はてなキーワード: ジャンケンとは
augsUK これは分析であって、「だから何が言いたい」とかいって自分の党派性に持ち込むしか能がないコメよりはるかに役に立つと思うが。全てが政府批判のダシにしか見えないのか(呆
分析しかできないのが東大脳で残念。問題解決能力がない。あるいは、事態における空気読めない感、相手に対する配慮が全くない。このコメントと同様に。
xO157 一番☆ついてるコメ、同じ人が何重にも☆つけられるんだね。初めて知ったけどきもちわるいなぁ
それはハテナに言え。そういう仕組みになっている。スターも本来、そういう意図で使うように設計されている。
nao0990 ここれが政府批判や後出しジャンケンに見えるあたり、今は誰が何言っても言葉尻捕まえてボロクソ叩く過剰反応ないつものはてな村暴力フェイズに突入してる感。
あと出しジャンケンの何者でもない。誰が何を言ってもボロクソ叩くのはお前。
脳天気にイスラエルに言って、戦闘機を共同開発して、武器の営業して投資支援してダビデのマークの下に記者会見してテロを誘発して何になる。
中東情勢には手を出すな。
遅ればせながらゴジラを見てきた。作品の感想は事前の期待が大きかったせいもあるがイマイチ。その理由を自分なりに一晩考えて出た結論が「人間にとって都合のいい存在としてゴジラを描いてしまっているから」。1954年に公開された初代ゴジラは明確な反戦・反核のメッセージを含んだ作品であり、水爆実験でよみがえったゴジラは、人間がコントロールできない「核兵器」という科学技術を使うことへの批判として描かれている。
人類が調子こいて水爆実験連発。その衝撃によりゴジラが目覚める。
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ゴジラを殺せる可能性のある、水中の酸素を破壊するオキシジェンデストロイヤーという化学兵器を若い科学者が発明。
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しかし博士はその兵器が戦争に使われることを恐れ、使用を拒否。
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ゴジラをぶっ殺すか? 強靱な生命力を研究対象にするべく生かすのか? 議論が割れる。
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結局、オキシジェンデストロイヤーでゴジラ死亡。博士は兵器の悪用を恐れ設計図を破棄し、自らの命を絶つ。
ゴジラは60年前から反戦・反核のメッセージとともに、際限のない科学への信頼に対する警鐘も鳴らし続けている。しかし、ラストでゴジラを倒すのは核兵器よりも強力な化学兵器であり、これは結局諸刃の剣である科学の呪縛から逃れられない人類を象徴的に描いている。「人類が核実験を続ける限り、第二第三のゴジラが現れるだろう」という最後のセリフは今もって有効だ。これがハリウッド映画であれば、「核兵器でも死なない大怪獣を倒した科学技術は素晴らしい! 人類の叡智バンザイ!」的なハッピーエンドになるはず。
ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、なにが言いたいのかというとゴジラは大自然や神様といった人間にとってアンタッチャブルな概念の具現化であり、人類のために戦うヒーローになってしまっては興ざめということ。この辺はおそらく、神様が世界と人類を想像したというキリスト教的な欧米の世界観では理解しにくい存在なのかもしれない。それらの文化圏では神様とはこの世界のスタートとゴールを設定した絶対者であり、人類を正しい方向に教え導く役割を担っているのだから、試練を与えつつも最後にはハッピーエンド(人間にとって都合のいい)が約束されていなければならない。
その点、日本では不可侵な存在としての神様を描くのが得意なようで、例えば「もののけ姫」のシシ神さま。あれなんかは完全に、人類ともののけの人智を超えた存在として描かれている。シシ神さまにとっては森を守るアシタカも森を開発しようと企むエボシ御前も関係なく、ただ目の前の者に死と生命を分け与えるだけ。間違っても「お前は森を大切にしているから褒美として寿命を10年延ばしてやろう」とも「お前は森を破壊した罰として寿命マイナス10年!」とも言わない。人間の都合ももののけの都合も一切勘案に入れず、己の職務に忠実なだけだ。それは、どんなに弱者や善人が住んでいても地震や台風が発生するときは容赦なく発生するのと同じこと。つまり、本来自然や神様は人類の都合など考えない、極めて不条理な存在であるわけだ。
もうひとつの例としては、「ドラゴンボールZ神と神」のビルスさまも同じ。「プリンが食べられないから地球を破壊」「寿司がまずかったら地球を破壊」「ジャンケンに負けたら地球を破壊」といったセリフのオンパレードは、神様の不条理な一面をこれ以上ないくらいよく表している。初代ゴジラにとっては自衛隊であろうと戦災孤児であろうと自らの進路に存在する者は容赦なく踏みつぶすだけだ。
そんな人類の都合など考えないゴジラを期待して見に行った自分からすれば、なぜ98年のエミリッヒ版ゴジラがあんなにも酷評されているのかよくわからない。今作では日本の原発事故を絡めてはいるが、それもイマイチ批評性に欠け(というか単なる方便)、中途半端な社会派作品に堕してしまっている。
一つ興味深い点を挙げれば、人類がゴジラを「撃退」もせず「征服」もせずに「共存」の道を選んだこと。(続編のためにはゴジラが人類に撃退、征服されてしまっては元も子もないのだが)。これまでどんな凶悪な宇宙人も自然災害も撃退して乗り越えてきたハリウッド映画、これまで世界の警察を自称して世界中に西欧的価値観を広げてきたアメリカ。そんな、アメリカという国家が共存の道を選んだこのラスト、実はなかなかにレアなのではないかと考えている。メインキャストで唯一の東洋人である渡辺謙が発した「愚かな人間は自然を征服できると思っているが、そんなことはできない」というセリフは、「自然や子どもは管理されるべき」といったキリスト教の教えとは180度異なる。今回のハリウッド版ゴジラは反戦・反核のメッセージを含む初代ゴジラとは異なり、アメリカの外交の変化とリンクした作品として捉えるとまた違った一面が見えてくる。
俺の親父はドケチだった.
とにかくドケチだった.
口を開けば「カネがない」とグチった.
貧乏だった.
食う物と言えばパンの耳,着るものと言えばボロ雑巾みたいな古着だった.
ガキだった俺は友達が持っているスーファミが羨ましくて親父にせがんだ.
帰ってきたのはゲンコツだった.
そんなカネねえ,と.
ドケチなクソ親父め.
でも俺はあきらめなかった.
キャラクターをテレビの中で自由に動かせるのに,熱中していた.
根負けしたのか,なんとかしてやると言い出した.
俺は興奮で眠れぬ夜を過ごした.
どうやら友人から譲ってもらったらしい.
なんだか嫌な予感がしながら電源を入れたら,文字しか出てこねぇし,なにすりゃいいのか分からないし,
まさに「コレジャナイ~」と泣きながら手足をバタバタさせてダダをコネたい気持ちになった.
やっぱりクソ親父はクソ親父だった.
曰く,
「これさえあればゲームを作れるらしい.そんなに欲しいなら自分で作れ」
始めはとっつきにくかったが,やってみると面白かった.
「ゲームを自分で作れる」という魅力的な言葉に酔っていたのかもしれない.
これでいつか俺も,F-ZEROを作ってやるぞと,本気で思っていた.
ゴミ捨て場から拾ってきた古いベーマガを読みながら,小さなゲームを作っては楽しんでいた.
始めてジャンケンができるプログラムを作った時の感動は忘れられない.
グラフィカルなゲームは作れなかったが,友達も一緒になって楽しんでくれた.
だが中学2年に上がるころ,長年連れ添った俺の愛機が突然動かなくなった.
ついに寿命が尽きたのだ.
俺はこの世の終わりのように感じた.
まるで愛犬に死なれたような気持ちだった.
しばらく学校も休んだ.
今思えば前の持ち主から数えて10年近く,よく動き続けたものだと感心する.
ドケチな親父は,当然だが新しいPCを買ってくれるわけはなかった.
帰ってきた言葉は
「そんなに欲しいなら自分で作れ」
新聞配達で稼いだ金で少しずつパーツを買い集めた.
始めて自作PCが立ち上がった時は感動した.
親父に本を買ってくれと言ったら,始めは渋っていたが,ボロボロの技術書を何冊か古本屋から調達してくれた.
ヴォルトのアルゴリズムとデータ構造と,クヌースのThe Art of Computer Programmingもあった.
難しすぎたし技術的なところが足りないから,遠くの図書館までわざわざ出かけて技術書を借りてきては読みふけった.
学校の授業中にも読んでいた.
プログラミングの技術はもちろん,画像処理のための数学の道具についても勉強した.
同級生が2次方程式や因数分解をやっている横で,三角関数や行列計算をしていた.
特にアフィン変換には感動させられた.
こんな風に言うと,さぞ数学の成績がよかったのだろうと思うのかもしれないが,テストの点はそこそこだった.
コードを書くのに必要な概念として知っているだけで,証明問題は苦手だった.
それと,古典や社会の時間は全部すっぽかしてノートにコード書いてたから散々だった.
高校に入ったあたりでX windowシステムを使ったグラフィカルなゲームを作れるようになった.
出てきた敵を撃つだけの簡単なインベーダーゲームに始まり,オセロ,ブロック崩し,ウィザードリィみたいな迷宮探索ゲーム,思いつく物何でも作った.
友達の家にもPCがあるところが多くて,Windowsに移植して簡単なネットワーク型対戦ゲームなんかを作ったりもした.
ここまで本格的にゲームプログラミングをやっていると,さすがにジャンクパーツを集めただけのPCでは性能に不満が出ることが多くなってきた.
ビルドの待ち時間が長くていらいらしたり,友達の家で動くゲームが自分のPCで動かなかったりした.
「自分で稼いで買え」
親父はどこから取ってきたのか,俺でもこなせる程度の仕事を持ってきた.
始めはパソコン教室のバイトだったり,ゲームのデバッグだったり,まともなバイトだったのが,
ある日学校から帰ってくると,何に使うのかは知らないが,明日までにこういうコードを書けと言われて徹夜でプログラミングしたりするようになった.
プロの書いたらしいコードを読んで書き直す作業は,かなりの勉強になった.
給料は親父から手渡しで貰ったが,今まで見た事もないような額になった.
その金で新しいマザーボードとPentium IIと32MBメモリを何枚かと,自分の開発環境用にWindowsPCを作った.
こんな感じで高校には通っていたものの,勉強らしい勉強はほとんどしないで過ごした.
それでも,手に職はあるわけだし,しばらくは同人ゲームでも作って過ごそうと思っていた.
だけど親父は反対で,大学ぐらい入れと言い出した.
それでもやる気のなかった俺に,
一体何が起こった,このクソ親父,脳の病気にでもかかったかと本気で疑った.
どうやら正気で言っているらしいと分かると,俺も必死に勉強を始めた.
そうは言っても,中学時代から受験を意識した勉強なんてさっぱりしてこなかった俺には,何をどうしていいのか分からない.
しかも,やっぱり親父はドケチで,塾や予備校なんていく金は無い.
しかたがないから高校時代の友達で,頭のいい大学に行ったやつにお世話になることになった.
厚かましくも,キャンパスにまでついていったりしていたから,新入生として入って行くと顔見知りに驚かれた.
親父は約束通りPower Macintosh G3を買ってくれた.
だが,俺の親父はドケチだった.
「せっかくいいパソコン買ってやったんだから,そいつで学費ぐらい稼げ」
さすがにそいつは無いだろうと思った.
自分で遊ぶ分くらいは当然稼ぐつもりだったが,学費丸ごととは.
いくら国立大学とは言え4年分の学費となると200万ほどになる.
しかも教科書代やもろもろを考えると300万円は無いと厳しい.
300万円稼ぐために俺ができることと言えば,やはりゲームを作るぐらいだった.
志望動機を聞かれて,
「ゲームを作って300万円ほど稼ぐためです」
と言ったら爆笑された.
金が必要な理由を言ったら,一瞬でお通夜みたいな空気になったけれど.
先輩が相談に乗ってくれて,成績優秀なら学費は免除になったり半額になったりすることを教えてくれた.
それならなんとかできそうな金額だった.
プログラミングをしているだけなのに,「お勉強」として扱われるなんて.
今まで何気なく使ってきた道具に,こんなに深い基礎理論があるなんて,知らなかった.
講義が終わったらサークル棟に入り浸って,入学祝いのMacintoshで朝までゲームを作ったりしていた.
学費を稼ぐためのゲームだが,やはりエロゲを作ろうということになった.
ただし,そのためには絵師が必要だということで,先輩が漫画研究会から絵師をスカウトしてきた.
一目惚れした.
こんなちっこくてクリクリして可愛い女の子が,こんなドエロい絵を描くなんて!
俺の頭はすっかり茹だって,も~だめだ~という感じになった.
それから,なんやかんやあって,結果的に彼女は俺の嫁になった.
詳細は伏せるが,なかなかにこっ恥ずかしい青春を送った.
今まで○とか■とか,ちょっとしたドット絵でしかなかったキャラクターに命が吹き込まれるようだった.
先輩たちが,売上金を快く俺にカンパしてくれたおかげでもある.
満ち足りた大学生活だった.
スーファミはもう時代遅れになったが,自分の作ったゲームが本当に発売されて,ゲーム機の中で動いているのを見た時は嬉しくて泣いた.
娘が生まれた時と,どっちがと思うくらい泣いた.
さて,俺のドケチな親父だが,娘が生まれてほどなくして死んだ.
あんなにドケチに金を惜しんでいたのに,財産も何も残さず死んだ.
遺書を読んだら,葬儀は簡素に親族だけで行うように,とあった.
親戚付き合いらしい親戚も居ないし,どうせ誰も来ないだろうと思っていたが,
葬式当日には呼んでもないのに大勢の参列があって,なんだこれは,人違いかなにかかと思った.
なんでも,親父の運営するNPO法人の従業員だとか,親父の寄付金で建てた養護施設の代表さんだとか,
親父とは無縁の世界の住人だとばかり思っていた,立派な善人ばかりだった.
家に居ないことの多い親父が外で何をしているかなんて興味なかったし,どうせ競馬かなんかで稼いでるんだろうと思っていた.
葬儀が終わって,ちょっとした額になった香典の山を眺めていると,
「さあ自由に使っていいカネだぞ.お前はそれで何をするんだ?」
そんな声が聞こえてくるようだった.
なんだかむかついたので,その金は今まで通った学校にプログラミング関係の本を寄付するのに使うことにした.
一銭も残さずに,全部.
それでもなんだか負けた気分だったから,ボーナスをつぎ込んで,倍額にして寄付してやった.
ドケチなクソ親父を,見返してやった.
最高の気分だった.
それが6年ほど前の話だ.
ところで最近,小学校に上がった娘が,アニメに出てくるようなフリフリなドレスを着て学校に行きたいと言い出した.
もうそんなお年ごろになったのか.
子供には不自由させたくないと思っていたが,調べてみると我が子の眼鏡にかなう服は,日常的に着る服にしては,ちょっと高い.
悩ましい問題だ.
さて,どうやって安上がりにすませようか.
1980年代の小学校では、ある玩具が爆発的に流行しては、教師により特定の玩具の持ち込みが禁止されるという状況にありました。
コマなど駄菓子店で売られる玩具については、ほとんどが早期に禁止を言い渡されています。
その後、玩具は子供側に「これは勉強に使うものだから」という言い訳がある、文具店で販売されるものへと移っていきました。
キャラクターがキャップ部分についたシャーペン、色鮮やかな練り消しゴムなどです。
それらも、爆発的に流行して教師が持ち込みを禁止するのは、他の玩具と同じでした。
消しゴムは玩具性が低いとみなされ、子供たちが「自分の考えで」何かを選んだと主張するのに便利な品でした。
例えば、消しカスがひとつにまとまる消しゴムは、練り消しゴムの禁止が教師から告げられたあと、自家製の練消しを密造するのに使われていました。
練り消しゴム以外の、教師にとがめられない消しゴムは、おもに以下の3タイプでした。
・上記の箱が失われ、カドも無くなって、ほぼ円盤上になったもの
・片方が白く、もう片方が灰色の砂消し(すなけし、砂消しゴム)
小学校では休み時間になると、ボールを持って校庭へ飛び出す子供たちとは別に、教室にとどまり、学習机上で上記の消しゴムを使った「ピンピン」で遊ぶ子供たちがいました。
ピンピン基本ルール
1. 複数人が1つの学習机の端に、自分の消しゴムを置きます。
3. 自分の消しゴムを弾き、他の人の消しゴムにぶつけて机から落とします。
1. 自分で弾いた消しゴムを机から落としてしまった場合、勝敗はカウントされません。落とされた消しゴムとともに、落ちた地点に再配置します。
2. 攻撃する消しゴムの持ち主は、親指で溜めて人差し指や中指で弾くほか、逆に親指で弾く、プラスチック定規をばねとして使う、ノック式ボールペン(側面のスイッチで収納するタイプのもの)の戻る勢いを利用する、などの弾きかたがあります。
3. 狙われている消しゴムの持ち主はタイムを取り、机に密着させる、角度を変える、立てて相手ごと落ちやすくするなど消しゴムを置きなおすことで防御ができます。
4. 攻撃側も消しゴムの置きなおしができます。攻撃者と隣接してピンチの守備側が消しゴムを立てる→攻撃側も消しゴムを立てて底を弾こうとする、などの攻防があります。
5. 他のプレーヤーは、攻守の2人が時間を掛けすぎていると、早くやれと急かしていました。
文字を消す能力はないが小学校に持ち込むための言い訳に消しゴムの名がついた樹脂製玩具として、「キン消し」(キン肉マン消しゴム)の発売以前、「スーパーカー消しゴム」がありました。
スーパーカー消しゴムは他の消しゴムとピンピンで争うには軽量すぎ、おもにノック式ボールペンが戻る力で弾く方法で、スーパーカー消しゴムのみで対戦されていました。
必要な道具がひとつ多い、スーパーカー消しゴムどうしでは戦いに変化がない、などの理由で、流行はしたものの早期に廃れていきました。
私のいた小学校でキン消しが流行したのは、ピンピンにおいて、キン消しが適していたためです。
机の端で守備側がキン消しを立たせると、机から相手ごと落ちないようにするために、攻撃側には繊細な力加減が求められます。
重量がある「サンシャイン」、回転させてぶつけることができる「アシュラマン」は特に子供たちから愛用されていました。
プロレス技のポーズをとった姿のキン消しは安定性に欠け、ピンピンでは負けてしまうので嫌われました。自立できるポーズのキン消しがピンピンでは好まれました。
キン消しで漫画内のシーンを再現するような遊びは、ほとんどされていないか、ごく早期に飽きられていました。
私の周囲では、キン消しはピンピンのための器具として扱われていました。
最近の閉塞した人生を少しでも変えようと街コン参加を決意して、色々と調べたら大変面白いイベントへ参加出来たのでメモがてらレポを残しておく。ちなみに筆者は男です。
09:00 小田原集合
15:15 九頭竜神社参拝
朝から夕方まで分刻みの忙しいスケジュールだが、箱根パワースポットバスツアーの名に相応しい要素を抑えていると思う。
参加費は、男性\16,800、女性\9,800と、中々にツボを突いた値段設定と思う。
集合場所は小田原駅。箱根湯本で無いのは個人的に残念なものの、新幹線の駅もあるしロータリーも広く妥当な所だろう。
バスの前に行くと受付で名前を告げてバスの座席順決めのための最初のクジ引き(マッチング①)。バス座席は左右2列ずつの普通の観光バスで、窓際女性、通路側男性となるよう番号で決められていた。覚悟していたとは言え、狭い空間で初顔合わせの男女で二人きりという状況は、中々のスキルが要求される。さっそく仲良く話始めるペアもあれば、気まずそうな沈黙に包まれるペアもある。もう戦いは始まっているという事だ。15分ほどでひと通り集合・出発。
バスは箱根の山道を左右に揺らしながらガンガン進む。出発時に参加人数が40弱である事が発表された。(しかし、驚愕の発表として、うち男二人が集合場所を新宿と勘違いして集合出来なくなるハプニングも…。ちなみにこの二人は頑張って昼食から合流してました)
道中最初の自己紹介タイム。全員にプロフィールシート表が配られていたが、これがわかりづらい!A4の厚紙に合計12箇所の記入欄があり、それぞれに名前や仕事・趣味といったことを書く欄があるシートとなっていた。はじめは全てに頑張って記入し、切り取って相手に渡していくのかと思ったが、実はこのシートをそのまま異性に渡して、その異性にプロフィールを書いてもらうという仕様となっていた。つまり、ツアー終了時には12人分の異性のプロフィールが自分の手元に一つのシートとして残るわけだ。ともかく一人目のお相手に書いてプロフィールを書いてもらって、それをネタに雑談を進めていく。その他にはジャンケン大会などを行いながらほどなくガラスの森へ到着した。
バス内で事前に8チームになるようクジ引き(マッチング②)を行って、4~6人ずつでガラスの森へ。夏休み突入直後ともあって館内は子供連れも多く気恥ずかしい。しかし大変天気も良く、美しいガラス細工を見ながら館内を鑑賞。途中、グラスハーブなどによる生演奏が開催され、柔らかくも美しい音色に聞き入る。実に良い経験をさせてもらった。散策時間は約1時間ほどだったが、ゆっくり見てまわるには少なすぎる。チームの互いの紹介もままならない状態でバスに帰還となった。バスに戻る際に再び座席決めのクジ引き(マッチング③)で先ほどとは別の異性と相席する。プロフィールを交換しながら雑談しているうちに次のザ・プリンス箱根へ程なく到着した。
ガラスの森と同じく、バス内で事前に8チームになるようクジ引き(マッチング④)を行って、ザ・プリンス箱根のパーティー会場「相模」で昼食。食事はビュッフェ形式で、ビーフシチューやパスタ、ピザ、ドリア、サラダ、スープ、カレーなどなど、種類は豊富。食事の量も人数分しっかり確保してあり、後半メンバが足りなくなるような事はなかった。ただ、全体的に味付けが濃く、夜のお酒を片手に行うパーティー向けなのは少々残念。飲み物はソフトドリンクとしてオレンジジュースや烏龍茶が用意されていた他、アルコールはビール、ワイン、焼酎とこちらもホテルのパーティーらしい品揃え。全体的には過不足ないが面白みも無いメニューだった。ただし、ピンクカレー。テメーはダメだ。食事中にツアーの目玉の一つである専門の占い師による無料恋占いの整理券配布が行われる。先着順ともあり、女性の皆様は一斉に整理券ゲットに走っていた。すぐに順番に呼び出しがかかり、個別ブースでタロット占いを行ってもらっていた。一人5分弱?くらいと思われる。食事は20分ほどで終了。ちなみに途中で新宿野郎たちも合流していた。ホントに来たよ。ある意味尊敬する。
食事もそこそこに、マッチングタイム開始のアナウンス。ちなみにこの間も占い呼び出しは続行中。まずは女性がクジ引き(マッチング⑤)で席替え。食事の時とは違うメンバでマッチングタイム開始。円卓のテーブル内で男女4~6人の円テーブルを囲みながら1回7分ほどのコミュニケーションを取っていく。ただ、例のプロフィールシートを書くのに忙しく、大半の時間が記入に消えてしまう。書き終わっていざ話を盛り上げようとしても、あっという間に時間終了で、ろくに会話が出来ないのは残念すぎる。時間経過後は、男性のみテーブル移動。クジでは無く、男性の自由意思でテーブル選びを行う。熾烈な争いの場だ。途中休憩をはさみつつ、合計4回の移動(マッチング⑥~⑨)でコミュニケーションを取っていく。正直後半はダレて来てプロフィールシートを埋める作業になりつつあり、顔と名前が一致しなくなる。ある意味、ココでどれだけ集中力を持続させ、最大のパフォーマンスを発揮するかが求められるだろう。
戦いの余韻を残しながら、アンケート記入タイムへ。Webに掲載されていた前回開催時の率直なアンケート結果を事前に見ていたこともあり、割と辛辣な事も書きつつ良い機会を用意してくれた事に感謝を表明しておく。
その後はお楽しみ抽選会で、箱根の温泉入浴券や箱根園水族館チケット、さらには\30,000相当の箱根宿泊券など、開催規模から考えたら中々の商品が当たるジャンケン抽選会。箱根観光協会の本気と実力が窺い知れる内容だった。
そして時間は運命のカップリング発表へ。カップリング決めには、各人に配布された希望シートへ第3候補までの異性の名前を記入し、お互いがマッチすれば晴れてカップリング成立となる。今回は合計8ペアのカップリングが成立となった。参加人数が40人弱であるため、成立率は約40%となる。街コンとしては驚異の成立率だろう。ココが一番の盛り上がるシーンのはずだが、人間は素直なもので発表が進むにつれ場の空気は大変重くなっていく。最初のペアが発表された時は気軽に拍手の祝福があったが、最後のペア発表時は本当に悲しいくらい弱々しい拍手だった。今日一日の戦果が決した瞬間である。
見事カップリング成立した8組が先行しつつ、徒歩で九頭龍神社参拝へ。片道30分ほどの距離。カップリング成立したペアはお互いの親睦を深めつつ長い道のりをゆっくり進む。逆にカップリング成立しなかったメンバはフリー移動で続いて神社へ。ココでさらに声をかけて仲良くなる人もいたようだが、やはりカップリング不成立の壁は大きい。中には孤立する人も抱えながらゆっくり神社へ歩を進めていく。午前中の快晴と打って変わって深い霧に包まれた芦ノ湖を見ながら程なく神社へ到着し、順番に参拝を済ませていく。途中、白装束に身を包んだガチの参拝者もいらっしゃっており、無作法な人間が多く参拝していた事が少し申し訳ない気になった。道中は特にマッチングのイベント等は無く、カップリング成立者と非成立者で明確に天国と地獄が別れた時間だったと思う。
ホテルへ戻った後は30分余りの休憩、おみやげタイム。気の合う人たちはラウンジでお茶を楽しんだりしていた。また、主催者はバルコニーに出てアンケート結果らしきものを眺めながら一日の反省会をしていたようだ。
帰還のバスも自由着席でカップル同士や同姓同士、ボッチなど様々なスタイルを反映しながらの道程で、一日の戦果を客観的に教えてくれるものだった。小田原到着後の解散もあっさりしたもので、2次会らしきものに行くメンバも見当たらないまま流れ解散となった。
批判的な所も書いたが、率直な感想としてツアー代金以上の価値があると思う。ある程度運も要求されるが、前半のバス搭乗~食事までは異性と強制的にゆっくりと話す時間が設けられており、ココで気の合う異性を見つけられた人がカップル成立となっていったのだと思う。特にガラスの森は女性受け抜群で、適当に会話をあわせるだけでコミュニケーションをとれるので口下手な人でもネタには困らないだろう。逆にマッチングタイムの忙しさが際立ってしまったのは残念で、正直自分はココで会話した異性の印象はほとんど無い。1日で最大多数のマッチングを取るためには致し方ないが、もったいない気がしてならない。
参加者の質としては、男女ともに2割くらいがハイスペックだったと思う。容姿だけで無く、年齢や仕事など総合力に優れる人はやはりカップリング成立となっていた。自然の摂理とは言え自分が鋭く評価されるものであるため、結果をどのように受け止めるかが今後にも繋がってくると思う。カップリング不成立だった人は不満タラタラだと思うが、今日1日で同姓のドコが評価されていたかを観察できたのでは無いだろうか。今日の結果を踏まえて改善出来なければ今後には繋がらないという残酷なまでのメッセージをだと思う。
逆にカップリング成立した人たちに対する九頭龍神社参拝は、一日の熾烈な戦いに勝利したご褒美だろう。都合2時間弱の時間を強制的にペアを組んで行動するため、コミュニケーションを深めるにはうってつけだ。神社のご利益も相まって、主催者の狙い通りの展開となっていた。
主催者側については、箱根観光協会ならではの趣向で楽しませてもらったと思う。ただ、全体的に手作り・手探り感が拭えず、進行もわかりずらい点が多々あった。今後に期待。
主に男性視点。まず身だしなみは大変重要と再認識。だらしないシャツ着てるヤツは論外。目立つだけの服装もNG。コミュ力はどうしても要求される。主催者側はマッチングやプロフィールシートできっかけ作りに腐心してくれているが、結局はそこから会話に繋げられるかは参加者自身の問題だ。会話が続かなかったり、トンチンカンな受け答えしている限りカップリング成立は夢のまた夢。イケメンがカワイイ子をゲットしていくのは当たり前と了解した上で、いかに自分の土俵で勝負するかが問われるということだろう。ただ、参加者の質は本当にピンキリなので、最上でなくとも中の上を意識して目指せば、カップリング成立はそれほど難しく無いのでは無いだろうか。
あと女性側へ。30後半は正直厳しい。ともかく、男女問わず空気嫁。
http://www.so-chan.sakura.ne.jp/?p=2276
いや、何言ってるの。
javascriptでグーチョキパーのボタンを押したらコンピュータも何かの手を出すジャンケンゲーム作れって言ったら作れるでしょ?
手を動かせ、作れる範囲で何かを作れ。
プログラムは工作なんだよ。本棚とか犬小屋を作ったことない人が、いくら一軒家の設計図の書き方を
学んでもなにも作れねえんだよ。
あと言わせてもらえれば「電卓」はまじめに作ろうとすると結構難しい課題だ。
よく考えるとわりと裏でごちゃごちゃとやってんだよ、あれは。
「電卓」はまじめに作ろうとすると結構難しい課題だよ。よく考えるとわりと裏でごちゃごちゃとやってる、あれは。ググると逆ポーランド記法とか出てきてさらに初心者を混乱させるし。
https://twitter.com/tm2501/status/337084076311863296
やっと、ブログ記事の反響を見た。割と反響が良かった。僕のブログにしては批判が少なく心お穏やかに見られてましたが…まぁ、酷いのが一つあった。「一ミリも文学理論を使っていない批評に何の意味があるのか?」(ブコメより)←アホでしょ?なんでそんな高尚ぶったモノをかかないといかんの?バカ?
https://twitter.com/tm2501/status/337084710763245568
『一ミリも文学理論を使っていない批評に何の意味があるのか?』と怒られたんだが…俺は経済学部出身だ。だから、文学理論何か体系的に習ってないから、そんな理論は知らん。だけど、文学って文学者・文学オタクのものなの?その人らが論じるだけのクローズなメディアなの?答えは俺が語るまでもないよ
https://twitter.com/tm2501/status/337085791891238913
頭の悪い学術的なことが好きな連中ほど「学術的なあの言葉を使え・あの理論を使え」というが、理論は後に考察した人「あとだしジャンケン」だぜ?名前とか言葉で定義を狭めるのではなく、現象をありのまま見て、それをちゃんと成文化して、研究する。そっちの方が真理の探求であり、学術的なのでは?
https://twitter.com/tm2501/status/337088722707308544
文学系がみんなバカだとは思わないけど、歴史と哲学以外の文学部の連中とはあの人らと話が合わない。法学部も頭でっかちな奴多いし、経済学部もデータ魔系バカ多いけど、文学部は…もっとこじらせた類の馬鹿が多いから個人的に関わりたくない。自分達の理論やメゾットに酔いすぎてキモい
メゾット
http://anond.hatelabo.jp/20130205153620
鷲巣麻雀も決勝二人麻雀も導入目的は明らか。「普通の麻雀より、相手の思惑を推理できる要素を増やす」よ。
福本は「相手の策を読み、裏をかきあっての心理戦」が描きたい(読者もそれが読みたい)が、
麻雀というゲームそのままでやるのは無理があるので特殊ルールにしてるのだ。
そもそも、麻雀漫画で闘牌がメインになっているもの(ギャグとか実録物とか「麻雀をめぐる人間模様」がメインな話とかはとりあえずここでは置いておく)は、
「麻雀というゲーム」か「麻雀を打つ人間」のどっちかで嘘をついてる。麻雀が運ゲー過ぎる(少なくとも短期戦では)からだ。
前者はどういうことかというと、「麻雀はこうこうすれば捨て牌から相手の思惑を読みきることができるゲームだ」とか
「麻雀はこうこうすれば運気の流れを自分のものにすることができるゲームだ」とかいう嘘(麻雀は運ゲーじゃないよ、という嘘)。
一般的に麻雀漫画というのはこういうのを想像されがちだと思うが、現実にはこれは無理。
手配読みとか、100%嘘ではないが、あんなピンズドで読むのは条件が相当限られないと無理。
「嘘じゃねえ!流れはあるんだ!」と言いたい人もいるとは思うが、一応、現代の麻雀戦術では、流れというものはないし、
相手の手牌を読むのは条件が相当限られないと無理ということになってるのだ。納得できなくてもそういうことにしておいてくれ。
バトルマンガで例えて言うなら「拳銃持った相手と素手で戦う時、銃口の向きを確認して高速で動けば全部避けられる」みたいなもんで、
「一見理屈は通ってるけど、現実にはそれ無理やろ」という話やね。
もちろん「嘘だからつまらない」なんてことはなくて、嘘の付き方がそれっぽければ面白いわけだ。
麻雀漫画でこの手のだと、土井(旧ペンネームは山根)泰明原作(『勝負師の条件』『幻に賭けろ』など)が特に素晴らしいね。
福本の特殊麻雀はこの変形で、「相手の待ち牌を読まなきゃ勝てない」とか「相手の手牌が部分的に見える」みたいなルールをプラスすることで、
「それっぽい理屈が成立しそう度」を上げてるわけだ
(まあ鷲巣麻雀とか二人麻雀は実際にやったことないので、もしかしたら「成立しそう」ではなくマジで理屈が成立してるのかもしれないが)。
こんな七面倒臭いことせず、限定ジャンケンみたいに新しいものを作ったほうが無理ないけど、近麻でそれできなかったろうし。
ちなみに後者は、「雀士には人智を超えたすごい奴が居る」という嘘(人間は運をねじふせられるよ、という嘘)。
この代表例は来賀友志原作(『あぶれもん』『ザ・ライブ』『てっぺん』『天牌』など)。
『ザ・ライブ』で、神業的な打ち筋を見せた主人公がなぜそう打ったのかと問われて
「明確な説明は僕にもできません」とはっきり答えたり、
『てっぺん』で「何を切るかではない何を引くかだ それが超一流の条件!」ってアオリがあったのが典型的だが、
「すごい奴ってのは理屈ではなく当たり牌を切らない」「すごい奴ってのは理屈ではなくツモる」って具合なんね。
さっきの例えで言えば、「すごい奴ってのは堂々としてるだけで拳銃の弾が当たらない」みたいな感じ。
理屈にはなってないが、ある意味リアリティはあるとも言える(そういう「持ってる」って言いたくなる人間って居るじゃん)。
『哭きの竜』なんかも土井作品(クレジット無いけどあれ土井)にしては珍しくこっちだし、
『むこうぶち』も、理屈は出てくるけど本質的にはこっち(傀が負けるところ想像つかねー)だと思う。
で、上の二つが分かりやすいけど、「強い! 絶対に強い!」という黄金バット的サムシングを読者に納得させることが出来るキャラクター造形であれば面白くなるわけだ。
なお、咲とか兎、片山まさゆきの『ミリオンシャンテンさだめだ!!』とか『まんちょくスナイパーとどめ』(どっちも片山作品の中では知名度低いが超名作)とかはこの変形で、
人間力的な漠然としたものではなく限定的な異能にしてるわけやね。
ちなみに、「咲は麻雀漫画としてはダメ」とか言うのを見ると「それはどうか」と思うのは、
「麻雀が分かってる人間なら、咲が『牌にドラえもんが描いてあったって成立する』ようなもんじゃなく、
ちゃんと牌譜作ってあって、ネト麻とかとつげき東北以降の戦術をベースにしてることは見て分かるだろ」って気持ちが半分と、
「能力麻雀だってdisるの、片山の名作群をdisるってことだから承服しかねる」ってのが半分。
イカサマものはまあまた別論にしといてくれ。哲也とかのヒット作があるので勘違いされやすいけど、80年代以降の麻雀漫画シーンでは一貫して傍流(『(旧)バード』『凌ぎの哲』『ショーイチ』だけ読んどけばいいよ)だし。
二人組作ってーと言われると基本的にハブられる人間だった。凄い嫌々そうな顔で組まれることが毎回だった。
球技のチームわけは更に苦痛だった。出来る奴だとクラスから推薦された人間が、自分のグループに入れる人間を指定する形でチームを組むからだ。
当然自分はいつも最後。目の前で「どっちが取る~?」「ジャンケンで負けたほうでいいんじゃね?」とかやられたときは流石に逃げたかった。
ついでに思いっきり学級委員も押しつけられた。クラス投票で自分ともう一人地味な子(明確にクラスからハブられてた)が圧倒的多数の票を獲得して当選した時は
正直泣きたかった。
さすがに辛くなって面談の時に教師に訴えたら、「あなたは真面目な子だからクラスから信頼されているんだと思っていた、もっと自信を持ちなさい」と来たもんだ。
それでも出席しないと単位がもらえないとかいう学校のお題目を馬鹿正直に信じ込んでいたんで、何とか学校には行ってた。授業にも出てた。
今考えると自分のことながらすげえなと思う。保健室登校とか何でしなかったんだろう自分。意味わからん。たぶん親が怖かったんだとは思うが。
おかげさまで今でもグループワークって奴が凄い苦手だ。
義務じゃないよー。
元々はアメリカで始まったもので「学校での子どもの様子がわからない。親もかませろ」と先生にせまって、親と先生の会が出来たんだよ。日本には第二次大戦後に輸入された。発足当時はお上がかりだから、PTA会長は地元の名士だったり、本部役員にも地元の有力家のお歴々が並んだもんだ。時代が下がって、そういう地域のつながりが切れていき、PTAの上層部もくじ引きやジャンケンで決めるようになったんだよ。
でも、基本は「自由参加」。学年に1人くらいは「PTAに存在意義を感じない。何の恩恵も要らないので、入らない」と言い張る人がいる。PTAに入ってないんだから、痴漢避けのパトロールにも来ないし、朝、危ないところを子どもに渡らせるための交通整理にも来ない。校外学習のときに要所要所で子どもを見守る役もやらない。でも、やるほうは、その家の子どもだけ見守らないなんて区別はつけようもない(つけられたとしても、私は他の子と同じに扱う)から、依怙地にならずにやればいいのになあとは思う。
それは、画面の中だけでなく、リアルにおいてもだ。公演、ライブはもちろん、握手会など近い距離でも、僕らは彼女らを感じられる。
日常をただ、平々凡々と暮らしていたのでは出会うことさえ、許されなかった弩級の美少女に。
僕は、彼女に憧憬を好意を覚える。彼女らは資本主義世界でプロダクトされた理想の美少女で、彼女らはマスプロダクトされた彼女らについてのプロダクトを以て、僕に彼女らを伝えてくれる。
好きだ、大好きだ。愛してる。
まるで、この世の理、万有引力に導かれるかのように。不思議な話だ。
現実世界では、近づくことさえ、許されなかった彼女らに、恋することが許される。
彼女らがアイドルになってくれたおかげで。彼女らは僕らの想いを拒絶しない。
しかし、彼女らのファンは残酷な真実に気づくだろう。画面の中で、ステージで、輝く彼女らを見て。
いや、むしろ、無数にいる彼女らのファンや握手会で自分の後ろに立つ係員を見て気づくかもしれない。
もっと、自然に、もっと、普通に。例えば、クラスメイトのように、近くで出会えればよかったのに。
でも、僕は気づく。もともと、彼女らは特別で、本当は、出会えなかった。
だから僕は、彼女らがアイドルでいてくれたことに感謝しなくてはならないのかもしれない。
【秋元康の罪】
今や、過熱したアイドル業界を牽引するAKB48を始めとする48グループ。
古くはおニャン子クラブの時代から、アイドル業界を手のうちに収める彼には、その業界を発展させたという功績がある。
そして、罪もある。
AKB48の最新曲『真夏のsounds good!』でその罪について検証しよう。
この夏を代表するであろうこの曲のPVは彼が指揮したらしく個性的な設定が付与されている。
その最高指揮を執るのが、彼、秋元康だ。
軽快な曲、爽快な歌詞とは裏腹にPVの物語性にはダークなものが感じられるだろう。
AKB48を卒業することが予定されている前田敦子を助けようとする渡辺麻友。
「もういいよ行って。行きなってば先に。私たちは私達が変わるためにここに来た」
次々に倒れていくメンバー。
そんなダークな情景を見せたあとに、PVは青空の下で彼女らが踊るものになる。
真っ白な水着。真っ青な海と空。清々しいほどに爽やかで、それが先ほどの情景と対比される。
これほどまでに綺麗な未来が、つまり、新生AKB48が生まれ得るのだと期待させる。
それはPVの終盤、渡辺が前田を連れていくシーンだ。行く先は、先程、白い水着を着て、砂浜で踊っていたメンバーの下。
生まれ変わるなら、彼女らは前田を迎えるべきではないし、前田はそこを目指すべきではない。
渡辺もそれを助けるべきではないし、助けているということは、前田が抜けた後の新生AKB48の可能性を否定しているとも言える。
前田もAKB48を抜けた後の自分の可能性を否定しているのかもしれない。
つまり、秋元氏は彼女らに新生AKB48の可能性を彷彿とさせるPVを提示しながら、その可能性をPVの中で否定しているのだ。
アイドルグループは予定調和でなく、突き進んだ結果であるべき、ジャンケン大会のようにガチであるべきだという秋元氏の思想とは反するようにも思える。
しかし、よく考えて欲しい。
私にはそうは思えない。
彼は、凋落したことのない、紛うことなき、この時代の寵児であり続けたし、今ではその世界の重鎮だ。
彼に単なる根性論など通用しない。
努力だけではだめだと、成功するには運も必要だと、グーグルプラスで語った彼には美辞麗句に賭された、文字通り飾り物の世界ではなく、本当の世界が見えている。
だから、単純にがんばれば、努力すれば認められるというメッセージを発さないのだろう。
それは、彼の信念に反するから。
そう、彼の思想はこの世界を精緻に写しだしたものであるように思えるし、それに僕は同意する。
だが、この思想が彼の罪を生んだ。
つまり、それは、その一種リアリティ溢れる思想、イデオロギー性を伴った作品を彼女ら、世界で認められうる美少女らに歌わせ、演じさせてしまったというところ。
僕らは、アイドルに夢を見ている。
小難しいことを、批判めいたことを歌ってほしくはない。
社会批判。その歌詞、そのメッセージ性は痛いほどに、僕の胸に届く。
しかしそれを彼女らに歌わせることで、彼女らは政争の具のような体裁を見せてしまう。
なんの色付けもされていない、ピュア=純真な女の子を僕は見たいのにも関わらず。
別の例では、秋元氏は純真な、つまり、彼女らが思っていることを彼女らが歌っているという構図の作品を生み出すことに成功している。
それが、SKE48(KⅡ)の『お待たせsetlist』だ。
選抜総選挙で高柳明音は、秋元氏にこう叫んだ。「私達に公演をやらせてください」と。
彼女らは、それまでリバイバル公演(他のチームの公演楽曲で公演する)ばかりを行い、自分たちのオリジナル公演が行えなかった。
だから、彼女らSKE48(KⅡ)とファンの思いを高柳は秋元に代弁した。総選挙の会場で熱を込めて語った。
秋元氏はそれに呼応するように公演楽曲を書き、オリジナル公演を与えた。
『お待たせsetlist』には、SKE48(KⅡ)の思い、そして、ファンの思いが込められている。その歌詞は秋元氏が書いたものだが、聞く者にとっては、彼女らの気持ちそのものが歌われているように感じられる。
僕は、彼女ら=色付けされていないプレーンな彼女らを望んでいるのではないか。
そこには、如何に崇高な思想やイデオロギーであっても介在するべきではないのではないか。
だからこそ、僕らは秋元氏が秋元氏の思想、イデオロギーを彼女らに歌わせ、演じさせることに強烈な違和感を覚えるのである。
さて、散々彼の罪を述べてきたが、彼の功績は大きい。夏に控える前田敦子の卒業に関して、彼はこのように述べている。
「相変わらず表現は下手だが、その分、ストレートに伝わってくる。時々見せるはにかんだ表情は、あの頃の“あっちゃん”のままだ」と。
彼女につまり、この世界で美少女と認められたアイドルにバイアスをかけることなく、アイドルというひとつのステージを卒業させる。
そのことには頭が下がる思いだ。
さて、そのようなイデオロギー性の濃いアイドルの対極にハロープロジェクト系列のアイドル、モーニング娘。やスマイレージといったアイドル勢がいる。
一時程の勢いはないが、それでも業界内で存在感を放っている。そんな彼女らはイデオロギー性から解放されたアイドルといえる。
彼女らの歌う曲の歌詞や、日常を何の疑問も持たずに歌いこなすものであり、楽曲名からさえ強い思想は感じられない。『プリーズミニスカ ポストウーマン』(スマイレージ)『ピョコピョコウルトラ』(モーニング娘。)といった曲名からは、いわゆるおバカな空気さえ感じられる。
純粋な気持ちを歌っているかどうかで言えば、アイドルを眺める視点では、こちらの方が、彼女らの気持ちが歌われていると想像できる。
まさか、つんくがうぶな乙女の気持ちを持って生活しているとは思うまい。
【つんくの罪】
そんなつんくにも罪はある。
それは、作品そのものではなく、それらを歌いこなす際の彼女らについてである。疑問に思ったことはないだろうか。
彼女らの楽曲は、つんくが曲詩ともに担当する。48グループの秋元氏が詩のみの担当であることとの差がここに出ているのかもしれない。
よくよくハロプロメンバーの歌い方のくせを聞いていると、そのくせが似たものであることに気づくはずだ。
そう、つんくの歌い方のくせに似ている。と。
つんく自体、アーティスト時代の歌い方のくせは強いものだった。
それ自体はなんら問題がないのだが、その歌い方のくせを彼女らに楽曲提供することで一種押し付けているのではないか。
ピュアな彼女らの、女の子らしい歌い方を黙殺してしまっているのではないか。そう感じられて仕方ないのだ。
ここでも、僕らは嘆くことになる。彼女らの気持ちを彼女らの歌いたいように歌っているものが欲しいのに。本当の彼女らが欲しいのに。
資本主義に浸け置きにして、彼女らの骨を抜くのはもうやめてよ!そんな不自然な美少女見たくないよ!
そんな思いにかられて、すべてに思想やくせのないアイドルを探す。いることはいるのだ。
例えば、SUPERGiRLS
例えば、YGA
天下のavex、そして吉本興業のプロデュース。資金力も申し分ない。ルックスも申し分ない。でも、なかなか売れないのだ。
吉本興業に至っては、NMB48という48グループの力を借りて、アイドル事業に参画する始末。
ほかに気になるのがあったら、追加していただきたく思います。
今回は俺の友達のコミュニケーション、特に要求を通すことに長けたニートの話をするよ。結構頭おかしい話が多いけど、単純にすごいなあと思ったので。
あれ予約必須なんですけど、俺が予約とり忘れてて前日に電話で伝えることになりました。
俺「本当にごめん!予約取り忘れた。いやー色々あって~うんたら~他の店にしよう。」
ニート「・・あー大丈夫。予約入れた振りして、店側が予約を記入してなかったことにするから」
俺「いや、だめだろ」
ニート「まあ、店が断ったら他の店探せばいいじゃん。じゃあ、店の前ね」
俺「・・・」
俺がミスってるので反論できず、とりあえず行ってまずくなったら退散すればいっかということに。
~当日~
ニート「あー18時半にGrouponデ予約した○○なんですけど。」
店員「はい、少々お待ちください」
店員「はい。どうぞ。」
ニート立ち上がり、「先週に予約したんですけどね。○○で入ってないですか?」
店員くまなく探し、他の店員にも聞くが当然見つからない。その間、ニートは堂々と黙って見つめてる。
店員が空気に耐え切れなくなって「一応、料理は提供できるんですが・・・どうしようかな・・・」
Grouponを使ったことがある人はわかると思うが、予約の日時名前などは何度も復唱する。さらに紙も統一されてるので、予約したのにないなんていう状態は通常ありえない。
しかし、店は真偽をここで完全に証明できるわけではないので、疑わしきは罰せずで対応するしかないのを上手くついた形でしょう。
まあ、これを即座にシュミレーションできて、実際の対応もほぼ完璧にできるなんて頭おかしいとしかいえませんね。
ニートはその能力を仕事で使う機会がないので、友達である俺にその能力を使ってきます。
例えばニートはtwitterやってないんだけど、なぜか俺のtwitterアカウントを知りたがります。
しかし、前に脅しや恐喝をされて絶縁状態までいった(会わないという誓約書を書いて)経験から、友達でもそういうことするんだと思ってるので、twitterの情報をニートに知られたくありません。なので、断ります(本当の理由は言わずに嫌としか言いません)次に、携帯とtwitterがリンクしてるので、携帯を触ろうとするけど当然拒否。内容は割愛させてもらうがとにかくtwitterのアカウントが知りたいらしい。
俺「へー、俺のiphoneはそんなことないけどね」
俺「嫌だよ。」
携帯を返す。
っていう、関係のない所での携帯を渡す返すを2,3回してると携帯を渡す行為に抵抗がなくなってきます。その後、携帯がニートに渡った時に
俺「アカンに決まってるやろ。返せ。」
ニート「じゃあ、じゃんけんに勝ったら見せて!負けたら返すから。」
俺「俺のほうはマイナスから0やけど、お前は0からプラスやんけ。」
ニート「いいやん。twitterに見られたくないもんでもあるん?」
俺「ないけど嫌。」
ニート「ならいいやん。ジャンケンな!いくでジャンケンホイ。」
奇跡的に俺が勝つ。しかし、ここまで切り崩すのはやはり頭がおかしいとしかいえない。ちなみにかなりはしょってますが、本当にしつこいです。携帯を持ってる時点でニート側に若干主導権が渡っており、無茶がきく状態に持っていってる例でしょう。
渡す返すはこの状態を作り出すためのフリですね。
後、関係にヒビが入らないように、基本はうそはつかない。見るだけっていって借りれば見るだけだし、そういう布石を打たなくても借りられるようにするのがミソですね。
お互いの彼女の話になって、俺は彼女と連絡を取ってないので別れたも同然という話をしてて、写メを見せると妙なくいつきを示しだす。
俺「いや、俺がもう連絡とりたくないから連絡してないのに、紹介なんかできるわけないやん」
俺「そんなんで連絡返ってくるわけないやん。返ってこんかったら、名前出すやろ?」
ニート「ださへんって。第一だしてもほぼ別れたお前からメルアド聞いたって言っても変な奴に思われてメリットないやん。」
ニート「何でやねん。じゃあ、逆の立場になって、もしお前がセックスしたくなって、紹介したるわって言ったらやるやろ?」
俺「いや、それは女の子が納得してるからできることやん。この場合は女の子に了承なしでメルアド送ることになるやん。
お前は前科があるし、女の子のメルアド渡して変なことになっても俺は責任とれんやろ。」
って具合にとにかく粘る。いけると思ったら相手の懸念を払拭しつつ、合理的ではなくても粘ります。
この後は、教えない俺が悪いみたい空気に粘り負けしてメルアドを渡すが、まあ案の定返信は来ずとなりました。何なんだこのやりとり。
まあ、要求を通したからっていい結果が生まれてるかっていったらそうでもないんだけどね。
こんだけコミュニケーション強者だともっと自分にとっての生産的なことに使えばいいのにって思う。
こいつは能力があるからか、プライドがめちゃくちゃあります。なので、女の子好きでも断られたら、失敗したらって考えて声がかけられません。
ある日金融業者の遠藤により、かつて自分が保証人になっていた借金を押し付けられ、
法外な利息により385万円にまで膨らんでいることを知らされる。
遠藤に誘われるままタカシは、負債者に借金一括返済のチャンスを与えるというギャンブル船「エスポワール」に乗り込む。
うまく勝てば借金は帳消しだが、負ければ命の保障はないというものだった。
タカシは幾度となく煮え湯を飲まされながらも、
土壇場での閃きと思考を駆使して、生き残りを賭けた勝負に身を投じる。
エスポワールから辛くも生還したタカシだったが、借金返済はならず、その総額は600万円以上に膨れ上がっていた。
4ヶ月後、アルバイト生活に戻っていたタカシの前に、再び遠藤が現れ、新たなギャンブルを持ちかける。
今度こそ勝つと決意したタカシは会場である「スターサイドホテル」へと向かい、決死のギャンブル「鉄骨渡り」に挑む。
多くの人間が転落死していく中、2度の鉄骨渡りをタカシは唯一渡りきるが、
主催者側に勝負中の言動を後から指摘され、賞金を得る権利を剥奪される。
激昂するタカシの前に主催者側の会長・兵藤が現れ、もう一度チャンスをやろうと
これまでのギャンブルを仕切っていた大幹部・利根川と「Eカード」で対決する。
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まぁここまでは作り話な。
社外の講習会に出席して、そのまま直帰した日。
いつもは乗らない地下鉄の線に乗って帰った。
車両はあんまり混んでいなくて、座席はだいたい埋まってるけど立ってる人はほとんどいないという状況。自分はあんまり体力ないので、空いている席に座らせてもらった。
で、僕の座ったところの左隣には、若干汚らしい服装で日に焼けた肌の老人がいて、体を斜めに傾けてだらしない座り方をしていた。
ちなみに右隣に座っていたのは髪を染めた若者だった。
電車内でただ座っているのも時間がもったいないと感じるので、自分はいつも通りiPhoneを取り出してウェブを見始めた。と言っても地下鉄で通信が効かないのでキャッシュを読んでいた。
それで何分かiPhoneを眺めていると、本当はそのちょっと前からなんとなく視線は感じてはいたのだけれど、急に老人が話しかけてきた。
「おう」と突然言われたのでちょっとびっくりして反応できずにいると、「おめえちょっとは考えれや」と続けられた。
えーちょっと待ってちょっと待って急にそんなこと言われても何を考えればいいのか全然わかりません……と思って、ここで何も考えずに言い返しても事を荒立てるよな……と視線を動かさずにちょっと様子を窺っていると、またすぐ老人が口を開く。
え? そうですか? 周り見てもみんな使ってますけど?(?_?)
学校? 今日スーツ着てるんですけど学生服に見えるのかな?(?_?)
「おい学校はどうした?」
こうやって聞かれると、無視するのもどうかと思われたので、老人の方を向いて「××大学を出ましたよ」と答えた。
すると老人は恥ずかしがるような馬鹿にするような顔で「へへっ」と小さく笑い、「そういうこと聞いてんじゃねえよ。おめえ学校で何教えてもらってたんだって」と言った。
こういう書き方をしていると、もしかするとこの老人がなんかちょっと普通に恐ろしい威嚇的な雰囲気の人に見えるかもしれない。でも実際はそうではなくて、悪い言い方だが、道端にいる浮浪者のような風体で、始終にやにやしているちょっと変わった人だった。今思い返すと、まるで酩酊していたかのようだと感じる。本当に酒を飲んでいたのかもしれない。それはわからない。
その彼の表情というのも、表現が難しいのだがばつが悪そうな感じのもので、『カイジ』で限定ジャンケンに早々に負けて退場する人々の表情が自分には思い出された。
「おめえ電車で携帯使ったら迷惑だって学校で習わなかったんか?」と老人は言う。
僕は正直困ってしまって、じっとその老人の目を見ていた。僕は苦笑いをしていたはずだ。
老人の方もその反応に困ってしまったようで次第にどもりはじめて、「へっ、おめ、おめえ口だけじゃねえか」というようなことを言った。僕もこれにはさすがに「何も言ってませんよ」と優しい口調を心がけて応えた。老人は変わらず例のにやにや顔で「そういうことじゃねえよ」と返した。
とここで、急に僕の右隣、老人とは反対の側から、「おっさんうっせーよ。黙れ」と怒り気味の声が上がった。髪を染めた若者だ。僕はちょっとびっくりした。
でまあここから先は特に重要でもないので簡潔に書くと、自分を挟んで左と右で老人と若者の言い合いが始まり、なんだかんだでそのまま収束し、全員無言になって、僕はiPhoneの使用を再開し、結局老人は自分の降りる駅に着いて、降り際に若者の方をくるっと振り返って「ぼけなす! ぼけなすー!」と罵って去っていった。若者は「んだコラかかってこいや!」と言ったがそれまでだった。
で、この経験を通じて感じたことを書くというのがこの文章の本題なのだけれど、これに関連してそのとき思い出した別の出来事があったので、そちらについてもちょっと書く。
それはこの電車でiPhone使ってたら老人に怒られた件より一年くらい前の話で、東京で友人たちと一緒に電車に乗っていたときのことだ。また電車なのだ。
そのときの僕らは四人組で、車両の中で立ったまま話をしていた。友人たちと四人で電車に乗っていて黙って立ったままでいるということはあまりない。何かくだらない話をしていたはずだ。ゲームの話とか。
でそこへ急に学生服の少年が歩いてきて、不思議な手振りをしながら「ンーッ!」と言った。本当に急なことで、正直我々は面食らった。
少年はそのまま続けてまた奇妙なジェスチャーをしつつ「ジェッ! ンーッ!」と言った。言ってから何か得意げな表情を浮かべていた。
僕らは本当に面食らっていてなにがなんだかよくわからなかったのだが、たぶん電車内で喋っているのを注意されているのだなということはわかった。ので、「ごめんね、静かにするよ。ありがとう」とひとりが答えた。
でそうしたら少年は気を良くしたのか、なぜか満足げな表情で腕を組みながら僕らの輪に入ってきて、まるで我々にとって人気者のリーダーみたいな感じでコミュニケーションを取り始めた。肩をぽんぽんと叩いてうんうんと頷いたり、ひとりを指さしてみんなに嘲笑の同意を求めたり、親指を立てて何かをアピールしたりした。また、耳打ちをするような仕草で「ウニョウニョウニウニ」というような不思議な音を発した。
しばらくそうしていたのだが、少年は延々コミュニケーションのようなものを続けるばかりで、僕らはやはり困ってしまった。向こうの行っていることは全く分からないし、こちらの言葉も通じないようだったので、ひとりが携帯の画面で「向こう行ってね」と文字を見せてみたのだが、それも意味がないようだった。
結局僕らは、いったん電車を降りる振りをして別の車両に移動した。少年は車両間の窓の向こうからこちらを見つけてまるで旧友を発見したかのように大喜びで近づいてきたが、もう一回同じ手で移動してみたらそれ以降は追ってこなかった。
で、本題。
これら二つは恥ずかしいことに両方とも僕が怒られ注意された話なんだけれど、僕が感じた共通点はそこではなく、どちらも誤った模倣がなされているということだ。
老人は、iPhoneを使っている僕に注意を行った。電車内で通話していて迷惑がられる話はよくある。でも僕はiPhoneを手に持って画面を眺めていただけだ(これって実は悪いことなんでしょうか?)。彼は「電車内での通話はよくない」という意識を誤って模倣したのではないか。
少年は、意味をなさない音の塊で僕らに話しかけていた。実際にはそれでコミュニケーションは成立していないが、彼は自分のしたことに満足していた。彼は会話という行為を誤って模倣していたのではないか。
いずれの場合も、誤った模倣によって行為の意味は失われている。携帯電話の画面を見るのをやめさせることに何の得があり、会話のような体裁で奇妙な音を発するのになんの効果があるだろうか。
この模倣が行われるのは、彼らが形式だけを見てそれらを学んでいるからで、本来の目的の存在を考えていないからだろう。母親のやることをそのまま受け入れ模倣する子供のように、彼らは一般の行為をその形式だけを見て模倣しているのだ。と思う。実際にそれは何の意味もなさない。しかし彼らにとってそれはよいことで、正しいことなのだ。
もちろん我々だって、ときには図らずときには仕方なく、形骸化した模倣をしている。
30歳を間近に控えて、唐突に総合格闘技を始めてしまった。
まぁ、まず道場に行くわな。
するってーと、皆さんがいる。こいつらがまた、いい人たちなんだこれが。
道場全体にただようほのぼのオーラ。指導員のプロの方は流石の風格なんだけれども、
アマチュアクラスの人たちはほんとに奥ゆかしい。全力でチョーク極めた後に「大丈夫ですか?」とか
お互い気を使いあう間柄。まぁ、スパー中はガシガシやりあうけどな!
「みんなで強くなって楽しんで旨いビール飲もうぜ!」みたいな空気がたまらない。
ジュードーやってた時の「奥襟寄越せクソが!」「うっせぇ、背負うぞウド!」みたいな
あのキリキリした感じとは全く別で非常に楽しい。「あわよくば折れろ!」と思いながら変な角度で足払いを打ち込んでくる奴もいない。寝技戦は詰め将棋的要素が強く、スパー後の感想戦がやたら面白い。
もちろんおっさんなのでそこにはビールがつく。ちょううまいんだこれが。
ぶっちゃけてスポーツってものに最早いい感情は抱いてなかった。今でも高校部活は気が狂ってると思っている。
柔道推薦で高校に行くっていうことは「故障したらお払い箱」ってことで、
腰や膝辺りを壊してしまって無残に高校を去っていく同輩をたくさん見てきた。
競い合い精神を磨く、なんていうけど断言して私立の部活で精神なんか磨けない。
おまけに、ごく一部の大成した人間以外は名ーんにも残らない。大学まで行けて、就職まで出来た俺は
本当に幸運だったと思う。高校辺りでケガ→ドロップアウトの流れに乗ってしまった奴は
往々にして人生からもドロップアウトしていった。下手に体力と技術があるものだから、その後は本人にも他人にも
かなり悲惨なことになった例が多い。
それに引き換えて、ソーゴーはとても良い。
色んなバックボーンを持った人たちが、お互いに和気藹々と技術を交換しあう。
極真がローを教え、柔道が内股を教え、ボクサーはフックを教える。
皆一線級を退いた人たちだが、とても真摯に、何より楽しくシバき合える。
例えば、純粋極真空手の人VS純粋柔道の人だと8割方柔道が勝つ。
しかし、タックル切りを覚えた空手家相手だともうわからない。総合で一番戦績のいい柔術家だって
打撃ルールでは面白いほどカモにされる。(当たり前のことなんだが)
だから、みんな相手の技術と経歴に敬意を払うし、尊重しあえる。
いい年こいたオッサンが「だからさー、ゴゴプラータはさぁ」なんて真剣に討論出来るのが超楽しい。
柔道、空手、ボクシングなんでもそうだけど、基本的にモノを言うのはフィジカルだ。
しかし、柔術に関しては相当頭脳戦の要素があり、練習すればするほど強くなるのである。
断言するけど、30歳から始めても普通に強くなれる唯一のものが寝技、それも柔術式の寝技だと思う。(レスリングはちょっとフィジカル寄り)つまり、誰がやっても楽しいのだ。
そんなわけで、最近流行もしぼみつつある総合格闘技人口がまた伸びて欲しい。
ある日の放課後、私は友人と一緒に駅まで徒歩で向かっていた。
近くなる学校祭の話や、気になる異性の話など、会話が尽きることは無かった。
そんな時、私は道端に100円玉を見つけ、それを拾い上げようとした。
「やったー!100円みっけ!」
私は大切に持ち帰ろうとした(すみません見逃してください)。
けれど友人はこう言った。
ここで私は思ったのである。平等って何、と。
一旦リセットし、新たに運で決めることが平等だと友人は主張したが、
私は違うと思った。見つけた人にとっては、平等じゃないだろう。
けれど私はそこまで100円に執着心は無いし、
お巡りさんにお世話になるのも嫌なので、100円は友人に渡した。
家に帰っても気になったので、パソコンで調べてみた。
【差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。】
とされている。差別なくみなひとしなみ???
私が100円を拾ったことが友人には差別だったのか?
それなら私は、100円を拾ったのにもう一度リセットっしようとすることに差別を感じる。
・・・うん、何か違う気がしなくもないけれど。
でも何か、小骨が引っ掛かる違和感がある。
○例えば、男女について考えるとしたら?
女性(の一部)は「男女平等!女性は社会的弱者!」と訴えている。
これって平等なのか?弱いからその分よい待遇をすることが、平等なのか?
そもそも女性がすべて社会的弱者ではないし、寧ろ男性より強い女性だっている。
平等を訴えるなら、生理休暇などの女性特有の制度も取り払うべきではないか。
映画の割引なんかも失くしてしまえばいいのでは。
○例えば、障がい者について考えるとしたら?
「障がい者にもっと理解を」と訴える人々がいるが、
そう訴える時点で、彼らは平等視していないのではないだろうか。
某テレビ番組で障がい者の方々が必死に何かを頑張っている姿が映し出される。
果たしてその光景を見ている視聴者は、一生懸命頑張る彼らを自分と平等だと思っているのだろうか。
○例えば、職業について考えるとしたら?
じゃあそれは本当に平等なのだろうか。
・・・と考えていくうちに、私の頭は混乱した。
男女という性別が無ければ平等は成立するのか。
私は平等であることが必ずしも良いことだとは思わない。
同じ金額を受け取るから平等だとか、
そういうのは違うと思う。
その中で自分なりの幸せを見つけて行くべきではないかと思ったりする。
ただ、「差別」と「区別」は明確にしなければならないと思った。
差別とは、取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。
区別とは、あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。
私は区別することは正しいと思うが、差別することは正しいと思わない。
その理由は何となく頭にあるけれど、文章にできないので保留。
そうして考えること数十分間、
私はやっぱり100円は自分のものだと考え、
友人に連絡したのだが、
100円はすでに友人の胃袋の中だった\(^o^)/
以上に書いたことは私なりの考えであり、
私の平等に対する考え方は、間違っているのかもしれない。
間違っていたらご教授お願いします。
お父さん泣きたいわ
ttp://mousouteki.blog53.fc2.com/blog-entry-7105.html
このまえ娘が通ってる小学校で、
男子を女子がフェラしてる数人のグループがみつかって大問題なったぞ。
姉のもってるananをもってきた子がいて、
放課後エロページを皆でみてるうちに、試しにやってみようて話になったらしい。
小学生なんて恋愛感情とか関係なく、好奇心だけで性行為するんだよ。
まだ性行為のこと全然おそわってないのに、
性行為を単なる遊びだと思ってる。ジャンケンみたいな感じで。
なんか「5分以内に射精させたら勝ちで、アイスおごる」て会話だったらしい。
まじで恐ろしいわ。
なんでこんな詳しく知ってるかというと、うちの娘も参加してたから。
お父さん泣きたいわ。
その1 http://anond.hatelabo.jp/20100318123002
その3 http://anond.hatelabo.jp/20100318200421
タイトルマッチを戦うときは
ゴングはいらないセコンド一人
すぐに呼びましょチャンピオンを
コントの流れが止まったときは
ボディアタックくらわせてきても
ここも最後の方まで決まらず、行き場に困ってたジャンポケ投入。決まらなかったのは「悪霊退散!」的なネタってぜったい誰かやってるよなあと思ったから。その人たちいれたいけど私わからない!みたいな。
同級生 二十年前からつるんでる
麗しの何千年昔の王女様
その名をお貸しください 僕らのネタに魅惑の色気ください
タイトルにかぶせられそうだし、コンビ名が「何千年前」とかあながち間違いでもないしクレパトファンが最近周りに多いし、彼らにするにはさほど迷いはなかったんだけど、決めてからが長かった。
ネタがわからんのでニコニコで見始めたら面白くって一時間近くぐるぐる回っちゃったり、結局それは歌詞に一ミリも生きてなかったり(笑)
きらいきらいめくらないで 真赤になっちゃうから
とろけるような言葉 耳元で言わないで
すきすき君の事が 世界で一番だから
そばにいるだけで私 バニラビーンズ増えちゃう
「どの面下げてそんなこと言えるのよ ブス!」
「ひどい!そんなこというなんて!」
「だって本当のことだもーん。ブタ柄……ぷぷ」
「縦読みドコー」的なコメントがきてたのですが、やっぱり元歌縦読みあるの?歌詞作るとき気になってぱっと見た感じ調べてみた感じ、見当たらなかったからスルーしてしまったのですが……
おどろぉ 周太 ケンちゃん
これで決めるぜ
俺たち すべり知らず
だまにゃんダンス
ノーコメントである。
…あ、前回の「ガッチャ」気づいてもらえてとても嬉しいです(笑)
京浜東北線伸ばす あなたが憎らしい
跪いてお嘗めよ つぶれた東京タワー
そうだおそれないで みんなの岡部
ゆけ みんなの岡部 まもるため
ここも本来歌詞ない。でも尺長くてもったいないので、歌ってた人の歌詞参考に替え歌。前半は「禁じられた遊び」、後半はアンパンマンか。
おちゃだんせっかくAGEAGEだし入れたくって、アメリカンアンパンマンのネタがあるから後半にしようと思ったのだけどいつのまにかこんなことに?
カメラは寄らないでください
じじじ自虐はもうしません 追いかけたいのは
仲良しアイツらじゃないから
たどこおさんは「北関東あたりのゲーマー」ってことに今はなってるけど、文字数の都合上。カメラはシチサントーク中の話!
後半は一ライスファンとしてのただの希望。でもきっとそうだよね。
漫才愛する想い 一つだけ叶えたら
誰も目立ったキャラのいない 三組が揃ってしまったよ
タモンズとか井下好井とか入れたい人たちだったんだけど、それぞれ単独ではうまく入るとこがなかったので。
まさかのITIですよねー
うまうまうまうま……
(あの馬のお面のやつ)
原曲も「ウサウサウサウサ……」ってずっと言ってるだけだった。
ボイフレはもっとテンション高いとこでテンション高くいれたかったなあとはちょっと思う。元歌詞がなんか純粋無垢なんだもの…いじりにくい!
どこまでも俺らはゆくよ
連続で難易度たかかったよー。素直に頭文字をとってノンスモさん。
好きなんだけど、むずかしいなあ。
図書室さ隠れて 女子のふりして 告白するんだ
私が生で見たことあるのってこのネタくらいしかないから素直にそのまま行ってしまったんだけど、反応見るにメジャーじゃない?なんてこったい\(^o^)/
綾部さんが「女の子とドラマみたいな出会い方したい!」とか言って、「図書室で偶然同じ本に手をのばして触れ合ってドッキリ」をやろうとなり、「あなた…私のことが見えるの?」と又吉さんが図書室の幽霊かと思いきや「教頭です」で終わった記憶があるのだけどー
つるっと・すべって・おっこって
つるっと・すべって・おっこって
つるっと・すべって・おっこって
アゲサゲライブもやっちゃった
つるっと・すべって・おっこって
つるっと・すべって・おっこって
つるっと・すべって・おっこって
アゲサゲライブでやったった!
YATTA! YATTA! チョットトレイン
YATTA! YATTA! サファリパークだ
YATTA! YATTA! ポンコツ二人
YATTA! YATTA! ツッコミ一人
スリッパ片方あればいい エブリバディセイ! YATTA!
今はわからないことばかりだけど
信じるこの道を進むだけさ
タンクトップも芸名も構わない
笑いを逃すもんか
何期だかわからん、先輩なの後輩なのどっち?感を出したかったんだけど、国語力のなさにて挫折。替え歌むずかしい。ここにきて思い知る。
こっちはボーボー ぼくボーノです
吉村がんばる ラメにも負けず
寝起きダメなボーノさんはライスシチサン「起こしまSHOW」のネタです。
吉村パラソル好きだからまた使っちゃった。
これいい?だめ?
やーなんか文字数しっくりきたからさあ……
合いの手いいなあー「長田 長田 かたはばおばけ!」
裏9期の中で 存在感あげたい
なんか喜んでもらえたぽくて嬉しい。
日経の記事から。
http://motezemi.livedoor.biz/archives/50036341.html
http://www7.obirin.ac.jp/academy/koza/S09001.html
ってのは誤差の範囲内だと思うし割合の差が小さいから最初から決定するのはリスクが大きすぎる気がするけど
ってのは参考になるかも。
つまり相手がグーを出してアイコになったら次はチョキかパーだからチョキをだす。
つまり自分はグー→チョキ→パー→グー・・・と出す、と。
これなら覚えやすい。
・・・ただ、「必勝」ってのには程遠いけど。