はてなキーワード: 領域とは
男です。
私は小さい頃から、頭も良く、ルックスも良く、運動神経抜群、芸術の才能もあり、面白くて、とにかくモテた。
よく色んな担任の先生からも不思議な才能、不思議な魅力があると言われた。
ただ、これは才能ではなく私があまりにもしつこいうえに、理論武装してるからだと思われる。そして、色んな状況に応じて平気で豹変できる。また、相手の利害も侵さないように説得する。
なぜここに書いたかというと、10年以上前の事を思い出したから。
とある有名バンドのライブ後に友達と大手チェーンで飯を食ってた。23時頃だったと思う。遠い席に3人組の親子がいた。男性60歳ぐらい、女性と子供はもう記憶にない。
その60歳ぐらいの男性が俺のほうをじっと見てた。何か嫌な予感がした。
君は天賦の才能があるでしょ。そういう人間は大成功するか大失敗するか、両極端に分かれる。
とにかくコツコツ努力することを忘れるな。
仕事で疲れて眠れない。
ベッドから起き上がれないほど疲れているのに、眠りに落ちれないほどに疲れている。
無数の後悔が頭の裏側で少し先の未来とずっと先の未来からドンブラコドンブラコと流れてくる。
ベッドに倒れたままでは目を閉じてしまう。
あまりに苦しいので無理やり起き上がった。
上半身の体重をほぼ全部背もたれに預けているせいで椅子のメッシュがベキベキとひび割れてしまうのではないかと不安でしょうがない。
この人生はもう駄目なんじゃないかって10代の頃からずっと感じたまま20年経った。
なんとかするための決定的な一手を打てないまま、奇跡を掴むことが出来ないままで駄目っぽい人生から降りることが出来ないまま引き返せない所まで来た。
レールが乗っているのは奈落へと落ちていくかも知れない無数の谷間の上だ。
「夜に大事なことを決めちゃいけない」と誰もが口を揃えて言うってことは、今の自分の判断力は酔っ払いと同じで完全に間違っている可能性を疑っていくべきだろう。
道路の白線を渡りながらすぐ側にゲームオーバーを幻視する子供のようなものなんだろう。
でも奈落じゃないだけで、今よりもっとマシな電車(どっかの詩人が言ってた「病室のベッド」の方が正確だろう)に乗り換えるチャンスが見当たらないだけだ。
今いる場所がまだマシなんだと思う。
この人生においてはもう。
じゃあどうすればいいのかって考え出していくと、やり直すしか思いつかないんだよな。
宝くじを買って3億円当てるとか、ウイングに行って大穴を当てるとか、そういう方法だってあるはずなのに、それが上手くいくなんてとても思えないんだよな。
今までもっとずっと勝率の高かったはずの賭けに負け続けたはずの俺が今更そういうギャンブルで勝てるなんて。
魂の実在を信じて輪廻転生によって全てをやり直すことが、人生を好転させるにおける「まだ全然現実的な解決策」に思えてくるんだよな。
今やってるゲームと全く違うゲームを始めるほうがずっとマシに見えてならない。
「転生なろう小説に自分を重ねているのは負け組のアラフォー・アラフィフもしくはそれ以上」なんて罵詈雑言でしかないと思っていた。
でも今は分かる。
「もう転生ぐらいしか思いつかない」という強烈な現実直視感(リアリズム)。
信じられねえぐらいに本当にそう感じるんだよな。
人生に仕込まれていた時限装置が起動すると同時に封印を解かれたクオリアが突然精神に作用しだすようなほどに今までと世界観(人生観という方の意味)が変わってしまった。
本当に「転生」が一番現実的に見えるんだよな。
どうなってるんだろうな。
このどうしようもなさ。
日本社会だけなのか?
アメリカでも同じなのか?
若くないっていうただそれだけのことが、こんなにも人生の先行きをデッドロックの塊に変化させられるものなのか?
ハッキリ言って大きなが違いなんて転職のしやすさぐらいしか変わってないはずなのに、5年ぐらい前までと人生の可能性の狭まりがあまりにもレベチでビビっている。
逆に割り切れば、ここまで人生が狭まってしまえば、もう可能性が日々狭まっていくことの焦燥感に苦しまなくていいということに救いを見出せそうだ。
手が届くかも知れない別の人生への憧れに対して心を焦がされることはもうない。
辛い。
身を焼かれながら、もっと足掻けばよかった。
救いがあるとすれば、世界中が同じような状態の中高年で一杯ってことだな。
これが「普通」らしいな!
産まれて初めてそう思うかも知れねえ!
そろそろ寝るか。
本日は、チャールズ・サンダース・パースのプラグマティズム、特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。
パースのプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティックな格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念の対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果を考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。
この格率の重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念の意味をその実践的帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能な知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団の論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀の科学哲学の発展に多大な影響を与えた。
パースの論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理を視覚的に表現する革新的なシステムであり、現代の計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。
さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学的発見の論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹や帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実を説明しうる仮説を形成する」過程と定義した。この概念は、後のハンソンの「発見の論理」やクーンのパラダイム論にも影響を与えている。
パースの記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号の三項関係(記号・対象・解釈項)は、意味の生成過程を理解する上で革新的な視点を提供した。パースは記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点や能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義は現代の記号論研究の基礎となっている。
また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在を連続的なものとして捉える形而上学的立場であり、量子力学における波動関数の連続性や、現代の複雑系科学における創発現象の理解にも通じるものがある。
パースのプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身は晩年、自身の思想を「プラグマティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特に、パースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功に還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。
今日の考察を通じて、パースのプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学、記号論、科学哲学、認識論など、広範な領域に及ぶ包括的な思想体系であることを改めて認識した。明日は、パースの思想と現代の認知科学、情報理論、複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。
ZFC (Zermelo-Fraenkel set theory with the Axiom of Choice) の哲学は、数学基礎論における中心的な位置を占め、その含意は数理論理学、モデル理論、証明論にまで及ぶ。
ZFCの存在論的基盤は、von Neumann–Bernays–Gödel (NBG) 集合論との比較において明確になる。NBGがクラスの概念を導入するのに対し、ZFCは純粋に集合のみを扱う。この違いは、大規模基数の存在に関する議論において重要な意味を持つ。例えば、到達不能基数の存在は、ZFCでは公理として追加する必要があるが、NBGではより自然に扱える。
ZFCの哲学的重要性は、その一階述語論理に基づく形式化にある。これにより、完全性定理が適用可能となり、モデル理論的手法を用いた相対的無矛盾性証明が可能になる。特に、ゲーデルのL構造(構成可能全体)とコーエンの強制法は、ZFCの独立性結果を示す上で本質的な役割を果たす。
ZFCの公理系、特に置換図式の導入は、フレーゲの論理主義の崩壊後の数学基礎論の再構築において重要な役割を果たした。置換図式は、ラッセルのパラドックスを回避しつつ、十分な数学的対象の存在を保証する。
選択公理 (AC) の哲学的含意は特に深い。ACは、トポロジー的ベクトル空間におけるハーン・バナッハの定理や、測度論におけるバナッハ・タルスキのパラドックスなど、数学の広範な領域に影響を及ぼす。ACの非構成的性質は、直観主義数学や構成的数学との緊張関係を生む。
ZFCの哲学は、大規模基数公理の研究と密接に関連する。イナクセシブル基数、マーロ基数、超コンパクト基数などの大規模基数の存在は、ZFCの無矛盾性を強化し、数学的宇宙の階層構造を示唆する。これらの基数の存在は、プラトニズム的な数学観を支持するように見えるが、形式主義的解釈も可能である。
ゲーデルの不完全性定理のZFCへの適用は、数学的真理の本質に関する深遠な問いを提起する。特に、第二不完全性定理は、ZFCがその自身の無矛盾性を証明できないことを示し、ヒルベルトプログラムの限界を明らかにした。
ZFCの哲学的含意は、数学的構造主義との関連でも重要である。ブルバキ学派の構造主義的アプローチは、ZFCを基盤として数学的構造を定義し、分析する。一方、カテゴリー論的基礎づけは、ZFCに代わる代替的なアプローチを提供し、トポスの概念を通じて数学的宇宙の多様性を示唆する。
内部モデルの理論、特にゲーデルのL構造の研究は、ZFCの哲学に新たな視点をもたらす。V=L(すべての集合が構成可能である)という仮定は、連続体仮説や一般化連続体仮説を肯定するが、同時に多くの大規模基数の存在を否定する。これは、数学的宇宙の「薄さ」と「厚さ」の間の哲学的緊張を生む。
結論として、ZFCの哲学は、数学的存在論、認識論、真理論の交差点に位置し、現代数学の基礎に関する最も深遠な問題を提起する。その影響は、数学哲学にとどまらず、論理学、計算理論、量子力学の基礎にまで及ぶ。ZFCの哲学的探究は、数学的知識の本質と限界に関する我々の理解を深化させ、数学と哲学の境界を絶えず再定義しているのである。
ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。
そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者が発症する誤嚥性肺炎である。
内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。
特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家が存在しない。
肺炎だから呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。
精神科は認知症診療が業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である。
脳神経内科医は嚥下や認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。
そんなわけで多くの場合は内科医が手分けして診療することになる。
そういうわけだから、誤嚥性肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドラインも2013年から更新されていない。また誤嚥性肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いものが出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだものは殆どみない。患者自身が何を体験しているかを推定している文章は殆ど読んだことがない。
病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師の説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍の説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。
もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針は大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。
にもかかわらず、認知症患者の誤嚥性肺炎は最も多い入院かつ、その患者は入院期間が長い傾向にある。入手可能なデータだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥性肺炎が関連している印象がある。
誤嚥性肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥性肺炎を起こすことでさらに認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設へ退院することが難しくなり、転院を試みることになる。
典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者は施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから、治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症=治療不可能な疾患があることは意識されない。
ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。
退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態を誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄のリスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。
そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる。身体機能も食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。
しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能・認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥性肺炎を起こしやすくなり、活動に制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能がさらに低下して退院していく。
だから人によっては一か月とか半年後に誤嚥性肺炎を再び発症する。
家族や医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。
そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。
というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間の感覚があるのだろうか。
本人にとって長生きすることの体験の価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。
というのは逃げなんじゃないか。
状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快の感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。
なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識が障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)
どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。
多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。
仮に唱えたとしても、それはせん妄や認知症の悪化としてとらえられてしまう。
老衰の過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。
ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力、食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である。
多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎で入院したときに認知機能について評価されることは稀だ。
実際には、その人の生活にどれだけの介護が必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。
進行した認知症で入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。
訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥のリスクを減らし、肺炎を治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。
医療において、患者の権利は尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療を選択することもできる。
しかし患者自身が認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。
そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療を希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージを希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)
しかし問題があって、認知症が進行するほどに高齢な患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。
親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。
そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験を想像しながら話す場合も、めったにない。
意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。
「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」
この二つを満たすことが無益な治療の定義である。この概念を提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者を対象としている。
彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益な治療は倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である。
高度に進行した認知症患者の誤嚥性肺炎の治療は、厳密な意味での無益な治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。
この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。
そこで死に至る疾患である印象が失われた。
専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である。医療系ガイドラインはエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥性肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値に踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である。
人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン、人生の最終段階における医療・ケアに関するガイドラインは存在するが、そもそも高度な認知症を合併した誤嚥性肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事と認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである。
さらに状況が不利なのは、個々の病院のKey performance indexは、病床利用率であることだ。
認知症患者の誤嚥性肺炎は、しばしば酸素を必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域に病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度は使用される。そのため、誤嚥性肺炎の患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。
介護施設に入所した場合は、誤嚥性肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟が複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。
介護施設から搬送された患者が誤嚥性肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。
一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥性肺炎の治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥性肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。
訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。
病院の経営構造、施設の訴訟回避、医師の不勉強と説明不足、そしてEBMと患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ちと多忙さ、患者自身が自己の権利や利益を主張できないこと、家族の意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。
現在誤嚥性肺炎を入院で担当する主な職種である内科医は、糖尿病の外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。
専門医制度が煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なからず認知症高齢者の誤嚥性肺炎を診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しかし構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。
僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。
進行した認知症患者の誤嚥性肺炎とは延期可能な老衰である、という共通の認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実、認知機能が低下していない高齢者で、延命を希望しない方は多い。その延命の意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。
誤嚥性肺炎の診療は、所謂延命と解釈することが可能な範疇に入ると僕は考えている。
後期高齢者の医療費自己負担額一割と、高額療養費の高齢者優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥性肺炎の入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。
ミクロ経済学は、一般には企業と消費者という経済単位を考え、市場の相互作用を分析する。
分析方法として、1)最適化, 2)均衡分析 という方法を用いる。
企業行動のモデル化では、目的関数は利潤最大化で、制約条件は技術・市場である。消費者行動では、目的関数は効用であり、制約は予算である。
経済の均衡とは、経済単位の行動全てが相容れるものであるときの分析ということである。均衡の分析は、不均衡状態の分析よりもはるかに単純である。
均衡状態に限定し、さらに最適化問題を解くときに、実行可能領域で行動を変えて目的をさらに追求できる経済単位が存在しない状態(パレート最適性)の分析を行うことになる。
同じ時期に中途で入社して当時は明らかに私より仕事はできなかったし尻拭いさせられることも多かったけど、
上司に可愛がられていろいろな仕事に放り込まれて手厚く育てられた結果、
実務面でも待遇面でも人事面でも完全に上の領域に到達している。
結局、陰キャがちょろっとばかし頑張って実務能力付けたところで、
人から好かれる才能を持っている奴には絶対に敵わないんだな…。
消えてなくなりたい…。
調味料が盛り上がっていて楽しいので、常温or冷凍で常備できる食材についてもいろいろ話したい。
とりあえず自分(自炊歴15年、最近家族ができて料理当番)のランク付け、だいたい主菜と汁物と副菜1~2品をつくってる
他にお勧めのものがあれば教えてほしいな。(乾物と書いたけれどそうじゃないものも多い件については目をつぶってほしい)
なお、書いたあと思ったけれど基本副菜向けが多く一人暮らしだと必要なさそうなのが多かった・・・。
味噌汁によし、サラダによし、キュウリと合えてもよし、うどんの具によし。
<Tier A>(自炊をしっかりするなら持っていて損はない)
・揚げ玉
うどんはサクっと朝食昼食済ませたいときに重宝するので、ランクがあがってしまう。
・鰹節
おひたしに振りかけるだけでそれっぽくなる。お好み焼きにも嬉しい。
・刻み油揚げ
・昆布
余裕があるとき、30分~1時間水につけておくと、お上品な味わいになる気がする。
おひたしにも使えるし、自家製胡麻ドレッシングをつくるときや、ナムルに重宝。
他にもさっと振りかけるだけで風味がでるので、持っていて損はない。
・塩昆布
昆布とは別。自分はあまり使わないが家族が好き。和え物によいしお手軽。
・花海老
おひたしに振りかける際、鰹節にかわるレパートリーとして。なんか凝った感もでる。
意外と安くて長持ちする。
・大豆
意外と大豆って意識しないと使わないよね。しかも一部の煮物くらいか?
セットアップ(水に6時間つける)の時間もかかるし。ただ冷凍できるので作りためておけばいい。
・ひよこ豆
大豆よりこちらのほうが汎用性高いのではと最近思っている。エスニック食材屋だと安く買える。
サラダ、トマト系の煮込みに良い。大豆の代用にもなる。変わったところだと中東料理のフムスのメイン材料。
・春雨
自分は春雨サラダくらいにしか使わないけれど春雨サラダがおいしいので。
他にチャプチェとかにも使えるのかな?鍋にいれてもいいのかな。
・きざみのり
・豆鼓
ほぼ麻婆豆腐専用機。増田は麻婆豆腐が大好きでよく作るので常備
切り干し大根専用だけれど味噌汁にいれるとうまいらしかったりするので、もっていてもいいのかも
・ひじき
ひじきのレシピがひじきの煮物とひじきごはんしか思いつかない…。
・松の実
ペペロンチーノ専用?高い
インド、中東料理専用。逆にそれらをつくるなら必須。ダルカレーやスープetcにつかう。エスニック食材店で安く買える。
最近少し火を通したレンズマメのひきわりを松の実の代用としてペペロンチーノにいれると美味しいことに気付いた。
・にぼし
「闘争・逃走反応」(英語: fight-or-flight response)という言葉が生理学や心理学などの領域にあるらしいことを知って面白かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%98%E4%BA%89%E3%83%BB%E9%80%83%E8%B5%B0%E5%8F%8D%E5%BF%9C
調味料何買ったら良いんだ?という増田が定期的に出るので2024年版の初心者向けの調味料ティアリスト作ってみた(異論は認める)。
一応、料理研究家業で食っててメニュー開発案件とかで貰うの含めると、年間100種類以上はいろんな調味料触ってます。マニアックなオススメブランドとかも色々あるけど、とりあえずはスーパー(オオゼキ)で買えるベースで書いていこうと思う。
<判断基準>
まずは先に判断基準書いておくと、
・使うメニューの対応範囲が広いものが高ランク。メニュー限定みたいなのは評価下げる
・調味難易度が低いのは、ルーキー帯なので加点評価。ネットで調べてレシピ通りに作れるゴールド帯以降の人達に向けては書いてない。手なりで、かける、混ぜる、ぶちこんで炒めるが成立するものは高評価。
・一応スト6勢用語使ってるのでわからない人向けに書くと(未経験→ルーキー→ブロンズ→シルバー—(中級者の壁)→ゴールド→プラチナ→ダイヤモンド—(上級者の壁)→マスター→レジェンド(プロレベル)となってます。今回はシルバー帯までの人向け。
・上にも書いたけど、レシピ調べて調味料を揃えてちゃんと分量計測して作れる人はゴールド帯だと思うんだ。君たちは十分中級者以上だよ!!
・濃口醤油
刺身やヤッコから煮物まで絶対に必要。塩や砂糖よりそのままぶっかけて使えるので優先度は高い。ルーキーが最初に買うべきは「真空容器」の500cc以下のサイズの醤油。醤油は香りの劣化が早いので冷蔵庫保管が基本。使い切る速度も早めておくと良い味が保てる。
・黒胡椒
ほぼ全ての肉料理、洋食にかけるだけで美味くなる。テイクアウトの牛丼やコンビニパスタに胡椒追加でかけてもクオリティがあがる。風味がめちゃくちゃ大事なので絶対にミル付きを買おう。挽きたては全然香りが違う。詰め替えできるミルタイプを選ぶと買い足す時リーズナブルだぞ。
・米油
炒め物や焼き物、などで必要となる香りのない油。その中でも初心者にオススメは圧倒的に米油。サラダ油と比べて断然酸化しにくく、使い切りが遅くても比較的劣化しにくい。ただ若干値段が高いので、揚げ物とかでドパドパ使いきるならキャノーラ油でよい。
・万能タイプ濃縮麺つゆ
中級者帯までは、めちゃくちゃ使える。煮物、炒め物、和えもの、これ一本で大体全部いける。麺つゆで味付けする、お手軽レシピも死ぬほどネットに転がってるので料理のバリエーションを増やすのも簡単。甘さがブランドで結構違うので自分の好みを探し当てるまでは色々と試すと良い。個人的には甘味少なめの創味のつゆが好き。
・鶏がらスープの素
これも初心者向けとして非常に優秀。純粋な味の素と違い、塩と鶏の味が入ってるので味付けが簡単。お湯に溶かすだけでスープとして飲める。そこに溶き卵と刻み葱いれてごま油たらせば、ほぼ店の味。自炊でなんか美味くないなぁってときは、大体これ入れればオッケーにしてくれるリカバリー力も魅力。ウェイパーとか創味シャンタンとかの中華出汁タイプも便利。時々意識高い人向けに成城石井とかで化学調味料無添加のもあるけど、酵母エキスが入ってるので無理に選ぶ必要はないぞ。
・焼肉のタレ
甘しょっぱい系の炒め物は全部これで完結。肉+ネギ+焼肉のタレで作る炒め物は5分で作れる限界メニューとして、押さえておくと良い。注意点としては、焼肉のタレ系はバリエーションが豊富でパッケージも魅力的なので買い集めたくなるが、大体同じ方向性の味なので複数は買う必要がない。実家と同じブランドにすると一人暮らししても実家飯に近い味が作れる。味研の焼肉のタレが上手いけど賞味期限が短いのがネック。
・ほんだし
味噌汁作りたい時や煮物系の出汁として使う。あとは和風パスタとかにも使える。ペットボトルの緑茶やほうじ茶に本出汁溶かせば、限界冷やし茶漬けとかも作れる。ゴーヤチャンプルーみたいな炒め物を本だし使うと味付けが楽。これベースが鰹節系なので実は味噌汁で使う場合は味の素を追加で入れると一気に美味くなる。注意点としては、開封後半分残した時は冷蔵庫保存すること。常温で適当に放置するとゴキブリが湧く。
・塩
塩は最も基本にして最重要な調味料であるが、かなりの料理上手でも扱うのが難しい調味料なので、この位置。ただ中級者以上を目指すのであれば塩決めは避けて通れないので頑張ろう。まずは肉を焼くときに肉の重量の1%塩を振るところから塩加減を学ぶと良い。塩は色々種類あるけど、まずはサラサラした精製塩or焼き塩が振りやすいのでオススメ。とりあえずは伯方の塩(誤字なおしたんゴ。ごめんやで。許して)の焼き塩を買おう。
・ごま油
中華系の料理に使うだけでなく、やみつきほにゃららみたいなレシピには大体使う。シンプルに香りある油の中でもゴマ油はそのまま使って美味い。掛けタレ、ドレッシング、炒め物と応用範囲は広い。太白とかではなく普通の黄金色のやつを買う事。これもまぁまぁ酸化しやすいので、小さめの容量推奨。
パスタをはじめ洋食系の油はほぼコレ一択でOK。円安とオリーブの不作で値段やばい事になってるけど、やはり欲しい。オリーブオイル風オイルでも代用できないかなとつかってみたけど、味的にちと厳しかった。あとオリーブオイルは酸化しやすく、酸化したらくっそ不味くなるので少量で買って早めに使い切りたい。冷蔵庫入れると固まるので使いにくくなる。
フライパンで油を温めるスタートの料理には全部入れて良い万能選手。そして入れるだけで味がグレードアップする。もちろんチューブでも良いのだけど、自炊にある程度慣れてきたら生の生姜、ニンニクを使って欲しい。香りが全然変わるので自炊の味が爆上がりする。刻みニンニクの瓶詰めも悪くないのだけどチューブと比べても応用範囲が狭くてお勧めしにくい。両方あったほうが良いけど、どちらか一つ選ぶならニンニクかな。
酸味つける系で何か1つであれば、ポッカレモンをおすすめ。葉冷蔵なのが減点要素ではあるものの、お酢よりも幅広く対応可能。とりあえず酸っぱくしたければ、全部一旦はこれで良い。味の素+ごま油+ポッカレモン+塩+ニンニクおろしで旨塩タレの味付けができる。酒のつまみにも最適なので覚えておくと便利。
・味塩コショウ(追加)
ゴールド帯以降ではほとんど見かけないので、すっかり記憶から欠落してたよ。かけて炒めるだけで味決まるのが良い。ホリニシのスパイス塩とか、ろくの塩とかもココね。塩分濃度が食塩より低いので雑にかけても失敗リスク低いのが良いよね。とは言え、個人的には鶏ガラスープの素やウェイパーで代用可能で応用範囲が狭いのでと少し下。
・味ポン
最強の万能かけダレ。とりあえず豚肉薄切りを茹でてポン酢かければ食える。鍋のつけダレとしてももちろん優秀。ただし、他の調味料と違って酸味がベースで入ってしまうので、味のバリエーションがつけにくいのが減点。何に使っても全部ポン酢味になる。白い透き通った色の「ポン酢」という味付けされてない柑橘と酢を混ぜただけの調味料もあるので、そちらを間違えて買わないように注意。少し高くてもよければ、おすすめは馬路村か旭ポン酢が美味い。
特定メニュー専用機。中華に手を出したくなったら、まずはこれから始めよう。豆板醤やら甜麺醤やら紹興酒に手を出すのは、冷蔵庫の肥やしになるだけだからプラチナ帯以降にしよう。中華料理を1回2回作りたいだけなら、こちらの方が圧倒的なコスパだし失敗も少ない。味もしっかり研究されてるので、下手にクックパッドや動画を参考に自作するよりずっと美味しくできる。
・鍋つゆ
鍋専用。当然冬の時期は出番が多い。大体が使い切りで置き場所圧迫しないのも評価高い。麺つゆやほんだし、鶏がらスープなどを使えば実は買わなくても行けるんだけど、味バリエーションつけること考えると買っちゃった方が楽。1人鍋用のプチッと鍋シリーズが優秀。
野菜を食べるのに便利。とりあえずなんでも野菜を茹でただけで一品になる。切り身に乗っけてホイル焼きにしたりも良い。裏技的に油切らした時とか炒め油の代替として使うこともできる。他の調味料と混ぜるのも良くて、ポン酢マヨ、醤油マヨなどクリーミーさ欲しい時に使えたりもする。キューピーや味の素でもいいけど、松田のマヨネーズ(甘口)が美味いので、見つけたら手に入れておくと良い。
・味の素
令和になってきてから、見直されてきた日本が誇る旨味の素。プロでもこれを蛇蝎の如く嫌う人もいるので、宗派的な寛容さは必要。大体何に入れても旨味が上がるが、鶏がらスープなどと違い単体では美味しくないので使い方にコツが必要。まずは少量を塩と一緒に肉や魚介に軽く下味として振るのがおすすめ。あまりの万能さ故に慣れすぎると、何でもかんでも手なりで入れたくなるので注意。そういう意味でも個人的には上級者向けの調味料だと思う。
<Tier C>ちゃんと料理に目覚めた人向け。初心者は必要になるまで揃えなくても良い。
・砂糖
主に料理に使うならきび砂糖が便利。上白糖よりも味が複雑でコクのある感じに作れる。ただ正直、種類はグラニュー糖でも上白糖でもなんでも良いっちゃ良い。甘い調味料なら代替可能なので、はちみつや味醂なんかでも頑張ればどうにかなる。洋食ではほぼ使うことはないが、和食を作りたいのであれば欲しい。
・酒
料理酒ではなく清酒。料理酒は酒税がかからないようにするために塩が入ってる。これがとにかく料理に使いにくい。パックの菊正宗とかで良いので普通の酒を買おう。酒は煮物、炊き込みご飯、炒め物などなど使うシーンは多いが、麺つゆで代用できるケースが多いのでこの位置。自分で出汁を引いたり、調味タレを合わせるようになると必須。
・味醂
これも酒と同じタイミングで揃えたい。ちゃんと和食作るなら必須だけど、適当自炊なら麺つゆで十分。みりんも、本みりんとみりん風調味料の二種類あって、香りも味も本みりんの方がずっと良い。もっと言うと三河みりんを買いたい。
・米酢
酢の物など限定的に必要。ラーメンや焼きそばにかけるほど酢が好きな人は、もっと高評価になりそう。りんご酢、ワインビネガーとか色々あるけど、結局応用範囲広いのは米酢かな。他のは風味が和食向きじゃ無いのよね。ほんだしと合わせて作る簡易酢の物が便利。茗荷やきゅうりの夏野菜にぶっかけるだけで美味い。
・味噌
ほぼ味噌汁専用。そして味噌汁を毎日乱発しないなら、即席のインスタント味噌汁で十分。まぁ保存は効くしマヨネーズと混ぜてディップとかもできるけど、そんなのは上級者以降のプレイ。(追加)味噌焼きも美味いよね。ただ調味料の合わせが必須になるから少し難易度高めな印象
・片栗粉(追加)
粉系で何か一つ揃えるなら、片栗粉。小麦粉よりもとろみ付けに使えるので応用範囲が広い。表面に小麦粉まぶして焼くようなものも、だいたい片栗粉で代用可能。適当に作る料理だと使用頻度は大して多くない。レシピ見て作るようになると、まあまあ使う。
<Tier D>ここからは趣味の領域。冷蔵庫の肥やしにする可能性が高いので買わない方が無難。解説なし。個人的にはめちゃくちゃ使ってる調味料も多いのだけど料理ハマるまでは、ピンポイントでその味が好きとかでは無ければ、買い揃えなくて良いかな。
・豆板醤
・甜麺醤
・紹興酒
・バター
・白胡椒
・タバスコ
・淡口醤油(これ使いこなせたら中級以上)
・白だし(麺つゆ味飽きたらあとで手を出す)
<追加>
結構物議をかもすかなーと思ってたので、色々とツッコミありがとう。味塩コショウとかコンソメとか漏れてたのあとで入れるわ。
あくまでルーキー帯の話に絞ってるからね。普通に自炊できる人は自分の好きな調味料使ってください。自分もこんな感じで書いてるけど、正直プロになってからは鶏ガラスープも麺つゆも本出汁も焼肉のタレも、料理の調味料としてはほとんど使わない。ただ最初に自炊始めたころは便利に使ってたので入れてる。
>塩と砂糖のTier低すぎるんだわ。
料理教えてると、塩使えない料理下手を死ぬほど見るのよ。下味入れる概念や塩決めるができるようになったらゴールド帯かなー。砂糖もコク出しで使えるのは100も承知なんだけど、これもうまく使えるようになるのは結構後だと思う。
(追加2)みんな沢山ブクマありがとう!!反応あって嬉しい。調子乗って、ゴールド帯〜ダイヤモンド/マスター下位帯編も書き始めたよ。塩SSS勢の皆さん納得のランキングになる予定なので、できたら見てねー。
ドル円ロンガーフルレバのわたしの視点で、根拠薄弱の妄想もりもりなので、異論反論大歓迎です!
私は経済のこと1ミリもわかりません!絶対に鵜呑みにしないでください!!!!
特に内容はうろ覚えとか思い込みを中心に書いてるので、間違ってると思います。
喧嘩腰とかバカにしたような態度ではなく、優しくうさぎちゃんを抱きかかえる気持ちで間違っているところを訂正してください。
本当は介入したくないんだけどせざるを得なかったというのは、まぁいつものことだし前提です。
木金の介入は3兆円、1兆円1兆円じゃないだろうか。
アメリカCPI鈍化は織り込み済みで0.5円ほどしか下がらなかったところに売り浴びせて一気に157.5まで下げました。
まぁ今までの8円以上滑らす介入に比べたらショボいのは、外貨準備高を使いたくないのは当然として、この程度で良いと思っているからです。
なんでこの程度でいいかと言うとドル円レート160アッパーを避けたかったということでしょう。そしてそれは月末の日銀会合の発表を示唆しています。
日銀は利上げをするという発表をするという、眠たい行動を先月取りました。はぁ?すると回答したときすでにしているんだ。みたいなのをどっかの漫画のキャラが言ってた気がしますが、ほんとうに眠たい発表でした。
するする詐欺ですね。
でも今月末の会合ではするする言ってるしするっぽいです。(誰がこんなことを信じているのでしょうか)
160を切っていてほしい理由はやっぱり、この日銀会合結果が円安材料になるのでしょう。だからこそ。一時しのぎでもいいから月末までの間だけでも160アンダーにしておいて、会合結果での吹き上がりを抑えておきたい。そんな戦略。戦略と言うにはあまりにもその場しのぎのお粗末なものですが、政府の金融政策がお粗末じゃなかったことなど無いので、割と推理の根拠は揃ってる気がします。
直近の円安防衛ラインは160円になってるのかも知れません。というか、多分そう思わせることで市場を牽制しているのでしょう。
まぁやりたいことはわかりますし、月末までそこを防衛したいというのであればある程度合理的だし防衛できるかも知れません。
160アンダーでも介入するぞ。と言うメッセージがあることは自明です。
また1兆円程度の小規模介入を繰り返していることからこのような政府の認識も伺えます。大きなレバレッジを取っている大口投機筋から大量の売りを仕掛けられている。だからこそ、小規模介入でも彼らの限界まで張り詰めたレバレッジポジションを燃やせる。そのように考えてるのだと思います。
私はドル円ロングしているし当然今の円安が投機筋の円売りによる歪んだ市場活動の結果だとは全く思いません。
もちろんそう言う投機筋が居ることは事実ですが、投機筋だけの動きでこんな円安になることはありえません。円安の根本原因は為替差益であり、何よりも日本自体の国力低下ですし、市場にばらまきすぎた円のせいです。
だからこの円安の主な要因は、単純な円の弱さであり、市場の実需を反映した価格であり、投機筋はそれに乗っかっているだけなので、投機筋をちまちま焼いたところでこのうねりは絶対に解消されません。
アベノミクスでお金を配りまくったんだから円安になるのは当然であり、MMT理論では一定の領域までならお金を配っても極端なインフレにはならないと言っていました。
あの、オカルト扱いされているMMT理論ですら、どの時点かはわからないけれど極端にお金を配り過ぎたらインフレが加速すると注意をしていました。
なぜ日本が極端なインフレにならなかったのかと言うと、日本は量的緩和をしてもインフレにならなかったからです。という頭の悪いトートロジーで成立していました。
実際に異常な量的緩和を何年も続けていても日本は極端なインフレにはなりませんでした。だからこそ、MMT理論は実現するのではないかという一つ時の希望がありましたが、円安なっとるやないかい!
MMTは無理っぽいですね。
なんでMMTの話をしているんだ?
ということで、今更この円安を止めるなら、金利を10%とかにしたら良いんだけどそんなことしたら日本国民の生活破綻するので無理です。
外貨準備高を取り崩してその場しのぎの円買いを繰り返すしか無いですし。
無理だろうな。
日本経済は全然加熱していません。冷え切ってると言えるほどではないけど、景気良くないのに増税も利上げも無理です。
あー、でも日本政府ってマジで、それやったら制御不能になるに決まってるだろうっていう意味不明なことするの得意なので、本当に利上げするのかなぁ。
日本経済壊れてでも良いから不動産取引制限して90年代の好景気を叩き落としたように、今回本当に利上げするのかな?5%ととか?
日本の金利が5%の利上げしても物価上昇のスピードに追いついてないからまだドル円の実質利率レートの差まだドルのほうが高いのではないかな?
日本は本気で円安を止める目的で利上げするなら5%以上上げる必要あるけど無理だし。
実際に先月の植田さんは利上げに踏み切ると言いながら、かなり長期スパンでのゆっくりした利上げをすると言っていた。
植田さんや日銀としては、本心では利上げするつもりは無いのじゃないのかと俺は思っている。
だって意味不明だもんな。日本国内の景気を促進するために自分たちで金をばらまいておいて、景気回復しない段階でその影響を打ち消す政策やれだもんな。
意味不明だわ。
なので7月末の日銀発表での利上げは、0.05%上げるとか、下手すると具体的な数字を発表して実施時期を発表とかそんな感じだろう。
それを示唆したのが先週の激ショボ介入に込められたメッセージです。
まとめです。
日銀はショボい介入をした。その理由は月末に控える日銀発表による円安ロケット噴射を和らげるためです。
多分想定防衛ラインは170円ですが、この理由により直近は160円アンダーにレートを抑え込みたい。
また7月の間だけでも牽制するために、160円防衛ラインを市場に意識させたいので小規模介入で牽制した。
実際のところは160円の死守するつもりはないので早晩この防衛ラインは突破される。
とくに月末の発表で吹き上がる可能性が大きい、160以下に抑え込んでおきたいという政府の行動からかなりの確証を持ってそれが見て取れる。
160アンダーでは円を買いまくるべし。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
90年代末期の江副浩正の社会的イメージといえばそれはそれは酷いもので、反社会的人物の最たるものと思われていたが、当時より彼が行なっていて慈善活動として奨学金事業があるのでそのことについて書いておきたい。
リクルートスカラーシップは学術,芸術に秀でた人物に対して無償の奨学金を提供するというもので、今は多少異なっているようだが、当時はオペラ、建築、心理学の各領域で年間6人程度が対象となっていた。当時はまだ有望な学生だった私も、この奨学金の受給者として選定され、2年間の間、毎月十万円もの支援をしていただいた。
残念ながら、能力もモチベーションにも欠けていた私は、その後、その分野において芽を出すことは叶わず、別の領域でひっそり生きているのだが、大学院進学後の困難な時期に得られた支援によって、やはり私自身の糧になっているという思いがある。財団からはOB奨学生に対して,毎年色々とコンタクトがあり、落ちこぼれの私は総会などにも一度も出席したことはなく、ただただ恥ずかしいという思いをこの20年間以上積み上げてきたが、この歳になって、非才の私を支えてくれた支援に対する思いはどんどんと強くなる。
思うに奨学金事業というのは「成功率」の非常に低い営みであり,金を渡しても私のように音信不通となってしまい、そのリターンが不明となるケースも多々あると思うが、そんな時でもその支援というのは決して無駄ではない、と各種基金の設立者や関係者の方々には伝わってほしいと思う。こんなことをここに書いていても仕方がないので、今年は何らかの形で事務局には連絡を取るか,あるいは当時に受けた支援金額の何分の一かでもリクルート奨学金か、あるいはあしながなどの他の基金に対して寄付したいと思っている。
女性は相手が自分の仲間かどうかを、見た目以上に共感とか心で認識してる。
「女を代表するパーツが付いていれば女だろう!!」ってそれ完全に男性の思考だなあって思う
それさえあれば女だと思ってるんだよね
それさ徹底的に女とは違う考え方なんだよね。女がしない考え方なんだよね。
それだけはどんなに学のない女でもわかるんだよね。
「心まで女」の領域にまで達してないんだよね
というよりは、そもそも身体の存在が意識の俎上に上がらないので自分の意識としてはその質問の問いは「男の意識があるとはどういうことか」という問いになります。
女のプライドみたいな話については「へえそういう人もいるのか。自分の実感としてはわからない感覚だな」と感じ、
男のプライドみたいなものについては「ああ~あるね、あるね、そういうの」みたいな形で理解を示しやすいなという程度の話ですね。
どちらかといえば自分については身体が女性ではなく、身体の一部が女性、身体の一部(ホルモンレセプター等)が男性だという認識をしています。
たとえば女性の身体云々やホルモンバランス云々で精神の周期がどうこう…みたいなのも全く感覚として存在しないので、中枢神経のどこかのホルモン受容体が欠損しているか、発生段階で男性型として分化したのではないかと推定しています。周期的な女性特有の心身のぶれがありません。また、自分が性的に惹かれる対象が「男性ホルモンが欠落しており女性ホルモンの影響による特徴を多く有する人物」なので、そのような推測をしている面もあります。正確な自認としては(推定として)「身体的に男性かつ女性」と認識していますが、現状そのような区分が存在しないのでトランス男性(ないし普通に男)と名乗っているだけです。
このあたりは科学的に解明されることも可能な領域だとも思います(分界条床核の研究、fruitless遺伝子の研究など)。しかし、解明されること自体が不都合な層も多くいる様子ですので今後の研究費等は出にくくなる可能性もありますね。
姪っ子もコレ、分からないって泣きついてきたよ。
x を移項して
ゆえに
「おじさん、訳わかんない」とのこと。
説明を悩んだが、まさかメモリとアドレスから解説するわけにも行かぬ。
…これはね、実はイコールじゃないんだ。
だと考えてごらん。意味は、" x という箱に x の中身と 1 を入れる。"
「2 x + 1 になる?」
…違う、そうじゃない。
「分かんない」
…何が分からない?
「何が分からないのか、分かんない」
俺らが当たり前にやってる事って、実はスゲー事なんじゃないか。
靴ヒモの結び方を口で解説できないように、専門領域の初歩の初歩がもう既に、外から見たらムカデの歩き方なのかもな、って思った。