はてなキーワード: 言及対象とは
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
なんかこういうのあるとすぐに「殺処分」という言葉そのものが悪い、捕まる、みたいな解釈する人いるけど、どんだけ言葉狩り思想が身についちゃってるんだって思う。
こういうので一番問題になるのは「言及対象が特定されているかどうか」。
この事件の場合、特定の重度障害者に向けて「殺処分」って言ってるから、その人の名誉感情を毀損した、とか、私生活の平穏を脅かしたとか言えるわけよ。
「自分が重度障害になって回復の見込みがないなら殺処分にしてほしい」みたいな事例なら、使っても問題ない表現なわけ。
「弱者男性は殺処分しろ」とかいうのも、その弱者男性が誰かは特定できないんだし、明確な定義もないんだから、それで捕まるってことはない。(はてなのガイドライン的には、ある属性に対する残虐な表現や攻撃的表現はNGだったと思うが)
でも、特定の誰かを指して「こういう弱者男性は殺処分でいいだろ」とかいうのは、その誰かが訴えた時に罪に問われる可能性はある。
ヘイトスピーチ法も、あくまで努力義務であって、ヘイトスピーチをしたら捕まるということは今のところない。ヘイトスピーチによって特定の誰かが身の危険を感じたという事実が生じて、初めて罪に問われるかもというところになる。
はてブって実名垢でない限り、匿名つってもアカウントを漁れば過去の発言を見られるし、それなりにブコメとの整合性が問われるよな。言ってみれば「発言した責任」を問われる立場でもある。その問われる場がはてなブログだろうとヲチスレだろうとツイッターだろうとな
また一方でidという固有識別記号があり継続した運用実績がある以上、個別の人格を有していると言える。例えば5chなんかの匿名同士で「死ね」「殺す」の応酬は言及対象への特定可能性が無いので問題にはならないが、例えば増田でid誰々を殺すと明言したら、それは殺害予告と言えてしまう
そういった立場の非対称性が、はてな匿名ダイアリーの"サービスの匿名性は、特定の対象を攻撃する目的に使われるべきでない"って部分のキモなんじゃないか? 要は、この"匿名"ってのはアカウントidが固有識別記号となっているブコメと、それが表示されない増田の対比における後者により重点が置かれてるんじゃないかってこと
確かにブコメで批判が過熱していって集中砲火になる部分はあるにせよ、言うて発言者が明確でない以上は批判は内容に関するものであるわけで(邪推して人格や内面を押し測るものもあるかも知れないがidが出ない以上は想像の域を出ない)それは増田を使う上での受忍限度の範囲内じゃないかな
俺だって精一杯書いた増田を嫌儲に転載されてケチョンケチョンに貶されたことあるけど、ネットに文章を公開した以上はしゃーないと割り切ってる
そこで提案なのだが、そうやってイキってるブクマカをはてなブログ(はてなでのidがバレるのが嫌なら別のサービスでもいい)やnoteなんかで晒してみるのはどうだろう?
上記は、あくまでも"はてな匿名ダイアリー"での約束事に過ぎないのだから、そこを離れれば特に制約なんてない筈だ。少なくとも、俺はスッゲー読みたい
恥ずかしながら半年前まではてなブックマークという名前は知っていたけど利用したことがなかった。
名前の通りブックマークサービスが主だと思っていたのだけど、利用してみるとユーザーのコメントがメインになっていたので、半年間ROMって感じたことを書く。
最も独特だと思ったのはユーザーがコメントで「はてな」を一つの人格として言及していること。
初日こそ「お前も「はてな」だろ。自虐か?」と思っていたが、各々のユーザーにそれぞれの定義する「はてな」があるらしい。
やれ、リベラルだのはてサだのインターネット老人会だの表現の自由戦士だのとその時々の言及対象に都合よくカテゴライズして「はてな」と一括りにして言及、というか批判している。
そして批判しているのだから当然と言えば当然なのだが、批判してる自分は批判対象としている「はてな」から除いているだ。
これが外から見ると滑稽に見える。中二病的というか、「オレはお前とは違い物事の分別が付いている」とアピールしているとしか思えない。だって批判しているユーザーも「はてな」であって、それは他人からはリベラルは赤、保守は青みたいに区別がつかないのだ。冒頭で述べたように未だに「お前もはてなだろ…?」と思ってしまう。
それとも半年とまだ浅いから分からないだけで、ある話題で「これだからはてなは…(呆れ)」というコメントで言及しているはてなユーザーにとって共通認識で特定のユーザーや批判の元になった話題から批判されるべきコメントが抽出できているんだろうか?
長くサービスを続けているので、「はてな」の傾向に偏りができているのは分かる。
ただそれをユーザー自身が批判しても、そのあなた自身の傾向が理解されている前提で「はてな」批判されると、私のような木っ端ユーザーには「この人なんで自虐してるのかな?」と戸惑ってしまうのだよ。
黒子のバスケ事件、及び殺害予告で逮捕されない事があるというのは知らなかったので、その点については素直に申し訳なく思う。
ただ、前提条件が現実とずれてるという点については、そりゃ自分は社会不適合者なんで大体の事についてはそうだろうが、低能先生の話に限っては、そもそも現実の一般的な基準を前提にしてはああいう手合いがどうして発生してしまうのかという事自体説明がつかなくなってしまうだろう。
自分の他の事について社会常識が足りないと言われるのは自分は元エントリの通りの人間なので仕方がないが、元エントリに限っては言及対象がそもそも社会的に逸脱した人間なのでむしろ現実と関わっていない人間の方が良いと思った。
ただまぁ実際どう供述するかは分からんし、それは多分自分が勝手に低能先生に自己投影して書いた事とは99.9999%外れるだろうが、アレについて言及するときには社会不適合者の方が向いていると思う。
性差を否定するといっても、当然ながら男性に男性器がついていて女性に女性器がついていることを否定する人間はいない。
だから彼らが「性差はない」と言うときには、何か具体的な「性差別」を想定して、それを否定しようとしているのだ。
対して、差別主義者はまず言及対象を大きく広げ、「否定論者は男性に男性器がついていることすら否定しようとしている」と言ってのける。
「女も肉体労働をやるのか?」「風呂も男女で一緒に入るのか?」などと揚げ足を取り、男女の肉体的差異をことさらに強調する。
そしてそこに「男脳・女脳」のようなフィクションを混ぜ込んでいき、最終的に男女の性差を(フィクションも含めて)全て肯定してしまうのだ。
このURLで投稿していた匿名ダイアリーにつきましては、一定の事実及び、投稿者の主観的な判断を含めて事実と判断したものに対して、個人的な見解や論評を記載したものです。
記事の意図としては、インターネットサービスを利用する際に、ユーザの方々が自身の個人情報* を提供する、リツイートなどの情報拡散を行うという場面において、今回言及したサービスに限らないことですが、自ら十分に調べることなく信頼してしまうことに対して、事業者とユーザーの双方に問題を提起し、警鐘を鳴らす考えで、記したものでありました。
そのため、当該サービスの運営会社さまやその関係者さま、またユーザさまを含め、特定の、ないしは何人かの名誉を傷つけたりする意図は、一切ありません。
しかしながら、結果としてご不快に受け取られたとのご指摘をいただいたことに対しては、謹んでお詫びを申し上げる次第です。
運営会社さまから、直接、削除や訂正のご要望は頂いてはおりませんが、読まれる方によって、今回取り上げたサービスやその関係者さまを否定しているように受取られかねないとの見方がある記事を、残し続けることは、一切、本意ではなく、今回はまず、自ら記事を取り下げとさせて頂きました。
個人情報保護法上に基づいた「氏名、生年月日その他の記述等により、特定の個人を識別できるもの」とされる狭義の個人情報だけではなく、個人のプライバシーの一種として保護されるべきものとして議論のある、行動、状態、性格、考えなどの「パーソナルデータ」を含む、広義の個人情報を言及対象としております
オッス!オラ君は闇プログラマーの「その後」を知っているかの元増田だ!いっちょやってみっか!
元増田が消えてるのはてなサポートによる削除です。すまんなしばらく時間取れなかったんで放置してた。元増田はまだこことかで読めるので初見の人はそっち参照。
だそうだ。
アレが周知されて困るのって元闇プログラマー本人だけだしWeb魚拓とかもセコセコ削除申請してるので、多分本人の削除申請なんだろうけど「本人確認どうやったん?自己申告ベースだと『この増田は私の名誉を毀損しています!』ってメールで色んな増田が削除できちゃうよね?」ってはてなサポートに返信したら、
本人確認の手段は「はてな情報削除の流れ」に準じ、実名、住所などの
疑わしい場合には、本人しか知りえない事実の記載など、合理的に
懸念されているように、どなたでも削除依頼ができるということには
なりません。
ただ、本来、本ルールは、記事が権利侵害にあたることを理由とする
プロバイダ責任制限法による削除手続とは異なり、あくまで、サービスの
ポリシーとして、特定のユーザーや個人を批判・攻撃する文章を公開する
目的での利用自体を不適切と考えていることに由来するものですので、
削除依頼者が本人であることに疑義があるとする反論は受け付けません。
公共の利害に関し、公益に適う内容で、事実に基づいて個人に対する
だそうだ。
「削除依頼者が疑わしい場合」の処理なんか実際やってねーんじゃねーの?っていうか「削除依頼者が本人であることに疑義があるとする反論は受け付けません。」ってすげえ言い草だぜ…と思うが、要は「誰か批判するなら増田使うなボケが」「これがうちのサービスポリシーだから嫌なら他所でやんな!」って事だからこちらとしてもそうっすかサーセン、としか言いようが無いなーと思った。ただその代替案が「自身のブログでやれ」は訳がわからん。はてブロでやればいいすか?やらないけど。
ちなみに元増田の時も踊り子に触らないマナーある人々ばかりで、すげーな流石はてな民の民度は違うぜと思ったのでさらにその後をお伝えしておくと、今彼はこっちのアカウントで「アニメ、ゲーム等企画」「ガルパンとか防衛省とのコラボ話をしたりします」とかまるで反省する素振りもなく嘯いてるので今後も生暖かく見守ってあげてね!
っていうことをよく思うんだけど、それについて少し考えたことがあったのでメモ。
教養や趣味、哲学や政治、スポーツなど言及対象は多岐にわたるんだけど、「大人にもなってそんなふうなままなのは問題だよ」みたいなブコメを見て、「でもそんなできた大人ってそんなにいるか?」って思ってもやもやすることがよくあった。
上流の一部の環境だとそういう人の集まる場所もあるのだろうけど、そんな環境はほんの一部だろうと思うし。
ただ今日、これがすんなり腑に落ちた。そういう大人の多い少ないが問題なのではなくて、「大人になってしまうとそれを変えるのが困難だ」っていうことが問題なんだな。だから強く言わざるをえなくなる。