最近、『ベイマックス』に関していろいろな角度から意見が出ていますが、私も思ったことがあったので一つ。
もう既出かもしれない。
映画『ベイマックス』と講談社から出てるコミカライズ版について。
まぁ読んですぐわかるストーリーの違いとか設定の違いとかそういう話をしたいわけじゃないんです。
コミック版も面白かったと思います。ヒロくん可愛いよヒロくん。
兄さんとの別れとかもすごく劇的だし、黒幕に関してはちょっと別のフラグも見えてくる感じで面白い改変だったと思います。お母さん生きてるのは解せないけど。
まぁ、それはそれで置いておいて。
映画『ベイマックス』がPCに配慮されてる、みたいな話題はしばらく前からちょくちょく出ていたと思います。
正直PCとか差別問題とかにとりたてて詳しいわけじゃないし、私としてはとりあえず、「誰かを不愉快にさせるような表現」がないか、ってことに気をつけていくべき、ということなんだろうな、というぐらいの認識です。
でも、私は映画見て、そういう記事読んで、正直「いろいろ考えてる人は大変だなぁ」って思ってしまいました。
確かに、配慮されてたし、すっきり何も不愉快さを感じることなくひたすら面白かった。
あと、この映画の世界って基本的には誰もいじめられなくて、起こる死や怪我は基本的には事故で、
なんていうか、すごく悪意のない世界だったんだよね。
でも、「だからこの映画には価値がある」と言い切るのもどうよ。
面白さの理由の一つに数えるのはいいけど、それで延々論じるのもなぁ。
日本のアニメはPCに配慮されてない!って、まぁそういう作品もあるかもしれないけど、少なくとも言われるまで問題にする気なかったよ私の中では。
そのぐらいの感じで読んでました。
でも、コミック版を読んで、私はその部分に映画版との違いを感じてしまった。
こういう話になると、いっつも女性問題がどうのフェミニストがどうのっていう話が湧いてくるので、今回はそういう政治的「差別」の話は抜き。
したいのは「世界にある悪意」の話。
例をあげましょう。
ハニーレモンとゴーゴーです。
この二人には、コミカライズによって映画より強調されている性格があります。
ハニーレモンがドジっ子である点と、ゴーゴーが少々(?)暴力的な子であるという点。
こういったキャラ付けは、(少なくとも私は)映画では読み取れなかった。
もしかしたら、そういう設定はあったのかもしれない。でも映画ではハニーレモンは超ポジティブな子だったし、ゴーゴーはクールでタフだった。そういう面が強調されていた。
みんなけっこうマイペースというか自由人だけど、彼らのそれは短所として扱われていない。
確かに、キャラクターに欠点を設定すると、キャラが生き生きして動かしやすくなる、キャラ立ちする、という効果はあります。たぶんそういう目的でついた設定なのだと思います。
でも、それって本当に必要だったの?
さらに、コミック版のヒロはそれに「ノロマ」「バカ」「暴力女」と評価をつける。
うちのヒロくんはそんなこと言わない(モンスターペアレント)
なんとなーく、悲しくなってしまったんですよね。
こんなのなければ、私もっと楽しくストーリーを追えたのにって。
ついでに言えば、エピソード0、ヒロくんが天才だったことで子供たちにいじめられていたという設定。
確かにこういうのよくあります。私も好きです。そういう設定。いいよね。
でもそれ、本当に必要だった?
映画を見ていると、あの映画の世界でそういう前日譚があったようには思えないんですよね。
映画『ベイマックス』の世界は、「悪意」が少ない世界だった、と書きました。
でもコミカライズの世界には映画よりも「悪意」が確かに存在している。
実際の世界なんてコミカライズのほうです。世の中の面白いものの大半は後者のような「悪意」が生み出してると私は思ってる。
普段漫画を読んでる時に、私はそんなこと気にしない。
でも、映画を見て、コミカライズを読んだら、その違いにひっかかりを感じてしまったんですよね。
私はハニーレモンの性格付けが女性としてどうの、とか、日米の違いがどうの、とかを言いたいわけじゃありません。(たぶんD社は確認してOK出してるんだろうし)
最後には好みとジャンルの問題です。嫁姑の確執!みたいな「悪意」の部分をひたすら楽しむレディコミとかあるしね。それはそれで。