はてなキーワード: 社会秩序とは
キズナアイがNHKのウェブサイトにおいてノーベル賞の解説記事に登場しておりましたが、そのことをきっかけに、千田有紀氏などが指摘をし、さまざまな方面から千田の議論に対する批判が寄せられ、さらには社会学そのものに対する批判もされているところです(これらをキズナアイ論争と呼びます)。
ですが、そのざまざまな批判を読んでいると、「これって実はコミュニケーション不足で、伝わっていないんじゃない?」と思うことが多くなりました。いろいろあって社会学を学んだ人間として、それはちょっと悲しいなという思いがあったので、千田氏の問題提起をちょっと分かりやすくお伝えできればと思います。
筆者は、社会学で修士号を得ています。今は大学から離れているのですが、離れてそう長くはありません。専門は千田とも重なる領域(家族やジェンダー)もありますが、教育やメディアでした。
あくまで、千田の問題提起がどのようなものに基づいて行われているのかを解説するもので、その意見の妥当性とかは議論しません。私個人としては、千田の立場に立てば理解でき一理ある議論ではあるが、だからといって、それは多くの人の理解を得る話法ではないし、その背景事情を一切踏まえていないのは、学術的に一定のポジションにある人のする作法としては疑問を感じているというところです。また、千田の学術的貢献はいろいろな批判があるようですが、私は一定程度は評価しています。
なお、アカデミックの作法は基本呼び捨てですので、ここでも、基本千田として書かせていただきます。
キズナアイ論争のはじまりは、千田の投稿記事です。https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/]
ちなみに、現在(10月13日)、追記もなされており、社会学者にはそれなりに分かる文章にはなっているのですが、一般の人はなおのこと分かりづらいことになっています。後に公表された、『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』記事による補足を踏まえて、まず、千田の議論の要点をまとめてみましょう。
(1) キズナアイはNHKの解説記事において「相づち」をする役割となっている
(2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である
(3) 従ってキズナアイの解説記事における役割は、従来の女性が担ってきた役割を担っていることになる
(4) そのことは、理系と呼ばれる分野で活躍する女性などに対して、好ましい状況を生むようなものになっていないのではないか
というところに整理できるかと思います。
社会学、特にジェンダーやフェミニズムを学んだ人だと、この4つの間を頭の中でこうかな?と繋ぐわけですが、普通の人はフェミニズムを体系立って勉強するわけでもないと思うので、「はて?」となるわけです。更にいえば、一つ一つの要点が「え?!」という感じになるかと思います。
千田の議論を理解するためには、とりあえず(1)は正しいものとして引き受けておいてください。そこが正しくないとなると、そもそも議論の前提が崩れてしまい、議論はそもそも成立しなくなってしまうので、ご理解ください。
千田議論を理解するためには、いくつかの知識が必要となります。一つは、千田の専門でもあるフェミニズム、もう一つは会話分析というものです。順に簡単に紹介しておきましょう。
社会学は、社会を対象とした学問です。といえば、早いのですがそれではよく分かりませんよね。社会学は、社会がどのように成り立っているのか、つまり、社会の秩序はどのような形で形成されているのかを探求する学問です。例えば、古典的な社会学、特に日本の戦後の社会学では「農村」が特に注目されました。農村における人々のネットワークや、家族の在り方、そういうものに関心を持っているのが社会学です。
フェミニズムを正確に定義することは困難ですが、フェミニズムを雑にまとめると、「女性の地位を向上させようとする取り組みであったりそれを支える理論」というような言い方ができると思います。歴史的には大きく2つのターニングポイントがあったとされています。それが「第1波フェミニズム」と「第2波フェミニズム」です。
第1波フェミニズムは、1900年代ごろ、19世紀から20世紀へ移りゆくタイミングに起こりました。西欧諸国で主に婦人参政権を獲得する運動が中心に展開され、1920年代にはイギリスやアメリカで実現をすることとなります。(ちなみに、日本はというと戦後に婦人参政権が認められるようになるのですが、新婦人協会や青鞜社の運動は同時代の運動です。)
第2波フェミニズムは、1960年代頃、社会運動が盛んになった時期に、女性らしさへの問い直しが運動として行われます。代表例ではキリスト教社会では長らくタブーとされていた中絶の合法化が挙げられます。また、この時代には女性が自らの自由に性を語るということが積極的になされるようになります。
いずれにせよ、その理論的根底には、女性は男性と同等の状況にないという認識に立っているということがあります。
第1波フェミニズムで焦点化されたのは、法律や社会制度というものでした。第2波フェミニズムはというと、法的制度は平等であっても、職場ではお茶くみに甘んじてしまっているし、男性と同じように性を語ることはできないというような、日常の性差別に特に焦点を当てていくようになるわけです。
現代は第2波フェミニズムの延長線上にあります。#Metoo運動を始めとして、第3波フェミニズムがやってきているというような主張も時折みるのですが、第2波フェミニズムより後のフェミニズムの運動について、多くの社会学者が納得しているような分類はまだ確立していないのが現状です。
上野千鶴子の理論などを理解する上で重要なキーワードが、マルクス主義フェミニズムです。そういう立場だと、だから上野千鶴子はそういう立場なのね、と理解できます。千田議論もとりあえず、マルクス主義フェミニズムで解釈すると、理解がしやすくなると思いますので、こちらを説明します。
(フェミニズムにはさまざまな立場があります。ラディカル・フェミニズムやリベラル・フェミニズム等です。フェミニズムも一枚岩ではないと、理解しておくと良いでしょう。)
マルクス主義フェミニズムとは、先ほど、フェミニズムが女性は男性と同等の状況にないという認識に立っていると説明しましたが、そのような社会状況を生み出しているのは、今日の資本主義社会システムなのであるといいます。で、これを理解するためには家父長制というキーワードを理解しないといけないのですが、本題より長い解説になるので、そこら辺は上野千鶴子の『家父長制と資本制』をとりあえず参照してください。
(上野理論を厳密に言うと、上野は、従前のマルクス主義フェミニズムは教条的であるということで、それを乗り越える必要があると、主張をしています。)
シンプルにいってしまいますと、そのシステム(資本制)の成立と密接に性差別を生む家父長制制度が続くため、性差別は再生産(半分マルクス主義用語ではありますが)されていくということになります。
会話分析というのは読んで字のごとく、会話を分析するというものです。まずは、社会学で会話分析がなぜ重要になってくるのかをエスノメソドロジーというワードを使って説明したいと思います。そもそも、社会学は社会秩序はいかにして可能かを明らかにする学問です。そこで出てくる問いの一つにこの社会で生活を営む人びとがやっていることを、研究者はどのように理解できるのかという問題です。
この問題に答えたのが、ガーフィンゲルという人です。ガーフィンゲルはエスノメソドロジーという手法を提唱しました。エスノメソドロジーというのは、日常で生活している人々が言動をどのように理解し、成立させているのかを、日常で生活している人々の視点に立って記述するという手法です。
エスノメソドロジーは、私たちの当たり前が、いかに「うまいこと」成立しているのかを見せてくれます。例えば次のような実験は非常に有名です。
A 「いや、元気かどうかってことだよ。」
B 「元気かどうかって? どういうこと?」
こんな調子で話されると、本当に調子がおかしくなりそうですが、こういう実験をします。ここで浮かび上がってくるのは「調子」という言葉が、体調や近況を意味しており、それをお互い分かっているという「期待」をもって、Aは会話をしているということです。このような形で、秩序が形成されており、それらは記述可能な形で示すことができるとするというのがエスノメソドロジーです。
会話分析の多くはこのエスノメソドロジーの考え方を踏まえて行われます。つまり、先ほどの会話のスクリプトのようなものを読んで、そのなかで、AとBはどのような「期待」をそれぞれ持っており、そこにどのような秩序があるのか? ということを考えているわけです。
冒頭で、千田議論を強引に4点にまとめました。ここまでの道具を用意すればある程度説明ができます。それぞれの項目ごとにみていきましょう。
そもそも、実在の人物は「先生役」とNHKのサイトでも記載がありますように、ここで想定されているのは「先生」と「生徒」というコミュニケーションです。したがって「生徒役」となるキズナアイは基本的に「相づち」をする役割に当然のことながらなるでしょう。そもそも「生徒」の方が詳しいというのなら、「先生」が「生徒」の役割を担うことになるはずですし、「先生」と「生徒」という形で双方「期待」をもっていることは分かります。別にこれが、男子生徒であろうと、まあこういう会話になるだろうなという感じではありますよね。
これは、先ほどのフェミニズムの議論が役に立ちます。お茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき、女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます。
そこでは、主役はあくまで知事です。アナウンサーが主役となって、知事をいじめていくというような内容になっていないでしょう。これが、でも、田原総一朗との対談だったらどうでしょう。一気に様相が変わってきますよね。また、地元財界と知事の対談だったらどうでしょう。そこに「相づち」はあっても、「相づち」をする役割を知事の対談者は決して担っていないと思います。会話の主体になっているわけですね。地元財界の人が女性でも、この場合だと「相づち」の役割はまあしないかと。
ここでポイントになるのは、知事が一方的に語るというような形式を取る時には、女性アナウンサーがその役割を担うことになり、他方、双方共にしゃべる場合には、女性の活躍機会が途端に減ってしまうというということです。これは、私たちのイメージレベルでも大体共通しているのではないでしょうか。(もちろん、個別具体で違う話も多く、徹子の部屋の黒柳徹子をどう評価するかは難しいところですが。)
もちろん、これは、女性が知事と同等の立場や役割を担っている機会が開かれていないから、そのようにならざるを得ないという側面も当然ありますが、男性アナウンサーがそうそうなっていないということは、一つこのことを証明するものであるとも言えます。
(「相づち」をする役割も高度な役割であるということは決して忘れないでください。)
ここで、議論はもどってきて、キズナアイは「生徒」役ではありますが、「先生」の発言を引き出すという意味で「相づち」をするということで、記事のトップにも出てくる主役のはずが、補助的な業務を担わされていることになります。このとき、キズナアイを女性と見なすと、これまで女性が置かれていた立場、女性が積極的に前に出られる環境に制度上はなっているにもかかわらず、結局はそうはなっていないという状況と重なる部分はあるでしょう。
再び、徹子の部屋の黒柳徹子をイメージすると良いかも知れません。徹子の部屋における黒柳徹子は独特の立ち位置で、徹子の部屋を見て黒柳徹子は単に「相づち」をうつ役割だけではない、ということが理解できるでしょう。なんなら、黒柳徹子の方が目立っていたりします。対談の形式が、黒柳徹子がお客様を招いて話をしてもらうというホスト側であるためであり、従属的な関係になっていないというところに、このキズナアイ対談と徹子の部屋の決定的違いがあるのだろうと思います。
そうして比べてみると、キズナアイは女性の役割を再生産するということになったというわけです。これは、性別役割分業を進めていくものであり、女性にとって活躍の機会が減ってしまうというのがフェミニストたちの主張と結びつけて考えることが可能なのです。
この時、女性は従たる役割を担わされるわけで、その期待が持たれます。そうなると、女性は、主たる役割を担える存在なのにもかかわらず、その期待から、従たる役割を担い続けなければならない、そういった状況にはまってしまうのです。そして、そうした悪循環から脱却しなければならない、というのがフェミニズムの基本的な主張です。
このような女性観で考えられると、女性にとって好ましい立場ではないという千田の主張はそう的外れなものではないということは理解できるでしょう。
千田は議論をするという状況を作り出したことでは成功していると評価できますが、その議論の中で、自らの論理の妥当性を提示し納得してもらえたかというとそうではないと思います。後の対応によるところも多いのですが、それは、実は最初のきっかけともなった記事の一番最後の文章であると私は考えます。
なお10月3日、9時の時点で、スマートフォンから見ると、キズナアイはバストショットしか見えない(パソコンでは、へそなどの下半身が見える)。
この一文が最後にあることで、キズナアイの見た目(容姿)を問題にしたいのか、と思ってしまう人も多いと思います。千田氏は、後の議論でも、キズナアイの役割に焦点を当てており、容姿を問題にしていないといっているのですが、冒頭の太田氏の議論とあいまって、多くの人が混乱したと推察します。そもそもキズナアイってあくまでAIであって性別を超越した存在なはずなのに、性別二元論に回収されちゃうのって、なんだかなと。
さらにいえば、表現の問題に回収してしまったのがかなり難しい問題にしています。表現の問題にすると、結局妥当な表現は何かということに行き着き、その線引きは複雑になってしまい、誰も理解できなくなるため、神々の審判でも仰がなければ、なんとも言えないと思います。
本人が個人的に自説を語るのは「自由」の範疇だが、それを公共空間に置いたらどんな意味をもつのか、少しは配慮すべきだったのでは?
(https://twitter.com/chitaponta/status/1051615591004438529])
反論は、すでに
「生きづらさを抱える人たちが、自分らしく生きられるようにするための福祉行政全般を否定していると受け止められかねない」(橋本岳・自民党厚生労働部会長)
という公式コメントに尽きている。
同性愛者が子供を作らないことは誰も否定していないが(とはいえ養子を育てたり、そういう仕事についたり、そもそも社会人として税金を納めていることで、杉田議員の言う意味での社会的再生産にも十分に寄与しているわけだが)、それに対して。「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題し、「社会は『常識』を見失うな」と主張することは、LGBTは「常識外」の存在であるという旧来の見方を堅持し引き続きLGBTに日陰者である「生きづらさ」を引き受けさせろという主張にしかならない。端的に言って「差別されてきたお前らは今後も差別されておけ。そしたら私(たち)は幸せ。」という主張である。「のび太のくせに生意気だぞ」のジャイアン理論、と言えばわかりやすいだろうか。そこに「理」はあるだろうか?
フランスで民主革命が起こったとき「封建制という社会秩序が崩壊する」と憤激した人もいた。アメリカで黒人が解放されるとき「奴隷制という社会秩序が崩壊する」と反対する人もいた。いずれもわかりやすいジャイアン理論である。だがそれらの改革で社会『全体』の利はどうであったか。「生まれ」に関係なく権利が保障された民主主義社会、人種にとらわれず社会的に活躍できる社会が実現されたことは、人類全体にとっては確実に「利」があった。ジャイアン的に「オレサマのかんがえるむかしのさいこうのしゃかいちつじょ」を守るのが政治のつとめではない。それは単なるノスタルジー、あるいは既得権益の擁護だ。社会全体に利がないという意味で言えば、それは社会悪ですらある。政治はあくまで現実に立脚し理想を実現する行いでなければならない。
では、なぜあなたの視界に杉田議員への「反論」が入ってこないか。その理由を併せて述べておこう。「理論/反論」というのは、議論する双方が誠実に事実に立脚して行うという信頼関係の上にしか成り立たないのである。感情の上に議論は成り立たない。
「これまでの社会にはこういう問題があるでしょ?」「だから、こういう新しい社会にしたら社会全体に利があるよね」という話をしているのに「私はこういう社会がいいんだもん」「社会全体に利があるとか分かんないもん」などと発言しているも同然な(杉田議員の「論」とやらを要約すれば、こういう事に過ぎない)人に対して直接「反論」を行うことはそもそも意味がない。それどころか逆上した相手が「再反論」という形でますます妄言をまき散らすキッカケにしかならないので、まっとうな人ほど「反論」をしない。私だって、杉田議員にこんな話を説明する役目など引き受けたくない。
私が今回説明したのは、相手があなただからである。あなたは問題の構造を理解しようとしているからだ。その信頼感がなければ、自分の貴重な時間を割いたりしない。
結局のところ、杉田議員の「論」的な何かは、信仰告白に過ぎず「論」ではない。もう少し正確に言えば、ある信仰の下に生きることにした人々の支持を狙ったあざとい政治的立場をとりますよ、という宣言と言ってもよい。ああいう下品な文章を書き散らしてまで議員の椅子にしがみつくことが、彼女が本当に実現したい何かにつながっているのか、それは私にはよく分からないが、私はそういうやり方はきわめて本末転倒だと考える。あの「論」の中身を彼女自身が信じている可能性? それはほぼゼロだ。いかにも叩かれそうなことを考えている政治家はたくさんいるが、そういう場合むしろ隠して耳障りのいいことを言う。スキャンダラスなやり方を平気で選ぶのは、彼女自身が別にそれを信じてない(しかしある種の人々にはヒットすると知っていてそのための手段としてやっている)からだろうと私は推測する。
いやー、恐ろしいね。
死刑反対派の非寛容さ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yaserucola.com/entry/shot_dead
こんな態度で「人道的な立場」から死刑廃止を語るんだからおっそろしいよね。
「ズレてる」だの「比較すべきでない」だの「ナンセンス」だの言っておけば論破したつもりになってんだろうね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367396222/comment/grdgs
grdgsgrdgsのコメント2018/07/15 08:47
怖いね。
元記事の人の書いてた
https://www.yaserucola.com/entry/shot_dead
http://b.hatena.ne.jp/entry/367396222/comment/fu-wa
武器を持って抵抗の意思を示している犯人を警官や周囲の人々の安全のために射殺するのと、武器を持たず無抵抗な状態の人間を処刑することを比較するのは、まったくのナンセンスだよ。
「冤罪による死刑が起こりえるから死刑に反対」だったら、「現場の誤判断による射殺も起こりえるから現場で射殺すべきでない」と等しく反対すべきだろうに。
「そうだね、現場での射殺もするべきでないね。」くらい言っとけば論理の一貫性は保たれるのに、なんで死刑のほうに喰ってかかってくるのかわかんない。
現場射殺もダメっていう人道原理主義なら論理の一貫性は認めるけど、頭はお花畑だよね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367396222/comment/tteraka
射殺は本人による犯行の蓋然性と法益侵害の重大性・緊急性が認められる時しかできないのだから比較しても何の意味もねえだろ
tterakatterakaのコメント2018/07/15 14:26
同上。その「重大性・緊急性が認められる時」を誰がどうやって判断してんのって話だろうが。
現場が緊迫した状態で「とりあえずサクッと殺しとくか」って状況のほうがよっぽど冤罪が起こりえるだろ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367504186/comment/Zephyrosianus
正当防衛、緊急避難としての犯罪者の制圧による死亡と、刑罰としての死刑という理論構成も実態も全く別の事を「国家による殺人」だから一緒だなんてクソ雑な非論理的思考は普通の死刑廃止論者は想像もしないのでは?
ZephyrosianusZephyrosianusのコメント2018/07/15 09:50
「クソ雑な非論理的思考」とか、なんの反論にもなってないレッテル張りしておけば反論したつもりになってんのかな?
「ダメなんだからダメ。お前らはバカなんだから従っとけ。」ってか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367504186/comment/tanukichi087
緊急避難や正当防衛による殺人は、国家だけでなく個人にも許容されてる。それが成立は問題として、正当化理由のない死刑を同列に並べることはナンセンス。
tanukichi087tanukichi087のコメント2018/07/15 13:16
これもとりあえず「ナンセンス」って言っとけば反論になると思ってるタイプ。
緊急避難や正当防衛で殺人が認められて、国際ルールに基づいた戦争による殺人や社会秩序を維持するための死刑がなんで認められないんだよ。
せめて全部反対しとけよ。
「無敵の人」って言う言い方が、なんかこー、特異で異能な個人がこの社会の中に存在してて、彼らが特殊で(社会的には決して褒められない)高い戦闘能力をもってるみたいなニュアンスで、問題を矮小化してる気がしてしょうがない。だから彼ら個人を断罪したりパージすれば問題解決するんですよーみたいな。
問題の中心はどっちかっていうと、被害者側におきたその瞬間にあらわれていて、「彼がトイレでナイフを突き刺されたとき、警察も裁判所も良識も法律も(つまりはひっくるめて秩序が)被害者を1mmも守ってくれなかった」って、まさにそこがポイントでしょ。
つまりは無敵の人が強いわけじゃなくて、俺達が今まで強力で安定していると信じてきた、社会秩序みたいなものは、参加者の合意で形成された実はペラッペラの脆弱なものだった――こっちのほうが本質でしょ。
秩序ってのは要するにオセロだの将棋だののルールに過ぎなくて、目の前に座った相手がそのゲームの対戦に同意している保証はまったくなくて、こっちが王手を指したら相手はボクシンググローブをはめたとかそういうのが現代社会では起きうるよって話でしょ。それは秩序というものの本質(相手の合意を必要とする)に関わる問題で、解決もできなければ正解もない(無敵の人は別のゲームの参加者であって悪ではない)のが論点なわけで。
自分はここまで極端には捕らえていないけど。
社会秩序を維持する為か性犯罪者を罰する為か何か知らないけど。合意を得ていない性は被害者に対する屈辱であり、本人は大変な精神的ダメージを受けるっていうストーリーが一方でありながら、実際結婚したら同じような事をするけど、それは屈辱でも何でも無い素晴らしい愛の形です。みたいなストーリーがあるというのも、大いなるフィクションだと思うんだよ。
ある種の進歩的な意見として、公的な性教育の無さと少子化を絡める議論があるけど。そんな訳無いだろうと。大部分の人は義務教育で金儲けの学習はしてないけど、殆どは自分でやっているんだし。少子化は別の主因があると考えるほうが自然だろうと。
ペドフィリアやネクロフィリアには少なくとも「被害者」が存在します。
あまり詳しくは知りませんが、露出狂やフェティシズムは性的暴行として刑法犯罪の対象になっていますね。
また他の性癖でも、「ナルシズム(自己愛)」や「ディスモーフィリア(奇形性愛)」「ジェロントフィリア(老人性愛)」などはそもそも性癖として社会的に問題視されていません。
なぜかというと違法性がない(=社会秩序の維持に問題ない)からです。暴行などを伴わない限り、そうした性癖は全く自由に扱われています。
全くそのとおりです。
研究により、同性のみが集団となる(軍隊や男子校・女子校のような閉鎖的空間)では同性愛だった人が、その場所から離れたら異性愛になるということも極当たり前にあります。
そのあたりが法律に関連してくるのですが「ホモを排斥しろ」というのは特定の人物を示しており、それは法律概論とは大きくはずれた行動になってきます。
では「ホモセックスを禁止しろ」「同性での恋愛感情を禁止しろ」ということができるかどうかですが、これは近代法の観点からとうてい認められることではありません。内心の自由を侵害するからです。
そこで法律が出てくるのですが、すでに「強姦罪」や「傷害罪」はありますので仮に男性同性愛が男性が(女性同士も)相手方に危害を加えたのであれば罰則の対象になります。
逆に「ホモは排斥しろ」という理論で「人」そのものを排斥するという近代以前の行為になりますと、魔女狩り同様に無秩序な社会状態を発生させることになります。
少なくとも同性愛は違法ではなく、当面の社会秩序の維持を阻害するものではないというところで差別されない立場になるべきという単純な話をしているのですが、なかなかうまく伝わりませんね。
ごもっともですが、差別されているかどうかということの大きな根本にあるのが法律であるということから考えて適法か違法かをはっきりさせることは非常に意味があると思います。
例えば仮に同性婚が合法化され、男性同士、女性同士がカップルとなり男女の夫婦と同じ生活を送るようになったところで何か社会的損失があるかということを考えれば「不快感」以外のことはまずないのではないでしょうか。
LGBTを他の性癖と区別するのはまさにそこで、他の性癖の大部分は違法か非常に高いレベルで倫理的に問題があるのに対し、LGBTやその他の性別に起因するセクシャルマイノリティは社会秩序に何ら悪影響を与えることはありません。
社会秩序、というとおそらく公平性や倫理観が絡んでくるので混乱を招くのかもしれませんが。
例えば「殺人罪は廃止」ということになれば社会秩序は混乱しますよね。
そういった秩序維持にとって最低限度のラインが罰則を伴う法律というふうに考えていただければ、LGBTなどの性別に由来した差別に根拠がないということがわかっていただけるのではないかと思います。
現実は社会秩序と適法違法が一致してないとかそういう話ではないのか
本当にその不一致に問題意識を持ってるのなら、言っちゃ悪いがホモセックスがどうこうみたいな話からあえてはじめようとはしないでしょ。
それを言ったら男女のセックスも「社会秩序の維持」には全く意味がないですけどね。
やはり法律について詳しい勉強をされてきたことがない方のようですね。
刑法や罰則を伴う法律は、それをすることにより社会的な損失がある行為について禁止をするもので、それをしたことにより積極的に社会維持に役立つことについては全く定めていませんよ?
これは個人の感想ですよね。
そもそもホモセックスであっても男女のセックスであっても、公共の場でわいせつな絵画や文書などが流れることはまた別の法律によって規制されています。
あなたの理論でいけば、違法性のないホモセックスをしている人に対して「勝手な俺理論を喚く電波な人増える」あなたのような人の方が社会秩序の維持には問題になりませんか?