はてなキーワード: キャラ立ちとは
好きになった時は、デビュー2年目で末恐ろしい、これからどんどん凄いグループになって行くんだろうなと思ってた。
世間的には賑やかな関西色全開の曲ばかり歌ってるイメージがあると思う。私も実際そうだった。
しかし友人に見せてもらったコンサートDVDを見てガラッと印象が変わった。
危険な香りのするラブソングやゴリゴリのEDM、しっとりしたバラードを歌い上げるだけの歌唱力もある。曲自体も好みのものが多い。
ガヤガヤした曲をテレビで見てた時には分からなかったけど、しっかり踊れるし歌えるし顔面偏差値も高い。
MCもさすが関西人だけあって面白いし、キャラ立ちもしっかりしてて仲の良さが伝わって来るのも楽しかった。
明るい曲の笑顔と色気ある曲の男らしい顔のギャップにやられて、「見つけた」感も相まってすぐハマった。
それから数年経ったが、彼らは相変わらずいろんな顔を見せてくれる。
しかし新たな顔を見ることはない。
超絶の強さの羽生竜王にも初期は谷川、同年代の村山、佐藤、森内、そして竜王をめぐり10以上年下の渡辺というライバルが多くいるように
藤井六段はたんに史上最年少棋士というだけで本来ラノベ主人公級なのに連勝記録、最年少棋戦優勝をうちたて
さらに人格者の師匠に、姉弟子は女王気質の強豪女流、妹弟子に一歳下の女流棋士を目指す美少女と主人公フラグが立ちまくっている
これに対抗するには「詰将棋意味ないです」発言で詰将棋王藤井とはレゾンデートルをかけた戦いを繰り広げる増田五段が第一候補で
29連勝をストップした「蒼い彗星」こと天然キャラの美青年佐々木勇気六段、特に特徴はないがとにかく強い佐々木大地四段
そこで今年プロになった長谷部四段はどうだろうか?まだ強さは全くわからんが
一方升田九段は多くの伝説のエピソードを残すと同時に現代の目でも斬新な戦法を指し
毎年の新手、新戦法に対し贈られる「升田賞」にその名を留めている
大山の系譜は行方八段、佐藤名人など何人もの名棋士を輩出し若手にもその系譜は複数人いる
ところが一方の升田は基本弟子を獲らなかったためプロ棋士になった弟子は唯一人あの桐谷七段だけなのだ
そこで長谷部四段だ
大師匠は今言った升田唯一の弟子にしてネタキャラ引退棋士、”優待生活の”桐谷さん、師匠は桐谷七段の弟子で棋界屈指のドルヲタ(現在は指原で有名hkt48ファン)大平六段
長谷部本人は升田将棋に憧れ、同世代では升田唯一の系譜のプロ棋士であり、プロ棋士不毛の地栃木から栃木棋界の期待を一身に棋界にはいるという
現代は系譜など関係ないと言うが、これだけ(藤井の師匠の)杉本七段にスポットがあたり板谷一門からタイトルをなどといっているのだから
長谷部四段が同年代で唯一の升田の系譜だというのは十分キャラになるだろう
ということでこの長谷部四段に注目したい
King&Prince、通称キンプリ。アニメのアイドルと紛らわしいことで話題となった彼らについてです。
私はコンサートに行ったりする熱心なファンではないのだけど、この人たち、あまりに二次元も真っ青の濃いキャラ揃いなのでジュニア時代から存在は知っていました。
AKBが世間を巻き込んで未熟な少女をアイドルに成長させていく手法なのに対して、ジャニーズはジュニアと呼ばれるデビュー前の子たちを山ほど抱えて、そこから人気があったりスキルが高かったり社長のお気に入りだったりする子をデビューさせるシステムです。
立場が不安定で固定給も出ずいつ辞めてしまうかもわからないジュニアの子をなんとかしてデビューさせたいと熱心に応援するジュニアファンと、その声援を浴びながらなんとかしてデビューしたいと頑張るジュニアの子たちの中から、四年ぶり(関東だと七年ぶり)にやっと現れた待望のデビュー組、それがKing&Prince。いわば生え抜きのエリート。蠱毒の勝者。現時点でファンクラブは既に十万人を突破しました。どれだけジュニア時代からファンがついていたかわかりますね。
まず全員顔が良いので六人並ぶと圧が凄い。どこ見ても目が楽しい。この時点で二次元。
ただ彼らの真髄は、創作物でもそんなキャラいないぞ!?という類稀なるキャラクター性なのです。特にオタクの人にはとてもお勧めしたい。
以下二次元オタク的思考のファンとそうではないファンを区別するため、二次元オタク的思考のファンは『オタク』、それ以外は単に『ファン』と表記します(厳密に分けられるわけではないんですが二次元オタクはキャラクター性を尊ぶ傾向がある)。
実質ジュニアの人気投票と言われるMyojo恋人にしたいジュニアランキング一位を史上初五連覇(赤西くんと山下くんは三連覇)。ジュニア随一の人気を誇る。
彼のファン層は、おおまかにいうと岩橋くん超可愛いかっこいい最高という親衛隊タイプと、その意気やよし男性アイドルの革命児となってくれというオタクタイプに分けられる。
オタクタイプの人達の岩橋くんの形容の仕方はとても面白い。ジャニサーの姫、女郎蜘蛛、女の敵系アイドル、と一見貶しているような言葉が並ぶが、しかしこれには深い感心と尊敬と応援の心がこめられているのだ。あと別に誇張でもなんでもない。姫扱いされたい人や誰かを姫扱いしたい人はすぐに岩橋くんのことを調べてみるといい。凄いぞ。
デビュー発表のときなど、「あのアマついにやりやがった」と快哉が上がったものだった。岩橋くんは物理的にも精神的にも女性ではないのだが、確かにアマと呼ばれうる人なのだ。
まず顔が美少女。メンバーの神宮寺くんと写った写真を週刊誌が広瀬すずちゃんとして掲載するほど(しかもジャニーズと遊び歩くすずちゃんという内容で、全体的に突っ込みどころ満載である)。
そして周り中の男からちやほやされている。凄く語弊がある言い方だとは思うがほかに言いようがない。ワイルド路線のジュニアからもうざがられるのではなく可愛い可愛いと言われてるあたり強い。
そんな岩橋くんのことを嫌がるジュニアファンももちろんいる。彼がファンの前でするショーの一環でバク転を失敗した時、「リップクリームなんかぬって見た目ばっか気にしてるからだ」とバッシングされたらしい。それを知った岩橋くんは、次のショーで客の前でリップをぬって見せてからバク転した。どんなにお姫様扱いされても肝心のアイドルとしてのパフォーマンスでは負けん気と根性を発揮し、自分の持つ可愛さという武器を十全に活用してジュニア戦国時代を駆け抜ける姿を見て、ファンは彼の頑張りに報いたいと思うのだ。
なお、最近雑誌にて男性アイドルとしては珍しく、ファンのために一生結婚しない宣言をした。文字通りアイドルに人生捧げている人である。
私服は結構いかつかったりラップが好きだったり平気で虫を触ったり野球少年だったりするので、けしてか弱く見せようとしているわけではないのだが、振る舞いと周りの扱いが姫以外の何物でもなく、「あんな女の子になりたかった」というファンもよく見かけるほど女子ドル感がある。
★アイドルの自覚があるプロアイドルや、可愛い自分をフル活用する子が好きな人向け。
神宮寺勇太 『理想の彼氏』 イメージカラーはターコイズブルー
岩橋くんを姫たらしめた立役者。元々岩橋くんは気弱で腹痛持ちの放っておけなさを醸し出す少年だったとはいえ、今よりもっと地味だった。しかし神宮寺くんとシンメになった辺りから段々花開いていったのだ。
シンメとはシンメトリーの略で、歌う際対になる立ち位置につく二人のことを言う。キンキとか在りし日のKAT-TUN仁亀とかそんな感じ。
基本的に事務所が選んで組ませるのをファンが勝手に深読みしていくことが多かったようだが、神宮寺くんと岩橋くんはまだデビュー前の流動的な状態で自ら運命共同体としての意味付けをしていった。具体的に言うと、君たち二人シンメ解消ね、と上から言われたにも関わらず、考えた末離れなかった。そして絶対二人でデビューすると言い続けた。既にコンビで人気があったとはいえ結構な賭けである。
二人は対等な関係でありお互い支えになっているのだろう、ということはわかるのだが傍から見ると神宮寺くんがマジで滅茶苦茶に岩橋くんの世話を焼いている。
衣装の早着替えのときは自分の分をいち早く済ませて岩橋くんの服を拾って着せてやり、ブレスレットが邪魔になれば駆けつけて預かってやり、岩橋くんがスープを飲むときは器を持つ手に手を添え、喧嘩してスマホを投げつけ走り去った岩橋くんを律義に追いかけ、自販機の前で見つめられる度にジュースを買い、頭を洗ってやり、膝枕で耳掃除をし、店員に用がある時は代わりに行き、好物をあげるため店を二三軒回る。
岩橋くんのことをお嬢様だと思っていると言い、突然なんの脈絡もなくぷ~という渾名をつけられても受け入れ(岩橋くんいわく俺がつけた渾名だからファンの人は呼んじゃ駄目)、からあげをスタッフにあげたら岩橋くんに「どうして僕の前でそういうことするの」となじられ(何故なら嫉妬するから)、喧嘩したときはだいたい神宮寺くんから折れる。ちなみに神宮寺くんは岩橋くんより年下だ。
ここには書かないがそんなのBL漫画だって突飛過ぎて没にされるぞというレベルの話もあるし、私が知らないものを含めたら多分もっとある。このような言動でファンを混乱の渦に叩き込んだ神宮寺くんは、最終的に『国民的彼氏』と呼ばれるようになった。
ファンに対して王子様でいようとするアイドルはこれまでも何人かいたが、神宮寺くんは新しい形のアイドルだ。彼は岩橋くんの王子様なのである。もちろん神宮寺くんはファンに対しても紳士的に振る舞うけれど、ステージの上の人間と観客の間柄では限界がある。だがファンは岩橋くんを甘やかしている神宮寺くんを見て、「はぁ素敵……こんな彼氏がいたら」とうっとりできるのだ。
優しくて誠実で気が効いて紳士。そう思わせるのは嬉々として世話を焼く神宮寺くんの果てしない彼氏力もさることながら、岩橋くんの姫力も大きい。一歩間違えば神宮寺くんはパシリに見えかねない。でも相手はあの岩橋くんなのである。姫が甘やかされるのは当然だし姫に認められ頼られている神宮寺くんはそれだけの男なのだ。
この二人はそういう、物凄く完成された疑似恋愛関係を構築している。
岩橋くんが姫として優秀なのは、彼は人にやらせっぱなしではなく端々で好意を見せ、しかもそれを心許した人にしかやらず、普段は人見知り気味だというところだ。あと誕生日に万単位の高価な贈り物をしたりするので貢がせてる感もない。
クラスの人気者に見出された地味な女の子が垢ぬけていって「あれ?あいつ可愛くない?」と周りに気づかれる類のシンデレラストーリー少女漫画を見てる気分、と言っている人もいた。そういう楽しみ方もある。
今でこそ理想の彼氏キャラで知られている神宮寺くんだが、元々ちょっと敏い程度の年相応の少年であり、それがあそこまで人を甘やかせる性格になったのは岩橋くんと過ごしてきたからこそだし、岩橋くんが姫として認知されるようになったのは神宮寺くんにかしずかれたおかげである。だから岩橋くんを好きな人は神宮寺くんも好きになるしその逆も然り。
★スパダリにきゃーきゃー言いたい人、優しさを感じたい人向け。
岸くんのファンは「岸くんを嫌いな人なんてこの世にいるのか?」と言う。
岸くんのファンじゃない人も、岸くんを知るうちに結局は「岸くんを嫌いな人なんてこの世にいるのか?」と言うことになる。
ジャニーズとか興味ないわーって男性も、六人の中なら誰がいい?と写真を提示されたら大体岸くんを選ぶ。
岸くんとはそういう人である。ジャニーズ内でも異様に好かれている。先輩には可愛がられ後輩には慕われ同輩には執着される。なんか特殊能力レベルで人望があるのだ。
しかも岸くん、ダンスも上手いし演技もできるし顔もよく見たら整ってるし予想外に声が甘くて歌も上手い。完璧なのでは?
とはいえ岸くんは優等生キャラにはなれない。彼は愛されキャラだ。そしてそういう自分の立ち位置を、多分わりと気に入っている。
神宮寺くんと岩橋くんのシンメをじぐいわというのだけれど、岸くんの『じぐいわと俺』芸の哀愁と笑いを誘う絶妙の間といったらない(『うっかりカップルと同じ画面におさまるはめになって気まずい少年』みたいな写真が山ほどある)。
あれが笑いになるのは、岸くんがみんなに愛されているのは周知の事実であるということと、岸くんが自ら二人をセットにして『あまってる俺』を演出しがちだからだ(岸くん以外の人があまる場合おかしみが薄れ気の毒感が増す)。
デビュー発表時荒れたファンもいたのだが(メンバーが前に組んでいたユニットでデビューして欲しかったとか六人じゃなくて三人のくくりで出て欲しかったとかキンプリじゃなくて自分の応援してるグループにデビューして欲しかったとか色々あったのだ)、岸くんを責める人は一人もおらず、岸くんがデビューできたのは良かったけど、と言われていた。いるだけでありがたがられる貴重な人である。
ファンの要望で仮のリーダーに決まったがこのまま岸くんで固定される気がする。
★ちゃらついてない男子、短髪男子が好きな人向け(彼は真冬でも髪を切る)。
人気一位は岩橋くんだがジュニアのエースは平野くんだった。社長がスカウトしてきた誰もが認める天才。初期は本人の希望で関西ジャニーズにいた。
彼に関してはどれだけ言葉をつくしても実際の映像には敵わない。
すらりとしつつも筋肉がバランスよくつき、甘いマスクでしなやかに舞い踊る様は王者の風格だが実は天然で抜けていて笑顔が可愛い。
――というような説明がわかりやすいが、こんなのはほとんど本質をついていない。
オタク的思考のファンが彼を見て思わず頭に浮かべてしまうのは『ヒモ』の二文字である。いや、平野くんは何も悪くない。彼がスキャンダルを起こしたとか女性にだらしない発言をしたとかそんなことは一切ない。ないのだが、時折見せる寂しげな笑みとか、人当たりはいいのにふらりと突然いなくなってしまいそうな感じとか、妙に達観してそうな雰囲気、仲がいい人はちゃんといるのに消えない孤高感、そういったものがあの高水準のアイドル性と合わさると尋常じゃなく人を惑わしそうな印象になるのだ……。周りが勝手に入れ込むタイプ。
山下智久くんを尊敬しているらしく頻繁に彼の歌を歌うのも捕まえられない魔性っぽさに拍車をかけている。魔性属性の人が魔性の女に溺れる曲(Crazy you)を歌っているのを観た時の衝撃といったらなかった。なにあの倒錯。
反面、生来のぶっ飛んだ天然っぷりと正しい受け答えのタイミングを本能的に察知する勘の良さでバラエティにも向いている。
色々な意味でアイドルになってくれて良かったと神に感謝したい人。
★天然に振りまわされたい人、カリスマにひれ伏したい人向け。
周りが濃過ぎてわかり辛いが、綺麗で繊細な少年らしい不器用さを持つ人である。平野くんと並んで関西ジャニーズから連れて来られた人材なだけあって熱心なファンが沢山ついている。
ツンデレぎみだがツンした相手がしらっとすると慌てるとか、好きな人にはべたべたするとかちょいちょい可愛いエピソードがあるようだ。
また、今時のスマートなイケメンに見えるわりに愛が重い。神宮寺くんと仲良くなろうと思い立った彼は「親友になろう!」と申し出、親友はお互い隠しごとなんかしないのだからと携帯の中身を見せあおうとして拒否されていた。人間関係で好意が空回りしがちな感じがファン心を擽っているよう。
好きな人に一直線でとにかく構いにいき構って貰おうとする様子がなんとなく見てとれるのだが、人選がことごとく同程度の愛を返してくれない人(平野くん:あしらいが上手い、玉森さん:ツン気質)で、妙にハラハラさせられる。最近は岸くんにじゃれていて、岸くんは一見ドライなものの情が厚く普通に仲良さそうにしておりファンが喜んでいる模様。しかし岸くんは前述の通り異様に人に好かれる上に年代が近い子は結構な割合でヤンデレっぽくなっていくのでこれはこれで大変そう。
……いや申し訳ないが永瀬くんに関しては特にニワカなので、詳しいファンの方いらっしゃったら彼の魅力語ってください。ハマれば深い沼な予感はする。
高橋海人 『マイペース弟』 メンバーカラーはひまわりイエロー
おそろしくダンスが上手く声が可愛く弟力が高い。
顔立ち自体は愛くるしい系ではなくどことなく中東系を思わせる浅黒くミステリアスな風貌なのだが、あの顔と表情と声と仕草とを統合すると本当に可愛い。あちこちで可愛がられる天性の弟気質。
どのぐらい弟気質かというと、誰もに甘やかされる岩橋くんが甘やかすほど。
元々やっていたのはヒップホップ系のダンスで、ダンス大会での優勝経験もある。ジャニーズに入ったものの違うジャンルのダンスに戸惑い、しかも入所間もないのにセンターに抜擢され先輩ジュニアをバックに踊るという推されっぷりだったため過激派ジュニアファンにバッシングされ相当辛かったようだが、仲のいい人ができたり先輩に助言を貰ったりして、徐々に馴染んでいった。今ではにこにこアイドルスマイルで可愛い曲を歌ってくれるし、キレのいいダンスでかっこいい曲も踊ってくれる。
このグループのメンバーカラー、全て自称で、「深紅」「漆黒」辺りのほどよい中二感はおそらく笑いどころとして提示されたものと思われるが(とはいえ顔がいいので普通に似合う)、その流れで「ひまわりイエロー」と言い放った高橋くんのアイドル的発想力は目を見張るものがある。
当初の苦労の反動かグループへの帰属意識が強く、超人的アイドル平野くんに永瀬くんが複雑な思いを抱えていた頃(関西時代の永瀬くんは無邪気に平野くん大好きっ子だったようだが成長に合わせて変化したのは無理もない)、海人くんが仲を取り持つような形になった。
ぱっと見で濃い顔が苦手と思った人も大丈夫。彼のファン、大体「元々好きなのは○○くん(白くて淡白な顔)なのに何故か海人くんは滅茶苦茶可愛いしかっこいいと思う」って言ってるから。ギャップで殺すタイプ。
★可愛い弟を愛でつつ垣間見える男っぽさにどきっとしたい人、かっこいいダンスが見たい人向け。
長くなったけどこんな感じです!
細かいエピソードとかはファンの方のブログやツイッターで確認してね。
私はちゃんと追ってるわけではないのでミスがあったらごめんなさい。指摘くれれば訂正します。
デビューしてないジュニアの子たちも個性的で素敵だぞ!(だからこそ長きにわたりジュニア戦国時代が繰り広げられてきたんです……)
あとじぐいわは軽率に「わー男の子たちが仲良いの好きー」と思って情報を漁ってると段々脳が溶けていくというか思ってた以上の真剣さと重さと狂気に圧倒されます。青春を全部、なれる確証のないアイドル道への切符に突っ込む人達の非凡さと覚悟を舐めてはいけない。
アイドルにプロ意識を持っていて、かつこれから活躍することが決定しているアイドルを応援するの、とても気持ちが楽なので、疲れてる方にお勧めです。
キーワードを挙げると
・意味不明
・支離滅裂
・荒唐無稽
・腑に落ちない。
・雑
・コピペ
・つぎはぎ
・取ってつけた感
・脈絡のなさ
ふつう、物語があって起承転結するわけで、それに沿って必然性のある演出、展開、エピソードがある。だから腑に落ちる。
なんだけど、ラブライブは、経緯、エピソード、演出、情緒、といったものがクソ。
キャラクターと歌自体はまぁまぁだとは思うが、???が多すぎてそれらが全部吹っ飛んでる。自分の中で。
意味不明すぎてうまく言語化できていない。すごくモヤモヤして、腑に落ちなさだけが残る作品だった。
言いたいことや違和感の詳細は、だいたいこの批判記事に書かれていて腑に落ちた
劇場版ラブライブ!批判考察① http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
劇場版ラブライブ! 見てきたけどマジでクソ映画だった:オタクマガジン~黒歴史の向こう側へ~ - ブロマガ http://ch.nicovideo.jp/hirasawa_yui/blomaga/ar811153
たとえば、ニチアサ、戦隊モノやプリキュアっていうのはアタマをカラッポにして楽しむことができる。無意味なシーンやエピソードがない。子供と遊ぶような、それはそれでロールプレイして楽しむことができる。ラブライブはそういった類の楽しみ方もできない。
たとえばインドの踊りまくる映画とか、ハリウッドのB級映画とかの「考えるな、感じろ」系の作品は、たしかに同じ馬鹿なら踊らにゃソンソン!的なノリで見れば楽しむことはできるんだが、ラブライブはそういう楽しみ方もできない。一貫したものがないから。
けいおん!もあずにゃんが出てきたあたりで視聴挫折している。甘ったるい間延びした空気感に耐えられなくなって、視聴モチベーションの灯火が消えた感じ。
ラブライブを楽しめている人ってどういうノリなのか?わからん・・。楽しみ方の作法を教えてほしい。というかワイはアイドルアニメ、音楽部活アニメに向いてないのだろうか。ワイも老害になったのだろうか。
このブコメが腑に落ちた:
ラブライブ、基本的には好きだけど、一貫性のある物語や精緻な人物描写の「力」を信じている人には、それがなくてもあんなに売れちゃうんだーみたいな絶望感のある作品だと思う - heavenward のコメント / はてなブックマーク http://b.hatena.ne.jp/entry/257185110/comment/heavenward
ワイは、整合性が取れていないものに対して敏感に嫌悪を催すタイプなのか。脳内でコンパイルエラーを起こすから。整合が取れていないものを発言したり受け入れたりする人が生理的に受け付けられないなぁ・・。
でもアイマスアニメは、まぁまぁ全部みて楽しめたなぁ。あれはちゃんと「完成」されている。王者の安定感がある。単なる「記号」ではなく「人格」としてのキャラ立ち・個性が表現されていて、困難と努力のリアリティがあり、これぞアイドルプロデュースといったところ。ただ重課金ビジネスは嫌い。ラブライブは「人格」が弱い・・。
アイマス信者でもない。アニメやってたから見ただけ。ゲームやったこともない。
艦これのテレビアニメ版も、シリアスにしたいのかギャグにしたいのか支離滅裂で意味不明、最後の作戦も蛇足すぎたし、かなりのクソだったが、ラブライブはそれよりもさらに下を行くクソさ。
※ただ、艦これは映画でシリアス一辺倒路線で吹雪編(?)の締めをしていて、それはそれでまとまった作品になっていたので、評価は上がった。
仮に俺がお金を握っている立場だったら、脚本家や演出家に給料を出したくない。
でも悲しいけどこれってビジネスなのよね。売れればいい。それだけだ。
途中から紹介放送どうのじゃなくて、説の紹介を考えるの楽しくなってしまった。
(レギュラー)
みく。りーなよりは司会力がありそうなので、司会。
りーな。みくより司会力がなさそうなので、茶々を入れるポジション。
(ゲスト:五人ぐらいいるとガヤガヤ感が出るが、あまり尺がとれないのでインパクト強めの人がいいな)
楓。単発ゼリフで存在感を出せるといえば、だじゃれでキャラ立ちできるこの人。
桃華。説の前振りで「〇〇知ってますか?」に「知らない」と答えて「いやいやそれ前提ですやん」の流れをやっても違和感のないアイドルをチョイス。
ふみふみ。「これはありえるかもしれませんね」的なもっともらしいことを、もっともらしい顔でいえそうだから。
(プレゼンターと説)
プレゼンター:日菜子
日菜子が愛海の熱心さを紹介、みくにゃんも同意しゲストに愛海とのエピソードを聞く、
卯月が愛海との軽いエピソードを話す(その際にNGの二人が会話にだけでも出る)
愛海に「100m8秒で走ったら好きなアイドルのお山を自由にしていい」的なことを伝える。
「そこには真剣な瞳のうんぬんかんぬん」的な格好いいナレーション。
BGMに765の真の「フライトゥエブリウェアー」が流れながら、愛海がひたすらに黙々と100mを早く走るためのトレーニングをするシーンがくどいぐらい描かれて。
「棟方愛海の100m走の記録は「18秒45」」
スタジオに戻ってくる。
きらり「うきゃー、頑張る愛海ちゃんハピハピだにぃ」的なきらり語で愛海を褒める。
ふみふみ「そもそも、8秒台は女子の世界記録どころか、男子の世界記録すらも大きく超えてますから無理ですよ」
日菜子「ちなみに、このVTRの収録は一ヶ月前だったんですが、今日も愛海ちゃんはトレーニングしているそうです〜」
日菜子「愛海ちゃんからのメールによると今日のベストタイムは「18秒15」だったそうです」
日菜子「愛海ちゃん曰く「このペースなら十年後には!」だそうです」
みく「あきらめわるすぎだにゃ」
桃華「どう考えても無理ですわ」(ぶっちゃけ、スタジオに八人は多過ぎたわ)
ふみふみ「でも、この不可能に向かって頑張る姿こそ、アイドルがファンのみなさんに見せるべき(うんたらかんたらと正論のような綺麗事を並べる)」
卯月「ほんとうですね、負けてられません、島村卯月頑張ります!」(頑張ります)
楓「(ダジャレで締め)」
○朝食:焼きそば
○調子
久々にゲームに熱中できて、良い感じです。
木曜日と金曜日もお仕事ですが、真ん中にお休みがあるのは、少し楽ですね。
頑張るぞいや。
○Halo5
面白かった。
そりゃあ面白かった。
いつまでたっても改良しない盾と、長距離からのスナイプが特徴的なジャッカル
特徴的なステップとシールドを割るまでヘッドショットが効かないエリート
彼らと戦うというゲーム制自体が楽しいんだから、そりゃ面白いんだよ。
ゲーム性は正当進化って感じで、現行世代機一発目にふさわしい出来だったと思います。
ただ、ストーリーがなあ。
はっきり言ってよくわからないなあ、ナイトフォールやHalo2Aのムービーでさんざん焦らされてようやくプレイアブルキャラになったのに、いまいち好きになれなかった。
というか、嫌いにもなれなかった、マスターチーフが基本的に無口な無個性キャラなんだから、もっと個性を押し出して
台詞や演技を多くとってもらわないとなあって感じ。
最終ミッションで唐突にコルタナがファイアチームオシリスのメンバーの過去を語るのも唐突な感じ。
時間がなかったにしても、Halo:Reachの「リーチは俺の故郷なんだ、恩返ししないとな」みたいに、特徴的な台詞一つでキャラは立つはず。
5作目にして登場する新キャラなんだから、もっとキャラ立ちを意識して欲しかったなあ。
肝心のマスターチーフとコルタナのお話も、しっくりこなかった、というか
まだ始まってすらいない感じ。
あと、シナリオが完全に途中で終わってるところはきつかったなあ。
今回よかった点は
チーフが「博士が俺にしたようにか?」と自分の生まれに言及したところ。
これはよかった。
Haloシリーズの根底にある滅茶苦茶暗い設定と比較することで、コルタナのしようとしていることが如何に悪いことなのかがわかる。
これは単純に可愛い。
まあでも、Halo2もシナリオぶった切りだったし、アービターのキャラ立ち微妙だったけど、
Halo3でシナリオも完結したし、アービターも好きになれたわけだし。
Halo6に期待って感じかなあ。
ストーリーや探索要素まで導入する「PvZ Garden Warfare 2」“Backyard Battleground”エリアのゲームプレイ映像がお披露目
http://doope.jp/2015/1249714.html
最初はこじんまりとしたタワーディフェンスゲーだったんだけど、
どんどん肥大化していってるなあ。
でも、楽しそうだから、2までに1をやっておきたいなあ。
役者がその後活躍してたり、漫画版でかなりいい感じでアレンジされてたりっていうそういうのを含みに見るとすごくいいね。
あと、単純に舞台設定が神だな。『死のロングウォーク』のパクリだろって言われてるけどさ。
やっぱ、舞台設定だわ。それぞれの武器とか、知略とかできそうなところなのに、3日ってしばりでギャンブル性高くしたり。
結局川田って奴が最強って落ちだったりで。
キャラ立ちもかなりよかったと思う。
主要キャラが格好いい。
こういうキャラ達ってキャラ立ち強すぎて扱いにくいのに、舞台設定のしばりでウマーク回るね。
バトルロワイアルは、たくさん二次創作みたいなの出たけど。これ以上のものって、無いな。
やっぱ原作にして最高だわ。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
おっさんが二人死んだところでほんとどうでもいいことだし。
あんたらだれよって話。
もっと感動的な話とか、悲しい過去とか掘り下げてキャラ立ちすればまたちがうけどさ。
日本人は毎年資本主義によって3万人が自殺に追い込まれて殺されてるわけだが。
二人の十分生きたおっさんが死のうが知ったこっちゃないし、なんでこんな騒いでるのかよくわからない。
いや、これが10代美処女だったらぼくもかわいそうとは思うんだよ。
「○○ちゃんを救う会」とかいううさんくさい団体とかよくあるけど、あれには億のお金が集まるよね。
ほんとアホかと思うけどでも、まあ○○ちゃんはかわいいからまあそういうこともあるのかなって思う。
でもおっさんが死にそうだから寄付してくれって言っても完全スルーだよね。
何が言いたいかっていったら、かわいいは正義ってこと。
最近、『ベイマックス』に関していろいろな角度から意見が出ていますが、私も思ったことがあったので一つ。
もう既出かもしれない。
映画『ベイマックス』と講談社から出てるコミカライズ版について。
まぁ読んですぐわかるストーリーの違いとか設定の違いとかそういう話をしたいわけじゃないんです。
コミック版も面白かったと思います。ヒロくん可愛いよヒロくん。
兄さんとの別れとかもすごく劇的だし、黒幕に関してはちょっと別のフラグも見えてくる感じで面白い改変だったと思います。お母さん生きてるのは解せないけど。
まぁ、それはそれで置いておいて。
映画『ベイマックス』がPCに配慮されてる、みたいな話題はしばらく前からちょくちょく出ていたと思います。
正直PCとか差別問題とかにとりたてて詳しいわけじゃないし、私としてはとりあえず、「誰かを不愉快にさせるような表現」がないか、ってことに気をつけていくべき、ということなんだろうな、というぐらいの認識です。
でも、私は映画見て、そういう記事読んで、正直「いろいろ考えてる人は大変だなぁ」って思ってしまいました。
確かに、配慮されてたし、すっきり何も不愉快さを感じることなくひたすら面白かった。
あと、この映画の世界って基本的には誰もいじめられなくて、起こる死や怪我は基本的には事故で、
なんていうか、すごく悪意のない世界だったんだよね。
でも、「だからこの映画には価値がある」と言い切るのもどうよ。
面白さの理由の一つに数えるのはいいけど、それで延々論じるのもなぁ。
日本のアニメはPCに配慮されてない!って、まぁそういう作品もあるかもしれないけど、少なくとも言われるまで問題にする気なかったよ私の中では。
そのぐらいの感じで読んでました。
でも、コミック版を読んで、私はその部分に映画版との違いを感じてしまった。
こういう話になると、いっつも女性問題がどうのフェミニストがどうのっていう話が湧いてくるので、今回はそういう政治的「差別」の話は抜き。
したいのは「世界にある悪意」の話。
例をあげましょう。
ハニーレモンとゴーゴーです。
この二人には、コミカライズによって映画より強調されている性格があります。
ハニーレモンがドジっ子である点と、ゴーゴーが少々(?)暴力的な子であるという点。
こういったキャラ付けは、(少なくとも私は)映画では読み取れなかった。
もしかしたら、そういう設定はあったのかもしれない。でも映画ではハニーレモンは超ポジティブな子だったし、ゴーゴーはクールでタフだった。そういう面が強調されていた。
みんなけっこうマイペースというか自由人だけど、彼らのそれは短所として扱われていない。
確かに、キャラクターに欠点を設定すると、キャラが生き生きして動かしやすくなる、キャラ立ちする、という効果はあります。たぶんそういう目的でついた設定なのだと思います。
でも、それって本当に必要だったの?
さらに、コミック版のヒロはそれに「ノロマ」「バカ」「暴力女」と評価をつける。
うちのヒロくんはそんなこと言わない(モンスターペアレント)
なんとなーく、悲しくなってしまったんですよね。
こんなのなければ、私もっと楽しくストーリーを追えたのにって。
ついでに言えば、エピソード0、ヒロくんが天才だったことで子供たちにいじめられていたという設定。
確かにこういうのよくあります。私も好きです。そういう設定。いいよね。
でもそれ、本当に必要だった?
映画を見ていると、あの映画の世界でそういう前日譚があったようには思えないんですよね。
映画『ベイマックス』の世界は、「悪意」が少ない世界だった、と書きました。
でもコミカライズの世界には映画よりも「悪意」が確かに存在している。
実際の世界なんてコミカライズのほうです。世の中の面白いものの大半は後者のような「悪意」が生み出してると私は思ってる。
普段漫画を読んでる時に、私はそんなこと気にしない。
でも、映画を見て、コミカライズを読んだら、その違いにひっかかりを感じてしまったんですよね。
私はハニーレモンの性格付けが女性としてどうの、とか、日米の違いがどうの、とかを言いたいわけじゃありません。(たぶんD社は確認してOK出してるんだろうし)
最後には好みとジャンルの問題です。嫁姑の確執!みたいな「悪意」の部分をひたすら楽しむレディコミとかあるしね。それはそれで。
絶賛劇場公開中の楽園追放を観てきたので感じたことを列記したい。
ネタバレを含むので注意。
映画館の環境で観るべき作品なので、BDレンタルを待ってる人は迷わず足を運ぶべきだ。
DVDで見ようと思ってる人は機会損失となることを予言する。今すぐ考え直せ。
「楽園追放-Expelled from Paradise-」
からだにぴったりと纏わり付くスーツ(というかタイツ)は、およそ進歩的な人類を服装で表現する時にありがちな手法だ。観始めたとき、スタッフがスター・トレックの呪縛から逃れていないのではと思った。おそらくそれはあくまで地球残市民との対比をわかりやすく表現することと、特定の市場を意識した結果だろう。緑色の装飾品の意味はアンテナ?それとも光合成するとか?これは最後まで分からなかった。
16歳といえば日本では法的に婚姻できる歳。アンジェラは「他の捜査官を出し抜きたかった」といって物理的な身体の生成時間を早め、16歳の少女の身体を持ち地球に降り立つ。降り立つ時は子宮をメタファーとした卑猥なディティールで表現された。ディーヴァでは人類が考えうる精神的探求を経験したアンジェラだが、地球で生身の人類と出会い、「大人」になるためには、最低限16歳となり、生まれる必要があったのだ。映画の最後のシーンでは、地球で、フロンティアセッターを旅立たせることに意味を見出し、身体的な異性と接触する。ディンゴに抱かれた時アンジェラが顔を赤らめたのには意味がある。
日々進歩するテクノロジーニュースに賑わう私たちの世界にとって、理解しやすい範囲で、そして400年後には思想的に陳腐化していることを心配したくなるテクノロジーが使われている。しかしこの映画にとってはテクノロジーそれ自体は主題ではなく、グレッグイーガンのようについていけないぐらいの言語環境を構築する必要もない。この映画が語りたい言葉は、観客側の現実世界の、テクノロジーに溢れた社会での人間性を表現することにあるのだから。
映画の冒頭部分でアンジェラがディーヴァで公安捜査を行っているとき、突如ハッキングしてきたフロンティアセッターの犯行からアクセス元(!)を割り出し、回線(!)の中で捕まえようとアンジェラが文字通り電気信号となり、何故か金平糖のようになったフロンティアセッターと光速のアクションシーンを巻き起こす。映画館の音響環境で見たときは疑いようもなくゲームの「REZ」だと思ったし、エレクトロミュージックは最高にシビれた。
私はロボットが出てくるアニメを観るたびに「何故その形状なのか」に意識がいきがちとなってしまう。今回も、何故人型で銃型の武器やわざわざ剣や盾を使って戦わないとならないのか、または運転席でバイクに跨らないとならないのか、最後まで理解できなかった。宇宙スケールでの戦闘を表現するために「ロボット」という記号を使わないこと以外に方法がないのだろう。
地球に残された人類は、400年も経っているというのにナノハザードから時間が経過していないかのような荒廃した世界に住んでいる。廃墟都市のイージーなイメージであるアジアンな看板と雑多な路地そして個人商店。ディンゴはゆきずりの傭兵であり、西部劇のようなアンジェラとの出会いはディンゴのキャラクターをよく表していた。
劇中では骨、つまり身体で感じる音楽というものについて、電脳世界にのみ生きてきたアンジェラが首を傾げる。これは物語のテーマを象徴するデータと身体性の対比についての比喩である。
なぜ400年もの間、リソースについて有限ではあるが最高権限を持つディーヴァ首脳陣がおよそ意味を見い出せるとも思えない自治を続けているのか。同じバージョンのシムシティを数百年繰り返して飽きない自信は私にはない。進歩を繰り返した結果がジョージ・オーウェル的なディストピア?まぁ所詮は故郷を捨てて自分達の世界に引きこもろうとする人間達だったのだから仕方ないとも言える。
押井守のスカイ・クロラよろしく、キャラ立ちした少女たちが金太郎飴のように、アンジェラと同じく露出の高いスーツでバイクに跨り戦闘が行われる。この戦闘ではアンジェラはフロンティアセッターの演算能力を使い、ディーヴァ側の捜査員達より一歩秀でた戦闘能力を発揮する。お互いの戦闘方法に進歩した戦術といえるものが見い出しずらいが、そもそも進歩した人間が未だ殺し合いで解決しようと考えるのは400年後にとって果たして合理的であるのか。余談だがバイクとロボットが男性の象徴であるとするのは考えすぎだろうか。
ディーヴァとの戦闘が終わり、ディンゴによって人間と承認されたフロンティアセッターが宇宙へと旅立つ。と、この見送ろうというシーンで初めてアンジェラのブーツの固い足音が私の耳に障った。まるでこれから地球に足をつけて暮らそうと言っているかのような耳障りな音。このシーンの後、靴を脱ぐシーンがあるかと思ったが、それは野暮というものだろう。
以上、観た勢いで思ったことを綴ってみた。
都合がつけば来週にも、もう1度は劇場で観たいと思っている。
アニメふだん見ないから、まとめとかTwitterで話題になってる絵をチラ見するぐらいだけど
アニメに出てくる「ダサい」服装って、決して「地味」ってことじゃなくて
「明らかに余計なことをしている」ことに起因するケースが多いんじゃないかなと思う
https://twitter.com/yaoipops/status/484548981737799683/photo/1
たとえばこれだと、
・謎色ベストの謎ワッペン(この謎ベスト着てなければ超ダサくはならないと思う)
・カットソーの謎プリントと謎肩ベルト(単色・オフショルダーのカットソーじゃあかんのだろうか)
なんていうんだろう、ダイエーとかヨーカドーの洋服売り場感満載
ブコメで「作画に手間がかかるから」って言ってる人いるけど、無地にわざわざ描き足してるんだから、スタッフの趣味ってことだよね
作品世界に合ってさえいればいいんだろうから、最先端の尖ったファッションにすべきとは思わない
ただ目に優しい「無難さ」ってのはもう少し意識してもいいんじゃないの、とは思う
前にアイドルマスターのキャラの私服っての見たけど、あれはアニメの女の子の服装として理想的じゃないかしら
プライベートを報じられる/報じられない境界はどこにあるんかな。
ってことを、小保方博士の件を見てて思ったんですよ。
つらつら思いつくままに挙げていってみます。
でも、その報道の中では別にプライベートには突っ込まれてなかったような気がする。
見た目の地味さ(個人的には良いメガネっ娘だと思う)、将棋という種目のストイックさが阻んだのか?
ちょっと古い話ですけど、W杯とオリンピックの活躍の後の報道といったら、そりゃもうアレでしたよね。
川澄さんは(柏木に似ているものの)カワイイという一般的評価を得ている方ですから、やっぱり見た目でしょうか。
あとはネイルとかピンクのゴムとか、突っ込みどころが割とあったせいかもしれません。
女流作家の受賞も多い芥川賞ですが、男女の別を問わず、結構プライベートまで報じられがちに感じます。
「それまでの人生が作品のバックボーンになっている」という思想なんですかね?
歴代でも報道過熱といえば、綿矢りささん・金原ひとみさんのW受賞の時でしょう。若さ・ビジュアル・キャラ立ちと完璧でした。
余談ですが、直木賞の方は比較的人物報道が軽めなのはなんででしょうね。
若いしビジュアルも悪くない、でもそこまでプライベートが話題になっていた記憶はありません。
こと政治家は身近さを売り出すためか、家族だの好物だの、自らプライベートなことをPRしがちだと思うんですが。
とりとめもない印象の書きなぐりですけど、結局のところ
・見た目が華やかか/地味か
ということなんでしょうかね。
小保方博士もお気の毒なことでした。
ikd18 金になるかならないか。
いやそうなんですけど、その『「お父さんのための~」の対象になるか/金になるか/数字がとれるか』の基準はどこにあんの?って話です。