はてなキーワード: 地の文とは
基本的にはトラバはしないんだけど、マジメな感想だったので。自演を疑われては気分も悪かろうと名誉のために返信を。
まずは読んでくれてありがとう。さらに、感想を書いてくれてとてもありがとう。
最後につけているように「【第0回】短編小説の集い」に出品するつもりで書いた。
3つ制約があって、それが指摘された不自然さに直結してる。
なので、三人称視点ではなく、秋恵の視点だと読めてしまうのであれば、それは単に自分のミスで、力量不足だ。
神のような第三者目線というのがうまく書けないのだと思う。どうしても、誰かに寄り添う目線で書いてしまう。
シチュエーションが特殊なのに説明が無い、年齢や外見、マスターの容姿について情報がないのも、自分の力量不足。
地の文で説明することに恐怖があって、たぶん最初の一人が喫茶店に入ってきた時点で情報を出せるような仕掛けがあるべきだったんだと思う。
話の方向性に関してもその通りで、ほほえましいエピソードにしてはボリューム配分が不自然になっている。
当初考えていたのが「(文字通りの)マスターのキッシュ」を作る秋恵と、アップルパイを取りに調理室に入っていく冬美でオチというホラーで、
ここでのりんごが余りにも脇役だった(あと読んでみたら予想以上に話が暗かった)ので、2人足して4人で日常系の話に書き換えてみた。
アップルシックスからの話の持って行き方の強引さには気が付いていて、まあそこは勘弁して欲しい。
誰に読んで欲しいか、という目線は正直無かった。
つまり、設定が分かり難い・読み難いというのは、自分の力量不足で、
ネタが甘いのは、ターゲットをキチンと絞っていない、狙い所が不明確だった点にあるのだと思う。
情景が伝わり、春香<夏代<秋恵<冬美という年齢段階が伝わったのであれば、ある程度書けていたのかなとも思う。
(自分の中では全員の容姿まで想像できていたが、読み返してみると外見に関する情報が全員無いねコレ。流石に改めよう)
最初に書いたとおり「【第0回】短編小説の集い」向けなので、10月2日23:59までにもう一本くらい書いてみよう。
はてブで「id:zeromoon0 」入りでコールしない限りエントリーが完了しないので、誰かに協力してもらえるくらいの作品に仕上がると良いなあ。
最後に繰り返しになるけど、感想を書いてくれてありがとう。とても参考になったし、励みになります。
では、またそのうち増田で。
月曜から金曜日までバリバリと仕事をこなし、金曜の夜に新幹線に飛び乗り、月曜の早朝に東京駅に向かう。
そのためには洗濯や掃除などすべての家事を、平日、仕事が終わった後に片付ける必要がある。関西の家は「寝るだけ」の家でしょう。
乾燥機付き洗濯機くらい持ってるだろうし、ワンルームの掃除なんて一瞬で終わる。毎日する必要もない。別にダスキン頼んでもいいんだし。
2歳と5歳の子供居たら、例え専業主婦だろうとその地の文化を経験する為に使われる週末なんて無いから。
ふたりともおそらく、自分の趣味に使う時間はほぼ皆無だろうし、それどころか、自分たちの健康を維持するための十分な睡眠時間だって、確保できてない可能性が高い。
2歳と5歳の子供居たら以下同文。
年老いていく自分の親と時間を共有したり、友人達との時間や、自らの新しい可能性や視野を開くであろう社会的な試みに参加したりする時間も、ほぼとれないでしょう。みんなが疲弊し、余裕がなくなってしまってる家庭だってあるはず。
2歳と5歳ry
どうせ専業主婦だろうと同じ事なら、仕事あった方が良いに決まってるよね。
女性に、キャリアアップにつながる関西転勤の話が出たとき、男性側が仕事をやめて、家族で関西に引っ越す。
家族四人で数年間、関西に住む。最初の一年は、男性は育児と家事を担当し、その後は、関西で就職して仕事をする。もちろん週末には、家族みんなで京都など、関西の名所を楽しむ。
何年か関西で働いた後、男性側に、香港でおもしろい仕事をしないかという誘いが舞い込む。今度は女性が会社を辞めて、一家全員で香港に引っ越す。
香港で最初の一年、女性は現地の大学付属の語学学校に通い、英語と中国語を習う。香港ではお手伝いさんも雇えるので、家族の時間も確保できる。
どう考えてもこっちの生活の方が厳しいと思うんだけども。
http://anond.hatelabo.jp/20130912120735
なんかMOTHER3の話が増田に上がってて、ふと「なんで3のパーティキャラって俺女とか義足のオッサンとか犬とかへんに奇をてらったキャラばかりにしたんだろう、1や2と同じように、最初の3人は赤い帽子の少年と金髪の女の子と眼鏡がよかったのに」なんてMOTHER3の不満だった点を思い返していたところで、「そういえば小説版のジェフって後天的な事故が原因で義足なんだったな、3のパーティ3人目のダスターと同じじゃん」と今初めて気がついた。
思えば2のジェフの「生き別れ同然の科学者のお父さんがいて、父と微妙に確執があるちょっと育ちのいい感じの少年」という設定も、1のノベライズにおいて久美沙織が造形した「小説版のロイド」の設定がそのまんまだった。
(ゲーム版のロイドの父は息子同様にゴミ箱に入った状態で話し掛けて来る職業不明の気さくな人物である一方、小説版のロイドの父は「ギーグに捕らえられて敵のロボット兵器の開発をさせられていた気難しいマッドサイエンティスト」で、ジェフの父親であるアンドーナッツ博士に非常にキャラが近い。2のノベライズのあとがきによると、あまりにもゲームのジェフの設定が1の小説版のロイドそっくりだったので「同じ子じゃ書くのつまんない」と思ったがゆえに、久美氏はジェフにとんでもないオリジナル設定(※両足の義足とその原因となった事故のトラウマ)を追加してしまったのだという)
1の小説版からゲームの2に、2の小説版からゲームの3にリンクする「3人目の仲間の共通点」を糸井氏の意図的なものと見るのはあまりに突飛すぎるかもしれないが、意図的にせよ偶然にせよ、7年ぶりに思わぬ発見を得て少しいい気分だ。元増田に深く感謝したい。
Amazonで売られている久美沙織のMOTHERのノベライズは「作者はキャラヒイキし過ぎ、女の子(アナとポーラ)がビッチ過ぎ、オリジナル要素入れ過ぎ」とそりゃもうボロクソに言われつつも随分なプレミアがついている。
彼女はもともと凄まじく悪ノリ&長文&脇道癖のある作家であり、かつて小説版ドラクエの4〜6(特に4)を執筆した折などは想定読者年齢層を全力でブッチした筆の冴えを見せつけたことで(主に悪い意味で)その筋では有名である。ゲームでは「なんか魔族の王」程度しか設定されていなかったデスピサロの魔界での鬼畜イケメンぶりとロザリーに対するロリコンぶりを描写するために、実に第1巻の約3割を費した耽美と難解を極めるオリキャラだらけの序章を筆頭に「ドラクエの小説版」という単純な単語に惹かれた全国の無垢な少年少女を疑問の渦と睡魔の淵に叩き落としたものだ。
あれに比べたら小説版MOTHERの脱線ぶりなど屁のようなものであるが、それでも1の地底湖における妙に淫靡な13歳同士のラブシーン、著者本人も認める2のタイトル詐欺(MOTHERではなくBROTHERになってしまった)などは、精霊ルビス伝説を初めて読んだ小学生の頃から意味などろくすっぽ訳も分からず彼女の文章を刷り込まれて育った増田のような重度の奴隷信者には溜め息のひとつで済ませられても、彼女の作風を知らずまっとうなノベライズを期待して本を開いた方々には怒髪天ものであっただろう。
前述のような久美沙織のノベライズ奴隷信者たる増田が、開発中だった64版MOTHER3のサブタイトル(豚王の最期)を聞いて思ったことは想像に難くないだろう。勿論「次の小説版どうすんだろ」の一択だ。
ネタバレをすると、小説版の2のポーキーはゲームと違っていずこかへ逃亡しない。2の小説は一冊で完全に独立完結している。
ゲームよりかなり陰惨な設定を付け加えられ、死んだ方がマシじゃねえかと言う酷い目に遭わせられはしたものの、色々あって小説版の彼は救われ、オネットのはずれの家で弟達と仲良く幸せに暮らしている。
1では原作通りの「ジョージとマリアに育てられた宇宙人の子供」だったギーグを、2では設定を完全無視して「多次元宇宙からやって来た、人間に寄生して成長する凶悪宇宙怪獣」というわけのわからんものに平気で変えてしまった久美沙織の事であるから、恐らく3のノベライズも一筋縄では行かないだろう、どのような味付けをするつもりなのだろうか、とゲームも発売しないうちから想像してわくわくしたものだ。
だがいかんせんゲーム原作である3の発売まであまりにも間が開き過ぎ、残念ながらその間に久美氏の小説家としての執筆活動はほとんど行われなくなってしまった。
ゲームそのものの出来が賛否両論で関連グッズ制作に予算が割かれる可能性も少なかったろうから、どのみち彼女が現役だったとしてもノベライズの発売はなかったかもしれないが、今でも久美沙織によるMOTHER3の小説はどんなものだったのだろうと思いを巡らし、赤い背表紙の文庫本が3冊並んで棚に並ぶ事を願わないことはない。
多分ダスターは作者の好みの傾向から言って超かっこいい男になるだろう。ウェスは「ふしゃしゃしゃしゃ!」などと変な笑い声を上げるようなゲーム以上のしゃかりきジジイとして描かれ、一般プレイヤーなら名前すらウロ覚えであろうタツマイリ村の一住民の視点でまるまる一章が描かれることになるだろう。サルが主役の章なんかすごくそうなりそうだ。コーバのヨシダさんやマジプシー、ヨクバあたりのキャラはそのままでも彼女の筆にとてもよく似合うから、きっと笑ってしまうほど魅力的に描かれるに違いない。
そういうどうでもいい細部の事は想像できるのに、MOTHER3という物語を彼女がどう完結させるのか、ポーキーというラスボスにどのような結末を用意するのか、自分程度の貧弱な頭ではとても想像できない事が悔やまれる。
増田はMOTHER2の小説の中では、ハッピーハッピー村の教祖であるカーペインターについて書かれた下記の文章が一番好きだ。(ちなみにゲームに登場するカーペインター氏は、別段このような性格設定や過去があるわけではない普通の中ボスである)
少年の頃、彼は、痩せっぽっちで病弱で、ひどく不器用でした。学校ではいいところを見せるチャンスがありません。おまけに常用していた薬の副作用で顔がゾンビみたいに青かった。気味悪がられて、いつもひとりぼっちでした。こころを通わせることのできる友達が欲しくて堪らなかった。でも、どうすれば、ひとに好かれるような人間になれるのか、ちっとも分からなかったのです。
せつない気持ちをぶつけるために、教祖は絵かきになりました。さまざまな青の濃淡で描かれた彼の絵に、希望や共感を見出すひとたちが現れます。寂しいのは、彼だけじゃなかったのです。悩んでいるひと、困っているひと。ひと見知りで、ともだちを作るのが苦手なひとたちと、助け合って暮らしたい。そう思ったので、一生懸命働いて、この、人里離れた谷間の土地を買いました。誰でも、来たいと思うひとを歓迎する場所、みんなが他人を脅かさずに静かに過ごすことのできる場所として、ハッピーハッピー村を作りました。狭い画布ではなく、大地そのもの、空間そのものを、青いっぱいで埋めるのが、彼の夢でした。
平素の地の文では「今週のハッピーハッピー村信仰大賞佳作受賞者は、ご近所一帯に青大将三百匹を放したヌリ村のジョン作さんです!」などというクソみてえな悪ノリを平気で書くくせに、彼女はこうやって時折、心に突き刺さっていつまでも離れない文章を書く。忘れられない文章がいくつもある。
だから未だに彼女の書くMOTHER3の物語をずっと諦められずにいる。
久美沙織が大昔に書いたゲームノベライズのことなんて知っているマニアックな年寄りは、いかにネット広しといえどもきっとあまり沢山はいないだろう。「翠の髪のボウシャルマン/王宮付きの軽業師」なんて小説版ドラクエの作中詩の一節をググったところで出てきやしない世知辛いご時世だ。
それでもこうして長文を形にしておけば、そのうちこれを見つけた同じ気持ちの誰かと思いを分かち合えるんじゃないかと思い書き残しておく。
SSって言ったら何を思いつきます? セガサターンでもセーラーサターンでもないですよ? ショートストーリーですよ。二次創作ですよ。
ゆとり世代が蔓延る前はSSって言ってもちゃんと地の文が存在するまともな日本語だったんですけど、最近のSSはひどいですね。お前らあかほりさとるのあとがきか!って突っ込みたくなるくらいひどい。基本的に 名前「台詞(心情/顔文字)」 の繰り返しですからね。脚本ですらない。ハイコンテクストの終着点ですね。その昔「?」「!」って意思疎通があったって話がありましたけど、そこに向かってるんじゃないかってくらいひどい。何でもかんでも「ヤバい」だけで片付ける人たちを笑えませんね。
前置きはさておき。こないだ電車乗ってたんですよ、そしたら仕事帰りのスーツっぽい新人OLさんが鬼の形相でスマホ眺めてたんですね。何見てるのかと思ったら エレン「〜」 とか書いてあるSSまとめサイトですよ。この系のSSってきっと小中学生あたりが読んでるんだろうなーと思ったらいい大人が仕事帰りの電車で読んでるわけですよ。アホかと馬鹿かと。髪も真っ黒一本結びだったので、ああ、これがゆとり腐女子なんだなーって実感した次第。
http://yuma-z.com/blog/2013/06/shinsho-10/ のまねをして、今度は新書の紹介をしてみる。(それにしても新書の紹介なのに、女性が手に持っているのが新書でないのが納得いかない)いままで紹介した本の紹介は以下のリンク先からどうぞ。以下のリンクはいままでに自分が読んで面白かった本の紹介です。
自分が紹介する新書のリストは以下の5冊。10冊並べようかと思ったけど、数学入門や理科系の作文技術、日本人の英語あたりは元のブログに取り上げられているし、それらを除くと以下の4冊が残ったので。
英語→日本語に限らず、様々な言語の翻訳家の人たちのエッセイ集。「なぜ翻訳家になったか」というテーマのエッセイが多い。翻訳家といっても文芸翻訳の話で、技術翻訳の人は登場していないはず。だいたいが学者系の人たちで、日本に紹介したい本があるからやっているという人が多い。(逆に外国に日本の本を紹介したいという人もいる)
日本の文学を海外に紹介する人の話が楽しかった。日本に限らず、世界各地にはその地に根ざした習慣や文化があるわけだが、そういう習慣や文化をどうやって翻訳するのか。知らない人にわかるように説明すると、地の文よりも訳注が長くなってしまうとか、そういう問題点がある。そういったことを配慮しつつ翻訳するのは並大抵のことではないようだ。
加えて、英語→日本語と翻訳する人と、日本語→英語と翻訳する人では、前者が日本人ならば圧倒的に楽なのだそうだ。該当する言葉のイメージを母語の中から探すというのはできるけれど、逆はとても難しいそうだ。
翻訳というとどちらもできそうな感じがあるけれど、他の人が読むに耐えるレベルの翻訳はどうやらそうではないらしい。
宮崎駿さんが著者。前半は岩波少年文庫の中で自分が読んだ本を挙げつつ、その本を紹介するという内容。後半は宮崎さんの思い出話だ。本の紹介が上手で、読んでみたくなる。
紹介する本は岩波少年文庫のものに限られるので、ほかの書店の本は一切載っていないのが残念だ。しかし後半は宮崎さんがなぜ児童書を読み始めたのかということや、映画作りに与えている影響にも話が及んでいて、とりたてて宮崎さんのファンではない自分のような人にも楽しめる。最近のジブリの映画はつまらない、と感じている人は、この本を読んで興味を持った児童書を読むと楽しい時間を過ごせると思う。
村山斉さんが著者。最新の研究成果を元にして、宇宙はどうなっているかについて説明した本。最新の宇宙論を大まかに説明する本だ。なので、「どうしてそうなっているのか」ということよりも「今こんなことがわかり始めている」という説明が多い。
村山斉さんは最近多くの本を出していて、ほかの本と似た内容になっている(=かぶっている)という指摘がAmazonにある。自分はほかの村山斉の本を読んだことがないので、判断できないが、最新の宇宙論に興味のある人が手に取ってみると楽しい一冊であると思う。
もともとこの本は村山斉さんの講演が元になっているようで、各章の終わりには講演での質問が載っていて、それに対して村山斉さんが答えるというところがある。この質問に対して答えるところが良い。質問の内容をくみ取って的確に答えるのは難しいことだが、村山斉さんはしっかり答えているし、まだよくわかっていないところはよくわかっていないと曖昧にしないで答えている。質問も基礎的な話から、宇宙論のかなり専門的な質問もあって、それぞれに解答している。
築山節さんが著者。生活習慣を改善することで、なんとなく調子がでない状態から脱却する方法を説明する。タイトルはありきたりだし、書いてある内容もそんなに真新しいものはないのだが、読むと納得する。
大事なことは寝る時間を削らないとか、運動する時間を設ける、などだ。大変なときにはこういう基礎的な習慣が崩れやすく、そういう点を疎かにすると、短期的にはうまくいく。かもしれないが、それが長引いて長期にわたるとだんだんといまいち調子が出ない…という状態にはまりがちだ。その状態になったり、ならないようにするためには習慣を見直すことが第一で、習慣を改善するだけでうまくいくことも多いというような話が載っている。
ときどきこの本を見直して、うまくいっているときのタイムスケジュールや生活習慣と今の状態を比べてみるということをすることが良いだろう。その具体的なチェックポイントを挙げてある点が本書の良いところ。
ここからは余談。
新書というカテゴリーは、文庫でもないしハードカバーでもないというちょっと特殊なジャンルだと思っている。
昔読んだ高村薫さんのインタビューにこんなことが書いてあった。かなり昔には、
というすみ分けがあった。しかしこれは何十年も前から崩壊してしまったようだ。文庫はハードカバーで出版された書籍が何年か経った後に、再び出版社が同じ書籍を売り出したいがための「文庫化」される本が多数を占めるようになったためだ。(そうではない本もあるが、全体の傾向としてそうなってきた)
くわえて、
というような区分けがあったように思う。新書は、上の新聞と雑誌の間を縫うような「新聞のような時事的な問題を、雑誌と同じくらい詳しく、かつできるだけわかりやすく」というニーズがあって発展してきたものだと思う。要するに、今の池上彰さん的な立場を新書は担っていた。
新書には、もう一方で「学問の初歩を紹介する」という役割もある。これらは新書が出はじめた当時は多かったが、最近はそんなに多くない。(元のブログでは数学入門はこの手の新書だ)○○学と呼べるような大きな学問領域を一手に扱えるほど権威のある書き手が少なくなってきて、各学問領域内でも細分化された結果、一概に「こうだ」と言えるようなことが難しくなりつつあるからだと思う。加えてそれらを説明しようとすると、新書では紙面が足りないからだと思う。
そのためなのかどうかは知らないが、最近は特に、何か一つのテーマをなんとなく紹介する新書が多くなってきた。こういう新書は読むとそのときは何となくわかったような気がするけれど、時が経つと忘れてしまったり、素人目にはその紹介にはつじつまが合わないような時事問題が現れたりする。で、その結果として、その時々で「今」をなんとなくわかりたいときには役に立つ。けれども、全体としてみると、(特に経済問題や時事的な社会問題系は)役に立たないものが多い。陳腐化する。
の方が良い気がする。というか普通大学生ならば、新入生の手引きとかにレポートの書き方の説明や参考文献が載っているのではないか?大学の講義にそういうものがあるはずだ。なので、「理科系の作文技術」は名著だけれど講義に出て練習を積めばいいように思う。もちろん一気に上手くなるわけではないけれど、ノウハウ本を一冊読むよりも、一度学んだも講義資料を読む方がはるかにわかりやすいと思うのだが。講義の教授が木下是雄氏で、「理科系の作文技術」が指定教科書ならばともかく。
悲鳴伝もそこそこつらかったが、ますますつらくなってもうまともに読むにたえない。
半分過ぎたあたりから会話の部分だけを拾って読んでいったけどそれでも物語は十分に追える。
キャラ萌えもないし、主人公の思考も本当に駄々漏れという感じで読んでて全然おもしろくない。
悲鳴伝はまだ割りと話の盛り上がりとかがあったけど、今回は完全に行き当たりばったりで抑揚がまったくないお経を聞いてるような気分になる。
おまけにこんだけ長文に付きあわせて最後は未完とかほんとに時間の無駄だった。
才能が枯渇した中で一生懸命にひりだして薄めて薄めてといった感がアリアリ。
物語シリーズの偽物語以降のgdgdっぷりを見ても戯言シリーズからのいちファンだった自分としては残念だ。
いったん充電期間置いたほうがいいと思う。
このままうっすい本を出し続けても見限られるだけだと思う。
最初に西尾維新を見出した太田あたりは今の西尾維新についてどう思ってるのかねー。
メフィスト賞かなんかの酷評が定期的に話題になるけど、今の西尾維新の本を別名で応募したら同じように酷評されるレベルまで落ちぶれてると思う。
あー。。。でも物語シリーズ第二シーズンアニメ化も控えてるし、またそれの書きおろし短編とか書いたりするんだろうなー。。。
もう見てられないよ。。。
なんだかんだで出たら読むとは思うけどさ。。。
もういい休めのAAをぜひ贈りたい。
「名は体を表す」ともいうし、実際キレイな字だったら、その字を見た人の印象は決して悪いものではないと思う。
ただ、それだけ―字が綺麗というだけで性格が良いとは必ずしも言えない。
逆に、汚い字であれば、例え高学歴の人であっても印象はあまり良くない。
それは地頭が良く学力があっても本質的な部分が伴っていない、すなわち性格面が捻くれてるという風に見えてしまうから、
やはり字の丁寧さは大事だと思う。その人の印象によるが、少なくともキレイな字を見て悪い印象を持つという事はないと思う。
汚い字はやっぱり親の教育の問題だとか、地の文が出来てないだとか、熱意が伝わって来ない。
多少稚拙であっても、丁寧に書こうとする意志が見られれば、例え汚くても丁寧さが見えてくる。
綺麗さっていうのは、丁寧さも大事だけど、走り書きでない事が望ましい。
一字一句丁寧にというけど、やはり履歴書の場合書き疲れることもしばしばある。
走り書きって特に締切間近等で急いでいるから、そのようになってしまう。
第三者から見て、走り書きっていうのはすぐ分かるし、急いで書いたというのはその人の性格がせっかちだとか、締切ギリギリということで優柔不断だとか
と見られがちだ。それはそうだ。履歴書を書いている人のその時の気持ちと、履歴書を見る審査員(採用担当者)の目や経験や勘では一致しないからだ。
良い印象を持たれるためには、例えば採用される人の決め手というのは、面接等でいうと第一印象が大事だということがとりわけ挙げられるが、
履歴書一つを見ても、やはりそこだけを見て次の選考を考えるわけだから、見た目の第一印象で躓くのは可哀想だ。
履歴書はその為人を知る上で最も大事なパーソナルデータであり、名刺代わりでもある。
それだけに手書き履歴書の綺麗さがその為人を表すというのは正しいと私は思う。
勿論、昨今は応募者の増加によって企業側が効率性を重視してパソコン上からのエントリーシートで応募する事を推奨しているが、
手書き履歴書が駄目って訳ではないし、たまに手書き履歴書で送ってくる人がいると、とりあえず会ってみようかという気持ちになるものだ。
そういう例は極めて稀のケースだけど、逆に審査側の被雇用者の性格を知る術が効率化によって失われたから、手書き履歴書の存在がありがたいと感じる審査員(採用担当者)も少なくない。面接回数が多いというのはイコール会社が効率化を優先するあまり、古き良き手書き履歴書の意義を見失って本当にその人が会社に入りたいのかという部分が見れなくなったためである。つまり、効率化によって手間が増えたということだ。
案外、パソコン等によるESで回す会社は大きい割に小さい性格の会社だと思う。
問題は、採用する側の為人だろう。その意味では、ESを導入している会社は損をしていると思う。
しかし、手抜きによって、手書きの有難味に気付かされるとは何とも皮肉な話ではないか。
手抜きを効率化としている時点で、多くはその皮肉にも気付いていないのだろうが。
といっても例のSSではなく(つーか読んでない)、SSスレッドという媒体についての考察だけども。
まず、個人ブログや小説投稿サイトで発表される「SS」や「ケータイ小説」と、
2chの主にニュー速VIP板に投下される「SSスレッド」は別物である。
前者と比べてVIPのSSスレは劣る、という論旨ではない。
質がどうこう文章力がどうこうといった比較じゃなくて、
そもそもハナから別の表現媒体だと捉えた方がわかりやすいということだ。
両者の比較は映画と落語を比べるようなもので、どこかズレている(と思う)。
では、他のネット小説とSSスレッドはなにが違うのか。
まとめブログでSSスレをいくつか読んでネット小説と比べると、次のような特徴がわかる。
このうち特に重要なのは2と3だ。
「文章による創作物」を発表する媒体は書籍や投稿サイトなどいくつもあるが、
作者が書いてるそばから読者の反応が“同じ画面上に”書き込まれる媒体はSSスレッドぐらいだろう。
つまりSSスレを読む者は、
「作者が見せる登場人物の声」と、「読者の反応の声」という、二者の声を同時に聞くことになる。
また、作品自体も他の媒体と違って一度に全文を発表することができない。
2chの掲示板システムには行数と投稿間隔に制限があるからだ。
たとえばニュー速VIP板なら、3~5分おきに30行以内で書き込まなくてはならない。
この「量と時間の制約」が、作品に“間”を与える。
強制される時間的な制約と、その間にも挟まれる読者の声というノイズ。
この二つがSSスレッドを仮想上の演劇空間として成り立たせている。
ようするに、VIPのSSスレッドは「小説」ではなく「演劇」なのだ。
ここでなにかライブ映像を思い出してみてほしい。
演劇でもお笑いでもバンド演奏でもなんでもいい。
ライブでは、上演の時間やペースは作り手が決めるものであり、
受け手は同じ立場の観客たちとともに声をあげて反応を返す。
演者はあらかじめ予定していた作品を披露するが、
ときに観客の声に反応して、上演中にアドリブを差し込むこともある。
これは「完成品を一方的に送って、受け手も自分のペースで楽しむ」媒体、
たとえば小説の文庫本、CD音源、映画のDVDなどとは全く違う。
(記事のはじめで通常の「SS」を映画に、「SSスレッド」を落語にそれぞれたとえたのもこの違いからだ)
つまり、SSが投下されるスレッドは仮想的な“ライブハウス”として機能するのだ。
となると、まとめサイトはそれを事後的・俯瞰的に楽しむ“公演DVD”に当たるだろう。
仮に他の媒体で発表される小説作品を映画とたとえるなら、
読者との双方向性や共時性が備わったSSスレッドは紛れもなく演劇である。
(ちなみに、このようなスレッドという媒体の演劇性は「ゲーセン少女」などの擬似体験談スレでも発生する)
残った特徴4、5もまた、基本的にはSSスレッドの演劇性に由来するものである。
「VIPPERは3行以上読めない」といった言葉があるように、2chで長文は避けられる。
それはSSについても同じで、空行の少ない長文はまず読まれない。
だがSSスレについていうなら、長文が読まれない理由もスレッドが舞台に似ているからだと思っている。
SSスレッドは一期一会の軽いもので、イメージとしては道ばたの大道芸を見るようなものだ。
では、舞台上にだれ一人立たず、長ったるいナレーションだけが延々と続くさまを想像してほしい。
話のつかみから無駄な風景描写を重ねる語り方は、スレッドという舞台上ではこのように映るのだ。
これがSSスレで地の文が避けられる理由だと考えている。
そんなわけでワナビだったりときどきSS書き手だったりする観点から私感をまとめてみた。
まおゆうはよく分からないけど、いい機会だと思ったので。わかりづらくてすまん。
媒体の演劇性はSSスレだけでなく、擬似体験談スレの解釈に関しても応用できる気がする。
特徴4や5で触れたSSスレッド特有の演出法(と、できれば具体例)については、気が向いたらそのうち。
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」
「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。
日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞(キョッポ)にそんなことを言う資格などない。」
「 私は僑胞の連中を信用などしていない。
徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、 日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。
以前にもこの発言は捏造ではないかと言うのを書いたけど、今日暇だったので自分で調べてみたところ完全に捏造だと分かったので、デマがこれ以上拡散しないためにも改めて注意喚起
このコピペの「03年6月の訪日時TBSのテレビ番組」とは具体的には2003年6月8日放送の「報道特集SP百人百熱 韓国・盧武鉉大統領 本音で直接対話」という番組のようだ。
番組HP上に掲載されていた盧武鉉大統領の発言の書き起こしは下記のようになっている。http://megalodon.jp/2012-0225-0000-46/www.tbs.co.jp/skorea_president/topic4_2.html
質問者(男) 私は在日韓国人ですが、今まで日本の社会から色んな物を受けて育てて頂いたと思っているんですが、将来はそれを自分が今まで受けた物を日本の社会に還元していきたいと思っています。それがひいては韓国と日本そして北東アジア、ひいては世界の平和と繁栄に貢献できると思いますが、それに対して大統領の感想をお聞かせ下さい。お願いします。
盧大統領 これまで韓国人が海外に出て、非常に多くの人々が海外で暮らしました。我々が幼い頃、ユダヤ人やそして中国には海外で暮らしていても、国籍を捨てず、そして言葉を捨てず、また家族の文化を捨てないというような事があり、それは非常に良いことであるといった教育を受けました。そしてそれが非常に良いことであると考えてきました。しかしながら世の中は変わっていきながら、世界が一つに統合していく過程の中で、必ずしもその国籍を守るということが称賛をするようなこと、称えることだけだと思いません。
どのような国の人でも自分の国の文化の誇りを捨てないにしても、現地の文化そして体制に適応して、またそこでその社会の一員として定着して、その社会に寄与することは非常に重要なことであります。したがってその李君がそのように話しをしてくれたことは、非常に進歩的な考えであると思います。自分の民族的なアイデンティティーは保ちながらも、この現地の一員として適応し、貢献していく考えはその二つの共同体を一つにつなげることのできる力になり、また架け橋になれるだろうと思います。私はその様な考えを持っており、国籍問題に対しても、もっと自由に考え、それで二つの民族をお互いに一つにつなげていく架け橋として、日本にいらっしゃる同胞の皆さま方が大きく寄与できるような、できたらという考えが良い考えだと思います。
見て分かるように、「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」に相当する発言はあるが、コピペのように在日を敵視した発言はしていない。
2ちゃんねるには放送当日の23時にコピペが投下される。(元々有ったコピペに追加されたものかも)
http://logsoku.com/thread/academy2.2ch.net/gogaku/1049668145/ (レス番号75)
http://www.logsoku.com/r/21oversea/1047336497/ (レス番号73)
75 : 名無しさん@3周年[] : 投稿日:2003/06/08 23:09:00
「在日同胞はいずれ帰化する運命にある」「在日は本国3千万の犠牲になれ」
「在日2・3世は完全に日本人となって日本に同調する社会人として生きることが望ましい」
「みなさんが日本国籍をとられたことについて、なにも恥じることはなく、
主体性の問題にも関係がないと思います。在日同胞は、住んでいる国にしたがって日本人、
「日本は兄の国、韓国は弟の国。劣ったものは力の強いものに対して嫉妬や羨望の感情を抱きやすいものだ」
「3世といえばもう日本人。彼らの問題をいつまで韓国政府が取りあげなければならないのか?」
そして…
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない」
「同胞にはその社会で貢献して欲しい」
ただし、この時は実際の発言を要約した最初の1行目だけで、それ以降の在日を批判する文章は無い。
捏造された発言が追加されたコピペの初出は2004年3月10日、番組放送から半年以上経ってからである。
http://logsoku.com/thread/ex.2ch.net/korea/1076137626/
164 : マンセー名無しさん[] : 投稿日:2004/03/10 16:58:00 ID:IwGuoVRP [1/1回]
「在日同胞はいずれ帰化する運命にある」「在日は本国3千万の犠牲になれ」
「在日2・3世は完全に日本人となって日本に同調する社会人として生きることが望ましい」
「みなさんが日本国籍をとられたことについて、なにも恥じることはなく、
主体性の問題にも関係がないと思います。在日同胞は、住んでいる国にしたがって日本人、 アメリカ人、アフリカ人とならなければなりません」
「日本は兄の国、韓国は弟の国。劣ったものは力の強いものに対して嫉妬や羨望の感情を抱きやすいものだ」
「3世といえばもう日本人。彼らの問題をいつまで韓国政府が取りあげなければならないのか?」
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」
「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。
日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない。」
「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに
韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、
その後、2ちゃん内で韓国・在日関連のスレなどにポツリポツリとコピペされて行く。
・Wikipediaには2005年4月4日 (月) 18:07 の版で初登場する
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%A7%E6%AD%A6%E9%89%89&oldid=1670491
2003年6月6日から9日まで権良淑夫人とともに国賓として日本を訪問。この際筑紫哲也司会のTBSテレビの特別番組に出演し、日本の一般市民と交流を持っている。その時、在日韓国人について「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」 「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。 日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない」「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、いいとこどりではないか。私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞の連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」と、韓国政府が行ってきた在日韓国人の棄民政策を継承する考えを表明している。
これが2ちゃん外部のサイトで最初にデマが掲載された事例のようだ。
・その4日後に質問サイトのOKWAVEの質問に該当部分が引用されて回答される
http://okwave.jp/qa/q1317796.html
以後、知恵袋等の質問サイトやコピペブログに拾われるなどして「発言は真実」として爆発的に広まっていく。
しかし、広がっていく過程で誰もデマであるということに気付かなかったのか?というとそうではない。
Wikipedia上では、掲載から2ヶ月後の2005年6月26日 (日) 08:53の版でデマである可能性が指摘されている。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%A7%E6%AD%A6%E9%89%89&oldid=2195139
この後、版を重ねる内にデマの部分がそっくり削除されてしまったことが拡散に歯止めを効かせられなかった要因の一つではないかと思う。
さらに、質問サイトでも2009年にはとっくにデマである指摘がされていた
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5165119.html
にも関わらず、2012年も終わろうかという今日でも、この盧武鉉発言を真実かのようにコピペしデマが拡散し続けられている。
この記事を読んでくれた人の中にも、デマだと知らずに信じてしまっていた人はいませんか?
デマが検証もされないままセンセーショナルさだけで次々と広まっていく様子を見て「ネットで真実」と言って簡単に信用してしまうことの危うさを再確認することになった。
それによってデマが終息するのかを今後見守ってみたい。
元々ニッチな分野だから、仕方ないのかもしれないが、それを差し引いても、質、量共に盛り上がりに欠ける。
その理由を自分なりに考えてみる。
・「最初からクライマックス」ではなく、「最初がクライマックス(後は惰性)」な急ぎすぎる展開
この分野にはあるテーマ(とそれを象徴するある事象)があるのだが、
その事象を急いで書きたいあまりに、キャラの描写もそこそこに事象を発生させてしまうため、
結果、薄っぺらい、似たり寄ったりなSSが乱造された。
掲示板に投稿された比較的息の長い作品の中で、その事象が何行目に出てきたかを調べてみたら、以下のようになった。
7、48、13、38、45、22、45、53
モノによってはこの後500行とか1000行とか続く作品なのに、これは事象を出すのは早すぎだろう。
例えて言うなら官能小説の開始数ページ目で絶頂が来てしまうようなもの。
1回だけじゃなくて、その後も何回も繰り返せばいいという方法もあるだろうが、それはそれでマンネリ化を招く。
ある事象が発生した人物はほぼ無力で、しかも行動の自由も著しく制限されるため、
「念じるだけ」
といったおおよそやられる側は回避不可、やる側の思いのままというシチュエーションが多く見受けられる。
逆転をさせようと思ったら、「やる側がとんでもないドジを踏む」「デウスエクマキナ」
といったワンパターンご都合主義に頼らざるを得ない状態になってしまう。
・描写が直接的・説明的
多くの作品が登場人物を○山△子(25)という具合に名前と年齢のセットを地の文で直接述べている。
自分も人のことを言えないし、素人の投稿にあまり高いレベルを要求するのもおかしいとは思いつつ、
やはりワンパターンすぎて、見ているこっちはげんなりする。
何よりこの方法だと人物がぜんぜん生きてこずに、単なる記号でしかなく、読者の補完に頼らざるを得なくなる。
「細部は読者の好みで」っていう配慮かもしれないが、正直自分には投稿者の怠慢にしか映らない。
・テーマを拡大しすぎて、逸脱気味
元々一般とは少し離れた嗜好のテーマだったから独立した分野のはずなのに、
最近の作品は設定が奇抜過ぎ、一周して一般とほとんど同じようになってしまった。
官能小説の例で言うなら、「男同士がテーマだったのに、片方が女体化して、ただの官能小説になってしまった」みたいな。
投稿者曰く「体は女でも元々は男で、心も男だからテーマからは外れてません」らしいのだが、いやそれおかしいだろ。
もうそれ一般となんら変わらないじゃん。
・・・とまあこんな感じ。
予想より遥かに長くなったので二つに分ける。増田は青二才の小説の校正を書くには狭すぎる…
タイトル | 自由にすればいい-唐沢高校新聞部00- |
サークル名 | とある青二才の斜方前進 |
価格 | 600円 |
印刷部数 | 70部 |
ページ数 | 56ページ |
サイズ | A6 |
文字数 | 45文字 |
行数 | 12行 |
前回のコミティア(9/4)を欠席した時に書いた記事
おわびと予告http://d.hatena.ne.jp/TM2501/20120904/1346755726
では今回のコミティア(11/18)で短編三つを収録した同人誌を二冊出す(短編計六つ)
と書いていたが、今回出したのは短編一つを収録した同人誌一冊。
全ページに対して。数えきれず。
同一の人やモノを指すのであれば表記を統一することが一般的。
○登場人物の地の文での表記の統一
(1)神美木うたは地の文で「うた」と表記されていたが下記の箇所のみ表記が異なる。
(2)廣井一真は地の文でp30までは「廣井」と表記されていたが
以降「ヒロ」と「廣井」の表記が混在する。
の三通りの呼称を使っている。
(2)桃売りの青年が神美木うたに呼びかける際
の二通りの呼称を使っている。
(3)廣井一真は会話文中で「俺」を一人称として使うが下記の箇所のみ表記が異なる。
○廣井一真が神美木家で神美木優里に自身の来訪の目的を告げる際、
と神美木優里の幼馴染である唐沢聡理事長を呼び捨てにしているが、これは失礼なのではないか。
○廣井一真と神美木うたが山白様のもとへ登山する際
とあるが、これはその後彼らが赤い旗を見つけて山道から外れたルートを取る時の
つまり、「ボロい山道」を歩いていたはずなのに、いつのまにか「整備された道」を歩いていたことになっていないか。
○この小説の独自ルールとして、神美木うたの会話文には「」(カギ括弧)を用いず、文頭に―(ダッシュ)を用いるというルールがある。
(1)下記の箇所は神美木うたの会話文と推測されるが、「」(カギ括弧)を用いている。
(2)一方、下記の箇所は廣井一真の会話文と推測されるが、文頭に―(ダッシュ)を用いている。
○一般的には…(三点リーダー)、―(ダッシュ)は二文字つなげて使うが、この小説ではすべて一文字で使っている。
○一般的には?(疑問符)・!(感嘆符)後は一字空ける。ただし、その直後に括弧を閉じる場合は空けない。この小説では一字空けたり空けなかったりしている。
○今までの章タイトル(0~5)はすべて太字で強調されているが下記の箇所のみ太字になっていない。
http://anond.hatelabo.jp/20110903204912
小説には元々「ジュブナイル」という少年少女向けの分野がある。冒険物語を通して、社会常識を身につけさせるのが目的だから、内容はかたかった。「努力をすれば報われる」「大人になるのは良いことだ」といったテーマで、ある程度名前の売れた小説家が書いていた。
そのころ、マンガの世界で読者の年齢層に近い作者たちが現れた。感性が近いから共感を得られる。あっと言う間に人気者になっていった。SF小説の世界にも10代の作家が現れた。軽妙な語り口で、高校生を主人公に小説を書いてみせた。同年代から圧倒的な支持を得た。
その頃から、少年少女向けの小説は、主人公の年齢に近い感性を持った小説家が書くようになったんだ。
それと、日本の文学史は、ずっと「書き言葉から話し言葉に近づこう」としているんだよ。言葉は流動的なもので、どんどん変わっていく。でも書き言葉は文字で残るものだから、変わる前の言葉で残っていく。で、ある程度の差が出来ると「もっと話し言葉に近づけよう」という運動が起こって、普段しゃべっているのと同じ口調になっていくんだ。さすがに地の文で「ちょべりば」とか書いてある本は読んだことないけど。
ライトノベルは文学史の流れに沿って、生まれるべくして生まれたものだ。だから、形が変わることがあっても、廃れていくことはないよ。いつの時代も若者は存在する。だから、若者向けの小説もまた存在し続けるんだ。
20110904追記
kori3110さん、失礼。もっと前の話なんだ。1980年ごろ。ライトノベルという名称がつく前に少年少女向けの小説を書いていた人たちのこと。ライトノベルから一般小説へと守備範囲を広げていったのではなくて、一般小説を書いていた人たちが、少年少女向けの小説も書いていたということ。「ジュニア小説」って名称もあったけど無くなっちゃった。
逆に言えば、コメントを喜んでいる連中は物語世界に入ることを拒絶しながら見ている。
それは、ラノベ的な楽しみ方であり、一人よりも二人、二人よりも大勢のほうがずっと楽しい。
俺が求めてるのは一人で楽しめるアニメなんだ。大勢で楽しむラノベ的アニメではない。
ここでニコ動に進出する企業が失敗ばかりしている原因が分かってくる。
つまり、ニコ動というのは全ての動画をラノベ的に、メタフィクション的に楽しむ場所なのではないか?
いやもちろんフィクションに限ったことだけど。
この楽しみ方に合致するのは、物語世界に入り込む必要がなく、また入り込んでくることを望んでもいない題材が必要だ。
いわゆる萌えとか、4コマが原作みたいなやつ。まぁラノベ原作なら何でもいいような気もするが、ラノベがラノベとして機能するのは地の文なんだよね。
地の文を消しちゃったアニメ化は全くラノベ的ではなく、チープなファンタジーもどきになっちゃう。ハルヒがラノベ的な性質を持ったまま成功したのは、キョンの語りが地の文だったからだ。
キョンの語りがなければハルヒは全く違った評価を受けていたかも。
ここでAVも説明できそうな気がしてきた。
通常のAVというのは、フィクションと同じくその世界(セックスしてる映像世界)に入り込んでみてる人がオナニーするように出来てる。
これをそのままコメントつきのニコ動にもってきても全く意味が無いのは、ラノベと同じだ。
つまり、コメントは「物語世界から一歩引いてあれこれおしゃべりする」ものなんだから、AVが普通にAVやったらコメントどころではなくみんなシコシコするのに忙しくなってしまう。
そこで重要なのは、メタAVとでも言うべき、通常のAVから離れたものになる。
一番簡単なのは出演者がブサイクであるということだろう。ブサイクなら、その映像内世界は全部「AVっぽいものを並べただけ」になり、ブサイクなAV女優が「感情移入させない装置」として働く。
だから、これはニコ動的であるといえる。ブサイクなAV女優ではシコシコしようがないし、ネタとして楽しむ(=ラノベ的に楽しむ)のが本来の活用方法ということに。
でも結局のところ、ラノベ的に見る、ネタとしてみるというのはその人の姿勢なんだから、コンテンツは関係ない。
ただ、通常通り物語世界に没入することを求める従来型のフィクションをニコ動で「ラノベ的に」見ようとすると、ラノベ的に見ようとはしていない人々がいるのでコメントが荒れたりするということだけだ。
無論、俺も「ネタとして楽しむ」人々に対して「もっと普通に見れないのか」と荒れる元になるようなコメントをしてしまったことはある。
注:加筆修正しました
最近商業BL作品ばっかり読んでるから、たまにはネットで同人作品も読もうかなと思い立って、某ジャンルのサーチから二次創作サイト巡りをしていたときのこと。リンクを辿っていった先に、管理人が韓国人であることを明記しているBL小説サイトがあった。日本語ネイティブじゃないとこれはムリだろと思わせる豊かな語彙の小説や日記・掲示板の内容から判断するに留学生やニューカマーなどではなくて、日本で生まれ育った在日韓国人の方であるようだった。
なんかね、これちょっとびっくりしたんですよ。在日の人もBL書くんだなぁって。
いや、こんなにもアニメや漫画の氾濫する日本社会で生きている以上、日本人だろうが外国人だろうがオタク趣味に染まる人は染まるのが当然だろうし、中にはヤオイや二次創作に興味を持って腐女子や腐男子になる在日コリアンがいるってのも理性では理解しているんだけど。実際目にしてみると、なんかこう、感慨深いものがありましてね。
そうかー、在日のBL好きってのもやっぱりいるもんなんだなー、っていうか他にもいるけど明かしてないんだろうなー、としみじみしてたんですが、途中でふと思い出した。あれ、ちょっと待てよ?よく考えてみれば、数少ないながら今までにも在日韓国人が登場するBLがあったりするし、在日朝鮮人のBL作家というのもいたりするんじゃないの?そういえば私、そういうの読んだことあったような……、と。
というわけで、今回はBLと在日と私というテーマで今まで読んだ作品を振り返ってみようと思う。長いよー。私が以下で言及している作品には18禁のものもありますのでお気をつけください。
倉科るりというペンネームで、商業誌からBLを出版している小説家がいる。正確にはいた、と言うべきかもしれない。著作の中には絶版になっているものも多く、また1996年の『王様の夏休み』を最後に10年以上発刊はしていないようだから。公式サイトにも「倉科るりの商業活動は諸々の事情から不可能だと思います。時間がないのです。」と書いてあるので、今後も商業誌でBL作品を発表する可能性は限りなく低いと思う。
けれど、在日とBLというテーマを語るなら、彼女を外すことはできない。
実はこの作家さんは、コバルト文庫で金蓮花という名義で少女小説も書いている。むしろ金蓮花(きんれんか)というペンネームの方が世間的には通りがいいだろう。私も残念ながら倉科るり名義の本は読んだことがないけれど、金蓮花名義の本は小中学生の頃にわりと読んでいる。『銀葉亭茶話』、『水の都の物語』、『月の系譜』は何度も読み返すくらい好きだった。私が金蓮花=倉科るりというのを知ったのは大学生になってからだったけれど、BL読者やコバルト読者には結構有名な情報だったようで、ネットで検索するとペンネームを使い分けるようになった経緯や、その他もろもろの噂が出てくる。それらの噂がどこまで本当かわからないのでここでは紹介しない。
さて、金蓮花は1962年生まれの在日朝鮮人3世である。東京に生まれ育ち、大学も都内の小平市にある朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した。作家デビューは1994年、『銀葉亭茶話-金剛山綺譚-』で集英社の第23回コバルト・ノベル大賞を受賞したのがきっかけだった。この『銀葉亭茶話』シリーズは、朝鮮半島を舞台に仙人や精霊、竜や虎、人間たちが織り成す恋愛を描いた朝鮮風ファンタジー小説で、仙境にある一軒の茶屋銀葉亭にさまざまな客が訪れ、店主の李月流(り・うぉるりゅ)に身の上話を打ち明ける、という趣向になっている。
『金剛山綺譚』の金剛山は、もちろん朝鮮半島に実在する景勝地金剛山をさす。韓国人や外国人が北朝鮮国内の金剛山観光地区に観光をしに行くニュースを見たことのある人は多いはずだ。『銀葉亭茶話』シリーズの物語に登場する実在の固有名詞は地名だけではない。例えば『蕾姫綺譚』では重要なキャラクターとして李氏朝鮮建国の王李成桂が登場するし、『舞姫打鈴』のヒーローは新羅の英雄金庚信である。
ところで、学校で歴史を習う前に本シリーズを読んだ影響で、私は現在でも「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」と読んでしまう。私にとって、このシリーズこそが生まれて初めて触れた‘朝鮮文化’なのだった。馬鹿な子供だったので現役読者だった小学生の頃は朝鮮半島というのがどこにあるのか知らなかったし(私は当時本気で外国=アメリカであり、世界には日本とアメリカの二国しかないのだと思っていた)、儒教文化だとか在日朝鮮人だとかさっぱり理解できない上に興味もなかったので読み飛ばしていたけれど、雪華(そら)や明蘭(みょんらん)という美しい漢字と不思議な響きの名前、美味しそうなチヂミ、ふわりとチョゴリを広げて鞦韆をこぐ明朗な少女、霊山の天辺に位置する天池(ちょんじ)の聖水……どこか好奇心を刺激する異国のイメージの数々を私は大いに楽しんだのだった。特に金剛山の壮大な瀑布や峰々が鮮やかに染まる絢爛豪華な秋の描写などは、幼心にうっとりするような綺麗な文章だなぁとドキドキしながら読んでいた。金蓮花という作家のおかげで、私は隣国と幸福な出会い方をしたのではないかと思っている。そういう意味で、『銀葉亭茶話』は私にとって印象深いお話なのだった。
金蓮花自身にとっても、作家として第一歩を踏み出したシリーズであると同時に、祖国を舞台にしたロマンスであることを考えれば、『銀葉亭茶話』はやはり特別思い入れの深い作品なんじゃないだろうか。
彼女の著作のあとがきでは、自らのルーツを意識した話題が多い。北朝鮮に観光に行って金剛山の絶景に感動した話、伯母が北朝鮮に帰国した話、親戚が日本と北朝鮮と中国に住んでいるという話、子どもたちの通う朝鮮学校のお祭りのためPTAとして準備に奔走する話など。
そんな彼女がBL小説を書くときは、金蓮花ではなく倉科るりというペンネームを用いた。倉科るり名義の本では特に朝鮮半島と関連のある物語を書いたりはしていないようだ。少女小説のコバルト作家としての自分とをきっちり分けたかったのかもしれないし、儒教を尊ぶ在日コミュニティの価値観からするとさすがにBLを在日朝鮮人と明かしている金蓮花名義で出すのは難しかったのかもしれない。少女小説家としてデビューする際も家族からかなり強硬に反対されたと聞く。少女小説を書いているのがバレて家族会議で土下座までしたそうな。ましてやBLをや。
まぁ、BLを書くときと少女小説やラノベや一般漫画を書くときでペンネームを変えるのはbassoや秋月こお、榎田尤利もやっていることで、金蓮花に限った話ではないけれど、少女小説では在日ネタをふんだんに出していた人がBLではそれを一切出さないというのも興味深い話ではある。
ちなみに金蓮花名義の本に一切男性同士の恋愛や性愛が出てこないか、というとそういうわけでもない。
ここでちょっと萌え語りをさせてもらうと、『銀葉亭茶話』シリーズで私が一番好きなキャラクターは長白君(ちゃんべつくん)だった。彼は、朝鮮半島の付け根、北朝鮮と中国の国境にまたがる山(朝鮮語では白頭山、中国語では長白山)の守護仙人(精霊だったかもしれない)で、シリーズ通してのキーパーソンである李氏(注:男性)に想いを寄せている男性である。李氏に冷たく拒絶されたり、周囲の神仙たちに揶揄されたりしつつも、変わらず李氏に暖かい真心を捧げ続けている好漢なのだ。李氏には他に想い人がいるのでまず間違いなく長白君の恋が成就することはないのだろうが、私は彼の男らしい包容力にときめいたのでぜひ幸せになってもらいたいと思っている。別に相手は李氏じゃなくてもいいから。というか長白君には楓英とか緋鯉の精みたいな豪胆で誠実な男性とか似合うと思うんだよね。
studio may-beを結成して仕事をしている高城響と鷹匠早紀は、BLゲームや乙女ゲームのシナリオライターとして活動している他に、連名でBL小説を書いて出版したり、漫画の原作をしたりしている。音楽業界を舞台にしたBL小説『たぶん、きみが好き』『いつか、翼を広げて』『きっと、空も飛べる』という3冊がマイクロマガジン社から発行されたのは2004年のことだった。この3作は天才指揮者と男性アイドルのカップルを描いたお話なのだが、実は高城響と鷹匠早紀がやっているサイトに長年連載していた大長編小説『KT』を手直しして発表したものだという。
そのサイトの大長編(まだ完結していないらしい)には、脇役として若手の指揮者同士のカップルが登場する。彼らを主人公にした話もサイトには掲載されており、出会いと恋人になるまでを描く『'O sole mio』、体の関係を持つまでに至る続編『hard day's night』、いちゃいちゃらぶらぶしてる『jealous guy』などがある。珍しいことにこのカップルの攻めは在日コリアンである。
『'O sole mio』と『jealous guy』では、攻めが在日であることはストーリーの主軸にはほとんど絡んでこない。民族が違うということよりも同じ夢を抱く音楽家同士であることの方が、この物語の中では圧倒的に比重が大きいのだ。
しかし、『hard day's night』の中ではそれらしいエピソードが挿入されている。演奏会の予定が突如キャンセルされてしまった攻め。晴れがましい仕事を一つ失った原因を、受けに問われた攻めはしぶしぶこう語るのだった。「オレ、在日やん」。BLで、差別に直面する在日の姿が描かれているのは大変珍しい。そもそも在日としてのアイデンティティを持ったキャラクターが登場するBL自体ほとんど見かけないんだけどね。
ところで、この物語の攻めは、大阪出身で関西弁を喋る陽気な男性だ。大らかで人懐っこい。阪神タイガースファン。長身、ガタイが良くて、美男子ではないけれど、受けから見れば十分に魅力的な容貌をしている。そして新進気鋭の指揮者である。実際、読んでいて、彼は魅力的な人物として描かれているように思った。なんとなく関東生まれ関東育ちな自分からすると良い意味で典型的な関西人という印象を受けた。
神経質で繊細、あまり感情表現が得意ではない日本人の受けは、自分と正反対の気質の攻めに惹かれていく。自分にないものを持っている相手を反発心を抱きながらも愛してしまうパターンというのはわりと恋愛物の王道だが、受けが攻めの才能に嫉妬をして苦悩したり、振り切ってもついてくる攻めに苛立ったり、励まされたりと感情をぶつけ合ううちに自分の恋心を認めざるを得ない展開になるというのは微笑ましくて良かった。
BL小説家、檜原まり子の作品の一つに『マリンブルーは密やかに』という小説がある。2008年、講談社X文庫ホワイトハートから発行された。舞台はアジア・オセアニアクルーズ中の豪華客船。そこに乗り込んだ保険会社から委託を受けた調査員の受けと、元自衛官の攻めのラブストーリーだ。
正直なところ、この物語の一番興味深いところは、ストーリーなどよりも受けの両親だと思う。
受けの母親は日本人の医師だった。そして父親は在日韓国人の寿司職人。両親が渡米して、一家がカリフォルニアにいたとき受けは生まれた。医師免許が認められなかった母親は畑違いの仕事をして受けを育ててくれたらしい。後に離婚したようだが、受けの両親の話こそ読んでみたいと思った。寿司職人と女医さん夫婦米国滞在記なんていろいろ波乱万丈なドラマがあって面白そうじゃん。
というわけで、本作の受けは間違いなく在日韓国人の血をひいているのだが、特に在日とか韓国に関するエピソードは出てこない。受けが韓国語を喋ったりキムチを食べるシーンがあるわけでもない。彼が民族的なコミュニティや朝鮮半島に思いを巡らすシーンがあるわけでもない。冒頭、地の文でさらりと受けの生い立ちが説明されているだけで、その後はとくに彼が韓国系であることには触れないまま物語は終わるのだ。
なら別に受けが在日の血を引くキャラクターである意味ってないのでは?と思わないでもないけれど、まぁ深い意味がなきゃ在日がBLに出てはいけないってこともないし、これはこれでいいのかもしれない。なんと言ってもこの作品の舞台はいろいろな国籍のクルーが働く豪華客船なのだから。南太平洋を悠々と航海する船上のキャラクターにちょっとしたマージナルな要素を付与したいと作者が思うのもわかる気がする。船長の喜屋武も、受けと同様にマージナルな人物である。米軍勤務の軍人を父に持つ沖縄出身の男性で、金髪碧眼という日本人離れした容姿だが自らを日本人だと主張する。とても珍しい韓国系の受けや、沖縄と米軍というデリケートなバックグラウンドを持つキャラクターが登場するという点において、このお話はなかなか印象深かった。
『うつしみの花』は、幻冬舎リンクスロマンスから2008年に出版された全2巻のBL漫画である。作者はタカヒサ亨。舞台は飛鳥時代の日本で、有名どころでは葛城皇子(中大兄皇子)、皇極天皇、間人皇女などが登場する歴史ロマンBLである。ちなみに中大兄皇子と受けがキスする場面もあったりする。
主人公(受け)は、百済からの渡来人で金工職人である実父を持つ美少年。攻めは、受けの父親の弟弟子で、乃楽山(ならやま)の麓に住む百済系渡来人であり以前は都随一と呼ばれた腕を持つ金工職人だった。受けが攻めの弟子となるので職人師弟ものBLであると同時に、渡来人と渡来人の子孫が出会って恋に落ちる物語なのである。
職人の村で修行をする受けは、師匠であり恋人である攻め以外の渡来系の職人たちとも交流を持つようになり、技術を磨いていく。いつか攻めの故郷である百済に帰還することを夢見るようになるし、自分たちの存在は発展させ続けていく技術に拠って立つのだという強い自負心を持つに至る。彼らのアイデンティティは明確に百済系渡来人であることにあり、ヤマトにはないんだなーと読んでいて思った。
日本が舞台なのにあえて渡来人のカップルを描くなんて随分通好み(?)だなと思う。こういうのは珍しくて面白い試みだ。同時に、ちょっと私の中の日本人としての感覚が一抹の寂しさというか疎外感を感じなくもなかったような……。この記事のテーマである在日と古代日本の渡来人はちょっと違う存在なのでこの作品には簡単に触れるだけにとどめるけれど、思いがけずヤオイを読んでいて自らのナショナリズムが浮上したという点で本作は印象深い作品だった。私が気にしすぎなだけだけなんだろうけれどさ。
もちろん、健気で頑張り屋な受けとクールで格好良い攻めは萌えたし楽しめた。
ところで、作者のタカヒサ亨は、角髪(みずら)に萌えてこのお話を描いたらしい。わかるわー私もみずら萌えです。特に青年の下げみずら姿は可愛くて良い。不評でなかなか描かせてもらえなかったとのことだが、残念だ。もっと見たかったよー。
ハテブやツイッター、増田2ちゃんねるでコメント下さった方ありがとう。せっかくだし嬉しかったので、いくつかのコメントにお返事します。
恐縮です。ありがとう。
自分のブログではこういう記事を出したことがないのでうまく書けるかわからなかったし、書いたとしてもこの記事だけ場違い感がぷんぷんして浮き上がってしまうだろうと考え増田にしました。悲しいことですが、BLも在日も荒れやすい話題ですから。
私は金蓮花の初期の作品が好きでここ7~8年の著作は読んでないのですが、作品だけじゃなくて作家自身も本当に興味深いなと思ってその動向は注目しています。ラノベ界でも稀な在日外国人であることを明かしている作家さんですよね。まして日本と関係が良好でない国を祖国に持つ人ですから、日本社会で生きる彼女自身、悲しみや自負心を含め複雑な感情はあったんじゃないかなと想像しています。日朝首脳会談が開かれ拉致問題が発覚した2002年、この年に発売された『伽椰琴打鈴』を最後に、彼女の著作の中で一番‘朝鮮’を押し出している銀葉亭茶話シリーズが発行されていないというのは、偶然かもしれないけれどなんとなく象徴的に見えたり……。
確かに文化が違う、価値観や倫理観が異なっている、と強く感じる点はいくつかありましたね。面白いなと好ましく思う相違もあれば、モヤモヤする思いを抱える相違もありました。私の場合、女性の描かれ方や女性の置かれた立場というのが結構気になりました。『蝶々姫綺譚』で、女性が子を成さずに死ぬのは罪である、罰として死後の世界で償わなければならないという設定には、儒教をベースにしたファンタジーだとこうなっちゃうのか、とびっくりしたなぁ。日本や日本よりフェミニズムの強い欧米発のファンタジーじゃそういう設定ってないでしょう。まぁ、当時の価値観を反映させた設定であることが良いという考えもあるとは思いますが、現代女性としてはファンタジーとはいえその世界の女性は生き辛そうだなという感じたのも事実でした。
ネットで読める作品もるし書店や図書館に置いてある作品もあります。個人的に、興味や関心の度合いが在日>BLという人よりは、BL>在日の人の方が楽しめるとは思いますが。
全然関係ないけど、最近アメリカのスラッシュが翻訳されて日本の書店の店頭に並び始めましたよね。日本語で海外スラッシュが読める日が来ようとは思わなかった。嬉しい。
皆さんがどなたをイメージしているのか興味あるなー。私は弱小ブログを書いてますが、Twitterはやっていないんですよ。
韓国人は日本人よりも情熱的、確かにそういうイメージありますよね。こんな記事書いといて言うのもなんですが、家族友人知人に韓国人や在日の人っていないんで実際そうなのかはよく知らないけれど。
確かに作品が面白ければ作家は関係ないというのは仰る通り。私も普段は書き手には興味がないんですが、今回は冒頭で書いた某サイトにはなんだか妙に感慨深くなってしまいまして。
創作の中のマイノリティ、本当に興味深いですよね。読み専なので創作の苦しみは知らないのですが、創作物にマイノリティを登場させる際書き手さんはやっぱり慎重になるんだろうなぁ。セクシュアル・マイノリティが登場するBLは殊にそういう姿勢を求められているジャンルですし。常に政治的に正しいお行儀のよいBLである必要はないと思うけれど、読者が引くような差別的な描写が垂れ流しにされてるBLは読みたくないと思います。私はまだガチでがっつり民族問題を盛り込んだBLというのは読んだことがありません。今後もそんな作品は出ないんじゃないかなと思うし、たとえ出版されたとしても読みたいとは思わないかも、と考えています。娯楽作品には悲惨な差別とか貧困とかの要素は求めていない性質で、どちらかというとイチャイチャ、ドキドキ、ワクワク、エロエロ、アマアマ、ラブラブって感じのノリの方が好きなんですよ。なのでフレーバー的な登場のさせ方や特筆されるような描写がなくても私はOKなんですが、作家がまったくその問題の背景に無知ではキャラクターの魅力的な属性にはできないわけですしね。作家は10調べたことのうち1を書く(100調べたことのうち1を書く、だったかもしれない)と聞いたことがあります。BLを愛する者の一人として、そういうBL作家さんが今まで以上にたくさん出てくれるといいなぁと願っています。
昨日hokusyuuさんの文をリンクしてたたき台にしたら怒られたので今日は地の文で書くようにしてみる
hokusyuuさんのは魔法少女まどか☆マギカ論と言うのは嘘で魔法少女一般論だから結論が違ったら本編が間違ってると言い張れるけどw、自分の話はまどか☆マギカにしか通じない
えーと構図から
QBとの契約に現れる世界は通常の世界が魔法の世界によって脅かされる世界
これを2重の円に例えると内側が日常の世界、外の大きい丸が魔法の世界、外側の円に存在する魔法的存在により脅かされる。
この2重の世界は神話的暴力により、普通の世界しかないひとつの円から発生するわけだ
ここで自分にわかりやすいように神話的暴力ををフーリエ変換と考える
つまり日常の世界をフーリエ変換するとフーリエ空間上に2重の世界が現れると考える訳だ
hokusyuさんのではフーリエ変換とかの世界を変換する力を神話的暴力としてる事になる、個々の要素をA→aに変換する操作
それに対してその操作する主体である神が行う、変換する操作自体を選んだり、捨てたりするメタな力が神的暴力になる
真の魔法少女はこのメタ操作をして変換自体壊してしまえと言う主張になります
で昨日書いたのはここに、大人/子供軸 を導入すると説明範囲が広がるよねという話
魔法の世界が児童画的に書かれてるのが理由ですが 大人(=コスモ)/子供(=カオス)と考えてもらったほうが分かりやすいですね
hokusyuさんのは円の中身には踏み込まなかったけど、ここで2重円の中央に大人(コスモ)をおいて、子供(カオス)を円の周辺方向に軸をとる
画像のフーリエ変換を行ったとき、フーリエ空間中央部分に周波数0が来るイメージですね
でその画像の真ん中あたりに境界を守る魔法少女の境界線がかける
まどか☆マギカの世界で対応させていくとコスモの中央はコスモ=ノモス(日常)とすると、まどかの家庭(家)にあたると思う
ここから離れるにしたがってカオス度が上がっていく、他の魔法少女に付き合って戦いに行くと一番端っこの境界線までいくことになる
だからまどかの家庭(家)の演出ではシンメトリーの構図が多用されコスモ秩序が記号として強調されるわけです
それに対して境界に存在する魔法少女がいるとカオスになり、秩序が破壊された不条理を強調する演出が多用されるわけです
また大人/子供とコスモ/カオスを同時に扱うことで子供から大人に向かう成長物語が立ち現れる事になります。
キャラクター一人一人のストーリーラインは大人に向かう少女の物語として現れます
魔女と戦う魔法少女たちは幼児的無規範な世界から規範のある大人の世界を守るためにも戦うともいえる
大人として不適格な行動をとった場合闘争に負ける、つーかもともと少女だから勝ちよう無いのだが
マミはまどか本人に無利益戦いに引き込みそれに依存しようとした、独立した大人にあるまじきことに
さやかは成熟した女性としての恋愛感情の解決に失敗した・・・らしい8話によると見てないからよーわからんが
ほむらは負けそうにないな、(大人性を強調してるし)子供なのに大人って変な話だなー
今考えると魔法少女になると年をとらないので大人の年齢なのに外見は少女のままなんだな、やっぱし大人にはなれないわけだ
だから成長物語としては規範を内面化し、幼児性を規制してりっぱな大人になると言う話になる
では目指すべき大人としてのモデルは何かとなるのだが、そこに出てくるのがまどかの母である
テレビの人おまけにTVの世界で権力闘争までやってるスーパーウーマン
うんちょっとモデルとして問題あると思うよ
つまり、まどか☆マギカとは非情なサバイバルを生き抜いて大人になる訓練をして大人のせかいのサバイバルをする話だったんだ、ええーなんだってー
いや言いすぎだけど、時々そういう説明みるけど
まどかが神的暴力を振るうとき大人の階段をひとつ上ると言うストーリーラインが用意されてるとはいえると思うんだ。
と言うことで終わります
俺なんかに落とされた人、ご愁傷様と言いたいところだけど、
駄作が残ることはあっても、傑作が落とされることはないって言葉は本当なんだと実感したよ。
その上で感想。
勘弁してくれってパターンをいくつか。
小説の書き方とか応募の仕方なんてサイトに載ってることばっかりだけど。
1.応募規定を読んでいない
問題外。
場合によっては最初からそういうのは下読みにも回されないらしい。
必要なものが揃ってないのは、テストで名前書いてなかったら0点というのと同じ。
逆にプラスアルファされてても、それは規定にない「余計なもの」であって加点対象じゃない。(ぶっちゃけただのゴミ)
設定帳(イメージ画)付属、というのは、登場人物のイメージや世界観などの設定を本編で読者に理解してもらえない、勝負できない作品である証拠、としか見られない。
大抵、物語開始直後から設定説明の地の文が延々入ったりして読む気がしないパターンとセット。
(設定帳やイメージ画がなくてそのパターンのものも珍しくないけど、特に興味のないWikipediaの項目を読まされてるようで苦痛)
誤字脱字とか、てにをはの明らかなミス(修正し損ね)程度はスルー。
そういうのを除外しても本当に多い。
なんで推敲しないんだろう。
応募前に誰かに読んでもらったりしていれば、少しは違うはずなのに。
特に、知らないとか間違っているというものは問題外として、わざとやってるらしい人。
独特の文体、と思ってるのかもしれないけど、文章作法守ってないのは単に知らないだけの人と同類にしか見られないからね。
作者の特徴ではなくただの邪気眼、失笑されるだけと思っておいてOK。
3.文体その1(人称、物真似)
2.と合わせ、「お前、逃げで一人称にしてるだけだろう」ってものが多い。多分間違ってないと思う。
影響を受ける作品はあるだろうし、今時の流行のスタイルを狙ってというのもあるだろう。
でも、異様なまでの似非キョンと似非西尾維新率の高さを見ると、お前ら単に自分のスタイルが出来上がってないだけなんじゃないか、と感じてしまう。
何でも最初は人の真似から入るものではあるけども、それって習作って言うんじゃ?
こっちは~真似てる、こっちは~真似てる、とか。
っていうかさ、三人称で書けないだけだろお前ら。
それから、逆にスレイヤーズのスタイル(テキスト弄り系)を未だに踏襲してる人。
最近出版されているものの中にも、あのスタイルの作品は確かにあるけど、新人賞ではもうありえないってよ。
確かに初見の若年層にはインパクトあるだろうし、テクニックと言い切られてしまえばそれまでではあるんだけど。
スレイヤーズ第一巻(古いほう。新装版は知らない)の編集者コメントだったかなんだかのページでも「やったもの勝ち。このスタイルのものが賞をとることは今後ありえない」と明言されてるのを俺も見たこと覚えがある。
(少なくとも富士見の場合はってことだし、十何年も前の話であることを差し引いても、今は応募作品のスタイルとしてありえない)
4.文体その2(独り善がり)
俺の担当になった応募作品の中にはなかったけど、当たった人から聞いた話。
文章表現に悪い意味で拘ってる(ブンガクしたい)らしい人が時々いる。
単体の文の言い回しに拘り過ぎて、個々の文の見てくれはいいけど、読みづらいだけであることが殆ど。(似非西尾維新もこれに当て嵌まるのかも)
カッコイイと思う文章、芸術性を見出そうとするのはいいけれど、エンターテイメント性を損なってたら本末転倒。
ちゃんとした文章だから一次はまず間違いなく、二次も大方通るだろうけど、三次であっさり蹴られる。
要は文章にしか目が行ってなくて、内容(ストーリー、テンポなど)がつまらないわけだから、他に持って行っても結果は同じ。
自分の文章のほうがうまいのに、何故あいつが受賞するんだ、と言っている高尚厨が必ずいるが大抵このパターン。
大抵同じタイプの人間で群れて他者の文章を貶し、互いのセンテンスを褒めあっている。