はてなキーワード: キャラクター設定とは
スマホゲームって最新のゲームを装ってるけど、その根底にあるのはウィザードリィシステムだよなぁ。
ウィザードリィはPCやゲーム機で動いた市販ゲームソフトウェアだが、その前身にあたるゲームは、確か米国の大学の学生二人が、学校で生徒みんなでログインして使う共有コンピュータ(unixだったかな?)で動くものを作った。
特徴的だったのは、二人の学生が作っていたプログラムをニコイチしたこと。
3Dダンジョンの画面上をプレイヤーが探索して歩くピコピコゲーム部分と、特徴的な項目を複数用意したモンスターやキャラクターデータのデータベースの両方が融合したことだった。
この融合により、キャラクターを成長強化したり、毒を喰らって定期的なダメージを喰らうようになったり、敵キャラクターに雑魚からボスまでの段階的な強度をもったバリエーションを持たせたりといった、より詳細なキャラクター設定をゲームの中に持ち込むことが可能になった。
ウィザードリィ以前のゲームといえば、画面上でドットやキャラクターピカピカ光ったりBeepBeepうるせぇピコピコゲームの部分だけのことを言ったが、ウィザードリィ以降はピコピコゲーム部での操作がキャラクターデータベースに変更を加える進化形のことを言うようになる。
でもって、これを現在のスマホゲーに当てはめてみると、まるっきりそのまんまじゃんと思うのよ。
大体スマホゲーって、アクション/パズルパートとキャラクターの強化などのマネジメントパートの二つに分かれてるでしょ。
ウィザードリィ以降スマホゲーム以前までは、プレイヤーから見てアクションゲームパートがすべてに見えるように作られていて、データベース部分は裏方として直接的に見えないようにしてあった。
それが携帯スマホゲーが登場して、逐次課金システムが成功して一般化すると、所有キャラカードデータの一覧表示が必須になった。
金払ってキャラクターカード手に入れてる客に対して 、買ったものをはっきりと見せる一覧表示が絶対的に必要な機能となる。
それ以降キャラクターデータの明確な表示を含めたマネジメント機能が、ゲームの機能のひとつの柱として分離され大型多機能化した。
みてきました。ネタバレ。
海外ではホワイトウォッシュの問題が叫ばれる一方で、日本では「ハリウッド版だからスカヨハになるのは別にいいんじゃないの、面白ければ」という空気を感じた。
でも本編をみた人はわかると思うけど、物語としては単に他の作品でアジア人だったキャラクターを白人が演じているというだけの問題ではないんだと思う。スカヨハの演じるミラは義体が白人タイプになっているだけで、中身の草薙素子はアジア人であるということが判明するのだから。
ざっくりまとめると、テロリスト(あるいはそれ未満の単なる貧困層)であったアジア人の草薙素子が、ハンカ社の社長(テロリストアレルギーの人)に恋人や仲間ともども捕えられ、電脳化技術によって記憶を消去され白人の見た目の超人ボディのサイボーグに作り変えられ、テロリスト狩りの兵器として利用する計画に巻き込まれるという話だ。仲間たちはみな手術に失敗し、その犠牲のもとで草薙素子はミラとして生まれ変わることに成功、公安9課に所属して記憶のないままテロリストを追うことになる。
映画自体はミラが自分の出自を明かしていくという構成になっていて、最終的には真実にたどり着いたミラ=草薙素子は(間接的にだが)ハンカの社長を殺す(ここら辺は父殺しの話っぽい。ダーリン博士は明らかに母としての位置をあたえられている。それはともかく)素子という本当の名前を取り戻し、ほんものの母(桃井かおり)との関係を再建したミラは、元恋人である失敗サイボーグと生きる道を選ばずに、「記憶ではなく何をするかによって自分は決まるのだ」と結論づけてスカヨハボディのまま草薙素子として公安9課で生き続ける選択をする。
ホワイトウォッシュの問題と関連するのは、ハンカ社長の白人至上主義っぽいキャラクター像と、ミラの出自、そして最後の草薙素子の選択の部分ではないかと思う。ここらへんが差別的であると早々に結論づけるのは慎重にならざるを得ない部分で、例えば自身が草薙素子であると思い出したミラが最終的にアジア人としてのアイデンティティに目覚めた結果、ボディをスカーレット・ヨハンソンタイプからルーシー・リュータイプに変えましたみたいなラストで終わったらそれこそ大炎上していたのではなかろうか。
個人的にはハリウッド・ヒーローとして見たときのミラはとても魅力的なキャラクターで、続編があったらいいなと思うが、詰めの甘さが目立って平凡な作品になっているのをみると、続編製作は難しいかなという気もする。攻殻機動隊という一連の作品群の中のひとつとしてみると劣ってしまうというのは惜しい。
キャラクター設定のよさや、ビジュアルの素晴らしさ、映画としての表現の甘さなどを総合的にみると、紀里谷和明のCASSHERNと似た印象を受ける映画だった。
今回は少年ジャンプ+
今回はマシな部類なんだけれども、アクション部分の描き方がまだぎこちないなあ。
ちゃんと言語化するのが難しいんだけれども、躍動感がないのもそうだが「間の取り方」がおかしいんだよね。
「走って相手に近づくシーン」とかがないのもそうだけれども、武器を投げるシーンとかも気になる。
「武器を投げるシーン」の次のコマが「投げてきた武器を相手が受けているシーン」。
離れている所からの攻撃なんだから、「投げた武器と受ける相手との距離や、空間を把握させるためのコマ」を差し込まないと、すごく唐突感を覚えるんだよね。
2回目の投擲攻撃は二人の距離が近くなっているからあれでもいいけれども、だからこそ1回目の攻撃が同じ間の取り方になっているのがよろしくない。
映像をコマ送りして、その静止画の一枚だけ無作為に切り取って1ページに繋げたみたいなぎこちなさというか。
漫画の大部分はある意味でそうなんだけれども、そう感じさせず動きの流れが出来て躍動感がある漫画も多くあるしなあ。
けれども後半のトガタのシーンは、その表現が上手くいっている。
省エネ目的での演出なんだろうけれども、一連のシーンがかなり綺麗に機能している。
まあ、これはトガタのキャラクター設定からくる、そのシーンでの緊張感の度合いも大きく関係しているから、「上手い」というよりは「功を奏している」といったほうが適切かもしれないが。
そういう目線で評価するならば私は割と好意的なんだけれども、「あんなシーンでページを割かれるのを見たかったと思っている人がどれだけいるか」って目線で評価するならば、ただの水増し手抜きシーンって結論になっちゃうかなあ。
これ連載しちゃうのか。
いや、『あの娘はヤリマン』という出オチ漫画すら連載するような少年ジャンプ+では今さらか。
内容自体は、読み切りのときと世界観やプロットはほぼ同じのエロバカ漫画だね。
なんか、ジャンプの打ち切り漫画といえばでほぼ確実に話題に出てくる漫画の作者が、あからさまに意図してフザけた作風で描いて、しかもそれがズレていないって結構スゴいことだよね。
画力向上も大きいけれども、まああの時代でも妙に女の子キャラは人気あったし、槍玉に挙がっていた設定やプロットの雑さを良い方向に昇華させたってのもあるかな。
まあ、少年ジャンプ+はエロ枠が非常に豊富なので、その中でどれだけ長く連載されるかは分からないが、この作者が描いてきた中では最も噛み合っているという印象。
本作はコメディだから、あまり踏み込んで語られない(語られても趣旨がズレる)が、人型ロボットを現代の社会がどういう存在として認識するかってのは永遠のテーマだなあ。
で、大抵の場合こういう「側面的な正しさ」は普遍的でもあり、ケイや絆を育んだ仲間たちといった「個人の事情」を考慮しないんだよね。
紆余曲折を経てケイを取り戻す決心をするのだが、その方法がまたロボットならではな感じ。
ボディを変えて人格プログラムだけ同じという状態の場合、それは本人なのかってのも空想モノで語られるテーマだけど、いや本作はそんな深かったり複雑なこと語る作品じゃないって我に返った。
https://anond.hatelabo.jp/20160731175620
元増田です。
返信ありがとうございます。
ただ、主に盗作関係についてはやはり何度重ねて説明しても大事な所を読み飛ばされており、そのせいで全体的な話や意図も読み違えられたままで残念に感じます。
①を読んでないからそういう返信になってしまっただけかもしれない、と少し期待していましたが、①を読んでも変わらなかったみたいですね。
とありますが、納得しやすいように理由を説明しようとしてる部分をことごとく避けて言及しているから納得いかないのでしょうね…。
またそれぞれの部分にいちいち言及していく形式では文章が長くなりますし、同じこと繰り返すような状態に陥るでしょうから、先述の盗作関係において、改めて主張したいことを中心に言及しておきます。
その部分についてはおりあそ氏も過去にツイートにて、原作から内容が変わることはよくあるので一期の改変等は問題ないというようなことを仰っているのを拝見しました。
まず、雑誌やCDからTVアニメに媒体を移すにあたって、一部のキャラクター設定を改変したということそれ自体については、僕は悪いことだとは思っていない。同じシリーズでもメディアが変わるとキャラの解釈が変わるっていうのはよくあることだし、— おりあそ (@oriaso) 2016年3月19日
綾波みたいに何が本来の綾波なのかわからないレベルに多様な人格をもっているケースもあるけど、それがキャラ愛が無いってことにはならないと思う。特にラブライブ!の場合は電撃G'sでの連載とTVアニメが並行世界っぽい設定でもあるので、許容範囲なんじゃないかなと。— おりあそ (@oriaso) 2016年3月19日
しかし、改変の理由や経緯に不要な盗作やらオマージュ願望が関わっていることが問題なのであり、そこを無視して変わるのはよくあることだからとか、盗作だから何だと語られてもはてなマークが浮かびます。その説明は最初の記事でもしているのですが…。
ただ改変しただけであればまだ分かります。元々独立した設定や世界観がある作品を、別の既存の作品になぞらえて変更する姿勢や経緯に問題があるということです。
また、お互い様の主観で語らせてもらえば、アニメのにこや真姫、希のキャラクター設定は原案に比べると全く新鮮味がなく、陳腐な設定に変えられてしまっており、到底好意的に許容できるものではありません。
原案のにこや真姫、希みたいなキャラクターは昨今においてはこの作品でしか魅力を味わえない可能性の高い卓越性あるキャラだっただけに、勿体なさとやるせなさばかりを感じます。その上、くどいようですが変更理由が話作るの面倒で盗作したからだったという信じがたい怠慢な理由による変更と解釈で、そんなどう考えても擁護不能の状況を理由にならない理由を繰り返し用いてまでして擁護しようとしてしまう人のことは頭の中身をさばいて見てみたいくらい不可解です。
参考に、アニメ化以前にあったにこの性格議論の内容を見つけたので載せておきます。
にこにーは腹黒か? - Togetterまとめ http://togetter.com/li/117836
の中にある、腹黒(キャラを作っていたら)だったらありきたりでつまらないといった意見が自分の意見に近いです。
脚本家によれば、脚本の都合に合わせるために性格を改変したとのことでしたが、その「話の都合」というのが崇高なオリジナリティに溢れる都合だったり、意欲的な再解釈による改変とかであったりしたならまだ少しは分かります。
しかし実際は安易な盗作、オマージュが絡んだものだったわけで、とても制作された作品はもちろん、制作における姿勢自体も最低限度の健全な状態を保たれていたとは思えません。
そんな信じがたいほどふざけたものに巻き込まれて設定が消された本来のキャラクターや世界観を好きだった身としては特にですが、倫理的に考えても許容は推奨できません。
最大限、原案設定や原案ファンの意思の尊重を検討した上でのものであれば、少しは溜飲も下がるかもしれませんが、そんな様子は様々な作品の展開や発言を見ても見受けられません。
2期においては原案公野先生がアニメ以後に作った新たな設定を部分的に持ち出しては改変し汚すという喧嘩を売っているように思える描写が随所に見られます。(にこの家族設定や希の関西弁の理由など)
また、制作側だけでなく運営側の問題でもありますが、アニメ化以前から続いているシングルPVや音声ドラマなどは元々当然ながら原案の延長線上の設定が採用されていたのですが、アニメ以降はアニメ設定を元にした内容になってしまいました。
つまり、並行世界の存在価値がそれぞれ尊重され維持されたとは言い難く、設定の侵食や統一といえるでしょう。
ただでさえアニメ化以降に作られたスクフェスやスクパラなどのゲームではアニメ設定を基調としているわけですから、アニメ以前から始まっているPVや音声ドラマくらいは原案設定を維持してくれないとフェアじゃありません。しかも何度も言及したように設定改変の理由には盗作等の問題が関わっているわけですから尚更です。
そういう意味でも、設定変更の経緯に問題があることはよくあるからとか許容範囲とかそういう風に安易に見過ごせるレベルではありません。そのあたりの理解を雑に行った上で設定の分かれ方を語ってしまう人が多いのもとても残念で呆れてしまう所です。
喩え話については、一応どれが何の喩えになっているかを説明しておいただけであり、言い換え可能だからと言われても理由になっていません。作品において何が大事なのかの考え方の説明などもこれまでしてきました。
アニメ作品において云々の話は前回あたりにしたメディアミックス云々の話に戻ります。アニメはアニメで、切り離して考えるとしても、設定統一や侵食の件で切り離したからOKという問題にもならず、またそれらが安易な盗作云々の健全と言い難い経緯を経て調理されているために作品を扱う倫理に問題があるというのを、今回もそうですが何度も説明してきました。
「多少整合性に疑問があったとしても適当に補完できる程度の問題」これは絶賛派が大好きな理論みたいで、似たようなことを言っている人を沢山見かけます。
批判や指摘について「多少」とか「細かいこと」と言う人が多いですが、その点が「細かい」所扱い、「適当に補完」できる所ではないということも長々とこれまでのやりとりの中で説明してきていたはずです。自身が言及を避けたからといってこちらが説明してないことにしないで頂きたいです。
これはkato19氏とは別の所ですけどミュージカルだから大丈夫、みたいなことを持ち出して整合性のなさや物語性のなさを擁護しているおかしな人達が絶賛派には多いですが、ミュージカルを冒涜しすぎだと思いますね。
批判してた人が急に歌い出したことをおかしいと批判してたとしたら多少はミュージカルを知らないのか、とかを持ち出すのも分かりますが、それ以外の所についての擁護でミュージカルだから大丈夫というのは意味が分かりません。仮にそれが通ると仮定しても、ミュージカル演出自体が嫌いな人からしたら何も納得できないでしょう。その場合ミュージカル演出を選択したこと自体を責めてるのですから。
自分は他のアニメで用いられるミュージカル演出はむしろ好きなことが多いのですが、ラブライブの演出はそれが生かされてることがないので嫌いです。基本の物語の流れが死んでしまっている上で、ミュージカルっぽくして誤魔化しとけ、という苦し紛れな用いられ方が多くて白けるだけです。
それにラブライブの場合、そのミュージカル演出も盗作元のglee由来ですしね。その他の演出や劇伴音楽などを含めたgleeに影響受けたものも本来のラブライブ!の作風に合ってるようには思えず、盗作云々を抜きにして見ても何もかもが噛み合わず滑ってる作品だなあという印象を受けます。
話がズレましたけど、そのようなわけで、絶賛派が、批判者の言葉や文章を咀嚼しようとしないどころか表面すら理解しようとしない上でまともな理由を持ち合わせず「批判しないで下さい」「批判したらダメです」というようなことしか言えないのを見ていると、やはり作品どうこうについての理解や興味はないんだなと思いますし、ファンである自分の状態にしか興味がないんだな、とますます思えてきます。
それと絶賛派が作品批判が広まるのを不思議なくらい恐れることについては、それは主に絶賛派が批判に対して反論することができないからというのもあるのでしょうね。
一方で、自分もアニメラブライブの賛美ばかりが広まることを恐れています。ラブライブのことだけならまだしも、あのような作品を良いと思ってしまうような価値観を持ってしまう人が増えることで、それに乗せられたクリエイターやスポンサー等がラブライブ同様のどうしようもない作品ばかり作るように(作らせるように)なってしまったら、アニメ業界は何も楽しめるものが作られない世界になってしまいますから、それはとても恐ろしいことだなと思います。
結局、議論を交わした意味らしい意味があったのか少し謎ではありますが、個人的には意見を聞いてもらえた、考えてもらえたという証拠をこうした意見交換の形で残してくれただけでも意味があったかな、とは考えています。ありがとうございました。
ウナギイヌのような通称名は、ふつう「○○(のような)××」という意味でつけられることが多いようですが、ウナギイヌの場合は犬とウナギのハーフであるというキャラクター設定上、単に「ウナギのような犬」つまり犬に分類することが妥当であるかどうかは分かりません。また、原作では初登場時、二回目登場時のいずれも「蒲焼にされ食された」という話がある(Wikipedia)ため、ウナギのように食することが不可能ではないのかもしれません。(ただし、これは「天才バカボン」の登場人物(中でもバカボンのパパ)の感覚・味覚が「正常人のそれと大きく変わらない」という前提によっていますので、これも断言することは難しいと言えます。普通に犬肉であるにもかかわらず「ウナギだから蒲焼だろう」と判断してむりやり蒲焼で食べたという推論も成り立つからです。)
ただ、人語を解する点はこの際おくとして、陸棲しペットのように扱われている現状からみると、検討に際しては、
「動物の愛護及び管理に関する法律」 (昭和48年法律第105号)
の条文を踏まえる必要があるでしょう。食することは違法ではなくても、殺傷することは法に触れる恐れがあります。したがって、これを調理するに際しては、原作のように「肉を落とし骨だけにしても普通に生きている」という状態にする必要があり、大量に飼育し蒲焼の材料とする上ではそこに一番のハードルがあるように思われます。
公式見解への反応見て、これがどうして黙認の意味になるのかがわからない。
なお,教材,図書,インターネット等でのキャラクターの使用をご希望の場合,許諾申請は教科書著作権協会(http://www.jactex.jp/)までお願いいたします。上記のキャラクター設定の趣旨から著しく逸脱すると見なさざるをえないケース等,許諾いたしかねる場合もありますことを,あらかじめご了承ください。
「キャラクターの使用をご希望の場合,許諾申請は教科書著作権協会までお願いいたします。」って、許諾申請してくださいって意味じゃないの?ここからニュアンスを根拠に許諾申請しないでやれって読み取るのが正しいとしたら、許諾申請してほしい場合はどう書けばいいの?
あと有償配布だけを別扱いしてる人もいるけど、そんなこと書いてないよね?有償無償を区別して考えるのって単にオタク側の習慣でしかないよね。
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。
恐らくその根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。
そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事の善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばしてしまっているように思われてしまいます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバーが宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります。
また、そもそも私的な体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分もアニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブに応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切りと汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。
とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。
アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。
自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものをポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?
アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為はラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。
と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます。
また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います。
恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているから脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが、盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います。
悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。
ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。
それと、乱雑な感情や論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯な感情や論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います。
そのような指摘をみても、やはりアニメと劇場版のラブライブや2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協と馴れ合いの間に合わせで叶えた物語が好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます。
好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。
あえて単純化して例えれば、ピカソのキュビズムの絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンスな議論なのです。
この点は先述のレストランの例えで説明もしましたが前提のズレがあります。ラブライブの場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。
そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブは芸術作品という意味ではキュビズムの絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品、キャラクター作品、物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています。
つまり、ラブライブという作品がキャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います。
増田の観たかったものは、キャラクターの内面をリアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?
アイマスといっても色々ありますが、本家のアイマスやシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメのラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作で主人公であるプロデューサーの存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマスは原作がギャルゲー風の育成ゲームで芸能界の作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。
ただ、アイマスは声優などの外部のネタをキャラや作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的に追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります。
それでも、アイマスの原作はゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分けを比較的大事にしているので、ラブライブよりはファンの棲み分けがしやすくなっているように思います。
自分はラブライブを応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2の騒動で距離をとるようになりました。あれも作品公式の運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまうラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマスの場合はファンの意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。
対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728で言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトはファンの意思や存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。
京極監督と花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画や小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドルを表現したのです。
アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います。
物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。
別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義はダメと批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。
また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達は別にアニメの表現や演出のあり方を否定していません。
対して絶賛派はあの表現と演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写は不要だ、ない方がいいくらに否定的に捉えているわけです。表現や演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから。
しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクターや物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。
まあメタ的に、「アイドルやアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム的芸術として評価できるかもしれません。
そういうものはオリジナル作品で勝手にやったのであればそういう作品性も面白い、有意義だと手放しでいえた可能性があったと思います。しかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案が存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪の問題で批判しているのです。
超現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別に批判しているわけではありません。
せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。
そして批判派の多くは勝手なミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的な表現だからそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。
仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います。
それに対して「いやあの形のアニメだからいいんだ」と主張する場合の理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすいからでしょう。
確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品のファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います。
今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます。
表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。
また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係の作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーやキャラクター設定を(前回の記事で説明したような)稚拙な配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。
何巻の何話というのは忘れちゃいましたが、のび太のおじいちゃんのでてくる話は2つくらいあったと思います。
一つはパパの子供時代にタイムマシンで行っておじいちゃんに会うエピソード。
一つはパパの夢枕におじいちゃんが現れてのび太にもっと厳しくしろとお告げを残すエピソード。
おじいちゃんはのび太の生まれる前に死んでしまうようですが、生前の本人と10歳(11歳?)ののび太は交流があります。
二つのどちらの話でも、おじいちゃんはパパにはとても厳しいけれど、孫ののび太には甘いというキャラクター設定です。
ドラえもんは時には厳しいけれども、最終的に甘いという点ではおじいちゃんと一緒ですね。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
たしかにμ'sのメンバーは二次元のキャラクターであり、実在する人物ではない。しかし、雑誌連載時代のファンは彼女らがまるで生きている人間であるかのように交流し応援してきたのではなかっただろうか。もちろん本当に生きているわけではないと知りつつも、それでも彼女らの人生を共有できると信じる真摯な姿勢、それこそがTV版第1期の物語を生み出した原動力であったと思う。劇場版の脚本では、そのような真摯さはすっかり失われてしまった。μ'sのメンバーはこれまでどのような人生を歩んできて、どういう動機でμ'sに参加し、何を考えて今まで活動してきたのか、そして今後はどうするつもりなのか。それらのことを踏まえれば、μ'sはどのような結末を迎えるのがふさわしかったのか。そういったことを真剣に考えた上で脚本を練り込んでほしかった。
アイドルは単に華やかに笑顔で歌って踊っているから魅力的なのだとか、メンバー同士仲睦まじく百合的関係性を構築しているから魅力的なのだとかいうのは、それぞれ一つのアイドル観であるし、それ自体が悪いわけではない。しかし、アニメ制作陣、つまりアイドルを生み出す側の人間までそのようなアイドル観に染まってしまってはならなかった。アイドルにはそれぞれの人生があり、物語性があるからこそ魅力的なのだ。そのことをわかってほしかったと思う。
ここで述べられている通り、アニメ以前のラブライブというプロジェクトの魅力はμ'sのキャラクターを実在するアイドルのように描写し、またファン自らがアイドルと自らを実在するアイドルとそのファンのように認識し応援するスタイルであったことである。
ただ、ブログにおいては、その姿勢や過程がTV版第1期を生み出した原動力になったとまとめられているが、その点については異議を唱えたい。
この部分においてはμ'sのメンバーそれぞれの人生や物語性と、その重要性について述べられており、また、雑誌連載時代、つまり初期やアニメ化以前の内容やファンについて言及しているのだから、それを持ち出す際には当時のキャラクター設定やコンセプトについて思いを馳せておくべきである。そして、そうすると上述のようにそれまでのキャラクターやプロジェクトの歩みを表面的にしか理解・配慮せずに改変・軽視したのがTVアニメ第1期であるし、その経緯については第1期直後の脚本家インタビューで語られている。
つまり、ブログ著者が言うようにメンバーを生きている人間であるようにとらえ応援するのであればTV第1期の時点でアニメは価値体系を崩壊させているのである。特に矢澤にこ、東條希、西木野真姫は誤差やアレンジという範囲を超えた別人である。また、それぞれのキャラの作品内人気は低くなかったのでアイドルや一人のキャラクターとして見た場合改変の必要性はなかった。特に矢澤にこは総選挙1位を獲得しており最上位クラスの人気を誇っていたのだから、あらゆる面において一人の人間としてキャラクターとして配慮されていたとは言えない。西木野真姫に関してもμ'sの名付け親として知られる最古参の一人御児勇馬氏がTwitterでキャラクター改変を嘆いていたほどであり、本当に生きている人間の一人、初期から続くキャラクターの魅力や物語性を重視して応援するならばアニメ版は第1期から問題が大いにあることを主張しておかなければならない。
また、現在のファンの多くが主張する百合さえあればいいという価値観についても矛盾があることがその点から導き出せる部分がある。現在もラブライブ百合好き界隈において人気ナンバーワンのカップリングといえば恐らく「にこまき」なのだろうと思われるが、そもそも今のにこまきが人気を得た大元の原因は何かといえばアニメ以前よりにこまきが人気だったことが影響している。その延長線上で新規参入ファンもにこまきを嗜もうという流れから人気が高まった過程を自分は感知していた。
しかし、アニメ以前に人気を得たにこまきのカップリングの性質というのは現在のものとは180度違うものである。先述したように矢澤にこも西木野真姫もアニメ以前と以後では大きくキャラクターや立場が変わっており別人である。名前と見た目の記号条件が同じだけの別人同士のカップリングが伝統のカップリングのように捉えられて人気を得ている現状は苦笑いするしかなく、ブログ著者が主張するように現在のラブライバーの大半は物語性軽視甚だしいだけでなくただの百合好きとして見てもただ状況に流されるだけで本当に百合やキャラクターの関係性や魅力を捉えて楽しんでいるかすら怪しいファンが多すぎるのではないかと考えられる。いわゆるラブライバーである自分が好き状態であるし、細かくいえば○○(任意のキャラ/楽曲/カップリングなど)を尊いと言う自分が好きという状態でその中身への興味や理解が足りなすぎるのである。
…というように突っ込んでいくと、TVアニメ版のキャラクターや物語性の価値が第1期も含めて崩壊してしまうので、第1期を高く評価しているブログ著者としては都合が悪かった理由があるかもしれない。
また、それらに付け加えて言及するべきなのがアニメ第2期放送中に物議を醸した海外ドラマ「glee」盗作疑惑問題の件である。劇場版や第2期を中心としたアニメラブライブの行き当たりばったりの内容を批判する際には説を補強するためにも言及する価値と必要のある問題だと思うが、件のブログにおいて言及がないことが残念である。主に彼の批判文を読むのが作品批判に慣れていないラブライバーであるため、または彼の所属していたコミュニティにそのようなファンが多いために遠慮した部分もあるかもしれない。
あれがオマージュなのか盗作なのかという問題以前に、盗作引用などする必要なくコンセプトや設定がちゃんと存在しているプロジェクトの作品に、無関係の場所から話や設定を引っ張ってきてそれをなぞらせるために設定や物語をねじ曲げる行為自体が、ブログ著者が主張するようなキャラクターを実在の人間の一人としてとらえるような観点や作品の物語性を重視する観点で見たら大問題であるし、キャラクターや作品を愛するファンであれば問題視し怒って然るべき問題だと感じるが、疑惑が立ち上った途端にラブライバーの多くは黙り込んだり、それを持ち出して批判する者を無差別アンチ認定して閉じこもり無理矢理な擁護に回ったのを見て自分はこのプロジェクトには本当にキャラクターや作品の内容を愛しているファンはまともに存在しないことが分かりもうこのプロジェクトは駄目だと確信したのを記憶している。
以後、その予想が当たり、公式はその件を反省することはなく逆に開き直って先導するような形でそのような流れがラブライブのプロジェクト全体に蔓延した現状があるわけである。
そのような流れを受けて流石に劇場版以後からありがとうプロジェクトに至るまでの間に、ブログ著者をはじめ、少しはプロジェクトのあり方に疑問を抱く人が増えたようではあるが、先述したように盗作疑惑の件や設定改変や統一化の闇について語る者は依然として少なく残念に感じる。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。
もう嫌というほど見たと言う人も多いかと思うが
彼氏から「(セックスレスが嫌なら)決まった曜日、金曜日はセックスすることにしよう」と提案されて
広告しか見てないから前後の流れとかキャラクター設定とかはさっぱりだけど
まあうちも結婚してまだ数ヶ月にしてセックスレス気味なんだよね
しかも主に俺が原因で(女側からも積極的に誘う義務があると言うなら俺だけが原因じゃけど)
なんつーか
平日夜は仕事の疲れというより「あー明日も仕事だ憂鬱だなあ…」って気分で(おちんちん含め)元気ないんだよね
そういうわけなので当然日曜日も元気ないんだよね
かといって金曜土曜なら元気あるかというと
金曜は「また来週からこのつらく長かった一週間が始まるのか…」と憂鬱だし
そんな状態では表面は取り繕うことができたとしても
セックスに使う大量の肉体的、精神的エネルギーを抽出するのは非常に困難なのだ
それでもセックスするとなると
一週間のうちで次の日から二日間の猶予がある金曜日が一番マシなんだよね
女の人っておちんちんは愛や性的興奮で元気になると思いがちだけど
おちんちんの元気さと愛は一致しないし
海外ドラマの中でも特定のコミュ二ティの人々が生き残りをかけて奮闘する物語みたいなので、
その傾向は特に強くでてくると思う。
ここで例を紹介しよう。
マジで観るのやめるぞおらと思うくらいすごかった、ここ最近で一番すごかったあるドラマの主人公の『妻A』
・主人公が死亡したと聞いて、ちゃっかり主人公の親友の男とそういう仲になる。
(心境:えっこんな大変な時に?よりにもよって自分の旦那の親友と?ま、まぁ不安を忘れたいのかな?それは仕方ないNA)
・主人公が生きて自分の元に戻ってきた途端、散々守ってもらった主人公の親友に「金輪際私と息子に近づかないで!」宣言
(心境:いやいやいや、今まで助けてもらった恩があるDE)
・主人公の親友が、泣く泣く主人公の妻Aに関わらないようにAやその息子を避けると、「その態度なによ!」と怒る
(心境:あんたが言うたんやDE)
・主人公に妊娠したと告げるも、主人公の親友との子かもしれないのを一切否定「絶対にあなたの子よ!」
・助けにきてくれた主人公の親友に、礼のひとつもなしで「あの人(旦那)はどこよ!」と怒鳴る
・なんやかんやあって、丸く収まりそうになったたのに、自己満足のために主人公の親友を呼び出し、「あなたがいてよかった」的な
ことを言い、ネガティブな方向へ励まされた主人公の親友は、主人公に決闘を挑むことに。→結果、無事に主人公の親友死亡
(心境:後味最悪じゃないKAI)
その他諸々。ほんとにそのシーズンは観るのがしんどかった。
きれいな女優さんだったから、パニックのときや人を責めるときに見せる表情がすんげえ迫力があったのも原因のひとつなんだろうけどさ。
とにもかくにも目が離せなかったから、あのゾンビドラマは成功なんだろうけどさ。ノーマンリーダスかっこいいしさ。
同じ女で、何一つ共感できなかったのも初めてだよ。
女性は強い!男にも負けない!ってことを言いたいの?こういうキャラは。
感情的になってひっちゃかめっちゃかにする系ヘルタースケルター女が、向こうでは結構スタンダードな感じなの?
(追記:H26/12/05)
元ネタになった方々に騒がれているようなので、格好悪い形になりますがいくつかの点について付記を加えておきます。
まず当エントリはあなた方の何かを批難し、留まらせようとして書かれたものではないことを強く主張しておきます。
後半の(ブックマークコメントを借りれば「国語力の低い」)文章には、
あるジャンルに対する愛の形に優越も何もあったものではないのだ、という思いを、あなた方の遊びに対する私が抱いた「気持ち悪さ」それ自体を茶化す寓話に変え、
更に本エントリ自体をリチャード・マシスン著「アイ・アム・レジェンド」との”クロスオーバー小説”へと転換することで込めたつもりでした。
それが全く伝わらず、怒りの対象となり、ましてやトラックバック先の不可思議な関連エントリ(”マシンスパイ・ゼロクロー”)による批難を「ユーモア」と称することで
その溜飲を下げていらっしゃるのであれば、それらにはご指摘の通り私の文章力の低さに責任があります。すみません。三号買えなかったんです。
書き手・語り手としてサークル側の立場を騙ったのは、これを書くうえでやはり一種の寓話として成立させるためです。
また書き手の特定等行っているようですが、文中にあります通り私は真実ツイッターアカウントを所持しておらず、
元ネタとなった当該サークル様とはなんら面識等関わりのない一読者です。
それら無用な争いの火種となり、徒に皆様の感情を刺激してしまったことについて大変申し訳ないと思っております。
誠に申し訳ございませんでした。
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特定はほぼ確実にされるだろうが(見る人が見れば一発でわかる)、まあ出来る限り伏せていく。
今年の夏まで、ある映画の二次創作を行うサークルを主導していた。
元ネタの作品は軍事・諜報、及び公務員としての警察組織の軋轢、更にテロの絡んだ国際問題・技術革新問題にまで踏み込み、
旧来のマフィア映画や諜報ものと比べその圧倒的なリアリティが評価されていた。
監督・脚本・演出とその全てが見事に釣り合い、作品単体としてきちんとエンターテイメントしているのみでなく、
題材となった問題についての正しい知識・見識を広めることで、その理解を深めるものとして機能しており、そこから製作陣の志が読み取れた。
舞台である近未来の厳密な時代考証。一見突飛に思えたキャラクター設定を納得させる脚本・演出の力。
物語の筋そのものが秘めている魅力。どれをとっても一級品で、インターネット上の口コミのみならず、業界人からの評価も非常に高い作品である。
年に数度行われている同人誌即売会で、コミケや文学フリマのようなものだと捉えてくれればいい。
コミケがその題材について自由であり、文学フリマも同様であることと異なり、本イベントは映画関係の二次創作・評論誌であることが参加の条件だ。
先ほど「業界人からの評価も高い」と書いたが、昨年春頃の段階ではまだその評判が広まってはおらず、作品の話をすることができる相手は限られていた。
そこで某壁サー(ようは人気サークル)にコネがあった私は、何人かの知人友人と共に50Pほどの合同誌を作成し、そこに置いてもらうことにした。
私は如何に本作が優れた軍事考証を行い、また現実に向き合った誠実な作品作りを心がけているか、
拙い語学知識を駆使して英文記事を読み、著者の意図を最大限汲み取ろうと努力し、その紹介につとめた。
他の書き手の皆もイラストや漫画、創作小説など凝ったアイデアを出してくれ、読み上がったテスト稿に目を通した時は「非常にいい出来になった」と素直に喜べた。
また委託サークルの方にも口絵を書いてもらい、70部ほど刷った結果売上は40弱。初参加にしては、これはほぼ盛況といっていいだろう。
「艦これ」や「東方」、「アイマス」などのメジャー作品の同人作品に接しているとわかりづらいかもしれないが、マイナージャンルの同人世界はとても狭い。
しばらくして作品自体の人気が向上するとともに、本作唯一の同人サークルであった私のものに便りが寄せられるようになった。
大方の内容は「合同誌の在庫はないか」といったもので、余っていた30部ほどは瞬く間に売り切れた。
また「次回があるなら是非参加させてほしい」という声も聞かれた。原作はちょうど二作目の発表直後であり、イベントの締日も近づいてきていた。
正直なところ、もういいかな、と思った。
私はこの作品を多くの人に紹介したかったのであり、それは既に成されていた。
が、他のイベントに出ていた委託サークルの方にも同様の問い合わせが相次いだため、結局彼女に迷惑をかけない意味でも「出よう」と思った。
再び合同誌の執筆者を募り、原稿が集まった。前回の寄稿者が私を含め5人であったのに対し、今回は11人。
前回の依頼者は本業が忙しく不参加となり、全員が新人で、更に大幅なボリュームアップとなる。正直嬉しかった。
執筆者募集の際、「どのようなジャンルでも構わないが、極端に下世話なものはやめてほしい」
「前回の合同誌を見て、その意図に沿うように」とのみ告知した。あまり上から目線で人を縛りたくはなかったし、私も過去にそれで何度か嫌な思いをしていたから。
私は原稿に目を通し始めた。そして目を疑った。
評論は0。
そして集まった創作小説は、クロスオーバーものが大半であったのだ。
クロスオーバーとは、例えば「アベンジャーズ」「リーグオブレジェンド」、「シュガー・ラッシュ」のように複数作品のキャラクターが同じ作品に登場し、
物語の主役となるもの。また、「シャーロック・ホームズ vs モンスター」をはじめとした「このキャラクターをこのジャンルに放り込む」という、無茶苦茶な設定を持ち込む
ジャンルである。ホームズが恐竜と戦ったり、映画ではないが、ゾンビが魔法少女の形をとって襲い掛かってきたりする作品のことだ。
集まった原稿も、それと似たようなものだと思ってくれればいい。だが内容がひどい。
諜報部がロリ少女に変身してマフィアと戦い、突入部隊が恐竜を召喚してホワイトハウスを守る。
悲惨な死を遂げたヴィラン・キャラクターたちがブードゥーの魔術によって毒々モンスターとして蘇り、警察組織がハイパーヨーヨーを操ってそれらを撃退する。
ネコミミの生える奇病にかかった中間管理職が、侍の操る機械兵とカードバトルに勤しむ…。
読み通すのも苦痛な作品がそこに並んでいた。あまりにも酷すぎる。惨いといってよかった。
しかし印刷所への締め切りは迫っており、原稿はまごうこと無く完成していた。私はそれを出す他なかった。
結果は100部印刷が1時間で完売。遅れてきた客にどのような口調で完売を告げたのか、私は覚えていない。
イベント終了後、ツイッターで彼らのアカウントを覗いてみた(私はアカウントを持っていない)。どうやら日夜これらのクロスオーバー・二次創作の話で盛り上がっているようだ。
月の光に導かれ、前世からの愛を告げられる捜査本部長。謎の覆面五人組によって救われるロシアン・マフィア。麻薬漬けにされパンツレスリングに興じる闇市場のギャングたち…。
彼らはこの作品を、彼らなりに心から愛しているのだろうと想う。だが私にはその愛が受け入れられない。原作で遊ぶことしか考えていない、怪物どもには。
その愛が正しいとはどうしても思えなかった。許せなかった。
だから殺すことに決めた。
「次回用のフリーペーパー見本が早めに刷り上がったので、先にサンプルを送ります」とメールを打てば、氏名付きで住所が送られてくる。簡単な仕組みだ。
大半の女が都内近郊、単身者向けの安アパートに暮らしていた。電車で30分もかからないだろう距離に全員が住んでいたのは好都合だった。
一人一人、作品の「ありえなさ」順に殺していった。包丁で抉るのが、鋸で刺すのが、最も下手なときに、最も嫌いなやつを殺してやりたかった。
彼女らは私の顔を見て戸惑った。まさか自宅に来るとは思っていなかっただろう。
「何度出しても住所不備で戻って来ちゃうんですよ」と微笑めば、皆が皆後ろを向いて茶の用意をしてくれた。そこで首を絞めた。
ベッドに縛り付け、何度も謝らせた。口に刷り上がったばかりの合同誌から担当ページをちぎり取り、口に詰め込んだ。
守らなければならなかった。この映画を、作品を、この怪物たちから。
ひとりは太った女だった。腹を割いてもなかなか死なず、頭を割らなければならなかった。
ひとりは痩せた女だった。首を絞めただけで死んでしまったから、便器に顔を突っ込んでおいた。
ひとりは若い男だった。私を見て赤らめた頬がみるみる血に染まっていった。
そして最後の一人の家を訪れ、インターホンを押したとき、不意に頭部に衝撃が走った。
目が覚めると、法廷のような場所にいた。すり鉢状に抉られた岩場、私を見下ろすように無数の女たちが並んでいた。
皆手に石を持ち、こちらに投げつけてくる。大半は当たらないが、うち一発が右眼窩を砕いた。一滴の血が頬を伝い、漆黒の闇へと堕ちていった。
顔を覆おうとしたところで、手足の自由が効かないことがわかった。広げられた腕は手首のあたりで縛り付けられ、足首の腱は切られているようだった。
自分が十字架に縛り付けられていたことに気がついたのは、松明に火がともされてからだ。何が始まるのかは明白だった。
私は殺されるのだ。この怪物どもに。
私の愛するものを壊し、踏みにじり、これからも汚し続けるやつらに。これで本望か。私を殺し、晒して、あざけ、笑いものにして。
叫ぼうと思ったが、口からは呻くような音しか出てこない。歯は抜かれ、喉も潰されているようだった。
私は唯一動かせる乾いた眼で、焼けつくように痛む瞳で彼らを睨みつけた。口角をあげ、指を指し、ごらん、こいつがいまから死ぬんだよ、と子供に教える母親を。
肩を組んだ恋人たちを。
叫びながら絶え間なく石を投げる女を。
そこに見えた表情は私の考えとは違っていた。眉をひそめ、眼を細めて、唇は固く引き締められている。
瞳に涙を浮かべているものも少なくない。彼らは怯えているのだった。
子供は母の影に隠れ、母はそっと子の頭に手を置いていた。
恋人たちは寄り添い、震えるように松明を支えあっていた。
女の叫びは慟哭だった。石を持たないほうの手に抱えているのは、遺影だろうか。そこに写っている白黒の写真は、いつか殺した男の顔に似ているような気がした。
ああ、と気が付いた。
そうか、奴らにとっては、俺こそが怪物だったのだ。
喪服の死神にしろ、今回の片山ゆうちゃんにしろ、経緯を知るにつれ「マンガみたいだなあ」と思ってしまう。マンガを選択したのは、俺がマンガ好きだからで映画でもドラマでも小説でもいいんだが。
その思った理由は、本人が「自分がこうなった原因は分かっている」と主張しているからだ。自分はどういう人間で、だからこういうことをしてしまうんだと、あまりにも明確に決めてしまっている。自らをキャラクター化しているというか。「あたしってー天然ってよく言われるんだー」と同じような嘘くささを感じる。
物語はどんな犯人にも犯行に向かわせた原因と、それにそった性格を与えられ、最終的には回収される。でも現実ではもっと理不尽に、もっとつまらない理由で犯罪は行われ、物語は破綻しているものなのだ。こういう言い方をすると誤解を招くかもしれないけど、たいていの犯罪者は普通だ。
彼らは普通になりたくなかった。自分は警察や検察、世間を翻弄して嘲笑う頭の回転が早い犯人。なぜならこれこれこういう過去があって、こういう性格だからです。
そう自分で思い込んでしまうと、そのキャラ設定にあった行動をしなくてはいけなくなる。具体的に言うと、同人誌即売会に脅迫文章を送らざるをえないし、河川敷でスマホを埋めざるをえなくなってしまう。
そして警察には、頭の回転が早い犯人に翻弄される愚かなキャラクターを当てはめてしまった。泥臭くて時代遅れで自分を追い詰められるはずがないという、単一のキャラクター設定。しかし残念ながら、人はそんなに単純ではなく、集団ならなおさらだ。
彼らの物語を断ち切ったのは人数の力である。物語では、自白を強要する愚者が他方で賢者であるはずがなく、分析のプロと尾行のプロと泥臭い時代遅れのキャラが同居することもない。現代の警察は物語が成り立たないほどのチートだと思う。監視カメラのせいでミステリーがやりにくいったらない。
他人のキャラクターを勝手に設定して失敗する人は多いだろう。自分の決めたキャラクター設定から外れた行動をとれなくて損をする人も多いだろう。今回も、警察や検察は冤罪を作り出す悪の集団だとキャラクター設定して恥をかいてしまった人もいるだろう。つまり俺である。
ごめんなさい。
お客様からも評判は悪くなく、良いお付き合いができていると思う。
成果もそれなりに上げてきたし、部内での表彰もされたこともあった。
会社や上司からはそれに見合った評価をされてると思うし、同期の中でも出世は早めな方だった。
ささやかながら肩書きもつけてもらえたし、新人の教育担当もやっている。
一見順風満帆に見える僕だが、日常的に大きな嘘をつき続けている。
ちなみに同性愛者である事を隠していると、嘘をつかなければいけない場面がそこら中にある。
「付き合ってる人いるの?」→「いますよ(男だけどな)」
「どういう子がタイプ?」→「元気で家庭的な子ですかね(男だけどな)」
「彼女は芸能人で言うと誰似?」→「うーん、芸能人では似てる人はいないですかね(佐々木健介似だとはさすがに言えない)」
「彼女のこと何て読んでるの?」→「陽子って呼んでます(本当は陽介です)」
「結婚しないの?」→「うーん、まだですかね(今の日本ではしばらくできねぇだろ)」
「子どもとか欲しくないの?」→「こればかりは授かりものですからね(純粋に愛し合う人との子どもは作れないし)」
「(ちょっとしたノリで)わー、あいつホモかよー」→「ははは…(あいつはどう見てもノンケだろ。むしろ僕がホンモノのホモですし)」
「(会社の付き合いで)風俗行こうぜー」→「…はい(一緒に行くけど風俗嬢には「彼女がうるさくて…」と言ってマッサージをしてもらう)」
挙げたのはほんの一例に過ぎず、かなり多くの嘘をつかないと辻褄が合わない。
感覚値としては、普通に生活をしているだけで大小合わせて1日2~3回ぐらい嘘をついているだろう。
ただ、他の仲間と同じようにフツーに世渡りをしていくためだけに、
頭の中で興味のない異性の恋人像を描きながら、詳細且つ現実的なキャラクター設定を行っているのだ。
そして、仕事や生活における一挙手一投足に設定の世界を照らし合わせて話している。
もちろん、プライベートを完全に隠すこともできるだろうし、
一方で正直にカミングアウトすることも手段としてはあるだろう。
しかし、そのどちらかを選択した場合、他の仲間と同じような世渡りができるのだろうか。
同じように仕事を頑張ったとしても、「付き合いが悪い奴」か「ちょっと変わってる奴」としか思われないであろう。
さらにも30歳を超える頃にはまた"続編"を考えなければならないのだ。
今、僕が考えている設定はこうだ。
お互いの両親もそんなにうるさくないし、孫はお互いの兄弟に任せている。
気ままに暮らしながら、つかず離れず、お互いを尊重し合いながら生きて行く。」
みたいな設定。
おそらく僕たち同性愛者は、こういう設定作りを日々ブラッシュアップしていかなければならない。
不毛すぎる。
でも、こんな事を考えないとフツーの世渡りすらできないのだ。
傍から見れば常に俳優ごっこをやって、別の人生を生きているみたいで楽しく見えるかもしれないが、
さらにそこでの演じ分けにおいて、決して失敗が許されないのは、かなり精神的にしんどい。
こんな不毛なことを考えない日は来るのだろうか。
いや、僕らが生きている間には来ないだろうな。