はてなキーワード: 一階述語論理とは
マックス・テグマークの数学的宇宙仮説は、物理的実在が数学的構造そのものであると主張する。これを厳密かつ抽象的な数学の枠組みで表現する。
1. 存在論的同一性:Ob(Str) ≅ Ob(Phys) すなわち、数学的構造の対象と物理的実在の対象が一対一に対応する。
2. 構造保存性:∀ S₁, S₂ ∈ Str, Mor_{Str}(S₁, S₂) ≅ Mor_{Phys}(F(S₁), F(S₂)) すなわち、数学的構造間の射は物理的実在間の射と対応する。
以上の抽象数学的枠組みを用いて、テグマークの数学的宇宙仮説を次のように定式化できる。
この定式化では、集合論、カテゴリ論、トポス理論、モデル理論などの抽象数学を用いて、数学的宇宙仮説を表現した。
特に、数学的構造と物理的実在の間の圏同値やトポス同値を強調することで、両者が数学的に同一視できることを示している。
ZFC (Zermelo-Fraenkel set theory with the Axiom of Choice) の哲学は、数学基礎論における中心的な位置を占め、その含意は数理論理学、モデル理論、証明論にまで及ぶ。
ZFCの存在論的基盤は、von Neumann–Bernays–Gödel (NBG) 集合論との比較において明確になる。NBGがクラスの概念を導入するのに対し、ZFCは純粋に集合のみを扱う。この違いは、大規模基数の存在に関する議論において重要な意味を持つ。例えば、到達不能基数の存在は、ZFCでは公理として追加する必要があるが、NBGではより自然に扱える。
ZFCの哲学的重要性は、その一階述語論理に基づく形式化にある。これにより、完全性定理が適用可能となり、モデル理論的手法を用いた相対的無矛盾性証明が可能になる。特に、ゲーデルのL構造(構成可能全体)とコーエンの強制法は、ZFCの独立性結果を示す上で本質的な役割を果たす。
ZFCの公理系、特に置換図式の導入は、フレーゲの論理主義の崩壊後の数学基礎論の再構築において重要な役割を果たした。置換図式は、ラッセルのパラドックスを回避しつつ、十分な数学的対象の存在を保証する。
選択公理 (AC) の哲学的含意は特に深い。ACは、トポロジー的ベクトル空間におけるハーン・バナッハの定理や、測度論におけるバナッハ・タルスキのパラドックスなど、数学の広範な領域に影響を及ぼす。ACの非構成的性質は、直観主義数学や構成的数学との緊張関係を生む。
ZFCの哲学は、大規模基数公理の研究と密接に関連する。イナクセシブル基数、マーロ基数、超コンパクト基数などの大規模基数の存在は、ZFCの無矛盾性を強化し、数学的宇宙の階層構造を示唆する。これらの基数の存在は、プラトニズム的な数学観を支持するように見えるが、形式主義的解釈も可能である。
ゲーデルの不完全性定理のZFCへの適用は、数学的真理の本質に関する深遠な問いを提起する。特に、第二不完全性定理は、ZFCがその自身の無矛盾性を証明できないことを示し、ヒルベルトプログラムの限界を明らかにした。
ZFCの哲学的含意は、数学的構造主義との関連でも重要である。ブルバキ学派の構造主義的アプローチは、ZFCを基盤として数学的構造を定義し、分析する。一方、カテゴリー論的基礎づけは、ZFCに代わる代替的なアプローチを提供し、トポスの概念を通じて数学的宇宙の多様性を示唆する。
内部モデルの理論、特にゲーデルのL構造の研究は、ZFCの哲学に新たな視点をもたらす。V=L(すべての集合が構成可能である)という仮定は、連続体仮説や一般化連続体仮説を肯定するが、同時に多くの大規模基数の存在を否定する。これは、数学的宇宙の「薄さ」と「厚さ」の間の哲学的緊張を生む。
結論として、ZFCの哲学は、数学的存在論、認識論、真理論の交差点に位置し、現代数学の基礎に関する最も深遠な問題を提起する。その影響は、数学哲学にとどまらず、論理学、計算理論、量子力学の基礎にまで及ぶ。ZFCの哲学的探究は、数学的知識の本質と限界に関する我々の理解を深化させ、数学と哲学の境界を絶えず再定義しているのである。
https://anond.hatelabo.jp/20170829143814
の元増田だが
条件の共有が難しい、共有できない相手が確かに一定数居る、となった時にどう対応を取ればいいか考えたい
政治家が顕著だけど、パブリックな場で特定条件(前提)の話は避けられるなら避けるべきなのだと思う
前提がうまく伝わらなかった場合や、仮定を破壊された場合、簡単に炎上する
本人としてはあくまで前提や前置きをしているつもりで激しい主張をするんだけど
そもそも相手に伝わらないし、伝わらなかったために炎上してしまう
前提を用いない話というのは、事実ベースの話しかしないということだ
「〜の場合」「例えば」「仮に」「あくまで」「もし」などを使わない
(例えば麻生さんは前提・仮定大好きなタイプでよく炎上してるが、安倍総理は極力事実ベースのことしか言わないタイプであまり燃えてない。意識的にやってる?)
前提を置くとしても「前提を外された時にどう思われるか」を意識しないといけない
男女共同参画社会のため「男性も働かず主夫をやる選択肢がもっとあっていい」というような主張に
「家事も仕事もしない男性がいっぱいいる」というような反論(?)があった
主張者はもちろん「主夫は家事をやる」という前提を持っていたつもりだったのだが
前提を外されて「家事も仕事もしないなんてとんでもない」と言われてしまった
前提を主張しすぎると注釈だらけの契約書みたいになってしまうが
相手を感情論にさせない工夫をしないと、自分の主張が正しく伝わらない可能性がある
もし前提まみれの複雑な話をするなら、密室で、話の通じる相手だけとするしかない
前提や思考実験は本来物事を科学的に検証するなら大事な作業だ。そうじゃないと本質が捉えられない
でも話の対象が複雑な場合、前提を揃えるというのはしんどい作業だ
信用できる相手でさえ、認識齟齬や前提確認で語調が強くなることは多い
ちなみに「前提まみれの複雑な話」は例えば
・法律の話
・人間関係の話
・システムの話
・サービスの話
・科学の話
・組織の話
・仕事の話
・政治の話
など
これは実は不都合な真実だと思ってる
「みんなで議論」「みんなで決める」「みんなの意見」というのが素晴らしいとされる世の中において
しかしいちばん大事な話をするときにはシャットダウンしなければならない
(以前居た会社はそれで潰れた。死ぬほど優秀な人達が皆で決めようとしたが破綻した)
ところで、じゃあ公開討論会みたいなのはどうすればいいんだろう??
どう取り繕っても何割かの聴講者には誤解を与えていると思う
例えばテレ朝の「朝まで生テレビ!」では「前提まみれの複雑な話を前提を揃えずに進めている状態」が延々続いているので
見た人はほとんどの出演者に良い印象を受けないのではないだろうか
それともああいうのは「伝わる人にだけ伝わればいい」という、開き直り対策なのだろうか
翻って、自分が相手の前提を取り違えているケースにも注意しなければならない
特にその人が激しい意見を言っているなと感じた時や、自分が感情的になりかけている時
そういう時はまず相手がどういう意図で言ったか考える癖をつけたい
(考えても「あーわかんね何こいつ」ってなること多いけど)