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はてなキーワード: エッセンスとは

2023-01-23

anond:20230123174252

いわゆる受験テクニックだけど頭ごなしに公式として暗記しろってパターンと違ってスムーズに考えやすくするエッセンスみたいな感じで好き

2023-01-22

[] 細田守 バケモノの子 感想

公開当初、劇場で見て細田守を見限った作品(大好きな監督からサマウォ以前が好きな監督へ)。でもおかげで未来のミライフラットに受け流すことができた恩人(恩作?)でもある。そのバケモノの子を7年ぶりぐらいに見ることにした。もちろん酷評となるが、さんざ言われている人間界不要監督家族観とかとは違う部分を書こうかと思う。

アクションが退屈

改めて見た率直な感想がこれだった。

OPCG、でいいのかな。炎のシルエットで描かれる演舞はとても素晴らしくて、後を知ってる2回目視聴ですら否が応でも期待が高まるカンフー映画のようなケレン味のあるアクションが味わえるのでは、と。

しかし今作の大きな格闘と言えば鍛錬を除けば序盤と終盤の熊(熊徹)と猪(猪王山)(面倒なので略す)の2回のケンカぐらいだ。そして悲しいかな、これが見ていてさほど面白くない。二人の戦いは剣術はもとより、相撲闘牛ボクシングといったようなものオマージュのような動きが散見される。これが良くなかった。自分としては当初これら齧ったようなエッセンスの動きは小手調べだと思っていたのだが、実はまっとうな戦いの組み立ての範疇だったように思える。それの何が悪いって、二人に軸がなくなってしまたことになる。

古典カンフー映画のようなアクションを期待していた身としては、やはり「流派」は大事だったと思う。違う流派あるいは同じ流派の者が対峙して技を競う。それぞれの特徴的な動きの差異が画面に映えるのだ。それこそスターウォーズだってやってる。バケモノの子だと(恐らく)正統派武術を扱う猪と、師匠も居ない独学の熊との対決で、実に映えやすい。ところがそういうのは確かに所作に現れているものの、お互いあちこちからちょいちょいとつまみ食いした動きにしてしまったためにもう、流派のぶつかりもなにもない「ただのケンカ」になってしまった。もっと言えば観客が居るせいで「興行スポーツ」。年末格闘技かのようなエンタメになってしまった。「バケモノ」の活かし方が体当たりなのもマイナスだ。

長年練り上げた鍛錬を披露する、思わず唸るような動きではないせいでもちろんナイスバトルも生まれない。

どちらが勝つかわからない。であるとか、敗者をも称える歓声が起きる決着。なんてものは生じるわけがなかった。次期宗師を決める神聖(かはわからないけど)な戦いがリスペクトも生まれない野次馬がたくさんいるケンカに堕ちていたのは残念でならない。

(負けた猪も勝者並に称えられていたら息子も闇落ちしなかったりそれでも闇に落ちる姿が強調できたりしたかもしれない)

九太の応援が余裕で10カウント超えている賛否多そうなシーンもルールが最重要興行ではなく宗師を決める心も重要な要素の杓子定規でない神事として見ていたので許せたが、その後顔アップで剣を振り回すとかガッカリ


その主人公の九太なんかも悲惨で、やはり修行以外ではまともに動かない。成長後図書館のシーンで不良相手に鮮やかに立ち回るかと思いきや、得意の横長のレイアウトパンを使いつつなんと画面外で音だけでボコるという手抜き。団子ラリーは好きだけどそれぐらいかバケモノ界は闘争世界ではないし、武術を習った主人公人間ボコるのもよくないのは分かる。ただ素直に成長後九太で気持ちよくなれるシーンが欲しかったな。


直近の過去2作だけみてもキングカズマのOZ内移動含めた格闘やおおかみこどもの躍動感ある動きとかセンスは落ちてないはずなんだけどどうしてこうなったのかなあと不思議に感じる。

(剣が震えるところとかは好き)

世界観が見えない

バケモノの子映画にしては場面が少なく感じた。

熊の家を斜め上から見た図と家までの階段坂道、あとは修行場の廃墟っぽいところ?バケモノの子はだいたいこのイメージ。あと市場か。

渋天街という異世界に居るのに街全体の引きの絵とかがほぼ無いからせまっ苦しい。ワクワクしない。主人公視聴者異邦人なんだから、街をそれとなく見せて欲しかった。たとえば熊とケンカして街中をバルクールじみて走り回る追走劇とかはどうだろうか。アラジンの冒頭みたいな感じで。坂の上下を生かすならコクリコ坂もよく時代雰囲気を醸すことができていたと思う。

バケモノの子はとにかく「今どこに居るのか」がわかりにくい。賢者歴訪のシーンは渋天街に必要だった賢者の住む街の全景が描かれるが、それぞれ1秒未満ぐらいの一瞬しか映らない。振り返ってどんな場所に行ったかと思い出そうとしても難しい。結局思い出としては賢者の対面シーンと道中が繰り返される狭い印象になる。

絵作りができていないわけではなくて引きの絵も多くて背景もモブも全員書き分けるなど緻密なのだが、画面ごとにどうにもキャラクター支配的で背景が薄味。乾燥地帯イメージな砂色なのがそう感じさせるのかもしれない。逆に夜や昼夜の境目などの暗さと光は非常に美しくて心に残る。

今作は「時空」の時間を重視しているのかと思う。九太の成長自体がそれでテーマだし、同じ場面で季節が流れるシーンや同じ場所が繰り返されるのも時間の流れが見て取れるので効果的だ。あるいはその犠牲空間が少々ワリを食った形になったのかもしれない。

(季節が流れるシーンやミライの家の書き方は好きなので時間密室劇的方面が悪いのではなくバランスかなぁと)

これ即ち強さな

バケモノ界はたぶん全体的に武芸を修めることに重きを置かれると思う。そして武芸の強さが絶対指標じゃなくて弟子を取るとかも重視されてる。熊ですら過去弟子を取ろうとしたことがある。つまり剣術人口が多そうだけど学ぶのは剣術の裏にある精神性とかかと。それで九太は賢者の話を聞いて強いっていろんな意味があるんだなと理解したわけ。じゃあ数ある強さの中で熊と同じ道で強さを歩むことを自覚的選択しなくちゃならん。

当初の九太は選択余地がなかった。家族を失って一人で逃げ出して置いておいてもらえそうなのが剣術家の熊んところだったわけだ。そこから8年過ごすわけだけど8年後の九太は人間界に重点されてバケモノ界のシーンがすくなるなる。だから8年間かけて(腕っ節以外に)身につけたものがあまり描写されず、思春期父親周りの不安定さがフォーカスされていってしまう。九太の成長は物語最後最後に持ってくる必要があるのはわかっている。でも8年も経ったんだから自主的な強さの理解をお出ししないと漫然と表面だけ模倣していたことになってしまう。それも家庭内で父の真似をする子が似てきたっていうつっまんない閉じた話になっちゃう。

同じく家族を失って別の家庭に入り込む「三月ライオン」では主人公は明確に「将棋が好き」と嘘をつき、契約をして将棋で強くなり続ける代償を払ってきた。そんな主人公将棋と向き合い続けてやっぱり将棋が好きで自分意思将棋世界に居ることを選択する。成長には同じことをするでも「そうせざるを得なかった」という消極的選択から「それでもしたい」と一歩進む必要がある。

九太にそういった前進要素がないのは必然だ。だって最後は熊を「胸の中の剣」にする必要があるから。上手な二人の父子なら8年の中で教えることができただろうけどお互い不器用な二人ではそれができなかったんだろう。感動のラストのために。九太は親近感がわく普通青年に成長した。心は普通程度にしかならなかった。武芸を通して技と体は鍛えられたが心の強さは(幼少期の気の強さの引きつぎはあるが)あまり感じなかった。物語最後には九太は剣を置くことが語られている。胸の中の剣を手に入れて現実の剣を置くのは修めた感がある。最強の剣士が無手となりにゃむにゃむするかのように剣を置くなら悟り理解を経てするが映えるというもの。でも九太はそんなに到達点に達してないし人間的にも彼女や熊の支えがあってようやくここからって印象の方が強い。そんな彼が剣を置いたってただバケモノから人間界に戻ったって記号しかなかった。

センスが良くていい旅もさせてもらっていい教師反面教師も居るなかで8年過ごして出来上がったのがただの思春期不安定青年って…。すこしも「強さとは」が染み入ってないのが残念なキャラだった。

なんなら熊とそれを見つける物語でもよかったけれど、最後は信頼・絆一辺倒で「父と子」をやっちゃったね。

からやっぱり

尺不足…かなあと。もっとバケモノ界やアクションや九太の成長を描いて欲しかった気持ちがとても強い。そして何のせいで尺不足だというと人間界パートなっちゃう。結局、不人気の人間界パート不要論に収束する。ヒロインの楓は細田ヒロインの中でもとても好きなキャラなのだが…。



そんな感じで当時細田にはガッカリしたわけだけど宣伝だけみるとそばかす姫はそこそこドハデで楽しめそうな映画ぽいんだよね。受け流したとは言ってもミライダメージもそこそこあってまだ見る気が起きないんだけど、評判はいいみたいだし。(変わらない悪い点もあるみたいだけど)

脚本雇えと一言で談じると楽だけどこうやって書いてみて自分オタクすぎる気もする。ポストジブリファミリー向けならちょっとクセがあるけどこんなもんなのかな。これが細田監督の味だとも思うから今後の作品賛否が大量に出つつも売れて行くんだろうね。

2023-01-20

藤井風の不意打ち

自分がしっくりきそうなたとえ話だと

いいことを言うCMだと感心していたら最後創価学会と言われる不意打ちさ

と似たようなものかな

何を言ったか重要とどんなに説かれても人間なんだから

誰がどんな思想を持った・バックボーンで言ったことかは受け入れるか否かの判定に重要だよ

これが「みつを」だったらまだ「いやみつをか~い!」ってツッコミで流せるけどそれが宗教だと厳しくなってもしかたないよ

これは信仰していない宗教エッセンスを使ってる(ゴスペル)とか、キリスト教とか仏教はいいのかとは全然関係ない話

人間快適に生きるためには誰がどんな人が言ったか足切りする必要があると思う

真に真剣に人の話を意識して聞く人はそりゃ属性を苦労して廃して聞けばいいけど一般人に求められてもね

からから属性を表明されて(隠しているかのように振舞って)、それが自分マッチしないものだったらそりゃ嫌な気分になるよ

ツイッターはてなだとこいつの意見は見る必要ナシと非表示にしていたのに別アカ取ってて視界に入って意識しちゃって後から消してたアイツでしたってなっても同じように嫌な気分になると思う

是々非々じゃなくて一括でダメにしたい属性って人それぞれに絶対あるはずだし、その中でもセンシティブ順位が高いことが予測される(新興)宗教立場ぐらいは冒頭でわかるようにしてくれって快適に生きたい人間は思うよ

2023-01-17

次世代演歌歌い手

今、放送されているNHKの「みんなのうたたまたま遭遇した放送第一曲、「たのしいね」が流れたとき、衝撃がきた。ニュータイプ音が鳴ったといってもいい。

私は直感的に確信したのだ。「この歌手は"歌い手"だ」と。

https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN202212_03/

私は主にニコニコで隆盛した?「歌い手」というジャンルにまったく詳しくない。プロカバー曲も好きではないのにいわんや素人をや。しかゲーム実況は時々漁っているので、いわゆる歌い手のサブ活動ゲーム実況に出くわしてしまうことがある。まあすぐに切るのだが。

そういった中で私の中の、主に男性歌い手イメージが出来上がってきた。音楽にも明るくないので上手く表現できないのだが…


作ったような高音(ミックスボイス?)

巻く?甘ったるい?母音を強調するような喋り方

無理やり出すような伸ばし声(ロングトーン?)


トーク主体ゲーム実況で感じたこのような特徴。誰々の特徴ではなくあるていど画一的な、量産型、よく出会う特徴。「たのしいね」は全てを兼ね備えていた。特に「あわせてみよ~~~う」の伸ばすところが何かタメがあるのか不連続的で切り取ったような既製品をお出しされているようで非常にムズムズする。「のびのびとした魅力的な発声を聞いて聞いて~~~」と言われているような恥ずかしさがある。(しかしこの部分を何度か聞いているとこの不自然さが頭に残りクセになってくるのだ)

私は念のため正否を確かめてみた。したらばしかり、「天月」という歌い手だった。

先のURLを見るに過去の曲のカバーであり、作曲作詞は「歌い手」とは無関係だ。(編曲の人は別の歌い手らしい)

まり、再度になるが私は曲や詞の傾向を無視して歌手の声の特徴や歌い方のみで「この曲は歌い手が歌っているものだ」と看破したのだ。天月氏の声を過去一度も聞いていなくても。だ。


音楽積極的に聴かない私にとってこういった経験はマレだ。JPOPやV系ロックアイドルの曲を聴いても「ああ、あのジャンルの声だなあ」と思うことは少ない。多少わかりやすいのは声優アニソン系だろうか。歌い手サブカルチャー畑なのでもしかしたらそういう声優声に寄せているのかもしれない。しか声優キャラを演じながら歌うので特徴的になってもそこは意図的かと思う。

詳しい人に語らせればJPOPやロックEDM~Future Bassなどの歌手の特徴を述べることは簡単なのだろう。だがそうではない私にも歌い手のほかにはっきりわかるジャンルがある。そう演歌だ。

演歌演歌歌手…すごくわかりやすい…。ただのワイドショーで喋るだけでもその声の張り、コブシがひしひしと伝わってくる。

もうこんな例を出すとおっさんすぎるが、やはり「演歌じゃないけど演歌だ」と幼少ながら感じたのはポケモンだろう。

ポケモン小林幸子だ。

映画の風といっしょにも有名だしポケットファンタジー名曲だ。どちらもポケモンのための曲でありながらやはり小林幸子が歌うと小林幸子になり、それだけで演歌エッセンスを感じられるのだ。

演歌歌手演歌以外を歌っても演歌歌手だとわかる。「たのしいね」とちょうど同時期に「これ演歌歌手だ!」とわかる曲が流れていたのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=teiFPiZ74Sc

軍歌行進曲のような曲でも歌い方がモロ演歌の非常にクセになる曲だ。つい口ずさむ。


演歌は私は好きではない。若い世代でも好きな人比較的少ないだろう。ただ、恐らく若い人でも演歌演歌として認識されていると思う。30~40代ぐらいの世代の曲はどうだろう。たぶん若い人にとっては知らない曲でまとめれれるかもしれない。ラルク宇多田を挙げつつもJPOP全盛期とまとめられるだろうか。世代の中にいるせいか、そこに演歌歌い手のような一大ジャンルの(歌い方の)まとまりを感じられない。


演歌を見るに、おそらく40年後ぐらいになるとおじいちゃんおばあちゃんが「歌い手」を聞いているのではないかと思うのだ。今の演歌地位歌い手というジャンルが収まる。

一点、「歌い手」という歌手が何十年もそのジャンルのまま歌い続けるのかと考えると声の特徴や(顔を出さない)アイドル的側面からイマイチしっくりこないものの、そこは氷川きよしジェロのような若手がぽつぽつと参入して生き残るんじゃないのかなあと思う。

歌い手ジャンルが生き残る力が、(私自身は非常に嫌っているものの)その歌い方にあるのではないか。その先達として演歌があるのだから

年末年始テレビをみながら、そんなことをポツポツと考えていた。

そして私がおじいちゃんになったときに我が世代がどんな(古臭い)ジャンルを嗜好していると若者からみられるのか。そこは予想ができず、ある意味楽しみでもあるなと期待している。


うそう、「たのしいね」は子供向けの曲としてとてもすばらしいものだと思っておりますアニメーション含めいい曲ですのでぜひご視聴ください。

2023-01-09

”正直フェミニズムってカルトだし近寄りたくない”って所まで来ている

例えば”名誉男性

例えば”お寿司 猫 ロサンゼルス

例えば”性的搾取

    

フェミニズムを名乗る人たちがこれらの言葉を使う事はこれまで多々あったし

そもそもサイレントマジョリティからすればいきなり発狂して攻撃しているようにすら見える事はそう珍しくはない

彼女ら、もしくは彼らは「そんなことはない、これは性差別可視化されて」と自らの行為言動正当性を訴えかける

  

しかし如何に正当性を訴えかけられたところでマジョリティにとっては”ただの怖い人達”になりつつあるのだ

そして正直、彼らには近づきたくもないし寄ってきてほしくもない

自らの考えを反省する前に、そもそもそんな過激人間とは距離を置こうと思ってしま

ぶっちゃけ、関わり合いになりたくないから避けるという現象オタクだけではなく若い世代を中心に広まりつつあるのだ

  

ちょっとずつ、少なくとも私の回りではジェンダーだとかフェミニズムだとかそんな言葉を口にするだけで出来うる限り関わり合いにならないというところまで来ている

フェミニズムではない。反発するのではなく、遠ざけようとするスタンスが徐々に出来上がりつつある

事実フェミニズムを嫌う若者は増えたのだ

  

The Man Box:男らしさに関する意識調査

https://institute.dentsu.com/articles/2234/

  

カルトとツイフェミ

ここでカルト定義を明らかにしよう。オウム真理教のような集団では定義が狭すぎる。

例えば日本脱カルト協会定義に則れば

全体主義集団であること

集団生活に埋没させ

③各メンバー私生活剥奪して

メンバーや外部から批判を封鎖し

組織リーダーへの絶対服従を強いる

  

これらを満たすとされている

正直②や③については個別で考えなければならず、そもそもツイフェミと別な気はするし、⑤についてはフェミニズムというくくりだけでは定義に添えない部分が多い

これらすべてがガッチリと当てはまるかといえば当てはまらない所もある

  

しか過激派、主にツイッターで目立つツイフェミと呼ばれる方々に関して言えば「当てはまるのではないか」と思わされるような言動発言を多く感じられる

  

~①全体主義集団であること~

  

これについては論を俟たない。名誉男性という言葉が全てを物語っている

この言葉攻撃として用いている場面は多々見てきたはずだし、なんならツイッターでざっくり探っても簡単に見つかるだろう

事実、ツイフェミに反対的、無関心な人間がこのような蔑称を投げかけられる。なんならツイフェミから離れた人間や即座に従わない人間にも使われている

ツイフェミに反対的な人間を叩く人間ツイッターを見回せば掃いて捨てるほどいるのだ(これは④にも関わってくるが後に語る)

  

そして彼女らの意見はこんなものが多い

曰く、「女性ならこういう風潮・思想に反対してしかるべき!」

  

……本来個人主義ならば、「どんな人間が居てもよい」と発言するはずだ

要するに「フェミニズム遂行のために、世の中の女性は反フェミに反対するべきなのだ」という発言思想そもそも全体主義に片足を突っ込んでいる

  

無論、これが悪いわけではない。私は関わり合いになりたくないだけで

  

~②集団生活に埋没させ、③各メンバー私生活剥奪して~

ここについては個別な気はするけどツイッターバトルとかはてブロレスバするところはかなりエッセンスが含まれているのではないだろうか?

(実際擁護すると怒られる所については片足つっこんでると思う。何もしてなくて怒られるって段階じゃないだけかもだけど)

  

強制までは行ってない(やらなかったら村八分されて生活がままならないとか)から多分ここに当てはまる所は少ないのではないだろうか?

    

~④メンバーや外部から批判を封鎖し~

ここで、カルト脱会の手引という本から引用しよう

  

カルトから脱会回復のための手引き〈〈改訂版〉〉

[はじめに]大切な人が変わってしまった!-ありがちな対応の結末

  さて、 これ を 踏まえ て、 先 ほどの 対応 を もう一度 見 て み ましょ う。

    

あなた が 言っ て た ○ ○( 組織 名) って とこ、 何 か 怪しい ん じゃ ない の?」

あなた の 大切 な 人 は、 こう 思い ます

〝君 は 何 も 知ら ない から、 怪しい って 思う ん だ よ。 僕たち が 学ん だ 真理 を 知れ ば、 君 だって 本当 の こと を 理解 できる さ〟

「○ ○ って、 こんな ひどい こと を し てる って、 週刊誌 に 書い て あっ た わよ」

週刊誌記事 を 信じる なんて 最低!   ○ ○ は 核心 を つい た 組織から こそ、 世間 から 言わ れ なき 非難 を 浴びせかけ られる の。 私 みたい に ちゃん勉強 し て いれ ば、 そんな たわごと に 踊ら さ れ ず に 済む のに〟

「そんな こと を 信じ てる なんて 馬鹿らしい!   なんで、 それ が おかしい って わから ない ん だ」

おかしい って 思いこん でる だけ だろ!?  わかっ て ない のは、 お前 の 方 だ よ〟

「これ を よく 読め ば、 お前 が 信じ て いる こと が 間違い だ と わかる よ」

〝これ って、 反対 派 が 書い た 本 じゃ ない か。 こんな 間違っ た もの なんか、 読む わけ ない だろ。 それ より、 自分 の 方 が 間違っ て いる こと に 気づく 方 が 先 だ よ!〟

「○ ○ の □ □ という 考え方 は おかしい。 なぜ なら ば……」

〝何 も 知ら ない 人 が 屁理屈 を こね た って 無駄 だ よ。 僕たち の 知っ て いる 真理 は、 これ までの 理論はるか に 超え て いる ん だ から

  

  

日本脱カルト協会. カルトから脱会回復のための手引き《改訂版》 〈必ず光が見えてくる〉本人・家族相談者が対話を続けるために (Kindle位置No.131-142). 遠見書房. Kindle 版.

  

……どうだろうか?

見てこなかっただろうか?

”君は何も知らないから”、”自分達が学んだ真理を知れば”、”○○は核心をついた組織からこそ”、”ちゃん勉強していれば”

  

”わかってないのは、お前の方だよ”

  

……これを書いてる間、ずぅっとデジャビュを感じていた。

ここなのだ。まさにこの部分が、ツイフェミカルトに一歩足を突っ込んでるところなのだ

全部どこかで見たことがある。少なくとも勉強不足となじって対話拒否するあたりなんか特にそうだ

そして一番厄介なのは、これが実際にある学問であるということだ

  

から規制するべきだなんて言わない。言うつもりもないしそんな事を言う人間を信用もできないが、少なくとも私は近寄りたくないし学びたいと思わない

学んだ結果、このような会話になるのだからフェミニズムという学問が恐ろしくて堪らない

ただの知らない人が学ぶのなら止めないが、知り合いや友人なら殴ってでも止めるだろう

  

正直私にとってフェミニズムオウムとの間違い探しレベルになってる

  

~⑤組織リーダーへの絶対服従を強いる~

  

ここまで書いてきたが、とくに②、③については当てはまる部分がかなりあやしい、むしろ当てはまらない部分があると思う

⑤についても正直微妙なところで、ぶっちゃけ反ツイフェミについては死ぬほど叩くだろうけど

ただそもそも組織が細分化していることやリーダーと呼べる人間がどのくらいいるかにもよる

  

  

総評して

  

ここまで書いたけれども筆者は別にカルト研究をしている人間というわけではない。ただの一般人

こんなものを書いてみようと思ったきっかけも知人がフェミニズムを学んでかなり過激フェミニストになった事がきっかけだったりする

(そして家にあるジャンプゲーム漫画を捨てられそうになった。3万円くらいの被害

  

正直な話、フェミニストは怖いのだ。近寄ってほしくない。近寄りたくもない。どこか遠くの場所で野垂れ死んで消え失せてほしい

あの人が、この人がフェミニストだったらと思うと怖くて堪らないし、母親、知人、友人の誰かがフェミニストになってしまったらもはやカルトと同じように扱う

そしてこの考えが徐々に増えている事に安心しているし、同時に葛藤もしている。実際に私は一人の友人と縁を切ったし

  

恐ろしかった。とてもとても恐ろしかった。恐ろしくて仕方がないから遠ざけたくて仕方がない

近寄ってほしくない。近寄りたくもない。なんなら国会フェミニストと自称する議員が出ることがそもそも吐き気がする

そういう段階になりつつある。そういう段階を踏みつつある

参政党やNHK党に投票するのをためらうくせに、多分彼らがフェミニズムの根絶を訴えたら投票してしまうかもしれないくらい怖くて堪らない

  

そもそも寿司猫ロスの絵文字だって怖い。雄○ね○すと言ってはばからない人間がそこらじゅうにいるかもしれない

  

フェミニストの方々にもう少し自覚してほしい

あなた方は怖いのだ。排除したくなるくらいには

カルトを思い起こさせる程度には恐ろしいのだ

  

あとがき

出来うることなツイッターレスバするんじゃなくて、議員さんに手紙を書こう

実はこれものすごく効果がある。ツイッターでリプ送るよりよっぽど効果があるし、基本的にあまり無視できない

(実際ただのフリーターでも国籍日本なら無視はしないし彼らと喋る機会もままある)

  

よっぽどフェミニストとして有名でない限りは自分地区議員さんに手紙を書いて送ればいい

メールじゃないぞ。手紙だ。あと国会議員さんを中心にやるとよい

左派はこういう活動を通じて勢力を伸ばした。同じことをすればいい

    

追記コメ返

https://anond.hatelabo.jp/20230109012839

まさにこれ。これ④で見たよな。そういうことだ。

勉強してこい、社会学テキストを読め、そんな感じ。

マジでこんな感じなんだ。

  

  

https://anond.hatelabo.jp/20230109025104

https://anond.hatelabo.jp/20230109030346

④でみたやつだよなこれも。

正直、フェミニストで「理解してもらおうとするような態度」に出会った事がない

勉強不足だなんだといいながらセクシストのレッテルを貼ってくる

これがたまらなく恐ろしい。だから遠ざけたくて仕方がない

彼女らは自らが優れている事を証明したくて仕方がないと同時に、他者との違いがとんでもなく苦手だ

  

基本的カルトメンバー普段の会話や組織理念専門用語を使う。

これは「自分達は一般社会よりも高等で高尚な考えを持っている」と感じさせると共に、「社会では通じない言葉であるから結果として社会から隔離される」という結果を生み出す

仲間意識を強くさせながら社会から切り離させる”って事をするんだ。話通じないやつと関わりたくないだろう?

  

普通に考えてみてくれ。どこかの理系研究者や、文系教授でもいい

「わからいから教えて」って言うと専門用語一般化して伝えようとしてくれるだろう?

ここがカルト研究者の違いだ。

しかカルトではそもそも社会のための一般化」って概念がない。当人社会から隔離されてた方が嬉しいからだ。

結果として、もう見えてるよな?

やつらが専門用語を使い始めたとき定義を聞いたら薄っぺらかっただろう?端々に現れてるんだよ。

    

https://anond.hatelabo.jp/20230109025436

まさにその通り。

そして動き方もマジでカルトのものなんだよね。怖い

    

https://anond.hatelabo.jp/20230109030119

カルト定義を書いたんだが読めていないらしいな

ぶっちゃけ全体主義的で批判の封鎖を行ってる時点でもはやカルトしか見えないってだけの話だし、やべーやつだから近づきたくないってだけだよ

そして示し合わせたわけでもないのにそういうのが増えてることをもう少し考えてくれ。考えた上でどっかいってくれ

    

https://anond.hatelabo.jp/20230109030007

マジで選民思想してる。カルトカルトしてる。

正直ミサンドリーミソジニーもアンフェもツイフェも思想自由だけど過激派には近寄ってほしくない。

どこかで野垂れ死んでくれ。頼むから

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-12-31

FF14楽しい

セールしてたので買ってみた。初めてのMMOである

なんなら実はFF自体初めてである

ファルシノルシガコクーンパージみたいなネットミームのせいで難しそうなゲームだと思っていたが、いざやってみると面白い

風景モンスターデザインスタンダードファンタジーで、むしろ後発のゲーム漫画FFからエッセンスをもらって作られたものも多いんだろうなと感じた。特に感動したのはグリフィンドラゴンユニコーンなどのハリポタ世界のような幻想生物がいて、それらに騎乗することもできるところ。グラフィック10年近く前のゲームにしては十分美麗。

キャラクターメイク適当にやってしまったのでやや後悔しているが、街の中をウロウロしているだけでも面白い。しばらくは楽しめそう。

2022-12-12

水星魔女をいまさら見てるんだけど随所に少女マンガのようなエッセンスが見受けられて非常に気色悪い

ガンダムっていつからこんな女々しいコンテンツなっちゃった

2022-11-29

anond:20221129142137

・本は面白そうだな。俺の言ってるやつを批判したいという趣旨だ。買うわ。

 

サイトは、これ「女性いかに酷い目にあってるか」を広めて感情を刺激することで成り立ってるニュースサイトでは?

SNSエコーチェンバーと同じことが起こるので、これにだいたい書いてあるのはあまりよくないのではないか

 

フロイトそうやって馬鹿にされがちなんだけど、奴は科学者でなく診療屋だったというのがキモで、当時あの時代キリスト教の性抑圧が問題だったのはガチだ。エッセンスだけ見ていけ。

 

・いや女性差別で流言蜚語が起きる仕組み同じだ、と言ったのがお前で、流石に関係ないと俺は言ったんだよね。結果意見が一致したからいいけど。

 

あとは本読まないといけないからここまでだな。

2022-11-04

「みんなやってるから」ってバカエッセンスが詰まってるよな

人がやってることしかできない

正しいかどうか自分判断できない

悪い結果が出ても人のせいにして反省できない

全部脳が死んでるからだもんな

2022-11-01

江戸時代Togetter記事

江戸時代の何が優れていたかみたいなテーマ構成されているTogetter記事

今の中国ゼロコロナ政策をやってるけど、ああいう抑圧を統治ベースにおいた幕府が300年やり通したようにしか見えないんだけど、あれで優れていたって感覚もつの?

長期にわたって身分階級関係なく隷属させていただけじゃないのか。

宗教ガーって言う連中が最近は猛威を振るってるけど、宗教以外に社会思想が何もない時代に、それを骨抜きにされたら公家武士から被差別民まで自発的に隷属していく人間ができあがるだけだと思うんだが。

専制政治を作り出すことに宗教思想は影響を及ぼすが、それに対抗する人々に影響を与えるのも宗教思想だと思うんだけど。

武士階級が重んじた儒教思想だって支配効率が上がるためのエッセンスだけを抽出されたもの

災害、大飢饉が頻発しているのに幕府政権に大ダメージを与えるような公家武士の反乱、民衆の蜂起がないのもその証明じゃないか

今の中国であるような自由を抑圧された中で政府に怒られないように人生を歩むしかない人民たちみたいな。

習近平徳川吉宗しかみえんのだけど。

2022-10-23

うる星やつらダメ出しって

とりあえず高橋留美子原作

持ってきて

アニメ比較しないと

意味がないような気もする。

制作コンセプトとして高橋原作に今回のアニメは寄せる、って言ってるんだからさ。

最近アニメ業界が得意とする原作エッセンス再現をどれだけ出来ているのか?という部分を評価した上でナイト折衝だよ

2022-10-09

マイナーCP界隈に人が増えない理由がわかった日記

二次創作界隈のぼやきを眺めていると、「マイナーCP」についての愚痴をよく見かける。

そのほぼすべてが「マイナーCP界隈の内側」からぼやきだろう。

曰く、人が増えない、生産者がいない、大手と比べて云々…

これを書いている人間は、界隈の人数とか生産数とか関係くその時ハマったものを好きなように生産している人間なので、そういう嘆きを見ても「わあ大変な思いをしている人もいるんだなあ」程度にしか考えていなかった。

持論としては、作品は描(書)いたら増える。それを見て魅力に感じた人がいれば界隈人数も増える。それはどのキャラクターCPも同じこと。

それでもマイナー大手の差が開くのは、純粋キャラクター人気の差とかその時の情勢とかもろもろが関わってくるものなのだから、そのCP並びに作り手や語り手が悪いわけではない。ただ運が悪かっただけ。

そう考えていた時代もあった。

しかしこの度、あるマイナーCPイベントに参加したこときっかけで

「いやマイナーCPマイナーのままなのは作り手も悪いわ」

と考えるようになったので、日記に残そうと思う。


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上に書いた通り自分はその時ハマったものを好きなように生産する人間なので、今作っているものマイナーかどうかなんて全く認識していなかった。(そもそもマイナーとか大手とかでCPに優劣をつけて見たりもしない)

SNSでも仲のいい友達といくつかの無難公式アカウントしかフォローしていないので、そのCPに今どれだけ作り手がいてどれだけ盛り上がっているか、も知らない。

からその「マイナーCP」が人に飢えているマイナーということも、イベント中の参加者のボヤキで初めて知った。

そのイベントweb開催のオンラインイベントだった。

web上で品物のやり取りをし、アバター越しにチャット参加者交流をし、主催者が設定したデザインに彩られたイベント会場を楽しむ、というもの

イベントには交流のための時間場所が設けられていた。

リアルイベントとは違って対面での個人交流がしにくいのがオンラインイベントなので、そうした交流会を設けているイベントは珍しくないと思う。

似たようなwebイベントに何回か参加したけど、やはりどこも参加者同士が盛り上がるための交流会を設けていた。

webイベントというものは、そのように特定時間場所を設定しなくても会場のどこでもチャットでの個人交流ができる。

にも関わらずわざわざ交流会を開催する意味合いとしては、積極的コミュニケーションの場を通じてファン同士の絆を深めたりCPへの熱意を発散したりといった「界隈をより盛り上げたい」という村興し的な面が強いと私は考えている。

何度か参加した他イベント交流会でも、話したこともなかった相手言葉を交わせたり、好きなキャラクターCPの話だけで知らない相手友達友達まで巻き込んで大勢で盛り上がれたりして楽しかったので、その「マイナーCP」のイベント交流会も楽しみにしていた。

当然CPイベントの主軸はそのCP作品をめいいっぱい楽しむことにあるので、交流会だけがメインではなくあくまでおまけ程度。

例えるならスーパーの買い物でたまに引ける福引程度のものなので、「買い物ついでにこれも楽しめたらいいな」くらいの期待度。

ティッシュが当たろうが掃除機が当たろうが、目当ての買い物はクリアしているのでまあいいや、の感覚

それでもイベントに参加するなら「そのCPを取り巻く人々の空気感を味わいたい」のが個人的な趣向だ。

なのでるんるん交流会には参加した。

CP好きで集まった人々なら、CPキャラクターについての熱い萌え語りが聞けるかもしれない。

なんなら頒布作品の裏話とか、サークルの苦労話とかでもいい。

好きな作品同人に関わる人と交流ができることが楽しみだった。


しかしいざ交流会がはじまると、CPキャラクターの話はエッセンス程度。

発言しているのはほんの一部の人のみ。おそらく「界隈の中心にいる人」たちなのだろう。

(交流会には20人くらいが参加していたが、会話していたのは5人程度だったと思う。他の人たちは「お疲れ様です」「開催ありがとうございます」といった挨拶をはじめと最後にしているのみでほぼ無言)

その中心の人たちの話題も、「〇〇さん相変わらずですよねー!」「出た〜w ✕✕さんのこれ〜ww」といった『人いじり』がメイン。

界隈や人ではなくCPキャラクターが好きな私には全くわからない。

要は身内ノリが激しいのだ。

その「身内」の外側にいる人間には入る隙間がない。

先程福引で例えたが、福引を引きに行ったらスーパースタッフ個人的な話をずっとされて楽しいと思う人はいないだろう。

それでも折角交流会に来たのだから一緒に盛り上がろうと自分なりに入れる話題を見つけて乗ろうとしたりした。

たまにキャラクター中心の話になった時にそのキャラクターを掘り下げる発言をしたり、『界隈の人』の話でも頑張って乗って一緒に盛り上げようとしたり。

もちろん私の他にも同じように乗ろうと一生懸命発言している人もいた。

しかし私やその人の発言に対する共感も相槌もないまま、すぐ『界隈の人』同士の話に戻る。

こんなに虚無を感じる交流会もない、と思った。

交流会の会場設定もその狭い交流を加速させているように感じた。

とにかく狭いのだ。本来は広い会場を、デザインでかなり狭くしている。中心以外は入れないように真っ暗にされている。

そのままの広さなら、参加者があちこちに散らばってそれぞれ発言が誰かの邪魔をすることもなく個々人で交流ができただろう。というかこれまでに参加したイベントは全部その形式だ。

しかしこのイベント参加者全員が中心に押し込められる形になっているため、一つの話題しか盛り上がれない。他の話や個人的な交流をしようとすると、今盛り上がっている場にノイズを撒くことになる。

から今進んでいる話題に乗れない人間たちはみんな押し黙って、僅かに発言できる挨拶の瞬間に短いチャットを打つことしかできない。

主催もその『身内ノリ』を止めるどころか、進んで乗って盛り上げていた。

参加者全員を楽しませるように、ではなく、「自分自分と仲のいい相手と楽しめるように」そんな盛り上げ方しかしていなかった。

乗ることができない人間にとっては、他人同士の身内通話を延々と聞かされているような、そんな時間

なんのために参加しているのか、これはなんの時間なのかとさえ感じている頃、その『話題の中心』の人が発言した。

「まだまだマイナーだよね、ここ」

--

それで私が感じたのは、ああこれがマイナーCP界隈というものなのだな、という認識だ。

マイナーCP界隈者が時折自虐的に使う「村」とは、なるほど的を射た表現だったのだ。

人が少ない、だから少ない人々で身を寄せ合い生まれた村。

よその人を招くイベントを開催しても、村人たちが結束しすぎて、結局よその人が居着く隙がない。

私はこれまでマイナーCPとは「キャラクター露出が少ない、公式での絡みが少ないなどといった理由でどうしょうもなく人が増えない界隈」だと考えていたが、実態は違ったようだ。

「結託しすぎて排他的になっている界隈」これこそがマイナーCPであり、マイナーCPに人が増えない理由なのだ

このCPを嫌いになったわけではないので生産自体はやめないが、このCPオンリーイベントに参加することはもう二度とないだろう。

このCPリアルイベント参加も検討していたが、リアルはより一層身内とアウェイの差が開くと感じたため、参加を取りやめた。

(リアルイベントも「界隈の中心者」が開催に一役噛んでいるらしいのもその理由だ)

このイベントに関しては参加させてもらった以上は大人対応として「楽しかったです、運営お疲れ様でした」と主催に伝えたが、本音としては「楽しくなかった。二度と参加しない」が全てだ。さすがに本音は言えないので心とこの日記ナイナイした。

身内ノリが悪いと考えているわけではない。

同じ志を持つコミュニティ所属し仲のいい相手と絆を深めることは人間にとって最大の幸福なのだと某有名大学も発表している。

「界隈感」が嫌いな私の好みもある。

ただ、やはりマイナーCP界隈は自ら「ここはマイナーCPだ」と発信して界隈を狭めても得にはならないと思う。

マイナーであることに良さを感じているのなら好きに狭くなればいいと思うが、「人が増えてほしい」ならせめて公募イベントでの身内ノリを抑えたほうがいいのではないだろうか…。

そのイベントでも「もっと盛り上がってほしい」「人が増えて嬉しい、もっとたくさん来てほしい」と発言する「界隈者」たちに何度も心の中でツッコミを入れていた。

新参をちやほやしろと言いたいのではない。せめて身内以外が参加しているイベントなら、身内ノリを控えたほうがみんなで盛り上がれるんじゃないか…。

まあ、ことwebイベントに関しては開催者が全てなので開催者が身内ノリに賛成するなら、もういいのかもしれない。

私はそう諦めた。マイナー界隈とはそういうものなのだろう。

やっぱりイベント参加するなら、大手だな…。

そんな日記

2022-10-05

anond:20221004235756

たまに現れる千束の口悪さもそうだが、何かと暴力的エッセンスが感じられる部分は感心しなかった。

若いノリなんだろうね。

最初から違うものだよって言ってる水星魔女はありがたい

タイトルOUTとかエース二次創作漫画っぽい

主人公吃音キャラ付でそこ持ってくるか?

  

学校舞台だけど「ここは決闘で全てが決まる」とかアホっぽい設定で、ムカつく上級生が威張って主人公に負けるとこまではもう予想通り

「お前はトロフィーやってりゃいいんだ」とか「将来の旦那様がわからせてやる」とか昭和か?っていうくらいの古い男女の価値観

ロックしてるモビルスーツを無理やり剥がす演出コンテナから飛び出す演出も派手に見せるだけで頭が悪い

ホントタイトルビルドファイターズって付け忘れた?ってくらいに子供だましで内容が薄い

  

多分、今後は主人公秘密の会話をしてるのをドアの外で花嫁が偶然聞いちゃって、主人公が部屋を出てくるとトマトが置いてあるって演出はあるだろうし

山田玲司ヤングサンデーで「押井守劇場版パトレイバー)のエッセンスがここで入ってくるんですよ!だから1話でトマト食って感動してたじゃないですかー」って解説するまでセット)

生徒会(笑)が出てきて「あのバカが負けたのは与えられただけのタイトル調子に乗るからだ」とか言いながら順番に勝負を挑んできたり(イクニのエッセンス以下略

運動会かいってモビルスーツに乗りながらマラソンしたり腕立てしたりするんだよ(庵野のエッ略)

  

まあガンダム視点で見るから色々不満も出るのであって、アレはガンドアームなんだからエクスアーム視点で見ればかなり上出来だという事がわかる

2022-09-26

anond:20220926205322

鎌倉歴史の長い一種コミュニティなので、テーマパークとしては別に何てことないよ。俺にとっては東慶寺を守る一円の美しい家並みだし、友達にとっては雪ノ下と八幡宮けが鎌倉だし。ジャパニーズエッセンスたる京都鎌倉を気にしないで大丈夫長谷寺がクソなのは完全に同意する。昔から寺というのはああやってギンギラの伽藍で金を稼いだという乱暴意見もあるが、だからといって侘び寂びの浸透した現代にそんなもの踏襲してどうするんだという感じ。

2022-09-20

youtube麻婆豆腐レシピ比べ

youtube大人気の麻婆豆腐レシピを、難易度とこだわりで比較してみた。

(見出し動画へのリンクになっています)

リュウジ氏

本格中華エッセンス必要十分な美味しさが保証されているレシピで、これ以上の簡略化は多分難しいと思う。

たいてい鍋1個orフライパン1個で済ますことで後片付けにも優しい氏のレシピにしては、珍しくフライパンと鍋を1個ずつ使う。

しかし1つは豆腐の塩茹で用なので、そこまで片付けは面倒にならないと思う。

創味シャンタンを使って豆鼓鶏ガラスープ味の素その他諸々の調味料を集約しハードルを下げ、かつパンチのある味にしているのがポイント

その上で、花椒ではなく日本山椒を使うことで食べやすくしているのも良い工夫だと思う。

陳建一氏(家庭向け)

俺的超おすすめレシピ

素朴で、なおかつ品もある美味しさは流石のクオリティで、毎月作りたくなるレベル

というかニンニクチューブでいいよーという気楽さに救われている説あり。

石垣島ラー油も空の容器とそれに対応する袋売りが出て、だいぶ扱いやすくなった。

あと調理用油をピーナッツオイル(できればフランス産)にするとより美味しくなる。

その他レシピを補足するとお酒紹興酒を小さじ2、中華あじは小さじ1/2、うま味調味料(味の素)は3振り、胡椒エスビーのテーブルコショーを3振りしている。

なお絶対抜きにできないのが味の素で、入れないと豆板醤の辛さが立ち過ぎて食べる人を選ぶ、トゲのある味になってしまう。

というわけで一度は絶対作ってみて欲しいのだが、「こんな難しいレシピ作れないよー」という人はリュウジ氏のレシピで慣れてからでも遅くないと思う。

もちろんリュウジ氏のレシピと食べ比べてみるのも楽しい

武島たけし氏

ここ数ヶ月で人気急上昇したレシピ

こちらは家庭で作れる内容として、限界までこだわり抜いたレシピと言っていい。

「極主夫道」を謳っていることもあり、かなり料理に慣れた経験値高めの人向けな内容だと思う。

なお調味料の入手先にカルディ業務スーパー多めだったりするので、作る前に食材調味料が揃うかは要確認

陳建一氏(プロ向け)

お客さんからお金を頂いて食事を出す人が見るレシピ

なので読者の殆どは作る可能性皆無と思われるが、プロ仕事として麻婆豆腐調理するとはどういうことか確認することで、家での煮炊きにも何らかのフィードバックが得られそうな気がしている。

他にもオススメレシピがあったらどんどんトラバブコメに書いて欲しい。

2022-09-15

坂本勇人セフレ女性LINEにおじさん構文エッセンスがある

女性でこんなに絵文字使う人珍しいという棘かなんかのコメもあったな

嫌われたくないけど距離縮めた下心が透けている文章をオジサン構文と言うなら、まさにセフレ女性のそれLINEはオジサン構文だ

そっけない男と必死な女。妊娠が発覚して俺たちやらかしちまったなという男と、好きな人の子供だし、とジャブを混ぜる女性

性別が逆になっても、句読点や変なカタカナがなくても、そこに下心がある限りおじさん構文は生まれしまうもんだなあと思った。というかオジサン構文じゃなくてなんかい表現いかね。下心構文?

2022-09-04

統一教会についての認識をまとめるために自分過去ブクマ検索してたらHagexさんの記事を見つけた。

 

佐々木俊尚氏が幸福の科学幹部と対談イベントを行うことが判明し炎上 - Hagex-day info

https://hagex.hatenadiary.jp/entry/20131114/p11

 

記事タイトルの話は有名なので今更だが、この記事には東浩紀が出てきて、佐々木俊尚幸福の科学幹部と対談イベントすることについて東がTwitterで「えええええええ」「あまりにショックで」と投稿していて否定的見解を述べていたことは再発見だった。現在の東は「ぼくはそもそも統一教会カルトであるかどうかを判断する立場にありません」としてネットマスメディアで起きている統一教会批判ネガティブ立場を取っている。

この記事に将来を見据えるかのように東浩紀ツイートエッセンスとして挿入していたHagexさんは流石と思うと同時に、新たな記事をもう読めないことに悲しくなる。事件後の統一教会問題をどう捉えるかの記事が見たかった。突然の凶行に倒れたという安倍元首相との共通点についてもいろいろと考えさせられる。

2022-08-30

お絵描きAIが怖い

俺は絵描きじゃないか分からんのだが

昨今のお絵描きAIお気持ち表明してる絵描きは何がそんなに気に食わないんだ?

ネットに1枚絵なり出してたら後発の人間に真似られることなんてよくある事だと思う

人間に真似られて自分エッセンスが取られるのは許せるがAIには許せないのか?

それともAIの絵が自分の絵と似すぎていて自分価値が下がるから

まあ商用利用がー!とかいうのは分かるがそれ以外でAIから困ることってあるのか?

今回の騒動で思うところは、AlphaGoみたいに正体を隠して新人としてAIさんに成り上がってみて欲しかった

世間一般なりTwitter界隈がどう反応するのか見てみたかった

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