はてなキーワード: 小泉花陽とは
<入場>
Love wing bell/星空凛(飯田里穂)、西木野真姫(Pile)、小泉花陽(久保ユリカ)、絢瀬絵里(南條愛乃)、東條希(楠田亜衣奈)、矢澤にこ(徳井青空)
作中でウェディングドレスの描写があったのでこれ以外思いつかなかった
<乾杯>
華やかなストリングスではじまる曲なので乾杯の発声と一緒に流してもらった
<ケーキ入刀>
世代的に招待客も知っている人が多そうだった
<退場>
Allegro Cantabile/SUEMITSU & THE SUEMITH
美メロなので
ドラマチックLOVE/一条シン(寺島惇太), 太刀花ユキノジョウ(斉藤壮馬), 香賀美タイガ(畠中 祐), 十王院カケル(八代 拓), 鷹梁ミナト(五十嵐 雅), 西園寺レオ(永塚琢馬), 涼野ユウ(内田雄馬)
歌詞が可愛くて
<歓談>
ウケ狙い
昔から好きな曲なので
歓談にちょうどいい雰囲気だと思った
<再入場>
再び盛り上げたかった
Groovin' Magic/ROUND TABLE featuring Nino
絶対この曲でやると決めていた
素敵だね/RIKKI
末永くともに歩んでいくという決意を込めて
<エンドロール>
光/宇多田ヒカル
お付き合いをしている人がいる。
私はおそらく世間一般で言うオタクというやつで、創作物、創造物の類が好きだ。
ゲーム、アニメ、映画、演劇、絵画、模型、音楽。私にいろいろな感情を教えてくれたそれらのなかでも、ことさらに本が好きだと思う。
飽きっぽく節操の無い性格のためか、活字なら小説から詩集新書専門書、漫画なら少年少女青年成年、雑誌に写真集、攻略本に設定集、映画や舞台のパンフレット等、およそ統一性の無い本たちが、広くはないワンルームの隅に鎮座している。縦に横に雑多に、しかし私のなかでは理路整然と。
最近遊びに来た友人に、積みすぎると床が抜けると脅された。賃貸でそれはまずかろうと、恐る恐る電子書籍に手を伸ばしている最中だ。
さて、冒頭に出てきた彼の話だが、おそらく少なくとも、漫画やアニメのオタクではない。ハリウッド版攻殻機動隊を視聴するにあたって概要を説明した折、第一声が「それはガンダムとは違うの?」だった男だ。
興味の無い人間にとって、電脳化・義体化とモビルスーツによる宇宙戦争は同じに思えてしまうらしい。お前話聞いてなかっただろ。
「ガンダムとはちょっと違うかなー」「あれ、前見たガンダムと同じ監督って言ってなかった?」「ガンダムと同じ監督?何見たっけ?」「見たじゃんあのアニメの、警察のやつ」
ある日のこと、きっと遊馬とカイの区別もつかないであろう彼奴から突然「3月のライオンって知ってる?」とラインが来た。
ーーーーーーー
『3月のライオン』(さんがつのライオン)は、羽海野チカによる日本の漫画作品。将棋を題材としており、棋士の先崎学が監修を務める。(Wikipediaより)
ーーーーーーー
知っている。
漫画は単行本を既巻全巻持っている。アニメも見た。実写映画も見た。
好きな物語だ。
正直すごく嬉しかった。自分の好きなものに興味を持ってもらえると一気に親近感が沸くオタクの生態よろしく、結構、いやかなりテンションがあがってしまった。チョロいもんである。
とはいえ相手は小泉花陽ちゃんと三村かな子ちゃんの区別もつかない甲斐性なし野郎だ。ここは慎重にフラットに対応すべしと自分に言い聞かせつつ話を聞いてみると、どうやら彼の友人がアニメを見てハマったらしく、自分も気になった、ということらしい。
漫画を所有していることを伝えると、貸してほしいとの返信。もちろん了承の旨を伝え、既巻13冊をすべて手渡した。重くなるが、スピンオフの灼熱の時代も紙袋に詰めた。
3ヶ月ほど経った頃だったか、デートをした日、そういえば漫画全部読んだよ、と彼が言った。晩ごはんを食べようと入った居酒屋でメニューを見ていたときだった。
もちろん私はすぐさま感想を聞いた。そうなんだ、どうだった?と、期待を込めて聞いた。
彼は笑ってそう言った。
びっくりした。ショックだった。
面白くなかったのだろうか。そう聞けば、面白かったという。続きも読みたいという。実写映画も漫画も見てみたいという。
けれど、一番に口をついて出た感想が「現実にはあり得ない」だった。
そこで初めて思い知った。
世の中には、現実というフィルターを通して物語を読んでいる人が、あるいはそう読むことしかできない人がいる。少なからず今、目の前にいるのだと。
私自身は、幼い頃から随分本に触れてきたと思う。特にフィクションの物語を好んで読んできた。読むたび私は空想にふけてきた。
こんな魔法が使えたら、こんなドキドキするような恋愛が出来たら、こんな力を持って世界を救うヒーローになれたら。
そりゃそうだ。私は本を読むとき、その物語という未知の世界の扉を開けて、体ひとつで飛び込んでいるようなものだ。
本を読んでいるとき、現実は扉の向こう側にある。現実は戻ってくる場所なのだ。
みんなそうなのだと思っていた。それが当たり前なのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
私は何にショックを受けたのだろう
彼に自分が好きな世界を否定されたように感じたからか。自分の好きな物語にケチをつけられたように感じたからか。あるいは、単に同調してもらえないことに傷ついたのか。
おそらく全部あてはまる。けれど核心ではない気がする。
いまだによく整理できていないが、私はあのとき直感的に、嫌だと感じたのだと思う。
きっとこの人と私では、心の奥底のほうで、物語を共有することができないと、そう感じたのだと思う。
立ち位置が違う。視点が違う。同じものを見ているはずなのに、見えているものが違っている。
考えれば考えるほど当然だ。彼と私は他人で、好みも違えば趣味も違う。育ってきた環境も、考え方も違うだろうし、感じ方も違うだろう。
けれど私は、「物語」に関しては、その差異が許せなかった。直感的に、嫌だと感じるほどに。
これがいわゆる価値観の違いってやつなのか、とも思った。
これを理由に離れてしまうペアは多いと聞く。価値観が違うのは当然だと以前は不思議に思っていたのだが、今はなんとなくその気持ちがわかるような気がする。
自分のなかの大切な、染み付いてしまってどうしようもない根っこの部分を、きっとこのひとには理解してもらえない。それがわかってしまった。
ただそれだけなのに、その瞬間、彼が異質なものに思えてしまった。
ガンダムと攻殻機動隊が同じに見えるらしい彼と私は、何かが決定的に違っている。
以来私の心は、彼の前では、私の大切なものをそっと奥に、彼の手が絶対に届かないところにしまいこむことにしたらしい。
一緒に映画を見たいと思わなくなった。見ても感想を言いたいと思わなくなった。本を貸したいと思わなくなった。本屋には着いてこないでほしいとすら思うようになった。
理性のコントロールが効かない部分の、なんとまあ厄介なことか。辟易する。
追記
http://anond.hatelabo.jp/20160221211517
ブログではその後、キャラクター描写の観点から批判が展開されている。自分がアニメラブライブのキャラクター描写について感じたことについては既に言及した部分が多いが、この部分の論述についても内容的には概ね同意できるものである。
ただ、だからこそそう考えるのであれば、突っ込みたい箇所がある。
以下では、以上で書いてきたのと本質的には同じことを別の観点から論じてみたい。それは、キャラクター描写という観点である。
(中略)
このように8人のメンバーの主体性が奪われてきた一方で、それと反比例するかのように各メンバーの薄っぺらいキャラ付けは強化されてきた。(中略)
たとえばこの劇場版において花陽が最も目立つシーンは、花陽がいつも通りにお米キチガイであるということがこれでもかというぐらいにしつこく描かれるシーンである。この劇場版において、花陽がどういう想いでアイドル活動をやっているのかとか、メンバーとのあいだにどんな新しい人間関係が生まれたのかとか、そういうことは全然描かれない。その代わりに、とにかく花陽はお米が大好きで白米が食べられないと気が狂ってしまうほどだということだけが強調されるのである。端的に言って、この映画を作った人たちは小泉花陽をバカにしているのではないかと思う。
キャラ付けにおいては現実のアイドルだってそんなもんじゃないかと思う人がいるかもしれないが、そうではない。たとえば、いつもカメラ目線を絶やさず満開の笑顔で視聴者にアピールする「まゆゆ」という優等生的キャラクターがなぜ魅力的なのか。それは、ファンがそこに渡辺麻友の野心の大きさと意志の強さ、そして完璧なアイドル像への執念を見て取るからである。スキャンダルで名を売ったり、アイドルの殻を破る破天荒な行動を取るメンバーたちが人気を集めるなかで、それでもなお自分が信じた理想のアイドル像にこだわり、それに徹しようとしている。アイドルとファンの距離がぐっと縮まった現代において、完璧なアイドルを演じ続けることの困難さ、時代遅れさを自覚しつつも、それでもなおその道を貫こうとしている。その職人気質、ストイックさ、生き方が人を惹きつけるわけである。このように、アイドルのキャラ付けは表面的にわかりやすいものであると同時に、その人の人生や信念と深く結びついたものでもあるからこそ、見る人の心を惹きつける。アイドルは人間だからこそ、魅力的なのだ。
翻って劇場版『ラブライブ!』において、我々は花陽の白米キチキャラに何を見ればいいのか。あるいは、一様にニコニコとして歌い踊るμ'sの9人のその笑顔の裏に何を見られるのか。それこそが問題なのだが、今の制作陣にそのような問題意識はまるでないようで、判で押したような浅薄なキャラ付けを毎度繰り返すばかりである。もちろん、判で押したようなキャラ付けが普遍的に悪いと言っているわけではない。そういうキャラクターが適している作品だってある。しかし『ラブライブ!』は、元々はそういうキャラ付けをする作品ではなかった。それなのに作品人気が高まり、ファン層が入れ替わるにつれて、人間を描こうという当初のスタンスがすっかり失われてしまった。雑誌連載時代そして第1期の頃に比べて、μ'sメンバーの魅力がめっきり減ってしまったように感じられるのは本当に残念なことである。『ラブライブ!』を、こんな消費の仕方をするための作品にしないでほしかった。(以下略)
この批判においても現実のアイドルである渡辺麻友が比較対象に出されている。AKBについてはあまり詳しくはないので渡辺麻友が実際語られている通りのアイドルなのかは分からないが、ここで語られている渡辺麻友の魅力を読むと自分にはかつて存在したあるスクールアイドルの姿が思い起こされるのである。
アニメ以前の矢澤にこはプライベート含めて完璧なアイドルに近い存在として描かれていた。また、本人も最高のアイドルになれる器だと自覚し、なろうと努力を続けている存在であったし、その姿勢やポテンシャルがメンバーの尊敬を集めたりしてもいた。(公野櫻子氏原案・鴇田アルミ氏作画の漫画版や過去のCDドラマ参照)
そのようなにこのキャラクター性、物語性が人気と支持を得て総選挙1位も獲得したし、自分などはこのキャラクターをもっと様々な舞台で見てみたいと期待していたのだが、TVアニメ以降は大幅な設定改変を行われて、矢澤にこというキャラクターは闇に葬り去られてしまった。
TVアニメではかつての設定は面白おかしくねじ曲げられてネタにされるのみであり、後輩含めた他のメンバーからも馬鹿にされることばかりで、本人もアイドルになりたいというよりはただのアイドルオタクという部分が強調され、努力の跡はあまり見られない。
京極尚彦・花田十輝両氏は元々典型的先輩らしさがなかった絵里以外の3年生キャラを先輩らしい役割を与えたかったために矢澤にこと東條希のキャラクターを改変したらしい(電撃ラブライブ!3学期参照)が、TVアニメのにこの良い意味での先輩らしさは1期終盤の数箇所くらいであり、他は悪い意味でただ偉そうにするだけの残念な存在として描写されている。その点を抜きにしても適当ににっこにっこにーと言わせておけばいいというように薄っぺらく判を押されただけのキャラクターとしてアニメ以降のファンに印象付けさせられてしまった。
つまり、前半にも同様の指摘をしたように第1期の時点でキャラクターを人間として描こうとする当初のスタンスは失われていたことを指摘しておきたい。
ブログ著者の批判の仕方はもっともであるが、渡辺麻友をそのように態々例に出して語りながら、矢澤にこをはじめとするTVアニメ以降のキャラクターの改変について無視して語り通すことに違和感を覚えるし、所詮第1期アニメについては盲目的な信者である所以が見え隠れする。
第1期をはじめとするアニメ版や劇場版を評価する人の存在も個人の好み故に仕方のない部分だが、2期や劇場版のキャラクター性や物語性をあのように初期や現実のアイドルと比較する論理から批判しておいて1期は問題なく賛美する見方に関しては異議を唱えたい。
結局批判に近いような形で締めてしまったが、基本的には概ね同意できる内容であるし、劇場版公開間もない頃にはっきりと内容を批判する記事を公開したのは当時は勿論だったが今から考えても意欲的な試みで素晴らしかったと思う。それまでファンとアンチの盲目的で説得力と内容のない賛美と批判ばかりがありふれていた中で、ファンに多少は内容に目を向けるように刺激を与えた意味で画期的なものだった。
彼の批判がたまたま拡散されたからというのもあるが、個人的に、TVアニメ化以降のラブライブ関係のイベントで最も興味深く見る価値があったのはアニメの内容やライブや紅白出場などよりも彼の批判ブログとその反応関係だったのではとすら思っている。