はてなキーワード: 嚥下とは
クリスが病院へのクレームを書き込んだ医師へのブログ記事に反論出来るものならしてみろや!
https://mhlworz.blogspot.com/2018/08/blog-post_10.html?m=1
2018年4月30日づけで、ブログにコメントを頂いておりました。ありがとうございます。
ある病院に入院したら、不本意な形で家族を失ったことが切々と書かれています。
非常に長文でした。最初はですます調だった文章が、しだいに生々しい感情がほとばしる強い文体になります。
ただ、これはよくある話ですので、取り上げたいと思います。別に私は全国の医者代表ってわけでもないですし、その病院を擁護するつもりも糾弾するつもりもありません。 一個人として好きに書かせていただきます。
●経過
投稿者の身内の高齢者が、インフルエンザ後に「肺炎」と診断されて入院しました。
受診した理由は書かれておらずわかりません。年齢も基礎疾患も不明です。
ただ、もともと元気な方らしく、「まだまだ普通のものも食べられてたし、歩くこともできていた」程度のADLで、普段から「ストレッチや散歩、体操等」のほか、誤嚥しないよう食事に気をつけており、いつも「120歳まで生きて新聞に載ろうね」と話すほどの健康意識の持ち主でした。家族としても、入院の理由が納得いくものではなかったようです。
そんな方が、入院で「医療的な拷問」を受け続けた結果、亡くなったというのです。「元気でまだまだ生きる気力のある人をちゃんと手を尽くしたのではなく、故意にさんざん傷つけ弱らせ弱らせ亡くなるようにされた」と。
病院のみならず、市役所の対応にも不満を訴えます。入院中に要介護認定を受けることとなり、市から認定調査員が来ました。「今の季節は?」と質問され、4月なのに暑い日であったので、本人は「夏」と答えました。そうした木で鼻をくくった対応で、書類を仕上げて出ていった市職員の態度も屈辱的だといいます。
●誤診?
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おかしいなと思ったがインフルエンザは治ってしまったし、CTの影は上のほうは全く綺麗なものだったのにだから全く延命なんて段階じゃなかったし、
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呼吸器専門医の資格を持つ私としては、肺炎を侮るなということにつきます。
素人目には下肺野だけに異常があったとしても、たちまち悪化することもしばしばです。
第二位:心疾患
第四位:脳血管疾患
第六位:不慮の事故
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最初にお年寄りというだけで全部一緒にしてすぐに緊急時の延命治療の話である。
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朝、にこにこ家族と面会していた高齢者が、夕方になって呼吸状態がみるみる悪化して今際の際をさまよう、ってことは経験しないとわからないかと思います。緊急時には挿管して人工呼吸管理をするほかないのですが、医者の判断で処置した後で、「こんなこと頼んでない」とか「家族の総意ではない」とか言われると我々も頭を抱えます。こういうわけで、入院したら最初に今後どうするのかを聞く病院も多いでしょう。
たしかに信頼関係もできてない中で、「急変時の対応はどうします?」と医者にいわれたら、「貴様、うちの家族を治す気ねえだろ!」と憤るのもわかりますけどね。
●喀痰吸引
肺炎だと痰が出ます。高齢者で心不全を合併しているとさらに痰が増えます。通常は吸引して気道を開通させます。
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部屋にいると「いきなり痰を取ります」と、「痰を取らないと窒息の危険がある」と管をどんどん突っ込む拷問。それによりまず口封じ。悪くなる種作り。
アッと気づいた時には管を目いっぱい突っ込んでる。肺や声帯がどれだけ傷つけられてるかもわからない。その後はどんどんどんどん痰がたまってくる。そのたびに痰取りの拷問。患者が何か言えば痰取りの拷問、何か要求すれば拷問で声を出せなくされ、伝わらないようされてる。
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まるで看護師が喀痰を吸引したから痰がたまったか、のような記述です。
「口封じのため」とか「痰取りの拷問」とか穏やかではありません。
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喉から入れる管が入れすぎていないかなどと言うと、鼻から入れてさらに苦しめる。
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コミュニケーションがうまくいかなかったようですね。面会時間帯に張り付いている家族がいたら、医療職はひと声かけてから処置します。無言でゴリゴリ吸引するような看護職はまずいないでしょう。
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(とろみであまり好かないお茶ではあるがあまりに痰取り方法が酷いので)痰をお茶で(胃のほうに)流し込みたいと言った時も、看護師に完全に否定され、また管をつっこんで痰取りの拷問、どうしようもない。
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痰を胃に流し込む、という新提案です。
まず基本的なことがわかっていませんね。
「痰」は口の中にある唾液とは違います。気管や気管支の奥をふさぐ分泌物です。それが口の中に上がってくると、道路でおっさんが「カーッ、ペッ」と吐いているあれになります。この方はそこらへんを取り違えているのでしょうね。
口の中に出てくる前の気道分泌物を吸引するには、相当深くまでサクションカテーテル(いわゆる管)を突っ込む必要があります。介護職が実務者研修で習うのは、せいぜい口の中とか鼻腔の中とかまでですから、そんなに悶絶することはないでしょうが、生き死にがかかった病院だと、奥深くまで容赦なく吸引せざるをえないこともしばしばです。痰づまりを解消したいと思っても、外勤先で気管支鏡が置いてなく、カテを奥深くまで突っ込んで救命したこともありました。
絶食にされているようですので、嚥下機能も相当落ちていたのではないかと思われます。むせることもなく、静かに誤嚥するわけです。お茶を飲めば、胃ではなくて肺に押し込むことになり、肺炎の再発・悪化やむなしとの判断かもしれません。
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息が詰まってはいけないと当たり前のように言われる吸痰ですが、私の親が高齢にもかかわらずもんどりうっていました。入院前は取ってもらったこともないのに急に奥まで突き刺すように入れられて。何か間違っていませんか?
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それもそのはずで、入院する前は痰の量が多くないのですから、取る必要はありません。
状態が悪いから痰が貯まるのであって、それを放置していたら換気不全→低酸素血症→窒息死でしょう。スタッフとしても吸痰しないほうがよっぽど楽ですよ。夜勤なんか特にそうです。なにより、わざわざ手間のかかる喀痰吸引を「拷問のため」にする医療者がいるとは考えにくいですね。私が看護学校で教えるときには、「1 回の吸引時間は最大でも10秒以内。処置を始めるのと同時に、息を止めてみましょう。相当苦しいのがわかります」と伝えます。むやみやたらと行うわけもなく、モニターを見たり聴診器で呼吸音を聞いて、必要な限りで処置するものです。
吸痰を「必要がない」「納得できない」というのなら、退院すればよいのです。
好きなものを好きなだけ食わせて、誤嚥するならすればよく、そうやって想いのままに人生を閉じるのがよいと考えているのなら、自宅で大往生すればよいわけで、病院をご利用頂く必要はないのです。そういう方こそ、責任を取りたくないのか、文句を言いまくりながら病院にいたりしますが。
●超理論
独自の理論にこだわる身内は、必ずいます。そして私らが説明してもあまり理解を示されません。理解を超えると陰謀論に及ぶことがあります。
うちのじいちゃんは病院に苦しめられている。命を狙われている。
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【1】必要性も考えず、ひたすら手を動かすことだけで「やっべ、私すげー仕事してる。超イケてる(死語)」と満足感にひたる看護職がいる
【2】患者を苦しめて喜ぶようなサディスティックな看護職がいる。
【3】患者を苦しめて状態が悪くなると、検査だ処置だと余計な出費ができるので、病院が儲かる。
(1)も(2)も、医療職がずいぶん信用されてないなーと思います。まず(1)ですが、処置やらなにやらをすれば記録したり、物品補充などの手間が増えます。若いうちは仕事を覚えようと必死でしょうが、ある程度の経験を積んだらあまりやりたくないのが本音です。(2)は人間の内面まではわかりませんからなんとも言えませんが、怪しい行動をしていたら組織内でチェックされます。看護師の世界はピラミッドのような序列がありますから、同調圧力も半端なく、そういう人は端々に異常さが見え隠れしますので、まず浮くでしょう。
(3)は、寝たきり老人がいるような療養病床では、パック料金(包括払い、いわゆるマルメ)なので検査や処置をすればするほど赤字ですから誤解です。
実際、こんなコメントもありました。
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アホなことをした。バカなことをされた、悔しくて仕方がない。
こっちは治療と思うから病院を信じ医者や看護師の言うことを信じて色々次から次、伺いを立ててきたのに禁止ばかりされてそれがただの拷問だったとは。まだまだ考えられるあらゆる治療とされてきたことが全部病院の策略だったななんて。治るように治療してもらえるはずの専門の技術を持った病院じゃないのか。
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そんなことをして一体なんの得があるでしょうか。
ヂアミトールを点滴しまくって「殺戮の天使」になったナースも中にはいますが、我々は基本、患者のためにと仕事する生き物です。心身ともに楽な仕事でもないのに、せっせと人殺しをしていて何のやりがいを感じられましょうか。
●クレーム
思路が独特な方に対しては、何度も何度も説明しても理解が得られないことがあります。それゆえにトラブルになることも多いです。担当医で納得しないと、「院長を出せ、土下座しろ」から始まり、保健所に通報、警察や県などに相談、Google mapに☆1つをつけてコメントで誹謗、ブログやツイッターで書き散らすなどもしばしばです。ベストと思うことをやった上でも、「人殺し」だのと罵られますから、メンタルを保つのはなかなか大変です。
ヂアミトールを点滴した容疑者の心情はまったくわかりません。が、彼女が働いていた終末期医療の現場でも、余命幾ばくもない方を静かに看取るというはずが、忍者屋敷のようにあちこちから思わぬ横槍が飛び出してくるために心身ともに疲弊し、看護職としての仕事に絶望し、倫理観も麻痺し、やってはいけない行動に出てしまったという側面があるのかしれません。
医療職も患者・家族の側も、お互いにリスペクトする間柄になれればいいのですが。
日本でもできる「安楽死」「尊厳死」について、医者として質問に答えます。
https://docs.google.com/forms/d/1nwfWK0bg3ILwCWzdYpF1eu4MjgRpuTn5Szb6-uMQo4s
「石の卵」という本を見た子供が、内部に宝石の入った石を探したいと騒ぐので、家族で川原に行くことになった。
ところが、川辺のキャンプ場の駐車場に車を停めて川原を目指して歩いたところ、川原へ通じる小道の全てが封鎖され、「立ち入り禁止」の立札が立てられていた。
車へ戻り、堤防沿いや川にかかる橋を通過してみたりして気づいたが、連休中でしかもいい天気なのに、川原には川遊びをする人々どころか釣り人さえ一人としていない。いつの間にか、川原全体が立ち入り禁止区域になっていたようだ。
そんな訳で石拾いは諦め、翌日、市営のちょっと大きな公園に行った。お目当ては、公園の中心にある池だ。そこではザリガニ釣りと鯉に餌やりをすることが出来るのだ。
公園に着くと、まずは散歩がてらぐるりと一回り。ここに来たのは数年ぶりだが、昔とほとんど変わっていない。芝生や樹木は手入れがなされてさっぱりとした様子。遊具では沢山の子供達が遊んでいる。噴水は十分おきに水を吹き上げる。そこに水着姿の幼児達が水浴びに興じている。
変わった点はというと、芝生の半分くらいは沢山のポップアップテントに占拠されていて、子供達が走り回る場所ではなくなっていたことくらいか。
だが、ふと気がついたが、うちの子供達は既にこういう公園で遊ぶような年齢ではなくなりつつあるのかもしれない。テントの合間をぬうように走り回る子供達より、我が子らはだいぶ大きい。うちの上の子は小学五年生だ。下の子は二年生で小柄な方だが、それでもこの場所では少し浮いているかもしれない。
池に行ってみると、昔のように畔には燕子花が葉を伸ばし、浅瀬は蓮の葉に覆われている。そして、池の中央にかかる橋から池に餌を投げ込んでいる人々がいた。どうやら今も池の鯉用の餌が売られているようだ。
そこで、子供達を連れて公園の入り口まで戻り、管理事務所に入った。昔は事務所の窓口で鯉の餌が売られていたはずだ。ところが、今は販売システムが変わっていた。事務所の裏口で「鯉・カモの餌」と「ザリガニ釣りキット」がそれぞれカプセルに入れられた状態で販売されているのだ。1個100円なり。
昔、子供達がまだ幼児だった頃は、どんなにせがまれても鯉の餌やりやザリガニ釣りはさせなかった。池の深さはそれなりにあるのに、周囲に柵などが全く設置されていないからだ。子供達が池に落ちるのを畏れた。だが、今では子供達も大きくなったことだし、これからはこちらがここへ遊びに来ようと誘っても子供達の方が億劫がるかもしれない。もしかしたら、これが最初で最後の機会になるかもしれないと思った。
子供達は大喜びだ。上の子は鯉とカモの餌がいいと言い、下の子はザリガニ釣りキットを選んだ。鯉とカモの餌は思ったより多く入っていた。ザリガニ釣りキットは、タコ糸の先に小さな鉛の玉とスルメの切れっぱしをくくりつけたものだった。それを園内で適当な木の枝を拾って結び着けて使うのだ。
上の子に私がつき、下の子には夫がついた。私と上の子は池に餌を投げ込み易い、開けた場所に移動し、夫と下の子はザリガニがいそうな、浅瀬で草の陰になっている場所へと移動した。
池の中を泳ぐ魚影は、昔に比べてだいぶ少ないように見えた。だが、一匹一匹がとても大きい。昔見たのよりも全長が倍くらいありそうな錦鯉が、泥水の中を悠々と泳いで行く。上の子はただの黒い鯉よりも錦鯉に餌を食べて欲しいらしく、餌を一粒ずつ、腕を振りかぶって遠投するが、まったくのなしのつぶて。どうやら、鯉達は全く腹を空かせていないらしい。風上の方から、ふやけた餌粒がいくつも漂ってくる。
黙々と餌を投げ続ける上の子の横で、私はしゃがみ込み、時々水底に光る小魚の影や水面を漂う餌粒の合間をすいすいと泳ぐアメンボを眺めた。
「あーあ、全然食べてくれない」
と、上の子が嘆いた時だった。燕子花の葉陰から、カルガモが二羽、クワックワッと鳴きながら泳ぎ出て来、水面に浮かぶ餌粒を食べ始めた。ただ水の流れ任せにたゆたっていく餌粒を、カモはまるで生きている虫を捕まえるかのように、律儀に大げさに嘴を左右に振って、食んだ。そして、クワックワックワッと、まるで我々のことを「餌くれる人」と理解しているかのように見上げて鳴くのだ。時々田んぼの近くを散歩中に見かける彼らとは、ずいぶん態度が違う。用水路に浮かんでいる時の彼らは、人の気配がするやいなや、バタバタと飛び立ち、逃げてゆくというのに。人を見分けているというより、場所を見分けているのだろうという気がする。
間近で見るカルガモは、思ったよりも目が顔の中心よりも上にあって、しかも目付きが鋭い。剣呑な目の真ん中の瞳孔は、鳩のそれと同様に虚ろだ。確か、渡辺崋山だったか……、江戸時代の終わりごろに、師匠の絵を手習いにするのではなく、自然の花鳥風月を直接手本にして描く絵師がいたけれども、彼らの観察眼はかなり自然に忠実だったのだなあと、しみじみ思う。今目の前にいるカルガモは、私の子供時代にワイドショーで持て囃されていた、雛を沢山連れて道路を横断するカルガモの親よりも、江戸時代の写実画によく似ている。
上の子は、鯉を狙って餌を投げつけている間に投球のコントロールがよくなり、高確率でカモの真正面に餌を投げ込んだ。ところが、そういう時に限って、カモ達の食い付きは悪い。上の子の贔屓は、二羽のうちの後方にいる方で、これは前方に出て盛んにクワックワッ鳴いて餌を強請る奴よりも小柄で控えめに見えた。上の子は手前のカモに一粒投げたら、後ろのカモに二粒連続で投げた。だが、後ろのカモがきょとんとしている隙に手前のカモが自分に投げられた餌そっちのけで後ろのカモの分を横取りしてしまう。
上の子が文句言い言い餌を投げる。ぼんやりと浮かぶだけの後ろのカモと、その周りを忙しなく動き回って餌を独占する、手前のカモ。後ろのカモがこちらに真っ直ぐ顔を向けたままほぼ動かないので、真正面から見たカモの顔つきの不気味さがよく見える。ウサギなんかと同じで、目が顔の左右に着いているので、真向かいに向き合っても視線が合うことはない。カモのような鳥が真正面から絵に描かれることが少ないのは、我々人間の顔とは違う顔をしているからであり……はっきりいって、正面から見ると別に可愛くないからでもあるんだろうな。
と、考えていてふと気づいた。単に視野の問題なのだ。私は上の子に餌を一粒貰い、後ろのカモの左脇を狙って投げた。すると、すかさず手前のカモも反応したが、後ろカモは横取りされる前に餌を食べた。やっぱり、目の前に落ちた餌は、見えないので気付き難いようだ。後ろのカモに与えようとして投げた餌はちょうど、手前のカモの視界をよぎって飛んでゆく。
そのことを上の子に伝えたところ、上の子は二匹のカモに代わる代わるに餌を食べさせることに成功した。
カモ達の食欲は底なしに見えたが、少しすると食べ飽きた様子で、餌を拾うのを止めてただ水を嘴で掬って飲んだ。水を飲むときは首を真上に長々と伸ばして、軽く嘴を左右に振りながら嚥下する。
ふと、後方のカモがブルッと尻を振った。茶色い水中にあってもオレンジ色の鮮やかな、しんなりとした脚の周りを白いもやが漂っていく。
「すごい、うんちしたー!」
なるほど、カモは水面に浮かんだままで排泄をするのか。野鳥の排泄なんて、カラスが電線から飛び立ちざまに排泄をしてゆくところくらいしか見る機会がないので、いいものを見た気がする。Eテレの動物番組でも、なかなか映さないのではないか。せいぜい、ツバメの雛が親の顔に尻を向けて、ゼリー状に固まった糞を排泄して、親に糞を巣の外に捨てて貰う場面くらい。
そういえば、冬に下の子を連れて散歩をしていたら、田んぼの真ん中でアオサギが糞をしているのを見かけた。まるで水道の蛇口のように、長々と糞を噴き出し続けていた。食ったらすぐ全部排泄する。それが空を飛ぶ鳥の習性だ。
餌を全て投げ終わったので、夫と下の子の所へ行ってみると、下の子はザリガニが全然釣れないと愚図っていた。下の子はすぐに癇癪を起こすが、案外粘り強い性格なので、取れないが食い付きはするからと、釣り上げるまで諦めないと言った。だが、夫の方が気短なので、早く帰ろうと言い出した。
夫は、釣り場選びから釣糸の垂れ方まで下の子に口出しをしただけでもう疲れたらしい。池の周りには、夫と同じように子供以上にマジになってしまった父親達と、うんざりして別のことをやり始めた幼児があちこちにいる。
どうしてもザリガニが釣れないので、鯉とカモの餌をもう一つ買って下の子に与えた。カモは目が左右に着いているため、真横はよく見えるが真正面はよく見えないようだ、と教えると、下の子はカモの体側にぶつけるように餌を投げた。カモは即座に反応してくるくる回りながら餌を取った。下の子がそうして黙々と餌を投げてると、やはりザリガニ取りに飽きたらしい幼児が我々の横にとことこ歩いて来て、ハルジオンの花をカモに向かってぽいぽい投げた。数メートル先の池畔では、その子の父親が虫捕り網を手に持って、
と怒鳴っていた。
帰宅後、釣果が何もなかったので、日記が書けないと下の子が愚図った。でもカモに餌をやったじゃないかと宥めすかせ、日記を仕上げさせた。絵は下の子が自分で描いたが、文章はほとんど私が書いたようなものだ。カモは横から餌を投げられるとよく食べる、と。カモの様子ばかりで「楽しかったです」や「面白かったです」などの自分自身の気持ちが一言も書かれていない絵日記。そういうタイプの絵日記を、学校の宿題として提出するなんて、子供時代には思いもしなかったなあ。
いやほんま頭悪い。
ひろゆき「未満」だな。
というより人は判断力を低下させたくて酒を飲む。
そこから様々な犯罪や危険が連鎖的に産まれるループに入っていく。
だけど餅を食っても判断力は低下しない。
餅を食って死ぬジジイは紛れもなく最初から最後まで馬鹿だから死ぬわけだが、酒を飲んで死ぬやつは元々はそこまで馬鹿じゃなくても酒を飲んだ結果大馬鹿になって死ぬわけだ。
この差は大きいよ。
包丁で人を刺した馬鹿がいても包丁屋が悪くないのは、包丁が人間の判断力に影響を及ぼさないからだ。
もしも包丁から怪電波が出てたり呪いがかかっていて人を刺したのなら、それはその魔剣を作った奴らも責任を負うべきだとなる。
酒は人の判断力を狂わせる成分が入ってる。
人間社会は個人の判断力に依存した上で個人に自由を与え、同時に判断力を問う形で責任を背負わせている。
餅を食って死ぬのは嚥下力が低下したからではなく、そんなことをしたら死ぬと分からない判断力の低さによって生じている。
車による事故もその大部分はドライバーが馬鹿だったことが最大の要因となる。
酒はどうだ?
酒に溺れる奴は馬鹿だが、その頭の悪さを生み出しているのは酒の方でもあるわけだよ。
これではこの世界が個人に自由と責任を与えるにおいての根底が成立しなくなるだろ。
わかったか?
酒と餅を同列に語るなんてのはそもそもが詭弁として極めて程度が低いということだ。
こんなものを持て囃すのは「私たちはどうしようもなく頭が悪いです」と宣伝して回るようなものだ。
恥を知れ。
お前らは口先で「いいえこれはバカのフリをしているだけなのでバカではありません」というのだろう。
だがそんなことを何年も十何年も何十年も続けているウチに「自分はバカのフリをしているだけと思い込んだ本物のバカ」になっているのだ。
習慣的に馬鹿の真似を繰り返せばそれが自分の中でループして最後は本物のバカになるのだ。
いい加減目を覚ませ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14232519374
「そういうのはクセじゃなくて、幼い頃からの食習慣が原因となる身体障碍です。
幼い頃から、食事中に水やお茶を多量に飲む習慣があると、唾液の分泌が悪くなります。
水で流し込む習慣が身に付いていると、咀嚼回数も少なくなり、噛む力が弱く、飲み込む能力も低い筈です。
高齢者によくある症状で、餅やこんにゃくゼリーを喉に詰めて、お亡くなりになったりしますよね。
嚥下力が弱い上に、唾液の分泌が悪いと、食べ物が喉に引っ掛かり易くなるので、質問者もそういうリスクが高いってことです。」
……とまで言われているので、食事中に水やお茶を飲むのは障碍らしい。
そこまで言われる程に悪い事だったのか
某ピシュさんのブログ記事のタイトルが悪目立ちしてバズったけど、わたしのは本当にただの風邪だった。
独身、ほぼ在宅ワークで外出は1日1回。徒歩2分のスーパーに買い物にいってその前後でドトールに読書し行くのが日課。
ノドの違和感以外は朝から快調だったけど、昼前ぐらいにインフルエンザにかかったときのような節々の痛みに気づく。幸いにも身体の痛みは昼寝をしたら消失した。この時点で熱を何度も測っていたけどずっと36℃台で、風邪かコロナかただの疲れか判断できず、水曜日は自宅でおとなしく仕事していた。
しかし、その日の深夜から猛烈なノドの痛みが襲ってきた。嚥下できない。口にたまる唾液を飲み込むのすらつらい。断続的につづく咳でまたノドがさらに痛くなり、眠りが浅いまま朝を迎える。
ノドの痛みは継続。あいかわらずノドが痛いだけで熱はない。さすがにコロナ診察を受けようと決心し感染時の受診案内を確認した。
市のコロナ受診相談窓口に電話したのち、自分で病院に電話して予約することになっている。ふとここで手が止まった。電話する理由はなんだ?
今日は休日。相談窓口は開いているらしいが病院は休診。週明けに病院に行ったとしてPCR検査の結果判明までもう2−3日。意味あるか?
それならば軽症だしわざわざ行く必要はもうないと思い、もう電話するのをやめた。検査受けなければ感染したことにもならないし外出制限もされない。
いまだにノドはまあまあ痛いけど、我慢できないほどじゃない。
それよりも去年ワクチンの2回目を打ったときの悪寒と高熱の方が命の危険をおぼえたぐらい苦しかった。
無症候性の人、軽症の人はこんな感じで街にでてるんじゃないだろうか。
身体的な異常や不都合がないなら手間と面倒がかかるだけの診察や検査をうける理由がない。軽症だと薬もないし、まちがいなく自宅療養対象になるし、PCR検査を受けてやっぱり陽性でしたーって確認のためして病院行く理由がない。どうせじぶんで買い物行くことになるしね。
幼い子どもとお出かけがあまり出来ない事が気になるぐらいでコロナ禍の生活も慣れてきた。
最初は物が二重に見えて、車の運転中だったので危なく怖かった。
瞼も下がってきて、ガムやイカなどを噛むとすぐに疲れてしまった。
症状は目にだけのタイプと全身に症状が出るタイプがあるらしい。
最初は目にきて、両手両足、手指、嚥下、咀嚼、呼吸がしにくくなる。
命に関わる症状も出る事があると調べたら出てきた。
出来ていた事が出来ない、これから出来なくなるかも知れない不安に恐怖。
ここ数日悲しくていい歳して1人泣いてしまった。
子どもが成人を迎える、その先結婚するならその時まで、その時の自分のせいで子どもに精神的な負担を与えていないか
うつ病になりかけているのかも知れない。
Twitterで話題のラブドールや小児性愛について自分が一番強く感じた事は、今の人類じゃ到底LGBTへの理解も配慮も出来ないだろうという、個人のざっくりとした落胆だった。
小児性愛は性的指向ではなく性的嗜好であり、そも犯罪であるという論調は噛み砕いて嚥下する事で辛うじて理解できるが、同性愛が法的に禁じられている国がある以上、法によっては個々人の性的指向すら理解される事なく断罪される事実があるのであれば、リビドーの向く方向が偶然にも法に触れない(法に触れない国に生まれた)だけに過ぎない。
小児性愛を法的に禁じない国があるならば、その国では小児性愛は性的指向の一つとしてLGBTの羅列の末席に存在しただろう。
「未発達で社会的責任を負うことの出来ない個人と大人の恋愛」と、「成熟した個人同士の恋愛」ではその意味するところが違うという論調は、現在の法の多くがそう定めているだけであり、人類史におけるスタンダードでは無いだろう。
自分もそうだが君達も理解すべきだ、俺達は偶然、たまたま、運良く、リビドーの向く方向が法的に許されている方向であるだけで、その法を定めたのはたまたま自分が所属していた多数派だったに過ぎない。
男が女を好きだなんて、女が男を好きだなんて、同年齢の異性、同性が好きだなんて、それって変だよ、犯罪だよ。と言われる世界にならなかったのは多数派が少数派を過激に差別してきたからであり、それこそがLGBTの歴史に他ならない。
毎日不規則な生活を送ってて習慣というものが根づいたことがなかった自分だがこれだけは続けられた
それまでは野菜がそれほど好きという訳ではなく、母の作ってくれるピーマンなすニラの野菜炒めとキャベツやレタスのサラダを軽く食うくらい
食べられないことはないが好き好んで買うことはなかった
唯一トマトが苦手で口に含むと反射的に吐き気を催し食べることができなかった
そのせいか下痢と痔が酷く食後(特に寝る前)にトイレに駆け込む日々
そんな健康状態なのに料理スキルも0のまま一人暮らししたもんだから、過去に経験したことのない程の下痢と痔に襲われ、薄暗く臭気が漂いハエの飛び交うポットン便所で1時間も苦しむはめになった
最悪だった
それも大きなハエだ
尻は痛いし腹も痛い
ハエは何度払ってもひっついてくる
去年で最も最悪な体験だった
もうこんな目には会いたくないので一念発起して野菜を摂ることにした
とはいえ実家にいた時も意識して野菜を摂ろうとしたことはあったがうまくいかなかった
多分緑黄色野菜が足りないんだと思う
メーカーが1日分の野菜を保証してくれてるので、自分で選んで野菜を買うより確実だろうという考えだ
前述したようにトマトが苦手であのエグみの所為で吐きそうになってしまう
何の因果か野菜ジュースの代表としてトマトジュースが大きな顔をしていて、トマトと書かれてない野菜ジュースも凄まじいエグみを秘めた飲み物になってしまっている
吐き気に苦しみ、胃酸とともに野菜ジュースを嚥下するのは流石にキツイものがある
あのエグみにこそ野菜としての成分と概念が濃縮されて含まれていると思ったが、吐き気のキツさと天秤にかけて俺は逃げた
野菜ジュースなんてものはあの得体の知れない生物から絞ったようなドス黒い赤色をしてなければならないのだ
ドロっと缶から滴り落ち、コップに注いだ時のなんとも言えない恐怖感
ああ、俺はチキンだ
ハエに吸われて食べられる夢を見た
次の日はいつ下痢をしてもいいように便所のハエを駆除することにした
殺虫スプレーを撒き、トイレの床でコマのように回る死骸を拾い、ウジ殺しを便器に注ぎ込む
そうして怯えて過ごしたが一向に下痢をしない
もしや野菜生活マンゴーサラダ味は紛い物なんかじゃなかったのか?とも思ったが一日で効果が出るはずも無いので偶然だろう
その後1週間経っても俺が下痢することも痔になることもなかった
野菜生活マンゴーサラダ味を紙パックかペットボトルで買ってきて2日で飲み干す生活を続け、アップルサラダ味もなんとか飲めることが分かった
2ヶ月程した頃野菜ジュースが食費を圧迫していたため一日に飲む量を半分の250gにしたが問題は出なかった
トマト味じゃない、一番甘いやつだ
下痢と痔は激辛系のものを食べたり徹夜すると未だになるが、普段の生活では完全に健康体を取り戻した
野菜不足での下痢や便秘、痔に苦しんでいるのなら治療薬だと思って野菜ジュースを飲めば改善する可能性はあると思う
それもとびっきり甘いやつでいいんだ
グイッと2杯くらい適当に飲むだけでいいんだ
皆も試してみろよ
ちなみにタイトルに書いた250gってのはサラダを食べる増田をパクっただけじゃなくて、スーパーで売ってる野菜生活が750g(ペットボトル)か1000g(紙パック)のどっちかで売ってるから、1日250gで飲むと残量を管理しやすい
無口というわけでもなく寡黙といわけでもなく、ただ、あまり自分から言葉を発しない祖父のことは嫌いではない。けど好きでもない。
基本的に、毎年お正月にしか会わないし、「女の子なんだから」と祖母の料理を手伝うよう叱られたこともある。言われてすぐは「兄弟は何もしなくていいのになんで自分だけ」と腹が立ったが、昔気質なんだな、と思えばなんてことはない。祖母も「おじいちゃんに言われたの?ごめんね、ありがとう」と苦笑していたから、やはりそういう人なんだろう。
これといった思い出があるわけでもなく、会話もあまりない。「元気してたか?」と聞かれ、「うん、元気だったよ」で会話が終わってしまうような関係だ。
一緒にお屠蘇を飲んで、お節を食べて、お雑煮を食べて、こたつでのんびり過ごしている間、「これ食べるか?」「寒くないか?」と聞かれ、「うん」「大丈夫」と答える。
本当に、それぐらいの会話だけだ。もっと小さい頃はどうだったんだろうと記憶を掘り起こしてみたが、多分あまり変わらないかもしれない。
そんな祖父が亡くなった。悲しいとも淋しいともあまり感じなかった。ただ、父は大丈夫だろうかと、伯父は大丈夫だろうかと思っただけだった。
数年前に倒れてから一気に衰弱してしまった祖父は施設にお願いしていた。正月だけは家に帰って、私を含めた孫を出迎える。
衰弱だけでなく痴呆も進んでしまっていたから、忘れられていたかもしれない。
誰かが新年の挨拶に顔を出しに来るとその度に「○○来たよ」「ほら、△△だよ」とみんなで声をかけたが小さく頷くだけで、理解していたのか分からない。
嚥下能力が衰えたからお節を一緒に食べることも出来ず、大好きな日本酒を飲むことも出来ない。それでも、たくさんの料理が並ぶテーブルを一緒に囲んで正月を過ごしていた。
一昨々年が最期になった。
去年、祖父母が喪中だった。今年は行くのが夕方近くになってしまい、会えなかった。
久々に会った祖父は、ひどく痩せこけていて、こんな顔だっただろうか、と違和感しかなかった。
嫌いではないけど、「おじいちゃんのこと好きだよ」と屈託なく言えるような感情もなく、触れ合いもない。
葬儀の最中に涙が滲むこともなく、「おばあちゃんは一人ぼっちになってしまうのか」「伯父や父たちは大丈夫だろうか」と、ただぼんやり考えていた。
一通りのことが終わって一息ついたけれど、やはりこれといった感慨も何もなかった。
いつも通り出社して、いつも通り仕事をして、いつも通り昼食を食べる。いつもと同じだった。それなのに、昼食を食べ終え休憩室でのんびりしていたら、急に涙が溢れ出てきた。
「おじいちゃんは亡くなったんだ」と、何をしていたわけでもないのに、なぜだか唐突に悲しくなった。訳も分からず休憩室でひとり泣きながら、「元気してたか?」と目を細めて笑う祖父や、「これ食べるか?」と私が小さい頃から好きな料理を差し出し、「寒くないか?」とこたつの設定温度を上げる祖父を思い出した。
優しい人だったのだ。
もっとたくさん話せば良かった。