はてなキーワード: 社会秩序とは
別に顔真っ赤にして書いてるわけじゃないつもりだけど、よくわからんなあ。
(善良な警官には従うべきだが)見た目警官でも本当に警官とは限らない。本当に警官でも善良とは限らない。だから、一見警官に見える人物に従うべきではない、っていう主張なの?やっぱりおれにはエキセントリックに聞こえる。
道路で知らない警官に呼び止められたら判断できないよね。無視しちゃっていいのか。みんながそうしはじめたら、社会秩序が維持できないのではないか。
それに、実際問題としてして現代日本で自転車に乗っていてニセ警官の心配をする必要あるの?あるいは、悪徳警官が自転車泥棒を捏造しようなどということがありうるの?
公道で警官の格好しただけで警察沙汰だと思うけど。そして、警官が点数稼ぎをするときは普段取り締まっていない些細な犯罪を取り締まるもので、わざわざ盗んでいない自転車を盗んだものとするなんてことは非効率的なのでしないと思うけど。
男女差別の問題を論じると、必ず感情的に男は女を下に見ているとか不毛な議論がわき起こる。
男女平等とは、当然のことながら機会の平等であって結果の平等ではない。
だが20世紀の遺物のような共産主義者が未だ力を持つ日本においては、結果の平等まで求めて逆差別が生まれている。
左翼集団は少しずつ時代に取り残されていて、やがては消えることが分かっているわけであるけれど。
なぜかと言えば、男と女は生物学的に違うものなのだという科学的な事実を、どうしても飲み込めない人達が一定数いるからだ。
女より男の方が優れていると思っている女が、少なからずいるからだ。
男だって女の方が優れているとか、女になりたいと思うことはあるだろう。
そして感情論を振りかざして、私を男として扱えと主張する。
ここに左翼のジェンダーフリー、家庭崩壊計画、社会秩序破壊計画が合わさると、結果の平等を求めた男女平等議論が通ってしまうわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。
第三者に聞かれるようなシチュエーションの時点で公だし、
あなたも「公私を判定するという観点からすれば」どちらも公だ、と言っているのと同じじゃないですか。
いやいや同じじゃないよ、断じて同じじゃないよ、とんでもない。
繰り返しますが「公私を判定するという観点からすれば」、「公私を判定するという観点からすれば」、「公私を判定するという観点からすれば」同じです。
あなたが述べている違いは全て与える影響の規模・発生確率にすぎず、公開性を基準にするならばどちらも常に「公」ですし、立場などを基準にするならばどちらも等しく「私」でありえます。
逆に言えば、それが免罪符になるのであれば、どんな誹謗中傷、殺人予告、虚偽、脅迫に値する書き込みであっても「個人的なやりとりですー」で済まされることになる。そんなことが許されるわけがない。
不特定多数の目に触れて被害を発生させているのであれば「個人的なやりとり」でも罰せられます。
個人的なやりとりであれば罰せられない、という命題が偽です。
私的なことならどんなことをしても問題ないとは、恐ろしい考え方ですね。
いやいや同じじゃないよ、断じて同じじゃないよ、とんでもない。
家の中や隣の人にしか聞こえない会話と、全世界から見られるインターネット上の会話が同じなんてとんでもない。他の人も言ってるけど、第三者に聞かれるようなシチュエーションの時点で公だし、その上インターネットは「隣に聞こえるか聞こえないか」というレベルの話じゃない。
たとえば仲間内で、有名人や政治家の名前をあげて「◯◯はろくでもないことばっかりしてる、いつかぶっ殺してやる」とか、「なんかいらつくから◯◯駅爆破してやる」とかって言っても冗談で済むけど、ネット上でたとえ個人的なやり取りだったとしても、誰からでも見られる場所で同じ発言をするのが、同じなわけがない。
逆に言えば、それが免罪符になるのであれば、どんな誹謗中傷、殺人予告、虚偽、脅迫に値する書き込みであっても「個人的なやりとりですー」で済まされることになる。そんなことが許されるわけがない。
私的会話なら、社会秩序や他者の権利を傷つける言動でも問題ないはずだけど?
どっちなの?
近くにいる数人に聞こえるか聞こえないかのその場限りの会話と、いつでも誰でもどこからでも見られるネット上の会話が同じだと本気で思っているの?
「都合のいい喩え」とレッテル貼りで済まそうとする行為こそ具の骨頂だと思いますが。
「ありとあらゆるどんな観点から見ても同じ」と主張しているかのように見せかけるその発言こそ、ちょっと議論の仕方として問題があります。
たとえば屋内から、ある個人を誹謗中傷する発言を(たとえば◯◯の家の娘はアダルトビデオに出てるという嘘とかを)外に聞こえるような大声で発言し、それを近所の人が聞いて大問題になった、としても家の中で発言したのだから問題ない、とでも?
何か勘違いしているようですが、別にわたしは「問題ない」などとは一切言っていませんよ。
問題があろうがなかろうが、行為自体は私的なものでもありえます。行為が私的なものであろうが公的なものであろうが、社会秩序や他者の権利を傷つけるなら取り締まられます。
http://anond.hatelabo.jp/20130615144356
レイプが卑劣な犯罪であり罰せられるべきであることは言うまでもないが、被害は性的自由の侵害にとどまり、命まで取られるわけではない。
被害者が「死ぬよりも辛い」などと述べるのは一種の比喩か、または個人の主観としてはそうだというにとどまるのであって、公平に見た場合レイプは命を奪うような犯罪に比べれば軽微な罪であると言わざるを得ないだろう。
したがって、レイプ犯に命まで奪われたようなケースについて強姦致死や殺人として重く罰することはあるにせよ、レイプそれ自体に対して「心と身体への疑似殺人」だから極刑に、などという主張は馬鹿げているというほかない。
それどころか、これはあくまでも個人的な印象に過ぎないが、現状でさえ性的自由が過度に重視されレイプ犯に科せられる刑は重くなりすぎているように思う。
数年前、強姦致傷で懲役50年という判決が話題になったが、そこまで極端でなくとも強姦致傷で20年超の懲役刑が言い渡されることもあるし、10年超の懲役刑などは珍しくもない。
他方、傷害致死などは生命侵害という重大な結果を生じさせているにもかかわらず、3、4年程度の懲役で済むケースも多い。自動車運転過失致死に至っては、最高刑でさえ7年以下という呆れるような軽さである。
数度のセックスが何十年もの懲役に値する重罪か。生命侵害は3、4年程度の軽微な罪か。数度のセックスより人の生命は軽いというのか、と毒づきたくもなるというものである。
罪に対する適正な罰は、社会秩序を維持するうえで欠かせないものである。他人事と思わず、この増田を読んだ全員に一度しっかりと考えてもらいたい。
この裁判例は、先の最高裁判例が承諾の動機、目的、手段、方法、損傷の部位・程度などを考慮して承諾の有効性を判断するべきとしたことを前提にしていると考えられています。
で、当該事件ではヤクザが不義理のけじめをつけることを目的としたわけですが、ヤクザという反社会的暴力集団において指つめは、組織の維持や(反社会行為の)指揮命令を徹底する装置として働く面があり、動機、目的において、処罰の必要性が高いと考えられたのでしょう。
(この件に限らず、暴力団絡みの事件では裁判所はかなり厳しい(暴力団にも理論的にも)判決を出す傾向があります。)
いま想定しているのは、(私学の)高校生が(某私立高校の場合と異なり)自ら喜んで根性焼きを行っているような場合ですので、ヤクザと違って社会秩序への影響は無いといえます。もちろん、その高校生が犯罪集団に所属している等の特殊事情があれば話は別ですが。