はてなキーワード: 家族愛とは
猫の友情についてのお話しを2編させていただきたいと思います。
飼い主のいない猫の暮らしはその日を生き抜くための食料を探し、
狩りをし、縄張りに異変がないか偵察して回り、外敵から身を隠し、
時に雨風に体力を奪われる。そんな風に生きるだけで精一杯です。
一方、飼い主がいる猫ではどうかというと、雨風をしのげる家に暮らし
暑さ寒さだけでなく外敵からも守られ、きれいな水を飲み衛生的で栄養のある食事をし、
昼間は時折遊びながら主に眠り、夜間は時折眠りながら主に遊ぶ。
病気の時には、猫にとっては不本意かもしれませんが医療も受けられる。
なぜ、いきなりこんな話をしているかと申しますと、両者の間では
一方はもっぱら生命維持活動の為だけに精神が使われているのに対し、
もう一方は人間が生命を保証しているために精神活動に余裕があると申しましょうか
潜在的に備わっていた精神的な能力を発揮できる条件が満たされている。
だから、今まで常識だと思われていた猫の行動から少しばかりはみ出した
事もできるようになる。そんな風に考えたらおかしいでしょうか?
もう20年位昔の事です。
茶トラの雄猫(名前を仮にトラとしましょう・去勢済・8才)と一緒に郊外の
一軒家を借りて暮らしていました。
その頃の私はまだ猫の飼養方法について無知だった為に、トラは家と外とを
自由に行き来することをゆるされていました。トラが自由に外出できるように
ある日のこと。猫ドアをバタンと音をさせてトラが外出から帰ってきました。
そして驚くことに、続いて見知らぬ猫が猫ドアをくぐって入ってきたのです。
その見知らぬ猫がトラに続いて入ってきたタイミングから考えて、
どうもトラがその猫を招き入れたとしか考えられません。
トラの様子を見ても、よそ者が自分のテリトリーに侵入したにもかかわらず
平然としています。
見知らぬ猫はトラのドライフードを食べたそうにしていましたが、残念ながら
人間である私のことを恐れて、しばらく逡巡したのち外へ出て行ってしまいました。
このことをどう考えたらいいのでしょうか。
あるいは、トラが友達を私に紹介しようと連れてきた?
そもそも、猫と猫とが初めて友情を確認しあうときにはどのような
コミュニケーションを行なうのでしょう。不思議な出来事でした。
私が住んでいた家の隣にアパートがありました。
白黒のはちわれ(1~2才位)とミケ(生後半年位)の2頭です。
うちのトラとはあまり仲はよろしくなかったのですが、
よくうちの庭へ遊びに来ていました。
うちの庭には梅の木が植えてあったのですが、ある日猫の鳴き声がするので、
外を見てみると隣のミケが梅の木の上で鳴いていました。
どうやら、木登りをして遊んでいたのが降りられなくなってしまったようです。
そして、梅の木の根元には隣のはちわれが、私をにらみつけるように見上げて
座っていました。ミケを私から守るため逃げることなくそこにいるのです。
飼い主である隣のアパートの女性に、ミケが木から下りられなくなっていることを
知らせ、救助してもらいました。
血は全くつながっていないとのことでした。
友情というよりは、はちわれとミケは一緒に暮らしているので家族愛のような
ものでつながっているのかもしれないですね。
テンポがいいし政治劇もおもしろい、大人も楽しめるいい映画だなって思った
だからいろいろな出資者に配慮することなく面白いものができたんだろうね
みょうな日本人がひどい英語でアメリカ人を演じているというまるでコメディのようなものだろう
外国人が邦画にしてはCG頑張ってるよねとかそういう親目線な評価しないだろうし
石原さとみってECCで英会話頑張っててさ~日本人にしては頑張ってるよとか、ファン目線な擁護はしないだろう
何が言いたいかって、この映画、まるで海外市場を意識していないということだ
せっかく委員会方式を採用していないのに、なぜカヨコ役をアメリカ人に任せなかったのだろうか
制作委員会方式であったら事務所がごり押ししてきたんじゃないかとか理由をあげられるが
そうでないなら、あの石原さとみは誰の希望でキャスティングされたのか。庵野か?
ネットでは題材が内向きでよくないなんて意見もあるが、そこは悪くないとおもう
日本で起こった311での題材をゴジラを通して見せるというのは本当に見事だったと思う
しかしキャスティングでの内向きさは邦画のよくない日本芸能村という閉鎖的な面をさらけ出しているなと感じた
これはもう癖のようなものじゃないだろうか
そして海外へマーケティングなどがなされていないのが本当に残念だ
これ幸いとばかりにアメリカとの関係が描けるのにそれを生かそうとせずに
石原さとみに下手な英語を話させることのどこに作家性の意義があるのかよくわからないが
結局かわいい子がでてれば良いという、邦画界のしょうもないスケベ根性でしかなかったりするからあきれる
オタクという生き物は、ほんとうにめんどくさい
めんどくさい例はあげればきりがないが
今回の場合で言えば、その気がなくても好かれたいってやつだ
これはつまり、海外のことを意識なんかしなくても外国に褒められたい、消費されたい
海外のマーケットに合わせた映画作りなんかしなくても、俺らは支持されるんだよねという願望のようなものだ
「シンゴジラは恋愛ないし家族愛描いてないけど面白かっただろ?邦画ってすぐ恋愛入れたがるじゃん?」
恋愛があろうが、家族愛があろうが面白い映画はあるし、逆に、それらがなかろうが面白くない映画はある
結局映画の出来と関係ないものを比較して勝利宣言をしているのがオタクの癖だ
もしかしたらカヨコを石原さとみにまかせたのもアメリカ市場に媚びたくないというなにかしらのオタの癖なのかもしれない
結果ツイッターやはてなではあれだけ盛り上がっているが、結局興行成績は目標50億というところだという
なんともいえない数字だ
しかし庵野秀明、ゴジラというブランド、そして名作だという評価をもってしてもこの程度が限界なのだという事実だ
4/5
CGが糞すぎるとか
会話がターンベースRPGみたいに、だれかが言い終わってから誰かが言い始める感じとか
音楽がモノラルだったり3.1chだったりゴジラの造形が着ぐるみもしてて懐古すぎとか
たしかに
老害ともいえるいろいろな要素に我慢ならない人も言るだろうし
僕も石原さとみの役の意味不明さとかCGが糞しょっぼいのとかは我慢ならないけど
でも面白かった
でも面白かったんだよな!
普通の映画だったら先に指摘した点で1/5とかにしてしまいそうだけど
なんだろうねシンゴジラって、出っ歯だけどかわいいみたいな僕の好きなあのアイドルみたいなかんじ
でもかわいいんだよ!みたいな
なにがいいんだろうね
考えてみると
とくにハリウッド映画とか、それに影響受けた2000年以降の日本映画、特に局制作のスイーツ映画みたいなこともない
家族愛だの恋愛だのにうつつ抜かして話がひっかきまわされることがない
みんな頑張る!
みんな持ち場を頑張るんだよね
できることをするんだよね
とくに何がいいって自衛隊のカッコよさというか
とにかくかっこいい!
おすすめ!
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。
知名度の問題なのか。
も買ってました。
舛添氏は,平成23年10月に福岡県内の書店で,コミック「クレヨンしんちやん北与野
博士編」 , コミック「イナズマイレブンSPECIAL<1> 」 , クイズ本「ひっかけク
イズ最強イジワル王への挑戦」 , クイズ本「大人にはないしょだよ超スペシャル版ひっ
かけクイズ」 ,児童書「幽霊屋敷レストラン」を購入し,それらの代金は,新党改革支部
から書籍代金として支払われた。なお,その際, 「ヤマの記憶-山本作兵衛聞き書き」 , 「筑豊炭田に生きた人々望郷の想い近代編」 , 「緒方竹虎リベラルを貫く」 , 「筑
舛添氏は, 「クレヨンしんちゃん北与野博士編」などコミックや「ひっかけクイズ最
強イジワル王への挑戦」などクイズ本について, 「児童の保護者から,子供が悪い言葉遣
いをまねたり,テレビのクイズ番組などを見て勉強しないので困るので,政治の力でなん
とかなりませんかとの陳情を受けたことから,実際にコミック等でどのような表現がなさ
れているのか,また, クイズ番組が教育に役立たないものなのかを確認するために,購入
した。 」と説明している。
http://big.assets.huffingtonpost.com/20160606masuzoe.pdf
とのこと。
「児童の保護者から,子供が悪い言葉遣いをまねたり,テレビのクイズ番組などを見て勉強しないので困るので,政治の力でなんとかなりませんかとの陳情を受けたことから,実際にコミック等でどのような表現がなされているのか,また, クイズ番組が教育に役立たないものなのかを確認するために,購入した。 」
よくわからない。
保護者が、クイズ本やクレヨンしんちゃん(2002年のもの)の言葉づかいが悪いから「政治でなんとかしてくれないか」と要望されたから買った?ってことかな。
舛添が言葉づかいが悪いというのは考えにくい。クイズ番組に舛添がでている可能性もある。
クイズ番組が教育に役立つかなんて「クイズ番組次第」である。くだらない豆知識ばっかりのクイズ番組もあるし。
最近そこそこのクオリティで”ぶりぶり”ざえもんが復活したし、ケツだけ星人、親に向かって「みさえ」と呼び捨て、女たらし、
それでも(一時的には放送ストップしてたが)放送され続けている。映画もいい作品多い。
下品なことがダメであること、それを教えてそれでも子供が下品なことを言うおかしさを教えたり、家族愛などクレヨンしんちゃんの根幹を伝えることはできないのか。
アナ雪の初期コンセプトは、家出娘が悪い男に騙される話なんだよ
んで家族を捨てた姉が男に殺されそうになるのを、妹が愛の力で救済して家族の絆を取り戻すって寸法
ところが製作中に設定変更が断行され、姉は男に騙されず、家族の絆も失わないキャラにされてしまった
だから、なぜか妹が唐突に男に騙されるだけの意味不明な話になったんだよ
エルサがただ逃げるだけなのも、アナが努力も成長もしないのも、エルサが愛を失わないのが原因
ようはストーリーラインそのものが破綻してるから、製作フタッフもやりようがなかったんだろね
この粗末なストーリーを深いだの、家族愛だの、同性愛だのと妄想を垂れ流してるのがアナ雪ファンの姿
そんなスイーツ層が何万人もいるってのが逆に恐ろしいよ
自分語りをします。特に何かを伝えたい、というわけではありません。得になることも益もありません。 こういう腐女子もいるんだ、という理解をしてくれたらいいなあ、と思いながら書きました。
私は元々母親が腐女子で、同性愛の含む(もしくはそれに似たものを感じ取れる)コンテンツを小学校の頃から読んでいました。 念のため言いますけれどこれは母親が私に強制したわけではありません。手の取れる位置にそれがあって、漫画で絵が綺麗だったから読んだだけです。今でもたまに読み返します。紫堂恭子はとてもいいぞ。
BLや腐女子、と言ったワードを知覚したのは小学校6年かそこらだと思います。 でもその時は「わたしは腐女子ではなく、ただの漫画オタクだ」と思っていました。 パタリロ好きな人間全員腐女子か?という問いかけに対する答えと似たようなものです。 BLが好きというわけではなく、あくまでその作品が好きだったから読んでいた、それだけです。
中学にあがり、深夜アニメなるものを見始め、そのうちとあるジャンルにどハマりしました。 web漫画で、好きな声優がデフォルメされたイケメンの声をやっていて、面白いギャグで、好きなキャラクターができた。 pixivで調べるうちに、その主人公二人のBLが目に入った。 そしてちょうど同じタイミングでTwitterをはじめ、そのジャンルの人をフォローするうちに、そっちの世界に入りました。
わたしの本命cpはその二人にはならず、サブキャラ二人を推していました。 しかし周りはどんどん主人公二人に群がっていきました。
作者がTwitterでその学パロやコスプレを「関係ない奴、非公式」と言いつつもアップしました。 腐女子はそれに便乗したものを描きました。 いつの間にかpixiv百科にそのキャラの派生のページが作られ、設定なんてひとつもないのにいつの間にかそのキャラの設定が浸透していきました。わたしも最初は「面白いぜヤッフー」と思っていました。
ふと、眺めて見ると、それは異常でした。
その時に、そのジャンルに対する熱意というものが失われていったように思います。
わたしはそのままジャンルを離れました。 そして、この時にきっとわたしの地雷は作られていきました。
そのあり方は賛否両論かもしれませんが、イベントに参加しているわけでも、同人紙を買っているわけでもないし誰にも迷惑かけてないからほっといてほしい、というのが本音です。
わたしはジャンルにハマると1日中サーチをかけ続け、思ったことを語りまくります。 この期間はおよそ1ヶ月ほど。その間は他のジャンルの話はあんまりしなくなります。 語り尽して話すことがなくなると、他のジャンルの話や最新話の話やとにかくいろんなことを話します。 次にどハマりするものが出てくるまで。
話すことがなくなったから話さないだけであって、けっしてそのジャンルが嫌いになったというわけではありませんと思います。最初の件を除くならば。
わたしは弱小お絵描き人間(ブクマ貰えるとしても多くても10人、とかほんとにそういうレベルです)なので、「イナゴだよろずだ」などといちゃもん(になるんですかね?)や嫌味を言われたことはないのですが、そう思われても仕方ないな、という気持ちではあります。
さっきちょろっとだけ触れた、地雷の話をします。 これ滅茶苦茶賛否両論というか否定が多そうなので先に言いますけれど、わたしが嫌いなだけであってその考え方や在り方を否定しているというわけではないので悪しからず。
わたしは、友愛や家族愛や主従愛を恋愛に置き換えられるのが果てしまく嫌いです。腐女子の癖に何言ってんだ、と思う人もいると思うのですが。
とある結構昔にハマったジャンルでは、孤児の主人公とその主人公を拾ったお金待ちのお嬢様がいました。 その二人は後々、女神とそのお付きの戦士になるのですが、まあこの二人のCPが地雷でした。 しかし、その二人が一緒にいることが嫌いというわけではないのです。
この二人は人としての主従関係と、神と人間という主従関係の二つの関係が複雑に絡んでいる二人でした。 その二人の、前世からの因縁を、恋愛、と言われたくなかった。 それはあまりにも雑すぎる、と思った。それだけです。
最近のでぃずにーの映画(わたしは見てません)もそういう「この二人は恋愛じゃないから云々」みたいな話をTwitterで見かけましたが、あれと言ってることは同じです。 原作の複雑な関係を、二次創作のテンプレートに当てはめるのはあまりにも原作に対して失礼ではないのか、それは本当に原作の二次創作と言ってもいいのか。
これはNLを例に取りましたが、BLでも同じです。 公式で最高の友情をやっている二人や、美しい兄弟愛を見せる二人が同じようなセリフを言って、同じようなシチュエーションで、同じようにエロをする。 それはわたしの求めるBLではないな、と思うと自然とメジャージャンル全般が地雷になりました。
お前どんだけ地雷あるんだよ、と言われそうですがそれでも結構ちゃんとやっていけてるし、Twitterとかに流れないようにここで語っているので許してください。
わざと隙間を作る作品もありますが、大体のものは「他人が介入する隙間のない人間関係」を物語で提示しています。
そこに、都合のいい女(もしくは男)を介入させる。 それがわたしには無理だった、という話です。
原作ですでにお相手のいるキャラクターだとなおさら不倫とか寝取られみたいに感じてしまって見ることができません。夢を見るつもりで夢を見たことはないんですけど。
最近、ソシャゲをよくするようになりました。 その時に性格の提示されていない主人公が受けに回るのがあまりにもダメで、しかも何故かそれが流行りに流行っていて(そのゲームはむしろ男向けなのに)、公式では「相棒」みたいだったキャラと主人公がTwitterやpixivではカップルのようにいちゃこらしている。 世界の危機なのに。
わたしの心はとても狭いです。 こんな風に王様の耳はロバの耳って叫ぶようにどこかで主張しないとイライラが収まらないほどに。
別に「わたしが不快だからどうにかして!」っていう話ではありません。 好きな人は好きなようにすればいいし、嫌いな人は嫌いなままでありつづける。 それでいいと思います。 つーか好き嫌いの押し付けほんとよくない。 そういう人間とは手を切るべき。
最初に言ったように、「世界のどこかには貴女の好きなものを食べられない人間もいるし、貴女が必要ないからと捨てているものを大事に抱えている人もいる」ということをわかってほしい、わからなくてもいいけど認識はしといてほしい。
追記として、最近、軽い男性恐怖ができたのですが、その後BL読んでたらエロ展開が見れなかった。 R展開のもの全てがおぞましく見えました。時が過ぎれば過ぎていくほど地雷が増えていく自分がこわい。いやまじで。 ホモ見れなくなったらどうするんだよ。
という話を友人にしたところ、「RのないBLなんてBLって呼べなくない?」みたいなことを言われたのでもう彼女とBLの話もソシャゲの話もしない。
解釈違いは相容れない、そう思った五月の昼下がり。
あんまりうまくいってない家族関係を扱った作品で、最後がハッピーエンドになるやつで、尚且つ「相手も表し方が不器用だっただけで本当はこっちのことを思ってました」じゃないパターンのってある?
例えば親子なら、どっちかが悪いわけじゃないが親はやっぱり子供のことがどうも好きになれないし、子供も親に対して恨みやら何やらがあるけど、それでもお互いそれなりに幸福になるっていうような感じ。
別に和解エンドじゃなくても、それぞれがハッピーに終わるならいい。
何か漫画で家族関係がメインの場合って、最後は「やっぱり愛はあった」みたいな形以外のハッピーエンドがないような気がしてさ。
うろ覚えで申し訳ないけど原作版サザエさんのエピソードの一つに母親と息子がかなりひどい言葉で罵り合ってたってのがあったな。
「このクソばばあ、給料受け取りやがれ」「これっぽっちかいこの穀潰し」みたいな感じ。
でも4コマ目のオチで「ああ、これも愛なんだなあ」みたいなセリフでお互いがきちんと家族愛を持っているからこういう言い方も平気みたいなふうにまとめてた。
家族と友人というのでまた関係が違うのかもだけど、増田の論でいくと最も親しい関係である同居家族こそが最もぞんざいに扱われる関係ということになるんでないかと思って書いてみた。
親しい人ほどぞんざい論が東の人間独特の性質とすると、西出身の長谷川先生は東の感覚に合わせてユーモアを作ったことになるんですがどうなんでしょうね?
答え:獠と香に子供をもうけるため
『C・H』しか読んでないひと向けに説明すると、『A.H.』は、『C・H』のパラレルワールドとして描かれたお話で、流用された設定もあれば改変された設定もあります。ジャンルも違えば、テーマも違うので全くの別作品と捉えた方がいいです(『C・H』はもっこりアクション、『A.H.』はヒューマンドラマ)。
でもって、香は『A.H.』開始以前に死にます。車に轢かれそうになった幼児をかばって死んでしまいます。ドナー登録をしていたために臓器が移植用に摘出されますが、そのうちの心臓が、台湾マフィアに強奪されます。
理由は、台湾マフィアの凄腕暗殺者である「グラスハート」に移植するため。「グラスハート」は度重なる任務に心を病んで自殺を図り、鉄柵で自分の心臓を貫きました。凄腕暗殺者を復活させたい組織は、適合者である香の心臓を強奪し、移植したのです。
手術は無事成功しましたが、生きることを放棄した「グラスハート」は目覚めることを精神的に拒否します。しかし、香と心の交信を行うことで覚醒し、生きる気持ちを持たないまま迷子のように新宿の獠の元に向かいます。
その後、紆余曲折を経て、生きることを受け入れた「グラスハート」は獠を「獠爸爸」(パーパ)、香を「香媽媽」(マーマ)と呼び、ふたりの娘「香瑩」(シャンイン)として暮らすようになります。
図式化すると、
ということですね。
「グラスハート」は、殺しの英才教育を受けた暗殺マシンです。人として生きることは許されておらず、名前も持ちません。27番とか、コードネームの「グラスハート」だとか、人非人の扱いを受けており、心を凍らせて生きています。ただ実際にはそういった境遇に苦しんでおり、ついには自殺を図ります。
一方の香は、『C・H』の(わりと自分勝手な)少女から、シティーハンターとして多くのひとの支えになる母性豊かな女性に成長(or変更)を遂げています。
暗殺マシンとして教育され、扱われ、心が壊れてしまった虚ろな「グラスハート」に、慈愛に満ちた「香の心臓」が入ることによって、「グラスハート」は獠と香の愛によって育まれる機会を得、ふたりの娘の香瑩になる、という構図です(香の意識はかなり残っていて、香瑩に慈しむように語りかけたり、体をジャックして危険地帯に突っ込まないようにしたりします。香瑩を介して第三者に語りかけ癒やしたりすらする。そういう描写をするための心臓移植、という側面はかなりあると思います)。
獠と香からしても、シティーハンターである以上、子供を作ることはできない(とふたりが認識してる描写があります)ので、こんなことでもないと、ふたりの愛の子は存在し得ないわけです。
さて、ここまで読んだひとの何割かは、
養子でいいじゃん!
と感じたと思います。
「グラスハート」が自殺未遂をして、死にかけているところに獠と香が通りがかって助ける展開でも良かったハズだ、と。香を殺さなくたって、ふたりが養親となって「グラスハート」に愛情を注ぎ、ひととしての心を取り戻させていく話が描けたハズだ、と。
ですが、それだと『A.H.』はクッソつまんなくなってたと思います。もうちょっとオブラートに包んでいえば、作者のやりかったことが出来なかったんじゃないかと。
というのは、『A.H.』が、欠けたる者が今を精一杯生きることを肯定的に描いた物語だから、なんですね。
ここでいう欠けた者とは、人生において喪失を経験している者という意味です。
『A.H.』の展開は、冒頭にまとめた通りなんですが、それは序盤のうちに終わって、以後は獠と香瑩が、シティーハンターとして多くの家族を助ける、という話をひたすらやるようになります。
男はなぜ40年後の世界に自分がいるのか判りません。見覚えのある場所は残っておらず、両親は死んでおり、自分と40年後の世界との接点を見つけることができず苦悩します。そんなときにかつての恋人が生きていると知ります。しかも、彼女はずっと独り身で、自分との娘がいます。しかし男は、老いていない自分が彼女の前に現れても、その生活を壊し、傷つけるだけと苦悩します。自分は、40年前にハワイ沖で行方不明になったとき、死んでおくべきだった、と。
そんな男に対し、香瑩は言います。
男「君と違って、僕がここに居る理由なんて…」
香瑩「あると思う」
男はかつての恋人と向き合う覚悟を決め、和解するに至ります。しかし、男は「タイムスリップの影響」で一気に加齢し、老衰で死んでしまいます。
家族は、本来送れるはずだった40年という時間を失っていました。しかも、ようやく一緒になれたのに、男はあっという間に死んでしまい、家族はまた喪失を経験することになりました。
死にゆく男は、恋人に謝罪します。それに彼女は、感謝の言葉で応えます。
女「あなたが帰ってこなければ……この悲しさも知らずにいたでしょう……」
女「すべてが…愛しい日々だった……ありがとう……」
それは、家族にとって、喪失を乗り越えて手に入れた、大切な時間でした。
私たちは知っています。人生ってのは何かを失っていくことだと。大事なひとは死んでしまうし、大切にしているものも不変じゃない。友情は壊れてしまうし、愛情はいつか冷めます。描いていた夢のほとんどは達成されず、諦めて諦めて諦めて残った一握のソレを大切にするしかない。でもそんな当たり前のことすら日々の忙しさにかまけて疎かにしてしまう。そして大切にしきれずに失ったとき、ああすればよかったこうすればよかったと悔しい思いをするんです。親を亡くした時とかにね。
『A.H.』は、そういう喪失を知った、もはや少年ではない世代の人間が、「このひとたちは、大切な何かを守ることが出来た、ああ、良かった」と涙する、そういうお話だと思います。だから、主人公である獠と香瑩にも大きな喪失を経験させておく必要があったんです(どうすべきか悩むゲストキャラに対し、獠が「つれあいをなくし」た経験を語るシーンがあったりします)。
『A.H.』は、喪失を泣かせの過剰な演出のためではなく、誰もが経験する普遍的な哀しみとして描きます。哀しいことがあってもひとは生きていかないといけないし、哀しいことがあった時、後悔しないためにも今を精一杯生きなきゃなんない。香の死もまた、そういう喪失の一種です。決して考えなしに殺されたんでも、新シリーズに興味を持たせるためでもないです。そういう意味で、誠実な漫画だと私は思います。
そうは言っても香が死んだのは受け容れられんというひとはいるでしょうし、正当は意見だと思います。
あと、どこまでいっても「家族愛」とか「人情話」が描かれるので、クッサ! と反感を覚えるひともいると思います。
そういう意味で、万人向けではないし、『C・H』に比べて楽しめる層が狭まってるのも事実だと思います。
ただ、頭ごなしに否定するにはちょっともったいないと思ったので、本稿を書いてみました。
というわけで、
真の答え:香という大きな存在の喪失を物語に内包することで、今を精一杯生きるというテーマを浮き彫りにするため
でした。
こちらからは以上です。
http://anond.hatelabo.jp/20151027025925
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20151027025925
クトゥルフ神話に特化する形でエロゲの歴史をまとめたWebサイトは存在するし、一般書籍で言えば『エロゲー文化研究概論』(宮本直毅, 2013)では一つのコラムとしてこれを取り扱っていたりする。
ただ、それらで話の主たる軸にクトゥルフ神話が用いられているか否か、という点での検討はされていても、クトゥルフ神話がそれぞれのエロゲにおいて一体どう扱われてきたのか、という点には触れられていなかったりする。
ゴールデンウィークを有意義に過ごすべく、エロゲ史においてクトゥルフ神話がどのように用いられてきたのかをちょっとまとめてみたので(そのためにちゃんと全部プレイしなおしました。実に有意義なゴールデンウィークだったと思う)、増田に垂れ流しておく。
まずエロゲ史にクトゥルフ神話が登場する直前の状況から少し整理しよう。
1991年末、かの有名な「沙織事件」が発生する。ソフ倫が設立される切掛として有名だけれど、同時にこれは内容に対する制約としても一時的に強い影響を及ぼした。
特に社長が逮捕されたフェアリーテールとしては一際慎重な態度にならざるを得ず、単純で直接的なエロというより、エロ以外の何らかの要素を前提とした上でエロ「も」取り入れる、というアプローチが取られることとなった。
そして『狂った果実』(フェアリーテール, 1992/5/1)が発売される。
エロより視覚的、精神的グロさを全面に押し出した傑作であり、エロゲにおける「ヤンデレ」(昨今のステレオタイプとは少し異なりサイコパス色が強いが)の開祖と言っていいものだろう。主人公を精神的、社会的に追い詰め、最終的に狂気に陥れるそのシナリオ展開は多くのプレイヤーに衝撃を与え、同時にエロゲが「エロ以外の18禁的要素を主軸に据え、その過程にエロを取り込んだゲーム」としてもありうるのだ、ということを強烈に知らしめたものでもあった。
こうした中、フェアリーテールはブランドを分ける形でフェアリーテールHARDCOVERを新設し、クトゥルフ神話要素を持つ世界最初のエロゲである『ネクロノミコン』(フェアリーテールHARDCOVER, 1994/6/24)がリリースされることになる。
物語は新聞記者である主人公が自分の先祖の秘密を探るべくインスマスへ向かい、そこで邪神復活の儀式に巻き込まれる、というもの。『インスマスの影』(H.P.Lovecraft, "The Shadow over Innsmouth", 1936)をそのまま使った内容となっている。
原作に足りない女っ気を確保するため、バーの店員や宿屋の女主人、娼館などが配されているけれど、モンスターホラーとしての側面が強く、狂気への言及は殆ど無い。
作品としては丁寧で、よくまとまっていて、つまらなくはない。ただし原作色が強いせいで原作既読者には先の展開がすべて分かってしまい、無難な内容という印象が拭いづらい。しかし現実には当時のプレイヤーのほとんどは原作未読者であり、そういう点ではむしろクトゥルフ神話へ興味を持つ最初の一歩としてよく出来たアレンジだったのではないか、とも思う。
ともあれエロゲ史における最初の使われ方は、このようにモンスターホラーとしてであった。
『ネクロノミコン』から1年が経過し、95年に入ってから2つの作品が発売されることとなる。一つは『YES! HG』(姫屋ソフト, 1995/6/30)、そしてもう一つがかの有名な『黒の断章』(アボガドパワーズ, 1995/7/14)である。
『YES! HG』はオムニバス形式となっており、その中の一編である『豪州怪奇紀行』がクトゥルフ神話要素を持つエロゲとなっている。
物語の内容は応募した覚えのないオーストラリア旅行の懸賞に当たり、彼女と一緒に参加したところ邪神の生贄にされかける、というもの。
クトゥルフ神話の扱い方という点では、『ネクロノミコン』に輪をかけてモンスター色を強めたものである。ディープワンやティンダロスの猟犬といった神話生物が登場するものの、一般人に化けられる、死ぬと水に溶ける、水をかけられると死ぬ、と原作設定とはかけ離れており、どちらかというとモンスター映画的な怪物を取り扱った物語であり、その怪物の名前をクトゥルフから借用した、といった感もある。逆に言えば、クトゥルフ神話に関して一切知識がなくとも既存のモンスターホラーものとして理解ができる内容であり、『ネクロノミコン』では若干あったグロテスクさもない。そのためより取っ付き易い感があり、短編ながらよくまとまっていることからもっと一般ウケしていい作品と思うが……知名度は今回紹介する中ではおそらく最も低いと言えるだろう。
そして『YES! HG』に遅れること1ヶ月、自転車操業の零細新興メーカーから『黒の断章』が発売される。
あるマンションの一室で一家皆殺しの猟奇殺人事件が発生したことを端緒に、同マンションに入居していた探偵がこれを解決しようと首を突っ込み、連続殺人事件に巻き込まれ、その謎を解く鍵を自分の失った記憶に見出していく、という内容である。
前半は猟奇殺人事件を巡るミステリとして、そして後半に入るとラヴクラフト色が全面に現れたものとなる。下敷きにしているのは『死体蘇生者ハーバート・ウェスト』(H.P.Lovecraft,"Herbert West-Reanimator", 1922)、そして『壁のなかの鼠』(H.P.Lovecraft,"The Rats in the Walls", 1924)である。
クトゥルフ神話モノとして知らない奴はいないといえるほど有名な本作であるが、実のところモンスター要素はほとんど無い(そもそも『死体蘇生者ハーバート・ウェスト』は邪神も神話生物も登場しない内容であるが)。しかし「黒人の神父」の熱弁の中でのさりげない「神々」という複数形、「呪い」への「ギアス」(C.A.Smith,"The Seven Geases",1934)というルビなど、作中の随所に仕込まれたこうした細かいネタは一切作中で説明されることはなく、それがわからなくて物語が理解できないようなことはないが、プレイヤーの知識へのくすぐりが実にうまい作品である。
一方で、本作のシナリオの核はあくまで「家族愛」である、という点への言及も必要だろう。原作へのオマージュを込めつつ独自要素を持ち込み、後日談めいた二次創作的なその内容は、単にその用語や設定を流用したものとは明らかに一線を画したクオリティを持っている(例えば不老不死にさせられた女性については、お腹にいる殺すことも生まれることもできない胎児を家族と呼びうるのか、といった辺りはSF的、倫理的に今なお考えさせられるものがある)。
『ネクロノミコン』、『豪州怪奇紀行』とは異なり、本作はモンスターホラーとしてではなくクトゥルフ神話を扱った最初のエロゲであると言え、また原作の二次創作的側面を持たせた物語は(多少粗はあるものの)有名作の名に恥じない出来栄えである。
一方で『黒の断章』においてもやはり、狂気の描写はほとんど無いに等しいものであった。
クトゥルフ神話における狂気とは、異端の知識を人間の脆弱な脳が処理しきれなくなり、破壊された状態である。クトゥルフTRPGにおけるSAN値の取り扱いもこれを示したものと言っていいだろう。
他方、92年の『狂った果実』を筆頭に狂気についてはエロゲにおいて断続的ながら取り扱われ続けていた。この時代で言えば『サークルメイト』(ボンびいボンボン!, 1994/5/13)、そしてエロゲ史上初のビジュアルノベルである『雫~しずく~』(Leaf, 1996/1/26)があげられるだろう(『for Elise ~エリーゼのために~』(CRAFTWORK, 1996/12/6)もこの線では秀逸である)。
こうした作品において、狂気とはこれまであったものが破壊されるというより、境界線を踏み越えてしまった状態として扱われる。怪物の血を引いた「選ばれし者」ではない一般人である私たちも、一歩踏み出すことによって「向こう側」へと至りうるのだ、という見方でのこうした「狂気」を、ここでクトゥルフ神話における「狂気」へと接続した作品が登場することになる――『Esの方程式』(アボガドパワーズ, 1996/9/13)である。
物語は蔭洲升という漁村で起きた陰惨な殺人事件の犯人が精神病院から退院したことを端緒として、その元担当医を勤めた探偵助手たる主人公が異常な自殺事件に巻き込まれていく、という物語である。『黒の断章』の続編ではあるが、前作とは独立した事件となっている。
前作同様、前半は東京での猟奇事件をめぐるミステリ、そして後半は蔭洲升が舞台となり、ラヴクラフト色が全面に押し出される。原作は『ネクロノミコン』と同じ『インスマスの影』である。
これまでのクトゥルフ神話要素をもつエロゲにおいて、その猟奇殺人で表現されたものや「向こう側」はグロテスクなものであったし、これ以降もほとんどがそのように表現する。しかし、本作は死に至る状態/死体を「美しく」描く点で明確に異彩を放っている。
「SAN値が下がる」のではなく「啓蒙が上がる」ことで見える世界が変わる(『Bloodborne』FROM SOFTWARE, 2015/3/26)ように、本作は私たちの「啓蒙を上げる」ことを目的とした作品めいた印象を受ける。もちろん四肢切断された「苦痛を伴わない」少女の視覚的な美しさであれば会田誠の『犬』があるし、特に『魍魎の匣』(京極夏彦, 1995/1/5)の影響が本作へ露骨にあることは否定しがたい。
しかし踏切の赤信号のアニメーションの演出に始まる本作は、これをプレイすることで一歩「向こう側」へと足を踏み出しかねないことへの警告めいた不穏さを孕んだ見事なものであると私は思う。
のちの『沙耶の唄』(NitroPlus, 2003/12/26)も同様だが、美しい「向こう側」を描いた作品はエロゲ史において稀なものである。ほとんど無意味な登場人物など色々と欠点も多い作品ではあるが、加点法で見るなら間違いなく名作として語られる作品だろう。
さて、ここで少し時代におけるクトゥルフ神話の状況を整理しよう。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』は1974年12月13日発売、クトゥルフ神話モノのパロディとしての必読書と言っていいだろう『妖神グルメ』が1984年6月30日発売である。タイタス・クロウサーガはまだ日本語訳が出版されていないが、『アーカム計画』はすでに出ている。ということで、クトゥルフ神話に関する基礎教養としての文献はすでに大体揃っていたと言っていいだろう。
だが、それを調べるためのツールはどうだろうか。
1997年とはYahooが日本で検索エンジンサービスを開始した翌年であり、Googleはまだ会社すら存在しておらず、2chもWikiepdiaも影も形もない時代である(ちなみにWikipediaの日本語版の「クトゥルフ神話」の記事が最初に出来たのは2003年8月)。
現在のように玉石混交とはいえググれば腐るほど情報が出てくる時代とは程遠く、なるほど情報はあるところにはあるが、そこにたどり着くことは容易なことではなかった。
そうした状況下において『マジカルディープ☆ワン』(Vanilla, 1997/4/18)が発売される。様々なクトゥルフ神話上の邪神や神話生物を美少女化した初のエロゲであり(クトゥルフ女体化については80年代に先例があるとの報告がある)、モンスターも狂気もホラーも完全にオミットし、その用語や設定に対するパロディ作となっている。
問題はパロディである以上、クトゥルフ神話に関する広範な教養をプレイヤーが持っていることを前提しなければならない、という点である――正直、時代を考えると無謀としかいいようがない。文字通り10年早すぎた作品であるが、のちに『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/4/25)やラノベ『這いよれ!ニャル子さん』が当たったことを考えれば、その先見性はもう少し評価されてしかるべきかもしれない。
一方で同年末、邪神の名前だけを借りた作品が発売される。ALICESOFTの『アリスの館4・5・6』に収録された『アトラク=ナクア』(ALICESOFT, 1997/12/18)である。
シナリオライター自身が言う通り、本作の中身は一切原作とは関係がない。ゆえに本作をクトゥルフ神話要素を持つエロゲ史の上で語るべきではないが、名作として名高い本作がクトゥルフ神話における邪神の神の名前であることもよく知られたものであることから、エロゲ史上にクトゥルフ神話に対する興味を惹起する効果はそれなりにあったのではないかと思っている。無関係とはいえよく出来た作品であり、返り血を浴びた黒髪美少女に対する審美眼を――「瞳」を多くのプレイヤーに植え付けた、という意味では、これもなかなかに罪深い作品と思う。
さて、3年前に発売された史上2番目のクトゥルフ神話を用いたエロゲを発売したメーカー「姫屋ソフト」について、ここで少しまとめよう。PC-98時代のエロゲに詳しい初老のオッサンでもなければまず知らないメーカーであるが、その有するブランド名「C's ware」といえばWindows95時代のエロゲに詳しい中年のオッサンなら反応することだろう。『DESIRE』そして『EVE burst error』とエロゲ史に残る名作を有し、たまにバグまみれで起動すらしない製品をリリースすることで有名な、そんな泣く子も黙る一大メーカーであった。
そのC's wareから、『アトラク=ナクア』の一カ月後に『DIVI-DEAD』(C's ware, 1998/1/23)がリリースされる。
物語は山奥の学園に転入することになった主人公が、学園内で麻薬のように蔓延する香、見え隠れする異常行為、学園創設者一族の陰惨な過去などに触れていくうち、自分がこの学園に転入させられた目的や持病の発作の原因などが明らかになっていく、というものである。
この作品は、直接的にはクトゥルフ神話要素への言及が一切無い。シナリオファイルを無理やり抽出して全テキストを確認した私は自信を持って断言できる。本当に、ない。
しかしそこで描かれる物語の設定は、ラヴクラフト小説のファンならおそらく確実にニヤつけるものである。「古い穴の底から神を呼び出す」「この地の神と契約を交わし、その血を一族の中に入れた」、そして穴が開きすぎて周辺一帯の人間が狂死したこと。
こうした神と人との関係はまさしくクトゥルフ神話――もっと言えばラヴクラフト神話における典型的なそれである。
また話の筋にはほとんど関係ないにもかかわらず、焼身自殺した建築家が書いた唯一の幻想小説「はての国」への執拗ですらある言及は、作中で関わった人間がほとんど惨たらしく死んでいるという状況も併せてラヴクラフト愛読者に魔術書めいた印象を与えている。
本作に人外は登場するが、クトゥルフ的なモンスターは登場しない。しかし抑制的ながらも明白な狂気、グロテスクな死体などはある意味で『ネクロノミコン』時代におけるクトゥルフ神話の扱い方に忠実と言っていいものであり、具体的に名前こそ触れないものの、その確かなオマージュを感じる内容は良作と呼ぶにふさわしいものであり、その意味では『アトラク=ナクア』の対と言っていいだろう(ちなみにのちの『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT, 2000/06/30)も同様のアプローチを採った良作である)。
そしていよいよ世紀末、電波系エロゲといえば必ず名前の上がる有名作『終の空』(ケロQ, 1999/8/27)が発売される。
ある学校で一人の不良学生が屋上から転落死した三日後、いじめられていた女生徒が同じ場所から飛び降り自殺、同じくいじめられていた男子生徒の妄想が周囲の学生を巻き込み拡散し、一週間後に同じ場所から集団で飛び降り自殺に至る、という事件を何人かの視点で繰り返し読ませる物語である。
正体不明の少女の口から出るナイアルラトホテプという単語、「テケリ・リ」という声など、確かにクトゥルフ神話要素における単語は使われている。
……が、本作はむしろ終末論を用いて『雫~しずく~』を正統に発展させた延長上の作品として語られるべきであり、本作をクトゥルフ神話を軸にしたものというにはちょっと無理があると考えている。
というのも、本作のシナリオにおける終盤は統合失調症の患者を模したそれとなっており、またその視界はシュルレアリスム的な絵で表現される。シュルレアリストの一部が統合失調症の患者の描く絵に魅せられたことも併せて考えれば、そこで語られる内容は言葉遊びめいた意味が通るようで通っていない単語の連結であり、その一部にクトゥルフ神話用語が用いられた、というように私は思っている。
本作はよく出来た作品であり、衒学趣味の上で意味が通りそうで通っていない文を普通に会話が成立しているかのような羅列には思わずニヤリとさせられ、その「向こう側」の表現としては明らかに過去のエロゲとは一線を画したものである。が、クトゥルフ神話の扱い方という点で言うのであれば、『アトラク=ナクア』と同じくらい関係性は無い、というのが妥当なところだろう。
正直、1994年から99年というわずか5年ですでに結構な文章量になってマジかよと。ただこうして見ると、クトゥルフ神話は結構多様な使われ方をしてきた、というのが見て取れるかと思う。モンスターホラーとしての印象が一般には強いのではないかと思うけれど、狂気の表現形態であったり、物語構造としてのそれであったりといろいろ工夫がされている。
2000年以降については余白もないのでこの記事でこれ以上深く言及する気はないけれど、『朝の来ない夜に抱かれて -ETERNAL NIGHT-』(DreamSoft, 2002/06/28)、『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/04/25)、『終末少女幻想アリスマチック』(キャラメルBOX, 2006/10/27)というのが従来に無いひとつ特徴的な筋と思う。いずれもクトゥルフ神話と熱血という組み合わせであり、好き嫌いはあろうがモンスター設定資料集としてのクトゥルフ神話がこれで普及していくように思う。ちなみにこのあたりはDreamSoftがフェアリーテールのブランド、キャラメルBOXが姫屋ソフトのブランドであることを考えると、少し面白いものがある。
なお、この記事については間違った内容が記載されている可能性が十分にある。発売年度は一応いくつか調べた上でおそらく正しいと思われるものを記載したけれど、これももし誤りがあれば申し訳ない。
さて、最後にここまで読んだ奇特な人のために、ぜひプレイ頂きたい史上最高のクトゥルフ神話系エロゲを紹介したいと思う。『人工失楽園』という(文章はここで途切れている)
保険業に転職した元先輩に勧誘される→しつこい→エリアマネージャまで連れてくる→長い時間説伏される
「紹介でしか加入できない」
「契約者とのつながりを大切にする」
「家族愛」
などがウリらしかったが、ほぼ毎年ペースで担当者が食い詰めて退職→交代→退職を繰り返し、
最後の担当に至っては連絡すらつかないことが多いため、ただただ不快なだけ。
個人的には、契約者との面談を「商談」と呼ぶのも気色悪かった。
金が無い、ということでまず担当に解約を切り出してみたが。
「こんなに優れた商品は2度と加入できないんですよ!それでもいいんですか!」
「あなたは自分の弱さから逃げている!自分の人生を真面目に考えていない!」
「あんたのためにコーヒー代まで出してやってんだぞ!」
予想通り、罵倒されるだけで話にならなかった。
それにしても、コーヒー代で恩に着せてくると思わなかった。
しかし、コールセンターに申し出るとあっさり申し出を受理。すぐに解約手続き書類一式が送られてきた。
ネットではもっと執拗に引きとめされる・引き伸ばされると云われていたので意外だった。
と、いうことで
・保険は付き合いで入らない
当たりまえすぎて、もうね。。
○朝食:卵掛け納豆ご飯
○昼食:焼きそば(具は色々)
○夕食:なし
○調子
○テラバトル
ジョブチェンジのアイテムを稼ごうと思ったんだけど、ドロップ率が低く中々でない。
ちょうどハンティングゾーン2も解放できたし、明日からはそっちに通おうかなあ。
テラバトルが面白いので、積んでたこのゲームもやりおヒゲ成分を接種することにする。
そしてグランドスタッフという謎の魔動力による建物があるらしい、
らしい、らしいとばかり書いたが、この時点では固有名詞がわからないので、よくわからん。
主人公が評議会に出て、ガンガラとカイムが繋がっていることが判明。
でもこれは、ガンガラのはったり臭くもあるなあ、謎い。
というところで、色々あって宿屋で休むとサウンドノベルパートが始まりました。
「千年の夢」ハンナの旅立ち。
ベタな感動エピソードだけど、短いなりに言葉が選ばれてて面白い。
さて、ガンガラの屋敷に呼ばれたところで、街を色々探索。
前王ジーハの暗殺疑惑やガンガラの強さなど色々な伏線情報が耳に入る。
「千年の夢」勇者の帰還。
罪の石の話。うーむブラックだ。
不死者が助けられるというオチも含めてなんとも苦い。
「千年の夢」語り部サミィ。
戦争の語り部の話。
戦争をもり立てることの愚かさと、それに反対することの怖さの両方が書かれていて
ああ、これいいなあ。
今のところ一番好きです。
「千年の夢」囚われの心で。
「千年の夢」母、帰る。
家族愛の話。
あー僕こういうの弱いんだよなあ。
「千年の夢」白い花。
昔の嫁の話と地震の話。
普通かなー。
「千年の夢」嘘つきの少女。
悲しい嘘の話。
これも家族の話だなあ、弱いんだよなあ。
あれこれ探索した後、ガンガラの屋敷へ。
どう考えてもガンガラさん怪しいよなあ。
どんなときもひょうひょうとしてるヤンセンは良いキャラしてるなあ、集中的に育ててあげたいな。
どうやら不死者を殺せるような何かをガンガラから託されているらしい。
やっぱりガンガラは悪者のようですね、よかったよかった。
「千の夢」さかのぼる民。
旅の話。
うーん、普通かなー。
到着するも、平八みたいなキャラの軍勢に囲まれ、ヌマラ軍に捕まる事に。
ヤンセンさんの活躍もあり脱獄を開始、と言ったところで今日は終了。
うん、楽しい!
ブルードラゴンは育成が楽しくて、いつの間にかストーリーにものめり込んでたんだけど、
※朝になって読んだら読みづら杉。あとで編集する。
観終わって、ディズニー映画でこれほど多様な読み方が出来る映画はない!と息巻いてシネスケ開いたらあんまりみんな自分の解釈提示してなくて、いきなりシネスケに書くのも恐いから、おそるおそる増田に書いてみる。ネタバレあり。
まずあらすじ。
幼少時に自分の魔法(触れたものを凍らしたり、氷柱を地面から生やしたりする)によって妹アナを怪我させてしまったエルサ。その経験から、親の指導により人との関わり合いを断絶。アナは治療時に記憶を失っているので姉がなぜ人との関わり合いを避けているのか理解できない。そんなエルサだが、大人になって女王に就任。その戴冠式のお祭りでアナはハンス王子と出会う。出会ったその日に婚約するも、エルサからはそんなのは愛ではないと言われてしまう。ここでアナが日ごろの鬱憤をぶちまけ、それによりエルサが激情しこれまで隠してきた魔法を発動。2人が住むアレンデール国は雪に閉ざされる。魔女を捕らえようとする追っ手から逃れ、エルサは氷の山で独りの王国を築き上げる(ここでLet it goを歌う)。雪に閉ざされたアレンデールを何とかすべく、アナはエルサの後を追う。途中出会った男クリストフと共に氷の山に行くも、エルサはアナに帰れと言う。ここでアナの話からアレンデールが自分の魔法のせいで大変なことになっていることを知ったエルサは絶望し、魔法を発動して再びアナに重症を負わせてしまう。アナを治療すべく、クリストフは魔法使いのところに行くも、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」と言われる。クリストフは真実の愛=婚約者であるハンス王子のキスが必要と解釈し、アナをハンス王子の下に送り届ける。ハンス王子と再会したアナは王子のキスを求めるも、実はハンス王子はアレンデール国を乗っ取ろうとする悪者であることがここで発覚。王子はアナを見殺しにし、アレンデールの大臣にアナはエルサの魔法で殺されたと告げる。氷の城を襲撃して捕らえたエルサの処刑がここで決まる。処刑の直前にエルサは逃亡する。他方、アナの方は、愛とは「他人のために自分を犠牲にすること」と諭され、自分を助けるために命を賭しているクリストフの姿を思い浮かべる。そこでクリストフの下に向かうが、そこにはハンス王子と対峙するエルサの姿が。結局アナは目の前のクリストフを尻目にエルサをハンス王子から守る。エルサの魔法によりアナは凍ってしまうが、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という言葉を信じたエルサがアナにキスし、アナは目覚める。ラストは「真実の愛」により雪が溶けたアレンデールの光景を映し出し、終了。
主題は2つあってそれが1つに繋がる構造。主題の1つは、自らの「魔法」をその共同体の中では抑圧せざるを得ず、「魔法」は共同体と決別することで解放することができる。しかし、それには種々の問題が生じる、というもの。主題のもう1つは、「真実の愛」は家族愛である、というもの。この2つの主題を繋ぐのは、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という命題で、「魔法」の解放により生じる問題は「真実の愛」でこそ解決できるいうようになる。
主題の2つ目(「真実の愛」は家族愛である)というのは最近ディズニーが『マレフィセント』で主題としたところ。同映画では、魔女の呪いにより永遠の眠りについたオーロラ姫が、真実の愛により目覚めると言われている。そこでイケメンの王子がキスしてみるがダメで、結局お母さんのキスで目覚めるというストーリーになっている。そこで語られているのは、その辺のイケメンと1夜の恋に落ちたところでそんなのは愛ではなく、家族愛こそが真実の愛である、というメッセージである。そうしたことから、主題の2つ目は割とはっきりしていて、それほど多様な読み方ができるというものではないと思う。
問題は主題の1つ目で、Let it goの解釈がここに関わってくる。日本語版だと「ありのままに」と訳されているのは周知の事実だが、これだと「自分らしく生きていけばいい」というメッセージになる。しかし、これは正確ではない。エルサは自分らしく生きた結果、アナを傷付け、故郷の国を雪に閉ざされた世界にしてしまったのである。この曲はそのような自己肯定的な曲ではなく、「(是非はともかく)とにかく家族を捨て、自分は解放されたんだ」という意味に解すべきだろう。
仮に主題を上のように解するとしても、そこには「魔法」は何を意味しているか、という問いが存在する。ここでの「魔法」とは、
①それにより周囲の人間を傷付けるため、
②周囲から自制と抑圧が求められるが、
を意味する。これを前提にまずありうる解釈は、「魔法」とは同性愛を指しているというものである。この線で作品全体を考えてみると、同性愛を抑圧し、隠そうとする家族という共同体を捨て去ることで、同性愛の問題は解決する。しかしそれは真の解決ではなく、種々の問題が生じるものである。大事なのは、家族との相互理解、歩み寄りによる「愛」であり、それこそが問題を解決するのだ、という読み方になる。
○朝食:ナポリタン
○昼食:焼きそば
○調子
よくない。
なんかやたらハマってしまってかなりの時間プレイしてしまった。
とりあえずコナミ君シナリオをクリアし、フリーデュエルで全員を倒すところまでプレイ。
(キスシーンの有無の壁)
面白かったアニメ:ひだまり三期 ひだまり四期 きんいろモザイク
(恋愛の有無の壁)
普通アニメ:ひだまり一期 ひだまり二期 ご注文はうさぎですか Aチャンネル
微妙アニメ:キルミーベイベー GA けいおん一期 けいおん二期 けいおん劇場版
(男の有無の壁)
○かなめも
二期が出ないこと及び原作のラストが豪快に滑ったことにより、逆に途中でちゃんと締めたアニメの評価が上がるという希有な作品。
ストーリーはわりとガチな上に、後半は鬱要素もありますが、それ以上に作品全体を包む百合心を高く評価したい。
桜Trickが恋愛なら、かなめもは家族愛の延長線にあるような感じですね、さすが原作者がkeyの同人誌を書いていただけありますね(関係ない)
作画はDVD版だと修正が入っててわりと見れるようになってたし、キャラデザもいいし、唯一難点を上げるなら声優が微妙にあってないことぐらいです。
原作のラストは本当に豪快に分け分からん方向に滑ったので、二期はやらずにこのまま隠れた名作として埋もれて行ってかまわないです、NO二期! アニオリ大歓迎!
ゆのなずという百合界における最強カップリングが誕生したというだけで評価に値する作品。
ゆのっちが浪人したあげく、芸術系じゃない普通の大学に二年遅れで進学したあと、新歓コンパでなずなと再開するシーンは涙なしでは見れませんね。(僕の目には見えていたシーンです)
どうでもいいですが、新一年生の声優さんはY.AOIさんが良いと思いました。
原作の持ち味とか、原作の魅力とかそんなの全て無視して百合アニメを作る彼女は百合アニメ界の神の中の神と言えるでしょう。(今期のろこどるやってみた、も素晴らしい出来でした)
このきんいろモザイクでもよくある普通の萌え四コマを完璧な百合アニメへと昇華させている。
ストーリーなんて一切無い、ただ女の子と女の子がチュッチュッするだけの内容も何もあったもんじゃないお色気アニメ。
いやもう本当これでいいんです、これがいいんです。
作画はあまりよろしくないけど、声優の演技および百合要素を楽しむのに差し障りのない程度の作画があればいいんです、っていうかドラマCDでいいんです。
一年生編で一期が終わったので、二期は二年生編(原作は今ココ)、三期は三年生編(予定)と長続きするアニメになることを祈っています。