高専を卒業して20年近く。ずーっと設計構築を仕事としてきた。大手メーカーのソラリスサーバーから零細の無線ルーターまで。いろいろ。
やっぱり合わない人はいて、合ってる人でも自分ほど長くはいない。みんな辞めていった。で、いいことかわるいことかわからないのだけれども、結局僕はずーっと同じ職場にいる。たぶん、僕が抜けると残った人たちはそうとう面倒くさいことになるんだろうとは思う。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110221/218527/
この記事を見て、この手の数字をはじめてみたように思った。たかだか全世界で一兆五千億程度の市場なんだ。トヨタ自動車どころかヤマダ電器並だ。
この時期になるとひどい短納期で依頼がくる。仕方がないので納品できるように手配と作業をする。担当営業は頼むときはあんなに腰が低かったのに、納品時は居丈高に「大丈夫なんだろうな」とか言う。大丈夫じゃなければ持ってこない。それは僕の自負だ。
納期について、手配について、金額についてなにか言うと「営業は楽じゃない。そっちのほうがずっと楽だ」という。僕はあなたの仕事は楽そうですね、なんて言ってもないし、思ってもない。
最近、したいことができたので、退職しようと決意した。行き詰ったときには実家に帰れば家族を養うには困らないだろう。
僕が抜けると面倒くさいと思うけど、そんなのは3週間もすればなれると思うよ。でもたぶん2週間もすれば僕の顔なんて忘れちゃうんだろうけど。
少しだけ、不謹慎なことを書きたいので増田で書きこませてもらう。
私は、人をいじめるのが好きだ。
気持いいと思う。
人をいじめている人の表情が好きだ。
ちっぽけだとか、歪んでるとか思わない。
本当に輝いていると思う。
威張り散らしたり、得意げになっている表情が好きだ。
でも、これって私だけではないと思うんだ。
真剣になりて竹もて犬を撃つ小児の顔をよしと思へり
生き物全般に行う行為なんだもん、人間だって本能に刻まれてるはずだ。
もちろん、社会悪だとは思うよ。
性欲を肯定するからといってレイプを肯定するわけじゃないように。
他人をいじめることが気持ちいい行為だとは認めても、普通の人にくらべて、他人をいじめた経験自体はかなり少ないほうである自信がある。
ちょっと話がループするが、私は怒ってる顔も好きだ。
叱りつける表情が好きだ。
両親は
「犬だって叱ればシュンとするのにお前は叱るとニコニコしてた」
と言っていた。
悪事に対するまっとうな批判まで、「叩き」の名のもとに禁止されるっておかしいだろ。
かと思えば女叩きみたいな真に「叩き」と呼ぶべき非道な言論はスルーされてるっていう。
結局強い者、声の大きい者に従ってるだけじゃないのか。
実際のとこ、生まれた瞬間に大体決まるってことになるんじゃないか?
小学校というのは優秀な人間を選別するところ。小学校に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
小学校自体が優良な人間の選別装置なので、小学校教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
世の中こういうものだと思っておけば、いかなる低偏差値小学校でも乗り越えることができると思う。
おい、お前ら。コレで満足か?
今年の誕生日で父が定年を迎えた。(ちなみに60歳定年制の会社)
定年後も再雇用でそのまま職場も変わらずだけど、慰労会を開いてもらったとかでお礼状を書くことになったり、
年金事務所に手続きに行ったり書類を書くことがあったりで家族が駆り出された。
父は世代にしても珍しい字の汚い人のためもあるけど、
子どもに甘えたいのか「お礼状のあて先を書いて欲しい(文面はPC作成で印刷のため)。数は130」と頼まれた。
自分はデジタルネイティブな世代でもなく、こつこつ文通したり、部活でOBOGに手紙を書く機会があったので
数はそれほど苦ではなかった。
年金関連の書類も本人がサインしなくてはいけない所は除いて、現住所とかちまちま書いた。
そうすると本人が今まで言わなかった仕事をする父が浮かび上がってきた。
箇条書きにすると、
いわゆる団塊の世代で学歴が重視された世代としては上手くいった方の経歴に入る。
しかし、実際には高卒であることから入社した大手石油メーカーでは夜勤のあるシフトで
朝起きて夜寝る(そして三食後毎に●する)リズムの体であった父には相当なストレスであり憂さ晴らしに賭けごとを覚えた。
そしてまだ縁故の力が強かった時代ゆえ、とある私鉄に親戚のつてで入社する。
駅員さんではなかったが駅ビルなど設備関連の仕事なので、夜勤がたまにあったが本当にたまにだった。
そしてこの頃、母とお見合いし結婚する。(当時母と共稼ぎであったが母が私を妊娠すると母は仕事を辞めざるを得なかった。時代の問題)
やはり「高卒」だと限界があり、どんなに仕事ができない人でも「大卒」というだけで昇進していく。
徐々に父は荒れることが多くなり、子どもにしつけだといいながら柔道の絞め技をかけて戻させたりしてきた。
そしてパチンコにはまり、周囲から借金をし結局総額1000万程になった。
母は家計を何とかやりくりし、借金を返済したが嘘をついてお金をパチンコに使う父に愛想を尽かし、
もし祖父(父の父)が認知症で徘徊したりしなければ実家に帰っていたと思う。
今も父と母はあまり直接話さない。
でも1時期は子どもを通信役にしてしか会話しないので本当に兄弟で迷惑した。
いまだに嘘ついてパチンコに行くし、家族が付き添わないと持病の糖尿病の治療にも行かないけど、
歳を考えればそれなりに元気だと思う。
全く相手にされていないことが興味深い。
高校というのは優秀な人間を選別するところ。高校に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
高校自体が優良な人間の選別装置なので、高校教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
大学というのは優秀な人間を選別するところ。大学に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
大学自体が優良な人間の選別装置なので、大学教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
博士課程というのは優秀な人間を選別するところ。博士に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
博士課程自体が優良な人間の選別装置なので、大学教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
世の中こういうものだと思っておけば、いかなるブラック研究室でも乗り越えることができると思う。
自分は無能であるという罪を負っており、罪をあがないながらでなければ生きて行くことが出来ない。そのあがないが研究なのだ。だから、研究は辛く苦しくて当然なのだ。
昨日hokusyuuさんの文をリンクしてたたき台にしたら怒られたので今日は地の文で書くようにしてみる
hokusyuuさんのは魔法少女まどか☆マギカ論と言うのは嘘で魔法少女一般論だから結論が違ったら本編が間違ってると言い張れるけどw、自分の話はまどか☆マギカにしか通じない
えーと構図から
QBとの契約に現れる世界は通常の世界が魔法の世界によって脅かされる世界
これを2重の円に例えると内側が日常の世界、外の大きい丸が魔法の世界、外側の円に存在する魔法的存在により脅かされる。
この2重の世界は神話的暴力により、普通の世界しかないひとつの円から発生するわけだ
ここで自分にわかりやすいように神話的暴力ををフーリエ変換と考える
つまり日常の世界をフーリエ変換するとフーリエ空間上に2重の世界が現れると考える訳だ
hokusyuさんのではフーリエ変換とかの世界を変換する力を神話的暴力としてる事になる、個々の要素をA→aに変換する操作
それに対してその操作する主体である神が行う、変換する操作自体を選んだり、捨てたりするメタな力が神的暴力になる
真の魔法少女はこのメタ操作をして変換自体壊してしまえと言う主張になります
で昨日書いたのはここに、大人/子供軸 を導入すると説明範囲が広がるよねという話
魔法の世界が児童画的に書かれてるのが理由ですが 大人(=コスモ)/子供(=カオス)と考えてもらったほうが分かりやすいですね
hokusyuさんのは円の中身には踏み込まなかったけど、ここで2重円の中央に大人(コスモ)をおいて、子供(カオス)を円の周辺方向に軸をとる
画像のフーリエ変換を行ったとき、フーリエ空間中央部分に周波数0が来るイメージですね
でその画像の真ん中あたりに境界を守る魔法少女の境界線がかける
まどか☆マギカの世界で対応させていくとコスモの中央はコスモ=ノモス(日常)とすると、まどかの家庭(家)にあたると思う
ここから離れるにしたがってカオス度が上がっていく、他の魔法少女に付き合って戦いに行くと一番端っこの境界線までいくことになる
だからまどかの家庭(家)の演出ではシンメトリーの構図が多用されコスモ秩序が記号として強調されるわけです
それに対して境界に存在する魔法少女がいるとカオスになり、秩序が破壊された不条理を強調する演出が多用されるわけです
また大人/子供とコスモ/カオスを同時に扱うことで子供から大人に向かう成長物語が立ち現れる事になります。
キャラクター一人一人のストーリーラインは大人に向かう少女の物語として現れます
魔女と戦う魔法少女たちは幼児的無規範な世界から規範のある大人の世界を守るためにも戦うともいえる
大人として不適格な行動をとった場合闘争に負ける、つーかもともと少女だから勝ちよう無いのだが
マミはまどか本人に無利益戦いに引き込みそれに依存しようとした、独立した大人にあるまじきことに
さやかは成熟した女性としての恋愛感情の解決に失敗した・・・らしい8話によると見てないからよーわからんが
ほむらは負けそうにないな、(大人性を強調してるし)子供なのに大人って変な話だなー
今考えると魔法少女になると年をとらないので大人の年齢なのに外見は少女のままなんだな、やっぱし大人にはなれないわけだ
だから成長物語としては規範を内面化し、幼児性を規制してりっぱな大人になると言う話になる
では目指すべき大人としてのモデルは何かとなるのだが、そこに出てくるのがまどかの母である
テレビの人おまけにTVの世界で権力闘争までやってるスーパーウーマン
うんちょっとモデルとして問題あると思うよ
つまり、まどか☆マギカとは非情なサバイバルを生き抜いて大人になる訓練をして大人のせかいのサバイバルをする話だったんだ、ええーなんだってー
いや言いすぎだけど、時々そういう説明みるけど
まどかが神的暴力を振るうとき大人の階段をひとつ上ると言うストーリーラインが用意されてるとはいえると思うんだ。
と言うことで終わります