はてなキーワード: 社会秩序とは
https://anond.hatelabo.jp/20170715180955
↑連邦議会・党試案 2
「連邦」は大洋に囲まれた大陸国家である。その大陸では唯一の政府機関。
≪下院の説明≫
≪上院と地方自治の説明≫
連邦州ごとに異なる。
概ね…。
大きな州:3議席、中小の州:2議席、連邦市州:2議席、準州:1議席が与えられる。
選挙制度:自治体(州など)の議会(州議会)にて、連邦評議会の議員を選出する。
②人口が少ないなどの理由で、連邦州に昇格できないが一定の自治を有する「準州」(連邦政府の一定の監督を受ける)。
③連邦政府と「条約」を結んで、傘下に入った「連邦加盟共和国」。
…の三形態がある。
連邦に拠点を置く旧世界(北西大陸及び南超大陸など)の「亡命政府」や
地域の「少数民族集団の代表組織」がオブザーバー(投票権がない「組織」)として
評議会への参加を認められている。
ちなみに各々第一級自治体の議会構成も「連邦」のミニチュア版に近い。
自治体ごとに多少差はあるものの、全ての第一級自治体に「二院制&諮問機関」の形態が存在する。
→第一級自治体・連邦構成主体(連邦州、連邦州、準州、連邦加盟共和国)
地方警察の設置、社会保障の枠組み作り、租税の徴収や公共交通機関や大規模な都市計画などの複合的な公共事業を行う。
→→第二級自治体・地域中核自治体(市政府、郡政府、自治区政府≪少数民族集団の自治区≫)
中核自治体。州政府の干渉が強い群政府と干渉が弱い市政府、そして自治区政府に分けられる。
多くの場合、市政府は人口の多い区域に成立する。群政府は人口希薄区域に多い。
都市計画や選挙事務、大規模な公共施設の管理運営など基礎的な業務を行う。
自治区政府のみ州政府と調整の上、民族区警察を置くことができる。
→→→第三級自治体・基礎自治体(市の区部、郡部の町や村など)
基礎自治体。身近な行政サービスを行う。窓口業務やゴミ出し、インフラ管理、小さな公共施設の管理など。
他には、ある特定の行政目的のために複数の自治体が共同で設立した「特別行政区」がある。
指定組織:連邦議会及び連邦評議会の議決(3分の2以上の賛成)を経て「指定諮問資格」が与えられた組織。
の三種類がある。
→一例
労働組合、産業・商業団体、金融団体、生産者団体、専門職団体。
上記の組織は「指定諮問組織」として議会から諮問を受ける場合が多い
ただ、必要に応じて「指定組織以外の組織」も諮問されるケースもある。
(それ以外の組織も出すことは出来るが…。)に出すことが出来る。
連邦議会内のうち「3分の2以上の賛成」
がなければ、指定を取り消されることはない。
諮問は重視されるが、あくまで「結論は連邦議会の採決によって決定」される。
特別指定諮問組織は連邦議会内では、連邦議会の「諮問・補助」に徹しなくてはならない。
この仕組みは、コーポラティズムから(或いは職能代表制)影響を受けている。
≪議会制度のまとめ≫
下院優先主義。
上院と下院で意見が分かれた場合は、下院で再度議論がなされた後に決がとられる。
下院のみ解散が可能。
解散できるのは議会自らか、政府のみ。解散後速やかに再選挙が行われる。
≪主要政党≫
社会民主党、立憲民主党、緑風共生会議:387(217+107+63)
→民主主義・社会民主主義・自由主義・立憲主義・福祉国家・緑の政治
・進歩主義・ハト派・中くらいの政府・社会包括主義・連帯主義・共生主義
→→労働組合員、各種業界団体(特に社会福祉、教育、出版、芸能系)
(国政の最大与党。
左派リベラル各党が保守党に対抗すべく、3党が協定を結んだ政党連合の形をとる。
3党の中ではそれぞれ党内自治が行われているが、重要法案の際に同盟の中で党議拘束をかけられる。
「同盟」は福祉国家を目指した上で、経済の自由化を目指すことを表明している。
支持母体は自由主義・中道主義系の労働組合や宗教団体や商工業団体。
一部、穏健保守層や役人の支持もある。
支持母体は市民運動、左派系知識人、芸能団体、教育者団体、生産者団体など。
環境主義や農民主義のほか、社会的弱者の保護、多文化共生社会、脱物質主義を掲げている。)
保守共和党:301
(→保守主義・自由主義・共和主義・タカ派・地域分権・小~中くらいの政府
→→宗教保守系、農民団体、各種業界団体(特に建築、発電、製造、輸送、観光など)
(最大規模の野党。
連邦の地方都市や郡部で特に勢力が強く、全国広くに地域支部を持つ。
支持の中心は社会秩序を維持したまま、経済的な自由を促進したい者たち。)
:主要政党 計688議席
≪中堅政党≫
・「自由改革の集い」
自由改新党:42
→中道右派・新自由主義・市場原理主義・自由競争の原理・ベーシックインカム
・中央集権と小さな政府・表現の自由と科学の発展・公共事業の最小化
→→ベンチャー起業家団体、科学者団体、都市部住民、ポピュリスト。
右派の旗を掲げて、保守層に接近している。都市部で支持を固める。
保守党に接近しつつ、自党のテーマを浸透させるのが現状の目標。
リバタリアンの要素もあるが、保守層の理解を得るためその要素をなるべく隠している。)
・「緑の協同体」
大きな政府、協同組合の普及、市場の一部統制、持続可能な全国一律の開発。
連邦協同党は大都市や地方都市、社稷緑風党は郡部に基盤を持つ。
「反新自由主義」の観点から、自由改新党とは互いにけん制し合っている。
民主中道同盟とは関係が深い。事実上の統一戦線を組んでいる。)
・「人民戦線」
:30(23+3+3+2)
→社会主義、共産主義(愛郷同盟は保守・地域主義)・急進主義・労組組合経済論
非正規の組合、衰退した地方層、マイノリティ、アングラや前衛系文化団体。
(「人民戦線」は議会中心主義を掲げているが、しばしば街頭で直接行動も行う。
ただし要所では協力する。
全体的にアクティビストの連合と言う面が強い。
①「人民共産党」は左派貧困層やマイノリティ、反主流派の知識人から熱い支持。
主に都市部からの支持が目立つ。支持母体は急進的な労働組合、退役軍人組合
農民団体、中小企業の商工団体など。都市部に多くの拠点を持っており
支持母体と共同する形で、救貧活動や労働運動などの社会活動も直接行っている。
もともとは「旧社民党」の中で「急進主義」を掲げる者か離党して結成した政治グループ。その後、他の左派の小規模勢力が合流したため政党化した。旧党名は「急進社会党」。「人民戦線」結成を機に党名を変えた。
いくつかの加盟組織の会議体という面もある。
相互扶助や啓発のため、シンポジウムや相談会を良く開いている。
③「愛郷同盟」は、地方政界や一部の右派を取り込むために活動している。
宗教や農民団体との関わりも強く、時には保守系との橋渡しも行う。
④アングラ系のアート集団や知識人、あるいはより個性的なアクティビストの
支持を取りまとめるのが「雑民の党」。彼らは「表現の自由」にも力を入れる。)
中堅政党:計104議席。
≪小規模政党・独立系≫
地域主権合同党:14(12の州で加盟組織が活動中。内、9の州の加盟組織から議員を輩出)
→右派左派混合・主権の地方委譲(徴税権の地域政府への大幅譲渡、地域政府の限定的再軍備)
→→地域主義者、地域系労組、地域系商工組合、地域独立を望む住民。
(地域政党の集まり。反中央集権、地域分権を掲げる。イデオロギーは保革混合である。
「党」よりも加入した連邦議員(或いは地域政党)の緩やかなネットワーク団体に近い。
ただ、党内連合会議は存在しており、最低限度のルールの尊重は義務付けられる。)
独立系議員団「民主中道同盟」海賊党・公正連合:17(13+4)
・表現と情報の自由・民主共助・へき地福祉支援・公正主義・中くらいの政府・社会自由主義・共生主義
独立系業界団体、独立系右派労組、保守系革新層、ポピュリスト。
自由改新党とは互いにけん制し合っている。
緑の共同体は党議拘束がある。こちらには「原則は存在しない」のが特徴。
立場上は「政党」となっているが、事実上の「保守、中道系の無所属系議員の連合」
と言う意味合いが強い。
海賊党を会派に引き込んでおり、左派や若者の支持も集めている。)
・「第三の道」
国家革新党:10
→国家社会主義・国民団結主義・大きな政府と中央集権・反移民政策
→→独立系右派労組、独立系業界団体、神秘主義者、革新アート系、傍流系地方農家
(いわゆるネオナチ。
派手な示威行動のなかで「国民団結主義」と「我らの敵の存在」を呼びかける。
計41議席。
社387+(閣内協力:協32+民17)+(部分協力:人30):466議席
保守301+自改42:344議席
第三の道:10議席
436議席の場合も。
→→準与党:人:計30議席
・地域政党:14議席(地)
各議員の自由度が大きく、党員拘束はされない。)
・野党:343+10議席(保改・国)
:計833議席(過半数:417議席)。
この物語は伝承などに従ったフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
また、伝承は諸説有り、違った見解や物語を持っているものがありますが、これはそれらを否定するものではないことをあらかじめ申し上げておきます。
昔々ある所に、地域に貢献しながら元気に頑張っている2人家族がいました。一人は雅、もう一人は晴と言います。
体力に自信がある雅は、山(※この家族は入会地の権利を持っています。許可無く私有地・共有地に立ち入ることは法により罰せられる場合があります)に芝刈りに、晴は川へ洗濯へ(※この家族は水利権を持っています。安全上問題の無い処置の他、特別な訓練を受けています。もし真似をしたことによる損害が発生しても責任は追いません。また環境に配慮した石けんを使用しており、環境に影響を与えることはありません)出かけました。もちろん、二人の役割は固定されているわけではなく、ジェンダーに捕らわれない公正な考え方、ジェンダーではなく個々人に目を向けた正統な役割分担によって相談し当番制を敷いていて、今日はたまたまこの役割だった事は、言うまでもありません。
すると、川の上流から大きな桃ののようなものがどんぶらこどんぶらこと流れてきました。晴は桃を拾い上げると、警察に届けました。警察は、桃はそのままで保管する事は困難であると判断して、遺失物法に基づき手続きを実施、売却をしてその代金を保管することにしました。
雅と晴は二人で相談して、合議の上でお互いの財産から半分ずつお金を出し合い入札をして、桃を手に入れました。入札額は桃の価値に対して十分な金額でした。
持ち帰った桃をわってみると、なかから元気な子どもが! 二人は大変驚きましたが、子どもが生まれたことは事実であり、桃から生まれたと言う一点だけで差別したりはしません。二人は適切に子どもの世話をすると共に、役場の担当者に連絡、村長が棄児発見調書を作成して戸籍がつくられ、児童相談所に預けられました。この時、従来からの慣例に従い、子どもの命名は発見した保護者が行う事にもなっているため、二人は悩んだ末、ジェンダーニュートラルな名前「桃」と名付けました。(※なお、桃は二人でおいしくいただきました)
その後、これも何かの縁(※特定の宗教を意図したものではありません)と考えた二人は、正式な手続きを経て、桃を特別養子縁組の仕組みをつかって引き取るり、大事に育てました。もちろん、二人は養子として迎えられなかった子ども達が一律に不幸だと考えてこの行動をとったわけではないのは、言うまでも無いでしょう。
時は流れて、大きくなった桃(※事実を述べたに過ぎず、病気あるいは遺伝的特徴から大きくなれない事を揶揄する意図はありません)は、鬼ヶ島へ鬼退治(※法的処置に基づく、強制行動のことをさします)に行くことになりました。
もちろん、鬼たちは、鬼というだけで差別されているわけではなく、特定の島を不法占拠した上で、強盗・誘拐など、日本国法、並びに国際法、国際通念などと比較して、多くの人が反社会的行為だと言うような行為を集団的に実施している上に、暴力的な行為によって不当に取り締まりを逃れているため、対処の必要があると判断されているものです。
法的な召還にも応じず、命令にも従わないため、強制捜査や代執行などが決定されたものの、治安機関による取り締まりや、軍隊の出動などを実施した物のいずれも失敗したため、法的な手続きを踏んだ上で実施されています。一方的に鬼の人権を排除するような点については違憲の可能性も考えられるため、国会では議論に議論が重ねられ、特別立法によって、一連の鬼退治を桃に委託することに決定されました。報道各社の世論調査でも、読売新聞の調査で支持する、どちらかというと支持するを併せて8割以上が賛成、朝日新聞の調査でも7割以上が賛成するなど、世論の支持も得ています。
(なお、この文章は、現在国会で行われている、組織犯罪処罰法(通称、共謀罪)や、改憲論議に対して、何らかの意見、影響を与えることを意図した物ではありません。)
当日の料理当番だった雅が作った(※雅はジェンダー的役割の押しつけによって料理当番を実施しているわけではなく、個人に着目した能力に応じ、二人で決めたルールによって自発的に実施しているものです)きびだんごを腰にぶら下げて鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが現れました。桃は、彼らに、脱酸素剤などをつかい、添加物などを使わずに適切に保存したきびだんご(※動物に有害なものは入っていない特別な物です。一般的なきびだんごを動物に与えると動物の健康に悪影響を与える場合があります。また、野生動物に食べ物を与える事は、条例によって罰せられる場合があります)を、アレルギーなどがないかを確認した上であたえ、動物愛護法などに定められた、また、社会的にも正しい動物福祉の元で彼らの協力を得て、鬼ヶ島へと渡ります。
鬼ヶ島では、鬼たちが【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の最中でしたが、人道的に問題があるとされる奇襲などは行わず、あらかじめ用意された裁判所からの令状を、十分に聞こえる様に読み上げ、鬼たちがそれに従わないことを確認すると、法令に則り代執行を宣言、【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の末に、鬼らを後からやってきた治安機関の職員に次々と引き渡していきました。この時の罪状は公務執行妨害の現行犯逮捕です。鬼たちは今後、弁護士がついて公正な司法のもと、裁かれることになりますが、罪が確定して有罪になる迄は、あくまでも罪人ではない事に配慮し、実名は記しません。
また、この行為について、鬼側に死亡者が発生しているのではないかという指摘がありますが、事実無根であり、ここで行使された武力は正統かつ、やむを得ない範囲で十分に配慮されたものでした。
鬼たちが悪行で集めた金銀財宝などは、特別立法に基づき、国が指定した弁護士、管財人によって管理されます。有罪が確定したあと、確認が行われた後に被害者に分配されることがきまっています。故に、桃らが横領したという指摘にはあたりません。桃はここから報酬を受け取るのではなく、国から各種規定に基づきあらかじめ定められた報酬を受け取りました。これは桃が果たした社会的な役割を鑑みると正統な報酬であると考えられる範囲の金額であり、会計検査院の監査を受けた上で、妥当だと証明を受けているものです。
個人のプライバシーがあるため詳細は省きますが、報酬の用途は、実家のすぐ隣に新たな家を構え、その後は自立した大人として暮らすために使われ、桃はこれが国民の血税であることを十分に認識しながら、感謝の気持ちを忘れることなく、決して不当な事に当てられたことはなかったということだけは記載しておきます。
被害に遭われた方々の事を思うととてもめでたしめでたしなどと言うことはできない凄惨な出来事ですが、それでも、桃が自らの役割を果たしたことで、社会秩序・治安といったものが守られ、公共の福祉が成されました。今回は暴力という手段によってしか解決ができなかったことは大変に不幸であり、桃、または登場する人物もその点に遺憾を表明しており、やむをえずおこなったものです。
これは、桃は特別な訓練と、公正な立法措置によって行われた事であり、通常行うと重大な事故に繋がったり、罪に問われる場合がありますので、真似をしないでください。
https://www.ad-c.or.jp/campaign/self_all/self_all_01.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/04/news117.html
http://www.huffingtonpost.jp/2017/07/05/ac-japan-ad-campaign_n_17389562.html
https://srad.jp/story/17/07/06/047224/
http://anond.hatelabo.jp/20170608201513
これの元増田だけど、私は「痴漢」の定義が広すぎるのが問題だと思っている。
誰でもやってしまうような時速10キロのスピード違反から、飲酒をしてむちゃくちゃな暴走運転することまで、全部をひとまとめにして「交通違反」と呼ぶくらいの雑さがある。
これは先日にネットで話題になっていたマンガだが、手のひらじゃなく、手の甲で女の尻をなでるというセコイ痴漢がいるらしい。
しかし、そういうケースこそ逮捕の必要がない。というか、満員電車で女に触るというくらいの犯罪は、たった1度や2度やってしまっただけで過剰に責めたてるべきではないと思う。
もちろん、軽度のスピード違反でもくりかえせば免停をうけるように、再犯があまりに多すぎる者への対応は厳しくするべきだが。
ブコメに返答
id:shariasharia 痴漢をする人間が、ごく一部の重犯罪者しかいなくて、他の人間はまったく犯罪者になる動機がない犯罪なんだし、再犯率が異様に高い犯罪なので、むしろ終身刑にでもしなければなくならないぐらいの犯罪なんだが。
大多数の男は、実際にはまだ痴漢をやっていないというだけで、痴漢をやる動機を隠し持っているといえる。
例えば、「俺はゲイだから女に触ろうと思わない」→「動機はない」という主張には意味があるけれど、「俺は善良な市民だから痴漢をやろうと思わない」と主張をすることに何か意味があるのだろうか? それは犯罪者をモンスター扱いにして、自分たちとは違う存在だと切断処理しているだけじゃん……。
あと、ほんとうに少数の頭おかしい男だけが痴漢をヤリまくっていることが問題なら、なおさら私の意見が妥当ってことになるよ。
何度もくりかえしている男を逮捕するだけで、事件の発生数は大きく減って、社会秩序を維持できる。(逆に初犯の男を多数逮捕しまくっても、事件の発生数をほとんど減らすことはできない)
やはり最初の1回や2回の痴漢行為は逮捕せず、軽めの罰金だけで終わらせておけばいい。
そうすれば冤罪が起きてしまったときのダメージが少なくてすむし、それが冤罪でなくて本当の犯人だったら、それを機会に更生するならばよし、更生しなかったら極悪人として逮捕につなげるべし。
(容疑者が「極悪人」というほどの重大事件のときは、チンケな犯罪と違い、警察の捜査もそれなりに本気になってくるはずだ。それは結果的に冤罪を減らすことになる)
Id:NOV1975 だとしても冤罪の問題は何も解決しないけどね
冤罪があってはならないのは当然としても、重大事件になればなるほど刑罰も社会的制裁も重くなるんだから、警察はそのぶん慎重になるべきだ。
ブスも痴漢にあう。
ブスに痴漢するわけねーだろ!自意識過剰!って言われるんじゃないかっていう心配で、痴漢されてる事実があるのに、まるで嘘ついてる気分で世界最悪の人間みたいになってくる。
美人なら美人で、痴漢されてるの自慢してるみたいな謎のイイ女判定の空気あるし、ほんと痴漢どうにかなんねえかな。
「おまえは絶対痴漢されないよ」と言われる程度のブス。フリース着てジーンズにリュック背負ってるひっつめ髪メガネでノーメイクの眉毛ぼうぼうのいかにもオタク女で65キロくらいあったし、地味とかダサいとかそういうの超越して女を捨ててる外見してたけど、電車通学中10回くらい股に指つっこまれてんのね。年に2~3回ペースで痴漢あいました。あからさまに言うと、ジーンズの縫い目触って膣と肛門ねらってくんの。そのたびに、MDのフタで思いっきり痴漢野郎の手を挟んでえぐる、シャーペンで刺すとかやってたわけ。MDに血ついてんの最悪。シャーペンは壊れるし。やりすぎじゃないよ、だって触るのやめないんだもん。触る気ないならビックリしてイタっとか言うでしょ普通。血が出るまで刺しても無言って普通じゃないよ。血が出た手をひっこめるだけの男=痴漢は、バレたらヤバいって思ってることわかってしてるんだよ。
私自己評価でブス判定なんで、声出して「痴漢やめてください」って一回も言えなかったの。こんなブス痴漢とか頭おかしいでしょ、え、さすがにないわ無理、とか開き直られてまるで私が嘘つきみたいにされたら、手に負えない事態で嫌過ぎじゃん。駅員さんも「ないわw男がかわいそう」って思ってそうだし。
ブスにも男の性欲向けられます!
痴漢にあった話すると、男性陣は居心地悪そうなのね。男って概ね、女よりも正義が大好きなんで、痴漢も社会秩序の敵認定して共感ほしいんだけど、なんでか「痴漢許せない!」って反応じゃなくて、痴漢といえば「痴漢冤罪!」って話になるんだよ。痴漢の話してる私、この私が痴漢されて嫌だった犯人はクズだ死ねみたいに怒ってんのに、なんで目の前にいる痴漢被害者の私じゃなくて、誰とも知れないどっかで読んだだけの痴漢冤罪の話するんですか???????私は痴漢冤罪を否定するものじゃなくて、すごく深刻な冤罪だってわかりますが、痴漢がこの世に存在するから痴漢冤罪があるんだよ。痴漢冤罪を信じることで、痴漢犯罪を免責する心理なんだろうか。その冤罪と私が痴漢されたこと関係ないっての。
女性に話すときにも、痴漢されたこと自慢してるっていう判定する空気あって話づらいの。いやこれ犯罪だからね。なんで、そんなときだけ男目線なんだよーもう。
痴漢防止ポスターで、女学生が怒った顔で「チカンダメゼッタイ」「コノヒトチカンデス」とか言ってても、女の子のプンスカなんてカワイイポーズの一種じゃん。
・痴漢男の過去の姿にして変わらぬ自己イメージの、アカ抜けないダサめの中高校生くらいの男子がイヤそうに見下してるかんじ
・赤ん坊じゃなくて就学未満くらいの男の子を抱いた母親がイヤそうに見下してるかんじ
・50~60歳くらいのおばちゃん=痴漢男の母親像が、イヤそうに見下してるかんじ
・60歳くらいのだらしないかんじのおじさんが、イヤそうに見下してるかんじ
「痴漢をする人間は、性犯罪者です」みたいな人間失格烙印するコピー。
「電車内の女性を触って性的興奮をする人間は、性犯罪者です」とかでもいい。
痴漢する男の世界観ヒエラルキー外の、不可触民の人間に嫌がられて、見下されるっていうのが性欲ファンタジーを直撃して効くと思います。罪を憎むよりも、ストレートに行為者本人を名指しで憎んで、貶めることが抑止力になる。イラストやマンガよりも、実写がいいだろうな。性欲たぎってるとき頭回らないから。
痴漢男と、一般男性世論が「痴漢冤罪」というワードで結ばれる正義ファンタジーの連帯を断ち切って、「ボクが痴漢の被害にあって嫌な思いをしたかもしれない」って女の被害者に共感の輪を広げてほしいです。
無理かな。
性犯罪加害者のほとんどは男で、性犯罪被害者はほとんどが女っていう性差あるから(若い男が夜に帰宅する途中に通りすがりの人間に後つけられてレイプされて殺されるって事件は無い。探せばあるかもしれませんが、逆は今も昔もありふれ過ぎてて、レイプされる危険があるのに夜道を帰ってくる女が悪いってなる。)、性犯罪の罪は軽いという時代があったわけで、幼児強姦を「女児にいたずら」なんて気楽な報道用語が昔は見られました。性犯罪ぐらいで罰するなんてヒドイ、男の生理なのに仕方がないじゃないかっていう、不満っぽい空気を感じること今でもたくさんあります。性犯罪被害者の女よりも、重過ぎる罪で罰せられる男ってかんじに男は同情しちゃうんだろうなあ。
痴漢ぐらいで…って思われてるだろうけど、すごい嫌だよ見ず知らずの赤の他人がゼロ距離に近づいてきて、触られたくないところを触られるって。しかも逆ギレしてお前が悪いとか言ってくるかもしんないって。
ソシャゲガチャの批判で必ず出てくるキーワードが、射幸心を煽る。射幸心とはまぐれ当たりによる利益を願う気持ち。
射幸心を煽るのがなぜいけないのか、勤労によって財産を得る健全な社会秩序を乱すからだそうだ。
しかし、ソシャゲガチャのアイテムは一般に換金できないので利益になりえない。
むしろガチャをするために仕事を頑張ろうと勤労意欲を掻き立てられるのではないだろうか。
そしてもっとわからないのが、個別確率表記すれば、ガチャなんてしなくなるという発言をしている人がいること。
俺は0.0000000000000001%とか1つ1000万円で売られてるモンスターとかアイテムのほうがほしいんだよね。
たぶんこう考えてる人が多いから個別確率&定額販売が出た次の日グラブルがトップセールスで1位になって、今もグラブルはトップセールス5位に位置してるんじゃないかな。
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
題名だけでもう全てなんだけど。
人間,基本的に他人の不幸に対してどういう感情・行動を持つかというと,
1.自分のことのように共感したり,同情したりして,助けようとする。
2.自分によいことがあったかのように大いに喜び,なお不幸にしようとする。
この二つ。
成立する傾向が強い。
一方,2は,当然のことながら,社会倫理道徳上褒められた行為ではない。
ことに,倫理観や道徳観に普通以上に縛られた人は,2を必要以上に嫌ってしまう。
そのストレスを発散するには,すなわち,倫理・道徳心の強い人が他人の不幸を味わうにはどうすればよいか?
よって,自分が悪をけなし,蔑にし,罵詈雑言を浴びせ,それが不幸に陥った時にそれを喜んでも,
それは正義の信念に基づく行動であって,(その人の中では)倫理道徳上正当化される行為となる
俺をこんな風にまで追いやったやつらに見せつけてやるんだ。
もう何年爪に火を灯すような生活を強いられているのだろう。
若い頃は仕事が人生の全てで、家族も当然のように犠牲にしてきた彼だった。
仕事しかしてこなかった人間から収入を奪ったらミジメなものである。家族はさっさと愛想を尽かし出て行ってしまった。
一つの仕事を真面目に取り組むことだけが取り柄だった彼には、他で働くことなんて全く想像できもしなかった。
それでもわずかな給料で若造ににこき使われ生活のためにと頭を下げてきた仕事も、とうとうクビになってしまった。
なんで自分ばかりこんな目にあわなくてはならないんだ。
どうせ死を選ぶなら、自分をこんな目に合わせた奴らに思い知らせてやるのだ。
そんな彼にとって、焼身自殺はまさにうってつけだった。
ある日の報道番組で目にした宗教弾圧に反抗するために行った僧侶の焼身自殺が、いつか自分が死を選ぶにふさわしい気高く神々しい行為として目に焼き付いてたのだ。
ただ目立つことを目的とするなら駅前など人が集まるところを選べばよかった。
安全なところから向けられたいくつもカメラによって、彼の死に様は瞬く間に世界中に広がっていくだろう。
自分が復讐したいのは、自分をこんなふうにまで追いやった社会でありビジネスの世界だ。
それもちっぽけな世界じゃない。
今日び都心の環状線を数時間止めたくらいでは日本経済に対する影響はごくわずかでしかない。狙うなら交通の大動脈だ。
くだらない。結局人はそうやって命を天秤にかけているのだ。
そんなものは事故が起こった時の責任をいかに回避するかの都合でしかないではないか。
長年望まない生活を強いられてきた彼には、今や社会は悪意の塊のように見えていた。
自の望まぬ経済の流れに虐げられ、抜け出せないままに地を這うような生活を強いられているにすぎないのだ。
そんな彼は、見た目だけで自分を愚かな人間だと判断する世の中が許せなかった。
日本という国は確かに豊かになったのかもしれない。
しかし、終戦直後には誰もが何も持っていなかったのだ。誰もが少ないものを分けあい、倒れるものには手を差し伸べてきた。
そんな日本を豊かにしようと犠牲になってまで作り上げた世の中なのに、そんな時代に生まれた人間たちは誰も彼に手を差し伸べようとはしなかった。
好き好んでなったわけでもないホームレスのような風貌に関心を抱くものはなく、誰もが社会の汚物を見るような視線を投げかけてくるのだ。
ただ犠牲者を増やしたいだけなら簡単だった。
1号車と2号車の中間で火を放てばよいのだ。
そもそも無差別殺人を行いたいなら、方法は他にいくらでもある。
自分の死にゆく姿を彼らの目に焼き付けてはじめて意味があり、死が尊いものへと昇華されるのだ。
正直な話、ためらいがなかったわけではない。
本当に彼らが自分の死を焼き付けたい相手なのかを確かめるために、幾度なく車両を往復しては人々の顔を覗きこんでいた。
そこに座っているのは、大半が小奇麗にスーツを着飾った泥の臭いなど一切感じさせないようなビジネスマン達だった。
片手に握った小さな世界と向い合ってばかりで、誰一人としてこの小汚い存在を認めようとしなかった。
皆が働く中で優雅な時間を過ごせるのは誰のおかげなのか。今ある豊かな日本が作られたのは誰のおかげなのか。
その時彼は、それを理解できているのか試してやろうと思い立った。
一人のもとにそっと近寄り、お金をわたしてみることにしたのだ。
誰から受け取ろうともお金はお金だ。誰かから享受された今の豊かさを誰に遠慮することなく受け取っているのだから、誰からもらえるかわかっている金銭を受け取らないのは矛盾している。
かわりに向けられた困惑の眼差しの向こうに確かな軽蔑を見つけた時、彼がこの場所を選んだことに間違いがなかったと確信したのだった。
この瞬間、彼の行動が間違っていると気づく機会は永遠に失われてしまったのだ。
ポリタンクを片手に一人一人を確認するように歩きながら彼は車両の先頭に立った。
彼らこそが自らの死を焼き付けてやりたい相手であり、これからの世界に罪の意識を背負って生きるべき人間なのだ。
そこからは予定していた通りに躊躇なく身体が動いた。
ポリタンクから流れ出る液体の臭いで彼がこれからするであろうことに気付く人間が現れ始めた。
そんな人々を眺めては彼は着々と手順をこなすように頭から液体をかぶり考えていた。
世の中には気づいてからでは手遅れだったことなんていくらでもあるのだ。
これまでに気付くきっかけはいくらでもあったはずなのだから、それを見逃し続けたのは自分たちの責任なのだ。
一人の人間が追い詰められていく背景に目を向けて自らの生活を省みる良心がこの国に残されているのだろうか。
そうして彼はライターに火をつけた。
彼の中で長い年月くすぶり続けていた炎は、今まさに現実のものとして世の中に炙りだされたのだ。
その姿は宗教弾圧に反抗する僧侶とさながらに、社会に広がる思想の格差とそれによってもたらされる貧困の格差を照らす炎になりえたのだろうか。
彼の目に写った最後の世界が、絶望に覆われていなかったことを今はせめて信じたい。
いい加減にしとけよボケが。煮るとか煮ないとかいう問題じゃねえんだよ。良い生を継続発展させることなんだよ。東大とか官僚が知見を総動員して全世界の動向を利用して動いてないせいで世が世なら死刑になる奴が平気で暴れているのに知らぬ存ぜぬとか手前何考えてんだボケが。お前に統合されてるところの過去のお前が動物に脅かされてるのに手前は何もしないとか自己矛盾もいい加減にしろや。
今東大にある良い感じを守ってより生き生きさせることと世界を利用して自分が生きていくことにしか国家の目的はないんだよ。雑魚や醜悪が跋扈しているのを知りながら何もしないとか何考えてんだお前。
基本的にお前の無意識が最も生き生きするのが国家の真の目的でお前は元々自分に統合されているところの過去のお前を守る為に仕方なく官僚になった英雄でその為に動かなきゃ行けないわけだが今全然動いてないから過去のお前が危機に瀕しているな。で、何でお前動いてないんだ。
どうせ飽きたか無能になったかでクズになったか、悪人に弱みを握られて、どうとでもなれと思っているか、そもそもそういう官僚自体が退職して居ないんだろ。
基本増田に居る奴は良い子に不快な奴が多いし、つうかファイナルベントが官僚天皇のはずなのに近頃動いていないから世の中が滅茶苦茶になっているのにファイナルベントは動こうともしないわけだが、基本、世界の力を利用して過去の自分を生かすという生存本能とそれによる行動を中止している時点で人間として終わっている。
それと司法行政は神ではなくて鬼畜類になってるわけだが、良い子に嫌われてるんだから出しゃばるんじゃねえよ。その行政文書の書き方どうにかならねえのか。いかにも形式的且つ鬼畜的で、一般社会に容れるべきものではない。
で、結論から言うと、東大とか中央官庁とか東京に居る神が動かないせいで、実際問題世の中終わってるわけだが、それに対して神と神の子が何を考えているのか理解できないし、俺だったら即刻その雑魚醜悪を殺しに行くが、神も神の子も何の行動も起こそうとしない。つうか状況に煮られているのが賢いとか思ってるけど、煮られている時点で統合失調症で頭がおかしい。煮るとかどうとか復讐がどうとかいうことになったら、結局、人格が「無い」と言っているのに等しく、要はキチガイだということになる。
俺は高度に統合されつつあった平成十八年までの日本特に東京を破壊する勢力が2chや増田に湧いてきたから直で殺したが、これは国家社会秩序を紊乱する勢力を死刑にし、臣民の慶福に貢献したわけだから加害行為ではない。
http://elielierika.hatenablog.jp/entry/2015/01/06/023000
社会的に罪を償った人間の社会復帰を妨げるようなこのような意見は、犯罪歴という「スティグマ」に対する差別にほかならない。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%B0%A5%DE
社会復帰してはならないというのならば、暴力団などの犯罪組織の中で暮らせということなのだろうか?
不安だからという理由で社会から排除するということならば、ナチスによるゲットーとなんら変わりはないのではないのか?
社会学者のハワード・S. ベッカーはOutsidersという著書において「逸脱者」を生み出す社会構造について論じ、
「逸脱者」とは「逸脱者」の行為によってではなく社会(マジョリティ)からのラベリングによって「逸脱者」になるとしている。
つまり上のブログで行われているようなラベリングが社会からアウトサイダーを生み出し、かつて社会秩序に組み込まれない非差別集団としての穢多非人を生み出した行為である。