はてなキーワード: 真摯とは
私は正直言って、彼に対して良い印象も悪い印象も持ち合わせていない。
ただ、ニュースに上がるたびに執拗に叩き続けるネットの人々には、嫌悪感と恐怖を強く感じる。
最近話題の髪型と態度についても、そこまでおかしいものだろうか?
ロン毛と書かれることが多いが、後ろで束ねていて悪印象は抱かないし、むしろ最近のオシャレな若者みたいだという印象を私は受けた。
当時の全体像を見ることができないので何とも言えないが、あんな風に急に取材を受けたら急いで立ち去ろうとするのも無理はない。
ここ数年の報道を受けて、真摯に対応しようとする人間がどれだけいるのだろう。
「皇族と結婚するのだから……」、などとそれらしい叩き文句を言う人も良く見かけるが、それこそ古臭い因習だ。
皇族といえど人間なのだから、まして一般人である小室さんにどれほどの振る舞いを求めるのだろうか。
あれだけ執拗に叩いておきながら、自分たちに愛想よく笑いかけろとはクレーマー気質も甚だしい。
また、彼らの過去を根掘り葉掘り調べて掲載してきたマスコミ、週刊誌の報道にも疑問を感じる。
そもそも関係者A、みたいな人物は本当にいるのだろうか。でっちあげていないか?
まず前提として、本当に小室圭さん自身が過去に何らかの犯罪行為(法律上問題のある行為)を起こしているなら、私刑ではなくまっとうな手続きのもとで裁かれるべきだ。
だが、真偽を確かめようがない過去の行いなどを取り上げて、さもそれが絶対的な真実のように叩く姿は気味が悪い。
疑惑の解消を、なんてコメントも見かけたが、週刊誌などがいくらでも盛れる根拠のない疑惑を永遠に産み出されてはキリがないだろう。
学生時代の素行についても、自分が100%品行方正だったという人はどれくらいいるのか。
キリストの言葉を借りるわけではないが、他人の行いに石を投げるならまずは自分の過去を振り返ってみてはどうだろう。
週刊誌やマスコミに踊らされて、理不尽に叩き続ける人たちを見ると本当に困惑する。
ラジオ番組を聞いて本当にエイリアンが襲来したと勘違いしてパニックを起こした、
なんて海外の古い話があるが、そのレベルにまだ留まっている生きる化石みたいな人間のなんて多いこと。
母親についても数多の問題が取り上げられているが、そちらについても疑問が残る。
小室圭さん本人ではなく母親が起こした問題について、彼はどこまで責任を負わされるのだろうか。
これも非常に古臭い考えを持っている人が多すぎるように思える。
犯罪者が出たら一族郎党まで罪に問う、なんて前時代的な考えをまだ持っている人がいることに恐怖を覚えてしまう。
やや大げさだが、犯罪者の父を持つ子や、片親の子に対して偏見を持つ人がいるが、根底にあるのはそういった差別意識のように思える。
親の行いに対して、子に責任を背負わせるというのは非常に酷だ。
まして彼の母親もただの一般人で、あれほど連日マスコミに叩かれ続ければ表に出てくることに抵抗もあるだろう。
彼女の行いがどこまで真実か分からないので肯定も否定もできないが、少なくとも無関係な人が口を出したり、文句を言うことには疑問を覚える。
こういった意見を述べると、「一般人と皇族は別」という話をする人がいるが、それも残酷な話だ。
皇族はかくあるべきだと決めつけて、個人の自由すらも他人が口出しするのは現代的ではない。
それは結局、一個人の幸せを願わず、皇族だからこうしろと他者の意見を押し付ける残酷な考え方だと思う。
少なくとも私は、好きな人と結婚したいと願う気持ちがある人に対して、結婚するななんて言う理解のない人間にはなりたくない。
言っていいのはギリギリで親や親戚で、それもあくまで助言や意見の交換程度で決定権は本人たちにあるべきだ。
まったく無関係の一般人が他者の結婚にアレコレ口出ししているのは、異常な光景に見えてしまう。
まして、結婚により皇族ではなくなるというのなら、もう放っておいてあげればいいのにと常々思う。
まだ憎いのか、まだ叩きたいのか?
税金がー、国民の血税がー、と怒る人々もいるが、それほど大きなお金だろうか?
我々の税金の大半は、私たちが日々利用する公共施設やインフラ整備に回されているわけで。
一個人へ怒りをぶつけるなら、国会中に寝ている議員たちに怒ったほうがまだ建設的だ。
税金が無駄遣いされている箇所なんていくらでもあるのに、1億5000万程度であれほど怒れる人々はどういった目線を持っているのだろう。
その1億5000万円も辞退されるとのことで、なにも問題ないのでは?
とまあ色々書いてきたのだが、週刊誌やネットニュースに踊らされるがまま叩く前に、もう一度理性的になって考えてみてはどうだろうと思った次第。
皇族だから、なんて日本のために犠牲になれという押しつけがましい願いより、一個人の幸福を願ってみてほしい。
あと、本当にこれだけは言いたい。
「国民は怒っている」「国民に説明の義務を果たせ」、「国民に失礼」
ワクチンを製造している製薬会社がワクチン格差について真摯にならない限り誰が何を言ってもどうにもならないでしょ
日本政府でさえワクチン供給後回しにするぞという脅しを暗にかけられていたりするのだから
「平等に配れ!」ってうるさいこと言い出したら煙たがられて自国民を守れない可能性がある
それはどの国も同じ
供給が遅れている国は政治的にも供給するための基盤構築(輸送や医療体制)でも何か失敗をしている可能性が高い
だからすべての国々へ平等に配れ!なんて叫びは背景を考慮しない無責任なエゴでしかないよ
とくにワクチン接種のためのインフラ整備は途上国の山賊や海賊などを駆逐し、根幹から変えないといけない
批判するならどうすべきなのか具体策を提案して支援者を募り、口だけじゃなく自分で動けよ
国境なき医師団でも入れ
これは私がこれまでに応募した大学教員公募への応募の記録です。実際は学振PDにも応募しているので、応募回数自体はプラス1回ですが公募ではないので割愛しています。現職は5回目の公募で決まったテニュアトラック助教で、公募戦士はつらいのでこれからは特に動くことはないと思います。
そろそろ今年の公募戦線が開幕してくる頃で、こんなことでも書いておけば誰かの役に立つかなと思ったので筆を執ることにしました。(特に応募、面接、内定のタイムラインは応募側としてすごく気になったので)
応募職位:ポスドク
書類締切の23日後に面接の通知、通知の18日後に面接、面接の7日後に内定通知(すべてメール連絡)。D3時に応募したはじめての公募で何もわからなかったことが印象的。今見返すと非常に拙い書類で、よくこれで通ったなというレベル。
特に不満はないポジションだったが、学振PDに通ったので辞退させていただいた。(面接時にその旨は伝達済)
結果:書類落ち
書類締切の28日後に面接に関する連絡(呼ばれるかは未定で面接日は通知の40日後)、この連絡の30日後に不採用通知(すべてメール連絡)。学振PDの任期が迫ってきたので、次のポストということで応募したはじめての公募。これも予算書を切り貼りした応募書類で出来がいいとはあまり言えないものだった。
書類審査の途中に、呼ばれるかはわからない面接日を通知されたのはめずらしかった印象。書類落ちしたのは募集職位の範囲が広く(准教授〜助教)、かつ分野も広かったことが原因かなと思っている。とは言っても書類落ちするとは思っていなかった分結構ショックで、これ以後の公募への向き合い方を変えたという意味ではいい機会だった。
結果:面接落ち
書類締切の59日後に面接の通知、通知の19日後に面接、面接の11日後に不採用通知(不採用通知のみ書面、ほかはメール連絡)。気持ちを入れ替え、かなり気合を入れて準備した公募。応募職位は任期付き講師、テニュア転換もありうるという内容な一方で、実績次第では助教採用もあるという文面で、まぁ助教だろうという心づもりで応募した。
面接で用意していた想定問答がなにひとつ当たらなかったことが印象的で、雑談の延長のような感じだった。志望度の高いポストだったので不採用通知を受け取った時は堪えたといえば堪えた。
結果:面接落ち
書類締切の45日後に面接の通知、通知の25日後に面接、面接の26日後に不採用通知(不採用通知のみ書面、ほかはメール連絡)。これまでは(特にこだわりがあった訳ではないものの)旧帝大しか応募していなかったが、国立大では上位に位置し、専門もジャストで合致、職位もテニュアトラック助教だったので応募。
この大学は面接発表のフォーマット指定がすこし特殊で、これまでの資料を再利用する際に少し戸惑った。発表はうまくいった印象で、募集コースの先生方からの質疑は好意的だった。一方で、その他コースの先生方からの質疑の当たりがキツかったものの、それはそれで真摯に答えられたと思う。手応えとしては受かったんじゃないかという感じだったが、蓋を開けてみると不採用だったのでやはり公募はよくわからない。(最終的に採用された方は分野は同じだけど基礎寄りの研究をされている方で、自分は応用寄りなのでそのあたりのマッチングだったのかもしれない。)
結果:採用
書類締切の4日後に面接の通知、通知の9日後に面接、面接の12日後に内定通知(すべてメール連絡)。こちらも国立大では上位に位置する大学だったので応募(4回目とは別大学)。この公募は委員会制だったためか連絡が非常に早く、結果的に4回目の公募と面接時期がかぶってしまって大変だった。
面接では研究内容とともに、担当予定の授業に関してのバックグラウンドや研究環境についての質問を受けたことが印象的だったが、どちらもある程度想定していた内容だったので無事に答えられたと思う。手応えとしては、当落線ということはなく、本命か当て馬かのどちらかだなという印象で、結果として採用だったので当たっていたということになる。
自分の専門分野については旧帝大クラスに強い大学なので、結果としては満足して公募戦士を終えられた。実際に着任した今も大きな不満なく研究教育活動ができていると思う。
結果:書類落ち
書類締切の49日後に不採用通知(メール連絡)。任期付きだが、専門性が合致しており、研究環境がよいと聞いている大学だったので応募。普通に準備をしたつもりだったがあっさり書類落ちをしたのでびっくりした。といっても5回目の公募に内々定した後だったのでノーダメージではあった。(内々定後、内定するのを待って辞退連絡をするつもりが向こうからお断りされたという流れ)
こちらも最終的に採用されたのは基礎寄りの研究をされている方で、自分は応用寄りの研究をしているのでやはりそのあたりのマッチングの相性があったのかもしれない。
応募回数1桁のしがない経験ですが、結局公募とはマッチングであり、業績や経験はその要素に過ぎないので、自分を責めすぎるのは本当に良くないと感じました。祈られてもへこたれず、地道に応募し続けた人が最後には微笑むのだと思います。公募戦士の方々の健闘を祈っています!
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
創業経営者と比べると、大企業の経営者による「私の履歴書」はいったいに面白くない。とくに金融系はつまらない。それにしても、石原氏の連載には刮目させられた。底抜けにつまらないのである。他の大企業経営者と比べても、つまらなさの次元が違う。それがたまらなく面白い。
読んでいない方のために内容をかいつまんで紹介する(ある意味で読みどころ満載なので、要約するのが心苦しい。ぜひ原文に当たることをお薦めする)。日比谷高校から東京大学法学部に進学。東京海上に就職する。新人時代の使い走り時代を経て、商品開発部門に配属。専門書で勉強し、世の中の変化に合わせて保険商品をつくる楽しさを知る。仕事が終わると先輩と2時3時まで飲み歩く日々。しかし、非常事態に対応するのが損害保険会社。翌日の仕事に差し障るのはプロとしてよろしくないと、日付が変わるまでに酒席を終えるようになる。
顧客対応の難しさ。人が行きかう駅で土下座をすることもある。代理店から出禁をくらっても、粘り強く何度も足を運び、ようやく納得してもらう。丁寧に意図を説明して誤解を解き、信頼を勝ち得るために努力を惜しまないことが大切と知る。
部下と上司の板挟みに苦しんだ課長時代。ストレスで十二指腸潰瘍を患う。職場の雰囲気がギスギスしていて、3人の女性社員が辞めたいと言い出す。ムードを和らげることに努めた結果、「まだ続けます」といってもらったときの嬉しさ。
■ヤマはない。オチもない。波乱も万丈もない。
畑違いのシステム部門に異動に。勤務先は国立市のコンピューター・センター。初対面の人ばかり。打ち解けるために週末を除いて56日間連続で部下と飲み、本店からの無理難題で疲弊しているシステム部門の現場の悩みを知る。本店との風通りをよくしようと努力を重ねる。ときには丸の内OLになりたくて入社した女子社員が国立に行くのがイヤだと駄々をこねることもある。本店まで自ら迎えに行って、国立勤務を受け入れてもらう。
取締役に昇進し北海道本部長に。当時、取引先の拓銀は破綻の危機。正月、拓銀の守り神の神社にお参りし、「拓銀さん、今年もどうか頑張ってください」と祈る。支援に奔走するが、拓銀はあえなく破綻。「いろいろご支援いただきましたが、こういう結果になりました。本当に申し訳ありません」という副頭取にかける言葉もなかった――。
こういう調子で、淡々とした仕事生活の回想が延々と続く。ヤマはない。オチもない。波乱も万丈もない。強いて言えば、連載17日目(これを書いている時点で最新の回)の次期社長を打診されたときの話がヤマといえばヤマだ。
前社長に「後任は君だ」と言われ、予想もしなかった話に呆然とする。「考えさせてください」とだけ答え、帰宅してから仏壇の両親に「大変なことになりました」と語りかける。それをひそかに見ていた夫人(またこの奥さまが石原氏にお似合いの「古風でしっかりした」女性。女子大を出たばかりのときに高校時代の美術の先生の紹介でお見合い結婚。内助の功をいかんなく発揮。もちろん美人)が「お受けしたら……」。で、受けることにした――と、これだけなのである。
経営者の「私の履歴書」にお決まりの「のるかそるかの大勝負」とか「修羅場での決断」がまるでない。目の前の仕事に誠実かつ真摯に向き合う。こつこつと着実に小さな成果を積み重ねていく。「週末を除いて56日間連続で部下と飲む」ということは、ちゃんと日数を数えていたわけで、この辺真面目としか言いようがない。
大企業の経営者が書き手の場合、月の半ばから後半に入るころに、「次期社長は君だ」のエピソードが出てくるのがお決まりのパターンとなっている。社長のポストを打診されて「青天の霹靂だった」とか「思ってもみないことであった」というのがこれまたお約束なのだが、読んでいる僕にしてみれば「よく言うよ。絶対自分が次の社長になる、それだけ考えてやってきたんじゃないの……」と思わせる人が多い。ところが、石原氏の場合、本当に「予想もしなかった話に呆然」としたのではないかという気がする。それだけ筆致が率直なのだ。
はじめは単に「面白くないなあ……」と流し読みしていたのだが、そのうちぐいぐいと引き込まれ、連載10日目を過ぎたころからは襟を正して読むようになった。その桁違いのつまらなさに、むしろ保険会社の経営者としての凄みを感じたからだ。
真面目に自粛してた音楽関係者に対して失礼だし、迷惑だったし。
28、29日に愛知・常滑市内で開催されたヒップホップ系野外フェス「NAMIMONOGATARI2021」が、新型コロナウイルス感染防止対策をめぐり批判があがっている件で、主催者側が30日、公式サイトで経緯を説明し、謝罪する文書を掲載した。
しかし、この「謝罪文」についてもネット上では「言い訳、責任転嫁」「なにを詫びている?」「文章が稚拙」などの多くのツッコミが入っている。
同文書では冒頭に「地域の皆様、全国の皆様、関係者の皆様そして、今まで音楽業界、イベント業界を支えてきて頂いた関係各位の皆様に多大なご迷惑、ご心配をおかけしてしまった」と謝罪。その後、経緯説明をした。
そこでは「8月18日までの10日前までの時点で、今年の開催が可能な事、過度な飲酒でなければお酒の提供も可能という状態で愛知県から話を頂いた」ことや「その日から常滑市が蔓延防止重点処置地域(原文ママ)に指定され」「この時点で酒類の販売の自粛要請も頂いていましたが、一部キャンセルできない物を販売しますと愛知県担当者に報告をし、過度の飲酒にならない様、お一人様二杯までとし、アルコールはアルコールチケットで販売をし杯数の管理をしていました」と説明。ステッカーやエリア外飲食の禁止、マスク着用のお願いなどの感染予防対策を「イベント会場内でその期間できる範囲以内の対策を講じ」たという。
しかし「その後、8月27日イベントの前日に緊急事態宣言が愛知県に発令されてしまいました。イベント当日を翌日に迎え、全ての準備が終わっていたタイミングでした。そのタイミングでイベントを中止や延期にすることが物理的にできませんでした」としている。
さらに「イベント当日は8000人を超える観客が来場し、ソーシャルディスタンスは守られず、常に密な状態になってしまいました」とし、注意喚起をナレーションや大型画面で行ったとしている。しかし「結果として、大規模な音楽イベントの感染予防対策に対する認識の甘さが全国の皆様に多大なご心配をかけてしまった事を心より深く反省致しております」とつづり「全て制作会社の弊社に責任があります」と締めくくった。
これに対して、ツイッター上では「前日ではなく、4日前には緊急事態宣言が出ることは分かっている。言い訳がへた」「おれたちは悪くない。緊急事態宣言をイベント前日に出したのが悪いというのはよく分かった」と宣言発出がイベント前日だったことが中止できなかった理由にする点を批判。コロナ禍では開催前日に急きょ中止にする例もあることから「物理的に中止が無理ってなに?」と疑問があがった。
また、イベント後には名古屋市内で朝5時までのアフターパーティーが開催されたことについて触れていない点もツッコむ声があった。
「言い訳、責任転嫁、医療従事者への謝罪なし…なにを詫びてるつもりなんだろ。文章もあまりにも稚拙だし.中学生の書く文章じゃないんだから」と謝罪文書全体への稚拙さに言及する声もあり、「お詫び文に代表者名も記さない」「責任はあるけど、責任はとらないんだよな」と責任の取り方に対する不明確さも追及された。
また「これ以上真摯(しんし)に向き合っている同業者の足を引っ張るのはやめてくれ。音楽はそんなもんじゃない」「売上金を医療関係者に寄付してはいかがでしょう」と言う声も上がっていた。
ツイフェミ迷惑増田、気持ちはわかるんだけどTwitterのフェミ的な人は男性の暗黒面を滅茶苦茶見てしまうので憎悪が煮詰まるのは無理ないところもあるんだよね。
盗撮アカとか痴漢アカとかエロ無罪アカとかオタクチキンレース文化(ロリをハイエースみたいな冗談をよく言う)とかフェミに思い知らせようとするデマ(女にAEDすると痴漢扱いされるぞ!)とか、政治家のヤバ発言(『政治家 性差別』で山ほど出る)に企業のヤバCM(乳牛として出荷される少女)、学校のヤバ案件(女子一律減点)、ヤバ判決(娘を強姦してた父親が無罪)など、とにかくあらゆるヤバい男尊女卑案件が仲間うちですぐさま共有されるので暗澹たる気持ちになるのだ。なぜか絡んでくるアンチフェミアカもいるしね(次第にこの手の奴らは単に構ってほしいのだとわかるようになるけど、気を引こうとして攻撃してくるので大変疲弊させられる)。
それに真摯に向き合って丁寧に解決しようとする人たちもいてマジで頭が下がるのだが、私は辛くなって見なくなってしまった。見なくても存在するのでただの逃避なんだけど。
盗撮アカの通報に専念してる人なんか賽の河原で石を積んでるようで本当に気の毒だった。
まぁツイフェミもいろいろいてね、『過激系悪口派(ミサンドリスト)』『過激系社会変えたい派(石川氏辺り?)』『穏当系社会変えたい派(男性の性被害とかも言及しがち)』『オタク系愚痴派(キレキレのオタク文法で読ませるがオタクらしく外部には見つからない)』ぐらいには分けられる。ちなみにこれらのグループはあんまりお互い関わりない(少なくともリプしあわない)です。
口汚く罵るタイプの人なんかは私も苦手だけど、ツイフェミ(ていうかTwitterにいるフェミニスト系の人)に救われることもあるので、最近の『ツイフェミは馬鹿で過激』っていう風潮は悲しいんだよな。丁寧な言葉で言っても無視されるから過激化したみたいな人もいるしさ〜……。
ツイフェミ迷惑増田が「後ろから撃つな」って言いたい気持ちはわかるよ。「いまその話ややこしくなるからやめて」「ガバガバ理論で隙をつくるな!」「この辺と同類に思われるのいやだな」みたいなことはね、思いました、私も。でもTwitterにいるフェミ系の人を全部分断処理しちゃうのも乱暴だと思うんだよな。
あ、ちなみに、トゲとかでツイフェミとしてまとめられてるアカウント、成りすましもあるのでご注意を。ある程度慣れてるとわかるんだけど初見の人は気づかないと思う……。
人って性別で括ってこうと決められるようなものではないから、男性だから○○とか言いたくないんだけど、歴史を勉強すると権力を手にした男性がありとあらゆる手で女性を劣っていて愚かで不浄で短絡的で陰湿で人(つまり男)を堕落させるものと定義して支配しているのでびっくりする。宗教もそういうの多いよね。制度的には夫に殉死しなきゃいけないとか、妻の浮気は死罪だけど夫はお咎めなしとか、女は教育を受けさせないとか。反対に女性でカウンターとしてでなく男性を貶めて支配しようとする人ってそんなに見ない(たまに排撃しようとする人はいるが「私の下にいろ」ではなく「関わりたくねー」が基本)。この違いってなんでなんだろーってずっと考えてる。
議論をして行けばいずれ真理にたどり着くだろうというのは、分かりやすく言えば、議論をすれば正しい主張が生き残るはずという説です。
これは議論の重要性、ひいては、民主主義の重要性を語る上で出てくる話です。
Aという政策を掲げる政治家とBという政策を掲げる政治家が議論をすれば、双方のいいとこ取りをしたCという政策が出てくるのでは?的な。
だからオタクとツイフェミが真摯に議論をすればいつか双方が納得する解決策だって出てくるはず!
(なお、細かいところだけど、思想の自由市場論は表現の自由の重要性を語る上で出てくる話だから、思想の自由市場論を憲法が保障しているという訳では無いよ!)
妻側の立場で離婚したおばちゃんだけど、これは妻側の本音も聞いてみたいなあ。
なんだか離婚した時の状況と少し似ている。
増田の方が元旦那より真摯に考えてる、増田妻の「自分で考えて」は改善の意図がない突き放しに思えるけど。
第三者を立てて話し合いをした方がいいように思える。
こういうのってお互いに「自分が被害者である」って前提でものを考えてる場合がある。
元旦那は第三者を入れるのを徹底的に拒否して、数ヶ月かけて話し合った末に決定的な考え方の違いが露呈して別れに至ったわけだけど。
きっと元旦那にあの時の状況を書かせたら、この増田みたいな感じになるのかなと思った。
私の視点だと「モラハラ」「DV」「(家事など)気にならないからやらない」「セックスの手抜き」という理由があったんだけどね。(共働きで家計完全折半だったから家事の件が大きかった)
↑は元旦那に自覚はなく、最後までそんなことした覚えはない。俺は努力していて、君はなにもしてくれなかった、俺は一方的に突き放された被害者だっていうスタンスだったから、増田については心から難儀だな、かわいそうだなと思うからこそやはり第三者を入れて欲しい気持ちがある。
⭐️はコロナで肺炎でも呼吸困難でも入院できない問題に直結する話
anond:20210828000542 anond:20210828073031 anond:20210829091713 anond:20210829091722 anond:20210830205443 anond:20210905190228 anond:20210912140906
掛け算の順序問題なるものがある。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と「3×4=12 答え 12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。
この意見の対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学・算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋に抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。
念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育の専門家でもなければ小学生に算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである。
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え 12個」と答えるのは誤答であるという立場である。
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。
正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学・高校・大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=i sinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。
上記の思想とは翻って「4×3=12 答え 12個」も「3×4=12 答え 12個」も正答とする立場である。
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係や操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。
俺が現実で計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。
算数を「現実の事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養(大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。
しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのものに意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。
数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。
この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え 12個」と答えるのも「3×4=12 答え 12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」のように定義の形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんごは12個ある。 答え 12個」という回答も正答である。
この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は間違いとなる。
"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明な命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。
余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cmの正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cmの正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数 cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。
この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学の直感的理解を否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋な数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学の思想に触れることができると考える。
もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学は計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実の対象を数学的にモデル化してそこから論理的に結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。
しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合、そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合、問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。
冒頭でも述べた通り俺は教育の専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数は計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。
『昭和元禄落語心中』の作者によるBL作品『いとしの猫っ毛』シリーズの紹介本。シーモアで0円なり。
北海道出身の男二人とまたたび荘の癖のある住民達のヒューマンドラマ的な何からしい。群ようこの『れんげ荘』みたいな? いやそんなにシリアスさはないっぽいかな。
商業BL読むんなら履修すべき漫画的にいわれる猫っ毛シリーズ初体験だった。単行本買ってまで読むかというと、微妙。私のほしいものリスト優先順位は、かなり下だなぁ。
エトランゼシリーズも商業BL読むなら是非読むべしみたいなこといって、ゴリゴリにおすすめされるやつなんだが、絵柄がなんかBLを描くよりは圧倒的に百合向きじゃね? という画風なので、私はあんまり。BLだと思わずに読めば面白いと思った。
物語のシリアスさが少女漫画のテイストのそれなので、面白いけど今読みたいのはこれじゃない感。あ、そんなこと言ったらBL漫画の大半がノットフォーミーだけど! BLは少女漫画の1ジャンル……。
かわいい絵柄でガッツリとエロあった。ノーマルなプレイしかしてないから「エロ少」評価されるんじゃないかなと思うけど、当たり前のごとくにまぐわっていらっしゃる。私は目のやり場に困った。絵柄が可愛すぎて。
そもそも私の求める萌っていうのはBLにはないよね……と思い、原点回帰するかのように馳星周小説に手を伸ばす。昔読んだっきりで内容をほぼ忘れていたけれど、すごくブロマンスだった気がしたので再読したくなった。
記憶に残っていた以上に、主人公の彰洋が上司 美千隆の犬だった。ワンコだった。すげえしっぽ振ってた。かわいそかわいい。
これこれ、このパシリ以上バディ未満ブロマンスにはかなり遠い……な感じが好きなのだ。って、ブロマンスじゃないんかい。
美千隆が彰洋にお揃いの指輪をプレゼントする場面は完全に忘却していたのでびびった。こんなに美味しい場面をきれいさっぱり記憶から消去していた自分の脳ミソに驚愕した。覚えてろって。しかも指輪、薬指にはめるやつなんだ……すごーい! と思ったらけっこういい感じのスピード感で指輪は二人ぶんまとめてトイレに流すことになるので笑った。はやいはやい!
以前読んだ時は美千隆の魅力が心に残ったのだが、再読してみれば美千隆のかっこよさはふんわりとして嘘っぽくて、それより波潟のパッパとかヤクザの松岡とか関西の地上げ屋ヨシくんとか株屋の市丸さんとかの方がずっといい男な感じがした。
あとで続編の『復活祭』読もう。
『復活祭』を読む合間の息抜きに読んでいた。『左近の桜』シリーズの第3弾。5回くらい読んでいるのに、読み終わってしばらくすると昨夜見た悪夢を昼間に思い出そうとする困難さのように、内容を思い出せなくなる1冊。いい加減あらすじをちゃんと記憶したい……。
シリーズ第1弾と第2弾が12話くらいで一年分の物語が詰まっていたのに対して、本作は4話のみでしかも2年ぶんだけ。1話と2話の間に一年が経過している。
相変わらずの地獄廻りっぷりだが、桜蔵が幽霊に性的な意味で喰われるシーンは少ないし控え目。
これは桜蔵と父の柾の物語なんだなぁ、と思った。いや前からそうなんだけど、柾が関係する人物絡みの話ばかりだなと。
あの雑誌のTarzan。単にprime0円ベストセラーだからなのか、最近私がBL雑誌の試し読みばかりDLしていたのが関係しているのか、やたらKindleトップページに居座り続けたので興味本位で読んでみた。テーマは「性学」だし。マッチョメンのための雑誌のセックス特集やいかに……。
案外普通というか、男性器と女性器の解剖学だったりオルガズムの仕組みなど、真面目な記事だった。男女ともに満足のゆくセックスライフを送るための知識、妊活はいつから? 子どもの性教育は? とか本当に内容が真摯で紳士でタフ。ただ、セクハラとは何か?というコラムで、女から男へのセクハラ発言はどれか三つの選択肢から選べ(正解は1つ)という設問の、選択肢が三つとも「あなたいい体してるね、」で始まるのはどうかとおもう。そんなこと、ビジネスシーンで言ったらやばくない? Tarzan読者には褒め言葉なのかもしれないけど。
それはともかく、読み応えがすごいので、まだ4分の1くらいしか読み終わってない。女が読んで腹が立たない男性向けセックス特集っていいな。