかなければこんなことには――」
後悔してももう遅い。
おそらく明日には我々の真新しい頭蓋骨が、増田村の入り口に並ぶことだろう。
わかったよ。スポニチに「誘拐監禁犯は女子高生アニメにハマってた」と書かれたんだろ? その通りだな、アニメは関係ねえ! 俺たちアニメファンは犯罪者じゃねえ! 全く正論だよその通りだよ主張してかなきゃいけねえよ。
でもな、いま大声でそれを叫んでTwitterのTLを埋め尽くして、お前ら、忘れてね? いまこの瞬間、誰が被害者で、何に注目すべきかを。
スポニチが書いて、まあつられてワイドショーもアニオタキモいぐらい言って、それでお前ら、いまこ、オタク文化がこれだけデカくなってアニメが主要産業になった時代に、何か被害を被るか? 表現が委縮するか? 四半世紀以上前の宮崎勤事件の頃みたく奇異の目で見られて犯罪予備軍のレッテル貼られて生きづらくなるか? 日陰者の立場に追いやられていくか?
おう、表現規制や委縮のリスクはある。防いでかなきゃなんねえ。でも今大声で連呼すべきは、そ・こ・じゃ・ないだろ! いまメディアの向こうにいる被害者の苦難を想像しろよ。同じような被害に遭ってる子供がほかにもいるかもしれないことを想像しろよ。犯罪者の物理的・心理的暴力に屈せざるを得ない、未成年の弱者がいることをリアルに想像しろよ。叫ぶべきは、そんな被害者を、俺たち社会の一員が、いかに救っていけるかってことだろよ。たとえ実社会から疎外されてると言ってもよ! ネットだって社会なんだから!
オタクを犯罪者と決めつけるなと連呼される傍らで、(そいつらはオタクじゃないかもしれんが)平然と「一人で外出もできてネットも見られて、この女ってただの家出少女のビッチじゃねえの?」とか「家に幼女がいればそりゃ力づけられるわー」とか言って、それに頷いてる奴らがいる。女という性別に恨みがるのかもしれんが、それを一般化して少女にも問題があるように決めつけたり、それこそまるでエロ漫画のように、「所有物としての少女」をリアルで肯定したり。いま叫ぶべきは、それは違う! ということだろ!
犯罪の現場で男性と女性が対峙したときに、女性が感じる「体力じゃぜったいに男にかなわない。逆らえば殴られるかもしれない。逃げても追いつかれるかもしれない。従順にするしかない」という恐怖を想像しろよ。成長期にある少女を、歪んだ支配下に置く状況の異常性を想像しろよ。それが一人の、自我と人格を持った一人の人間の、健全な成長にどんな影響を与えるか、想像しろよ!!
事件は終わったが、被害者の「被害」は終わってないんだ。PTSDは永久に続くんだ。それを助長しようとしてるのは、メディアスクラムをやるマスコミだけじゃない。被害者がアクセスできるネットの中で、犯罪に対する理解力も想像力もなく、被害者をまるでフィクションのキャラのように好き勝手言って弄んでるやつらもだ。そいつらに届く声で全力で、それは違う! と言わなきゃなんない場面だろΖガンダムの最終回のカミーユみたいに! いやマジで!
本当の被害者を貶めるような発言はほっぽらかしといて、いざ被害が俺たちオタクに及ぶかもとなれば、一斉に自分たちが被害者でございと大合唱。お・か・し・い・ん・だ・よ! 被害者は、どこだよ!
「女子高生のアニメ見てれば犯罪者予備軍ですか?」ってわーってるよ違うよ。でもな、忘れんなよ。お前らハルヒに嵌って、グッズ買って、んで、ハルヒのエロ同人買わなかったか? ハルヒを性欲の対象として見なかったか? 俺もふたばでハルヒが男に組み伏せられてむぐーって言いながら、「孕めっ!」て思いっきり中だしされる絵(シチュちょっと違うかも)を見て興奮してヌいたよ。それは俺の中の、お前の中の、暴力性だ。フィクションに転嫁させた性的な暴力性、女性に対する暴力性が、なにかの拍子にリアルに向いてしまうかもしれないって、リスクを忘れんなよ。
自分が、性欲と暴力性を宿した男であるが故に、リアルで女を傷つけてしまうかもしれないという事実から、俺たちは逃げられないんだ。どんなに男女平等で、経済的に強い女が闊歩するようになっても、一対一で向き合えば男は女を組み伏せられる。その力を忘れんなよ。コミックLOの「ロリコンだから、少女を守る」とかいう標語を「ハハ、カッコいいじゃねえかLO」とか他人事のように言うなよ。俺はリアルの女に興味ないからとかリアルから見放されてるからとかうそぶくなよ、おっぱい触ってみたいと思ってる癖に。そんなリアルな性的欲求に、相手の女性を「自我のある人間」として見ない傾向が重なった状況は、危険なんだ。1万人のそういう傾向を持つ人間のうち、1人が暴走したとき、暴力は、犯罪は、起きてしまうんだ。だったら母数の1万人を、なるべく減らすように、いま叫んでかなきゃならねえだろが! 俺たちが!
先日、渡辺宙明のコンサートを見てきたのだが、ヒドイ内容だった。
プレトークで関係している役者が昔を語ったり、演奏する曲にまつわることを話すまでは良い。
しかし、ファン代表みたいなかたちでアニメ監督(だれ?感が半端ない)が登壇してたけど、
せっかくのキカイダーやイナズマンの主役を務めた伴大介からうまく話を引き出している感もなく。
なんで登壇したの?という感が否めない。
正直、もうちょっとインタビュアー経験者を用意してくれと思った。
あと本編では以外と思われそうだが、演奏もこれまたヒドイものだった。
後にCD化するようなので興味があれば聴いてみるといいと思うが、
肝心のブラス隊(主にトランペット)がけっこうポカをやっている。
キメどころを外すのはさすがにいただけなかったな。
また、コンサートでは情報公開されたいた歌手で成田賢以外でもシークレットゲストとして
そうそうたるメンバー(水木一郎、MoJo、串田アキラ)が歌うことになったのだが、
そのうちMoJoは「とつぜん歌うことになったから私服だよ!」みたいなことを言っていたが、
それ以外の歌手は衣装を着ていたところを見ると仕込みなのは丸見え。サプライズ感ゼロ。
しっかり事前に渡されたパンフレットに歌う曲の歌詞カードをしっかり挟んであるし。
せっかくのオーケストラ編成なんだから、オリジナルの歌手に歌わせて
アレンジバージョンとして聴かせることに徹すればいいのにと思ったのは私だけだろうか。
特にCD化するんだったら、大合唱パートなんていらないと余計に思うんだけど。
あと参加していないが、聞いた話によるとコンサート後のパーティーもひどかったらしい。
一般観客として来ていたプロの演奏家が、登壇者の関係者としてあいさつしようとして断られたり(ツイッター情報)、
会費も5000円らしいが、受付態度もひどくどういう段取りかも説明しないヘボスタッフだったようだ。
また出てきた料理もたいしたレベルでもなく飲み重視で店員もいたがセルフと注文取りの間の対応だったようだ。
行く人はその辺の事情を飲んだうえで行くといいだろう。
とりあえず勢いに任せて書いてみたら、twitterに投げるには長すぎ、そもそも俺きめぇってなったので。
誰か一人でも、共有できる想いがあれば嬉しいので、こっちに投げ込みます。
ライブ2013の例からいって、円盤収録もない可能性が高いので、両方を聞き比べられた人はきっと幸せ。
というかむしろ、日曜の内容は土曜を聞いてること前提だったような。
『後は昨日のテープ流しといて』とか、『強制退場ってことは、チューするのか?』からの『昨日と言ってることが違うゾ』とか。
しないフォギアといい、やっぱスタッフ側もガリミカ好きなんだなと理解した次第。
オープニングはRADANT FORCEかギャラクシィクロスか、という大方の予想を覆しての、まさかのオープニング曲。いや、アニメ本編のオープニングだから使い道としてはあってるんだけど。
後のMCでも言ってたけど、これまでにも各媒体で『終わりの曲』『Glorious Breakを受けてのアンサーソング』って言われてたから、てっきり終盤で演るもんだと。
そしてそれが予想外だったことに加えて、ついに始まったってことで感情が昂ぶって、覚えてたコールが飛んでしまったりも。ラスサビ前の『Exterminate』は叫べてよかった。
Exterminateから息つく間もなく、初手から全開のシンフォギアライブ。
日笠陽子は『マリア・カデンツァヴナ・イヴ役の』と噛まずに言うだけで笑いが起こる女性になってしまったなあ。
序盤からまさかの予想外曲。リハの音漏れから、前期曲も演るんじゃないかと思われていたけど、このメロディアスで印象的なイントロが流れたときの適合者のヒートアップっぷりはもう。おう、叫んだとも。
そしてこの予想外に難なく適応して完璧なコールを飛ばす適合者たち。このライブの成功が約束された瞬間といってもいいかもしれない。
トーン低めのキャラ声で、この熱狂のただ中にいきなり入っていくとか、冷静に考えたらわりと超難易度っぽい気もするけど、さすが装者の中でもライブの場数はトップクラスと言っていいだけある。
予想はできていたとはいっても、実際にディストーションばりばりのギターのイントロが流れると、どうしたって盛り上がる。南條愛乃の高音と茅野愛衣の低音とのハーモニーは、もうねえ。
イントロがかかったとき、きっとほとんどの適合者が、『このセトリ、俺たちを殺す気だ』と思ったにちがいない。
今回も、南條愛乃デザインで揃いの衣装。ギアのヘッドパーツを模した、というかそのままヘッドパーツの萌えポイントが高すぎて。あと、茅野愛衣は、なにげに前回のシンフォギアライブ以来のライブとのこと。あんな強くてまっすぐな低音を出せる女性声優って珍しい気がするのに、もったいない。
いやほんと、茅野愛衣の低音は素敵。オリジナルバージョンの、近い声質のハーモニーもいいけど、ZABABAの個性のあるバージョンもいいものだ。
\デデース!/\デデース!/
(顔をしてぷるぷる)のところはコールしないのね。
これ、イントロだけで、即座にライトを紫に変えられたひとってどのくらいの割合だろう。というレベルの予想外。ライブ2012以来だし、そういえばそのときも初披露なのにこういうコールをしていた記憶が蘇ってきた。
ステージから客席に放たれるレーザーは、シェンショウジンの光そのもの。
身体を削って喉を振り絞るようなパフォーマンスには、ただただかっこいいという言葉しか出ない。
話を総合すると、奈々さんが好きだから触りたいけど、触られたらぽよぽよだぞ、と。
いやでも実際問題、あの声量をあれだけ身体を動かして安定して出せるなんて、鍛えてることに異論はないやね。
あと、『たやマ?』はしばらく笑い転げてしまった。
染みる歌詞染みるメロディ。「歌が好きだ」とハジけた感情の上昇は、日笠自身を現していた。
泣き声で『みんなに力、もらったよ!』とか泣くでしょ。
シングルカットバージョンではなく、アニメ本編で使われていたイントロのロングバージョン。次第に加速していく4つ打ちの重いビートにあわせて、会場を埋め尽くした赤いライトが上下に揺れ続ける一体感は静かに熱気が高まっていくのをしっかりと感じた。
そしてキレッキレの振りがまたすばらしい。
『盛り上がってるか! 群雀ども!!』ってアオリで一気にクリスへと切り替わる瞬間。
『高垣彩陽の爆笑MC』って、どこぞのアドリブアニメの声優じゃないんだからさぁ。
そして、もらったブドウ缶で、クリスのうさぎキーホルダーとクリスソーサーを入手するとか、ほんと役に愛されている。
だから1期の回想とか泣くってば。……いやごめん、ネフシュタンクリスは久しぶりすぎて正直笑った。
ほんと、この曲の揺れ幅がクリスだよなぁ。前回の教室モノクロームもよかったけど、こちらも圧巻の歌唱力で歌い上げられたら、そりゃもう幸せですわ。
きりしらとはまた違った形で、特徴的な声と声とのぶつかりあいは、緊張感であり安心感でもあり。
あんなヒラヒラの衣装で舞台を右に左に走り回るなんて、水樹奈々のライブ特性はほんとどうなってるんだ。
『話はベッドで聞かせてもらおう!』の正しい使い方講座。
それはそれとして、ダジャレで自らを窮地に追い込んだSAKIMORIの照れ顔最高。
あと、『翼はこういうキャラじゃない』って言ってたけど、しないフォギアを見る限りはわりとそういうキャラっぽいよ?
だから1期の奏回想とか泣くってば。泣くってば。
客席の青いライトにまじってちらほら見えるオレンジと赤の光に、やっぱりみんな奏のことが好きなんだなって。1期から追いかけている適合者も、まだこんなにいるんだなって。
水瀬いのりのあの小さい身体のどこからこんなドスの効いた声がでてくるんだって思いが、生歌を聴いてさらに不思議になった。
シンフォギア現場にずっといたとはいえ、ついにこのメンツに混じってライブ参戦とか、そりゃ怖いだろうって話で。
歌い上げる系の唄を、生でこれだけ表現できる子だったのかー、と。黄色のライトの意味が、さっきとはぜんぜん違って見えた。
スポットが当たって姿が見えたとき、ディスプレイに響そのものの姿が映し出されたとき、そして歌い始めと、わずかな時間に3回。
ただただ叫んだことと、それをさらに自らが煽っていく悠木碧と、それだけしか頭に残っていない。
響を連れてくることだけを考えました。そしたらみんなが『座長』って呼んでくれました。
ライブ2012、2013と見てきた適合者は、そのトークに込められた想いがどれだけ重かったのか、自分のことのように感じていたはず。
2012のカーテンコール。締めの挨拶をしたのは、奈々さんだった。もともとそういう予定だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
2013のカーテンコールでも、このメンバーで自分が座長なんてありえない、そう言っていた。
やっと、本当の意味で、自分がいられる場所を見つけた。そういえる彼女は、間違いなく強くなった。
高まってるところにこれはいけない。
というか適合者は何故サビ合唱を当たり前のように!
手を繋いで左右に揺れながら楽しげに歌うふたりが、ほんとうに幸せそうだったあったかい曲。
日笠を、泣いたことで弄る悠木碧の頭上に、ぴこんとフラグが立ったのを見たのは、自分ひとりではないだろう。
勇ましくて、でも優しくて暖かい曲。
横一列に並んだ装者たちが、思い思いに身体を揺らして歌ってるのが、ほんとうに楽しそう。
これまでの歴史が語られ、そして。さすがシンフォギア、予想を裏切ることにかけてはその方向性に間違いはなかった。
絆、心、一つに束ね 響き鳴り渡れ 希望の音
願い、祈り、全てを背負い 本気を超えた 本気の唄
twitterで検索しても、興奮により上気した満面の笑顔とぐしゃぐしゃになった泣き顔が同居していた適合者は決して少ないものではないようで。
シンフォギアの世界は、唄を奇跡に変えられる世界は、あのとき、たしかに存在した。
RADIANT FORCEがくるなら、当然こちらも。
どうして、さっきまでわけのわからないくらいに絶唱していたのに、この曲ではコールどころかかけ声も上がらないことが統一できてしまうのか。
そして最後まで予想外の1期曲。まさか、また、この唄を聴けるなんて。あのときには今にも折れてしまいそうだった悠木碧が、中央で笑いながら、ほかのふたりを導いている。
見事なフラグ回収でした。
と・き・は・な・て!!
「狼狽えるな!」と言いつつ自分がいちばん狼狽えていたことを暴露される日笠。
ライブ2012のゲームコーナーの話もすこし。四字熟語といえば、やぱり翼さんの『風林火山』。
誰が言ったか『次はアイドル活動とか?』の直後、おそらく客席のほとんどの目は、ピンクい人に注がれていたのだろう。
キャストがそれぞれ、殴っただの殴られただの敵対していただの嫌いだっただの言い合っていて、こういう関係性の変化を積み重ねて楽しめる、長いコンテンツになったんだなと感慨も。
「やっぱり、愛ですよね」のフリに乗り損ねた日笠はおいしすぎてもう。
BDが発売されたときに、しっかり編集点で切られていたらそれはそれでほんとおいしいよなぁ、とよこしまな考えも。
シンフォギアはほんとうに、長く続くコンテンツになった。まだ終わらない。キャストの愛が、スタッフの愛が、適合者の愛が、武道館を満たしていたのを、みんなが感じていた。だから、そこにあるのは笑顔だけで。
G・X!!!!