はてなキーワード: 結果的とは
>「私はトランスジェンダー」と兄の名前語って言い逃れ 無免許運転疑いで36歳女逮捕
>同署によると、男っぽい名前に不審を感じた警察官に対し、女は「私はトランスジェンダーなので」と説明。免許証は「家に忘れた」と話して立ち去ったという。
>署員が免許証を署に持ってくるように指示したが、その後も現れなかったため、同署が女の素性を調べると、女は2015年に免許を失効していたことが発覚。同署は、女が無免許運転を免れるために兄の名前をかたったとみて調べる。
アプリで知り合ってかれこれ一年やり取りしている二十代男子が週末遊びに行っていいかと言ってきた。
宿はと聞くと泊めてもらえたら助かるという。
ファミリー向けの物件に一人で暮らしているのでいいよと答えたが飛行機の距離を本当に来るのか半信半疑だった。
本当に来た。
出会った頃から「わたしは君の親くらいの年だよ、大丈夫?」と伝えていたけど、親くらいの年齢だから泊まりでも大丈夫だと思ったのかも。
でもときどき電話をするだけの相手と二泊三日間が持つのか、逆に緊張して辛くならないのか、なったらどうするか、あれこれ考える。
自宅ではなく別に借りている仕事部屋に泊めた方がこちらに気兼ねせず観光できるかも、とか。
結果的には駅に迎えにいった瞬間から空港のゲートをくぐるところを見届けるまでずっと一緒にいた。楽しかった。
最近まで声しか知らなかった彼女いない歴年齢の二十代非童貞社会人男子はめちゃめちゃ感じがよくて、清潔感にあふれ、面白くて可愛くて、年相応にちゃんと男の人でもあってカッコよかった。
同世代ウケはどうなのかわからないけど、とにかくかわいい。こんな子が降ってわいてくるってなんのボーナスなのと人生ゲームの仕組みを疑うレベル。
せっかくなのでこれまで行ったことのないところへ行って、やったことのないことをしようと思った。
行きたかったケーキ屋さんでケーキを買ってもらって、行きたかったレストランに予約してディナーをご馳走して、帰ってパジャマでマンダロリアンを見ながら二人で食べた。
翌日は行ったことのない街までドライブして、名前だけ知っていた有名な神社に寄って、近くの海が見える寿司屋で水平線を見ながら並んで握りを食べて、砂浜で遊んだ。
免許を持ってきたというので一日保険に入ってもらって運転もしてもらった。助手席から春の山々と運転用に眼鏡をかけた二十代の横顔を眺めた。「この車、癖ない?!」としきりに言っていたけれど運転は上手でなんの不安もなかった。
そうはいっても初対面だし時間が経つにつれ距離感はかりかねてキツくなるのでは、という予想に反して二十代はうちにもうちの猫たちにも馴染みまくっていた。
うちに人がいてこんなにくつろげるのは一人暮らしになってから初めて。
翌日わたしは仕事で書斎に籠もっていたのだけれど、二十代は猫シッターをしながら男手があると助かる雑用をこなしてくれて、なんだかんだで空港まで送ることになった。
楽しすぎるし助かりすぎる二泊三日だった。美味しいものはそれなりにご馳走したけど、それとは別にいくらか包んで渡したいくらい。
お金でこんなにかわいい男の子と楽しい時間が過ごせるなら頑張って稼ぐし喜んで払う。
ていうか、これはもはやママ活なのでは?
と、思って調べてみたらママ活界隈ではお泊りありの場合一泊3万から5万が相場だそうで二泊三日に別途飛行機代がつくとかなりいいお値段になることがわかった。
ということで、ママ活で浮いたお金をコロナ禍で失業を余儀なくされ、子供を連れて故郷の島に帰るフィリピン人の友人に送った。
驚いた友人から "I can not stop crying😭"と船の中からメッセージが来た。
「新しい仕事をはじめる準備をしていたところで、どんなに助かるか言葉では言い尽くせない」と書いてあった。
ちょうどピッタリぐらいだよ!
若林や千鳥がカウンセリング案件だとか捕まってないだけの詐欺師だと諌めつつ笑いを取ることで一種の禊になってしまっている
宮迫ロンブー亮や渡部の謝罪会見以降の扱いを見るに、テレビで謝罪してしまう状況だとおしまいだが、その後でもTVでネタにしてあげれば元の行動はうやむやに問題ないことにされてしまう
尾形のほうは一個一個の行動を社会的DVだとかフリップで示していたことで番組を肯定的に捉える人も多いし、
踏み込んだ内容のつもりかもしれないが浅い理解に終わるだけだしバラエティの禊文化から結果的に“問題なし”と追認することになってる
本当にやめてほしい
『始めれば脚光を浴びる』なんてものは幻想なんだと改めて実感します。
・内容はゲーム実況がメイン
これを1年近くやってまいりました。
元からちょっとした配信はやっていたのですが、Vtuber化してから本格的に配信をし始め、
固定の視聴者は数人ほど出来たものの、新規層には全く響かせることができず。
そこそこ知名度のあるVtuberさんとコラボ配信をしたり、切り抜き動画などを掲載してみましたが、大きな数字変動はありませんでした。
そして1周年、長時間配信と銘打っていろんな企画を用意しました。
ゲストも招いたりして流石に新規層も掴む!と息巻いてましたが、結果的には普段の配信と勢いも変わらず、自分の中ではある意味『スベった』形になりました。
追い討ちをかけるように、「低評価荒らし」がきて 1周年動画は低評価まみれ。
この辺りで、自分の活動の無意味さを実感し、活動が徐々に億劫になってきたのが今の自分です。
半分意地です、ここで辞めたらただの恥だろうと。
ただ、何も得れないままひたすらこなすだけの実情は
そもそも、宣伝を打ったところでいいねばかりでロクにRTもされない。
呼びかけても『自分フォロワー少ないから...』と、常連にもはぐらかされる始末。
企画を打っても参加者はおらず、ならいっそプレゼント企画でも! とないお金を用意して準備しても何も響かず。
日々、壁打ちし続けてる感じです、誰に向けても届かないボール。
視聴者には視聴者それぞれのメイン推しがいて自分はいつも良くて3番手。
おそらく、朝の情報番組同じく、時間や曜日感覚を掴むためだけに配信をただつけてるようなものだと。
周りはみんな登録者数1000人だの、再生数1000回、1万回だと自慢が飛び交う。
結局、人気になるのは歌い手とか元々下地があったり、人気イラストレーターに産んでもらえた人、企業勢だけ。
1から10どころか100を自分でこなす「底辺」はその辺のマーケットで売られてる登録者数やインフルエンサーの宣伝広告権利を買わない限りは伸びることがないのだろうと。
蜘蛛の糸という話がある。
地獄で足掻く若者に天国から蜘蛛の糸を差し出し... というものだ。
この2択なのだと。
報われることは別に望んでない、ただ、自分が壊れるか僅かな人も離れ、無になるか。
それを待つしかない。
※末尾に追記あり。最後に追記したのは 2021/03/08 23:40頃※
3月になり、進学や就職、転職などといった人生のイベントが発生して転居するという方もそれなりに多いだろうと思います。その中には入居できる部屋が見つからずに苦戦されている方も居られることでしょう。私の過去の経験から、入居できる部屋が見つからない原因の一部は、いま賃貸住宅市場に存在する「家賃保証会社」なのではないか、と想像しています。
この記事に限らず、人間が発する言葉はほぼ全てポジショントークです。なので初めにポジションを明かしておきたいと思います。マウンティング目的ではありません。
極端な話、私は安い家なら買えてしまうので家賃保証会社の問題に触れずに生涯を送ることができてしまいますが、天涯孤独な若者が生き易い社会を作りたいと強く願っています。
その後「賃貸住宅市場はどうあるべきか?」のところで意見が述べられています。
2009年頃、私は引っ越す必要に迫られました(大阪市内から大阪市内へ)。このとき初めて、家賃保証会社の存在を知りました。体裁は「連帯保証人を用意できないのならば、保証会社にお金を払って保証を受けて下さい」というものでした。この仕組みはとても納得感のあるもので、連帯保証人を用意する手間に比べれば、初期費用で家賃1ヶ月分程度の出費は圧倒的に安いものでした。もちろん保証会社と契約しました。
保証会社からは緊急連絡先を求められましたが、勤務先の情報を提供することで了承を得ました。のちの体験に比べればとても良心的なビジネスでした!
信用の無い人間から金を取って信用を作り出すという仕事、これは資本主義社会においてとても尊いものであると思います(大事なことは二度言う)。
2010年のとある時期、私が仕事上の炎上案件に巻き込まれて残業まみれになり、一度だけ家賃の振込を忘れたことがありました。締日の翌日には家賃債権が保証会社に譲渡されたらしく、保証会社から電話がかかってきました。まぁ、電話の声は明らかにアレな雰囲気なんですが、世の中にはカタギの人でもそういう見た目だったり声だったりの人もいますし、そこは目を瞑りましょう。過労のあまり締め切りまでに振り込まなかった私が悪かったです。その日の夜23時に退勤したあとすぐに24時間営業のATMから家賃を保証会社に振り込んで、保証会社に電話しました。
この家から退去するときに大家さんから告げられたのは、当該の保証会社が倒産していたという事実でした。まぁ確かに収益厳しそうだよなぁ、と思ったのを覚えています。
ワーキングホリデーを終えて日本に帰国しました。最初はホテル住まいで、一般に言う「住所不定無職」というやつです。住民票の住所はホテルの所在地として役所に届けたので、法的には住所のある無職といったところでしょうか。
そして家探しをする訳ですが、無職なので当然のように家賃保証会社の審査には通りません。不動産屋さん曰く、銀行の残高証明とか出せば審査に通るかもしれないよとのことで出したりしましたが、当時150万円弱の資産では通りませんでした。民間で探すことは諦めて、URで家探しをしました。
URでは、家賃&共益費の1年分を前払いすれば経済面の審査を通過するという「家賃等の一時払い制度」という神のような制度(実際には敷金2ヶ月分もかかるので、14ヶ月分のお金が必要)があります。ワーキングホリデーで私が海外に行くことができたのも、この一時払い制度というセーフティネットの存在を知っていたからです。死守していた150万円弱という貯金は、これを利用するためのものでした。
URでは、良い条件の空き部屋はすぐに見つかりましたが、改装工事中とのことで「入居は2週間後」と言われました。ホテル代で2週間も費やすと入居後の生活に困りそうな状態でしたので、窓口のお姉様に泣きつきました。すると、しばらくしてお姉さまが、書類上は改装工事中なんだけども物理的には工事完了している部屋、みたいなものを見つけてきてくれて、土下座する勢いで感謝しました。このURの窓口のお姉様は私の命の恩人だと言っても過言ではありません。契約後に緊急連絡先は求められましたが家族は居ないし無職でこれから就活するところだ、と伝えると免除してもらえました。結果的に、無事に入居して就職活動を進めることができました。また、すぐに就職できました。
余談ですが、就職先からは親族の緊急連絡先を求められましたが「それが必要ならばこの雇用契約は白紙に戻させて下さい」と突っぱねたところ、了承を得ました。職業スキルがあって本当に良かったです(たぶん未経験就職なら「じゃあ白紙に戻そうぜ」ってなってたと思います)。
2017年、収入を上げるためには、家賃相場や満員電車の消耗を差し引いたとしても東京の方が有利かな、と思い東京で家を探していました。
この時、2009年当時の感覚、つまり就職先という緊急連絡先さえ用意することができれば容易に賃貸の契約を締結することができる、という認識ではいましたが、家探しの時点では内定が出てた訳ではなかったので、職場を含めて緊急連絡先を用意することができず、民間の賃貸住宅を借りることを断念しました。「敷金1年積んでもいいから!」と不動産屋さんで懇願しましたが、3件回って全滅し、心が折れました。
当然にURを検討する訳ですが、当時、東京都内の目的のエリアに近いところのURの賃貸住宅は、満室であるか、月額家賃が30万円を超えているか、といった状態でしたので、東京に隣接する県のURの住宅に住むこととしました。これは現在の家になっています。
2019年、東京での仕事に慣れたので、通勤時間を削減するべく、目的のエリアの近くで賃貸住宅を借りようとしました。築10年ほどの1DKの家が月額家賃12万円みたいな区域ですが年収800万円あるので、収入に占める家賃比率は20%を切ってますし問題にならないはずだ、と認識していました。
私があたった不動産会社3社から紹介される家賃保証会社では全て、「親族の緊急連絡先」を必須としていたのです。2017年時点ではまだ職場を緊急連絡先とすることで家を借りる道筋が存在していたのに、それが途絶えていたのです。
という4要件の揃った人間は、少なくとも筆者が経験する限りにおいては、今の賃貸住宅市場の商習慣のもとでは、住むことのできる住宅が
という方法でしか調達できないという状態になっています。年収が800万円だろうが1000万円だろうが、住宅購入の資金が貯まるまでは選択肢は狭いままです。
これはひとえに、現状の家賃保証会社が親族の緊急連絡先を必須としているからです。
我々のような、「親族が一人も居ないという卑しい身分の人間」は民間の賃貸住宅には住むな、と言われているようなものです。
URも、いつまで存在し続けてくれるのかわかりません。URが運営を停止したり、URの管理物件の老朽化が進んで住めなくなったり、家賃保証会社が現状の業態のまま普及率をさらに上げて溢れた人間がURに殺到して空き部屋が無いという状態になったり、様々なシナリオが考えられます。こうなると、我々のような人間かつコネの無い人間は、その時点で貯蓄が無ければ路頭に迷います。職業能力があって仕事があっても貯蓄が無ければ住所不定です。
このような状況というのは、日本国憲法 第22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」に反するものであると考えています。私たちは、家賃保証会社に「親族の緊急連絡先を提供できない者は住まわせない」という差別ビジネスをやめさせることによって、我々の人権を守らなければなりません。
私たちの人権を守ることと同じくらい、貸主の財産権が守られることも重要です。
家賃の滞納や、通常の使用では発生し得ないような汚損等によって、貸主の財産権は侵害される可能性があります。このような事象が発生したとき、貸主は借主に家賃の支払いを求めたり損害賠償請求をしたり、時には強制退去という手段に出る訳ですが、現行法の下ではこんな手段に出るためのハードルは高く、あっという間に貸主は大赤字です。
そこで家賃保証会社の出番が来たというのが現代社会ですが、そもそも、現行法が悪意または重大な過失のある借主を含めて借主保護に過剰に傾いているからこそ、斯様なビジネスが興った訳です。
以下のようなものを想像していますが、他の設計でも諸問題を解決することはできるでしょうし、私のような法制度設計の素人が組んだものよりはその分野に詳しい方が組んだ方が良いでしょう。
素人が作った制度なんでザルな部分だとかその他の不具合が存在したりするかもしれないですが、政策立案の場面で参考にしてくれたらとても嬉しいです。例えば「親族の緊急連絡先を求めることを禁止する」というだけの改正をした場合、私のような人間は嬉しいですが貸主の保護が弱くなってしまいますので、前述の改正は同時になされるべきです。
こういう法規制が仕上がったとき、家賃保証会社は今の業態のままでは仕事が少なくなるので業態転換をする訳ですが、どのようなビジネスをすることになるでしょうか?私が想像するところでは以下の仕事です。当事者や賢い方なら他にも「三方よし」なビジネスを思いつくかもしれません。
あと、なんか滞納について厳しいことを書いてますけど、これは経済的に困窮したものはタヒねって話ではなくて、生活困窮者を保護するのは大家ではなくて政府だ、ということです。生活保護をもってしてもまだ滞納するのは、それは追い出されるべき悪であるか、身体障害等があって振込という動作に支援が必要であるか、生活保護の額が世情に合致していないか、のいずれかでしょう。
なんにしても、多くの人が幸せになれる社会であって欲しいと願うばかりです。
雇用契約についても、「連帯保証人を設定すること」や「親族が存在すること」を雇用契約の条件に入れることは出生環境による差別ですので、違法とする方向で進めましょう。
昔々イギリスの産業革命からしばらくの間、経済活動においては資本家が圧倒的に有利であった
資本家が自分の資本を元手に事業を起こし、労働者を雇用したが、
労働者には最低限死なないだけの賃金を渡すのみで、残りの利益は全て資本家が独占した
それでも仕事がないよりはという足元を見られて、生きるか死ぬかで労働者はこき使われ続けた
流石にこれは間違ってるんじゃないか。そういう問題意識からマルクスは共産・社会主義の理論をまとめた
やがて世界は共産主義と資本主義の二大陣営に二分されて冷戦の時代を迎えるわけだが、結果的に共産主義は崩壊した。
しかし、共産主義に驚異により資本主義も自分たちの経済理念に見直しを迫られて、
やがて労働者の権利は法律により保護され、資本家の横暴は規制された
ウーバーイーツは法の網の目を掻い潜り、労働者を自営業扱いすることにより、労働者の保護を事実上放棄している
自分たちの男性コミュニティ内部でのホモソーシャルな関係を優先して、平気で女性の尊厳を踏みにじるのも、二人が「早稲田大学の出身者」と聞くと納得がいく。
早稲田大学文学部の渡部直己のセクハラ事件が発覚した時も、被害者である大学院生の女性とその支持者に対して、大学側と渡部直己の子分の教員が「口を噤むように」と圧力を掛けていた。結果的に渡部は早稲田大学を止めたものの、結局は早稲田派閥と文学ムラのコネで仕事を恵んでもらって生き延びている。
まともに実験ノートも書いていない生物学者が学術上の新発見をしたと大々的に取り上げたのも、彼女が早稲田の人間だったから。
高校生の野球部員が練習試合でホームランを打ったとわざわざニュースにしたのも、彼が早稲田の人間だったから。
早稲田派閥は、悪い意味で「仲間意識」が強い。業績が怪しい人間でも「早稲田の人間」であれば、マスメディア内部にいる早稲田OBがスターに祭りあげようとする。
たとえ不祥事を起こして職を追われても、生き延びられるようにと早稲田派閥が便宜を図る。そのため、現在の早稲田内部に存在する不祥事予備軍の人間たちにも歯止めが掛からない。
自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来は知的な行いであるはずだが、どうにもイメージがよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。
まず初めに分かっておかなければならないのは、考察(解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しかし自由だからと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分の評価を自力で客観的に評価してやらなければならないのだ。
さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的な人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突なものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的に客観性のない考察が横行してしまうことになる。
では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品のテーマ、文脈(コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロな視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品の結論、あるいは一言で言い表した場合のテーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスやエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやすく提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトルが作品のテーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)
ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしかに主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。
このように考察とコンテキストは相互に補強し合う。ゆえにコンテキストを意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。
最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ちは共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキストを意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり、情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察の工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察』であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初に考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつの基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語を統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然な帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。
これなあ…。できない人は本当にできないんだよ。性格の問題ではなく、脳の構造の問題だと割り切れば元増田も少しは気が楽になるんじゃないだろうか。
意識の問題にしてしまうと、自分に到らないところが頻発したときに、過去の自分に追い詰められるから気をつけて。
ミスの指摘に対して「バレてましたか?」とかいっちゃうのも、そういう脳の構造の人なんだよ。
その仕事が雑なことで(主にあなたが)どのような被害を受けるのかを洗い出した上で、自分に被害がいかないよう、淡々と対策を取っていくしかない。
例えば、そのタスクが雑でも、結果的に仕事全体が上手く回るか、雑な仕事をした人の評価が下がるだけで、貴方が一切責任を問われないのであれば、もう多様性の一つだと思って肯定すればいい。
あなたがその人を指導する立場で、雑な仕事をした結果、どこかで損害が発生する可能性があり、かつあなたが責任に問われる立場であるのであれば、対応を考える必要がある。上に書いたように、できない人は脳みその構造上どうしてもできないことが往々にしてある。その人がどのようなミスをどの程度しているのか、それに対して自分はどのような指導をしたのか、そしてそれに対して改善があったのかを定量的に評価し、改善が見られないようであればさらに上長に相談して担当替えをしてもらうしかない。なので成果物のレビューは文章に残しておいた方がいい。
とにかくできない人は脳みその構造上本当にできないので、「その人は改善すべき」よりも「自分に被害がいかないようにするにはどうすればよいか?」という考えに切り替えた方がよい。
結果的に救われるのはわかるけど、言及されないことで疎外感を感じる人間の苦しみとかは想定してないんだなって思わざるを得ないよ...
だらだら書いてっけどさ。結局のところお前は百合ヶ丘が好きなんじゃなく「『新しい駅ができて寂れてきた田舎空間』を求め、かといってそこに快速が停車してしまっては『新しい駅ができて寂れてきた田舎空間』ではなくなるから、快速は停車したくない」っていうワガママな都会嫌悪マンで、求めてるものが結果的に百合ヶ丘なだけなんだろ?じゃあゆりストアでも行って勝手に8が付く日をゆりの日にしてろよ。新百合ヶ丘に八つ当たりすんな。
本当ならこれで話は終わるんだけど、新百合ヶ丘のことボロクソに貶してくれたお礼くらいはしてやろうか。
のっけからこれかよ。かつて宮澤伊識も指摘したところだが、百合ヶ丘は大型百貨店が存在したとしても成立する。『百合ヶ丘が俺を人間にしてくれた』における宮澤の論は未だ古びない。なぜなら、あの文章によってアップデートされたのは限界百合ヶ丘オタクと限界候補のみで、世間には何一つ響いていないからだ。その響かなかった奴らの内の一人が、百合ヶ丘をイオン嫌悪の隠れ蓑にしてるだけのお前、というわけだな。今どきこんな主張するの、聖マリアンナ医科大学にはお嬢様しかいないと思っているお嬢厨だけだと思ってたが、なるほどイオン嫌悪野郎もいたのか。
意味が分からないようなら、少し噛み砕いてやろうか。お前は百合ヶ丘に百合が別に咲いていないことに拘泥しないことを表明している。そこは偉い。よみうりランド至上主義者は、読売ランド前駅と言いつつもちょっとよみうりランドから遠かったら、すぐそれを指摘する。安易に駅名に結び付けることでしか感情の大きさや関係の複雑さを処理できないゴミ共だ。以上、雑な百合ヶ丘感でお送りいたしました
「単純なミスを二度繰り返す」
なんだか吉高由里子ちゃんの出てる映画のタイトルみたいじゃないかしら?
「ロシアより愛を込めて」に通ずる映画のサブタイトルに使ってもいいわよ。
いまなら早い者勝ち!
あーあ、
私も寝て起きたら
あのさ、
私またやってしまったわ。
私の傾向としては、
単純なミスを間隔を置かずむしろ直近にまた再び起こすってこと。
そうまた郵便局よ。
宛名間違えちゃって出しちゃって郵便局の人に探してもらいました。
さすがにこの時ばかりは
この間のようにすぐに見つからなくて、
局員の人も見つかったら連絡しますねって言ってくれたの。
凹むわー。
一応さ、
郵便も社会インフラの一部として活躍しているお手紙の用事はなんだったっけって黒ヤギさんが言うほど今じゃ欠かせないライフラインでしょ。
社会のリソースを私が申し訳ないほど10分ほど手を取らしてしまったわ。
結果的には事務所に戻ってからしばらくして電話があって郵便物見つかりましたって連絡があったから、
そっと胸をなで下ろしたところよ。
こないだ、こないだって言っても先週よ直近の先週!
一度ならぬ二度までも。
ほんと凹むわー。
私を慰めてくれるのは
中条あやみちゃんが苺イチゴしておいしいでお馴染みのハーゲンダッツイチゴ味しかないのよね、って
まだ冷凍庫から出したてでカッチカチやぞ!ってスプーンが入らないけど、
ギュッと抱きしめるか、
そのイチゴイチゴしたハーゲンダッツイチゴ味でお馴染みの中条あやみちゃんばりにそれを食べるのよ。
それが癒やし。
でもさよく考えてみると、
木べらのスプーンで挑んで戦えと!
文字通り歯が立たないわよね。
だから私は、
こういう時って日本語でどういうのかしら?
それが癒やし。
でもさ、
中条あやみちゃんがもっとイチゴイチゴしてる!ってそれを越えるもっとイチゴイチゴしてる驚きを、
あのイチゴイチゴしてるのもっと苺を感じさせるものって無いのかなーって思うのよ。
最強の苺探しの旅に出たいところだけど。
じゃー一周してイチゴ狩りに行けばいいじゃん!って思ったワケなのよ。
半袖でいる人がいたら要注意よ。
意気込みが違うのよ意気込みが。
あと、
えーイチゴ狩りタイムたったの30分なのー?ってしょんぼりしなくても安心よ。
まあ
そんなわけで、
うふふ。
お腹が満たされると研ぎ澄まされる感覚が無い感じがしないかしら?
よく分からないけど、
最近は朝これ試みているところよ。
ちょっと暖かくなってきたと言えども、
いかに私たちはイキフンで言葉を巧みに使っているってことなのかもしれない、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
汚いコメントが目立ってしまうので、結果的にヘイトを貯めてしまっている
適切なフィルタリングさえあればこんなことは少ないはずだ
KKOは、女は、男は、自民は、民主は、高齢者は、あーだこーだ全方位に突っかかるコメントを見て辟易している
「世の中にはこんな人もいるんだ」なんて学びになることもあるが、その比率は0.03%にも満たない
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。
ひょんなことから、うちで子猫を産まれてしまい、既に先住猫もいたことから、何とか子猫をの貰い手を探そうと、アプリを利用してみました。
私が出した条件は、譲渡があまり難しくならないように、居住県の隣接地域の方と言う事だけで、募集開始時の子猫の月齢も小さかった事もあり、応募者の方は少なくありませんでした。
こちらとしては、先着順でOKのつもりでしたが、最初から地域外の方からの応募があったり、また、母親が野良猫という事で心配されたり、譲渡時期のすり合わせや、応募された方と連絡が出来なくなったり、8週齢以降の引き渡し(子猫を販売してもよい月齢)では遅すぎると断られた方と、いろんな方がいらっしゃいました。
ただ、結果から先に言うと、譲渡前の母子検診時に、母猫が猫エイズキャリアであることが発覚し、里親希望者様にその旨報告すると、流石に皆様辞退され、こちらも、そのまま募集するのも気が引けて、募集を終了しました。
幸い先住猫が全て雄で、生まれた子供が全て雌だったので、思い切ってうちで飼う事にしました。
私としては、それでも子猫を引き取ってくれるとおっしゃってくれる方がいたのなら、交通費こちらもちで隣接県ではなくてもお届けさせてもらいますし、男ばかりというだけでお断りすることはないように思います。
それはさておき、
自分の周りに声をかけただけでは、貰い手0と思えた子猫が、アプリを使うと、びっくりするぐらい応募がありました。
私が利用したのは、有料の里親募集アプリで、無料の里親募集債サイトは怖いので利用しませんでした。
そんなアプリでも、明らかにおかしいと思える里親希望者さんはいましたが(プロフィールの記述内容に矛盾がある)、アプリの方で、募集や応募の時点で、ある程度の条件があるためか、募集者さんの方からいきなり可否の判定をするような仕組みにはなっていませんでした。
個別のやり取りも、規約違反となっていて、サイト上で、何度かやり取りをして、それからい具体的な話に進む感じでした。
又、私が利用したアプリでは、募集者や応募者を評価する仕組みもありました。
元増田さんが書かれたようないきなり「否」という返事は、とにかく子猫の里親をみつけたいと思っている人の反応としてはかなり意外ですし、サイト側も無責任に見えます。
利用されたサイトがどういったサイトなのか分かりませんが、子猫を保護する方法は、里親募集サイトだけではありません。
産まれた子猫は、結果的に飼う事になってしまいましたが、エイズキャリアが判明する前は、何とか里親をみつけようと、周りに声をかけ、アプリを利用し、保健所の方にも登録しようと思っていました。
増田さんとの出会いを待っている子猫はまだまだ沢山いると思います。
どうか懲りずに子猫を求め続けて下さい。
何が悪いわけでもないのに、何か嫌だなと感じる
けどこの人だって同じ不妊治療の苦労をしているわけで、ツイートを遡れば共感するものがあるかも
と過去ログを遡って読んで見た
が、結果的にますます嫌な気分になって、結局ミュートしてしまった
彼女は旦那様の仕事でアメリカと日本を行ったり来たりしながら不妊治療
本人は働いている様子がなく、治療結果についての愚痴はあっても金銭面での心配がまるでなさそうな様子
これがもう、共働きでフルタイムで仕事しながら不妊治療してる自分とは違いすぎて無理だった
ご自身の写真をアイコンにしているのも無理だった(目鼻立ちはっきりの若い美人さんだった)
自分がフォローしているアカウントの誰かがファボしたわけでは無さそうだが、複数のフォローがあると流れてくるらしい
嫉妬して嫌ってみたところで何にもならない
見えないように、見ないようにするのが一番穏やかに過ごせる