はてなキーワード: スポットライトとは
歴史について学んでほしい!知ってほしい!みたいな崇高な目的を持って描かれてるものじゃなく
まんが日本の歴史シリーズみたいに教科書代わりの役割があるわけでもなく
2chで見たけどあの国にこんな風習があるってマジ?面白w知らんけどwってノリで
ツイッターやpixivも影も形もない時代に個人が趣味で落書きして個人サイトに上げてネット民が勝手に見てた漫画で
歴史や国民性のどこにスポットライトを当てるか、どこを描かないか、どの国をメインにするかなんていうのも個人の趣味だから好きにすればいいし実際好きにやってることだったのが
商業展開した以上はそうも言っていられなくて責任みたいなのが出てきちゃうんだろうな
今は特に考証しっかりしないとデマを吹聴して煽動したみたいに言われるんだろうし
めんどくさいことになったな
こういうこと言うとなんかもう身も蓋もない感じがするけど、エンターテインメントの世界で選ばれた一握りの人間だけにスポットライトが当たることの正しさがようやく少しだけ分かった気がする。
まず大前提として彼らも私たちも同じ人間であると同時に、彼らは人生と時間を懸けて夢を叶えるために生きるその姿と過程を商品として売っているし、私たちは彼らを勝手に応援したり勝手に値踏みしたり勝手に一生を誓ったり勝手に失望したりして、勝手に彼らの人生を消費しているわけで。
こうやって私たちと彼らの間に消費する人とされる人という大きな隔たりがある以上、やっぱり私たちはみんなそこに辿り着けずに消えていく人間が大半だと知りながら、一握りの人間だけに許されたデビューというものを掴むところが見たいし、いつかは掴んでほしいと思って燻ったままの彼らの人生をまだまだこんなもんじゃないよと斜め上から消費している部分もあると思うんですよ。
残酷なようだけど、大半の人間がそこに辿り着けずに夢破れて表舞台からひっそりと消えていくからこそ、そこに辿り着いた一握りの人間がより一層輝くのであって、みんながみんな大した篩にもかけられずそこまたはそこと然程変わらないような場所に出てきてしまったら、一気になにもかもが凡庸になってしまうじゃないですか。
みんなにスポットライト浴びせてどうすんだよ、みたいな。こんな事してたら、少し先の未来で時代を創ってくれるようなぽっと出の「何者でもない少年」はいつまで経っても出ないよ、みたいな。
昨今ジャニーズJr.の活躍が目覚ましく、グループ・ソロ問わず彼らを主とする仕事が増えてきている一方で(自担の仕事も同様に増えてきているのにも関わらず)、私自身が何か陳腐になってきたなと感じ始めていたのはたぶんこういうことなんだろうなと思う。
今までスポットライトに選ばれてこなかった人間に光が当たることは喜ばしいことだし、いろんな人間にチャンスが与えられることはとても良いことだと思う。だけどそれを許したことと引き換えに、本来光が浴びせられるべき人間に注がれる光は確実に減っている。
「本当に、そのものさしは正しいのか?」
そう疑問に思わずにはいられないような、一人歩きした数字ばかりが取り上げられてまやかしのような評価を得ているグループもある。
今のジャニーズは、ジャニーさんが描いていたエンターテインメントの形なのだろうか。上記で話していたようなグループやジャニーズJr.たちのバブルがいつか崩壊したとき、そこには一体何が残るのだろうか。
Twitterでバズっているのか何度もタイムラインで見かけたし、それについて言及している人をたくさん見てなんか嫌な気持ちになったのを文章にして消化するだけです。あくまでも自分のため。おそらくここで日記を書くのは最初で最後です。
年齢なんて関係ない!
いや確かにそうなんだよな…推し、推しカプへの愛に年齢なんて関係ないもん。ただ、それと人間関係は別なんだよなぁ…。
今21歳でとある少年漫画ジャンルの二次創作をしてます。字書きです。ジャンル的にはそりゃまぁ、学生から20代いっても30代前半かな?みたいな感じがするんだけど、私が創作しているカップリングはそこら辺と比べると年齢層が高い。字書きの方が年齢層高いなと言うのは差し引いても。とはいってもアラフィフとかではなさそうなんだけどね。30代後半とか?40代かな?めちゃくちゃ失礼とは存じますが少しだけ推測させて頂きました。
お母さん業をバリバリしながらめちゃくちゃすっごい作品上げてたり元気だなぁって、自分が筆が遅いぶん余計に思うんですけど…。
私と同い年ぐらいの人がいないわけじゃないんです。でも多分私より年下はいない。ROM専アカウントのプロフに書いてある年齢だと年下がいたりするんだけど、創作活動してる人にはまじでいない。
絵描きさんにはたまにいるけど、けどやっぱり話す量って字書きは字書きの方が多くなるじゃないですか。絵描きだから字書きだから、というのじゃなくて、脳の回路的に話しやすいみたいなのとか、感想の言いやすさとか。絵描きと字書きが話さないって話ではないので悪しからず。仲良い絵描きさんもいるので。
だから年下がいない、今のところ同い年も見つけてない。18歳以下お断りなのもあるけど、にしてもね?
なんかそうなると、めちゃくちゃ疎外感を感じるんですよね…すっごい交流盛んな界隈なので(あと人数が少ないのもあって)クソガキとか思われてるんじゃないかって。
そういうふうに薄ら思ってるから今回のお話で、結構な割合で「肝に銘じる」とか「気をつけよ〜」とか、そういうツイートが流れてくるともうお腹が痛くて痛くて。
単純に解釈して、自分も気をつけよう老害にならないように〜ってことじゃん、曲解した私から見たらお前気をつけろよ!に見えて仕方なくて!
いや、気持ち悪いなそんなにお前のこと思ってないぞどうでもいいぞ、って言うのは分かるんだけど…
何って、寂しいんですよ。いや、今こんな世の中でオフ会とかをしている場合ではないから、元の話とはちょっと違うかもだけど、まぁその分リモート飲み会とか多いから…。
寂しい。年齢で区切るのを当たり前みたいに周りが言うのが。
元ネタ、どう考えても単純に空気読めてないだけで、普通に誘われたら行くし、たまには誘うし、みたいな感じになれなかったのかな。それをなんで年齢だけのせいにするんだろ…年齢も一つの理由なだけなのに。
そこだけが一番スポットライトを浴びてて、そこにだけ言及してて、なんかなぁ〜って思いました。私も気をつけよう。
この件に関して、あくまでもアラフィフが〜が前提なあたり私がなんか言ったらおかしいからな…気を使われた?みたいにも思われたくないし…もうどうしようもないからこれ書きました。
勢いだけで書きなぐったからめちゃくちゃだろうな見直さないけど。
もやもやした割に内容が薄かったな。
退場するっていうか埋もれてスポットライトが当たらなくなるだろうさ
子供の頃から何ひとつ秀でたところがなく、自分に自信が持てなかった。容姿は平凡で、人前で話すのも苦手だし、勉強が得意なわけでもなくて、もちろん芸術的な才能もなかった。だから、将来の夢を聞かれると困った。何もできる気がしなかった。ぼんやりと浮かんでいたのはお母さんだ。自分自身の母親のように、おやつを手作りするお母さん。そういう大人になれたらいいなとなんとなく思っていた。
地元の中学から普通科の高校に進み、普通に普通の大学に入った。普通に就職して、得た職は普通の事務。電話応対、伝票管理、簡単な書類作成が主な仕事で、昇給もないが残業もない。ちなみに制服はあった。そこで3年務めた後、同期の営業マンと結婚した。妊娠を機に退職し、以降は専業主婦をしている。
30歳を過ぎ、独身を謳歌していた友人たちの結婚・妊娠ラッシュが来た。大企業勤務や公務員はまず出産退職なんて考えたこともないみたいで、産休育休後の復帰が前提。資格持ちの子はスッパリ辞めたが、次の職場は見つかるだろう。子供を産んでも正社員の座から降りない、降りないことを許されたママたち。小さな会社で激務をこなしていた子だけが唯一退職したものの、ベンチャー企業でフル在宅での仕事が決まったのだと言う。無能なママには決してないルート。今もっとも求められる『有能なママ』枠だ。
子供といるのは幸せだ。でも、旦那は決して高収入ではない。材料にこだわった無添加おやつをつくっている場合じゃなかった。教育や習い事の費用を考えると、お金はあるにこしたことはない。私は今後、パートという形でしか家計に貢献できないだろう。正社員の道はほぼ閉ざされている。
有能なママが活躍の手を差し伸べられるのは正しいと思う。だけど、【女性活躍】と声高に叫ぶ社会に手を差し伸べられたと思ったら「あ〜……あなたは活躍厳しいっすねwww大丈夫です、近所のスーパーでレジでも打ったら?」と言われてるような気分になる。その隣で有能なママには、「出産前までは編集者!?営業!?エンジニア!?デザイナー!?はい、みなさーん!このように子持ちの女性もバリバリ働けるんです!!」ってスポットライトばーんってやってるから、影から見てると虚しくなるよ。まあでもわかる。自分が経営者なら無能な子持ちは絶対雇わない。でも有能なママなら雇いたい。無能のフルタイムよりよっぽどいい。柔軟な姿勢もアピールできるしね。
あとやっぱり、仕事のできるママたちは賢い。ネットの情報を取捨選択できる。でも無能なママはまともな職につけないからリテラシーの高い人間関係をつくれない。だから、一度間違ってトンデモ科学とかに興味を持つと、正してもらえずに突き進むことになってしまう。そしてまた、バカにされる。バカにされるから意地になり、そうなるとさらにバカにされる。一時期義理の姉に自然派育児を進められ、ハマるところだった。
今の日本は(別に日本しか知らないんだけど)で正社員を降りて休む(育児、介護、病気、その他)ができるのは、有能な人たちだけだと思う。無能な人に残されたのは、我慢して休まず働き続ける道だけだったと、最近になって実感した。無能が貧乏になるのは自己責任なんだろうけど、なんだかとても、今はしんどい。
アリプリはともかく、クラバトはぬるいクランでぬくぬくさんなので適当書いてる。
あとフェス限以外の限定キャラ持ってないのでその辺の組み合わせもしらん。
ペコリーヌ:優先度C
両面タンク。アリプリの防衛要員。人手が欲しいプリでは攻めにも使う。タンクの中では、という但し書き付きだと火力がある方なので、有用は有用。ただアリプリは攻めた方が楽なので、防衛要員は優先度低め。
コッコロ:優先度B
両面バッファー兼ヒーラー兼中衛タンク。TPに触れれない(行動速度アップで間接的には触れるけど)バッファーは最近割と肩身が狭い。とはいえプリの防衛や攻めではまだまだ使う機会が多い。出来ることが多いのでキャラが揃っていない人ほど優先度が高いと思う。
キャル:優先度C
範囲魔法アタッカーと少しの両面デバフ。最近使う機会がめっきり減ってしまった。アリプリで相手の魔法パを魔法パで攻めたい時とかに使う。マルチターゲットのボスにも最近はあまり起用しないなあ。
いっとき、ルナの塔のボスの後ろにいるスポットライトくんをキャルで吹き飛ばす編成を使ってたけど、今月は特に出番はなかったです。
リノ:優先度B
範囲物理アタッカー。アリプリの攻めで使う。アリーナの防衛では見なくなったけど、プリーナの防衛ではまだまだ見かけて吹き飛ばされる。TP回復キャラやと組み合わせるのでそれらの育成とセットで使う。ルナや星6ユカリやユニパイセンがいるなら優先度が上がる。
リマ:優先度C
タンク。初手の挙動が特殊で、立ち位置を変更させ、初手を潰したり色々できる。僕はプリコネ偏差値が低いので「魔法パで相手を全体的に前に寄せたい時」と「相手にマジカルカスミがいる時」の二つしか把握していない、物理バリアは二つ貼れないからシズルと組み合わせても意味ないってマ?
星5でも初手の挙動が変わるわけではないので、プリコネ偏差値が低いうちはどうせ使いこなせないし星上げは後でいいんじゃないかな。
イオ:優先度知らん
アリプリの防衛で見ない日は無いので強い。強いがクランコインはともかく秘石を使う価値があるかないかは、秘石の価値が人それぞれすぎて分からん。
ユカリ:優先度S
HP回復とTP回復と魔法無効バリアの万能サポーター。あらゆるコンテンツで使う。ユカリのTP回復の初手がどこに当たるのかを覚えるとアリプリが超楽しくなる(僕が覚えたとは言っていない)
とにかく、どんなパーティーにも無理なく入る上に、ユカリでバリア貼ること前提のボスもよくいるのでさっさとあげておいた方がイベントなども無理なく楽しめる。
マホ:優先度A
魔法パやるならとりあえずマホとネネカで二枠埋めるのが常套手段。アリプリの攻め防衛、ボスを魔法パで殴るとき、とにかく魔法パを組むなら絶対使うので優先度高め。
ユイ:優先度A
ヒーラー。対物理に対しては無効バリアでめっちゃ硬くなる。アリプリの防衛はもちろん、高難易度ボスでも使う。おまけで付いてくる行動速度アップもえげつない。UB以外は紙のシミみたいな能力しか無いので、育成すると決めたらさっさと集中してやった方が得。
あとランク上げはよおく調べよう。僕はあまり考えずにランク上げしてしまいめっちゃ後悔してる。
レイ:優先度A
イベントボスやクラバトなどのデカい敵を殴る時に使う。バカみたいなヤケクソ火力のUBと、UB発動後のデバフスキルがとんでも無いことになっているので、TP加速と組み合わせてUB発動後のデバフ中にもっかいUBを打てれば異次元の火力が飛び出す。TP加速以外は自己完結してるのも良いので物理パでボスを殴るならとりあえずで入る、強い。
ヒヨリ:優先度A
範囲物理アタッカー(対単体で弱いとは言っていない)。アリプリの攻めからボスの攻めまで、物理で殴るなら欠かせない。特にアリプリはいかにヒヨリを通すか、いかに相手のヒヨリを無効化するかというゲームと言っても過言じゃ無い。範囲物理ながら別に単体殴るのに弱いわけじゃないのも意味不明な強さ。
ただ、殴ることしかできない不器用さは今後のインフレの波を考えると微妙なのかもしれない。僕は分からないけど、クラバト上位勢はデバフも出来て殴ることもできるキャラを優先することもあるらしい。
けどまあ、限定ガチャ引くよりまずは星6開花のが楽な乗っで気にせず日課に組み込んでおいた方がいいと思う。
ハツネ:優先度A
ヒヨリと共にアリプリのメタゲームを回している魔法パの中心人物。対物理に対してはスタンが入る能力が強く、アリプリの攻め防衛共に絶対に使うキャラ。
とにかく相手の物理パにタマキがいないなら入れておいて問題ない、物理パ絶対狩るウーマン。
こういう役割がはっきりしているキャラはプリコネ偏差値が低い俺でも使えるからすこなのだ。
タマキ:優先度A
ヒヨリ、ハツネと共にアリプリのメタゲームを回している魔法メタパの中心人物。マホ以外の魔法キャラをワンパンできる驚異的なアタッカー。
こういう役割がはっきりしているキャラはプリコネ偏差値が低い俺でも使えるからすこなのだ。
ミフユ:優先度C
開花させてランクもあげてるが使い方が難しく、プリコネ偏差値が低い僕には何をするキャラなのかさっぱりわからない。たまにプリの防衛で見かけるけど、何されてるかもわからない。
スタンが入った後にUBを打つとUBが強化されるのだけど、バリアを抜かないと状態異常が入らないプリコネの仕様と、UBの発動タイミングがブレまくるマジカルカスミが相まって、プリコネ偏差値30前後の僕には理解できなお。
シズル:優先度C
最近アリプリの防衛でめっちゃ見かけるようになった。僕も防衛に入れている。
ただ防衛専門で攻めでは使わない。
そしてアリプリの防衛での活躍は自分の目に入らないから正直ようわからん。防衛に入れてるのもみんなが入れてるから入れてるだけです。
自分の負け試合でなんとなくわかるのではと思うかもしれないけど、負け試合を振り返るなんてプリコネ偏差値を下げるために一番やっちゃいけないことなの、わかって。
アヤネ:優先度知らん
今やってるとこ! 宿題してるときにママに「宿題しなさい」って言われるのが赤ちゃんは一番嫌なんだよ? ママなら理解してね。ランドソル杯で一位とってねママ。あと無料10連で水着ジュン出してねママ。あとラビリスタはおはガチャであんたんさせてねママ。あとまとめてスキップ機能三枠から十枠ぐらいに増やしてねママ。あと二期のBDにはセフィラぎょくずいつけてねママ。あと劇場版もやってねママ。劇場版は見に行くたびに金剛ちょうだいね。よんぞうの新マルチを闇レスラーで殴るジータちゃんはプリコネ出禁だよ。
主人公はロボの操作や戦略を周りから教わりながら少しずつ成長し、仲間や知り合いが増え、異性から頼りにされ、敵対する悪の組織もチャンピオンも負かしてハッピーエンド。そんな展開だ。
俺はこのゲームが楽しくて仕方なかったけどふと気が付いた。
強くなれないと今いるところから先へは一歩も進めないということだ。
もし弱かったら誰からも顧みられず、誰からも頼りにされず、ほんのわずかな周りの人間とつるんで終わりだ。
強くなれない状態というのは、自分の存在は物語が進む過程で散々目にしてきた大量のモブと同じだということだ。
力があったからこそ周りから認められ、注目され、頼りにされ、心配もされた。
そう思うと俺はもうそのゲームができなくなった。アニメも同じ論法で見ることができなくなった。
その世界でスポットライトの当たらないモブと自分が重なって見えてしまい、主人公に感情移入ができなくなるからだ。
芸能人やテレビ屋は、インターネットにかつてあった文化も何もかもすべて無視して土足で踏み込んできて、タダ乗りで利用しまくり
欲しいだけ金を稼いできたあげくに木村花が自殺したから誹謗中傷を規制しろとか抜かしている。
木村花を殺したのは、テレビ屋だ。今回もどうせSNSの闇がなどと責任転嫁して、ほとぼりが冷めるまで時間を稼ぐつもりだろう。
でも、今まで世間一般とはまったく違う価値観で生きてきて、むしろ「芸能界のしきたり」などと言い一般常識との乖離を売りにし、
スポットライトを浴び、その醜く肥大化した承認欲求を満たし、贅沢三昧して暮らしてきたのに、
コロナで仕事が無くなり、人々から忘れ去られたら困るからといって、突然「アベ政治が……」などと言い出すような奴が馬鹿にされるのはインターネットでは当然だ。
芸能人でも普通と同じ人間扱いされたいなら、芸能人の◯◯だとか匂わせもせずに普通にID取れ。
そのIDで何か書いて、本当に意味のある意見ならそれなりに扱われるはずだ。
まあ言いたいことはこれ。
基本的に伝記やドキュメンタリーって、監督側の意図が入りにくいんだよね。
メッセージ性を込めようとしても、どうしてもそいつ人生特有のノイズが入る。
こないだのフレディ・マーキュリーのやつもそう。
LGBTの勝利と歌を掛けてるのは理解できても、フレディの人生自体がLGBTで大きく勝利したわけではない。
LGBTから転じてみんな人生の勝利者だ、と言いたいのだろう。
しかしピントがぼやけてるし一般化できる事項ではないので伝わらない。
何より歌手として大成したのは彼らの才能と時代と努力であって、LGBTと何ら関係がない。
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
477:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/08/03(金) 01:08:05.48 ID:6p3ZDHfw0
長年連れ添った仲の良い老夫婦がいて
「片方が先に死んだら、さみしくないように壁に埋めよう」
と言い交わしていた。
しばらくして、婆さんが先に死んだ。
爺さんは悲しみ、約束通り婆さんの死骸を壁に埋めた。
すると、ことある事に壁の中から「じいさん、じいさん…」と婆さんの呼ぶ声がする
爺さんはその声に「はいはい、爺さんはここにいるよ」と答えていたが。
ある日、どうしても用事で出なくてはいけなくなったので村の若い男に、留守番を頼んだ。
「じいさん、じいさん…」
男は答えた。
最初のうちは答えていた。
けれどしかし、婆さんの声はなんどもなんども呼んでくる。
「じいさん、じいさん…」
やがて、男は耐えきれなくなって叫んだ。
「うっせえ! じいさんはいねーよ!」
すると、壁の中から鬼の形相をした老婆が現れ、「じいさんはどこだあ!」と叫んだ
479:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/08/03(金) 01:08:40.79 ID:6p3ZDHfw0
すると突然、まばゆいばかりのスポットライトが飛び出したばあさんを映し出す
「JI-I-SA-Nは」「どこだ!」ステージにばあさんの声が響く
詰め掛けたオーディエンスはばあさんの久々のステージに期待で爆発しそうだ
今晩も伝説のリリックが聴ける。ストリート生まれヒップホップ育ち。本物のラップが聴けるのだ
キャップを斜めに被りオーバーサイズのTシャツをきたじいさんがターンテーブルをいじりながら目でばあさんに合図する
「 ここでTOUJO! わしがONRYO! 鬼のGYOUSO! ばあさんSANJYO!
違法なMAISO! じいさんTOUSO! 壁からわしが呼ぶGENCHO!
(ドゥ~ン ドゥンドゥンドゥ~ン キュワキャキャキャッキャキュワキャ!)
どこだJI-I-SA-N老人MONDAI! そんな毎日リアルなSONZAI!
SAY HO!(HO!) SAY HO HO HO HO!」
じいさんのプレイも好調だ。オーディエンスの熱狂はこわいくらいだ。
まだ、俺らの時代は始まったばかりだ、そんなメッセージがばあさんの口から飛び出していく
本物のヒップホップが、ここにあるのだ。
国会の質問内容やその態度、聞き方というのは議員それぞれの個性が出るもので、じっくり聴くと味がある
野党の質問にしてもいつもがなり立てているわけでなく、コース料理の様にお膳立てされていき、そこでその状況に見合った委員の質問がなされていく
しかしテレビのニュースで使われるのはその一部の一部なのである
そこに華を添える、各政党に存在感を与えるために目立つ質問者が割と配置されてインパクトのある質問が行われる
しかしそれが最近は逆効果になっていないか、質問戦術を問い直すべき時期だと田村智子氏にスポットライトが当たった件と立憲民主党の支持率低迷からそんなことを考えたくなった
・息子が出征
・勇敢な感じで戦死
・母親は「お母さん立派な息子さんですね!」「羨ましいです!」とみんなから言われる
・ひとしきり人が帰ったあと、一人で大泣きするお母さん
みたいなのあるじゃん。
アレと同じこと今起きてるよなぁって。
営業自粛とか、コンサートの自粛(返金もする)とか、収録中止したYoutuberとか、そういう決断をした人に
「英断だ!!」
で、まあその英断をした上でなんとかがんばれば大丈夫な人もいるんでしょうけど、
でもどこかで首を吊ってる英雄だったおっさん、普通の家族も生活もあった、絶望したおっさんの話は一向に回ってこない。
話を戻すと、戦時中もそんな感じだったんだと思う。
好きな芸能人が引退したけど、スポットライト症候群みたいで見ててしんどい
好きな芸能人がいた。
芸能人といってもテレビでの露出はなく、雑誌の仕事がほとんど。しかしその人はその仕事を誇りに思っていて、「自分は自分の仕事をやり尽くした」と言って、去年引退を発表した。
私もその人がその人にできる仕事でベストを尽くしたと思ったし、そう言って引退を決める姿はカッコイイと思えた。
その芸能人の方は会えるイベントを積極的に行っていたため、引退発表から引退までの数ヶ月は会いに行っては、引退の足音を感じて心が苦しくなったり、「引退したらこうやって気軽に会いに行けなくなる…」というエモーショナルな気持ちになっていた。
その人は引退発表直後、インタビューで「SNSはもうしない」や「アカウントは消すかも」と言っていた。
「引退後数日はエゴサしてファンの様子を見るけど、それからはアカウントを消すと思う」と。
SNSを通じてその人を知ったからこそ、その発言は本当に悲しくて寂しいものだった。
SNSはその人を身近に感じることのできるツール。それがなくなったら今度こそ本当にその人との接点がなくなってしまう。
しかし今どうだろう。
引退して数週間経つが、その人のSNSアカウントは消えそうにない。というか本人が「有益なツイートはできないけど、誰かの元気の源になるならと思い、このアカウントは残す」と言い出した。
正直言って私はショックだったし、本当に呆れてしまった。
「誰かの元気の源になるなら」という理由は立派なものだと思う。その人の存在を身近に感じられるツールだし、それで元気になる人ももちろんいるだろう。
「SNSはもうしない」って言ってたのは私の勘違いなのか?とすら思えてきた。
私はその人が引退発表のときに言った「自分のできる仕事でベストを尽くしたから引退する」といった言葉に、あのとき本当に感動した。
名前を出したくないので明言しないが、本当にその人はその人のできること全てでベストを尽くしたのだ。これ以上その界隈では上を目指せないくらい。だからこそ、トップに登りつめた人だけが言える言葉で引退を発表したその人のことが死ぬほどカッコイイと思えたし、心の底から敬意を表したいとすら思えた。
引退してしまった今、その人はその人ではなく一般人になったのに、その人でいた時に使っていたアカウントでずっとツイートしている。
美しいもの,輝かしいもの,完璧なもの,こうした理想的な,最上級の存在に,心の奥底で物足りなさを感じたことはありませんか?
だって考えてみてください.
完成したパズルを眺めるよりも,欠けたパズルを埋める方が楽しいのですから……
さてさて,ここでは存在の「キャラクター性」について考えていきたいと思います.
尊敬や愛情など,好意の形は多種多様です.それら全てを包含しましょう.
ただ今回については,恋というとてもシンプルな言葉でそれらを置き換えることを許してください.
さあ始めましょう.
その想いは,本物ですか?
あなたが今,誰かに魅了されているとしたら,その最も大きな理由は「人間らしさ」にあることでしょう.
この「人間らしさ」という表現を,筆者は不完全さとして解釈します.
例えばドラマやアニメのような作品ではについて見てみると,多くの場合,注目するそのキャラクターの美しい部分や輝かしい部分にスポットライトを当てています.
夢物語です.
光の当たる部分しか映らないそれは,ただ美しいだけの何かに過ぎません.
だから作品の中では,暗い過去や後ろめたいものを見せつけます.時には不快なくらいに.
「美しさ」と対をなす「醜さ」こそが,人物の不完全さであり,キャラクターを味付ける最高のスパイスです.
聖人たりえる存在への好意は「恋慕」と言うよりは「憧憬」に近く,あなたが同類の聖人でない限り,その隣に立つことを,いつかあなた自身が拒むからです.
初めのうちは,問題など生じません.
あなたは自分にはない相手の美しさを素直に受け入れ,憧れ,そして惹かれる.ただそれだけの自然な営みです.
しかしながら,人の心は厄介なもので,恋愛感情における憧れは,単体では長続きしません.
過ごす時間,存在する空間,共有するものが増えるほど,あなたと想い人は存在として重なり,そして残酷にもその差異を明らかにします.
心の距離を近づけようとすればするほど,想う相手はあなたの鏡となり,あなたの美しさ,そして醜さを浮き彫りにします.
あなたがどう想おうと.想い人がどう想おうと.
あなたが相手を想うほど,あなたは相手の美しさを知り,そして自らの醜さと対峙しなければなりません.
これは人が人を愛するために避けられない呪いです.
古くから知られるように,醜さを持たない人は稀です.
あらゆる宗教の経典で取り上げられる程度には,ありきたりなものなのでしょう.
否,醜さを持たない人を「人」と呼ぶことそのものが不適であるかもしれません.
自らの醜さを自覚した人は,次の行動として,それを相殺するために相手の醜さを探します.
だって,私たちは愚かで,美しさを比べるよりも,醜さを比べる方が楽ですから.
裏を返せば,「自らの醜さを相手に示すという行為は,信頼の究極的な表現の一つ」と捉えることができるかもしれません.
優しくされたとき,笑ってくれたとき,ただ隣にいてくれたとき……
でも,その想いが加速する瞬間は決まっています.
あなたの中に芽生えたその想いは皮肉にも,相手の「醜さ」を知ることで育ちます.
意図的か否かを問わず,「醜さ」を出会って初期の段階で見せられたとき,好意を得ているのではないかと感じてしまう,勘違いです.
例え事故的であったとしても.
本来追うべき順番を間違えているとも気付かずに.
さあ考えてみてください.
その想いは本物ですか?
それとも,自分の誤解に騙されていませんか?
残念ながら「醜さ」もまた,長続きするようなものではありません.
置き土産として,これについての2通りの解釈を提示しておこうと思います.
もし時間の経過とともに,あなたの想いが薄れるようなことがあれば……いえ,ないことを祈るばかりです.
魅力としての「醜さ」の一線を越えてしまえば,それはスパイスでも何でもありません.
ただの味付けに失敗した出来損ないの料理です.
欲をはじめとするあらゆる醜さは,それ単体では何ら加点要素となりません.
裏を返せば,伸びしろばかりとも言えますが,果たして成長を待てる人はいるでしょうか.
先の章で,「醜さ」をあたかも良いもののように誤解なさらないことを希います.
まあもっとも,長い時間自らの醜さを隠し通せる人なんて,そう多くはないでしょうが.
反対に,あなたの想う人がどんどん理想的になる,というシナリオも考えられます.
あなたの求めていたものがもし「醜さ」に起源するものだとしたら,きっとその想いは冷めることでしょう.
知らずのうちに,孤独感,劣等感が増し,好意が薄れていく……そうなるかもしれません.
しかしここで悪い人は一人もいません.
全員が善処し,そして不幸になるだけです.