はてなキーワード: あの世とは
いちいち「よくわからないけど」みたいな断りを入れてこんなセンシティブな話題にコメントをしている人はなんなのか。別にブックマークは義務じゃないんだし、よくわかんないなら黙っとけばいいだろ。知能が猿以下。
ばかかこいつ。
よくわかんないわけじゃなくてわかりたくないし関わりたくないしつまんねー話題をホッテントリにあげんなって気持ちだし、こういう「俺はこの話題をわかってます」というだけでなんか偉そうにしてるこういうゴミコメントする人には事故にあってあの世へいって欲しいという気持ち。
なんでいちいちこんなゴミみたいな話題を理解しなきゃいけねえんだよ。
どっちもどっちだよ。
等しくどうでもいいという意味において。
つまんねえ話してるくせに自分が盛り上がってる話題がすごく大事で価値があると思い込んでんじゃねえよ
誤字で弄ばれた。
6.70年後とかならまあ医学が発達すればワンチャン自分も生きてるかもねえとは思うんだけどさ、100年より先のことまで考えてる人を見るとどうにもね。
今の科学や医療の発達を考えれば流石に100年後は生きてないでしょう自分ら。
わざわざ自分から滅ぼすような真似をしたり今すぐ地球が駄目になるような事をするのはそりゃアホのすることだとあっしも思いますがね、200年後の子どもたちに綺麗な地球を残しましょうみたいなのになっちゃうと付いていけませんわ。
死んでるんですよ自分ら。
人間は死んだら無になるもんです。
あの世には何も持ってけねえ。
地球を綺麗にしておきましたって思い出も消えちまうんだ。
それなら今自分が生きてる時間を楽しむのが正しいってもんでしょ。
世の中の爺さん婆さんを見なさいよ。
孫の世代のことなんて知ったこっちゃないと言わんばかりに好き放題やってる。
まああそこまで行くとどうにも生き汚くて見てられねえって気持ちもムクムク湧いてきますがね、それでもやれ云百年先になっても今と同じように暮らせるようにしましょうなんて頓珍漢な事言ってる連中と比べりゃまだ心根が澄んでるってもんだ。
云百年先の世界じゃその世界なりの生き方ってのがあるでしょうに、それが自分らの生きてきた時代と同じでないと困るだろうなんて押し付けですよ。
ああいう連中が人工知能に仕事を奪われたら人間は生きていけなくなって野垂れ死ぬみたいなピントをどこに合わせてんのかも分からん与太を口にするんでしょうかねえ。
地球が温まる事が全く無かったら氷河期が来たまま今でも世界中がシベリアになってらあ。
でもね、とりあえず自分らの世代が生き残ることが出来る程度で十分って具合に考えりゃあいいじゃないですか。
どうせ次の世代に切り替わればその次の世代が尻に火を付けて頑張ってくれるでしょう。
まだまだ余裕のある世代が格好つけて頭捻っても見てくれだけのトンチキなエンバイロメンタリズムが飛び出してくるだけだ。
そんなのはどうせ政治家が愛人に貢ぐ金を取ってくるだけの隠れ蓑にしかなりませんよ。
結果的にはお偉いさん以外は誰も得しない。
必要になる人間が本気に考えてこそ意味のある環境保護が生まれるもんでしょう。
オオカミ少年だかノストラダムスの大予言だか分からんような大言壮語を触れ回って募金を募ったりあれこれ規制するような真似はやめましょうや。
バブル芸人とやらが人気である。80年生まれの私は、当時のことを懐かしむ思いを感じつつも、微妙な気分で眺めている。何故?バブル経済は悪だったからである。続く「失われた20年」生み出した元凶。(ちなみに「失われた20年」は英語で”lost two decade”であり、「負けた」という意味もある。)彼女なんかはあの時代を茶化してやってるんだろうからいい。でも、ここのところ、なんか素晴らしい時代だったかのような受け取られ方をされてる雰囲気を感じてしまって、イヤなのだ。
そんな雰囲気を感じてるんだろう、金融関連ではバブル史本の出版がラッシュである。どうせ当時の銀行員か何かが自己正当化の文言を並べてて、こんなことが今後あってはならない、みたいなまとめられ方をしてるんだろう。読んでないから分からないけど。
バブル経済の後遺症が長引いた原因は、バブル崩壊当時、窮地に立たされた銀行を国が救ってしまったことにある。バブル期に後先考えず融資した金が焦げ付き、国全体の金の流れを止めた。いわゆる不良債権問題である。あの時、銀行をじゃんじゃん潰してしまって、焼け野原からスタートした方が良かった。20年を失ってしまったあとでは、そう思える。ちなみに私が大学を卒業したのが2003年、就職率がワーストを記録した年である。バブル崩壊から10年以上過ぎた当時ですら、不良債権問題はくすぶっていた。
今となってはバブル期という一面的な捉え方しかされないが、私が幼少の頃を過ごした80年代は、冷戦の時代でもあった。幼心に最初に覚えている政治家は、中曽根、レーガン、そしてゴルバチョフだ。まだ、ロシアがソ連と呼ばれていた時代、スポーツの国際大会なんかでは「西ドイツ」代表が良く出てたのを思い出す。なんてったって核兵器の量がハンパじゃない。その当時は40何億人くらいだったと思うけど、全人類を殺しても余るくらいの核兵器があった。いわゆるオーバーキルというやつ。
その頃、こういった状況を反映して、人類滅亡後の世界を描くようなマンガや映画が作られていた。私がいちばん思い出すのは、「北斗の拳」と「ターミネーター」だ。「ターミネーター」の方は、スカイネットというコンピューターが暴走して世界を壊滅させてしまうって設定だったと思うが、今、キューバ危機なんかのことも合わせて考えてると、もの凄くリアルだ。ちょっとしたボタンの掛け違いで、全面核戦争に突入してしまう危険性があったのだ。
「北斗の拳」の方は表面的には、格闘技マンガで、私もそのように楽しんでいた部分もある。しかし設定が怖かった。なんといっても「199X年」である。現実に起こりうる未来、世界が滅亡してしまうかもしれない未来。今となっては笑いものではあるが、こんな設定が、時代の中でリアリティーを持ったのである。そして幼い私は、そんな小さな恐怖を受け取ってしまったのである。
80年代から90年代にかけて、バブル経済は崩壊、またソ連が崩壊して冷戦は終結した。この2つの重大な出来事が同時期に起きてしまったことが、日本人にとっては不幸なことだったと思う。冷戦が終わり全面核戦争の危機は去ったにも関わらず、経済的な壊滅状態がやってきてしまい、安心を感じれなかった。「世界は滅亡しない」という安心を。
そんな不安感の中、オウム真理教が登場し、信者を集め、凶行に走った。彼らが持ってた終末思想は麻原個人によるものも大きいが、多くの日本人が心のどこかで持っていた疑念と共振していた。世界は何か別の形で滅亡してしまうんじゃないだろうか?と。阪神大震災がダメ押しになったのも無理はない。95年だ。
ちょっと違うかもしれないけど、90年代末に登場したエヴァンゲリオンにも触れておきたい。エヴァンゲリオンのメインのテーマは親子関係であるとか、成長であるとか、そういったことになるのかも知れない。しかし、設定として「サードインパクト」なる壊滅的な何かが起こった後の世界が舞台となっている。ここでも世界が滅ばない訳では無いのである。いずれにせよ、私達に「世界は滅ばない」と安心させてくれるものではなかった。
そして、21世紀の現在、新たな「終わり」を予感させる出来事が次々と起こっている。それはやはり、2016年のイギリスEU離脱、そしてトランプ大統領の誕生である。世界が大きく動いている。何かこれまでとは違ったことが、起きているし、これからも起きるだろう。もしかしてこれは、「終わりの始まり」なのか・・・。書店に行った。「たとえ世界が終わっても」という新書が並んでいた。
そんな中、話題の「けものフレンズ」を見た。なんでも、「疲れたオッサンを癒やしてくれる」らしい。私も36のいいオッサンで、程よく疲れている。癒やされるか。そして見てみたところ、なかなか楽しくはあるが、いまいちピンと来ない。「すごーい」や「たのしーい」で微笑ませてくれるんじゃないのか。それとも自分には合わないだけなのか。
でも、ふとした時に気がついた。あの世界、「ジャパリパーク」は冷戦の終結と、バブルの崩壊の2つを同時に表現していると。バブル期に日本では、アミューズメントパークが雨後の筍の如く建設され、そしてバブル崩壊と同時に多くが破綻し、そして廃墟化していった。「ジャパリパーク」はそんな廃墟化したアミューズメントパークそのものだ。人間が出てこないし、話題になっているように人類滅亡後の世界に思えなくもないが、アミューズメントパークが倒産しただけだ。冷戦は終わった。世界は終わらない。そう思うと涙が出てきた。
確かにオッサンを癒やす作品だ。でも、私の場合はそのほのぼのとした雰囲気にそのまま癒やされるのでは無かった。自分が幼い頃から育んできてしまった小さな恐怖、心に刺さってしまっていた小さなトゲを、取り去ってくれるという形で、癒やされた。すごーい!
未だに死んだ友達の歳を数えている。
先に言っておくが、これはポエムだ。
15歳で死んだ君は今日30歳になるはずだった。
15歳だった俺は来週30歳になる。
15年経った。
15年も経ったのか。
君が死んだとき、
15歳だった俺は、
毎日途方に暮れ、
挙句、
あの世で君と久しぶりに再会し、
すぐに答えられるよう、
「実はさあ」といつものようにこたえられるよう、
毎日を楽しく生きることにした。
それから15年経った。
早い。
色々あったよ15年。
新しい友達ができて、
新しい家族も増えて、
行ったことのない場所に行って、
食べたことのないものを食べて、
好きな人ができて、
君に話したいことがたくさんあったけど、
ずいぶん忘れてしまった。
とりあえず今話したいことは、
なんだろう。
家を買ったこと。
君が死んでから。
結婚したこと。
俺はまだ少年ジャンプを買っていて、
ワンピースの連載は続いている。
そろそろまた解散すると思う。
来年の今頃には、
君が生きていた人生よりも
信じられないけど、
住宅ローンはまだ34年も残っている。
もう上映も終わりかけてるらしいし映画賞も一通りとったのでネタバレするぞ。
主人公のすずさんが終盤にかけて色んな大切なものを失うシーン。
すずさんからある大事な存在と共に、特別で大切な拠り所みたいなものが消えていく。
あのシーンが本当につらくて、その後もエンドロールも含めて、彼女は失った代わりに何を手に入れたのだろうと考えた。
最後の『ある子供』はそうだろう。でも、かけがえのないひとつを失ってまで手に入れるものだろうか。交換ではなく、新たなものであり、失った事実は消えない。
でも主人公はじめ、生きているみんなはそれでも生きていく。
でもすずさんはこれから、どこに寄り添って生きていくことが出来るんだろう?
すずさんは、もともと絵を描くことで自分の持てあましている感情を吐き出していたけれど、あるときから、自分でも認識していなかったような感情を、言葉や表情で表現するようになるんです。
この解説が、この疑問の答えだと思った。
主演声優が言うのだから、というよりも、そういえば声が変わっていたのだ。のんが評価される部分はだんだん変化してくすずさんの感情を表現できているからだろう。
すずさんの感性が映画全体の雰囲気と、発する言葉を変えていく。
彼女のことだからそのうちまた絵を描くようになるかもしれないし、感性は失われない。少しの変化はあるかもしれないが、戦争を持ってしても変えられなかった部分がそこにある。戦争はすべてを奪えなかった。
「悲しすぎてもう見れない」
「希望がある気がした」
個人としては後者の感想だ。しかしその希望は考えれば考えるほど分からなくなった。
映画本編終了後、あの世界では確実に大勢が死ぬのだ。主要人物だけではなく、あの日すぐに救援に向かった近所の人たちも。
時限爆弾のように、いろんなことが彼女の周りの悲劇になっていく。
しかし記事を読んだとき、もしかしたら、すずさんがすずさんであり続けてくれたことが希望なのかもしれない…という考えになった。
終わる前にもう一度見て来ようと思う。
それで円盤を…いつになるのかなぁ?遅いのかなぁ?困ったねぇ。
http://anond.hatelabo.jp/20170208235429
率直に書く。総合的な感想や考察は落ち着いたら書くつもりだけど、壁打ち悲しいから書かないかも。(というか他作品観劇したらもう書けなくなるだろうから、勢いつかないと現実的に厳しそう)
トゥルーエンドではないけどグッドエンドはもう前回観れたから、推理の旅を終えていいようにも思っている。あとやはり証人が足りない。私の観たルートより先の話が展開されないと推理が苦しいし淋しい。
初見と印象が違いすぎる。
何が変わった? 私が変わった?
今回はまったくもやもやしなかった。ただあるがまま受け止めてほんと苦しい。
今作はもうずっと『諸戸と簑浦』の話しかしていない。だからもうつらい。世界に二人しか居ない。つらい。
時系列順に。
ちなみに『私』と『箕浦』と《わたし》と《みのうら》と簑浦が出てきます。
手記の内容は、すべて完全に諸戸についての内容。つらすぎ。
『私』は諸戸を「哀れ」と評す。まじかよ。
奥さんがお茶を入れてくれてそれを飲んだはずなのに、誰かいませんか?的なことを言う。え、やっぱこの『私』お亡くなりになってない?
そして諸戸登場。語り部の『私』と会話する。おかしくない?
だから最初は『私』も諸戸も亡くなってて、死後の世界に見えてならなかった。
てゆか、今日見た諸戸がこわくてこわくて、ずっとすごいこわくて。諸戸の亡霊みがやばかった。成仏してない霊感。
初見は王子様のような諸戸だったのに、何が変わった? 私が変わった?
『私』と諸戸は二人で一緒に過去を振り返る。
諸戸との最初の決別、夜の告白の時、聞いてる時の『私』はものすごく悲しそうな切なく美しい顔をする。嫌悪の色ではない。
『私』は諸戸に「性愛には応えられないけれど一緒に遊んだりした友情には感謝しているし君もそれを喜んでいるように見えた」的なことを言うのだけど、これ少なくとも2回目撃している。隠喩だったかそのままだったか…どこだっけ思い出せない丈五郎と道雄だっけ…? すごいつらい。
あのね『私』と『箕浦』が互いに演じた《わたし》と《みのうら》、《わたし》は未来をすべて知っているようで(諸戸の死を含む)、《みのうら》は生きてるからすごく生命力のある反応をする。『私』が《みのうら》になって井戸出たときなんて、それまでとのギャップにちょっとびっくりした。
ここで振り返ったのは過去だから未来ではないけれど、どうにも諸戸からも時間を感じない。(ミスリーみあるけど)
似てきたなと私が感じたのは、この冒頭の『私』と諸戸、諸戸親子、諸戸と吉ちゃん。親子はアフタートークでも言われていたけど…というかあの世界は「諸戸と簑浦に関すること以外すべてカット」されているので、全部が諸戸であり簑浦であってくるしくて無理。常にライフ削ってくる。
大人になってから。『箕浦』は「ここからは僕が」と言って登場する。おかしい。どうして語り部の語る内容にキャラクターが介入できる?
だから私は、ああこれは『演劇』なのだな、と気付く。原作では簑浦が口頭でこの物語を語ってくれるのだっけ?それとも小説? ここではその語り口が『演劇』なのだと。
『箕浦』は『私』が初代に渡そうとした指輪も意気揚々と奪ってくる。《みのうら》演じている『箕浦』は本当に生命力に溢れてる。
嗚呼だめだ寝落ちたらもう思い出せない…『箕浦』だけは「諸戸と簑浦に関すること」が何もない存在だったようにも思えてくるけど、もう私の記憶は証人として使えなくなってしまった。
『私』は決して初代を「美しい」と言わなかった。まわりくどく魅力を説明する。その形容自体に違和感は無いが、乱歩が連載初期から意図的に言語を使っていたのなら、初代を「美しい」と表現しないのは変だ。簑浦にとっての初代の価値が軽すぎる。
『箕浦』は何についても「美しい」と言わなかった。やはり簑浦は矛盾や歪さを抱えていないか? それを『私』と『箕浦』で同時成立させていないか。『私』と『箕浦』は別々の役割をもった役者。
初代は証言する。正面を向いて淡々と切々と語る。あれは諸戸のことではなかったかしら。初代だけに存在する追加情報の時だけ『箕浦』を見て『箕浦』に話しかけてやいなかったか?
『私』のかんばせが本当に何の欠点も無いようなほど美しく、そしてとても表情豊かで観客をガンガン見てくる。目が合うとかじゃなくて、観客の目を見てくる。後方でも目を見てくる。つまり語りかけ度がぱない。あいつはメッセージを発している。
対して『箕浦』からはそんな様子を受けない。《わたし》を演じる時間が短いからかもしれないし、セリフが少ないせいかもしれないし、ずっと座っているから私の座席位置がかすらずそう見えなかっただけかもしれない。
いや、ほかの『役者』もそうだった。わざわざ観客の目を見てきたりしない。あれは『私』だけだ。
(正確な表現を思い出せない…2時間以上の空間を丸暗記してそれを体験した自分の心理思考も記憶して寝落ちリセット回避はこのセリフ量だと流石に無理ゲー過ぎ…でも記録に残すならちゃんとしたい…)
初代が亡くなった時に現場での出来事にしっかり対応していたのは『私』。泣き崩れてずっと耐えているのが『箕浦』。
深山木を訪ねてからは、未来を知っている《わたし》役の『私』は度々悔しそう・つらそう・悲しそうな表情をする。
『私』には彼を救えないから? ねぇ、これ『私』にもそういった感情がちゃんとある描写だよ。
初代と深山木さんを亡くしてから場面転換の際にオープニング曲としか聞こえない音楽が入る。唸りをあげて悶絶する『箕浦』。あ、ここ襲いかかる諸戸の唸りと重なる。
諸戸に関係ないところでも、疑心暗鬼なセリフはすべて『私』が言っていたように思ったけど…いやこれは断言して大丈夫では。
しかし確実に《みのうら》の口から「諸戸を疑っている」主旨の言葉が出たときは『箕浦』が発言するし、
諸戸から「君は疑っているんじゃないのかい」といった疑心暗鬼を抱いている主旨の言葉が出たときに対面しているのは『私』と、徹底していた。
諸戸と『箕浦』が家で初めて会話している時、諸戸を見つめる『私』がくそやばい。愛憎ぶちこんだ流し目の破壊力。軽蔑の目線でもあっただろうか?嗚呼ほんと駄目だ脳がリセットされて正確に思い出せない!
ああ、でもここで諸戸を見つめる『私』は、『私』を見つめる諸戸に似ている。それは性愛を込めた時じゃなくて島で秀ちゃんに夢中になってる『私』を見ている時のそれ。
「子どもは残酷」って諸戸が説明したとき、めちゃくちゃ学生時代の簑浦思い出した。
しかし諸戸の話題が《みのうら》への愛についてから事件の推理パートに移ってからはクソつまんなそうに家ん中ブラブラして諸戸の推理聞き流してる風に壺にしなだれかかってる『私』だるえろかわい過ぎだった。「ねぇ~まだぁ~?」してる子猫ちゃんかよ。たぶん唯一私が萌えれて心を緩められたシーン。
ずっと『私』は推理パートつまんなそうにしていたのかなと思いきや、だるえろかわいいのあそこだけで、曲技団に刑事と行った時とか身を乗り出して聞いていた。
いや、あれは『箕浦』の代わりに演じていたのか?
あそこ本当に諸戸が『箕浦』のことを狙っていた。すごくこわい。じわじわ距離詰めてくる。こわい。あれなんであそこにそんな描写入れたんだろう。あの時の話題は何だっけ…おとっつぁんについて?
秀ちゃんの手記。まじつらい。ぜんぶ諸戸と簑浦の話でつらい。
ぜんぶ諸戸と簑浦の話であるから、『手記の秀ちゃん』に母親が居ないから、この舞台での諸戸にも母親が居なかった。(正確に言うと丈五郎が母親の話をするが、諸戸は母親の話を一切しない)
原作未読であるので自分で確認できないのだが、諸戸が母親について告白する場面はそんなにカットが必要な位置にあるのだろうか?
諸戸が母親から性的虐待を受け、それによって女性に嫌悪感を持ち女性は愛せなくなったこと。親からの愛情が与えられず性行為でだけ情を向けられたから、諸戸が簑浦へ向ける愛情も性愛以外の多様さをみせられないこと。これらは諸戸の歪な愛を単なる超自我とイドのせめぎあいにさせず、諸戸が『かたわ』と比喩できる大きな理由となっていると思う。
手記の後に諸戸がどちらと会話をしていたか覚えていない…記憶の砂が零れ落ちていくの恐ろしい…
おそらく『箕浦』と話している? 系図帳から暗号見つけるのはここか?
島へ行く途中の列車?船?の中、諸戸が「疑っている?」と問いただすのは『私』で、その話題が終わるとすぐに『箕浦』に入れ替わる。
だめだここですべきは事実の羅列ではなく印象という目撃証言を残すことだ。
島に着いた夜。寝ていた『私』と『箕浦』。『私』だけが起き上がり、秀ちゃんと出会う。
そこに現れる諸戸。
私はここにめっちゃ違和感感じて、それまでの流れでやっぱり諸戸も登場人物なのかな…って思ってた気持ちが吹っ飛んだ。なんでここに諸戸が居るの?って思った。『私』と同じ次元の存在だから?
で、原作既読の友人に確認してもらったら、原作ではここに諸戸は居ないししばらく諸戸と合流しないって……
それから呑気に毬遊びをする『私』と『箕浦』を見て、ここでも彼らは『役者』として並列であるとめっちゃ感じた。対話をすることはあっても、物理的に直接交流するシーンはここが…あ、いや初代の指輪を奪ったね。そことここだけのはず。二人存在しないとできない行為だから。
まだ全然考察とか感想にまで至れていないけど、直感だけの変な話しだけど、
諸戸と『私』が同列であることと、『私』と『箕浦』が並列であることは、次元が違っているのですよ。だから諸戸と『箕浦』は同列ではない。
あ、それが《わたし》と『私』か。
丈五郎に帰れと言われてから、諸戸を助ける決心をして、諸戸からメッセージを受け取っているところも、井戸の中も、『箕浦』はずーっと冒険譚の主人公だった。キラキラワクワク輝いていた。秀ちゃんへの恋とか初代の復讐とか諸戸への心配とかじゃなくて、冒険に夢中だった。
諸戸からのメッセージを読むのは『私』で、あいつまた俺に変な気を起こしそうでいやだわ~的な愚痴をこぼし、『箕浦』もそれに乗っかる。「同性愛理解できない」ってまた言う。「頭では理解してるけど全然わかんねー」って言うのはどこだっけ。いやほんとに『箕浦』には友情以外まったく無い。微塵もない。清々しいほどに無い。脈ナシにも程がある。
前述した「諸戸も登場人物なのかな…って」考えに変化しかけたのは、同じく前述の事情聴取のシーンで《みのうら》を演じる『箕浦』をそれこそ蛇のような視線で諸戸が見つめていたから。スポットライトの当たらないところで。その時『私』はスポットライトの中で刑事の事情聴取を聞き入っている。(時系列ぐちゃってごめん。でも記憶が蘇ったものをとにかく書いて残す)
ひえええあんな完全無欠の究極ノンケみたいな『箕浦』に言い寄っても絶対無理だよ諸戸なんで気付かないんだよ異常だろ…ってぐらい怖かった。対してワンチャンありそうに見えるのは『私』。否定してるんだけどなんか匂ってならない。なんか否定だけを信じられない。
あれか? 「『好き』の反対は『嫌い』じゃなくて『無関心』」ってやつか?
(初見感想で書いた「《みのうら》も実は諸戸を愛していたのではないか?という容疑が浮かんでならない」のは、完全に『私』のせい。これは初見からそう。私はこれを初見で「諸戸カンチガイ乙‼」みたいに感じていたから、こいつは諸戸の疑心暗鬼が見せる簑浦だなと思っていた。)
諸戸は『私』を探しさまようラブファントムなのかと思っていたけど、全然《みのうら》演じてる『箕浦』も狙ってくる。
『私』と『箕浦』はだいたい一緒に舞台上に居るんだけど、諸戸が《みのうら》よりも『私』を優先して見つめたのは、
諸戸は簑浦を探しさまようラブファントムという印象に落ち着く。
水責めから『私』はもがき出す。水喰らって噎せるし《みのうら》と諸戸に水ぶっかける。
序章でも鬼との出会いを思い出してる時に喉を掻くから、原作にも白髪化がいつか描写されてないそうだし諸戸生理的に拒否られてない可能性ワンチャン…!?って一瞬思った。違った。
『箕浦』ずっと脅えていて本当にかわいそう。諸戸に抱き締められてもノンケ過ぎて嫌悪感すら無い様でだだ死の恐怖に脅えている。…って、そうだ。『箕浦』は諸戸の性愛に嫌悪感すら返していないわ。性愛なんてもの存在しないようにしか見えない。
「ホモフォビア過ぎて逆に男性とキャッキャする現象」が何か科学的に存在しているのですか?(そんな感想を見かけた。)気になるので詳しい方に教えていただきたい。
それまで『箕浦』を抱きしめて必死に告白していた諸戸(この時の諸戸何故か記憶してない。零れ落ちた感覚もない)が、『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた瞬間、逆鱗に触れられたように(地雷ぶち抜かれたみたいに)目を見開いて、そのまま『箕浦』から手を離し、表情も目線も変えず亡霊というか亡者みたいにゆらぁりと『私』の方に移動していき、「ああ、嫉妬している」と答える。
これほんとめっちゃこわい。ラブファントムこわい。ホラーフィクションでよくある悪霊に追いかけられていたのが御札を持った瞬間にこちらが相手から見えなくなってあっさり追いかけられなくなる・あるいは逆に結界が崩壊してそれまで見向きもしなかった悪魔が突然こちらに向かってくる、あれ。完全にあれでこわい。ほんとこわい。
諸戸を否定して死んでたまるかと逃げ出す『私』。諸戸は唸り雄叫びを上げてから『私』を追いかけたっけ?
確かここ最前列目の前に諸戸が来たのに私は目をそらしてしまった。それまでずっと三人の内をを覗きこんでいたけど、目の合うところに居る諸戸の瞳を覗きこむことはできなかった。
そして遂に『私』を捕まえた諸戸。手を掴み上げ触る。
なんというかね、性的な意図をもって犯そうとする時って、例えば、頬を触る(唇を奪おうとする脅迫)、腿を撫で上げる(局部に侵入しようとする脅迫)、みたいな仕草がイメージしやすいんだけど。諸戸は手なんだよね。いや、手を撫でられるのも十分性的な接触になりえるし、手を撫でてくる痴漢とかクソ質悪いと思うんだけど(あれって痴漢に該当するの?冤罪増えそうだから流石に法的には該当しなさそうだよね?まじきもい腹立つ)、もっと分かりやすくセクシャルな表現にしても良かっただろうに、なぜしなかったのか。手なのか。
同じ手でも手を舐めるとか頬擦りするとか自分の身体に触れさせるとか、方法はいろいろあるのに。
あ、そうだ。秀ちゃんは吉ちゃんの手を取って自分の胸に触れさせていた。超嫌がってたけどあれは同じ手の使用でも犯されている感がわかりやすい。
井戸の中での死についてのくだりも、秀ちゃんの手記で隠喩されたまんまでほんとつらい。もう死んでしまいたいという諸戸の叫び。
そうだここ『箕浦』も死んでしまいたいと絶望して挫折して復唱していたのに、『私』が水を挿したんだよね…亡霊を呼び起こしてしまった。
諸戸が嫉妬していることを認めたのが、《みのうら》と秀ちゃんが結ばれてしまうかもしれないことについてなのか。(そう明言してた気もするけど)
それとも「本当はかたわものではなく、簡単な手術で醜い自分を切り離すことができること」なのか。
醜い自分を殺したいけど、殺したらきっと自分も死んでしまうと思ってる諸戸…まじ…
助六さんに「生きたくなかったの?」って聞かれた時に、「世間に顔向けできない」と言った諸戸まじ魂抜けてた。心ここに在らず。ライフが0。助六さんに心の内を回答する必要ないから大正解。しかしイドの超自我破壊と自我乗っ取りを止められなかったことは、この時の諸戸の回答もあながち嘘じゃないなと。
あれ?と言うか水嵩が増さなくなったって表現、昨日あったっけ?
私は水嵩が増さなくなったことを知ってるから、初見ではセリフがあったはず。
『私』と襲いかかる諸戸の図を見ている『箕浦』の表情は、「死者を冒涜せぬよう省略」と『箕浦』が言った場面しか見えなかった。
と言うかこのセリフ初見では聞き逃してたからテラびっくりしたんだけど!
【今】はいつだよ!?って疑問が再浮上した。
初見のとき、序章で『私』が「なお、現在では差別用語となる言葉が登場するが、当時のなんちゃらを変えないためそのまま使用します」云々言ってて、「えっ!?『現在』っていつ!?『当時』っていつ!? 『私』が執筆したとき? 乱歩が執筆した時? 私が観劇している今? ねえあなたは『いつの人』なの!?」って、超混乱した。
まだ決めていない。
少なくとも、丈五郎を目にした諸戸や、井戸を出た時の諸戸は、『登場人物の諸戸』だったから。
それにしても《みのうら》になった『私』の生命力。
佐藤さんの『私』は表情がくるくる変わるしよく動くし観客の目をガン見してきて語りかけ度がぱないけど、アクティブなのにどうにも《わたし》の時は幽霊っぽかったの間違いじゃなかったんだな。ってめちゃ思うぐらい「生きてるかどうか」がなんか明確に違うんだけど。演技力?すごない?やばない?
《わたし》になった『箕浦』と、《みのうら》になった『私』も言葉を交わす。「語り忘れたことあるかな?」
ラストは『箕浦』が読んで、『私』が諸戸の訃報を初めて知ったような顔をしている。井戸で《わたし》役になってからの『箕浦』は、諸戸が鬼籍であることを既に知っていた。
『箕浦』はあまり『私』も諸戸も見ない。助六さんと井戸を脱出しようとした時から、『箕浦』は正面向いてどっしり座って痛ましそうな顔をしている。あれ…顔背けてるのかな…
座ってラストを読んだあと、やって来て『私』に手を伸ばす諸戸の手を宥めるように下ろさせる。
ああそうだ、『箕浦』に向き直った諸戸の表情は見えなかった。
そしてこの物語の語り部は諸戸を憐れにも思っていると序章で明言している。
諸戸の訃報を握り潰すところ。あれね《みのうら》の憎悪というよりも、醜い半身へのやりきれない憎しみに見えた。悔し泣きみたいに表情を潰すところは正直感情が読めなかったよ。ある意味復讐に燃えていた『箕浦』の様子にも近かった。
今回は推理するために三人をずっとガン見するつもりでいたけど最前列譲っていただけたのでピクセルに余裕できて他の演者さんもかなりしっかり拝見できた。
冒頭でなんだこのクソアニメはと思いつつ、2話3話と重ねていくうちに気がつけば虜となってた。
多分人生でここまで「二次元に行きたい」と思ったのはこれが初めてだと思う。よく見たら三次元だけど。
もうこっちの世界はどこまでいっても息苦しいだけなので、割と本気であの世界に行きたい。俺もフレンズになりたい。サーバルちゃんの「平気平気、フレンズによって得意なこと違うから」とかOPの「けものはいても除け者はいない」の部分だけで泣きそうになる。
あの優しい世界に俺も行きたい。サーバルちゃんなら俺みたいなコミュ障でも気遣い抜きの笑顔を向けてくれそう。サーバルちゃんと永遠に辿り着かない図書館への旅に出たい。延々と一緒に滑り台を滑り続けたい。別に恋愛とかそういうのは求めてないからひたすら子供みたいに無邪気に遊び続けたい。頭空っぽなフレンズたちに囲まれながら頭空っぽに生きていきたい。疲れた泣きたい。
なんで俺はフレンズになれないんだ。
まあ、持ってたのが頭ってことで、周りの人は気にしなかったんじゃないかな。
仮に天国があるのだとしたら、あの世があるとしたらこの世は何なのか?
もし天国があるとしたら天国があるにも関わらずこの世が必要な論理的な理屈とは何なのだろうか?
仮に天国があり、この世はジェットコースターのような感覚で自由に遊びにきているのだとしたら、
この世はテーマパークのようなものであり、尊厳が失われるかと思うが、どうか?
そうではなく天国に至るための前段階としての試験場とこの世を捉えたらどうか?
天国に至る資格のある人間を選定するための環境として捉えてみてはどうか?
何物から、何者から、超越存在から間引かれるような立場で、まるで作物の林檎の選定のような扱いを受ける人類の尊厳とは、どうか?
私たちの宇宙が、目で見える範囲で、目に見えない範囲でしかなく、
虫や鳥や、牛や動物たち、木、細菌、無機物、有機物、分け隔てなく帰る世界なく、
この宇宙に内包されるのみの存在であり、そこに理由はなく、原因もなく、ただ在るばかりの答えしかなく、
つまるは空であり、空に変える、般若心経の教えそのものだとしたらどうか?
では無駄ということで、どうか?
神が用意したとして、それも良し。
はたまた偶然が用意したとしても、それも良し。
いや、人為的要因がなくともいずれ地球は住めない惑星となるが、結論とはどうか?
生命とはどうか?
他のものが欲しい。
真理が欲しいわけでなく。
ただ、他のものが欲しい。
これはもう、いい。
これはもう欲しくない。
これと違うものが欲しい。
これじゃないものが欲しい。
違うものが欲しい。
もうこれはウンザリだ。
ウンザリだと叫んだ。
これしかない。
真理などいらない。
これじゃないものが欲しい。
「こんな世の中、もうウンザリだ!」
あ、小生、自殺したくなったこと過去数えきれないほどあるでござるよ?
だから自殺したいと思ってしまうことがあることは小生、理解できるでござる。
でもその理由で代表的だと言われてるこれに関しては全く同意できないでござるよ。
【ツッコミどころ】
「こんな世の中」
これって何と比較して「こんな」なの?
こんな世の中嫌だって言うけど、評価する以上は何か対等なものと比較してるってことだよね?
「酸素が嫌だから臭素を吸って生きる」とか言い出すやつがいないように、オンリーワンの体験しかしてないはずなのに、
何が「こんな世の中」なの?
ちょっと創作物の異世界モノとかラノベの転生モノとかに影響されすぎじゃないの?
死んだら転生できるとか、
死んだらあの世があるかもとか、
死んだら無になれるとか、
その幻想の君の心にしかない理想郷とこの世を比べて「こんな世の中」?
この時点で同情できないし同意できないし共感できないでござるよ。
小生はね。
もし、死んだ結果ここよりもクソな世界に放り込まれたらどうするんでござるか?
少しは考えて欲しいでござるよ。
死ねば助かるなんておこがましいでござるよ。
死んでもこの世界の肉塊になって原子・分子・クォーツ・素粒子もろもろ、残されるでござるよ。
ちゃんと魂が解放される確証もないのに、自殺なんてできないでござるよ。
でも何度もいうように何の確証もないでござるよ。
末期がんになって3ヶ月
私はひたすら懐かしのビデオを見続けた
子供だった頃流行っていたドラマ、お笑い、映画、バラエティ番組、歌番組
今見ても面白い
しかし色鮮やかに映し出されたこれらの映像に、存命の者は居ない
観客席に居る彼らもほとんど死んだだろう
不思議な気分だった
画面の中では皆が生き生きと、笑い、泣き、演技し
その度にポップなテロップが出る
しかし皆死んでいるのだ
私も年を取りすぎたのだろう、デジタルネイティブだからと言ってずっと時代に付いていけるわけではない
唐突に目頭が熱くなった
画面はお笑い番組を映し出していた
これではまるであの世を覗く鏡だ
この画面が、もう死んだ時代と、まだ生きている時代の境界線になっている
どちらに存在していたいのだろう
考えるまでもなかった
私は医者の元へと向かうため、ようやく重い腰を上げた
あんはぴ枠。サターニャちゃんが不憫かわいい。ヴィーネちゃんも苦労性かわいい。
ゆったりテンポで落ち着く。
メイド談義が濃い。
1話目は変わりすぎてて驚いたけど2話目の女将さんのおかげで1期のノリが戻ってきた感じ。
国会議員設定をどこまで本気でやるのか、いちおう気にして見てみたい。(あまり期待はしてない)
委員長ちゃんかわいい。いわゆる「委員長」テンプレとは違った造形が良い。
あの世界の秘密の解明次第で評価が分かれる気がする。解説のおにいさんおねえさんにも期待。
背景の動かし方がおもしろそう。
様子見。
様子見。
ドロドロした心理劇を楽しめばいいのかクズのクズっぷりを楽しめばいいのか、見るときのテンションの調節が難しそう
特筆するほど良いところがあるわけでもなさそうだけど、嫌いじゃない。
短い。たわわと同じジャンルだと思えばいいのかな。
実写。よく知らないけどおもしろそう。第1話はうさぎがぴょんぴょんしてた。
おもしろくなるのかもしれないけど目が疲れて画面を見ているのがつらい
実家のママンがやってる趣味が、セミプロでもお金はかせげていなくて、やっぱり趣味なんだけど、世間体はずっといいけど、家族からみると同人よりずっと迷惑なんだ。数百本の無農薬バラにかこまれていないと生きていけないなんて、バラ農家に嫁ぐしかなかったのに、どうしてサラリーマンと結婚したの。家族にとっては、家をド辺鄙でクソサムなところに構えさせられて、いくら広くても馬糞とトゲと害虫だらけの庭で、キャーッて逃げ出してもおかしく無いと思う(成人するなり全員逃げた)。そして父は図書館読書が趣味で家も指定のところに立ててやって金銭的には母をめっちゃ甘やかしてるのに全く母は気づいていない。そこが一番つらい。着るもんもブランドにこだわりあって「いいもの」を買うため年行ってからネットオークションにハマったりしてる。もう感覚が違う。たぶん昭和のあの世代は全員ブルボン王朝の出のお姫様なのだと思う。こんなことで凹んでもうしわけないけどこの年になっても親がつらい。自分で好きで背負ったことに自分で愚痴いってくる家族つらいです。
仕事しながら「好きでやってる同人だ」ってだれにも愚痴いわずがんばってる若い人のほうが尊敬できると思うのは年齢バイアスなのかね。いや、若い人も散々愚痴いう人はいるんだけど、親のよりあんまり不愉快に感じないの。いっぱい背負いこみすぎんなよっていったらちゃんと通じたり、情熱があるからかなあ。距離感かも。遠慮しぃしぃおっしゃるし。
どでかい趣味を背負い込んでそれを第一に人生の大事なところを決めておいて、プロにはならないのなら、家族にはもうちょっと遠慮して。支えてくれた人が倒れそうなら感謝しながら支えようよ。なんか感覚がほんとおかしい。ガッシャンガッシャン割り続ける陶芸家かよ。陶芸家には失礼なたとえだけどさ・・どんなにわがままな陶芸家でも「大きな窯がついている老人ホームなんか存在しないから端から引っ越す気がない、病院いくのも大変、弱ったお父さんにあいたければ子どもたちがこっちに会いに来なさいよチラッチラッ」とか言わないと思う。父はそれで人生を納得しているのか無口すぎてもうわからん(母のことを、ボケの前兆として人格が変わってきたのだとおもってる節がある)。かなり諦めてるとは思う。あと、何かを察知したのか、遺産は片親が死んだらもう片親に全部行くって直筆遺書かかせたんだって。父が先に死にそうだから遺産全部母に行く。
これどうしたらいいの。虐待じゃないのか。
深夜2時。田舎のドンキホーテで俺は微分積分の公式をぶつぶつと唱えながら、カラコン売り場周辺を歩く。
バカみたいにでかい不自然な色合いのカラーコンタクト。派手な見た目の金髪ギャルがカラコンを一瞥し、バッコンバッコンとカラコンをほおりこんでいく。
ドンドンドン、ドンキ、ドンキ、ホーテー、とあの音楽が流れる。
安っぽい。また、少ししたら半額になるんだろうな、と思った。
深夜2時の田舎のドンキホーテで微分積分の公式を唱えると観客がバタバタと悲鳴をあげながら死んでいく。
そんな妄想を昔なんとなく思いついて、小難しい公式を覚えてるだけ口にしながら歩いていた。
情報強者の俺は、simロックをこじ開けたMVNO携帯を使いながら、スマートニュースでサッと今夜のニュースを巡る。巡る。
情報の上を指がなぞる。あるいは、情報によって指が動かされている。どっちでもいい。同じことだ。
バカそうな見た目のヤンキー。オナガのように襟足を伸ばしている。
「金がねーわw!」とやたらとバカでかい声でクリスマスコーナーの衣装を物色しながら、時折iphoneをいじる。
金が無いなら、そんなモン買わなきゃいいのに。
金が無いなら、MVNOにすればいいのに。
そんな意地の悪いことを、なんとなく、思う。
バカなヤンキーを一瞥し、またスマホに目を落とす。最新のニュースに思いをめぐらせる。
欧米に比べて日本は仕事に対する異常さが蔓延している。病的だと思う。
サッと検索をかけ、事件の背景や詳細を知るためにデータを集める。考察する。
ふーん、なるほど。面白い。後でツイッターにつぶやいておこう、と予約投稿しておく。
ヘアカラー剤売り場では、やたらとブリーチ剤だけが売れている。
なんなんだコイツらは、カラスの脱色でもしてんのか?それともスーパーサイヤ人か。
30歳くらいのピアス穴を開けたヤンキーがブリーチ剤を3つカゴにほおりこんだ。
粗悪な品。割高な電化製品。インスタントな、チープな商品が立ち並ぶ。
価格コムで買ったほうが安い。
知らない、という事は不幸なことだ。
この世には、もっと上質な物も、安くてよい者も、効率のいい方法があふれている。
知れば。知ろうとする態度があれば、コスパを考えれば、色んな方法があるのを彼らは知ってるのだろうか。
酒やタバコだけじゃない。もっと、難解であるからこそ知的好奇心をゆさぶられる者がたくさんあるというのに。
俺は自分の事に思いをめぐらす。
田舎の、低学歴な、貧困な家庭から、世界からやっと完全に脱出できる。
結果が出るまで長かった。長かった。
訪れることもあるだろうけど、別の世界にいけるのだ。待ち遠しい。
知るという事は、大切なことだ。
ニュースの通知が入る。SMAP解散についてだ。どうでもいい。興味ない。
サッとスワイプしてニュースを振り払う。誰かの書いた情報がこの店内に舞っていく妄想をした。
いんたぁ、ねっと。
こいつがいなければ。知らなければ、俺はあの世界にいたままだっただろう。
「知る。」
この一点だけだ。この一点が、情報の操り方が、人生の舵取りを大きく左右するのだ。
会いたくて、会いたくて震える~
懐かしい曲が。ふと耳に入る。西野カナだ。あの震えるやつ。
「最近見ないよねー、何やってんだろ。」
「えー、マジ?」
カラコン売り場で見たギャルが、ツレの女と歩きながらレジまで向かう。
「ドンキで西野カナ好き、ってなんかめちゃめちゃわかりやすいな。」と、思った。
「西野カナって、ああいう人たちにとっては、難解な比喩とかより、ストレートに歌われたほうがわかり易いんだろうな。」そんな事を考える。
そう思うと、メディアで「西野カナのバッシング」がおきるようになったのは、情報化が進んだ側面だな、と発見する。
おそらくスマホやメディアの普及がなければTVでそんな事は言われなかっただろうな。小さな考察。小さな発見。
20代っぽいけど派手だし、お水系かな。
やっぱ、そういう世界で生きてきたのかな。
ギャルたちの会話に耳を傾け続ける。
「うん、ぜったいいくねー!」
かわいいっぽいし、失敗しても結婚すればいいから、いいよなぁ。
俺は、そういえば何を目指してたんだっけ。
あの例のペンギンと目があう。
ピッ、ピッ、レジの音が何かの鼓動のように響いている。
ペンギン。あ、思い出した。
ペンギンだ。ペンギンの飼育員になりたかったんだ。そういえば。
ペンギン大好きだったんだよな。小学生のとき。ペンギンの飼育員さんになろうと思ってたんだった。
ペンギン好きだったな。そういえば。
「○○円っす、に、なりまっーす 、あざーっす」
金髪の店員のレジの声が近づいてくる。ちゃんと発音しろ、と思った。
ピッ。ピッ。レジの音が近づいてくる。これ、ペンギンの鳴き声にしたらかわいいかも。と思った。
でも、公務員よりいいかな。年収だって、かなり貰えるし。モテるかな。
ブーッ、ブーッ
携帯が振動する。Face bookの通知だった。友達がシェアした事についての通知。どうでもいい。通知が多すぎる。
今度設定変えて切らなきゃな。
俺、これでよかったのかな。
ペンギンの飼育員。ならなかった。趣味でやってた音楽。やめちゃったな。
書きかけた漫画。作りかけの絵。to doリストに入れる必要の無いことたち。
もう、会わないんだろうな。当たり前か。
けれど、
いつから、いつから、自分自身の話をすることが減ったのだろう。
ブーッ、ブーッ。
またface bookの通知だ。しつこい。
たくさん、たくさん色んな世界を知った。コスパ。要領のいい、ベターを選び続けた。
知ることで。コスパを選ぶことで、本当に大事な何かが消えてしまった気がする。
知ることで、考えることで、自分の夢や希望を自ら打ち砕いてしまった気がする。
ニュースも、face bookの通知も、俺には関係ないのに。
どんなカラコンを買おうが、どんな安っぽいコスプレをしようが。
関係ないのに。関係ないのに。そういえば、コスプレとか、そういう仮装。したこと無いな。俺。
「いらっしゃす、っす、っす。円になりっすー、」
俺の番だった。ちゃんと発音してくれ。
何十年後とかも、ドンキホーテ来るのかな。
たぶん来るだろう。大金もちになれるわけでもあるまいし、金持ちだってドンキ使うだろうし。
たぶん大丈夫。これで、これでよかったんだ。
思った事を書いただけ。
誤字脱字があると思います。
前提として明記しておきますと、書いてる人はまだ本編を九話までしか見ておりません、しかもさらっと流し見です。
書いてる人は腐女子です。
後、スケートと言う競技についてど素人です、くるくる回ったらなんか点数が貰えるのだろう、と言う事しか分かりません。
まず、本格フィギュアスケートアニメと言う点については、ど素人である私が判断付くはずもなく、なんだかくるくる回ってるなと思いました。
スゴイ!と言ってる人もいれば、駄目!と言ってる人もいる、素人には取り敢えずくるくる回ってるとしか思えない。
取り敢えずフリップやらサルコウと言うジャンプの種類は私には分からない。
イナバウアーは辛うじて分かる、何か足の形がアレなんですよね、重要なのは足なんですよね?背中を逸らす事じゃなくて。
その程度なので、スケートシーンについて何か思う事はない、って言うか思えない。
んで、作中内の愛について。
腐女子と言うか個人で視聴した感じですと、主人公とそのコーチはデキてるとは思いますが、あの世界では別に珍しい事では無い、苦難もないし、ただただ当たり前の事っぽい、と思いました。
腐女子って結構な人が、同性愛は高尚と言うか、気持ち悪くないものであり、我々が娯楽として消費している物語(BL)は低俗なものである、と内(腐女子)外(腐女子では無いどっかの誰か)から擦り込まれてることが多いです。
LGBT云々言ってる人は置いといて、BLじゃない!と主張してる人達はこの主人公とコーチの恋愛を同性愛と認識したため、BLじゃない!と言っているのではないだろうか、と個人的に、個人的にですよ?思ってます。
後十話EDであったらしいポールダンス?についての諸々なのですが。
まぁ、やっちゃいけない事はやっちゃ駄目ですよね、アウトです。
昨日は丸一日布団から出ることができず、今日はまったく作業に手がつかなかった。感情の整理のために文章に起こす。
最後にセックスをしたのは三年半前、大学二年生だった頃のことだ。その年の頭にできた二つ上の彼女とした。
サークルで知り合った彼女はお世辞にも美人とは言えないが、いわゆる可愛い系の女の子で、特に付き合ってからはこちらのほうが歳上なのではと錯覚するほどだった。とても可愛かった。付き合っていた時期は私が大学一年から二年ということもあり、性欲に身を任せて彼女とひたすらセックスをしていた。徐々に彼女の下宿に入り浸ることになり、付き合って半年弱の別れる寸前にもなると週四日ほど泊まることもあった。半同棲生活だった。
彼女が就活のストレスを発散するためなのか、年度が変わったあたりから彼女から身体を求められることが多くなった。その頃には彼女とのセックスにも慣れてきて、お互いが満足するまで何度もセックスをした。所詮サル大学生ということもあり、単にセックスができることが嬉しかったし、何より彼女に求められてそれに応えることができることが嬉しかった。付き合い始めはセックスをするために付き合っていたところもあったが、その頃にはきちんと彼女と一緒にいることに幸せを見出していた。セックスのあとによく結婚しようねと幼稚園児のような幼稚な約束を交わして、そこからまたセックスすることもあった。本当に幸せだった。
彼女の就活もあと面接を数回残す段階になった頃、私は彼女と別れた。
私はいつものように彼女の下宿に合鍵で入り、あまり自炊をしない彼女のキッチンで夕食を作りながら面接終わりの彼女を待っていた。米を炊き始めたところで彼女が帰ってきた。しばらくして夕食ができあがり、食事をしながら面接の感触が良かったとか、次の面接はいついつでおそらくそれで終わりとかそういった会話をした。
その後、彼女のあとにシャワーを浴びてごろごろとしているとムラっとしたので、いつも通りセックスをしようと彼女に抱きついてセックスを迫った。いつも通り彼女は受け入れ、その日も好きなだけセックスができると思っていた。しかし、その日は違った。抱きついた腕が優しくほどかれた。
「ごめん、今日は疲れてるの。先に寝るけど、今日はナシでね。ごめんね」
疲れていてもなんだかんだでいつもするじゃないかと文句を言いながら彼女が入ったベッドに潜り込み、胸を揉み、服を脱がそうとした。ここでいつもの彼女と違うことにやっと気づいた。
「本当にごめん。今日だけは休ませて、ね?」
あやすように頭を撫でてくれた。このとき今までに覚えたことのない感情に襲われた。彼女にセックスを拒絶されたことが引き金となったのか、彼女をもっと支配したいという気持ちが強くなった。
正気に戻ったときには彼女が泣きながら怯えるように震えていた。汗と涙で彼女の身体は湿っていて、彼女の膣からは精液が溢れ出ていた。彼女が何度も小さな声でごめんなさいと許しを求めていた。混乱した。目の前の光景が何を意味しているのかわからなかった。そして、私は逃げるようにゆっくりとその場を離れ、自宅に戻った。自室についても何がなんだかわからなかった。
私は彼女をレイプしたのだ。そう気づいてからはもちろん彼女の下宿先に行くことはなくなり、会うことはおろか連絡すら取らなかった。私も、そしておそらく彼女の方もお互い気持ちの整理ができなかったのだろう。
彼女に連絡をしたのはあの日から二週間ほど過ぎた頃だった。一度きちんと話をしたいと短いメッセージを送った。返信がなくても仕方がないと思っていたが、五分もしないうちに彼女から返信が来た。彼女の方も話したいので一度彼女の下宿先に来てほしいとのことだった。
下宿先に着きインターホンを押すと彼女がそっとドアを開けた。久しぶりだね、と優しく微笑んでくれた。
机を挟んでから少しの沈黙の後に話を切り出した。つらいかもしれないが、あの日のことを話してほしいと聞いた。彼女はうっすらと笑みを浮かべ、ごめんねと前置きをしてからその時のことを話した。
端的にまとめれば、別人のように豹変し、首を絞められ、レイプされて、とても怖かったとのことだった。
あの日見た状況からすぐに考えられたことだったが、本人から言われると息ができなくなるほどつらかった。彼女はあの時もこの話をしてくれたときも恐怖にさらされていたのだろう。そう考えると、目の前にいる彼女の浮かべる笑みがどれだけ彼女を追い詰めているのかを訴えているように見えた。私は本心から彼女に謝ったが、どんなに謝っても私自身その謝罪が形式的なものとしか思えなかった。
それからほどなく、彼女との関係を断つ話がまとまった。彼女からはまだ頑張れると交際を継続することも提案されたが、無理をし弱った声で発された提案には賛同できるはずもなかった。こちらから別れを申し出ると、少し目を潤ませながら少し安堵が混じった声で、そっか、ごめんねと彼女は言った。
合鍵を返し、玄関で彼女と別れの挨拶を済ませて、彼女と別れた悲しみや彼女を恐怖にさらした自分の不甲斐なさに対する怒りもそこそこに、私の母親への憎しみが心に染み付いた。
彼女と連絡を取れなかった期間、あの日から数日もしたら DV やレイプについて調べる様になっていた。どうやら DV をしやすい人間は両親との中が悪かったり自身も DV や虐待を受けていたりすることが多いらしい。調べていると段々と自己嫌悪に満たされていくとともに、幼少期母親から受けた行為について鮮明に思い出すようになった。
私が小学二年生の秋、母方の祖母の死をきっかけに両親の仲が悪くなり、頻繁に母がヒステリックを起こし父と激しい喧嘩をするようになった。私や姉が止めに入ると母は、この子達を泣かせているのはあなたのせいだと父に激しく怒鳴り、喧嘩はより激しくなっていった。それから、子どもたちはあなたに近づけさせないと母は宣言し、同じ家に住みながらもほぼ別居状態になった。
家庭内で完全に父との交流が絶たれて一年ほどが経ったとき、台所で夕食の手伝いをしていた時だった。母に、そろそろ父と仲直りをしてもいいのではないかと子供らしく思ったことを率直に言った。
母は、なんでそんなことを言うのと小さな声で囁き、私を蹴り飛ばし包丁を突きつけた。目の前の光景に身動きが取れず、全身が恐怖に包まれた。
母の叫びとともに顎に包丁があたり、血が流れた。直後、母親は正気を取り戻したのか包丁を引き、涙を流しながら謝ってきた。それからは、ここまで苦しんでいる母はえらいに違いないと思い込み、母の言うことに従い続けた。母の要求に応えられたときには喜びさえ感じた。
しかし、高校二年のときにそれがある意味での洗脳であることに気づき、母に悟られないように家庭内で少しずつ母との距離を置いていった。自分で考えて自分の気持ちで自分で行動する、オトナになるためにはそれが必要だと思った。多少の反抗心も芽生えたが、また母をヒステリックにするのはこちらが無駄な被害を受けるだけだと押し殺していった。
母による支配からは脱していたと思っていた。特に大学に進学してからは自分の意志で好きなだけ勉強できたのもあり、完全に自由の身だと錯覚していた。だが、現実はそこまで甘くなかったのだ。母による支配は私に後遺症のようにしてこびりついていたのだった。未だに母からの支配を振りほどけていない自分に呆れ、怒り、苦しんだ。そして、よくも好きだった人を傷つけさせたなと、母に対する激しい憤りを感じた。
彼女は妊娠することもなく無事就職し、きちんと生活をしていることを彼女の友人経由で聞いた。それを聞いて安心し、悔しいけれど彼女に固執することなく生きていこうと心に誓った。そうは言うものの別れてから最初の一年は未練が残りどうか復縁できないかと方法を考えることもあったが、大学四年に進級するころにはもうすっかり諦めていた。彼女は彼女らしく生きてほしい、そう思えるようになっていた。
それはさておき、ここ半年ほどでとある女性に興味を持ち始めている。大学の友人の高校の頃の友人で、Twitter 上でしか縁のない人だ。顔も名前も知らない人に恋をする、なんともまあ現代っ子である。
彼女のいわゆる裏垢は私の他数人のみがフォローを許されている。そのアカウントでは彼女の家庭の事情が語られることが多い。彼女はしがらみに負けずに自分らしく強く生きようとしていた。そこに憧れて、おそらく惚れている。
地理的には遠距離となるのでなかなか踏み切ることができていないが、一度会って話してみて、できれば交際したいと考えている。しかし、その段階になるとまた改めて恐怖を感じる。また付き合って、愛している人に暴力を奮ってしまわないか、そう思うとより積極性が削がれていく。
付き合ってみなければわからない、そう思ってはいるものの、以前付き合っていた彼女の事例と同様あるいはそれ以上に悲惨な事態に陥る可能性があると考えるとどうしても前へ進めない。自分で自分を制御すればいいのだけれど、それができる保証がどこにもないという事実が行く手を阻む。結局、母による支配の後遺症に悩まされ続けている、あるいは、未だに支配から脱却できずに苦しんでいるのだ。今もどこかで、人を支配するには恐怖を与えるしかない、そう思っている自分が潜んでると思うと、とても付き合える気がしない。付き合いたいけど、付き合うのが怖い。感情が入り乱れ、よく混乱する。
付き合っていた彼女と別れてからは、きちんと好きな人を愛したい、そういった気持ちを強く持つようになった。死ぬときにはせめて、最後にしたセックスはどのようなものだったかをきちんと覚えてあの世に送られたい。
もうしばらく前からこの話を誰かにしたくてしょうがなかったんだけど、表で大声でこういう物言いをして五体満足でいられるかどうかにやや不安が残るから匿名でする。
例のアニメ、BLかBLじゃないかっていうか、そもそも、絶対どっちかであるとは言い切れないようになってるんじゃないの。
(※作品タイトルもキャラ名も伏せてネタバレってなんだよとは自分でも思ったけどあらすじを一から全部説明するのもダルいので省略も兼ねて伏せます。察して)
メインふたりのコミュニケーションはわりとしょっちゅうラブコメとか少女漫画とか月9とかみたいに演出されているけど、「ふたりは互いに恋愛感情を持っている」と明言されたことは一度もないし、どころか「恋人としての役割は求めていない」「わかりやすい恋や愛とは違うかもしれない」というような趣旨の発言さえある。(四話五話)
でもそれも一方からの偏った認識に過ぎないし、作中時間ではかなり前の方の話になるから、最新話では変わっている可能性もある。(最新話はこれまでの視点役(ふたりの一方)の内心が伏せられている)(更に、その一話からの視点役が「どれほど信用できない語り手か」ということも明かされた)
どっちの方が「よりありえるか」っていう話じゃない。
どっちも「同じぐらいありえるように」丁寧に情報を調整されている。
大変な祭りになった例の「キスなのかハグなのかはっきりさせてくれないと夜も眠れない」なシーン(七話)だって、「特集番組」で、「公式関係者」に(作中で描かれた情報と完全にイコールにするつもりはないけれど考慮する価値は十分にあると思う)「こちらからどっちかだと『解答』を出すつもりはないから各々で決めてね」と言われてしまった。
あのシーンだけで見ても、キスなのかハグなのかはどう頑張っても「主観で決め付ける」しかない(口元が隠れて見えない)し、どっちかだとはっきりさせたところで、果たして「どういう感情でその行為に移ったか」はめちゃくちゃ解釈がわかれるだろうし、だからこそお祭り状態にもなった。
多分、公式はこれからも全力でBLっぽい演出をやってくるだろうけど、それを「疑いようもなくBLです」と断言するつもりもなければ、「BLじゃないですよ」と言い訳をするつもりもない。(※個人の印象です)
「例のアニメはBLうんぬんかんぬん」なありとあらゆる言及は「個人の感想」にしかなり得ないし、どっちかはっきりさせなきゃ気が済まない人はめちゃくちゃ苦しむことになるし、このことについて発言すればするほど、我々(大きな主語)は自分のものの見方を自覚なく大衆に見せびらかすことになってしまうのだ。どうとでも見れるようになっているがために。
そういうちょっと恐ろしいところもある作品なんだと思う。し、これを書く私も現在進行形で恥を晒しているのかもしれない。
でも他の人の意見も見たいからどうしても大声で言いふらしたかった。
(※以下は蛇足です)
そして、例のアニメの「BLかどうかは絶対にふわふわさせとくぜ」の極め付きは最新話(十話)の「指輪プレゼント」からの、「誤解での結婚祝福」からの、「勝ったら結婚するよ宣言」
そんなやり方ある~~~~????
正直、あのアニメではっきり差別のない世界の描写をするならどっかでそういうキャラクターを出す(でももうその尺がなさそう)か、最終回でメインふたりが結婚するぐらいしかないし、まさかそれはやらないだろうと思っていた。結婚すると「BLです!!!!」と完全に言い切ることになるから。
でも結婚しなかったらしなかったで、「結局BLとしては描ききらないんだな……(しょんもり)」になるかもしれない。
それが擬似結婚からの、誤解でも全力の結婚の祝福。作中世界で同性カップルは完っ全に肯定された。もうメインふたりをきちんと正式に結婚させる必要はないし、同時にこの先無理に「BLじゃないです」と言い訳する必要も消えた。だってあの世界ではふたりの関係はなんであれ正当に祝福されることなんだから。それがこれ以上ないくらいはっきりと示された。
なめてた。本当になめてた。
しかも、結婚は勝ったらという条件つき。この先の結婚は「勝ったから」という意味も持つことになって、擬似結婚(指輪プレゼント)時点での感情と動機は永遠に伏せられた。
あそこまでやっておいてまだ、余白に夢をみることもできる。
すっごくないですか????
あざとい賢しいめちゃくちゃ上手いし怖い。
マジで最終回までこのスタンスでやり遂げるつもりだよ怖い。もう結婚をしなくてもいい(メタ的な必要性)、となるとこの先どうなるか全く分からない、それはそれで怖い。十話にもなってあんな乱暴な叙述トリックぶちこんでくる公式なんて絶対信用できない。安心したら最後不意をつかれるに決まってる。本当に怖い。
こわい。