「名は体を表す」ともいうし、実際キレイな字だったら、その字を見た人の印象は決して悪いものではないと思う。
ただ、それだけ―字が綺麗というだけで性格が良いとは必ずしも言えない。
逆に、汚い字であれば、例え高学歴の人であっても印象はあまり良くない。
それは地頭が良く学力があっても本質的な部分が伴っていない、すなわち性格面が捻くれてるという風に見えてしまうから、
やはり字の丁寧さは大事だと思う。その人の印象によるが、少なくともキレイな字を見て悪い印象を持つという事はないと思う。
汚い字はやっぱり親の教育の問題だとか、地の文が出来てないだとか、熱意が伝わって来ない。
多少稚拙であっても、丁寧に書こうとする意志が見られれば、例え汚くても丁寧さが見えてくる。
綺麗さっていうのは、丁寧さも大事だけど、走り書きでない事が望ましい。
一字一句丁寧にというけど、やはり履歴書の場合書き疲れることもしばしばある。
走り書きって特に締切間近等で急いでいるから、そのようになってしまう。
第三者から見て、走り書きっていうのはすぐ分かるし、急いで書いたというのはその人の性格がせっかちだとか、締切ギリギリということで優柔不断だとか
と見られがちだ。それはそうだ。履歴書を書いている人のその時の気持ちと、履歴書を見る審査員(採用担当者)の目や経験や勘では一致しないからだ。
良い印象を持たれるためには、例えば採用される人の決め手というのは、面接等でいうと第一印象が大事だということがとりわけ挙げられるが、
履歴書一つを見ても、やはりそこだけを見て次の選考を考えるわけだから、見た目の第一印象で躓くのは可哀想だ。
履歴書はその為人を知る上で最も大事なパーソナルデータであり、名刺代わりでもある。
それだけに手書き履歴書の綺麗さがその為人を表すというのは正しいと私は思う。
勿論、昨今は応募者の増加によって企業側が効率性を重視してパソコン上からのエントリーシートで応募する事を推奨しているが、
手書き履歴書が駄目って訳ではないし、たまに手書き履歴書で送ってくる人がいると、とりあえず会ってみようかという気持ちになるものだ。
そういう例は極めて稀のケースだけど、逆に審査側の被雇用者の性格を知る術が効率化によって失われたから、手書き履歴書の存在がありがたいと感じる審査員(採用担当者)も少なくない。面接回数が多いというのはイコール会社が効率化を優先するあまり、古き良き手書き履歴書の意義を見失って本当にその人が会社に入りたいのかという部分が見れなくなったためである。つまり、効率化によって手間が増えたということだ。
案外、パソコン等によるESで回す会社は大きい割に小さい性格の会社だと思う。
問題は、採用する側の為人だろう。その意味では、ESを導入している会社は損をしていると思う。
しかし、手抜きによって、手書きの有難味に気付かされるとは何とも皮肉な話ではないか。
手抜きを効率化としている時点で、多くはその皮肉にも気付いていないのだろうが。