はてなキーワード: 血液検査とは
http://www.asahi.com/sp/articles/ASK8H5746K8HUTIL01J.html
見た。
普通は登録料別で¥3,000くらい。本間は¥2,000くらいみたいだね。
事情を知らない一般消費者が安い方がいいと思うのは当たり前だと思う。
簡単に¥1,000も下がっちゃうんだから本間以外の動物病院はボッタクリ商売だと思うかな?
でもさ、獣医師の平均年収ってこの記事https://www.google.co.jp/amp/s/mainichi.jp/articles/20170706/k00/00m/040/115000c.ampにある通り、569万円なんだぜ。医師はおろか、あれだけ過飽和が問題になっている歯科医師よりも稼げない。全然儲からないんだよ。
ワクチンやフィラリア予防なんかの簡単な予防医療は粗利が高いのに、何で儲からないと思う?
それはだな、獣医師の本分である病気の検索・治療が儲からないからなんだよ。
今や数百万円もするような院内血液検査機器やエコーはあって当たり前。
そういった検査機器を駆使して、人の医療と同じような手間とコストをかけて検査・治療をしても、貰える料金は半分もない。
日本の人医療は国民皆保険だから、病院に直接払う額は3割が基本だろ?
だから動物病院業界は業界全体の値つけが伝統的に医療保険制度みたいになっちゃってる。
つまり、予防医療で広く利益を確保して、安価に病気の検査・治療を提供しているわけだよ。
最近は高度医療を行うような動物病院も多くなってきているので、そういうところは別だけど、未だに多くの動物病院は昔ながらの料金体系なのよ。
だからさ、予防医療しかやらないような動物病院グループが価格をダンピングして顧客がそっちに流れるなら、検査・治療費は高くならざるを得ない。
市場に任せるってのはそういうこと。
そうなると、今だってある程度はそうだけど、ますます貧乏人は動物飼えなくなるよ。
で、動物飼育率が下がれば動物病院経営もどんどん厳しくなって、近所でそれなりの動物医療が受けられなくなっていくわけですわ。裾野が小さくなれば高度医療だって立ち行かなくなる。どんどん動物医療やペットビジネスが縮小していくわけですね。
全てが市場原理に任せれば良いことばかりじゃないですよね。
不動産だってさ、市街化調整区域の規制を緩めたら郊外に空き部屋ばっかりのアパートが乱立して問題になったじゃない?
派遣法の規制緩和だって賛否あるでしょうが問題は大きいですよね。
追記
貧乏人は動物を飼わなくなるんじゃなくて動物病院に連れていかなくなるだけってのはその通りだね。
俺は動物病院の中の人だから、多くの人にペットを飼育する素晴らしさを感じてほしいし、ペットには適切な医療を受けてほしいのでそうなるのは悲しいよ。
中の人に獣医師会の闇を暴いてほしいブコメがあったけど、中の人は獣医師会入っていないんです。
獣医師会が入れてくれないんです。
医師や歯科医師と比較するのはおこがましいってのがあったけど、医師と比較するのは確かにおこがましいかもな。
でもさ、歯科医師の偏差値考えるとさ、比較したっていいじゃんか。
職業として同列だって言いたいわけじゃないけど、大学が6年間なのって医師と歯科医師と獣医師と薬剤師だけじゃん?
比べたくなるじゃんか。そこは大目に見てよ。
それから、人医療って医療法人だよね。動物病院って法人化すると株式会社なんだよ。利潤の追求が許される。
まぁ利潤を追求するためには多くの人に支持されなきゃならんので、値上げすりゃいいってもんではないのは立派な社会人の諸兄はよくおわかりだよな。
だからまぁ、規制や保護なんて動物病院にはいらねーだろって言われると、そうかなって気もしてくるな。
本間さんは業者では悪者扱いなんだけど、狂犬病予防接種率の向上には寄与しているんだろうし、ノミダニ予防薬や療法食のネット販売等で業界の慣行に良くも悪くも風穴を開けてきた動物病院グループで、評価されるべき面もあるのかもね。
https://anond.hatelabo.jp/20170816125019
の増田なんだけど、現状把握とメンタルを落ち着けるために、今日までの経緯を書き残しておきたいと思う。
まず前提として、増田は統合失調症である。発症した時と比べてすごく良くなっているが、再発防止のためにセロクエルを主剤としてその他いくつかの薬を飲んでいる。そして、81kgの肥満でもある。
で、妊娠した。そうしたら5wくらいからつわりが結構ひどくて、水を飲んでも吐くような日もあり点滴をしてもらうなどしてきた。けれども食べることがちょっと辛くて、妊娠前81kgあった体重が13wの今は74kg台にまで減っている。いい感じにダイエットに成功していると思いたい数字だけど、ちょっとばかり不安。
また、メンタルを患っており肥満でもあるハイリスクは自分でもわかっているので、産科は精神科もある大きな総合病院の産婦人科にお世話になることにした。
そして、11wの検診の血液検査で血糖値が引っかかり、12wの時点で血糖値の推移の検査もしたところ、妊娠糖尿病だと診断された。糖尿の専門医による詳しい診察は二週間後。そんなに大きく基準をオーバーした値ではないので、それまでは食事制限をせず、つわりでも食べられるものを食べてくれ、との話だった。
そのことをメンタルの方の主治医に話すと、困ったなあという反応。聞いてみたら、セロクエルは糖尿病の人には禁忌の薬らしい。でも、セロクエルにたどり着くまで相当色々試行錯誤した経緯と、血糖値が基準値をそう大きくオーバーしているわけではないと言うことで、まだしばらくセロクエルを使うことにした。
それに加えて、血糖値の推移の検査をした日辺りから喉が痛む風邪をひいた。でも産科でお世話になっている総合病院に連絡したら風邪くらいなら他で受けてくれ、と言われたので、地元の内科の先生に診てもらって、トラネキサム酸を処方してもらった。一時は良くなったのだけれどぶり返してしまい、それからはトラネキサム酸が効かない。風邪を引き始めてから5日経っても治らない。夜中になっても喉の痛みと咳でろくに寝られない上に、私の咳で夫も寝られず寝不足。自分だけじゃなくて夫にも迷惑をかけてしまい辛い。多分風邪が長引いているのは、つわりでろくにものが食べられなくて体力が落ちてるからだと思う。
だからまた内科にかかろうとしたが、今週いっぱいその内科がお盆休み。仕方がないので再び総合病院に連絡し、今週の月曜日に産婦人科の先生に風邪を見てもらえることになった。そうしたらPLなんとかという粉薬と咳止めをもらい、木曜日になっても治らなかったらまた連絡してくれ、と言われた。
が、今日になって赤い糸みたいなものが模様のように入った痰が出て、咳をしてもお腹や胸が痛むようになってきて、これはまずいのではと午前中に総合病院に連絡。そうしたらなんとか明日呼吸器内科に予約を入れてもらえたが、それでも喉が痛いままなのは当然変わらないので辛い。この時点で上の増田を書いた。
辛いので横になっていたのだけれど、午後になってから左腕がピリピリと痺れ始める。ナニコレと思いつつ様子を見てたら右腕も痺れ始め、怖いので総合病院に連絡したいが今でも相当横紙破りな診察をしてもらっているのにまた迷惑をかけるのも気が引けて、まずは#7119に連絡することにした。
電話で問診を受け、妊婦であることも統合失調症があることも妊娠糖尿病であることも話し、そうしたらなるべく早く病院にかかれ、もし足まで痺れてきたら救急車を呼んでもいい、と言われた。
なのでその結果を持って再びかかりつけの産科のある総合病院に連絡。そうしたら、産科の先生に診てもらえることになり病院に向かった。向かっている途中、足まで痺れてきて本格的に不安になる。
産科の先生に今までの経緯を話し、最初に痺れ始めた左腕は手首にとても違和感を感じるくらいになっているということや、足も痺れてきて、特に右足首の痺れが強いことを伝える。
だが、痺れは息のしすぎで出ているものではないだろうか?と言われ、喉については明日の呼吸器内科で詳しく診てもらってくれ、という話で、この二つの症状については処置も検査も特に何もなしだった。でも、お腹の赤ちゃんについてはちゃんと診てくれて、心拍もはっきりしているし元気だと言われ、そして帰された。
で、今また部屋で安静にしているのだが、手足の痺れは相変わらず、今こうしてキーボードを打っていても違和感は拭えない。
夫には会社から早めに帰ってきてもらったが、夫は手足の痺れについても、医者が何もしなかったのなら大丈夫なのだろう、というように鷹揚に構えている。
だって喉が痛いのは変わらないし咳だって出るしなぜか手足は痺れている。病院でもあまりちゃんと診てもらえなかった。後から調べたら糖尿で手足が痺れるとあるのに産科の先生はその点にすら言及しなかったし。
なので不安で不安定で泣き出したりし始めているが夫は持ち帰りの仕事で忙しく話を聞いてもらいづらいので、最初にも書いたが自分を落ち着かせるためにこの増田を書いた。
書いているうちに涙は止まったが、やはり不安は尽きない。
こんな状況でも元気でいてくれる赤ちゃんに励まされるが、しかしこうやって書き連ねてみると本当に大丈夫なのか色々と心配になるレベル。
初期なので麻酔をかけて数分でおわり。特に痛くはなかった(前日の処置で子宮口にラミナリアという線香状の海藻を突っ込むのだがそれはちょっと痛かった)。
数ヶ月たってやっと体験を思い出にできそうなのでまとめてみたい。
かかりつけの産婦人科で妊娠の確定診断を受けて、中絶希望する旨を伝えるとその場で最短の日程(翌週末)の予約をとってくれた。週二回で一日四名だかなんだか枠の決まっている手術日は、半月先までほとんど埋まっていて、妊娠週数が増すと人工妊娠中絶は費用も身体的な負担も増える形式の手術になってしまうので、自分は最短の日程で予約を入れた。
かかりつけの病院はHPで中絶費用を明示していて、初期の場合の手術費用は22万円だった。妊娠の確定診断の際に中絶手術の希望を伝えたので、手術前の血液検査もしてこの日の支払いは1万円だった。
産婦人科医は(どこもそうなのかもしれないけど)「中絶を選ぶのも女性の権利」という態度を一貫していて、中絶を選ぶことに葛藤があるのかないのかはカウンセラー(その病院では中絶手術を受けるのにカウンセリングの受診が必須だった)が確認するらしかった。
妊娠確定の診断とカウンセリングと手術前日の処置と手術と、二週間で合計4回通院した。
幸い職場は遅刻・早退・休みがとりやすかったのだが、つわりの症状がひどくて直属の上司にばれてしまうのが嫌だったのと、中絶というネガティブな選択について個人的な見解を持ち込まなさそうな上司だったので正直に話した。しかしそれでもそんなに休むのかという印象を与えた感は否めない。
そもそもなんで妊娠してしまったか。コンドームを使った避妊が嫌で(擦れて痛かったりする)排卵日と予想される前後以外は使っていなかったからだ。排卵日付近はコンドームを使ってはいたが、その他受精や着床を防ぐ物理的な手段は講じていなかった。
周期を読んで避けるというのは試したことがあって、効果のある避妊方法に思えた。そんなやり方を続けているうちに、周期的にアウトかも知れない日に膣内で射精してしまった。アフターピルの処方もうけなかった(たぶん仕事が忙しくて忘れていた)。
それとパートナーの性器が大きくて普通のサイズのコンドームがキツそうだった。大きいサイズのものを私が探せばよかったのだが、さぼってしまった(ちなみに後日聞いたところによると、本人は自分が大きいサイズを使うべきと気づいていなかったらしい)。使用は最低限にして負担を減らしたいと私が思っていた。
私の考えは、特定のパートナーとしかセックスしないのであれば性感染症の予防(コンドームの使用)には注意を払わなくていいというものだ。昔は低用量ピルを使っていたが、体質的にNGになってしまいこの数年は選択肢に入れられなかった。殺精子剤を使っていたこともあったが、かゆいのと発がん性があるらしいという情報が怖くてあまり積極的に手を出せなかった。IUD(リング)は形態が気持ちわるいのと、一度相談した産婦人科医が「避妊の成功率は8割」と言っていたのでそんなに低いのなら避妊の効果がないようなもんだと入れていなかった(今回婦人科でもらった資料によれば実際はもっと高かった。この時冊子とか公式な数字の載った資料をもらわなかったことが悔やまれる。)
■なぜ中絶を選んだか
積極的に避妊の手段を取り入れていなかったのは、身近に中絶手術をしたことのある人がいたことも影響していると思う。失敗したら中絶してもいいのだ、と考えていた。中絶したことのある友人はひとつの体験として消化しているように見えた。今回中絶するかどうか悩んでいた時に意見を聞いてみたが、罪悪感は不要だから子供のためとか言わないで自分の好きにしなと教えてくれた。
そもそも、妊娠したくてもできないという場合も少なくないだろうし、昔そういう経験があったので(といっても半年ほどだが)、危機感もうすかったかもしれない。万が一避妊に失敗したら産むか産まないか考えよう、と思っていた。セックスした相手のことを大事にしたいと思っていたので、彼が出産を望むかどうかの意見も考慮しようと思っていた。
妊娠が確定したので、彼と話し合い、彼が望まないとわかったので、それならばおろそうと決めた。自分一人でやっていくには経済的に苦しかった(といっても私は中小企業の会社員なので、生活の水準を下げて子育てすることだけを自分の時間の全てとすればやっていけるのかもしれない)。彼は、もし彼の意見を聞いてそれでも私が産むというのであれば、経済的にも物理的にもサポートするといった。しかしそれは自分の望むものではないと話すので、私は彼にそんな思いで支えてもらうのも、彼と絶縁して子供を産むのも嫌だと思った。
そうして「今回の妊娠は」なかったことにしようと、中絶をすることに決めた。
■手術当日の流れ
朝9時に病院に行った。手術は13時頃らしかったが後ろにずれる場合もあると言っていた。出産や管理入院の方と同じフロアの個室を用意されていた。
彼は手術の日は一緒にいるといって病院には来ていたが、特に何を話すでもなくぼーっと座っていた。私は下着をはずし病院着に着替えてベッドに座ったり寝転がったりしていたが、一度彼が横に来て、何をしたらいいかわからない、点滴の管にぶつかりそうで怖いというので、むかついて蹴飛ばしてその後は同じ空間にいたが接触していなかった。
途中看護師がやってきて、彼に席を外してもらい話をするといい(中絶を強いられているのではないかという確認だと思う)、今回なぜ中絶を選ぶのか質問された。産んで欲しくないという彼の意見を尊重したいので、と答えた。今後交際を続けるのか、避妊方法は考えているのか、決して責めるような口調ではなく質問され、子宮内に装着する避妊器具のミレーナを勧められた(今はそれを利用している)。
手術は冒頭にも書いたが身体的に大きな負担は感じなかった(前日夜からの絶食で麻酔から覚め落ち着いた午後3時ころまで水分も口にできなかったのはつらかったが)。
でも手術台に上るのはつらかった。これでお腹の中の人と別れると思うと悲しかった。悲しくて、麻酔をかけられながら大泣きしてしまった。看護師は、つらいよねといって手を握ってくれて、自分で決めたことなのにつらいとか思っていいのかと思うとすごく心が救われた。
麻酔科医は私が泣いていることに特にコメントはなく、私の目を見て麻酔のかかっていくときの感覚、麻酔にかかっている時間、目が覚めるときの感覚について説明をした。麻酔が入っていくときには針の先に痺れる感覚があるらしく、先ほどとは別の看護師が皮膚をもんでくれていた。手術は婦人科医師と麻酔科医師と看護師2名の体制だった。
麻酔から覚めるとやっぱり嗚咽が止まらず、ベッドに乗せられて個室に戻った時にはすっかり過換気になっていた。看護師にビニル袋をもらい、彼には会いたくない旨看護師から伝えてもらい、夕方に退院した。
産褥シート(夜用ナプキンのもっと大きいやつ)をあてがわれていたのでどれだけ出血するか不安だったが、普段の生理の出血が多いのもあり、大した量には感じなかった。
その後いろいろ思い出しては悲しくなる期間を経て、4ヶ月たった今は、思い出しても泣かないようになった。過換気になったのは手術の日だけだった。最初は毎日通勤電車で思い出して泣いていた。数日に一回、彼を責めるようなLINEを送っていた。一人でお酒を飲んでたバーでさめざめ泣いてしまったこともある。
今は彼と結婚することにして(いつとはまだ決まっていないのだけど)また子供を作りましょうという話をしてあるので、心が落ち着いているのだなと感じる。あの日私の内側から取り去られてしまった人の魂が、もう一回来てくれるといいなと思っている。
私も痩せ型だけど、甘いものが大好きなうえに、副作用として血糖上昇作用のある免疫抑制剤を2種類飲んでるから、いつも2型糖尿病発症については心配してるわ。
持病があるので2ヶ月に1度、血液検査と尿検査して、今のところHbA1cも食後血糖値も正常だし尿に糖も出たことはないし、主治医の先生からも心配しなくていいと言われてはいるが。
一応できる範囲でこまめに有酸素運動したり、コカコーラはゼロカロリーのものにしたりしてるよ。
元増田はまだ若いだろうし、健康診断など定期的な検査を受けていればそこまで酷いことにはならないと思うけど、お身体御自愛下さいね。
気になることがあって婦人科行ったんだけど、卵巣腫れてることがわかった
良性がほとんどですよ、と言われたけどショックで今日は寝てしまった
まだ若いのに、とか、手術になるの嫌だな、とか
血液検査の結果は一週間後にわかるんだけど、ちょっと落ち着かない
考えないようにするしかないな
https://anond.hatelabo.jp/20170729065340
自分が受けた試験の内容は、飲み薬で確か病院に10泊を二回して約25万円ぐらいをもらえるような試験だったけど、受けたあとが最悪だった。
最近のフェーズ1の内容は正直分からないが、(一回投与→お休み→連日投与→お休み)☓2回みたいなのが期間にあったか?
どちらかは実薬、どちらかはプラセボだが・・・・・・、一切実薬が飲まれてない、という事は本来ありえない試験デザイン。
本来は、単回投与試験とあって、その次に連日投与試験というのがあって、また薬の用量を推測する為のステップ試験というのがあって、なんだけど、被験者を集めるのに費用がかかるというい事もあって同時に複数の目的を盛り込んだ試験がフェーズ1には多い。まあ、例数もギリギリに押さえ込む。増えるとお金かかるんだよ(被験者への礼金が25万だとしても、施設に支払われる金はもっとかかるし、試験を分けるとPMDAの人と打ち合わせする費用も増える。そっちの方が大きい。三十分で20万だっけ?伝聞なので大変怪しい(最近製薬企業での治験には絡んでない))
試験が終わって一週間ぐらい経ってから、自分の携帯に東京クリニカルリサーチ病院から連絡があった。
どうやら、自分の試験結果におかしなところがあったようだった。(自分は医学的なことは詳しくわからないけれど、薬の成分が血液から検出されなかったようだった。)
普通の血液検査尿検査(臨床検査という)は、その施設で行われたり、検査機関に持ち込まれたり(普通の診療所でも最近は診療所に装置がない)する。治験の薬の薬物動態は、テンプレな臨床検査機器では測定出来ないので、その製薬会社の研究所に持ってかれたりする。
薬の成分が云々というのは、本来正しく実施されていれば、前期後期どちらかで薬物が検出されている(当該有効成分、その代謝物)という話。
電話口にでたスタッフはすごく威圧的な口調で、不正をしただろ、不正をしたことを認めないと25万円の謝礼を支払わないぞ、と脅しのようなことを言ってきた。
もちろん、自分は不正なんてしていないし、試験中は穏やかだったそのスタッフが急にそんな威圧的な態度を取ってきたことに驚いた。そのスタッフの本性を見たような感じだった。
:
まず最初に。
薬を飲んでいないようので、特に薬による健康被害は心配しなくてよい。いや、乳糖であろうが錠剤飲まされるので気分悪くなる人はいるよ。胸がムカムカするとかよくある。だけどまああまり重症にはならないので心配しなくていい。
ちなみに、もうこの時点でこの治験は「失敗した事を報告せざるを得ない」ような状況である。
大体例数はギリギリ。
多分、施設側が勝手に忖度しているかと思う。製薬会社としては、言い繕いが難しいのもあって患者の不正を疑うとはちょっと思えないので。いや、一週間強吐き続ける人ってどういう事?って聞かれるよね。そんな説明って持ってけないよ流石に。多分、治験実施の契約での、被験者足りないとお金出しませんよ未達なのでとかって、製薬会社と施設の契約に絡んでると思う。
初めて動悸が来た時は怖くて救急車を呼んだけど、血液検査とかの結果は異常なし
医者の話によればストレスから動悸が来ることがあるらしく、死ぬことはないので安心しろとのことだった
で、定期的にその動悸がくるわけなんだけど、これがもう全然慣れない
気を抜いたら意識を失ってしまうんじゃないかという不安がすごくて、頭のなかで必死に楽しいことを考えるのだけど、そんな一時的な紛らわし方で気が晴れるレベルのストレスでもないから動悸が収まらない
また救急車を呼ぶわけにもいかないので、家族にLINEで「やばい」ということを伝えたり、Twitterに書いたりするのだけど、それも何回もやると「メンヘラ乙」になるわけで、どうしようもないループが延々と続く
ついに今日、動悸が来た時に「死ねば楽になるんじゃないか」と一瞬だけ考えてしまって、それから死にたい気持ちが2時間くらい続いた
それこそ「気を抜いたら自殺してしまいそう」となるのだが、ついさっき、やっとその気持ちに勝てて、今水を飲んでいる
軽い気持ちで死にたいってなることはあったけど、突発的に死んでしまうような気持ちになったのは初めてで、
めちゃくちゃこわった
死ななくてよかった〜
体がだるいし、目が開けられない。私の寝起きには良くあることだが、今回は一段と重い。
何とか体を起こして立ち上がるが、どうもふらふらする。しかも動悸と吐き気がする。いつものように首筋に寝汗をかいていない。なんだこれは?
温度計を見ると30度とある。熱中症や脱水症状に思い至り、冷蔵庫を開けてお茶を飲み、また横になる。リモコンで扇風機を付けた。冷房は壊れている。
少し経ってもいずれの症状も治まらない。お茶では足りないのか。
どうにか起きてコップに水を入れ、塩を溶かして二口ほど飲む。まずいが仕方がない。
再度横になって様子を見る。
16:00分頃、周期的にこみ上げる吐き気と動悸は一向に回復する様子はない。悪化している?
意識はしっかりしているつもりだが、一人暮らしなので、もし失神でもしたら恐らくアウトだ。
私は緊急社会システムにアクセスすることにした。即ち119への電話である。
電話口の相手には救急であること、住所、アパート名、名前、症状を伝えた。
「熱中症とおっしゃいますが思い当たる節があるんですか?」「30度の部屋で寝すぎました」
「わかりました。今救急車が向かっています。ドアの鍵を開けてお待ちください」
大体このようなやり取りで電話は終了し、私はベッドに倒れる。その後体感で5分程度でサイレンの音が聞こえてきた。
インターフォンが鳴らされたので出る。もう何も考えたくない状態になっており、救急隊員とのやり取りは覚えていないが、症状を説明して歩けるかどうか確認され、身分証が入っている鞄を持って戸締りをしたことは記憶に残っている。そういえば隊員の方に顔が真っ白と言われた。
寝巻きのまま自力で歩いて救急車まで行き、中のベッドに横になる。
そして指や腹部に何やら得体の知れないものを付けられる。どうやら指に付いたもので脈を取るらしい。
次いで血圧と体温をはかる。体温37度らしい。平熱34~35度の私にとっては発熱状態と言えそうだ。風邪でもないのにこんな体温になるとは。
搬送先の病院を見つけて頂く間、ライトで目の確認、痺れや神経の確認などをされる。
3名の隊員に来て頂いているが、常に1人は私の横にいて見張ってくれるようだ。大変失礼だがこの方の目は怖かった。口調は丁寧そのものであるのに。
「お名前言えますか?」「生年月日は?」「年齢は?」「今日の日付は?」「ご実家の電話番号は?もしかしたらご家族に来てほしいということがあるかもしれません」「今の症状はいかがですか?」「ご職業は?」
質問には全て答えられたが、いかんせん体がだるい。喋るのも億劫だったが否やもない。
他には、今まで似たような症状を経験したかどうか、過去に何か大きな病気にかかったか、持病はあるか、普段何か薬を飲んでいるか、などだった。それ以外にもあったかもしれないが覚えていない。一週間前まで夏風邪にかかっていたことを確かここで話したか。
質問の最中には別の隊員の方が私の状況を年齢性別と共に病院に伝えてくれているのが聞こえてくる。2、3回、この病院はかかった事があるかと聞かれるが、全て初診の病院である。金曜午後4時とあってなかなか搬送先が見つからないようだ。付近で行った事のある病院を聞かれたので、以前風邪のとき見てもらった個人のクリニックの診察券を見せるが、すでに診療時間外であった。
今思えばこの質問攻めとも言えるものは、必要な情報を得ると同時に意識を失わせないようにするためのものだったのだろうか。
この間に動悸は治まり、めまいも軽減したようだ。何も考えたくない状態は変わらないが、症状としては吐き気のみになっている。救急車の中の温度が功を奏したのだろう。
やがて搬送先が見つかり、移動開始。車内はゆれるので何かあったら伝えてほしいと言われる。
10分ほど揺られて病院に着いた。体に付いた器具は到着直前に全て外される。
どこにある何という名前の病院なのかもわからなかったが、どうでも良いことだった。ベッドごと救急車から降ろされ、救急室へ運ばれる。
移動中、看護師さんらしき方が「大丈夫ですよ~病院に着きましたからね~」と声をかけてくれる。
救急室に入室。時計をチラッと見てみると、16:28分ごろだった。
救急車のベッドから救急室のベッドへ体を移動する。「ゆっくりで良いですよ」と優しい。
そして胸部腹部に器具を付けられる。心電図か。指にも脈を取るための何かを付けられる。たちまち救急車の中とほぼ同じような状態になった。
症状とそうなった経緯を聞かれたので説明する。もともとロングスリーパーで、前日の22時から寝ていたと言うと驚かれた。
ここで気付いたが、やたらと女性が多い。医師の方も女性であり、経緯と症状を説明している救急隊の方以外に男性がいない。
救急室で何をされたか、おぼろげにしか覚えていない。時系列がぐちゃぐちゃだが思い出してみる。
思考停止状態の私はなされるがままぼーっと目の前にある特徴的なライトを見ていたと思う。手術室にありそうなUFOのごときあれである。
確か、もう一度目にライトを当てられる。首を左右に振られる、などだ。眩暈はしない。
「採血しますよ。その後点滴打ちますからね」なんと。この状況で血を抜かれるのか。まあ、もう任せておこう。「アルコールはかぶれませんか?」かぶれたことはない。大丈夫だ。
じゃあ3本などと聞こえた気がするが、見ていないのでどれだけ採られたのかは定かではない。
点滴の後、それから看護師の方に心臓部に何やらローラーを当てられてぐりぐりと動かされる。なかなか終わらない。鈍痛的刺激である。私の体のせいか、どうやら目的を達しづらかったようだ。医師の方に交代するが、それでも時間がかかっていた。体を左に傾けるように指示される。よくわからないが、これで成功したようだ。
喫煙と飲酒の確認をされる。煙草は吸わないし酒は2週間に一度ぐらいだ。
あとは、目の前に指を出され、目で追ってくださいと言われる。問題なくできた。
めがねのような物をつけて天井を見るようにと言われる。とてもぼやけるレンズで、まともに外界を見ることが出来ない。気持ち悪くなったりしないかと言われるが、大丈夫だった。
「私の指先と自分の額を指で往復してください」これもできた。
親指に何かを打たれ、出血したときにその血を器具で調べるということもされた。結構痛くて指が震えてしまった。チラッと顔を確認される。「痛かったですか?」「はい少し」などと会話して気恥ずかしくなった私は目をそらす。
おおよそ処置が終了したようで、救急室にいる人数も少なくなってきたか。
点滴が効いたのか、この頃になると吐き気もほぼなくなっていた。
実家に電話して頂いたようだが、出なかったのだろう。連絡の付く時間を聞かれるが、今いないのなら深夜でないと連絡不能である。我が両親は忙しい。
迎えのための連絡先を聞き出される。
しかし、連絡先が入っているスマートフォンは持ってきていない(これがまずかった)し、普段の連絡はメールである。デジタルネイティブである私は両親の携帯の番号など全く覚えていない。「おじいちゃんおばあちゃんは?」実家にいるが、祖父はすでになく祖母は離れにいる。電話したとしても聞こえない。「他に近くに知り合いはいないか」いない。
いよいよ困らせてしまったようで、鞄の中のファイルに閉じられた紙に書いてある電話番号を見せられる。「ここは?」「それは職場の人間の番号です」「よくわからないな~」申し訳ない。
そうこうしている間に別の患者が来たようで、私は車椅子で別室に移される。何かあったらナースコールをお願いしますと言われ、カーテンを閉められる。
ここでもぼーっと寝ていた。点滴を見る。かなり速いペースで滴が落ちていて、少し経ったら終わった。まさか25歳で救急車のお世話になるとは思わなかった。天井を見ながら、そういえばネットでふぐの毒にあたった人がこのような光景の写真をアップしていたな、いやあれはただのネタだったか、などと考える。余裕が出てきたのか。
その後、先ほどの看護師の方がやってきた。曰く、連絡が付かないなら無理に付けなくて良い。血液検査の結果が出て問題なければ帰宅。と先生がおっしゃっていたということだった。
またしばらくして先ほどと同じ方がやってくる。「救急車で来た方は、病院が荷物を預かったことになるんです。今回は靴と鞄です。お受け取りのサインをして下さい」なるほど。いつの間にか私の鞄も右に置いてある。気付かなかった。
さらに少し経って医師の方が血液検査の結果を持ってやってきた。2項目ほど異常値だが比較的きれいであり、問題は見受けられない。めまいには二つあって、脳か耳が原因だが、前者は考え辛く、後者をチェックするために耳鼻科の受診をお勧めする。それから、ご家族には今日救急車で運ばれたことを伝えるように。それから暑いので、クーラーを付けないなら窓を開けて寝ること。脱水は正直わからないが、水を2リットルほど飲んだほうが良いことを伝えられる。
次に医師ともう1人の方が水を持ってきた。「体を起こして、飲めますか」問題なく一口飲む。「込みあがってきたりしませんか」大丈夫だった。
最後の確認として、点滴スタンドの取っ手を杖代わりにして立つことを指示される。立てるし、眩暈はない。そして、靴を履いて歩く。歩ける。綱渡りをするように、前に出ている足のつま先に後ろの足のかかとを持ってくる歩き方でまっすぐ歩けるか。できた。
大丈夫そうだ。医師も同じ判断らしく、帰宅の準備に入る。「お帰りはどうしますか?」「どうしましょうね……」「お金があればタクシーが良いですね」なるほど。
点滴を外され、消毒したガーゼを当てられるので、自分で押さえておく。太い針だったようで、少し待つ必要があった。その後テープで固定される。
荷物を持って靴を履く。会計の場所を説明されたので、医師の方に今回のお礼を言って移動する。
そういえばめがねをかけていない。視力が悪いので少し視界がぼやけているが、目を細めながら会計に到着し、救急で来たことを伝える。診断書を書いて提出して待つ。この間に時計を見やると、18:40分ごろだった。少し経つと名前を呼ばれる。
この病院の診察券を発行して頂いたようなので受け取って精算する。合計8000円と少しらしい。持ち合わせの現金では足りなかったが、クレジットカードが使えて助かった。会計後、タクシーの駐輪場所を聞いてそこへ向かう。ちょっと迷った。
最初は寝巻きのまま外を出歩くのに違和感があったが、状況が状況である。気にしたところでどうしようもない。会計では、タクシーが駐輪場所にいなかったら自分で呼ぶようにと電話番号を書いた紙を貰っているが、電話がないのでいないと困る。しかし、運良く一台のタクシーがとまっていた。
手を挙げて乗る意思を伝え、自宅アパートの住所を伝える。タクシー代は1700円と少し。現金で支払った。
帰宅後、何はともあれ水分補給をする。そして熱中症で運ばれたことを家族と友人に伝える。だが、ここで部屋の温度と湿度に気付く。間抜けな!この環境だから事が起こったんだろう。
すぐに窓を開け、付けたままになっていた扇風機の風力を上げる。これで涼しくなる。
何時間か休んだのち、着替えて近所のスーパーへ向かう。ポカリスエットと水とカロリーメイト、そして食料を買った。
ところで私が運ばれた病院はなんという病院なのか?診察券を見てみると……なるほど、女性が多かったのはそのせいか。
なんとも稀有な体験をした一日だった。直接お礼が言えたのは医師の方のみだったが、今回119の電話を受けて下さった方、私を運んでくれた救急隊員の方、処置をしてくれた医師及び看護師の方には心よりお礼を申し上げたい。
反省点
・初期の対処
扇風機を付けただけでは足りなかった。すぐに窓を開けるべきだった。
・部屋の冷房が壊れたまま
早く直さなければならない。
・病院に両親の連絡先を伝えられなかった
・めがねを忘れる
持って行く。
暖かい言葉を頂いてとてもうれしい。私の部屋も暖かいぐらいの温度だったら良かったのだが。
こんなことで救急車呼ぶなと言われるのも覚悟していたが、全くの杞憂だったようだ。
30度でもここまでの症状になるのか。体質にもよるんだろうけど。
素人の推測だが、長時間の睡眠で水分が取れなかったためだろう。目が覚めて良かった。
冷房使わなかった頃は2Lのペットボトルを凍らせてバスタオルに包んで寝てたな。500MLのPBでもタオルでくるんで脇の下、首筋、太もものいずれか(動脈のある部分)に充てるだけでも体内の温度を下げる効果がある。
発想がすごい。これはやってみよう。
あなたは熱中症ですとははっきり言われなかったので真相はわからない。
重症だと意識障害や手足の痙攣などが起こるらしいので、私の場合は熱中症だとしても比較的軽いものだったのだろう。
生まれ持った体質と思って諦めているが、確かに少し調べてみても良いかも知れない。
興味深かったが何故そうしたのかよくわからない箇所でぼかした記述が入ってる。増田は肥満体型で搬送されたのは産婦人科だったのだろうか?
みんな宗教みたいな話してて怖いので書く
基本として
・タバコ・酒はやめる
・服・シーツ・ハンカチ・タオルなど、肌に触るものは天然繊維100%に。使うのは一度洗濯してから
・自分のアトピーの質(増田はジュクジュクタイプ)を理解し、同じタイプのアトピーの人の意見だけ参考にする(ただし参考にし過ぎない。食生活も行動パターンも違う他人の意見)
・薬の塗り方などは、ネットで自分で調べて最新の方法を使う(医者によっては知識が古い先生もいる)
・ステロイドをむやみと怖がらない
http://women.benesse.ne.jp/article/002322.html?sns
なるほど。
うちの子、いくつか食物アレルギーある(あった)けど、結構病院に振りまわされた感がある。
うちの子は「乳児湿疹」からあと「アトピー疑いあり」でずっと塗り薬処方されてきてる、いま1歳半。お肌はきれいだけどやっぱりアトピーなのかもしれない。
イギリスでは区別されていないという文章をみて、なるほどやっぱりそうかと思った。日本も呼び方区別しない方が良いのでは…。乳児湿疹だと赤ちゃんはなるもの、1ヶ月〜3ヶ月ぐらいで治るよっていう感じで皮膚、アレルギー問題を軽視してしまう。
思い返すと退院した生後1週間頃からポツポツ湿疹できてきてた。
母乳、ミルク与えた後とか顔をママの服にすりつけてきてたけど、今思えばあれは痒かったんだろうなと思う。痒くても手を動かせないから…。
1ヶ月検診で小児科で乳児湿疹が多いと相談してもプロペト処方されただけ。
その後、産後ケアセンターに滞在してたときたまたま助産師さんに皮膚科行ったほうがいいと評判よいところを教えてもらって生後1ヶ月過ぎにこの記事にある成育医療センターの元皮膚科医長さんのクリニックに通いだした。区では一番有名な小児皮膚のクリニック。
生後5ヶ月頃に離乳食始める前にアレルギー検査していこうと考えて(アトピーだと食物アレルギーある場合が多いという情報を本、雑誌、ネット記事をみて知ったので)、この皮膚科で5大アレルゲンの血液検査をうける。結果はすべて陰性、問題ないですといわれる。
安心して6ヶ月頃から離乳食はじめるも、なす、かぼちゃ、きゅうり、バナナなどで口元が赤くなる。皮膚科に相談するとヨダレかぶれでしょうと食事前に口元にプロペト塗ってくださいと処方される。
次に白身魚の鯛でアレルギー反応がでる(唇がはれる)、この時はすぐ小児科にいき食物アレルギーでしょう、1歳まで魚、鯛はひかえたら良いと指示される。反応でた食物は1歳までひかえたらいい、1歳こえると体の機能が強くなるから食べれるようになるよと。
その後も、離乳食定番のクタクタうどん与えると首から耳が赤くなる。→小麦粉控えるなどをしていた。
8ヶ月の時に勝手に卒乳になり(子供が母乳を全く飲まなくなった)、粉ミルクに切り替えたら口元が赤くなる。
これもヨダレかぶれ??おかしいなぁ、牛乳アレルギーは血液検査でなかったはずだったけど。粉ミルクの種類の問題かな?メーカーをかえてみる。e赤ちゃんという粉ミルクだと反応でなくなった。ということはやはりアレルギーか?ということでここで皮膚科や小児科ではなくアレルギークリニックにはじめて子供をつれていく。
血液検査ですべて陰性だった件を伝えると月齢が低いときは血液検査より皮膚スクラッチテストの方が正確な結果が出やすいんだよと。
大豆もでてる、毎日トウフ食べてて問題ないですが何故でしょうと聞くと偽陽性といって問題なくても少し出る場合あるからねといわれる。ミルクは少しだしいま飲ませてるe赤ちゃんで問題でてないならそれでいい。ただ卵は強くでてるから1歳まで与えない方がいいと指示される。
70歳過ぎてる先生だが著名な方ではあった。
先生曰く「血管細いから血液取りにくいし無理にする必要ないよ、1歳半まで食べさせなくてもいい」と指示される。
また指示通り過ごすが、1歳5ヶ月で保育園入るにあたって(近所の小児科で卵食べさせたことないならアレルギークリニックで接種してもらってくださいといわれ小児科では接種拒否された)麻疹風疹ワクチンを打つために行くとワクチン使った皮膚スクラッチテストで皮膚反応が少しでたので2歳まで打たなくていいと言われる。
保育園の入園前検診で他の病院にきいて打ってもらった方がいいといわれ、保健所に相談して他の少し遠い場所にあるアレルギークリニックに行った。
すると「いまは遅らせるより少量を与え続けるの治療法がメインだよ」といわれ…、血液検査で高い数値も出てたけど与えて問題ない分量を指示されずっと与えてる。
あと3ヶ月したら再度血液検査して下がっていれば全解放する方針らしい。
ちなみにこの先生ももと成育医療センターのアレルギー科の先生。
先の老医師はこの方の大先輩。
元成育医療センターの先生曰く、老医師はすごい先生だけど少し持ってる情報が古いのかもね。
皮膚科で受けた血液検査も時期が早過ぎ、6ヶ月以降でないと母親からの免疫が残ってるから数値が出てこないんだよ。
皮膚科のあの先生は知ってるし、非常に優秀だけどアレルギー専門医ではないから知らないんだろうね。
今度受診したらあそこの先生がこう言ってましたって伝えといてよといわれる。
なんだか振りまわされてる。
いま通ってるアレルギークリニックは元成育医療センターの医師で最新情報を治療に反映させているようなのでこのクリニックに通って完治させたいと思う。
大病院が通える範囲にあり、そこのOBが独立して界隈に小児皮膚、小児アレルギー、小児眼科などのクリニックがいくつかある地域でよかったとも思える。
ただ紹介状書いてもらえるほどの症状(血液検査)が出てなかったから結果的に行けなかったかもしれない。血液検査を6ヶ月以降にしてて高い数値出てたら皮膚科から紹介状書いてもらえたかもしれないが、皮膚科に相談したら血液検査は全部陰性だからかけないといわれた。
どこかで紹介状書いてもらって数ヶ月待ってでも成育医療センターのアレルギー科に通ってたら違った結果になってたのかも…残念。
以上、こういうケースもありました的なお話でした。
街に出かけたら、予定が狂って2時間ほど空いてしまった。暇を持てあましてウロウロしていると広場みたいなところに献血車がいて、スピーカーでがなっていた。
「献血にご協力ください!」「すべての血液型が不足しています!」などなど。
「通り過ぎていくあなたに呼びかけています!」みたいな、ちょっと刺激的な文句もあった。
定期的に行くという友人は何人かいる。自分は元々モヤシっ子で、今は平気だけど貧血になりやすい子供だったせいでどうも勇気が出なかった。普段は忙しくてスルーしてたのものある。時間もつぶせるし社会貢献になるし血液検査も一緒にしてくれるらしい、一石三鳥じゃんと思った。
看板を見たら、200mlと400mlがあるようだ。400は怖いけど200なら行けると思って受付に行った。ガラガラのテントの中で係の人が出迎えてくれた。
初めてですと言ったら注意書きの紙を何枚も渡された。あと記入用のボード。
注意書きには「不特定多数とセックスしていませんか」とか「男性同士でセックスしていませんか」とか「どこそこの国の出身ではありませんか」とかズラズラ書いてあった。一応全部読んで、あてはまらないことを確認した。
それから献血後の注意点を係の人が説明してくれた。吐き気やめまいが起きた場合の対処法も紙に書いてあった。氏名年齢体重やら住所やら、ボードに一つ一つ記入した。
そういう、意外にというかやっぱりというか綿密な手続きと確認が終わって、ボードを返したら係の人がムッという顔をした。
「200mlに丸をつけてますが、400mlお願いできませんか」
ヒヤッとした。
「初めてなんで怖いんで、200でお願いします」
「いや、この体重だと400ml採れるんですよ。針も変わりませんよ」
係の人が言うには、男女別に基準となる体重があって、それ以下だと200mlしか採っちゃいけないらしい。確かに体重はギリギリその基準を超えていた。
でも、200mlならマグカップ1杯くらい。400mlだとどれくらい?マクドナルドのコーラのLサイズくらい?
でかい紙コップになみなみ入った血を想像してぐらぐらした。子供の頃に貧血で何度も倒れたあの感じがよみがえってきた。
「すみません、どうしても怖いです。200にしてください」
「400しか選べないってことですか?」
「はい」
ちょっと考えて、
「ごめんなさい。やっぱり止めます」と言った。
係の人に記入用紙を返してもらってテントをそそくさ出た。
体重が基準以上だと提供する量が選べないなんて知らなかった。献血車の看板は『(400mlを)お願いしています』という書き方だったから、あくまでお願いだと勘違いしてしまった。係の人に長々説明させたのに断って出てきてしまった。
全面的に自分が悪いんだけど、なんかモヤモヤとした気持ちが晴れない。お前の血なんかいらねえよと拒絶された気分だ。あれだけ血液が不足していますと叫んでいたのに、自分の血はいらなかった。
それに係の人が繰り返した「あなたの体重なら400mlです」という言葉。
こっちの恐怖や不安はまるごと無視して、どうやって血をしぼるかだけ考えてるみたいだった。マッドマックスにそういうのがあった。主人公が「血液袋」って呼ばれるやつ。
献血車のスタッフをするくらいだから志のある人なんだろうけど、人間のこと、血の詰まった袋にしか見えてないんじゃないのか。
こちとら怖がりも痛がりもする人間なんだけど。ああ、モヤモヤする。
【追記】
たくさん反応があって驚いた。
今回の出来事でインパクトがあったのは、他人の不安をこんなにあっさり無視する人がいるのか!ということだった。
(たとえ杞憂でもその不安はあるものと認めるところから会話が始まると思ってたので)
団体の目的からして、同じ手間がかかるなら多く採れる方がいいのは当然だし。
大勢の人が教えてくれたけれど、輸血は複数人の血よりひとりの血を使う方がリスクが少ない、200mlの需要はほとんどない、といった事情は知らなかったし、思い至らなかった。それが知れてよかった。
元々は子供は要らなかった、つーか喪女で結婚も出来ないと思ってたしどうでもよかったが妹が子供を産み、その赤子が超絶可愛かった。
この子の為なら死ねると言ってたら妹から「そういうのは親がやるからおばさんが重い愛をそそがんといて自分の子供を作れ」と言われた。
それもそうだ子供が欲しいと思ったのでギリギリ二十代で結婚する事にし、幸い母親の新しい友達にお見合いおばさんがいたので紹介してもらい結婚、相手も高齢童貞だった。
毎晩頑張ったが痛そうな顔をすると夫が萎えて終了を半年ほど毎晩続けた。
子供はまだなの?若いから気楽に思ってるかもしれないけどそろそろ孫が見たい。と言われる度に処女懐胎は無理と思ったが高齢処女で旦那も高齢童貞なのでやり方が解らないのは人には言えない話題だった。
一人で行ったそうは手術の麻酔からさめたら、カーテン越しに妊婦さんが血液検査で明るく「血管には自信があるんです」と笑っている声が聞こえて辛かった。
最初は辛い程度だったのがぶどう子で異常に分泌されてた妊娠ホルモンが一気に消えた影響と流産のショックでその晩から不眠に苦しみ鬱のようになり、死ねお前のせいで子供が死んだと夜中に幻覚幻聴が聞こえ気絶するように眠り朝起きたら絶望を感じ地獄だった。
悪阻がきつくて妊娠してない体に戻りたいと思っていた事を思い出しては泣いた。
旦那の親に妊娠を伝えた直後の流産だったので旦那に流産を伝えるように頼むと「病気で流産した」と電話で話しており、その言い方だと性病と勘違いされるだろうが!!!と腹が立ったのを覚えている。
その後ガンになる危険があったので検査のために医者に子作りをしばらく止められ、やっと出来たがまた流産をしてと数年経った頃に旦那が睡眠時間も足りない程の超激務になりセックスが出来なくなった。
親は孫を見たそうだったが、セックスせずに子供は出来ないとは言えなかった。
その後運よく正月休みに体力回復してやったセックスで子供を授かったが、ある日夜中にトイレに行くと真っ赤な血が大量に出てきた。
旦那は過労死が心配になるレベルの睡眠時間だったので伝えてから家で寝かせて、母に電話をして泣きじゃくりながら病院に行きそのまま入院、看護婦さんがお腹を温めるカイロを持ってきて聴診器で赤ちゃんの心音を聞かせてくれた。
また長期の入院になり今度は退院したらそのまま私の実家で寝たきりになるように指示された。
薬は飲んだら冷や汗が出るくらい副作用が強い、横向きになったら腹がはるので上向きで姿勢が固定され、トイレ食事風呂以外ずっと寝てるので大きな腹に圧迫されて背中やお尻は真っ赤に腫れて痛かった。
ギリギリで子供が逆子になり帝王切開で出産、顔を見た瞬間に幸福ホルモンが脳に溢れて物凄い愛しさと幸福感に包まれ涙が出た。
素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。
幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。
乳がんは罹る人も多い病気。負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。
でも全然カンタンではなかった。
家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。
判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。
手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。
いろんな後悔が今も心に残っている。
こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。
興味があったら読んでみて下さい。
ほんの些細なこと。
10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。
その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。
それから1ヶ月が経った頃、
朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。
違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。
ピンク色の東京タワー、ピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。
ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。
夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。
大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安にかられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。
しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。
人間、不安なときは都合のいい方の考えに飛びついてしまうものだ。
私は、
と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。
翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。
考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。
今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。
一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がんを検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったから検討がつかない。
よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。
そういって若い女性の医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。
その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。
診断は
違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。
乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常の生活に戻った。
「大丈夫でしょう」という自分の安易な判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。
それから2年、私はしこりのことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。
日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日。
その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。
夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。
暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。
私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。
夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。
とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」
との回答。
しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。
「乳がんの専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見を採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。
まずは触診。先生の無表情さが不安を掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。
終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます。検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。
もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。
これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分が乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。
この一週間は今まで感じたことのない長さだった。
加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。
診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。
先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。
何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。
我を取り戻した私は、
「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。
結論は手術。
私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。
女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘を選択した。
医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。
まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。
ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。
次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。
母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。
と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。
親の前ではやはり自分は子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。
仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。
私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。
仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると
という反応。
特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。
更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。
中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。
私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベルの男性と結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。
昔から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那の愚痴。家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。
由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。
由美にも率直に
と伝えた。
ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。
するとA子は
と言い放った。
彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。
死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。
ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。
私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。
これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。
家族の不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブな感情を抱えながら私は手術に挑む。
スケジュールが出た。
手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘を選択したために術前の化学療法はなし。
手術2日前から入院となった。前日からは食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。
手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由はリンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。
乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。
でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。
翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。
わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。
術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。
7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。
そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。
左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分の身体から目を背けたくなる時期もあった。
でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。
気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。
期間は3週間を1クールとして、8クール、複数の抗がん剤を組み合わせての実施。
抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。
抗がん剤治療は想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気と貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。
覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。
2クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。
3クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。
それにしてもケアグッズも高い。
あまり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がんは治療以外にかかる金銭的負担も大きい。
4クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。
いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。
こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。
楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。
抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。
化学療法を無事に終えた私は最後の治療、放射線治療に入ることになる。
放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的な負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。
放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。
ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。
手術をしてから約半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。
毎日毎日通った病院。乳がんを発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。
検査のときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。
お陰で私は現実と向き合い、治療の目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう。
そう言えればどれだけ幸せだろうか。
一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。
こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。
そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活を改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。
乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。
幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。
ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のときは帽子を被るようにしている。
左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。
胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友の言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。
以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事と抗酸化作用の高い食品をメインにしている。
そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活のリズムを整える意味で意外と気に入っている。
家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事も積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。
夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。
先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。
親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。
こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。
でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。
どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。
乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。
もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・
早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスクも存在しない状態で治療が終わっていたと思う。
親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。
10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がんを自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。
乳がんは女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。
大学で知り合い、結婚して6年。夫と私は性格は違えど、食べ物や旅行の楽しみ方がとても合う。この人と家族を作りたいと思って結婚した。
結婚してから子作りを頑張った。夫は子供が得意ではなかったが、私が望むなら、と協力してくれてた。お互いフルタイムで働いているので、次の日仕事でも頑張ってタイミングを合わせたりするのは大変だった。私は同時に婦人科に通って色々と検査した。ホルモン値を測る血液検査、卵管造影、排卵誘発剤など一通りやった。私は生理痛が酷かったので私のせいだ…と何度も何度も自分を責めた。
子作りを始めてから2年目くらいで、ある記事を読んだ。男性不妊の記事。記事には、旦那さんの性器のサイズも平均的でEDなどもなく、普通に性行為が行え、旦那さんも全く自覚が無かったという話だった。この記事を読んだとき、これかも!と思った。それから、意を決して夫に一度精液検査を受けてほしい、とお願いしたが、夫は「原因は僕じゃないと思うよw」と半笑いで返してきた。それから私は、私が悪いんだ…とずっと悩んでいた。
それからも3年子作りを頑張った。夫は直接は私を責めた事はなかったけど、なんとなくお前が悪いって言われてる気がしてた。
子供ができないことで夫の前で泣いたことは二回ある。でも、一人で泣いたことは数え切れない。この頃、不妊な私は人間として、生物として価値がない、死んだほうがましと、思ってた。でも、死んだら夫が悲しむだろうなぁと思うと死ねなかった。
子作りを始めてから5年、引っ越した事で、今まで通ってた婦人科をやめて新しい婦人科に移った。そこで前の病院から受け継いだカルテを新しい主治医に見せると、これは旦那さんにも検査してもらう必要がある、と強く言われた。どうしていいかわからず、色々込み上げてしまい主治医の前で号泣した。主治医は困惑しながらも、「これ以上の検査は旦那さんの精液検査の結果がないと出来ないと、旦那さんに言いなさい」と優しくアドバイスしてくれた。その夜、その通りに夫に伝えた。夫はいやいやながらも精液検査を受けることを了承してくれた。おそらく夫は、私の検査に付き合うのは面倒だなぁ思ってたんだろう。
主治医から、「夫さんの精液には、一匹も精子がいません。」と言われた。
主治医の顔は見れなかった。下を向いて私は「あー…なるほど。」と口にしてた。
長年不妊の原因が自分であると自分で自分を責めてきた。でも違った。私じゃなかった。3年前にそれを知ってたらこんなに自分を責めなくて済んだのに…。と色々頭を巡った。
その次に夫にこの事をどう伝えるか悩んだ。どう伝えれば傷つかないだろうか。ものすごく悩んだ。病院から家に帰る車の中でものすごく泣いた。そうして腫れぼったい目で夫に伝えた。「検査の結果が良くなかった。夫くん、無精子症みたい…」夫の顔は見れなかった。夫はしばらく固まって「そっか…」と呟いた。
そこからは私が男性不妊の場合の子供を授かるための方法を調べて夫に提案した。夫は「そこまでしてやりたくない。二人で、楽しく暮らそうよ」と言う。
私は夫と子供がいる家族を作りたいから結婚した。今、その夢がぽろぽろと崩れてる。子供が居ない選択肢なんて今まで考えたことが無かった(考えようとしなかった)。
これから先、周りにずっと「子どもはまだ?」と言われ続けないといけないのか。
今年から研修医になって実際の医療現場の渦の中にいると不思議に思うことがいくつもある
自分が経験した科が内科だからかもしれないが毎日パソコンを弄っているだけで患者が治っていくのである
外来で経過を見ていた患者が肺炎を起こし呼吸困難になったので入院した
私は取り敢えず点滴のための静脈路確保のため患者さんに針を刺した
針を刺したら逆血が来たので静脈と針先が繋がったことが確認できたら否や、ナースさんは「あとはやっておきます」
といって交代してくれた
その間に私は電子カルテで「オーダー」を出す
呼吸困難なので酸素マスクの指示を入れる。 発熱があるので一応血にばい菌がないか「血液培養」を取る。培養を取れたことを確認しだい「抗生剤を食塩水に混ぜて点滴に入れて下さい」と指示を入れる。
その後、他の患者さんの作業があって入院患者さんの元を離れたのだが、その数十分後に入院患者さんの病室へ戻ると
もう綺麗に点滴装置が設置されてバッチリ抗生剤が入っていて、バッチリ酸素マスクを吸った患者さんがいる。ナースステーションには培養ボトルにバッチリ血液が取れている。
私がやったことは最初に針を刺したのとパソコンで指示しただけである。それなのに患者さんのもとには様々な器具が装着され次の日にはすっかり患者さんは元気になっていた。
実はこの時、私は点滴装置のつなげ方も、抗生剤を食塩水に溶かす方法も、食塩水の点滴バッグを点滴装置に繋げる方法も、酸素マスクの付け方も、血液培養の方法も知らなかったのである。
ここまで酷い研修医は私くらいかもしれないが、実際ナースさんが優秀で救急医療の経験がないと、医者のほうが実際の器具扱いを知らないというのはままある現象ではないかと思う。
勿論指示を出したのは自分であるが、自分はパソコンの前でカチカチしているだけで患者さんがみるみる治療され元気になっていくのだからなんとも不思議で新鮮な経験だった。
よく「医療ミス」や「患者取り違え」が話題になるが、本当にそういうリスクの高いことをやっているなあと実感する
一度ナースさんがやってくれている朝の採血を代わりにやらせてもらったことがあるが
ナースさんたちは一人で5~10人の患者さんの採血を担当するのだ
「その程度でミスするなよ」と思うかもしれないが、現場はそう簡単ではない
血液検査はその項目ごとに採血管の種類があるため、患者さんの病気によっては一人につき7本も8本も採血管に血をいれなければならない状況もままある
効率よく採血しようものなら自分の手元には30~50本もの採血管があり、それらに一本も患者の取り違えミスも無く入れなければならない
私も気づけたから良かったもの、別の患者さんの採血管に別の人の患者さんの血を入れてしまったことがある(幸い外のラベルを張り変えるだけで解決できたが)
採血程度なら良いがこれが抗がん剤なら大変な問題だ。 患者や量を間違えたら命を奪う可能性だって十分にある
勿論、医者側も毎日この抗癌剤をこの患者さんに入れます というのをナースと一緒に確認する。するはするが
実際に抗がん剤を点滴バッグにいれ、それを患者さんに入れる部分を目で見て確認しているわけではない(それを患者全員分しているほど暇でもないし)
そう考えるとナースさんの責任というか、日々やってくれていることの難易度と凄さを改めて実感する
大変失礼かもしれないがナースさんは治療に関してはそこまで大学で勉強していないはずで、抗がん剤の種類や内容(ある意味、危険さやおっかなさ)も完全には把握していないだろう
にも関わらず、そんな危険なものの「投与」という超重要で取り違えたら大変なことになる高リスクな部分を確実に遂行してくれていあるのだ。
勿論投与の相手や内容を間違えれば、患者さんの命があぶないし、そんなミスをしでかしたナースもドクターも「医療者人生が終わる」自体だ。
そんなヤバイことをやってのけてくれている。 それも一人で何人分も。 なんと恐ろしい作業なことか
こんなヤバイことを分担しているのだからさぞかし信頼関係があるのか と言われるとそうでもない
ナースさんたちは医者の名前や性格を把握して毎日こちらのオーダーもチェックしてくれているように思う
しかし、大変申し訳無いが多分、多くの医者はナースさんの名前を全員分把握してはいない
リーダー格は覚えているが、ナースさんは医者の三倍近く居ることもあり(医者は1日じゅう患者の担当をするが、ナースは日中、夕、夜間の3交代制のため)中々覚えきれない
そして自分の患者がどのナースさんが担当してくれているかも余り把握していない どんな人材が薬の投与などのおっかない作業をやっているか把握しようとすらしない
そんな信頼関係で「患者と医療者両者の命がけ」の治療は分担され、成立しているのである
医者は一般的なサラリーマンとは異なり、働く場所が固定せず転々とする例が多い
(それは、病院毎に入院患者さんの病気の内容が違ったり、所属医局の病院ごとの人員運営だったりといろいろな理由があるのだが)
その為、日々の診療も実は知り合って数日の医者同士で行われたりする
性格やプライベートや経歴もお互いよくわからない状態のままでも、分担作業を平然とこなすのである
勿論、誰かが失態を犯せばチーム全員で責任を負わねばならない。にも関わらず 案外ケロッと任せてしまうのだ
そうしないと時間内に治療が回らないとは言え凄い信頼関係(?)だなと思う
病院経営として仕方ないとは言えこれだけ危険な作業を希薄な信頼関係で成立させている現状は私にとって非常に奇異に感じるものであった
普通、サラリーマンならずっとその会社で生きるため、そして年を取り昇進をすれば多少は楽になるから
若いときに苦労をする。上司も若い人材がその先会社を支えてくれるように一生懸命に指導をする。
有名な病院に居る若手医師は「ずっとここで最前線で働きたい」という人はそこまで多くなく
「ここは勉強になるけどキツいから若い内だけでいい、修行だけ積めたら他に居場所を探す」という考えの人も多い
(それは有名病院ほど帝大出身の医者じゃないと昇進できなかったりと幾つか理由はあるにはあるのだが)
ずっとそこに居たいわけでもないに彼らは本当に一生懸命に働いている
そして指導者もある程度彼らが一生自分の手足として働いてくれはしないことを知りつつも、一生懸命指導する
汚い話を書く。
昔から1ヶ月に1〜2回くらい、こうやって乳首がかゆくなることがある。
かゆくなるだけじゃなくて、乳首から変なウミ(?)のような、ジクジクしたものまで出てくる。
私は肌が弱いので、今までこれは単なるウミだと思っていた。
けど、数ヶ月前に婦人科でホルモン値を調べたとき、高プロラクチン血症を指摘されたのだ。
もしかして、これって乳汁分泌なの?
って一瞬思ったけど、つい最近あらためて受けた血液検査では、プロラクチン値は正常値に戻っていた。
数ヶ月前は、たまたまバイオリズムでプロラクチンが高かっただけみたい。
というわけで、今日も乳首のかゆさと謎の分泌液にイライラ半分、怯え半分。
ああクソが、かゆくて眠れねえ。
ワキガ歴は15年くらいになるだろうか。何もケアしないとかなり匂うのが自分でも分かる。
昔からそれなりにデオドラント用品を試してみたが、どれも汗をかいたりして匂いが出てしまうという状況の時には効かなかった。
しかしなぜかひとつだけ体に合ったのか、Hミッテルという塗り薬?を3日以上塗り続けると汗をかいた状況でも無臭に近い状態でいられた。1~2日だけではほとんど効果が無く、3日以上続けないと効果が出なかった。
これはかなり自信があるが、自分がワキガな事に気づいてる友人知人はおそらくひとりもいない。
ワキガの友達には直接本人に言ってしまう関係性の連中だったし遠慮されてる感じもない。それぐらいその塗り薬は効いていた。
なので夏は毎日塗るから無臭状態が続くが、冬などあまり汗をかく危険性が無い時はついサボってしまい、厚着して汗をかくと匂いが出る時があった。しかし自分に合ったいい商品を見つけたが、ほぼ毎日塗らないといけないというのがネックだった。
このまま一生これを買い続ける費用と、塗り忘れた時の不安とワキガというコンプレックスを解消してしまおうとワキガ手術をする事にした。
方法を調べていたら剪除法(皮弁法)というのなら保険が効くらしく両脇で5万円ぐらいで済むことがわかった。
(自分は両脇二回づつだったので結局10万弱ぐらいかかった。)
しかも効果も他の方法に比べて高い効果が得られるようなので一択だった。
次は病院選びだが、田舎から都会に引っ越してきたので選び放題だった。
人気がある病院だったのか、予約がかなり取りづらく手術は平日の昼間ぐらいしか空いていなかった。
手術までの流れは
・診断
・手術&固定
・経過観察&消毒(手術三日後)
・抜糸(手術一週間後)
・塗り薬などで手術跡のケア
というのを左右ずつやる。計二回。
範囲が広いと片側を二回に分けてやるので計四回。
・診断
自分はここでアポクリン腺が広範囲にあるので片側二回、計四回に分けてやると言われた。
左 上部、右 上部、左 下部、右 下部 の順番。順番は選べる。
上部が特にアポクリン腺が多いとの事だったので、先に上部をやることにした。
四回に分けてやるというのは、かなりショックだった。
同じ場所は手術後に一年経ってないとできないので、全部終わるのに二年かかった。
・事前検査
血液検査をするだけ。
・手術&固定
手術は片方40分ぐらいかかった。日帰り。
最初に麻酔をワキに打たれるのだが、これが妙に痛くて嫌だった。
毎回二本ぐらい打たれたのではないだろうか。
感覚はすぐに無くなり、メスで切開されているのがワキをつたってくる血で分かる。
血が苦手なのでこの感覚も毎度苦手だった。
その後は切った箇所から指を入れて皮膚を引っくり返してアポクリン腺を除去していくのだろうけど見えないのでよく分からない。麻酔が効いているので全く痛くない。
皮膚を引っ張られている時も、手の甲の拳骨あたりの皮膚をつねられているぐらいだ。
手術が終わるとかなりワキをかなり圧迫されながら固定された。
これをタイオーバーといって、皮膚と肉をくっつける為にやるらしい。
脇を開くことができないので、基本的に衣服はシャツやジャケット前開きの服のみとなる。
Tシャツは着れない。伸びる素材で作られたタンクトップなどはギリ着れた。
パジャマがTシャツやスウェットの場合事前に、いつもよりゆったりしたサイズの前開きの服を購入しておかないとツラい。
ユニクロで投げ売りされてるシャツを二枚買ってパジャマにした。
ワキを閉めっぱなしにしないといけないので、煩わしく日常生活に支障が出るが片側は普通に使えるのでそんなでもない。
シャワーも当日から入れて、脇を濡らさないようにすれば頭も洗える。
寝る時はバンドを体に巻いてワキが寝てる間に動かないように固定する。
痛み止めを毎回もらったが、初日に麻酔が切れて痛みそうになる前に飲んでいたので術後に痛みを感じた事は四回の内一度も無い。
・経過観察&消毒(手術三日後)
経過観察は異常が無いか見てもらい、ガーゼを変えて固定をやり直してもらう。
ここではじめて術後のワキと対面できるが、ワキ周りが内出血してたりしてちょっとグロい。
固定をしっかりやらなかったり、動かしてしまうと圧迫してる箇所がシワになってしまうらしい。
最初は固定に神経質になっていたが、徐々に意識が薄れてかなり適当に過ごしていても運が良かったのかシワにはならなかった。飲酒は止められたかどうか忘れてしまったが、ほぼ毎日飲んでいた。
・抜糸(手術一週間後)
・塗り薬などで手術跡のケア
抜糸をしても数日は薬を塗りガーゼを当てて軽めに固定する。しかしほぼ固定のストレスは無い。
ワキの下部の方が皮膚がくっつきにくいらしく、一回だけ抜糸後の経過を見て右の下部の固定が延長(三日)された。
術後のワキの色を改善する為の飲み薬を処方されたりする。
・左右の手術を終えて
上部が特にアポクリン腺が多かった為左右の一回目をやった時点でかなりニオイは軽減された。
ワキ毛はなくなった。術後一年経っている上部には、同じ穴から二本同時に太いのが生えていた毛は無くなった。
アポクリン腺の再生について先生に聞いてみたのだが、多少あるらしいがほぼ気にならない程度の多少らしい。
術後の色素沈着に関しては男だからかそんなに気にならない。
ただワキ毛も無いので、あまり大っぴらにワキを見せる気にもならない。
手術をして本当に良かったと思う。