はてなキーワード: CASSHERNとは
https://cinema.ne.jp/friday/casshern2017050517/
なぜかいまさら紀里谷和明監督の記事が書かれているが、内容を読むと「当時は評価されなかったけど才能が認められてめでたしめでたし」みたいなことが書かれている。
まったく動向を知らなかった自分は「あの人、今はそんな感じなのか」と思ったのだが、ネットで調べてみるとどうも話が食い違う。
2015年公開のハリウッドデビュー作『ラスト・ナイツ』は日本ではいまいちだったわけだが、海外でも惨敗だったらしい。(そもそも情報が少ないのだが)
評論家の評価もユーザーレビューも一貫して退屈・ありがちな内容と断じられ興行的にも失敗。
その後はハリウッド監督の肩書でのインタビュー記事が何本か見つかったが具体的な仕事は不明。映画の企画を進めているらしいがラスト・ナイツの制作難航と興行成績を見る限り監督業は難しいように思う。
記事の方は
『CASSHERN』の国内での批判をものともせず、己の実力を信じ、今やワールドワイドな映画制作を成し遂げた紀里谷和明監督。その原点を今こそ見直して再評価してみるべきなのかもしれません。
と締められているが、国内での批判をものともせず海外に進出した結果、海外でも批判されまくった現状を理解した上での記事なのだろうか?
CASSHERNの評価といい、まるで紀里谷和明監督が世界的に名声を手に入れたパラレルワールドを舞台にしたSF小説を読んでいるような錯覚におちいった。
みてきました。ネタバレ。
海外ではホワイトウォッシュの問題が叫ばれる一方で、日本では「ハリウッド版だからスカヨハになるのは別にいいんじゃないの、面白ければ」という空気を感じた。
でも本編をみた人はわかると思うけど、物語としては単に他の作品でアジア人だったキャラクターを白人が演じているというだけの問題ではないんだと思う。スカヨハの演じるミラは義体が白人タイプになっているだけで、中身の草薙素子はアジア人であるということが判明するのだから。
ざっくりまとめると、テロリスト(あるいはそれ未満の単なる貧困層)であったアジア人の草薙素子が、ハンカ社の社長(テロリストアレルギーの人)に恋人や仲間ともども捕えられ、電脳化技術によって記憶を消去され白人の見た目の超人ボディのサイボーグに作り変えられ、テロリスト狩りの兵器として利用する計画に巻き込まれるという話だ。仲間たちはみな手術に失敗し、その犠牲のもとで草薙素子はミラとして生まれ変わることに成功、公安9課に所属して記憶のないままテロリストを追うことになる。
映画自体はミラが自分の出自を明かしていくという構成になっていて、最終的には真実にたどり着いたミラ=草薙素子は(間接的にだが)ハンカの社長を殺す(ここら辺は父殺しの話っぽい。ダーリン博士は明らかに母としての位置をあたえられている。それはともかく)素子という本当の名前を取り戻し、ほんものの母(桃井かおり)との関係を再建したミラは、元恋人である失敗サイボーグと生きる道を選ばずに、「記憶ではなく何をするかによって自分は決まるのだ」と結論づけてスカヨハボディのまま草薙素子として公安9課で生き続ける選択をする。
ホワイトウォッシュの問題と関連するのは、ハンカ社長の白人至上主義っぽいキャラクター像と、ミラの出自、そして最後の草薙素子の選択の部分ではないかと思う。ここらへんが差別的であると早々に結論づけるのは慎重にならざるを得ない部分で、例えば自身が草薙素子であると思い出したミラが最終的にアジア人としてのアイデンティティに目覚めた結果、ボディをスカーレット・ヨハンソンタイプからルーシー・リュータイプに変えましたみたいなラストで終わったらそれこそ大炎上していたのではなかろうか。
個人的にはハリウッド・ヒーローとして見たときのミラはとても魅力的なキャラクターで、続編があったらいいなと思うが、詰めの甘さが目立って平凡な作品になっているのをみると、続編製作は難しいかなという気もする。攻殻機動隊という一連の作品群の中のひとつとしてみると劣ってしまうというのは惜しい。
キャラクター設定のよさや、ビジュアルの素晴らしさ、映画としての表現の甘さなどを総合的にみると、紀里谷和明のCASSHERNと似た印象を受ける映画だった。
ませてたから、これが評判があまり良くない部類に入るだろうと、見終わった時には勘付いていたよ。
それでもやっぱり子どもの心にはあの映像やストーリーが響いたね。
今でも時折見返しては、当時感じた熱量がよみがえってくる。
もちろん酷い部分は酷いままだし、知識や経験を積んだ分、新たに酷いなと思うところも見つかる。
それでも、travelingやSAKURAドロップスのMVを繰り返し見ていたときの気持ちがよみがえってくる。
ああいった強い映像に憧れていた気持ちが思い出されてくるんだ。
だから、この映画は多分俺にとって特別なものなんだなあと思う。
これからも時折思い出したように見返すだろう。
何度も見返していると、一時期は酷いと思ってた部分を、これはこれでいいなと思えるようになることもあるんだ。
たまに、わいたようにクソ映画代表として名前が挙がると、世間からも忘れられてないんだなあと思って嬉しくなる。
CASSHERNのタイトルをみて、事故みたいに本編をみる人が少しでもいたらいいなと思うよ。
http://anond.hatelabo.jp/20161101215841
レンタルDVDどころか、定期的に中古ビデオ屋に通っている。DVDにすらなっていない映像作品がいっぱいあるからだ。もっとハードコアな人だと、京橋のフィルムセンターに通って、ビデオ化されていない映画を見ている。当然のことだが、そういうのはネットフリックスでは配信されていない。
フィルム→ビデオ→DVD→ネットフリックスと、どんどん作品は厳選されていく。そこで選ばれるのは収益が見込まれる大衆的な作品だけだ。少数に深く刺さるマニアックなものは捨てられる。たくさんの映画が捨てられてきた。その中には、もし鑑賞していれば、あなたの人生を変えるような映画も無数にあったはずだ。父親からの手紙が何よりも泣けるように、一人ひとり、深く刺さるものは違う。その可能性が、たくさん捨てられてきた。
おそらく、ネットフリックスの次が出てきたとき、映像文化は荒野になっているだろう。そこにはディズニーと新海誠しかない。宮﨑駿はストーリーが分かりづらいからNG。ゴジラは男の子にしかウケないからNG。黒澤明はセリフが聞き取りづらいからNG。小津安二郎は役者が棒読みだからNG。そうやって捨てられていって、1億人中1億人が「いいね!」と言うものだけが残る。だけど、その「いいね!」はフェイスブックの「いいね!」と一緒で、表面的な共感でしかない。深層に突き刺さるものは、少数にしかウケない。みんな感性がバラバラだから。
そうやって表面的なものしか残らなくなった地球では、映画に深い感動を覚える人間をいない。1人もいない。誰もが「こんなもんだ」と……「上映時間分楽しめればいいや」と……その程度の感慨しか映画に持っていない。映画を見て人生が変わったり、苦痛から解放されたり、生きるエネルギーをもらったりすることはない。映画にそんな力があるなんて、誰も思っちゃいない。
でも、何かのきっかけで……好奇心旺盛な子どもが、友達たちとゴーストタウンを探検しようと……みんなで遠出して「神保町」と呼ばれていた土地に行くかもしれない。そこには廃屋と化した「かつて中古ビデオ屋だったもの」がある。子どもたちはそこにある分厚く不格好な記録媒体に興味を持ち、これが何なのか調べようと、街一番の長老を尋ねる。
長老は「ああ、これはビデオというんだよ」って……ただ一つ残っているビデオデッキに……子どもたちが持ってきたビデオを差し込む。
長老が再生ボタンを押すと、静かに映像が流れてきて……そうして、文字が映される……。
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「CASSHERN」
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なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)
ttp://ominokazuyukiblog.com/narisumashi.html
引用ここから.................................................................................
私の知り合いに経済界刊「通訳捜査官」の著者でもあり中国人犯罪者の実態を始め、国際情勢について熟知している元警視庁刑事 通訳捜査官の方が居られます。その方より日本人の殆どが知らない非常に深刻な話があったのでご紹介。
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テレビと新聞からの情報を得ていると気が付きませんが、世の中には報道されない大変な事実もたくさんあるのです。
特に日本では、中国に関する真実は報道してはいけない「日中記者交換協定」が存在するのはご存知のとおりで、これを破ると、その会社の中国報道支局は閉鎖され、記者が国外退去処分になってしまいます。そうなると、もう中国国内のニュースは取材不可能。
まあ中国国内の問題についてなら、数々のびっくりニュースをあきれる程度で見ていられるのですが、実は日本国内の中国人犯罪も、最近なんか報道が少なくなってきたと思いませんか?
本来ならニュースにリンクして多くの方々にお知らせしようと思っていたのですが、この問題に関するマスコミの公開を待っていても埒が明かないので、ここに書かせていただきます。
実はこれ、4年ほど前から潜在的に深刻化しているんですよ。国籍法改悪より深刻です。
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拙著「通訳捜査官」「いつまでも中国人にだまされる日本人」にも書いていたのですが、5年ほど前までは日本に来る中国人の半数は密入国者で、残り半分は合法滞在の後ほとんど帰らずに不法滞在者でした。
そして三年前から不法入国者が激減し二年前は来日外国人が過去最高の伸びを見せ、昨年はやっと入国者がわずかに減少しました。密航者の皆さんも、かつての勢いはなくなったように見えます。
ところが実際には違うのですよ。
密航者の来日方法が大きく転換しているんです。今一番問題になっている不法入国の方法は、「なりすまし」です。
これは、中国国内のブローカーが、来日条件を満たしていながら来日することのない中国人から戸籍を買うという方法で、その人の身分証明書類を手に入れ、本来日本に来る条件を満たしていない来日希望者にその書類で出国の手続きを取らせるのです。
具体的に言うと、私の写真を貼った全く別人の真性旅券を準備することが出来るのです。
なぜそんなことが出来るかというと、その身分を証明する公証役場や、旅券を発行する公安局が、みんなグルだから。
そして本来日本に来ることの出来ない密航予備軍が、真性旅券を持って堂々と来日しているのです。
だから、中国からの旅行者が爆発的に増えて、密航がほとんどなくなってしまったのです。
彼らは身分を偽っているとはいえ、自分の顔写真入りの真性の旅券を持って入国しているので、合法滞在者です。
だから、街で警察官の職務質問に遭っても、絶対に見破られません。
ごくまれに、北京語が堪能な通訳捜査官に、旅券の出身地と言葉のなまりが一致していなかったりして見破られることがありますが、そういうのは余罪の関係で通訳捜査官が逮捕現場に臨場しているときか取調べの途中くらいであり、街のおまわりさんが職務質問して見破ることは絶対に出来ないのです。
もし奇跡的にも見破ることが出来たとしても、日本では本人のいいかげんな供述より身分証明となる旅券の方が信憑性が高いので、本人が認めない限り「なりすまし」であることは訴追できません。
また本人が完全に認めたとしても、それを証明する資料が旅券以外に存在しないと立件できませんから、これもまた難しい。
つまり、この「なりすまし」を犯罪として裁く為には、嘘八百(というか嘘3000)の中国人被疑者の自供を取って、さらにその実家の父母を、ごく少数しかいない北京語の堪能な刑事が国際電話で落として事実を認めさせ、戸籍謄本など本当の資料を送ってもらうしかないんです。
中国人なんて、取調室で証拠が挙がっていても9割は否認するんですよ。
あらかじめ打ち合わせできている実家の協力者でもある父母を、税金を使って国際電話で落とすなんて、もう神業です。
しかも送ってもらった資料が本物である確証もない。
はっきり言って、ここまでいい加減な国だと、理詰めで解決しなければいけない警察としては、もうどうしようもないのです。
いま、この「成りすまし」が、日本各地に爆発的に増えています。
もう、密航なんて必要ないんです。
来日中国人の半数近くを占めていた密航者は、今この方法にシフトして、さらに改悪国籍法などにより日本国籍を取得、その後は親戚を本国から日本に呼び込んで、日本各地にそのコミュニティを築くことが目に見えています。
いや、もうそうなっています。
池袋はもうのっとられているようです。
これをマネされると手の打ちようがないだけに大変だと思ったので、去年の拙著には同様の手口の「残留孤児なりすまし」について詳しく書いたものの、一般的「なりすまし」については押さえ気味にしておりましたが、もう明らかにすべき時期ではないか、と思い公表する事に致しました。
この現状を知る警察、特に第一線の勤務員には、職務上言論の自由はありません。
ましてやこの問題の重大さを知るのは、北京語のできる警察官という限られた状況です。
問題をしっかりと理解できる方に、この事実をお知らせした次第。
日本は、外国人票を導入しても政権をとりたい民主党が台頭しはじめ、マスコミはこうした事実を報道せず、中国人犯罪は潜伏化、合法化するばかり。
事の重大性をご理解の方は、コピー自由ですので、中国人問題に真剣な方にお伝えください。
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