はてなキーワード: 怠惰とは
そうでないなら、他人をどうにかしよう、どうにかできると考えるのは傲慢ではない?
時代により比率は変われど、世の中には一定割合のそういう人が常にいるものだ。
それをどうにかしようとするのは複雑すぎる困難な問題だし、一個人の手に負える問題ではない。
だから政治がアプローチしようとしている分野。そこに、個人が「常識」やら「モラル」やら「病気」やらを説いて、
説得、恫喝、暴力などで人を動かそうとしたところで、それは人権を脅かしかねないゾーンに足を突っ込むことになる。
だから個人レベルの戦略としては、他人を変えようとするより、自分が変わる・自分の環境を変えることが良策だろう。
身内だったら、無理にでも叱ったり躾けたりして家族全員の価値観をある程度統一することも許されるかもしれないが、前時代的な考え方だ。
価値観の多様化した現代においては、一緒に暮らす家族といえどまったく異なる価値観や問題を抱えている。成人ともなれば尚更だ。
そもそも科学的には自由意志が存在しないのが濃厚で、自己の責任というものも存在しえない。
科学的には存在しないものを、社会的に秩序立てるために存在する、自覚しろと言っている状況がある。
不幸なことに人類は脳がたいへん発達しており、はっきりした自意識は持っている。
ただし、自意識を持っているからといって、神経系の全権を自意識が有しておりコントロールできる訳ではない。
むしろ、1%たりとも自分で意図的に脳を動かせる人などいない。腸を意識して動かせる人がいないように、それは勝手に動く。
その脳は、感覚器を通した周囲の環境からのインプットを、肉体的に好悪を選好しつつ電気的に保存しておくものでしかない。
それに基づいて、その人の言動のようなアウトプットが成される。
それを私たちは、自分の意思で決めたのだと感じているに過ぎない。
それでどうして、自己の責任などと言って、一個体にその言動の責任を負わせることができるだろうか。
その意味で、この宇宙には自由意思をもつものなど存在しないだろう(宇宙を創った神のようなメタ存在を除いて)。
諸器官が作り出すハーモニーが自由意志の幻覚を見せているだけで。
脳をハッキングすれば、その人の好みも価値観も発言もコントロールできることは想像に難くないだろう。
そしてそれには、高度な神経科学の技術は必要なく、大昔から、脳のインプット源をコントロールする、
いわばソーシャルハックのような形で世に溢れている。
というか、教育からビジネスまで、人類の営みのすべてがそのソーシャルハックに終始していると言えるほどだ。
その人が社会に出ることを忌避する思考の持ち主に育った原因には、遺伝的(先天的)なものもあるかもしれないし、
育ちによる(後天的)なものもあるかもしれない。現代では特に、後者の影響も大きいだろう。
人間の脳は成長の過程で、外部からさまざまな情報を学習して、そこで個人個人で異なった価値観を形成する。
普段似たような価値観をもつ人たちと社会生活を送りがちな人間は、そのバラエティの深さについて思い至りにくいし、それゆえ寛容を欠きがちだ。
率直にいうと、あなたがもしその30になっても働かない人として生まれ、その人生を0歳から現在までトレースしてみたとき、
彼と同じようにならない自信が持てるだろうか?持てる人は存在しないだろう。
彼のような状況、心境、価値観に至るには、他人とは共有できないさまざまな巡り合わせの累積があったに違いないからだ。
働かずとも生きているということは、養ってくれる存在がいて、愛されているということだろう。
愛されるに足るだけの存在でい続けているんだろう。
扶養者が親であれば、当人への理解も深かったり、あるいは親としての責任も感じてかもしれないが、
家事を手伝ったり、面倒事を代行したり教えたり、体を労ったり話相手となったり、あるいは存在だけで癒やしとなったり。
会社社会の価値基準でみるとそれらは釣り合わぬ価値かもしれないが、その価値基準がすべてではない。
あるいは相続した蓄えで生活しているのかもしれないが、それはそれで認められた権利だ。
ここは社会主義国家ではないから、働けるけど働かないことが直ちに罪になるわけではない。
それぞれの境遇にあったそれぞれの生き方を模索することが許される現代国家の、労働が急速に自動化されていく未来において、
労働に心身と時間を費やしてきた人の目線だと、働いてこなかった人を見下しがちで怠惰な人間だと思うかもしれないが、
人間は無限に怠惰ではいられない。労働市場でただちに評価される形ではないかもしれないが、
オンラインゲームをしながら、最適解を導き出すために高度な関数やAPIを駆使して計算・発表する技術を身に着けていたり、
あるいはチートやクラッキングについてのディープな知識をつけているかもしれない。
そこまで高度でなくとも、ゲームを続けていたならゲームについて人並み外れた審美眼が養われており、
テスターだとかブログのような形で何かの機会に活かされる可能性がある。
他にも、Webコミュニティ(wikiやギルドなど)のメンテといった、有志に頼る、大変だけどお金にならない部分をニートが支えている例は多いのではないだろうか。
ニートとはいえ、労働市場に出るのは嫌でも、人の役に立ちたい、褒められたいという欲求は人並みにあるものだ。
なので人知れず、市場経済にではなく人間社会に対して良いインパクトを与えている可能性を考慮してほしい。
きっと2ちゃんで良識的で穏健な発言をして荒れるのを防ぎ、初心者に優しくしているのもニートおじさんなのだ。
彼らは、働いて疲れて擦り切れて攻撃的になっている社会人のみなさんの棘を受け止めてくれているはずだ。
ニート歴数年とかの駆け出しニートは逆に精神不安定で拙い言動で迷惑をかけることが多いのかもしれないが、
基本的にニートは肉体も精神も拘束されることがないので、金はないが心の余裕があるものだ。
その余裕で人を包んであげたいと思うのは自然なことで、ネットでもらう匿名の温かい言葉のニートによる率は高いと思う。
忙しい人は、そもそも無関心になりがちで、応じるにしても一言二言で短絡的に答えがちだから。
そんなわけで、増田のみなさんには、働かざる人に対して一概に人格否定したり、どうにかしようと攻撃したりしない人になってほしい。
働かざる人を許容できるようになっていかないと、わりと深刻に国の未来は暗いと思う。
ミニマルな環境に適応し、モノやココロの断捨離に自ずと卓越していくニートの知恵袋が、
収縮していく社会で穏やかに生きるためにはきっと役に立つはずだから。
時にはフレンドリーに、いろいろ話を聞いてみてほしい。
よく話せば、誰しも決して無知蒙昧な人間のクズではなく、世界の見方が世間とは違うだけの、いい意味で「普通の人間」だと気づくはずだ。
リバタリアニズムが自由最高ヒャッハーみたいな種類の思想だというのは、左翼や右翼やちょっと聞きかじった程度の半端な理解の人間による印象操作なんだよ。
ちゃんと調べて、まともな学者の書いた本を読めば、究極に理性的な思想だということがわかってくるはず。
北斗の拳みたいな世紀末状態がリバタリアニズムの終着、みたいな認識が2ちゃんやらの日本のネット上では書かれている事がよくあるけども、とんだ見当違いだよ。
じゃあどっちかというとアナーキズムか、というとそれも違う。アナーキズムだって、反支配ではあるが無秩序を望む思想じゃないし、むしろ調和をめざす非暴力の思想だ。
一部のアナーキストが、支配から脱するための暴力革命やテロリズムを認めているにすぎない。
話を戻して、リバタリアニズムは自由放任と表現されるけど、それがややこしくしている。その単語が表すイメージとは次元が違う。
きちっとした法治を是とするのは当然として、その場その場の属人的な裁量ではなく洗練された最小限のルールで世の中を究極にシステマティックかつシンプルにしようという考え方。
そうして、自由放任にしても大丈夫、人がどう動こうと失敗しようと必ず救いがあるし報いがある、だから寛容になれる、そういう環境をつくる、という意味での自由放任だ。
そのための最適なルールを、常識に囚われず考え続けることに余念のない人たちがリバタリアン。
もともとはリベラルと呼ばれた考え方だけあって、個人、人権を尊重しようとする考えはしっかり根底にある。
だから他人の自由を侵害することにも特に敏感で、それこそが右翼や左翼との違いでもある。
リバタリアニズム的な思考に基づく発言とか政策を切り取ってみると、傲慢や強欲を感じられる事もあるかもしれない。
でもそれは、国家よりもまず個人の幸福を尊重するからであることがほとんどだ。
長期的視野や全体的視野に立ってみると、国家に従属して集団の幸福を実現するより、技術的進歩に従って個人レベルの連携でもうまく機能する社会システムにシフトしていったほうが健全だし盤石だし平和的だろうという考えがあるから。
そういう感じで、一見突飛な意見も、より良い未来を導くビジョンに繋がっている。
そうではない、「怠惰な弱者は自己責任だから救済する必要がない」だとか「再配分は自発的な寄付、トリクルダウンで現状でも賄える」みたいな事を言う人は、
確かに昔のリバタリアンと呼ばれた人にはそういう人も多かったようだけれども(今でもいないとは言わないが)、もはや現代のリバタリアンはそんな強者の論理を振りかざす人たちとは違ってきていて、より柔軟で現実的になっている。
でもネットでリバタリアニズムを調べて出て来るのは、そういう古臭く悪印象な強者の論理ばかりなので、ほとんどの人がそこで学習が止まっている。
リバタリアンとされたミルトン・フリードマンだって、まじめに再配分を考えていて、負の所得税のような今で言うベーシックインカムに繋がる政策を考案したその人であるし。
彼のマネタリズムのようなリバタリアン的政策は、あの時代では失敗したけれども、現代そして未来のあらゆるものがデータとして数値・属性で可視化されるようになった世界では、
金融政策ではないにしろさまざまな分野でリバタリアン的な「裁量よりルール」が有効に働くようになってくるだろう。
リバタリアンと分類されて馬鹿にされる人たちの多くは、一般の人の想像が及ばないくらいの精細な未来の人類のビジョンを持っているように感じられる。
その人の専門分野、技術的知識によってその推測は本人的には裏打ちされているんだけど、他人からみると理解されない。
「いま」を生きる大衆目線で見ると愚か者の暴論にしか見えず、袋叩きにあうしかないんだけども。それでリバタリアニズム自体もなめられている。
・小学生
小さい頃から根暗で引っ込み思案。バスケというチームスポーツでは迷惑な存在でした。
ある日、監督にメンバー全員の前で、「お前チームで浮いてるぞ。」と苦笑いしながら言われました。
自分は普通にしてるつもりなのに、みんなと仲を深められない。どうすれば浮かなくなるのかわかりませんでした。
元々私にとっては居心地の悪いクラブでしたが、監督の一言があってからは、練習が終わったあとの後片付けの時間に、いつも倉庫に隠れて泣くようになりました。
辞めたかったのですが親に「辞めたい」と言う勇気すらなく、卒業しました。
・中学生
ブスと言われ、クラスでいじられるようになりました。
私の行動や発言をクラス中が逐一ネタにする、という、よくあるやつです。
幸い完全に孤立してはいなかったので、なんとかやっていけました。
私とよく一緒にいてくれたグループは、いわゆるオタクグループなのですが、私はアニメや漫画をほとんど見ない人間でした。
グループで流行ってるアニメを見たりして、最低限の知識は抑えていましたが、オタクの話題にはその程度の知識では通用しません。しかもほとんどが腐女子だったのでもうちんぷんかんぷんでした。
ですので、話はすれど友達にもなりきれず、孤立を恐れた私は金魚のフンのようにグループにくっついて回りました。
部活は、経験のあるバスケをやりたかったのですが、小学校での苦い経験と、バスケ部のメンバーが軒並みスクールカースト上位のいじめっこだらけだったので入りませんでした。
進学は、そこそこの進学校に行きたかったのですが、自宅から距離があったのでやめました。
こうやって、やりたいことをすぐ諦める人間でした。
・高校生
1年生の後期くらいから学校を少しずつサボるようになり、2年になった頃には不登校になりました。
何もかもどうでもよくなり、自殺のことしか考えられない。1年生の頃はトップだった成績も、最下位レベルに落ちました。
担任に心療内科の受診を勧められ、鬱と社交不安障害と診断されました。数年通いましたが全くよくなりませんでした。自殺を図りましたか未遂に終わりました。
出席日数が足りず進学できなくなったため、通信制の高校に転学して卒業しました。
昔は大学に行きたかったけど、この頃はもうすっかり頭が悪くなり、これまでの経験から学校生活でうまくやっていける気もしなかったので、大学進学は考えられませんでした。
メンタルの調子が悪いままだったので、社員として働けそうにないと思い、実家に寄生しながら短時間のバイトを始めました。バイト先でも浮いていました。
2年ほどバイト生活をして、「いい加減就職しないと」と思い就職活動を始めた矢先、精神科に入院することになりました。閉鎖病棟で数ヶ月過ごしました。
治らないのは、病気でもなんでもなく、ただの甘えでこうなっているからだと気付きました。
こうして振り返ってみると、私の人生に不幸なんて何一つありませんでした。家族もいたし周りも優しい人ばかりでした。全部自分の甘えや選択が招いた結果です。
周りの人は、「私はこれを頑張った」「努力した」と言い切っていて、心底尊敬します。
私は頑張ったことや苦労したことがありません。何もない半生になってしまいました。
私より怠惰な人はあまりいないと思いますが、もしいたら、福本伸行の熱いぜ辺ちゃんでも読んで頑張ってください。
死にたい。
彼女のことが好きすぎる。
* * *
これまでお付き合いとかしたことなかったし、片想いすらしたことなかった僕が抱える、はじめての気持ちだった。
去年の11月。文化祭期間、ひょんなことから、キャンパスの近くのファミレスで、ふたりで夕食を一緒に食べた。
女性と1対1でご飯を食べるのも、はじめてに近かったかもしれない。
でも、想像したより「恥ずかしさ」みたいなものはやってこなくて、ただひたすらに、楽しかった。
いつの間にか、話は哲学的なところまで行っていて、人生を生きていく方法の話とか、何かを記憶する時の方法の話とか、恋愛とは、結婚とは何か、とか、そういうことをずーっと語り合っていた。
一度だけ、めちゃくちゃ僕が興奮して(互いの価値観の一致に)、握手をしたことだけ覚えている(後で彼女に、隣のテーブルの人にめっちゃ見られてたよ、と言われた)。
トイレに行くどころか、水を取りに行くことすら忘れて、語り合った。
気がついたら閉店の時間で、店員さんにやんわりと出て行けと言われてしまった。全然、話し足りなかった。無限に話していたかった。
人と話すのがこんなに楽しいことだなんて、20年くらい生きてきて、はじめて知った。
彼女に対して、これまでの人生で抱いたことのない、まったく新しい感情を抱いた。
うまく言語化はできなかったし、今ではちょっと変質してしまったような気がするけれど、あれは、紛れもなく、僕の「初恋」だったと思う。
* * *
同性の友人とたまに議論になることはあるんだけれど、異性とあんなにラインを使ったのもはじめてだった。
緊張とか、恥ずかしさとか、そういうものはあまりなくて(「あまり」と言ったのは、多少はあったからだ)、ひたすら、楽しかった。
色々なことを話した。
互いの考えていることを何とか伝えようとして、たくさんの表現を考えて、小さな画面を見つめ続けた。翌日が休日の時、一度だけ、朝になるまでラインが続いた。
議論がすれ違いそうになるたびに、お互いそれを何とか察知して、歩み寄って、互いの考えていることが何なのか、ちゃんと伝えようとした。汲み取ろうとした。
彼女は僕に、僕は彼女に、いつしか全幅の信頼を寄せるようになっていた。それが、たまらなく、嬉しかった。
で、ですね。
議論が行き違ったというか、これは完全に僕の勘違いだったんだけど、とっくに僕が彼女を恋愛的な意味で「好き」だとバレてると思っていて。
でも実際は彼女が考えているのは別のことで。互いの思ったこと、考えていることは恥ずかしがらずに伝えることになっていたから、これも伝えないわけにはいかなくて。
結局、朝4時に彼女と通話をして、自分が彼女に好意を抱いていることは伝えた。でも、別に、彼女を恋人にしたいという希望は(当時は)薄くて、これまで通りに色々お話できたらいいな、と伝えた。
彼女の方は全く想定外だったようで、こっちは恥ずかしくてそれどころじゃなかったんだけど、伝えた瞬間フリーズしていたことを覚えている。「え? わたし?」的な。
このタイミングで、敬語が取れた(先輩だったからね)。向こうからの提案だった。
敬語じゃなくなると、それだけで距離が縮まった気がして、嬉しかった。
* * *
それから、色々あった。
はじめて、彼女を下の名前で呼んだ時。恥ずかしくて声は震えてたと思うし、彼女から下の名前で呼ばれるだけで嬉しさが心の底から溢れてきた。
「恋」と「愛」を定義して、ふたりの間にあるのはどっちだろうって話した時。少なくとも「愛」はぜったいあるって結論になって、「愛してる」と言うたびに、言われるたびに、心が震えた。幸せだった。
こんなのただのバカップルだねって、ふたりで笑った時。お付き合いしてないのにねって。お互い、そういう作品を摂取するのも好きみたいで、夢みたいだねって言い合った。楽しかった。
そして、クリスマス。
意図したわけではないけれど、一緒に晩ご飯を食べた。いつの間にか、手を繋いだり、頭を撫でたり、そういうことをする関係になっていた。
ふたりともめんどくさい人間なので、ふたりの関係を定義したくなった。間違っても、ただの先輩後輩の関係ではおおよそない。ふたりの関係に、名前をつけたくなった。
色々あったんだけど、とにかく。
彼女と、正式に(?)、仮契約を結ぶことにした。お互いがお互いを、自らの恋人にする、そういう契約を。
* * *
それからというもの(それ以前からだけど)、毎晩のように通話を繋いで、深夜に朝に、「大好き」と言い合う怠惰で幸せな生活を送っている。
大好きな人に「大好き」って言われるのは当然嬉しいし、「大好き」って言うのも心の奥がじーんとして、とってもしあわせなんだな、と。そんなことすら、知らなかった。
彼女は色々な方面での自己評価が高くない(スペックは高いのに……)。
だから、僕が「かわいい」って褒めると、すぐに「かわいくない」って照れるし、その様子がまた最強にかわいい。
「だいすき」って言うと、タイミングによっては1秒くらい固まったあとうぅ~って唸ってばたばたして、「不意打ちずるい」とか言ってくるのがめっちゃかわいくて、だからつい「かわいい」とか声が漏れるとまた悶えて「もうしらない……」とか言うの、最強すぎるでしょ。マジで愛してる。
通話じゃなくてリアルに会うと、お互いがお互いの頭を撫でるの好き過ぎるの。
彼女は僕が頭を撫でるととっても優しい幸せそうな顔になって目を閉じて、ほっぺまで手が降りてくるとそこに顔を擦り付けてくるのがほんとかわいい。
僕は僕で、彼女が慈愛に満ちた目つきで僕を見て頭に手を置いてくれるだけで幸福感が溢れてきて、そこから髪の毛の流れに沿って彼女が手を動かすと幸せで溶けちゃいそうになる。
手をつなぐのもとってもいい。
体のどこかが触れ合ってるってだけで幸せを感じるし(オキシトシン~~)、手をつなぐのなら街角でやってても一応許されるし。
恋人繋ぎってのやったのはじめてだった。接触面積が多くて幸せ。
まだ、抱きしめたことは数えるほどしかないんだけど、彼女がそばにいる実感が湧いてきて、これもとっても幸せ。
もっとぎゅーってしたいし、してあげたい。
というか、全部が幸せ。
あ、一応書き添えておきますとそれ以上のことはしてないです。それ以上は結婚してから。僕はロマンチストなので。
# # #
「はじめて」に、特別感を覚えすぎているだけかもしれない。
これからの人生で、いくらでも、とは言わないけれど、こういうことは何度か起こりうるのかもしれない。
それでも。
それでも、僕は。今、彼女に対して抱いているこの気持ちを、多少の変質はあるにしろ、消えることなく、ずっと持ち続けられたらいいな、と。
そう、願っている。
そう在れると、信じている。
だいすき。
理想やその対象が具体的にあるわけではないのですが、それ以外はきっと、概ね仰る通りなのだと思います。
最初の記事は、もやもやするものを吐き出しただけのものでした。
自分の気持ちや選択を信じたいが、周囲が非難するなら私が悪いのだろう。それでも自分を正当化したい。だから当然、相手を悪者にしたい。でも自分が我儘すぎるのがいけないんだと自己嫌悪もしている。
内心はもうずっとドロドロしていて、でも外に出すのならと「ほのぼの」の体をとっただけでした。(自分が荒んでいる分、楽しい話を聞きたかったのは本当)
「共同生活だし、歩み寄りや我慢も必要だ」ってもちろん思っていたはずが、実際生活が始まってみると、予想をはるかに超えて口出ししたいことが多かった。実家住まいだった自分こそが相当に怠惰だと思っていたんだけれど。
あれこれ言ったら気を悪くするかな?
というか自分でやった方が早いし良い出来かも。
というかそもそも私が気にしすぎなのかも。でも気になるしなぁ。
…のあたりをぐるぐる回ったり。最初は説明なども相当気を遣っていたつもりが、同じことが2回も3回も繰り返されると、気を遣って話したはずが全く響いてなかった!という無力感もあって、その余裕もなくなってきてしまっていると思う。
私ルールと彼ルールのいろんなすり合わせを丁寧にできたらよかったのですが、まだ大丈夫、もう少し頑張ってみよう、せめて一年は、などと思っていたところでストレス・疲労から身体を壊してしまって、あっこれ以上我慢とかするの私無理かも、って心が折れてしまった。原因は仕事なんかではなく家庭でしかないのですが、そう言った時に彼が全く予想外、という顔をしたのも堪えたなぁ。それまでも体調不良が続いてたの知っていたはずなのに。
そんなこんなの末の『家族や恋人とみんなが過ごしているであろう日の』別行動でもありました。
これまでのイベント事への姿勢それ自体にも書いた通りの不満はあるけれど、今後も(もし妊娠したら)子育てに関する諸々、住居に関する諸々など、人生のイベントがたくさん待っているであろう中で、その都度私が選択肢を集めて吟味して決定までしていかねばならないのか、ということを考えると気が遠くなってしまったりもします。(選択肢を絞っても、どれでもいいよと言われることも多いので…)
私に結婚など早かったのだとか他人との暮らしに向いてないのだとか諦めたくなる気持ちもあって、もう自分の中でも結論は分かり切っているのです、確かに。
私が悪い、私は悪くない、彼は悪くない、彼も悪い。
本当に自分が持っている回答だけが正しかったらもっと突き抜けて良かったんですけどね。自分を納得させるのすら苦労してしまいます。
昭和20年の大東亜戦争終結以来、我が国は急速な復興を遂げ、GDP換算で世界第2位の経済国家となった。他方で、アメリカ合衆国(米国)を中心とするGHQによって拙速に作られ、我が国民の総意を反映しているとはおよそ言い難い憲法を保持することにより、国民精神の十全な発揚を伴った発展は掣肘を受けた。その結果、近年では共産党政権の一党独裁国家である中華人民共和国(中国)の経済成長に比して我が国経済の成長速度は鈍化し、世界第3位の経済大国という地位に甘んじている。拡大する経済力を基盤とした中国の軍事的拡張と、各地での侵略行為は留まるところを知らず、国際秩序の安定上、予断を許さない状況が続いている。
今こそ、軍事的圧力を背景に押し付けられた借り物の秩序から脱却し、我が国独自の政治・経済・社会的秩序を打ち建てる時が来ている。帝国主義的な拡張路線にひた走る中国、ロシアを凌駕し、我が国民がその潜在力を十全に発揮し、我が国が未来永劫にわたって繁栄を続けるための基本的条件は、古来より連綿と受け継がれたわが国独自の精神文化に立ち戻り、それ基づく政治・経済・社会へと変革を成し遂げることにある。以下ではこうした方針に基づいた変革のあらましを記述し、現在に至るまでの進捗状況について述べる。
現行憲法に起因する政治・社会制度上の根本的な問題は、国民主権あるいは民主主義の名の下に、収拾のつかぬ意見の多数性がいたずらに尊重され、急を要するあらゆる変革への掣肘となり、かえって衆愚政治に堕していることである。したがって、憲法を改正して大日本帝国憲法の天皇主権に立ち戻り、国民の強固な統合を図ることが最も枢要である。この目的に照らしてみれば、基本的人権、結社の自由、信教の自由が制限を受けることは当然である。引き続き憲法改正の議論を提起し、我が国の伝統的家父長制に基づいた国民の統合を進めねばならない。
大東亜戦争終結時、GHQにより天皇制廃止の議論が起こり、その方向で新憲法が起案された。先代天皇は連合国最高司令官マッカーサー元帥と面会し、象徴としての天皇制存続を取り付けることに成功した。天皇主権の国家が次に戦争をひきおこし、他国に国土が占領される事態に至った場合、万世一系の天皇家は確実に廃絶されるという教訓を、この経験は天皇家に与えた。
今上天皇はこの教訓を遵守し、天皇主権の憲法へと改正を進める論議が起こるにあたって、自らの退位によってこの流れを断ち切ろうと試みた。しかし象徴天皇制下において、このような越権行為は断じて許されるものではない。天皇が象徴となった現在、新憲法下で天皇主権の意味するところは、天皇に助言を行う内閣主権であり、ひいては、内閣の長たる内閣総理大臣の主権でなくてはならない。こうした主権の移譲が円滑に行われるよう、憲法改正の議論は続けていかなくてはならない。
現行憲法下での平等は機会の均等を国民に保障する根拠となったが、これはかえって我が国の発展を妨げることとなった。国家が永続的な発展を続けるには、強いものがさらなる発展を続けることが、より合理的である。したがって、豊かなものがさらに豊かに、強いものがさらに強くなるよう、あらゆる方面において既存の有力家への支援を一層拡大することが枢要である。
進捗度: 順調に推移している。
イノベーションとは畢竟、知的、金銭的、社会的な多様な資本の集約を要する。資源の限られたわが国において、すでに成長を遂げた企業への支援を継続することが最も合理的である。税制や労働法制の改革はこの路線に沿って行われなければならない。
強いものがさらなる発展を続けることが合理的である以上、国民の間に所得によって階層の分化が生じることは必然である。低所得者の納税額は高所得者に比して低いため、利用可能な福祉サービスを減らすことが合理的である。福祉サービスの削減について合意を得るためには、強いものは努力によって強くなったのであり、弱いものはみずからの怠惰からそうなったのであり、自己責任であるという当然の理路について、国民により一層の教育を図る必要がある。
進捗度: 順調に推移している。
科学技術は国家の経済的、軍事的発展を支え、国家の威信を高めるものでなければ、その存在意義を持たず、財政的援助を受ける必然性がないことは論を俟たない。したがって、産業への応用可能性が最も高い分野に集中的な投資を行い、投資の正味現在価値に対する監視を強め、投資判断と組織の改編は迅速に行うべきである。
我が国が独立独歩で中国およびロシアと軍事的に対抗するためには、軍事産業の育成が急務である。したがって、大学等の高等研究機関において軍事研究への投資を拡大し、軍事産業の発展に必要な技術および人材の育成をさらに進めるべきである。
大学における学問の自由は、天皇主権国家の発展を妨げないかぎりにおいて認められる。国立大学については財政上、人事上での国家の関与を一層強化し、国家の経済的、軍事的発展へ大学が確実に資するよう政府は導かねばならない。
進捗度: 順調に推移している。
色々と言われてるのを見て読んでみたけどまあ普通に面白くはあったけど店売りの本を買うほどのものではないなって感想。
たぶんそのあたりは全部主人公が性格悪いせいだろうなーとは思う。これは好みの問題であって、主人公に好感が持てない話は好きじゃないってだけのことなんだけど。
で、個人的にこの人にすごい聞きたいのは「アレ呼んで本当に主人公のこと英雄とか思ってるんです?」っていうこと。
英雄とはつまり人殺し(ただの人殺しでなくて大量殺人者)のことである、という認識であればハルは英雄かなーと思うけどよくあるヒーロー像としてはハルはかけ離れた存在で自分勝手でわがままなただの小娘でしかないから真逆だと思うんだけど。
ネタばれかましまくるけど、ハルって自分がいわゆるチートスキル持ってるのにそれを使ってどうこうしようってつもりはなくて自分でも「千葉の方がまだ考えてる」って言うくらいに怠惰だし、自分の身の安全のためとは言え同郷の千葉に恨みを持ってる相手に対して「あんたの女になるから(千葉のこと)殺して!」って言いながら、実際そいつに千葉が襲われたらその返り血を見て「なんで殺してるの!?」とか言っちゃうような子なんですよ。しかも「殺してはない」って言ってるのに「なんでそんなに残酷なことができるの!?」とか言っちゃう子なんですよ。お前がけしかけたせいやがな。
ハルが生きるためにはそういうリップサービスも必要だっただろうし、千葉はある程度強いってことも知った後なんだからけしかけたことそのものはまあ仕方なかろうと思うけど、それに対して殺しにかかってきたから相応(どころか温情もあったと思う)の対応で返した千葉にサイテーって言っちゃうのはどうかと思うし、自分はヤリ殺されそうになっても日常でそういうことがあったらそれに対しては残酷だなんだ言うのはまあどう考えても身勝手ですよねとしか。
ハルって子は結局自分のせっまい物差しでしか周囲を見てなくて、しかもその基準って自分かわいさにまみれてて、けどまあ逆にだからこそ人間臭くて生生しいし一種の面白さが出てるとは思うんだけど、最後にあのおじいさんが言ったことって何もはずれてないんだよね。その通り、彼女はただ自分のわがままで人も魔物も殺してるんですよ。その恩恵にあずかってた人達のことは何も考えないし、それで助かってた人に対しての補てんなんて一切考えてない。
聡明でかわいらしい、素敵な彼女だった。
酔狂にも俺というオッサンを選ぶくらい、独特の価値観を持つ女性だった。
おまけに脳内存在ではなく、実在しているときた。二次元相手にすら恋愛という感情を覚えることができないままぶくぶくと肥ったオッサンには過ぎた幸福であった。
三十路半ばに降って湧いたように訪れた初恋は一年と少しで消えていった。
仲違いではないし、ケンカをしようといっていたけれど、それも楽しみにしていたけれど、結局できないまま終わっていった。
わかっていたことだが、未来よりも過去が強く、彼女は聡明でやさしく、俺は弱かった。
「いつか、彼女が俺に愛想を尽かすだろう」と、非モテのオタクらしくビクビクした卑怯で惰弱な予防線をはりめぐらせ、それでも卑屈にならぬようにつとめて一年を過ごした。
それは思い返しても幸福で濃密な一年で、一人で過ごしたこの一年はただネトゲとソシャゲの数値を漫然と増やすのと同じ時間であることがにわかには信じられないほどであった。
我々は遠距離であったから、一年の間にともに過ごしたのは実質3週間かそこらといったところではなかろうか。
俺は身に余る幸福を、軽々に疑うことなく、その一瞬をひとつづつ大切に味わい、決して忘れないようにしようと思ったのだ。いつか失われるものだと予感していたから。
別れを告げられる前の、楽しそうだった最後のデートで時折見せた憂いの表情で確信にかわった。
もちろん決裂を回避すべく、さまざまな方策が取られた。しかし、竹ヤリで飛行機は落ちない。俺にできることはこの先のお互いの平穏を用意することしかなかった。
万全の心の準備があった。
傷付かずにいられると思った。
やせ我慢などではなく、こんな甲斐性も主体性もない男に生まれてきたことを感謝させてくれてありがとうな。なんて思っていた。
愛想をつかされたわけではない、しかし、どうしても避けられぬ別れを。一緒になるには俺が俺であること自体が障壁になる理由を、来るべき三行半をLINEでしぼりだすように送られたとき。
ここからの余生が決定された。
このハッピーにもほどがある一年を思い返し、少しずつキャラメルをなめるように溶かしながら生きていくのだ。
それはそれで悪くないと、口を半開きにして漫然と生きてきた自分には身に余る幸福なのだと本気で思った。
恋をしたことがないオッサンは、恋に免疫はなかった。ぶっちゃけ甘く見ていた、ひどくナメていた。今自分にとりついている無情感、寂寥感、つかれ、首の凝り、残尿感、就寝後喉から込み上げてくる胃液で灼ける喉、そういったものは一時的な症状で、一年もたたないうちに治るのだと。
そうしたら、突然推しが自分ちの台所で白米を炊き始めたのを目撃した女子のごとき切ない声をあげてうずくまるようなこともなくなるだろうと軽く考えていた。
これは失われゆくときに効果を発揮し、一生をかけて宿主を食らう猛毒の類であることに。オッサンはようやく最近気づかされてしまった。
余生のはじまりであったこの一年は短いが、人生を支配するには十分な期間だった。
一年には四季があった、ふたりでいろんな話をしながら、様々なところにでかけた。おそらく、ほかのつがいたちがそうするように。我々もさんざんそうした。行こうと約束したきりの場所が、いくつもあった。
ひょんなところで、どうしても、少しのきっかけで思い出してしまう。
つきあっている間から、ちょっとした瞬間にこねくりまわしていた甘い思い出たちが、刃を剥いてオッサンのやわらけえ心をズッタズタに切り裂いていくのだ。
お揃いで買ったボールペンを筆箱から取り出したとき。町中でてんぷらそばの香りが漂ってきたとき。美しい紅葉を見たとき。バスの中が閑散としていたとき。Twitterにネタ画像を貼ろうとしてカメラロールをたぐったとき。カップル用の写真置き場として導入したアプリに「もう別れた」と告げることもできないままだったから「つきあって2年目ですおめでとう」という通知が臆面もなく画面に現れたとき。テレビにサメがでてきたとき。花火の音を聞いたとき。モネの絵を見たとき。映像の世紀のテーマソングが流れたとき。海。いきつけの居酒屋。空が透き通るように青かったとき。ふたりで行こうと話していたその場所への旅行記。机の引き出し。
容赦なくそれらにまつわる我々のイベント一枚絵がフラッシュバックしていく。
思い出がたのしかったほどに、もはやそれらが二度と訪れないことを突きつけていく。無能で怠惰だった自分を上っ面だけなじって、甘い記憶の反芻にくたびれる。
そして文字通りくたびれたオッサンは何度目か忘れた記憶の反芻の果てに、ふと気づいてしまう。
たった一年だ。
たった一年でも、強い記憶でも、そのすべてをわすれないように目に、鼻に、耳に、手がかりをのこして脳の一番とりだしやすい引き出しにこうしてしまいこんだつもりでも。
どうしたって、あせていくのだ。あせていく割に、思い出したときのダメージは軽くなりはしない。ただうすくらがりの割合が増していき重くなっていく。
なんて意味のない自問をして、やめて、また自問して、夜が明ける。
どうすればこの変質を止めることができるのか。
高校生のうちになやんで置くべき事をいまさらやりはじめているから、だれもその無意味な思索を止められない。
俺の印象に沿って変質した思い出を、きっと刻み込んだ瞬間から変質しつづけているその代替品を、いつまで、いつまで舐め続けることができるのか。俺が改竄したのは、いったいどの部分か。彼女の行動か、表情か、懊悩か、それらを突きつけられまいと先手をとって口先で蓋をしていった愚かで卑しい自分の行動か。
傷つけるかもと言おうとして言えなかったうわっつらの言葉か。
いや、それに妥協する自分を、自己愛を自覚していますみたいなメタい達観視点で、別の自分を用意したあげくのいぎたないマウントをキメる惰弱な自分への嫌悪感だ。
こんなものが、二度とこない、見ることのできない美しい追憶の邪魔をする。
しかしこんなものがなければ俺はきっと、こんなこともわかりはしなかった。
冒頭で「フラれたときに、余生を決定した」と言った。
20代のはじめに自分というハードウェアの脆弱性に愕然とした自分は、ここより余生という看板を高々とかがげ、レールにトロッコを設置してゆっくりと坂を下りはじめた。山にぶつかるまでが人生だと割り切ってみると、けっこう空は綺麗だったし、白米は噛むと甘かった。
思い出じゃなくて、君と君と一緒にいる自分自身を。
なんて、ありあわせの後悔を口に出せば、どうしたって、安っぽくなる。
感謝の言葉を書き連ねたいが、それここでやるにはあまりにも浅ましすぎる。
誰の目にもつかず埋もれるか、「貴様の贅沢な懊悩など見る価値ないわ」と吐き捨てるように扱われたいだけなのに。
そうでもされないとやっぱりやってられないくらいにただひたすらに、いまだに、恋しさだけが、こびりついていく。
こんな寒い日に、さびれた地方都市のビジネスホテルで、小さなシュトーレンを分けて食べた。
みんな! 現実には存在しないキモオッサンの気持ちになって書いたキモポエムをここまでよんでくれてありがとうな! 愛してるぜ!
そう、修論を一切書いていないのだ。
正確に言うと書けないのだ。書くネタもない。
決して怠惰からくるものではなくて、精神的な何かだと思っている。病院にも行った。
だがしかし、診察の結果鬱ではないと言われた。
問題は鬱ではないのに学校に行くことはおろか作業フォルダを開くことさえできないことだ。
怠惰と言われればそうなのかもしれない、自分が客観的に相談を受けたとしてもそれは怠惰だよと片付けるだろう。
おそらく誰に相談しても「頑張れ」「怠けるな」「鬱じゃないんでしょ」と言われて終わりだろう。
相談するだけ無駄、というか相談するほどに失望され評価を落とすだけだろう。
自分ではもがき苦しんだつもりだ。
砂の城を作っては波が来れば崩れ去るような作業を永遠と繰り返していた気分だ。
「どうせまた波が来て壊れていくんでしょう。」
内定は決まっているのだが、大学院中退でも受け入れてもらえるか、それが心配だ。
今はただ早く働きたいという思いしかない。
社会人として社会で自立しているという身分に憧れしか感じない。
働けるなら最大限にコミットするつもりだ。
やり場のない焦燥感や矛先の見えない努力に道標を与えてくれるのならそれは全力で受け止めたいと考えている。
今週あるいは来週あたりに人事の方に相談しようと考えている。
返事次第では晴れて高学歴ニートの出来上がりだ。
親や親戚に会わせる顔がない。
・ただし税制改正を通じてインセンティブを与えようというのは良い方向への変化といえる。
・雇われる側が今のままで変わらず賃金だけ挙げて欲しいというのは無理な話。労働の市場価値の低下の反映なのだ。政権の問題ではない。他国でも同様のことは起きているし、過去もこういうことは何度も起きてきた。
・雇われる側が専門技能向上、専門知識習得に努めないことには賃金上昇など無理な話なのだ。単純労働の代わりはいくらでもいる。
・専門技能向上、専門知識習得の補助を通じて所得アップというのが無理のない流れであろう。分かっている人はそういう努力を重ねている。
・一般大衆は愚かなものという前提で考えなければならないのが統治者というものなのだろう。怠惰で愚かな人々を守るのが政治家というものならば因果な商売である。よくやるものだ。本来、聖人でなければ務まらない職業である。
・既に高齢な人々は変えられない。大人は変えられない。よほどのことがなければ己を変えようなどとは思わないものだ。自身を磨き鍛える意欲が旺盛な成人など、万人に一人もいないと考えた方が良い。とはいえ、そういう稀有な人々のための専門技能習得、専門知識習得の機会を補助するのは有意義である。
・可処分所得を増やそうというのなら無理な賃上げ要請ではなく減税である。
・一番重要なのは子供の教育だ。大人に期待してはならない。未成年者、特に幼児・小学生の教育が国家百年の計の根幹となる。すれば百年待たずとも数十年、早ければ十数年で効果が出て来るはずだ。
怠惰は贅沢であり悪ではないですね
日本では、つらそうにしている=がんばっていると見られる風潮があるとネットのどこかで読んだ。
実家がサラリーマンではなく自営業だったので、世間一般の普通の家庭のことはわからない。
もちろん大社長の息子というわけではないが、子供二人が大学に進学でき、年に1回程度の家族旅行で海外に行けるという意味では恵まれた家庭だったと思う。
大学に入ってからは自立のために家からの仕送りをもらわずに生活をしてみた。もちろん最終的に困ったら仕送りがもらえるというセーフティネット付きではあるが。
そこでわかったことは、プライドとか他人からの賞賛ということを抜きにすれば、お金を稼ぐ方法はいくらでもあるということだ(もちろん法を侵さずに)
自分は東大生だったのだが、ネットで色々と言われているが、基本的に東大生というのはなんだかんだでやはり優秀である。
でも、そんな彼らでも就活の時は本当に悩んでいるようだった。
たぶん彼らはどこででも生活していけるような優秀な能力をもっているにもかかわらず、親が官僚であったり、大企業の部長クラスであったり、大学教授であったりするので、それに見劣りをしない就職先かつ同期と比べても見劣りがしない就職先を探すので必死なようであった。
僕は親がサラリーマンでなかったことから、スーツを着てネクタイを締めて就職活動をする、またはその後そのような格好で働くということが想像できず、いわゆる普通の就職活動をドロップアウトした。
研究室の知り合いの知り合いの人がつくったベンチャー企業に誘われて、とりあえずそこで9ヶ月くらい働いた。
9ヶ月しか働けなかったのは僕がクビになったわけではなく、そのベンチャー企業が潰れたからだ。そもそもベンチャーとはそういうものである。
つぶれた会社ではあるが、自分一人が暮らしていくには悪くない給料をいただいていたこともあり、僕はあまり悲嘆にはくれなかった。大学時代の同期が慰労会をしてくれたが、給料も悪くなかったし、いまは失業手当もらってるし、生活には困っていないと僕がいうと、別の人種を見るかのように驚かれた。
それからまた大学時代のバイト先のツテをつかって、別のベンチャー、ベンチャーというか会社設立から5年以上経っていたし、社長はIPOもバイアウトも考えていなさそうだったので、正確に言えば中小企業なのだが、そこで働くことになった。
とにかく社長が明るくて人格者だったので、自分としてはとても気に入った職場だった。
そこでも自分が思うに、悪くない給料をもらえていたし、大学時代から付き合っていた彼女とも結婚し、現在3歳の娘がいる32歳のおっさんになった。
ある程度フレックスな働き方を許してもらえているが、基本的には9時ごろに会社に行って、22時くらいに会社を出るような生活をしている。疲れた日は18時ごろに退勤する。土日は働かない。
こないだ大学時代の学科の同期の同窓会らしきものがあり、久々に20人くらい集まった。5人は転職していたし、流動化は高まっているんだろう。
30代になったことで、このタイミングで家やタワマンを買うのはお得かどうかだとか、自分は社内で出世コースに乗れているのかどうかだとか、みんなそんな話をしていたが、自分は早く家に帰ってゼノブレ2してーとしか思っていなかった。
自分が最初の会社で失業した時に慰労会をしてくれた友人が「そういえばお前は最近どうなの?」と聞いてきたので上記のような話をしたところ、みんなが固まった。
そして年収も聞かれたので答えたところ、更に固まった。要は、僕がもらっている年収は彼らと比べて遜色がなく(もちろん少ない、少ないがバカにできるほど少なくないということらしい)かつ楽そうな恵まれた生活をしているをしているということらしい。
ある友人が決定的なことを言った。「お前の人生、ほんと甘いよなー。オレらと比べてイージーモードだわ」
一瞬カチンときたが、とはいえ彼らの話を聞いていると、たしかに辛そうな人生を送っていそうだったので、それもそうだと3秒後くらいに思い返し、冷静になって「そうだね。オレの人生、あまあまだわー」と答えた。
僕は怠惰であり、彼らのように身を粉にして働くことができないんだと自覚している。
一方で、そんなに私生活をつぶしてまで働く必要あるかと思ったりする。いや、面白い仕事ならいいんだけど、上司の飲み会につきあうとか、忘年会の幹事をするとか、そういうのは無理だ。
というわけで、僕は今の働き方に満足しているし、仮に会社が急に潰れたとしても、「まぁそういうこともあるだろう、あの人格者の社長だからなぁ」と正直思っているし、そうなったらそうなったで、また職を探せば良い。最終手段、家庭教師でもプログラミング教室でも、なんでもやっていこうと思えば生きてはいけるものだ。
それが他人に対して威張れるような生活ではないことはわかっているけど、他人に威張ったり、承認欲求のために自分の人生を潰したり、そんなことをするのは馬鹿らしいなと思ってしまう。
でも、なぜか増田にはこういうことを書いてしまった。やっぱり承認欲求なのかな。反省。
早く家に帰ってゼノブレ2やりたい。
いい年して仕事が出来ない。
請求書もろくに作れない。
くだらねえミスをしょっちゅうするし時間管理が出来ないし物事のプライオリティがつけられない。
それでもそんな自分より輪をかけて仕事が出来ない奴もいるのでかろうじて見逃してもらっているが、そいつがいなかったらと思うと心臓が痛い。
とかなんとか憂う割に改善策を打とうとしないし、ミスを何かで補おうという気力もない。
でもみんなそんなちゃんと仕事してんの?
だるくないの?
メールアドレスの順番を偉い人順にしたし、エクセルの書式を隅から隅まで完璧に整えたり、なんかよくわかんないけどそういううんざりするようなあれこれをどうやってこなしてるの?
あと自己評価とかどうやってんの?
そんなこと言うならそういうのないとこ転職したらいいとか、自営しろとか、そらそうでしょうね言うでしょうよ。
できるかよ。
だからこの現状は今まで怠惰に過ごして己の適正を見極めるという最低限の努力すら放棄して、その場しのぎで生きてきた自分が受けるべき処遇だとは思ってるんだ。
思ってるけど怒られたくもねえし憐れまれたくもねえんだ。
己のことだわ。
HTML/CSSはリファレンスなしで書けるし、WAI-ARIAを用いたアクセシブルなコーディングもできる。
CSS設計を意識して保守性を大切にしたコードを書いているし、CSSアニメーションでインタラクションも操作できる。
SVGを一から書く方法やいくつものブレイクポイントを持ったページのコーディングスキルも身につけた。
Gitでバージョン管理をしたり、モジュールバンドラーやタスクランナーでscssのコンパイルやリントを通したりする能力も得た。
インプットが大好きで、毎日毎日様々なWebに関する知識を頭に詰め込んだ。
だけどJavaScriptは書けない。
JQueryをコピペして簡単なDOM操作を行うのが限界だった。
然しながら、昨今のフロントエンドエンジニアはJavaScriptが書けて当たり前だし、
各種JSフレームワークやWeb Assembly、Web Componentsを使いこなして開発している。
SSG, SSRが主流のこの時代、生のHTMLを書いているような人種は淘汰され、
バーティカルリズムや余白設計、配色理論を意識した整ったレイアウトをXDやIllustratorで作れるようになった。
でも「整った・整然としたレイアウト」は作れても、その先に進むことはできなかった。
だけど、藻掻き続けても道が拓けない。
もうこの先、どのように歩み進めればいいのかもわからない。
助けて欲しい。
何者にもなれない自分は嫌だ。
あのですね、ちゃんと読んでくださいね。
私が書いたこの箇所がどこを指すとお思いですか?
▼この箇所
▼①が指しているのは②、この部分です。
②たいがいの彼女らは
「ローティーンから20代位まで」を「腐女子」と定義づけてはいません。
「②の発言をしていた人たち、彼女らも私も、ローティーンから20代位までであり、まぁ腐女子と言えたでしょう」
という意味です。
ご理解、いただけましたでしょうか。
意義あり。
仮にそういう方いらしたとしてもレアケース。
たいがいの彼女らは「生まれ変わったら(受けキャラの名前=美少年)になりたい💓怠惰に暮らしたい」
とか言ってたよ。
腐女子が、リアルな男女の交際をしてしまうと、また違ってくるのかな?たとえば結婚したりすると?
ほぼほぼ、彼女らは受けキャラ好きで、腐女子が受けキャラを愛でるのは自己投影の自己愛だよ。
私の知ってる腐に関しては間違いないです。
合作でも受けキャラ書きたさ一心で、私に左側のキャラを振ってくる。描かされてきたので……。
▼考察として。
「**さん総受け本」とかあるのは、女性は受けキャラが好きだからでしょう?
「総受け本」はきいたことあるけど「総攻め本」なんてきいたことないので。あるのかな???
左側キャラを彼女らが好きなら、ベタな話で恐縮ですけど「左側キャラの本が売れるはず」でしょう?
好きなキャラしか描かないのが同人の醍醐味と想うので、最初に「総受け本」ありきなのは、腐女子の自己投影は受けキャラなのです。