はてなキーワード: 地の文とは
いわゆる台本形式のSSにあるジャンルの一つとして、王様とか出てくる中世ぽい世界観のテンプレRPGファンタジー?的なやつあるけど、
あれって地の文を書き足したらなんか新しい感じのラノベになるんじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20161016233556で言われるような転生とかの要素はない場合が多いし、いわゆる最近のラノベの殻を破れんかなあと。
かなりジャンル全体で共通点は多いといえども、あるSS独自のかなりすごい世界観みたいなのが用意されてる場合も多いし、せっかくそういうのが作られたのならラノベに昇華扠せられないかなあと思う。まあすでにラノベに似た作品はあるんだろうけど、あのジャンルの独特の雰囲気的なものがなんか好きだ。
「いなくなった私へ」と「青の数学」を読んだ。どちらも軽快に読み進められたので満足でした。
まずは「いなくなった私へ」の感想。言葉は悪いけれど。凡庸な文章だなって思った。とても読みやすかったんだけど、はっと目を見張るような文章ではなかった。見方を変えればくどくどしさも嫌みなところもない中庸な文章だといえると思う。
登場人物の年齢や、現代が舞台の青春小説であることもあって、小説すばる新人賞に応募する作品に雰囲気が似てる気がした。高校生や大学生なんかにおすすめかもしれない。
この小説は生まれ変わりの物語なんだけど、読書中になんども異世界召喚ものの主人公について思いをはせてしまった。
ほとんど読んだことがないのにこういうことを書くのもあれだけど、異世界召喚物の作品って、体感したことがなかったり、知り合いが誰もいない世界に急に放り出されるのに、結構簡単に状況を受け入れちゃうのが多い気がする。
もちろん、帰れないことや変える方法に主題を置いた作品もあるんだろうけど、人生をやり直そうって思えるところや、やるしかないと腹をくくれるところがすごいなって読んでもないのに勝手に思ってしまった。
「いなくなった私へ」は、現実世界に生き返るんだけど、死んでしまった自分から生き返った自分が切り離されていて、誰からも同一人物と認識されない苦悩がじっくり描かれていたから、余計に異世界召喚物の主人公のことを思ってしまった。
内容でちょっと不思議に思ったのは、どうして樹まで転生してしまったのかってところ。梨乃の血を浴びたからなんだろうけど、梨乃の死体を検視した人も、場合によっては転生してしまうんじゃないのかな。
検死官は地に直接触れないから大丈夫なのかな。あるいは作中にあったように、理不尽な死に対してしか転生減少は発生しないのだろうか。ちょっと気になる。
悪人役以外どの登場人物もすがすがしい精神の持ち主だったので心安く読み進めることができた。三人の現状を考えるとビターな終わり方だけど、しんみりしながらもどこか爽快感もあるのが素敵。優しいミステリー小説になっていた思う。
次「青の数学」の感想。当たり前のように続き物だったのが悔しい。けど、数学を取り扱った小説はSF以外だと初めてだったので新鮮で面白かった。
この小説は文章がちょっと不親切だと思う。過去の回想への導入とか、誰目線の心象なのかとか、不明瞭でちょくちょく手が止まってしまった。
また登場人物がどういうわけかうすぼんやりと感じられて、地の文に名前が出てくるんだけど、誰だこいつってなることが多かった。特にキフユが誰のことを指しているのか、随分と進んでからじゃないと気がつかなかった。
ジャンクフードを食べるように読んでいるのも問題だとは思うんだけど、なんかわかりにくい文章だった。
また全体的に透明な文章になっていたと思う。タイトル通り。青く透き通ってるんだけど、情緒に訴えるところが弱い気がする。独特の読書感を与えてはくれるのだけれど。
内容としては、本当に続刊ありきの終わり方をしているので、中途半端だなあって思った。数学バトルの場面や、数学の先に見える風景など、見せ場はあるんだけど、しっかり着地してないのが残念。
ただ、高校までの数学に対する決められたルールの中でパズルを解くようなものだっていうのには強く首肯してしまった。感覚的にわかっていたことが言語化されると気持ちがいいのです。
よくない気がしたところばかり書いたけど、恋に挫折に挑戦にと、静謐な筆致ながらもこれからますます盛り上がりそうな展開なので、続刊に期待です。
それだけ読解力がないと日常生活にも支障をきたすレベルかと思うが一応解説するぞ。
まず「書いてた」のが、超越的な三人称書き手による語りなのか、それとも登場人物に擬した一人称語りなのか、それによって違う。
おそらく後者と判断するが、前者の場合「事前定義」という言い方でもいいが、小説で多く用いられる後者の場合、一見定義に見える地の文は実は一人称語り手自身の心情描写だ。
芝居のト書きで「この人物は主人公の単なる同級生である」と書いてあるなら「事前定義」だが、お前の友達が会話中に特定の同級生のことを話題にして「まあ、ただの同級生なんだけどね」と言ったならそれは「事前定義」ではなく彼個人の心情の表現だ。分かるか?
さらにそれが「散々書いてた」という。この時点でもう気付きたい。
「ただの一同級生に過ぎない」というのが真なら、その同級生のことばかり何度も言及するのは不自然であり、明らかに矛盾する。ゆえに「ただの同級生」という発言は偽。
だが、一人称語り手が積極的に偽の情報を語るモチベーションがない(示されていない)。よって「自分で自分の感情に気付いていない」ことを表現していると推察できる。
自分で自分の感情を押し隠す理由としては、恐怖、嫌悪や羞恥など自分が負と感じる状態に陥ることから自分を守ろうとしてあえて正視するのを避けている感情があると推測できるだろ。
「同級生を見て」「急に動悸が」と書いてあるんだから、「走ってきたせいやろ」という理解がいかに不自然で読解力に欠けた読みか気付こう。走ってきたなら
・走った→動悸がした→見た
だろうが。だが、
・走った→見た→動悸がした
とわざわざ書いてあるんだから、間の可能性をすっ飛ばして「走った」と「動悸」を結びつけるのが無理ありすぎるだろ。先の言及状況と併せて考えてみても、素直に「同級生」が理由と考えるべきだろ。
なんというか、増田個人が青春恋愛状態と距離を置くのは勝手だが、「そうあってほしい」という自分勝手な願望で周囲のさまざまなフラグを片っ端からへし折って読むべき文脈を全部無視してるだけだろ? 一般に存在する青春やら恋愛やらの感情からいくら目を背けようとしても、一般に理解できて当然な文脈とか行動が読めない人間扱いされて、この先社会との距離が開く一方だぞ。もう少し他人の感情や行動原理に興味をもち寛容になった方がいい。つーかそれ自分が非コミュであることから発生する問題が現代文の問題によって露呈しただけだろ。それを現代文の問題にすり替えたところで問題は何一つ解決してないからな?
ルガルギガムを読み終わった。回収されない謎もあって、上下巻で完結する内容じゃない気がした。
特徴的なキャラクターはいるのに揃いも揃って掘り下げ方が物足りないし、主人公は振り回されっぱなしだし、ヒロインとの関り合いばかりが描かれててイライラした。
そらさ、主人公とヒロインの関係って重要だと思うけどさ、それだけじゃ面白さが足りないよ。
加えて何より辛かったのが、文体。ライトノベルに多い気がするんだけど、地の文に口語文がぶち込まれまくっているのが気になった。
効果的に使えれば文章にメリハリが出るんだろうけど、テンションが高いだけで個人的に大部分が滑ってたように思う。好き嫌いがあるところだからあれだけど。
三巻か四巻くらい使って描けたらもっと良くなってたのかもしれない。もったいない作品だなって感想だな。
ライトノベルといえば世界の終わりの世界録〈アンコール〉もこの前読んだんだけど、こいつはあれだね、スーファミ世代のスクエニRPGを小説にしたやつだったね。
読んでてすっごく血肉がたぎるって作品じゃなかったけど、RPGツクールで作った大作ゲームのシナリオを読んでる気分で楽しかった。
agathonだ。この記事の件だ
安倍首相が「保育所」を「保健所」と誤読 共産・小池政策委員長「お疲れなのかなあという感じを受けたが、疲れたで済まされる話ではない」 (産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160311-00000532-san-pol
「首相には子供がいない」というのは産経新聞がつけた地の文で小池議員の発言ではないことはわかっているよな?
産経新聞は“「こういう問題で苦労していたら、あまりああいう言い間違いはしない」と語り、「耳を傾けたこと」の部分を省いて”というアクロバティックな言いがかりをつけている。誤読を批判するよりよっぽどひどい。
ブコメに参院予算委員会中継のURLも貼られているので念のためにコピペする。安倍首相の保健所発言は1:18:37あたりからとのこと。貼ってくれたzions氏に感謝する。おいらは氏とは考えが違うが氏はよくいい仕事をする
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/detail.php?sid=3502&type=recorded
小池議員を批判している連中に質問する。お前らは本気で小池議員が首相には子供がいないことを批判していると思っているのか?それとも騙されたふりをして小池議員や所属政党の共産党を批判するデマを流しているのか?どっちだ?
確か五月の傾斜って小説で、剣道部所属の主人公がなんやかんやする話
問題に書かれていた本文は剣道部一年生の主人公が、次の大会(三年生にとっては最後の大会)に出させてくれと、自分より弱い三年生の先輩に直談判してるシーンだった。もちろん先輩も最後の大会だからと言って譲らないのでお互い冷静ながらも言い合いをしていた
俺がもやもやしてる設問は「棒線1の時の主人公の気持ちを答えろ」みたいなやつ
棒線1の部分は主人公が先輩に出場を辞退してくれと頼むけど先輩も引かないという会話文の後の「頬にあたる風が温かった」という地の文
情景描写が主人公や登場人物の心を表しているってのはよくあるだろうし
例えば心機一転新しい場所で生活を始めた主人公が部屋の窓を開け、「太陽が眩しかった」みたいな文があったら「前向きな未来に心が弾んでる」とか書けるかもしれないんだけど、あくまでそれは主人公が前向きな気持ちを持っているとわかる文が前後にあるからであって、言い合いのシーンでほとんど会話文なのに主人公の気持ちって何?と思った記憶がある
だからなんだって話なんだけど、なんか中途半端に思い出したからもやもやする
今更だけど正答例が知りたい
増田でしかできない、増田だからこそできる話をしようと思う。「苦しんでいる人はこういうふうにがんばって」というよりは、苦しんでいる頃の私がもしこういう文章に出会っていたら少しは救いになったのかも、という話。
もう大分長いこと、二次創作を続けている。絵を描くのも文章を書くのも、どっちも昔から好きだったけれど、私は文章を選んだ。生まれて初めてWebサイトを作ったのが小学六年生のとき。当時PCは高級品で、クラスでも家にPCがある子は少数派だった。内気で友達の少なかった私は定年退職した祖父のPCを(怒られながらも)使って、二次創作にのめり込んでいった。オリジナルも書かなかったわけではないが、余程の技量がない限り誰にも読んでもらえないオリジナルより、多少拙くとも萌えさえあれば読んでもらえて、反応がもらえる二次創作が好きだった。続けるうちに、友達が増え、引っ込み思案な性格も徐々に変化していった。二次創作は私の承認欲求を満たし、自己肯定感を与えてくれた。Web拍手の解析ページに毎日毎日アクセスし、コメントが来ていると飛び上って喜んで、ますます執筆に入れ込んだ。筆が早い事もあって、評判は上々だった。
ところが、書いても書いても全く反応がもらえない時期が訪れた。どんなに心を砕いて、言葉を尽くして、魂を込めて書いたところで感想が来るどころか読んでももらえない。つらかった。本当にしんどかった。マイナージャンルのマイナーカプ、しかも地の文濃いめのシリアス。負け戦なのは分かっていた。それでも誰かに届けたくて、この熱い思いを分かち合いたくて、書き続けた。しかし、変わらず反響は無い。毎日欠かさずチェックしていたアクセス解析を見る事もできなくなった。あるとき完全に心が折れた。半年かけて書き上げた本が、全く売れなかった日のことだった。サイトを倉庫化してpixivからも姿を消した。悔やんでくれる人さえいなかった。私は途方に暮れた。
しばらく経って、私はアクティブな書き手が自分しかいない古いジャンルカプにいた。楽しかった。感想の数なんか気にしなかったし、アクセス数すら目に入らなかった。実際に、長い間やっていたのに反応はほとんどなかったし、pixivに上げたところでブクマなんか付かなかった。それでも私は楽しく書き続けた。のびのびと、「部屋中にらくがきをしていいよ」と言われた子どもみたいに、好きなものを好きなだけ書いた。
書くのが楽しくなってくると、もっと良い文章を書きたくなって、トレーニングの一環として詩を書き始めた。その頃、実生活でもいろいろと変化や発見があり、詩にすることには事欠かなかった。はなから誰にも見せないつもりだったので、私は自分のためだけに言葉を紡ぎ続けた。言葉は溢れて、私はいつも言葉の渦の中にいた。
それから、勉強。「ホモ小説を書くのに、なんで勉強?」と思われるかもしれないけど、現役大学生の頃に難しくて放り出した本をもう一度読んでみると、面白いほどするすると頭に入ってきた。難解な本を読んでいると脳がぴりぴりと痺れるような感じがして、アイディアが次々に湧いてきた。レヴィ=ストロース『神話の構造』、キャンベル『千の顔をもつ英雄』、ベンヤミン『複製技術時代の芸術』、バシュラール『空間の詩学』、ユング心理学など。映画もたくさん観た。コメディからサスペンスまで、代表的なものをひととおり。物語の骨組みを分析し、レビューや批判にも目を通した。
本や映画、実生活から小説の種を見つけ出してはつぶさに書き留めた。2,3も合わせればすぐに1本書けた。ジャンル原作に関連する情報を求めて国会図書館に赴き、英語の情報を辞書片手に必死で読み込み、舞台となった街をこの目で見たくて海の向こうへも出かけて行った。どっぷりと原作世界に浸り、原作世界を愛し、原作世界に遊んだ。誰にも構われなくても、誰にも褒められなくても、こんなに楽しく幸せなことは他になかった。
そんな紆余曲折があって、現在、比較的人口の多いジャンルにいる。今も変わらず、感想も反響もアクセス数もブクマも全く気にならない(もちろん、あればすごく嬉しいけど、以前のようにはいちいち心配しないという意味で)。すると、私の小説を好きになってくれる人が徐々に現れ始めた。風化しつつあったメールボックスに熱のこもった感想メールが連日届けられ、そこには「○○さんの本は宝物」「○○さんのABが一番好き」「何度読み返したか分からない」「読んでいると幸せ」「○○さんは私の神様」など、およそ信じられないような言葉がたくさん並んでいた。なんだか「幸運のネックレス」みたいな話だけど、実際に私の身の上に起こった話だ。
そして、それはおそらく、誰よりも私が私の作った本を宝物のように思っていて、私の書くABが一番好きで、何度読み返しても飽きなくて、読んでいると幸せで、私の世界では私が神様だからだ。……と、自分では思ってる。私は技巧や内容云々というより、時間をかけて心を込めて書いたというだけで、自分の文章を我が子のように愛することができた。
私を"感こな"の暗闇から連れ出してくれたのは、「書いても書いても読まれることさえない」経験、「何物にも囚われず楽しく書きまくった」経験、それから地道なインプットの積み重ねだった。誰かに見て欲しくて認めて欲しくて藻掻く日々から抜け出してみると、枷が取れたように心と体が軽くなって、自分の書くものを初めて自分のものにできたような気がした。そして思うのは、「苦しみたくないから、誰からの評価もジャッジも受けない」と引きこもるのではなく、苦しみながらも書き続け、晒し続けることを選んで本当に良かった、ということだ。私の場合、その過程を経たからこそ、「苦しまずに書き、楽しく共有する」現在がある。
文章(絵)がうまくなりたい、感想が欲しい、自萌えできるようになりたい、褒めてもらいたい……二次創作に限らず、そんな欲求に苦しめられて創作を心から楽しめなくなってしまう人は少なからず居るはずだ。そんなときは一度、思い切ってそれらの欲求を手放してみて欲しい。つらく寂しい道だと思うかも知れない、けれどそれはきっと「つくること」のごくごくシンプルな楽しみへとあなたを導いてくれる、そういう明るい道のはずだから。
ファイ!
◇青二才 「最近の若い奴はくだらない。 重さが大事なんだよ重さが!」
http://anond.hatelabo.jp/20160202142213
正しいか間違ってるか、見やすいか、醜いかの問題じゃないんだよ!
重さがないんだよ、重さが!!
自分の地の文なり、書きたいことなり、もがいてる部分が見えてこない人間のブログが面白くないのは、重さを感じないからなんだよ!!
◇ただの通りすがり 「それただの中年太りじゃん。己の醜さを自覚できない豚はやだね(笑)すっかりはてな色に染まった中年太りブロガー(笑)」
http://anon.isc5.com/2016/02/rougai-naranai.html
重さって、単に長く生きてますっていう話であって
あまり変わらないと思う。
色に染まっていないって話とたぶん同じ系統の個性のなさだと思う。
実際には個性がある。
もう、誰が書いても一緒な記事書くようなブロガーは消えろよ!!ほんと目障り
ブクマしたくないからツイートで。いや〜学生がこれ書いてるということを知って「君は恵まれてるんだね」という哀れみしか湧かない。とりあえず、僕から言えることは「わかったような口を利くな」
いつか記事タイトルを読ませてもらった結果から言わせてもらうと典型的な「意識の高い学生」ですね。おまけに中途半端にブログノウハウかじってるからどの記事も既視感を覚えます。僕がとても嫌いなブログ
言いたくないけど、なんで最近の大学生ブロガー、社会人1年目ブロガーってこんなに個性ないんだよ!!
個性があって、好感が持てる大学生ブロガーがエアロビのインストラクターしてる女の子ぐらいってどういうことだよ…10人以上見てるけど、その子だけじゃない?個性と実力の両面で評価できるブログ
正しいか間違ってるか、見やすいか、醜いかの問題じゃないんだよ!
重さがないんだよ、重さが!!
自分の地の文なり、書きたいことなり、もがいてる部分が見えてこない人間のブログが面白くないのは、重さを感じないからなんだよ!!
人は私を老害と呼ぶかもしれないけど、若者にはくねくねを求めたいし、くねくねしなくなった若者に軟弱になったねと言っちゃうおっさんの気持ちが分かり始めてきてる26歳男性が僕です— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 2月 1
http://tm2501.hatenablog.com/entry/2016/02/01/223000
若者にたいして真摯なアドバイスを発し続ける、圧倒的な個性と実力にあふれた青二才大先生が書いた今日の素晴らしい記事です。
フォロワー数4000overをほこるtwitter上で3回も宣伝しているのに未だにはてブがセルクマのみ。
にもかかわらず若者が書いた無個性で実力が伴わないつまらない記事に大先生より多くのブクマが付いています、
おかしい、こんなことは許されない。
ラノベ原作アニメとしてはキャバルリスクの被りっぷりが話題になっているけども、鎌池和馬原作『ヘヴィーオブジェクト』の酷さも相当なものであると思う。
ヘヴィーオブジェクトのアニメを見た、まともな人間はこう思うはずである。
喋りすぎだ、と。
この点に関しては、同原作者による禁書目録の主人公、上条さんの長台詞=説教を参照して「鎌池だから仕方ない」という意見が少なからずあるようだ。
しかし俺は、上条さんの説教は「味」として楽しむことが出来るのに対して、ヘヴィーオブジェクトの長台詞は単に冗長なものとしか思えない。
本稿は、上条さんの長い説教は「アリ」なのに、ヘヴィーオブジェクトの長台詞は「ナシ」なのはなぜかということを考察するものである。
ちなみに俺は禁書目録は数年前に十数巻あたりまで読んで、ヘヴィーオブジェクトはアニメ3話まで観てから原作1巻の該当部分を読んだだけなので、思い出補正とかが作用している可能性は大いにある。
ヘヴィーオブジェクトアニメ3話までで最も問題になるのは、2話の「お姫様救難信号出してるのに長々喋りすぎ問題」と、3話の「敵基地に潜入してるのに大声で喋りすぎ問題」である。
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ヘイヴィア「だったらお前は、あのオブジェクトと戦えんのかよ! あの化物にたった一人で立ち向かって、お姫様を助けだすとかそんなのできたら最高だよ!! でも実際にどうにかできんのか! えぇ!? 人間なんか、レーダーに補足された瞬間に塵になっちまう。もう俺らに出来ることなんかねぇんだよ」
クウェンサー「あのお姫様は、そんな化物と戦ってくれてたんじゃないのか? 大の男がこれだけ集まっても震え上がるような、照準合わされただけでショック死しちまうような、そんな化物から俺達を守るために、たった一人で戦ってくれてたんだろうが!! 貸せ!! 貸せ!! そのライフル!!」
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この部分は原作だとこうだった。
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「だったら、テメェはあのオブジェクトと戦えんのかよ!?」
「綺麗事だったら誰でも言える!! あの馬鹿デカいオブジェクトにたった一人で立ち向かってお姫様を助け出すとか、そんなの出来たら最高だよ!! でも、実際問題どうにかできんのか!! あんなもん、レーダーで補足された瞬間に生身の体なんか塵も残さず吹き飛ばされちまうじゃねえか!!」
ボロボロになったヘイヴィアに両肩を掴まれ、クウェンサーは思った。
(……ちくしょう)
どうしようもない、恐怖だった。
(怖いに決まっている。誰がなんて言ったって、どれだけ希望的な観測を並べたところで、度胸なんか湧くかよ。オブジェクトなんて化物だ。あんなもん相手に真正面から立ち向かうなんて間違ってる。少しでも近くにいたくない。ヘイヴィアの言う通りだ。どんなに綺麗事を並べたところで、この気持ち悪さがそうそう簡単に消える訳ないだろ……)
だが、クウェンサーの足は退却するためには動かなかった。
「……あのお姫様は、そんな化け物と戦ってくれていたんじゃないのか?」
「ッ」
「大の男がこれだけ集まっても震え上がるような、ちょっと照準を合わせられただけでショック死してしまうような化物から!! 俺たちを守ってくれるために、たった一人でオブジェクトに乗って戦ってくれてたんだろうが!!」
そう。
たとえオブジェクトなんて馬鹿げた兵器に乗っていたって、怖いに決まっている。あんな化物と立ち向かうのに、恐怖を感じない訳がない。
あの少女は、出撃の直前にこう言っていた。
勝てるかどうかは分からない、と。
特に真剣な調子ではなかったから、深い意味などないのだと思っていた。だが違う。もしもあれが何気ない表面にまで噴出してしまうほどの、大きな不安を抱えていたせいだったとしたら。とにかく誰にでもいいから言葉を放って、少しでも不安を払拭したいだけだったとしたら。
クウェンサーは思う。
自分はここでどう動くべきだ。
「……貸せ」
怪訝な顔をするヘイヴィアにもう一度、
「貸せ!! そのライフル!!」
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長い。長すぎである。アニメが原作の台詞を助詞レベルまで削っていたということがわかる。
しかし、俺は原作を読む最中はアニメほどには「喋ってないでさっさと行動しろ」と感じなかった。
それは恐らくセリフに輪をかけて地の文と括弧書きの心内文が長いためである。
地の文と心内文に関しては、どれほど長くても読者は東京大学物語のごとく(その間0.1秒)などと都合よく解釈することができる。特にここで描かれるような緊迫した場面では尚更である。
そのプロセスを経て文字数に対する時間感覚が混乱した状態であれば、長台詞を発語するための時間も無視することができるような気がしてくるのである。
この小説マジックを用いたシーンをそのまま映像にすれば「何くっちゃべってんだ」と思われるのは当然であり、これは脚本と監督の落ち度である。
では、作者に落ち度はないのか。
そんなことはない。以下はアニメ3話で「敵基地に侵入しているのに大声で喋りすぎ」と言われた部分の原作における描写である。
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「タイムオーバーだぜヒーローッ!! 三〇秒でここから出ないと袋の鼠だ!!」
「一分待て!!」
「何をゴソゴソやってんだよ! 爆破できねえのは分かったろ!?」
「あと四十五秒だ!!」
多くの足音が近づいてくるのを、ヘイヴィアは耳にした。恐らくクウェンサーは、目の前で取り上げられそうな希望にすがろうとして、冷静な判断能力を失っている。もう殴りつけてでもここから脱出しようかと考えたその時、ようやくクウェンサーがヘイヴィアのところまで戻ってきた。
「行こう。まだ間に合うか!?」
「どっかの馬鹿が道草食ってたせいでスリリングなことになってるよ!! こっちだ!!」
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アニメだとここは全力で叫んでいる。だが、少なくとも声優は悪くない。語尾に「ッ!!」が付けられていたならばそれは叫び台詞であると考えるのは当然である。
ただ、この部分を読んだだけなら、ニコニコのコメントが言うように「※実際は小声で話しています」というフォローが辛うじて出来ないでもない気がする。それを掬い取れなかったアニメスタッフが悪いのだ、と。
しかし原作はそんな幻想もぶち壊してくれる。原作では、小声の台詞とそれ以外はきちんと区別して表記されているのである。
以下は原作では35ページ、アニメでは1話にあった、和服上官に呼びつけられた時の二人の会話の原作における記述である。
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「(……どうするんだよヘイヴィア! だからやめようって俺は言ったんだ!! これならレーションどころか三日間雪の塊だけ頬張ってた方がまだマシだったんじゃないか!!)」
「(……うるせぇな畜生!! くそ、ほんとに一八歳かこの女。今時の洗浄に生身の兵隊は必要ねえとは思ってたけどよ、あいつに限って言えば握り拳でオブジェクトと戦えるんじゃねえのか!?)」
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この台詞はアニメでもきちんと囁き声で演じられている。他にアニメ3話の敵基地で捕縛されたシーンでも「(……俺が飛び出したら伏せろ。そっちに除雪用のトラクターあるだろ)」などと書かれている。
要するに、原作に従えば主人公たちは敵基地で相手の足音が聞こえる位置にいても実際にお互い叫びあっていたのであり、アニメスタッフはそれを忠実に映像化しただけなのである。
では、ヘヴィーオブジェクトにおける長台詞は、上条さんの「説教」と比べて何がダメだったのか。
俺はその原因を「鎌池の長台詞癖と、主人公をペアで行動させることの食い合わせの悪さ」に求めたいと思う。
上条さんは基本的に一人で行動するので、その長台詞=説教の相手は、自分がまさに直面している相手≒敵(ステイル、御坂、アクセラレータ等)であった。
無論その場合も、「うるせえ話長えよ(グサ」となる可能性はあるのだが、その可能性はむしろ「殺される可能性と引き換えにでも相手を全力で説得しようとする上条さん馬鹿だけどカッケー!」という評価に繋がっている。
しかし主人公をペアで行動させると、その長台詞=説教が敵ではなく相棒に向かってしまうために「馬鹿だけどカッケー!」ではなく単に「こいつ馬鹿じゃね?」というシーンが出来上がってしまうのではなかろうか。
禁書目録と毛色を変えたかったのは分かるけど、主人公をペアで行動させたければ、鎌池の説教体質も変えなければならなかったのではないかと思う。
http://developers.linecorp.com/blog/ja/?p=3591
Letter Sealing って何でしょうか。私気になります。
必要な範囲で、原文を引用しています。原文は先に引用元のアドレスと閲覧日時を記し、引用記法によって地の文と識別できるようにしています。
ECDHとAES256-CBC 使ってみた。通信相手の認証については読み取れない。
図2 において、 Server のところで Re-Encryption (一度復号されて、再度暗号化されている) ことが明示されています。
この図を素直に読むと、送信者からサーバーまでの通信路は暗号化されているものの LINE のサーバーが受信したところで復号されて平文で保存され、サーバーから受信者までの通信路は暗号化されていると理解できます。文脈から、この流れを変えたいのであると推測できます。
http://developers.linecorp.com/blog/ja/?p=3591 より引用、2015年10月14日 22時40分に閲覧:
加えて、LINEでは、仮に通信ネットワークの傍受が行われたとしてもメッセージを覗くことができないように、公開鍵暗号(public key encryption)方式を使っています。ユーザーに対してLINEアプリを提供する際、暗号化ができる公開鍵のみをアプリに入れて提供し、ユーザー端末とサーバが接続されたときだけLINEサーバでのみ解析できる暗号化された安全なチャネルを作ります。こうすることで、SSL(Secure Socket Layer)より軽く、LINEの全バージョンで使用できる安全な暗号化を実現できます。
SSL はすでに時代遅れの代物で、 2015年秋現在は皆さん TLS を利用されていることでしょう。 Web ブラウザで SSL 2.0 や SSL 3.0 を有効にしているそこのあなた、今すぐ無効にしましょう。
TLS では、公開鍵暗号方式や共通鍵暗号方式、電子証明書、暗号学的ハッシュ関数といった複数の暗号技術要素を組み合わせて安全な通信路を確保しています。
RSA に代表される公開鍵暗号方式は一般的に AES に代表される共通鍵暗号方式と比べて計算量が大きい、つまり重たい処理となります。
このため TLS では、通信路を流れるデータの暗号化に共通鍵暗号を用いて、共通鍵の共有や相手の認証のために公開鍵暗号方式を用いるのが一般的です。
仮にメッセージの暗号化に RSA を用いているとしたら、 SSL より軽いという点をどのように実装しているのか気になります。
http://developers.linecorp.com/blog/ja/?p=3591 より引用、2015年10月14日 22時40分に閲覧:
ユーザー側のLINEアプリ(クライアント)には、サーバが発行したRSA鍵を使用してデータの暗号化に使う暗号化鍵値を共有します。この鍵を利用してデータを暗号化すると、第三者はメッセージを見ることができなくなります。
これは上で説明したとおり SSL や TLS でも行っていることです。
RSA を用いているので安全であるという主張をしていますが、メッセージの暗号化に用いられている暗号スイート(アルゴリズムの種類、鍵の長さ、ブロック暗号の場合は暗号利用モード、そしてハッシュアルゴリズムの種類)は、その通信路が安全であると判断できるか否かを決める大切な情報です。
http://developers.linecorp.com/blog/ja/?p=3591 より引用、2015年10月14日 22時40分に閲覧:
既存のRSA方式も秘密データの共有に使う安全な方式ではありますが、鍵管理の面から見ると、ユーザー側の端末でそれぞれのRSA鍵をすべて管理しなければならないという問題があり、その代替手段としてDHを使用するようになりました。
DH および ECDH による共通鍵暗号に用いる鍵の交換は SSL や TLS でも実装されており近年では広く使われています。 SSL より軽いと主張し、 SSL や TLS が公開鍵暗号方式以外の要素によって担保している安全性をどのように確保しているか不明な実装に比べると、大きな改善です。
なお SSL や TLS においては通信相手の公開鍵を全て管理する必要がないように、上で説明した電子証明書による公開鍵基盤 (PKI) の仕組みを利用しています。
つまり共通鍵暗号に用いる鍵の交換にどのような手段を用いるかは、鍵管理とは(ほぼ)独立です。
http://developers.linecorp.com/blog/ja/?p=3591 より引用、2015年10月14日 22時40分に閲覧:
ここでメッセージの暗号化に使用している暗号化アルゴリズムはAES-CBC-256という方式で、現在一般に使われている暗号化アルゴリズムの中で最も強度が高いと評価されています。
メッセージ認証と組み合わせない CBC はビット反転攻撃に弱いことが知られています。 GCM ではデータの暗号化と認証を同時に行うためビット反転攻撃に耐性があります。 AESを GCM で利用するのは、 最近の TLS の実装では広く用いられており、 Google や twitter も利用しています。
CBC も CBC-MAC のようにメッセージ認証と組み合わせることでビット反転攻撃に強くなります。
図6 のとおり、 ECDH で共通鍵暗号に用いる鍵の交換を行うにしても通信相手の公開鍵は必要です。 上で説明したとおり鍵管理という問題への解決策になりません。また公開鍵が本当に通信相手のものであることをどのように検証するのかについても不明です。通信相手の検証は、送信側では秘密の話を他の人に知られないように、受信側では他の人になりすまされないように、双方にて必要です。
ここからは安易なパターンの想像ですが、通信相手の公開鍵情報は LINE ユーザー情報の一部として LINE サーバーで管理されており、必要に応じて安全な通信路を用いて LINE サーバーから取得するようなものではないかと思います。公開鍵情報のやりとりに用いられる通信路に正しく実装された TLS が用いられていて、サーバーとクライアントの両方が認証されていて、現在の水準から見て妥当なレベルの暗号スイートが用いられていることを願うばかりです。
公開鍵と秘密鍵がどこでどのように保管されているのか気になります。各端末で保管するのが安全ですが、サービスの要求として端末を乗り換えてもメッセージが読めるという条件を安易に満たすために秘密鍵を LINE サーバーに預託していないことを祈るばかりです。
ECDH 鍵の生成は計算量が大きい処理であり質の良い乱数を必要とします。 PC に比べると非力なスマートフォンで生成した鍵の質をどのように担保しているのか気になります。
先ほど閲覧したところ、上記引用箇所の多くは削除されていました。公開鍵が本当に通信相手のものであることをどのように検証するのかについては明らかではないようです。 LINE サーバーが介在する形であれば、鍵をすり替えることで別のユーザーになりすますことが可能でしょう。または、 LINE アプリに何か細工をする方がより簡単でしょう。
ECDH 鍵はその場限り (ephemeral) という説明がないので Perfect Forward Secrecy ではないと考えられ、望ましくないという意見もあるようです。 LINE サーバーとの間に安全な通信路を確立する目的で ECDH 鍵を用いる場合、 LINE サーバーが用いる秘密鍵の漏洩は全てのユーザーに影響を与えうるため PFS は非常に重要です (TLS を用いた Web サーバーでも同様です) 。一方ユーザー間でメッセージを暗号化する場合、ユーザー所有の ECDH 鍵についてはそのユーザーに影響が限定されます。通信相手ごとに必要なその場限りの鍵生成とユーザー所有の ECDH 鍵を利用した鍵交換にかかる計算量と ECDH 鍵漏洩のリスクを天秤にかけて PFS を採用しないという判断かもしれません。
通信の秘密という観点ではメッセージの内容だけではなく誰と通信したか (または、していないか) という情報も守りたくなります。宛先を LINE サーバーで確認できない形に暗号化されるとメッセージの配送ができなくなるため、通信相手や通信の有無については秘密ではないと考えられます。
今朝、
■ぼくがKADOKAWA×はてなの小説投稿サイトに一番求めること
http://anond.hatelabo.jp/20151011171947
■こういう異世界嫌いな連中に限って作品を評価しないし金も払わない
http://anond.hatelabo.jp/20151012000451
辺りをざっくり読んで。
はてなはほんとごくたまにしか来ないからその流儀はわからんが、いちばん驚いたのは後者(20151012000451)の記載にあった、これ↓。
>最近増田なりはてブなりを見てて一番笑ったのは「なろうで好きな作品はあるけど紹介すると作者に迷惑がかかる」とかいうコメントだ
>何を言っているのか本当にわからない
↑これ。
こう指摘を挙げていた後者(20151012000451)の意見には、まるっと同意。
俺も別になろう民ではないが(たまに読みには行く、良作はあるところにはあるからな)、
それでもラノベ読みとして、なろう民やラノベ読者たちが、好きな投稿小説作品(作者はもちろん素人だ)をあちこちで相当熱心に紹介しているのは普通に知っている。
2ちゃんにそれ専用のスレもあれば、ラノベ専門ブログ・ラノベ紹介サイトが定期的にそうした特集を組んで盛り上がっているのを何度となく楽しみに読んできた。
いい情報も拾えたし、お蔭で良作との出会いも何度もなんども果たすことができたしな!
なろうはまずとにかく投稿の数が膨大だから、普通にまともと思しき良作でも、それが流行り要素に欠けていたりすると、本当にごくあっさりと流される、見失われる。
という気骨を持った読み手が、いろいろと発掘して紹介する、という流儀すら、なろう民やその周辺の読み手の間には普通に存在している。
俺はこの「スコッパー」の存在に凄く助かっているし、俺自身もスコップ(発掘)した作品を書き込みもする。
名も知らぬ誰かがスコップしてくれた作品を読んで、良ければどんどんと褒めるし、スコッパーにはお礼のコメントを書き込みにもいく。
俺の紹介した作品対するレスポンスが付いたら、それなりに嬉しい。別に俺が書いた作品でないにのにな。
そうした俺から見ると、
>「なろうで好きな作品はあるけど紹介すると作者に迷惑がかかる」とかいうコメント
作者に迷惑?荒らしでもないのに??ただ単に自分が好きだ、ここが読みどころだ、と紹介するだけの、どこが迷惑???
としか。
そうやってわけのわからない遠慮()でことが進んでるのだとしたら、そら
「異世界」「転生」「チート」「ハーレム」「ニート」「チーレム」
といったような作品ばかりがもてはやされるようになるのは当たり前だ。
情報の発信源が、そういう作品が好きな人たちの声の方が、ずっと大きいわけなんだから。
スコッパーだって、そういう作品だけをスコップしている人も、やっぱり多いし。
ランキングにしても、そうだ。
というか、むしろランキングとなると、そっちの読み手たちの声が、更に大きくなるだけ。
なんか、元増田(20151011171947)の話を聞いてると、
人(元増田の場合はKADOKAWA)に、「これやってよ!」とか他力本願丸出しにして、
自分は「こういう作品はくだらない」とかって駄目出しばっかだよな。
まーくだらないと思うものをくだらないって文句をダラダラと垂れ流せるのが増田という場なんだから、そう書き込むのは勝手だと思うが。
他人の好みに口出しをするってのは、あまりいい趣味だとは思わないけど。
熱心な「この異世界転生物がチートでこういう感じのハーレムに浸りたいニートな俺としてはチョー面白い!」と盛り上がってあちこちで書き込みをするなろう民の作品の方が注目を集めるし、
ムーブメントを作っていくのは当然だろう。
「行為」の当然の「結果」として。
元増田、というよりも、たぶんはてなー向けだろうな、というなろう掲載の小説をひとつ、俺のブクマの中から晒しておく。
>http://ncode.syosetu.com/n8823by/
チートもハーレムもない。転生でもない。限りなく現代社会に近い異世界(?)での、現代劇みたいな魔法もの。ただ、魔法はショボイ。主役はおっさんと少女。
異性と同居とか、出てくるキャラが女の子が多数のところがラノベっていうかオタクな設定だが、だのにほんっとにハーレム皆無。それどころか恋愛で物語が動かない。
魔法がショボいと言ったが、むしろそのしょぼさが作品の空気に合っている。ご都合主義とはかなり無縁だから、読みながらいい意味でハラハラドキドキしっぱなしだった。ちょっぴり泣かされもした。
文章は平易で読みやすい。ただしなろう民だと地の文の多さがラノベ的じゃないからと、敬遠されるかも。むしろ一般小説をよく読む人にマッチングするタイプの作品。
「小説家になろう」「小説を読もう」サイトが、「異世界転生」や「ハーレム」「チーレム」云々ばっかじゃねーんだぜ、ってことを言いたかっただけだがな。
エロゲが当時最先端だったかどうかは個人的には判断つきませんが、テキストが文学的とかそういう意味で目新しいことをやってる作品には出会った記憶はないかなぁ。
その媒体でしかできない表現をするという意味においては、ゲーム特有の「ゲームオーバーになれば繰り返しプレイする」という特性から、映画や小説ではやりにくいであろう「繰り返しプレイすることで、プレイヤーの視点で積み上がる記憶」というのを利用した作品は数多くあるので、そういうことを捉えて最先端と言っている方がいるのではないかと予想してみる(とくに10年前らへんはそういうのが流行ったように思う)
この手法の開祖的なものはおそらく「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(1996)」らへんになってくるのかな(1997-2007位が守備範囲なので間違ってるかも)
葉鍵や型月が槍玉に上がりそうな話題と時代だけど、実際のところ売り上げと最先端だったかどうかとは関係ないと思うので。
Leafに関しては「痕(1996)」なんかで上記のゲーム特有のプレイヤー視点による演出をやってるので、そういう意味では新しかったのだけれど(でもそれってそれ以前に弟切草(1992)があるしなぁ)
その他にエロゲ特有の目新しい手法というと、あと記憶にあるのはLiarsoftのForest(2006)くらいのものかなぁ。
これはエロゲ特有のフォーマットである下部ウィンドウに表示される文章と、それに合わせて実際に再生される音声を異なるものにする事で、ある人物が実際にしゃべっている事と内心考えている事を同時に表現するというような手法だったり、ウィンドウ幅を意識して単語の途中で改行がかからないようにするといった手法だったり、エロゲのフォーマットを最大限使った表現を試みたものかと。
エロゲ(ビジュアルノベル)の枠というのは特殊なフォーマットで、映像と文章と音が存在していて、しかしながら字幕映画とも小説とも異なる(字幕映画にはない地の文があり、小説にない絵と音がある)という事を最大限に活かそうという、表現手法の発明への挑戦みたいな事じゃないかと。(あまり文章上手くないので僕の説明だといまいち伝わらないかも/だれかこの辺綺麗に説明できる人おらんか・・・)
一部では評価されたものの、それがメインストリームであったわけでもないし、また、エロゲ支持層がこのへんの作品を取り上げて「エロゲはオタクの最先端だった!」と言ってるわけでも無いと思うので、本論にはそぐわない話になってしまったかも。
テキストでエクストリーム試みたというよりは、エロゲ界隈のクリエイターの先鋭はエロゲのフォーマット自体を研究していたように思う。
素人「やっぱ歌詞がいいよねーストーリー性やメッセージ性が高くて泣けるわー」
玄人「素人さんは歌詞で聴いちゃうよねー(笑)。音楽といえば歌曲、みたいな。おれらにとって歌は楽器のひとつにすぎないしなー。やっぱそういう訓練受けてないと歌詞にとびついちゃうよねー」
素人「ストーリーにマジ感動しました。あのシーンのセリフで泣いた〜」
玄人「映画とはフィルムの運動である。映画のストーリーとはセリフではない。ゆえにセリフは極限まで削って『運動』で見せることが重要。説明セリフはクソ」
素人「感動的な演説と説教、そして巧みな心理描写、泣けるわー」
玄人「は? なんでもかんでもセリフや地の文で直截的に言及するってはしたなすぎない? 人物造形ってのはセリフとかじゃなくて、キャラの行動やら人物以外の描写やらなんやらで『語る』もんなんだよ。わかんないかなー素人には。『何を書くか』じゃなくて、『何を書かないか』が大事なの。っていうかさ、そういう行動と描写の集積さえあれば、ストーリーすらいらなくない? むしろ邪魔じゃない、物語?」
アニメ:
素人「みくにゃんいいよね……」
素人「いい……」
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
成年漫画はやっぱり自分のブログでは紹介できないので、増田に書きます。
ちなみに番号は順位ではないです
1.イムリ
SF超大作。
何処まで考えられてるんのかわからんけど複雑な設定を、上手く使いこなしているところ、三宅乱丈只者じゃない。凄い。
読者と、登場人物との知識の差を上手く使ってる。叙述トリックというか、志村うしろーっ的な面白さがある。
2.軍靴のバルツァー
時代考証めっちゃやってて、コラムに載ってる当時の生活風景とか結構楽しい。
ってか、戦争論にも論文ってあるのな。作中に出てきて初めて知った。論文とかも読んでるんからだろうか、ライフル銃を導入した際の戦い方の変化などそういう考察がキチンとしてるように思える。
超人的な奴がひとりで勝ちをさらうような事は戦争ではありえなくて、組織を動かす事で、勝つ。もしくは負けない戦い方をする。
戦闘に勝つために、準備をしっかり行っていく部分もしっかりと描き込んでいってるからか、人間のドラマの部分も浮かび上がっている気がする。(負けないために犠牲を払うシーンとかね)
物語の中にはこういった戦術も描きこまれている、その上しっかりと戦略レベルで話が進む。これから主人公が戦術レベルでなく、戦略レベルで物語に絡んで行くのが楽しみ。
書店員が選ぶ大賞みたいなの取ってる。
なんかエロい。ナンセンスな漫画なんだけど、なんか考えさせられるような気がする。
4.ベイビーステップ
めちゃくちゃ面白い。週刊連載してて、こんだけ巻数出てて、途中でダレないって凄いなって。現在進行形で面白い。
5.ディメンションW
コイルとはなにか…。謎が謎のまま物語は進んでいくんだけど、ちょっとずつちょっとずつ謎が明らかになってくる感じがとても良い。考えられてるなぁと。
動きがめっちゃ表現されてて良いね。バトルシーンとか感動する。
ミラちゃん可愛い!
6.キングダム
ベイビーステップ同様、ダレない!!
7.ハイスコアガール
8.papa tole me
こんな可愛い娘欲しいわ。こんな大人っぽい幼稚園児いないけど絶対いないけど。
9.いいなりゴハン
お鮨の有名店(?)回の時の、生の物には必ず手をいれていますって言葉はなんか、美味しい鮨ってそういうものなのかと妙に納得した。
普段気づけないような、料理が美味しい理由をしっかりと書いてくれる、そんな嬉しい漫画。
成年漫画編
1.ピスはめ
もうね。はじめて読んだとき感動した!
成年マンガの多くは、雑誌掲載の関係上毎回Hしてる場面を入れなくちゃいけなくて短編が多いんだけど、長編を掛けるのは人気があっての事だし、出版社との信頼も築けてるからこそだと思う。かと言って、毎回抜けるシーンを描いてくる辺り流石です!
しかし前述の理由(毎回Hシーンを入れなきゃいけない)から、やっぱりところどころ成年漫画特有のトンデモ展開が飛び出すんだけど、その描き方がすごい!
Hまでの流れをギャグのように扱って、急激にエロい展開に持ってく。パロディもあるし、そんなのアリ!?って思うような展開もあるんだけど、いつも(普通の漫画として読んでも)面白い!成年漫画はHまでに持っていく流れが悪い作品が多いから、こういった作品は稀有。
物凄い力技だけど、違和感を感じさせない。
成年漫画もAV同様、いたしてる所以外は読み飛ばすってのが多いんだけど、師走の翁先生の漫画は地の文も面白いから何回も読み直せる!コスパ物凄い高いです!
ってか、ピスはめだけでなく、他の作品もすべからく面白い!から読むべし。
2.アとエのあいだ
トンデモ設定で描く成年漫画。笑いながらも結構抜けるという新しい感覚をもたらしてくれる素晴らしい漫画。
めちゃくちゃバカな事やってて突っ込みどころ満載なんだけど、女の子最初は戸惑うのだけど、がえっちいことされて、感じまくって、だんだんなんも考えられなくなっていく所がめっちゃ好き。
ちなみに私も読んでて、世界観に引き込まれて設定とかどうでもよくなっていきます。
これめちゃくちゃ良い。素晴らしいなと。丁寧な描写と、女の子のセリフがもの凄い可愛い。
http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/10/71/040030107185.html
4.世界樹のあのね
http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/20/14/040030201414.html
5.TiTiKEi
いやー。こんなに女の子を可愛く描けるの凄い。これは矢吹先生も絶賛しますわ。
漫画というか、イラストに近いかなと思うのだけど、まぁーものすごく綺麗。気持ちの良さそうなおっぱい、触りたくなるようなおっぱい描く天才。
6.蒼月の季節
山文京伝、本当にこの人は凄い。NTR界の京極夏彦!(意味わかんない)
人妻が堕ちていく描写が、こんなにも上手く描ける人いないんじゃないかな。
ちなみに私はNTRものの最終話は読まない主義です。気分が落ち込むので。
7.アフタースクール
これもどんどん男にハマっていく系の話で、やっぱり月野定規先生流石だなと。濃厚な描画がとてもよいです。
http://www.toranoana.jp/smart/d/?id=200011226943&tk=2000
成年漫画枠として入れました。こんなのを中高生が買えるとか夢があ…っけしからん。
原作は極黒のブリュンヒルデの岡本倫と、作画は美人成年漫画家として有名な横槍メンゴ。
絵は可愛いし、話はぶっ飛んでるしで、この組み合わせはすごく良かったなぁと。集英社はよくやった!
9.ナナとカオル
ヤングアニマルで連載中。この作品を読むまでSMを勘違いしてたんだなと実感しました。
肌を傷つけないために縄の手入れをしっかりとしたりだとか、ちょっとした場面だけどそこまで描くことでSMが愛情表現ってことをしっかりを描く素晴らしい漫画
10.姉コントロール
最後はクリストファーノーラン!?とかと思わせられる、ちょっと考えてしまう終わり方をするあたり流石だなと思います(ちがう)
好きすぎるとその人に奉仕しようとして、ひとつずつちょっとずつ好きな人の要望に応えようとして、なんでもやっていくその過程が堪らなくエロい。