はてなキーワード: 護送とは
その結果を報告しようと思う。
先に言っておくが、概ねお前らの想像しているとおりの結果だ。
興味のある奴だけみてくれれば嬉しい。
29日は24:00くらいまで、センター街と、ドン・キホーテのある通りは車両封鎖されてホコ天に。
ホコ天の両先端には警察の護送車やパトカーが道を塞ぐように止められて、その前に警察多数が立ってバリケードを敷いていた。
# 街の様子
道端には返事のないただの屍のような泥酔した若い男・女が転がっている。
女が酔っている場合はだいたい男が介抱していた。もともとの知り合いあスケベ心丸出しの男か、ただ単に親切な男かは判断しかねた。
ちなみに男は転がされるがままだった。
途中でバイクと車が突っ込んできたらしい。怪我人はいなさそうだったが、車は音楽を流して路上DJみたいなことをやっていた。
声掛けは「写真撮りましょう!」が9割。もっと創作意欲を出せ。
だいたい写真撮ったら「送るからLINE教えて!」で聞き出そうとする浅はかさが目立つ。
ちなみにシカトされている男も多かった。
(そりゃビールでたるんだだらしない腹をみずから見せるようなコスプレなんて受けない)
なお、外国人(とくに白人系)男性はほとんど写真OKもらっていたように思う。
嗚呼悲しきは白人コンプレックス。(というか、白人系=観光客で、観光客には優しくしよう、という精神の現れ?)
↑のLINE交換をせずに、これから飲食店へ飲みにいくことを打診する輩も多かった。
なんせ初対面だから何を話していいか分からずビミョーな空気になっているグループも散見された。
ハロウィンだからって調子乗ってナンパしてしまった、悲しき非モテ男を垣間見た気がして悲しかった。
# 道玄坂の様子
# コスプレの傾向
といっても下着姿ではなく、スタジャン&短パン(人によってはブルマ)&編みタイツといったもの。
正直多すぎて没個性だった。
次に多かったのはなんだろう。ナース・ポリス・小悪魔が僅差か?
この辺はあまり印象にない。
「ヲッ」と思ったのは、ドロンジョ様。もちろんタイトなハイレグでお尻をぷりぷりさせながら歩いてた。
アレはエロかった。
いずれにせよつまらんのが多かったな。
# 翌朝の様子
始発が出始めたころから、タクシーを拾おうとするコスプレ軍団が道に溢れ始めていた。
始発は仮装軍団によるラッシュだったころは別で参加してた友人から聞いた。
朝6時くらいにはボランティアの方がせっせとゴミ拾いをしている様子が移った。
その横にはゴミのように酔いつぶれているゾンビが数名いたことは忘れたい。
以上が私の見た光景だ。
秋葉原事件後、似たような自暴自棄からの暴走がちょくちょく出てるけど、
このまま中間層は使い潰されて死んでいくんだろうなーと思ってた。
ある意味、某中東の「やれば48人の処女とあの世でセクロスできる権利」
という謳い文句と変わらないのだが、
自分勝手な理屈で自分勝手に行動するから、恐ろしくタチが悪い。
そして何より問題なのは、クソ真面目に働いてすり潰されていった中間層には、とてつもなく相性がいいってことだ。
これは私見だが、秋葉原事件は、自分を見てくれない世界への叫びだったと思ってる。
こんなに頑張ったのに、どうして認めてくれないの、と。
こんなに悪い事を放置してるのはいけない、なら、排除するのは正しい事だ!
犯人はリア充カテゴリの住人であり、友人から「バグちゃった」という証言から、
そして、サイコパスを育てた土壌が、昨今のブラック企業である。
明らかに過酷な条件で、低賃金で働かされ、問題が放置されたまま仕事が続いていく。
別の仕事で再起を図るも、これも出来ない。
この末にあるのは、自分を終わらせる自殺か、暴走する秋葉原事件のような他傷への道しかないと私は思ってた。
ところが、相模原事件で新たな可能性が出た。社会正義による殺戮である。
60年代大学闘争のようなイデオロギーの対立ではなく、この社会に属する者として、より良い方向に持って行こうとする、混じりっ気なしの善意なのだ。
その為なら、この身を喜んで犠牲にしようという、尊い自己犠牲なのだ。
狂っている。
社会に属する者として正気を保ちながら、狂気としか言えない行動を実行してのけたのだ。
この事件がただの殺戮でない事は、職員を生かしていた事からも読み取れる。
もしただの快楽殺人者なら、職員も患者も関係なく実行していただろう。
だが彼はそれをせずに、とても良い笑顔をSNSにアップして犯行を始め、終えた後、通報とほぼ同時刻に自首。
よくネット上で「富める逃げ切り団塊世代vs借金を擦り付けられた若者世代」
なんて対立軸が出てきたけど、この対立は、あくまで政治的に対立していく者だと思っていました。
これを解決するのは、いわゆる少人数による大人数への暴力行為なのですが、
戦後重犯罪最少記録を更新し続ける「おとなしい若者」には絶対不可能だと思っていました。
だが、相模原事件で新たな可能性が提示された。社会正義と自己犠牲である。
これって本当に恐ろしいですよ。
仕事感覚で殺人を行うキチガイが生まれるってことなんですから。
そして、それはブラック企業で慣らされた若者世代にとって、とても容易に現状を変革できる手段なんです。
超えちゃいけないラインをガッツリ超えてます。
となると、本当にやるかやられるか、なんですよ。
今後、増えていくんじゃないんですか?
まぁ、なんというか、お先真っ暗ですね。ご愁傷様でした。おわり。
江戸時代の日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府と諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。
などといった問題に対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度は
というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で
といった状態で、日本は近代的金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本は国立銀行への転換が進んでいった。
しかし殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題に対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。
結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式の中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。
このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦→関東大震災 に突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後の景気後退に震災によって銀行には不良債権が蓄積された。
上記のように各地に雑多に存在する金融資本は江戸時代のそれを引きずっていたため近代的銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。
その状態でさらに 1929 年 10 月 24 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。
かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場は大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義は継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。
こうした集権的かつ計画的な経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉は吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想と国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後の日本の内政を主導した。
全然関係ない話だが、社会主義、国家主義、反自由主義という思想セットは革新官僚のリーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。
戦後岸が政界に進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義は廃止され、戦後の資金流通の円滑化のために戦後地銀がいくらか設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。
このような情勢のなかで、戦後日本の金融当局==大蔵省は銀行に対して
を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。
これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合と兵庫銀行が倒産するに至った。
また長らくの護送船団によって日本の金融システムの陳腐化は著しく国際社会において東京が金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。
これらの問題に対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由なサービスや投資を行えるようになった。
ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣はバブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。
そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化、金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行、山一證券が破綻、翌 98 年には橋本内閣は総辞職、現在まで続く長い長い不景気が始まった。
しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行の経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行は合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。
結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的な理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己の立場の防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか。
そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer や技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。
僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほの現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。
今年流行りのタイトルを使ったけど、一番悪いのは自分だということは自覚している。
とはいえそれでも、言わせて欲しいことがある。
※これから書くことの幾つかの点は身バレを防ぐために、いくつかフェイクを入れてます
俺が酒を飲み過ぎた。
11日間留置場で過ごし、略式裁判により10万円の罰金を命じられ即日納付。釈放された。
ちなみに事件についての記憶はまったく覚えていないのだが、容疑については認めている。
相手の怪我は全治3日。
弁護士を通じて、謝罪と示談の交渉をおこなったが、成立しなかった。
留置場にいる警察も、検事もそんな質問にはいちいち答えてくれない。
同室の人に聞くしかない。
俺が勾留されたのは11日間だが、だいたいの人は23日勾留されるらしい。(勾留できる上限が23日。再逮捕などでもっと伸びることも。警察だか検察だか知らないが、とりあえず長めに勾留しとこうぜというスタンス)
捜査や取り調べをするのに、どうしてもそんだけの期間勾留しなければいけないのであれば、まあ理解できる。
が実際はそうではない。
俺の場合、その間に行われた刑事からの取り調べは1回で、1.5時間くらい。
もちろんそれ以外にも被害者に話を聞いたり、防犯カメラの画像を確認したりあったんだろうけど、そんなに日数いらないでしょ。
いろいろ手続きがあったり、忙しいのは分かるけどもっと迅速にやれないものか。
とりあえず法律が許す範囲で勾留しておこうぜ的なノリなんじゃないか。
その結果、被疑者が仕事や、交友関係を失ったりするリスクに対してはまったく考慮されていない。
この段階ではまだ被疑者であって、犯罪者ではない。裁判所からくだされる刑以外の罰(仕事や友人を失う経済的・社会的な罰、11日間人権を制限される罰)は最小になるような仕組みを目指すべきではないか。
必要以上に追い込むのは再犯防止の観点からもまずいと思うんだよね。
http://blogs.yahoo.co.jp/konan119269/30893012.html
何もなしの期間は、一日中本を読むか同室の人と雑談をするくらいしかやることはない。
その場合は護送車で地検に向かうことになるのだが、実際に検事や裁判官と話すのはたった30分程度。
そのために朝の8時から18時ごろまで手錠をかけられ拘束される。(食事の時間とトイレ大をする時だけ片手錠)
座らされるのは木製直角の長椅子。不必要に立ったりすることはもちろん、他の人と話すことは固く禁じられている。
まさに拷問。
それに比べると刑事の取り調べは拘束時間も短いし、お茶くれたりするので楽。
手紙の他に外部に連絡する手段がない。手紙も相手の住所を覚えていないとだめ。
それと、3日目に地裁に行ったタイミングで、「xxxさんは勾留されています」という電話を一箇所にだけしてくれるんだが、この時も相手の電話番号を記憶していないとダメ。
携帯電話に記録してるだけではダメ。(携帯電話は取り上げられるので参照できない)
俺も覚えていなかったので、誰にも連絡できなかった。。
例外として、逮捕された直後から弁護士を呼ぶことができるので、弁護士経由で連絡してもらうことは可能。(弁護士に携帯電話を宅下げし、電話してもらう)
俺の親と友人は、急に連絡ができなくなった俺のことをものすごく心配してくれたらしい。
連絡がとれなくなって3日目になり、失踪届を警察に出しに行った所、別の署に捕まっているということが判明したのこと。
その時の心情は複雑だったろうけど、正直生きていることがわかってほっとしたと言っていた。
大をしたい場合は、その都度鉄格子の向こうに向かって大声で「すいませーん、5室、カンチリくださーい」と叫ばないといけない。
西部劇のバーの扉よりちょっとばかり隙間のない扉があるだけである。
当然、防音性、防臭性は低い。
音と匂いが部屋に広がらないように、水を流しながらクソをする必要がある。
部屋にいる他の人に気を使いながらクソをするのは、下痢気味であると同時に、恥ずかしがり屋の俺にはかなりつらい体験だった。
ちなみに地検は完全に西部劇の扉なので、留置場よりもさらに劣悪。
そんなわけで、留置場にいる間は常にクソを我慢しているような状態だった
刑事や検察の取り調べなんかには通訳がついたりするようなんだけど、逆に言うとそれ以外の点では一切考慮されていない
今までにも書いたとおり、警察や検察から行われる説明は日本語でも最小限だ。(最小限以下ともいえる)
留置場での生活に関してもそうだし。検察に送られる時なんかもなんの説明もない。
いきなり呼ばれて、手錠をかけられて、縄で繋がれて、バスに詰め込まれる彼らの不安ってどのくらいだろう。
地検にいる時、外国人が警察に英語で質問している場面に遭遇したことがある。
それに対して警察は「ここは日本なんだから日本語をしゃべれと」どなっているだけだった。
俺はある程度彼が言っていることがわかったので、通訳をしてあげようと声をかけたところ、「うるさい、黙ってろ!」と一喝された。(地検の中ではしゃべることが許されていない)
あと留置場からは手紙を書くことができるんだけど、外国語でのやりとり一切ダメ。
他にも
などなどいろいろあるけど、キリがない。
そしてそれは望み過ぎな気もするのでこの辺にしておきます。
今となっては昔のことなのだが、20年ほど前俺は池袋西口の地下にある大きなカジノバー(以下Rとする)で働いていた。当時はFromAやanなどのアルバイト情報誌に裏カジノのディーラー募集がごく普通に載っていた。池袋のハコは俺にとっては3軒目で、この店が摘発された後、新宿歌舞伎町の小さなハコで店ぐるみのイカサマに関わったりもするのだが、その話はまた別の機会にして今回は当時の一般的な非合法カジノの話をしたい。
当時はカジノブームが起きていて、表向きアミューズメントを装っているが実は換金しているカジノが新宿・渋谷・池袋・横浜などの都市にはいくつかあった。一般人が可能な非公営賭博としてはパチンコ・パチスロだけが有名ではあるけど、「ゲーム喫茶」と呼ばれるポーカーゲームはカジノブーム以前から今も続いている。「10円ゲーム」などの看板を出して換金できるポーカーだ。裏カジノの業態はゲーム喫茶に近いと思う。
客はチップを$100=1万円で購入する。大体10万ずつ買う人が多い。好きな台で遊んだあと、チェックすると黒服から換金場所を教えてもらって換金しに行く三店方式の店が多かった。自分が当時遊びに行った渋谷や新宿の店はそうだった。Rでもそうだったと思うけど、黒服は最後までディーラーには換金場所を教えなかった。摘発された時にディーラーは善意の第三者であるという建前を守ってくれてたんだね。まあケーサツにそれは通用しないんだけど。前にいた赤坂の小規模な店では黒服が一緒に店外までいってその辺の人目のないとこで換金してた。換金率は100%だったり90%だったり。大きな店は客が入れば儲かるのでここで渋る必要ないと思うんだけどね。
種目はバカラ・ルーレット・ブラックジャック(以下BJ)の3種。BJのお客さんはカジノ初心者が多かった。トランプでルールを知ってるからかな。バカラと違って客対ディーラーになるので、バカラで疲弊した人がBJで息抜きをしたりもする。Rではルーレットの盤面は超ゆっくり回すので、ルーレット大好きな常連さんも結構いた。盤面をグルングルン回すと完全な運ゲームになってしまうが、ルーレットにはボールの落ち始める斜面に4つのピンがあり、どこに当たって落ちるのかを予想しながらやると面白い。盤面は店のオープン前に水平器を使って調整しておくんだけどどうしても日によって傾きが出てしまい、当たりやすいピンが発生する。ディーラーはベルを大音量で鳴らしたりこっそり空気吹きかけたりして客の裏をかこうとする。こうなってくるとただの運ではなくなって来て俄然面白くなる。バカラは要は丁半博打で昔から日本人には大人気。でかい盤面が立つのもバカラ。受けてくれる相手さえいればどんどんベットできるので、俺がさばいた中では最高で1ゲームで200万かけた人もいる。元ヤクザの親分でその日は大負けでヤケになって有り金全部で450万くらい入れようとしたんだけど、受ける相手がいなくてバランス見てカットして200万、顔真っ赤にして怒鳴り散らしてたのにその勝負には勝って微妙な顔をしてた。
普通カジノはタバコ・アルコール・簡単な食事は無料が多かった。これはゲーム喫茶もそう。ただRはアミューズメント気取って大々的にやってたせいか、この辺は厳しくって$10チップ一枚もらってた気がする。もちろん太い客にはタダで寿司とったりしてたけどね。
大きなハコにはだいたいバニーガールがいた。ウェイトレスじゃなくてバニーガール。いわゆる黒いウサギの格好じゃなくて、3ヶ月おきくらいで衣装が変わってた。Rはバニーのレベルが高くて、CMにでてたりグラビアに出てたりするような子が何人かいた。読モなんてこのバニーの中では平均以下レベル。あとお客さん、というかお客さんが連れてくる女の子で元アイドルの子がいて、当時まだ芸能活動してて写真集とか出してたんだけど初見では本当に見とれるくらいかわいかった。芸能界は可愛いだけの子ならいくらでもいるんだろうけど、こんなかわいい子でも大して売れないんだなあって思った。
ディーラーをやってるとイカサマを疑われることがよくあるんだけど、大きなハコで店ぐるみでイカサマをすることはない。どのゲームも確率でいけば胴元が儲かるようにできているので、とにかく客がいっぱい入って場が立っていれば店がマイナスになることはないからだ。危険を犯してまでイカサマをする必要が無い。小さな店とか、大きな店でもディーラー個人がイカサマすることはあって、Rではとあるディーラーが客にチップ横流ししてヤクザに追われる羽目になった。SさんとN村くん、元気にしてるかなあ。
この店が摘発される数週間前、黒服に呼ばれてディーラーの大半がとある居酒屋に集まった。なんでも某月某日に警察の手が入るらしい。黒服には派閥があって別の派閥の人はこのことを知らないらしい。警察と仲がいい人に連絡とって確認したけどそんな情報はないと言われたが、まああっても俺に言うわけ無いだろうし、この事で逆に警察に「情報が漏れてるから予定日を変更する」と思われたかもしれないな。
Xデーはみんな無断欠勤すると言ってた。俺は大事をとってその週ずっと休みにしてた。Xデーの前日が給料日で、俺は休みだけど給料だけ受け取りに店に行った、というか店の上のゲーセンで格ゲーしてたんだ。そしたら黒人の黒服がたまたま俺をみかけて「イマミセイッチャダメー、ゼッタイダメネーイ」え?彼はそのまま逃げていった。
うーん、まあ最悪客のフリすればいっか、と思いエレベータに乗った。店の前で降りると警察に「今ダメだ、帰れ帰れ」と追い返された。しょうがないので店の外で待ってみた。護送車とパトも来てる。チーフディーラーのKさん(大阪人・みんなの人気者)が出てきた。踏み込まれた瞬間に裏口から逃げてきたそうだ。内偵でチーフだということがバレていたらしく警察は「KどこだKはー!」って連呼してたらしい。この人は大阪でヤクザに追われて東京出てきて「もう大阪には帰れない」って行ってたんだけど、別働隊に自宅前見てもらったら警察が張ってるし部屋にあるハッパも見つかるだろうから大阪戻るかあって言ってた。何年も経ってるし警察よりはマシだろって。
別のディーラーも今日休みで給料取りに来たらしいが、裏口ももう塞がれてるとの事だった。しばらくして客が少しずつ出てきた。中で簡単な質問をされたらしい。ある老人客と一緒に中国人の女ディーラーが出てきた。警察が来た瞬間に私服に着替えて客と腕を組み、愛人面してでてきたのだ。頭の回るやつだ。彼女は中国国籍なので捕まって国外退去とかになると確かに面倒だ。俺のタイムカードにも「チーフ」と書いてあったが、Kと違って制服も皆と一緒だし特に探されもしなかったようだ。
ついでバニーガールとウェイトレスも出てきた。夜中になってディーラーも続々出てきた。みんな名札下げて正面と横の写真をとったらしい。いやー貴重な体験うらやましい()。黒服全員と、たまたまその時大きな盤面で撒いてたディーラーが護送車で連れてかれてしまった。しかもかれはまだ入店1ヶ月くらいなのに。その卓はKか俺かその彼くらいしかまかないので、タイミング次第では俺だったかもしれない。ちなみに可哀想なことに21日+α拘束されていた。
Kは友人宅に一泊して翌日大阪に帰るってことでみんな1時頃解散した。俺の部屋は店から徒歩圏内なんだが、夜中3時ごろにチャイムがなった。警察なら俺も捕まるのか?俺は普段部屋に鍵をかけない、ドアノブ回されたら終わりだ。物音を立てないように静かに覗き窓を見たが誰もいない。エレベータはまだ俺の階で止まってる。エレベータで来て階段で帰ったのだろうか?それとも俺が出てくるのは張ってる?家に帰れなかったディーラーなら入れてあげたいがケータイ番号知ってるはずだ。ただ当時はまだケータイは普及してなくて、俺が持ってたのもPHS、大半はポケベルだったから俺の部屋に来たことがあって番号知らないやつもいたかもしれない。
その後音沙汰はなく俺は無事で済んでよかった。給料は後日路上で支払われた。拘束した彼は拘束料上乗せされるべきだと思うんだけど、金がなかったのか逆に少なかったらしい。ひどい。
赤坂の店でのヤリチン韓国人の純情な話とか、歌舞伎町の小さなハコでのイカサマの話とか、10年後にイカサマっぽい店に遊びに行った話とかいろいろ書きたいことがあるんだけど、今日はここまで
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増田の匿名性があるから面白いこともあるとあるけど、続き読むのに不便かなと思ってカクヨミニストになりました。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881140549#table-of-contents
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給料を払ったのはこのメンバー集めて次にカジノを開く予定があったからかな。あとコメントのリンク先に手入れ三回目で閉店って書いてあるけど一回で閉店してるしそのデイーラーをつかって数カ月後に池袋で中型のハコを開いてるので、別のハコと勘違いされてると思います。
あと沼ってのはカイジ?すみません未読です。福本伸行さんは大好きで、特に西原理恵子に「カッコ良かったんだけどあんな頭が絶壁のキャラ書く人が売れるなんて誰も思わなかったからモテなかった」って言われてるところが好きです。
学生時代、サークルの一つ下の後輩男子で、おそらくはてな界隈的に典型的な非モテ男子が居た。中高一貫男子校で背が低くてひょろくて、本当に非モテかは分からないが自分はモテないと嘆いていた。
サークルの代表をやっていた私の同期も、彼と同じように中高一貫男子校で背も彼と同じぐらい低かった。私が見る限り、男ぶりも同じぐらい冴えない感じだったと思う。人のことは言えないけども、ごくありきたりの一山幾ら程度の容姿。
変な顔でも気持ち悪い顔でもないごく普通の冴えない男子大学生だった。
ただ当然だけど、二人は性格は違う。同期は義理堅くかなり寛容な性格、悪口や噂話は好きな邪悪さはあったがあまり酷いことは言わない男だったが、後輩はそねみが強く悪口も粘着質で自分を卑下する。飲むたび人を嫉み自分を卑下する悪酔いをしていた。
酔わなきゃそれなりに明るいし面白いやつだったし後輩としてかわいがってたんだけど、単に飲み癖の悪いやつだという認識で飲み会の席はなるべく遠くになるようにしていた。
ある時、飲み会で、私の隣に割り込んで来て「同期さんと僕とのあつかいに差がありすぎる」と絡み出した。
でろんでろんに酔っぱらって曰く、同期さんと僕はスペックは同じむしろ僕の方が良いぐらいなのに、私さんは同期さんとばかり仲良が良い、僕とも同じぐらい仲良くしなきゃ話がおかしい、と。
友人を選ぶ基準に容姿やスペックの良し悪しを考えたこともなかった(もっといえば彼氏にもあまり要求しない)ので、謎理論に茫然としつつ、悪酔いした後輩がのしかかってこようとしたので、取りあえず手に触った居酒屋のメニューでひっぱたいてやった。
お前酔いすぎだ、友情や愛情を一方的に要求するのはストーカーだぞと、取りあえずその場でその話を聞いていた者から袋叩き状態になって、その後別の後輩に家まで護送されていった。私が4回生の時の話。
護送された後、送ってくれた親切な彼の友人に「俺と同程度の低スペックな先輩には気安くやらせてくれそうな感じでいつも一緒にいるのに、俺には触らせもしない」「アイツ(私)が好きなのかと言えば分からないけど」と涙ながらに語っていたらしい。
私と同期には友人以上の関係はまったくなかったし、飲み会で同期といつも近い席になってたのは、非モテ後輩が隙あらば触ってきたり絡んできたりすることを相談した結果のことだったので、こいつばかじゃねって本気で思った。
そもそも私にはずっと付き合ってる同じサークルの先輩の彼氏がいたし、同期にもその頃人生初の彼女ができて初めての春を謳歌していた時期だったのだ、そんな関係になるわけがない。
非モテな人たちの言い分を聞いていると、この後輩のことを思い出して心底気分が悪くなる。
彼らは相手と自分の距離を測れない。なぜなら、彼らは、相手がどう思っているかに興味がないから。どんな気持ちでいるのかどころか、相手がどういう人であるかすら意識が向いていないように見える。
非モテな自分を拒否しない=告白→セックスできる・結婚したい、に謎な直結をしてしまうのは、今この瞬間から将来に至るまで、相手がどんなことを考えているのかに思い至ることがないから。
自分の中に作り上げた感情ストーリーにしか興味がないからだ。人が誰かを拒否しない理由にはいくつもあって、例えば、酒癖は悪いけど悪いやつじゃないから、ということだってあるわけじゃないですか。
悪いやつじゃないから嫌いはしないけど、触られるのはイヤだから距離は180cm以下には詰めたくない、ってだけのことだ。なのに奴らときたら自分の頭の中のストーリーとは違うからか、まるで裏切られたかのような逆ギレをする。
もっと言えば、変に気を持たせるようなことして悪かった、誤解されるのも本意じゃないから、本当に好きな人以外にはそもそも近づかない方がいいのかな、って防御すると
今度はキミたち、これだから女どもは俺ら低スペックは見向きもしねぇ!イケメンがお好きなくせにって、また勝手な脳内ストーリーで逆ギレしだすじゃないすか。
わたしら、好きな人を選ぶ権利もないですか?普通に気の合う人と楽しく過ごしちゃいけませんか?飲み会で誰の隣に座るか決める権利もないですか?
かわいそうな非モテくんからだったら、突然降ってわいたように告られても無条件で受け入れろと?近づかれるのは怖いなと思っても慈母のようなほほえみと共に受け入れろとおっしゃるか。
勝手に脳内にかわいそうな俺ストーリー作って勝手に劣情をかきたてたり勝手に逆ギレしたりしてっから、いつまでたっても非モテなんだ。
君らがキモイとしたら、勝手な俺ストーリーを無理に押し通そうとしてるからだ。ストーカーと同じメンタリティ。イケメンも、そして女にも同じようなキモイのがいるから見た目の問題じゃないぞ。
母は呆れたようにテレビに向かってそう言った。
テレビには、21歳の大学生の男が護送車で運ばれていく姿が映し出されていた。
小学生から大学生の今まで、自分は何をやっても駄目だと感じていたこと。
そのことを考えると夜も眠れず苦しかったこと。
私は母のように笑うことが出来なかった。
そうだね、くだらないね。
そんなこと言えるはずなかった。
なぜなら私もその大学生と
「私、この人の気持わかるなあ…」
私の口をポツリとついて出た言葉に母がギョッとしたのが視界の片隅に映った。
探るように、信じられないものを見るように私をジッと見ていたように思う。
つい最近まで私は、いい子でいたいと強く願っていた。
そうして、追いつけない『いい子』という理想を追う果てで、こころと身体を壊していた。
私は母に顔を向けることが出来なかった。
自分がおかしいと言われるのが恐ろしくて、ただ画面を睨み続けた。
「きっと、この人は何度も何度も周りから『お前は駄目だ』ってレッテルを貼られ続けて、
自分でも『俺は駄目だ』ってずっと言い続けてきたんだと思う」
言霊というのは本当にあると思う。
「今のままじゃ駄目だね」
「もっと頑張れ」
「どうして、こんなことも出来ないの?」
こういった言葉が、今まで手を替え品を替え、私の弱い部分をズブズブと遠慮無く突き刺してきた。
それが口に出されず態度で示されているか、そこに悪意があったかは別としてもだ。
家族が、学校の先生が、友人が……、大好きな人達が、私を確実に追い詰めていた。
Q:ここで、問題です。
この人たちはきっと自分のために、こんなことを言ってくれています。
例え私がどんなに傷ついていたとしてもです。
そんな人たちを嫌いたくないと思ったら、私は一体誰を憎めばいいんでしょうか?
A:正解は、自分です。
みんなの期待に応えられない私が全部悪いのです。
そうやって大嫌いになってしまった自分が、毎日毎日、昼夜問わずに自分の耳元で囁いていた。
「私は生きる価値なんてあるの?」
「何をやっても駄目な私が?」
その地獄のような苦しみの中で、私は自分が消えてしまいたいと確かに願っていた。
気づけば自分で手のつけようもないほどに大きくなっていった。
泣きながら、違う自分になりたいと、駄目な自分を心のなかで数えきれないほど殺しながら思った。
「『消えてしまいたい』と強く思った気持ちは、この人と私のものはとても似ていると思う。
ただその暴力性が自分という内へと向くか、他人という外に向くかの差があるだけで。
私だって、もしかしたらこの人と同じことをしてしまったかもしれない。
きっと他人に刃が向かないだけで、自分を殺した人はもっとたくさんいると思うよ」
母は何も言わなかった。
ここで、はっきりと言っておきたいのは、殺人はもちろん許されるものではないこと。
罪もない人を殺めたのだから、この男はそれ相応の裁きを受けなくてはいけないことだ。
ただ、それでも思ってしまうのだ。
この人の側にたった一言、「そのままでいいんだよ」と言ってくれる人が一人でもいたら。
結末は違っていたのかもしれないと。
「そこがダメでも、他に良いところいっぱいあるじゃない」
この人は、毎日『駄目だ』という呪詛を吐き続けた自分が、実は一番、誰よりも自分のことを深く傷つけていた
という事実に気づけたんじゃないだろうか。
誰かを殺すための刃なんて棄てて、どうしたって離れることなんて出来ない自分を抱きしめて、
「もういいよ」と言って、自分を傷付けることも、誰かを傷付けることも止めてあげられたのかもしれない。
なぜなら私がそうだったから。
「そのままでいいんだ」という言葉をもらえた時、自分を傷付けようと振りかざされた刃の勢いが確かにゆるんだのだ。
そうして、私の生きづらさが少しだけだけれど楽になったのだ。
自分を責め続けることほどシンドいことはない。
だから、どうか、『くだらない』の一言で片付けるのだけは止めてほしいと思う。
くだらないかどうかは、あなたじゃなくて、今苦しくてたまらない本人だけに決定権がある。
この根本的な生きづらさと、絶望的な挫折感がどこからくるのかをきちんと考えなければ、
誰かがまた同じような過ちを繰り返して、誰かがまた理不尽な不幸に合うことになる。
私は、そんな気がしてならないのだ。
小学校の時は、外で男子とドッヂボールとか、鬼ごっことか全然しなかった。僕の運動神経が悪く、疲れるから、すぐに捕まってしまうから。少しは参加したと思うが、僕がタッチされ、鬼になった瞬間に、他の全員がゲームから外れることを宣告され、ぶちギレた記憶がある。
僕は三つ子で、姉と弟がいる。ふたりは家に帰ったら毎日遊んでいたが、僕はそんな友達も多くなかったし小4と小6の一時を除いては殆ど学校から帰ったあとにランドセル放り投げて、すぐに遊びに行くなんてことはなかった。
ポケモンとか、遊戯王カードとか、その時は流行ってたらしいけど全然興味が持てなかった。
携帯ゲーム機や据え付けゲーム機は1台しか買ってもらえず、殆ど弟が使っていたのが原因だろう。
弟は何にしても僕より優れていたし、今でもそうである。運動も、勉強も、プラレールの配線も、ゲームの腕も何もかも。
姉や弟にちょっかいを出され、激昂し手を出した僕が親に怒られるということが度々あった。祖母は「負けるが勝ち」と、僕が悪いことを前提にたしなめ、さらに親が姉や弟を叱った記憶はなく、腹が立った。
また、同じ習い事もやらされた。姉や弟は習い事に行く前に行きたくないと騒ぎ、やっと護送された先では借りてきた猫のように大人しくしているのが腹が立った。
「おそらく」小4のときに仲のよかったFくんとは、Fくんの家で競馬のテレビゲームをしたり、メンコをしたり、親に持たされたお菓子を一緒に食べたのを覚えているが、記憶が曖昧になっている。
小6のときに遊んだNくんは、鉄道の話をよくした。大学入学前の教習所の同乗研修で同じ車だったが、もしかして忘れているかもしれないと声をかけられなかった。中学生になる前に転校してしまい、わざわざ親子で家まで来て、菓子折りをいただいたのを覚えている。
そのときのアニメも、ポケモンとか遊戯王カードとかやってたらしいけど、全然見てなかった
小1くらいまでは鉄道が好きだったが、鉄道趣味なんて恥ずかしいよね、という結論に小2~3ころに至った。やはりこの頃から僕は他人の目を気にしていたらしい。
小6くらいから前述の友達の影響もあり再開した。親に鉄道模型を買ってもらったりもしたが、やはり配線をするのは弟だった。
休み時間も外で遊ばない分、女子と多くの時間を過ごしていたと思う。特に3年生の時は、Oさんと一緒に担任の先生の追っかけをしたりした。
夏休みの自由研究を一緒にした記憶がある。その歳では男女が付き合うとか、そういう概念はなく、たぶん浮いていたと思うが男女から奇異の目で見られることはなかった。
翌年はクラスも違くなり、その先生も転校してしまったため、何となく気まずくなってしまった。
運動をしない分、あやとりとか、一輪車とか、そういう女子が好むこともできた。あと、変に男女平等の意識があって、一般的には小学校2~5年くらいは男女別々の行動をとるという意識が強いが、僕は努めて分け隔てなく接するようにしていた。
そもそも、組織が複雑すぎるだろ。
社長がいて、支社長がいて、事業本部長がいて、部長がいて、課長がいて、係長がいて、主任がいて、下請けのリーダーがいて、下請けの担当者がいて、アルバイトがいる。
何層構造で、どんだけの会議が必要になるんだよ。おまけに、少ないチャンスをみんなで護送船団しようとするから、要らない機能てんこもり。
そんな・・・なんだろう。いわゆる、全力で走りたい人間に重りを付けて、重たいソリを引かせて、そのソリに関係ない人がたくさん載っている。という構造を変えればいいだけだよ。
1つは 役職を恒久的なものにするのが間違ってる。プロジェクト単位で、そのプロジェクトに必要な権限を適切に与えて。プロジェクトが終わったら平に戻ればいいだろ。
部長になったら、時代が変わっても、目的が変わっても、ずっと部長というシステムがおかしい。
それに、評価もされないからな。才能がある人は、楽できていいよね。みたいな意見が少し前にあったけど・・・同じ仕事の辛さは才能があろうがなかろうが同じだ。ということが浸透しないとな。
楽だからやってるわけじゃない。辛いけどやってるんだ。ということがわからず、才能のある人はいいよねっていわれれば、 じゃもう辞める。ッて言われるのは当たり前だろうに。
エスタブリッシュメント(Establishment)層に苦しみは伝わらないと思う。国会議員のもはや半数は二世・三世だし、そんな層が下層民が寿司詰めの労働者護送列車に乗らないわけだし。
「大学を卒業して20年たつとわかる、終身雇用なんて、幻想だった。 - 竹内研究室の日記」
は、実体験とともに思い出を振り返る上品なオヤジの説教なので、
居酒屋で絡まれたら、大変な時代でしたねー今もどんどん悪くなってますねーとか言っとけば良いわけだが、
ブコメが興味深い。
http://b.hatena.ne.jp/entry?eid=150492630
このテの話題が出る際には、鉄鋼、造船、繊維などの、大量のブルーカラーを必要としたが、ある時期を境に必要としなくなった産業を指すことが多かったので、隔世の感がある。
南満州鉄道が実質的には"国家運営"プロジェクトであったことは結構有名だろうが、挙げられているいずれの業種も強い"国策"企業であって、官僚として中枢に入るか、実地に出て国を変えるかという、エリートの選択肢でしかない話題ではある。
(その意味で、件のブログの東大工学部出の連中の話なんか知らねえよ、という揶揄なのかもしれないが、夢に賭けた若者を笑うのは、自虐にしても寂しいことではある)
まあ、本題はこっちである。
時代は既にもう一歩先の「普通の人生(結婚してマイホーム持って子供育てて…)なんて、幻想だった」のフェーズに行ってるんですけどね。この国もうダメじゃん
なのに日本の社会は未だに終身雇用前提でできてるからなぁ。これでは住宅ローンも組めないし、子どもも作れない。理系の研究者の方でこれだから、我々文系の人間はどうやって食べていけばいいのか。
これは、ある程度は誇っていいことなのかもしれない。
「一億総中流」は遠い過去の夢となっても、少なくともはてブでコメントを残す人間の脳裏には、鮮烈な印象として焼き付いているわけだ。
列島改造をすすめ、基盤を整備し護送船団で企業を育て、労働組合を抑えつつ国民の意識を総中流に向ける。
出稼ぎ労働が上京へと姿を変え、地方は公共事業を、都市は民間企業を躍進させた。
日本住宅公団が「団地」を建て、借家ではなく「家」をという意識を持たせていった。
その意味で、「普通の人生」や「日本の社会」が、未だに1960年代に築きあげた幻想を基にしているというのは、
とても、とても、とても、感慨深い。
一応補足しておけば、日本が終身雇用前提の社会になったことなど一度もないし、
普通の人生が、結婚・マイホーム・子供のセットになったことも、やはり一度もない。
平安時代後期に「禄をもらって荘園を維持し、遊興に耽るとか既に幻想だった。この国オワタ」と言うのと同じだ。
もちろん王朝国家体制は、その制度設計を平安貴族を中心に置くだろう。
でもそれは「普通」じゃ無い。
今我々がここにいて、増田を読み、はてブのコメントをしているのは、
貴族が紡ぎ、武士が駆け、商人が席巻して、軍人が靴を鳴らしたその系譜じゃない。
そのほとんど大多数は、主流ではない人達の脈々と続く人生の連続が途切れなかったからだ。
子を産み育てることが楽であった時代はない。
しかし、たった一度でも途切れれば、今ここに我々は居ないのだ。
一億総中流は、「自分たちがどの階層にいるか?」というアンケートへの回答からなった。
時代が下るに連れ、平均すれば間違い無く豊かに生きやすくなっている。
一億総中流という意識が、上を見ればキリがない日本を生きる中で、前向きに豊かな気持ちを持たせてくれた事は良いことだと思う。
だが、いままさに最頻値にいる人達が「昔、幻想を信じさせることで上向きにしていた時代」を「普通の事」だと思い込むことは、果たして良いことなのかどうか、僕には判らない。
そういう事件の再発防止として、行政は「規制の強化」を掲げている。
(例=ツアーバスの運転手1人運行距離の短縮化)
行政は「規制を強化すれば、自動的に事故も防止できる」と安易に考えていないか?
今回の事故の教訓は、
「規制を作るだけでは何の意味もなく、規制が遵守される仕組み作りの方がはるかに重要」
ということじゃないのか?
具体的に言えば、規制違犯の場合の罰則強化であり、規制違犯の通報制度であり、
「そもそも最低賃金が守られてない現状を放置したままで、法令だけ書き換えても、
実際の手取額はなんら変わらない」んじゃないか?
行政側は「性善説、基本的に規制は遵守されるもの」として制度設計しているが、もはや
「性悪説、基本的に規制は違犯されるもの」という前提で、警察的強制権で制度設計するしかないのでは?
「行政が、各業界団体に、再発防止の取り組み、法令順守の要請を行なった」というニュース。
これなんか、行政が「一応は事故対策の取り組みをしましたよ」というアリバイ工作をした、という
以外の何者でもない。
陸援隊のような「確信犯的違反者」はそもそも業界団体なんかには加入しないだろうし、
仮に入っていたとしても、業界団体から流れてくる要請には「馬耳東風」だろう。
昔の「霞ヶ関と業界団体による、美しきカルテル護送船団」であれば、
世間は業界団体のカルテル的体質を、そして業界団体と霞ヶ関の癒着を、許さなくなった。
なのでツアーバス業界などでは「美しきカルテル護送船団」などは、とうの昔に崩れ去っているのだが、
行政側はかつてのやり方でしか対策を打てない。(その対策は何ら意味がない)
穿った見方をすれば、霞ヶ関が「美しきカルテル護送船団」を本能的に維持しようと思っているのは、
「規制手法として、それが手っ取り早い、ラクチンだから」じゃないのか?
護送船団、年功序列、コネ就職、既得権万歳とお約束通りの展開が永遠に続けばいいですね。子孫繁栄、世界平和、人類の楽園ができあがります。
しかし、このお約束通りの展開が永遠に続くことは、資本主義経済のルールの下では、なかなか難しいことです。
ずっと続いているなと思える人や会社は、そとから見た目はそのままにその中で変革を繰り返して新しくなり続けているのだと思います。
そうじゃない人や組織は、世の中がこのまま続けばいいなと思っていると思います。
今のままの状態から脱落する人が増えれば増えるほど、世の中が変わってほしいと思う人の数が増えていきそうな気がします。
3.11の地震と原子力災害で世の中がこのままでいいと思う人から脱落する人がある程度出た。
世の中が3.11の前のままでいいと思う人たちがたくさんいて、その勢力は、あらゆる手を尽くして元の状態に戻そうとしている。
世の中が変わってほしいと思う人たちは、自然淘汰が始まるのかと思ったら、そうでもないね的な気分を味わっている。
どちらでもない人たちは、どちらかというと世の中がこのままでいいと思う人側だ。
なんてことないことかもしれないけど、ニュースに出てくる事象を3.11の前のままでいいと思う人たちというフィルターを通して見ると不自然さが出てきて興味深いです。
日経BPとかtwitterに、ある程度名の知れた物書き達の意見が出てるけど、
「普段の批評姿勢はどこへいったのか!?」というぐらいどれもこれもぬるい。
別の言い方をすれば物わかりが良すぎる。
フジテレビ以外ののキー局や新聞が触れないのは利益を共にする護送船団だからわかるが、
第4のメディアたるインターネットのメディア人間も同じ穴の狢であることが判明したと言っていい。
彼らが語る文脈はだいたいこれ
あれは陰謀なんかじゃない
批難している奴らは商売がわかってない
で終わり。「商売だ」という指摘はまぁそうなんだろう。
でもさ、盛り上がってもないモノを大人気と称し公共の電波でブームを捏造する
あの商法自体の是非は問わないのか?
あの商法を止めるべきという意見は驚くほど出てこない。
「昔からあるんだし、別にいいじゃん」とかコラムニストやライター腐りすぎだろ。
考えてみればネットで飯を喰うライターもテレビの韓流商法をどうこう言える立場にない。
日頃からメーカーに旅費持ちで招待されて新商品を言われるがまま紹介し
お金やサンプルと称するお土産もらって提灯レビューをガンガン書く。
韓流ビジネスの否定=自分のビジネスモデルの否定だ。
自己否定文なんて書かないわな。
メーカーに物申す時は気持ち悪いくらいに気をつけて婉曲表現するくせに
バンピー相手には「ネトウヨ」的なレッテル貼って終わり。
嫌韓な人間も、自分たちのビジネスモデルを批判する人間も全部ひっくるめて「ネトウヨ」。
少し前に利権の暗部を報道しなかったがために、大きな犠牲を払ったばかりなのにこの体たらく。
日本のメディアはWW2、福島原発事故、2つの大敗を経験しても何にも懲りちゃいない。
自身の贅沢のためなら平気で嘘をつくし、暗部を見て見ぬフリをする。
記者クラスタで上杉 隆が批難されてるけどさ、どっちが酷いつったら微妙なところだ。
これから先も新聞、テレビ、そしてネットのメディア人間もバンピーを煽り続けて美味い飯を喰うのだろう。
彼ら曰く、「商売」だからね。